平成十四年二月一日号継命新聞第一面
日興上人会
二月七日は富士門流第二祖日興上人の祥月命日、全国の正信会寺院・布教所において恒例の御報恩御講が奉修される。
日興上人は日蓮大聖人が九カ年お住まいになられた縁深い身延の山を、妙法を五時弘通するために離山され、富士の大石が原に末法万年の流布を願われて法華本門の礎を築かれた。ここに富士門流の源流がある。
我々正信会僧俗は富士の本流を自認しているが、その裏づけは日興上人の御精神を胸中深く護持していることによる。
日興上人が芹を好まれたことから、御宝前に芹をお供えし「芹御講」とも呼ばれる御報恩の法会にのぞみ自身の正信を確認しよう。
日興上人は寛元四年(1246)甲州大井荘の鰍沢の地に誕生された。幼少の頃、駿河の国蒲原庄にあった四十九院に登って習学・出家された。
日蓮大聖人との邂逅は大聖人が一切経の閲覧に岩本実相寺に入られた頃と伝えられている。
【常随給仕のまこと】
第四世の日道上人の御伝土代には「大聖人御勘気を蒙る時、佐渡の嶋にお供する。御歳二十六才なり、御名は伯耆房、佐渡の配所にて四カ年給仕」とある。 正法を求める仏道では師匠に仕えてその教えを体得していくのが常道である。法華経の信仰・日蓮大聖人の仏法においてもその姿勢が変わることはない。大聖人の門弟ことに上足六老僧も、それぞれ大聖人に仕え給仕に励み、信仰と御法門を会得して行かれたことであろう。
日興上人も実相寺での出会いから深い師弟の縁を結び、生涯常随給仕のまことを尽くされた。ことに厳寒の流刑地・佐渡での命がけの御給仕と、大聖人身延在山九カ年の御奉公は、他のお弟子方にぬきんでたものということができよう、しかも、その御給仕は大聖人の御在世にとどまるものではなく、生涯にわたって続けられたのである。
今に残る御消息には、「法華聖人の御見参に心をいたしまいらせて、申し上げ奉り候」「法主聖人の御宝前に備へ進せ奉り候了」等々とあるように、門下よりの御供養を大聖人様の御宝前に必ずお供えになり、読経・唱題し御報告しておられる。
このお姿は師匠に仕えるということでもあるが、所詮は末法有縁の大導師に御給仕申し上げるということであり、御本仏大聖人が常住し法を説かれていることを門下に教えられた姿と拝することができる。
”富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事”
【御書を心肝に染め】
弟子としての立場で信行に努める我々を導くものこそが日蓮大聖人の遺された御書である。日興上人は何よりも御書を大事にされた。法義の混迷をただすにも「師匠は入滅し候と申せども其の遺状候」と仰せになり、法義信仰の一切の基準を御書に置かれたのである。
したがって御書の収集に努められ、聖人の書写された御書も今に五十余編遺されている。 日興上人は、五十歳を過ぎて法門研鑽のために重須に談所を開かれるなど、八十八才の御生涯を通して大聖人御仏法を求め続けられたが、門下への最後の御教訓にも「御書を心肝に染め」るよう求められた。
御書を離れて、富士門流の信仰を語ることはできない。
遺誡置文の冒頭に置かれた
「富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事こと」とのお言葉は、日興上人御自身が日蓮大聖人の正法正義を間違いなく承継しているという強い自負心であり、また門下僧俗に対し信仰の根本を教誡されたものである。
富士の本流たる我々は源流である日興上人の御振る舞いを正しく拝さなければならない。