正信覚醒運動のめざすもの

第二章 第三章 第四章
 第二章 受持信行観
 
 

 
阿部宗門  即物的信仰  数量の世界  名聞名利
正信会   信念受持   志の世界   一念随喜
 
 *歪んだ信仰

 戦後における創価学会の爆発的な組織の拡大は、日蓮正宗に対して、経済的、政治的な影響を与えたのみにとどまらず、教学的、思想的にも深刻な歪みをもたらす原因となりました。またそれによって、富士の伝統法門は換骨奪胎されてしまった観すらあります。

 かつて阿部師は「御本尊を受持する者には謗法はない。学会もお光りさんのようなものを拝んでいるわけではない。」といって創価学会の謗法をかばいました【注G】。阿部師のこの発言のなかには創価学会の教学に毒されたものがうかがえます。学会幹部が主張する御本尊=掛け軸=絶対という思い込み、盲信があるように思われます。信仰の中身、すなわち心の何を思おうと形さえこの御本尊を拝んでいれば謗法ではないというのです。

 私達は、この運動当初から、何度も阿部師に対して、創価学会の教義・信仰が間違っているから是正するよう訴えきましたが、阿部師は「いや学会は謗法じゃない。ちゃんと御本尊を拝んでいるじゃないか」との詭弁を弄してきました。

 ならばなぜ日興上人は、同じ日蓮門下のなかで、五老僧などと対立したのでしょうか。それは法門の綱格において大聖人にいささかも違背することのないよう、厳格さを求められたからです。現在の身延・日蓮宗でも、宗制ではいちおう十界漫荼羅を本尊とすると決めています。しかし、彼らは本尊は漫荼羅でも仏像でもいいのではないかという考え方になっている。そこがおかしいのです。

 日興上人は五老僧のように門下の信仰の中身が違ってしまうことを憂いたのです。「御本尊は久遠元初自受用身の法体、大聖人のご魂魄である」ことを間違ってはならないとのお考えから、老僧方やその他の諸師に対して、厳格な姿勢を示されたのです。

 にもかかわらず、この御本尊を拝しながら創価学会では池田大作氏を本師としています。また宗門でも阿部師も本師と指導しています。何かといえば「世界の大指導者」とか、「大慈大悲の御法主上人」などと、いつでも大聖人の主師親の恩徳を奪い、法主や快調を渇仰するようにしむけて、教団組織の求心力としているのです。

 唱題行にしても、「題目闘争」という言葉が会員の間で盛んに使われているように、外相の口唱の数量のみが重視され、信念受持の題目、一言摂尽の題目が忘れ去られてきました。本宗の唱題行 、仏道修行は、決して数量によるものではないのです。  折伏についてもそうです。ノルマを割り当て、信徒・会員の獲得競争に走らせる。その一方で号令をかけるだけの上層部の本音にあるものは自分の組織の発展だけです。自分の所属する組織や企業の発展は、そのまま自分の地位向上に結びつくのですから、本人は教団の数量的発展が無条件で良いことだと思っています。

 しかしこれは、自分の栄達・出世という、ある意味では自分のエゴに結びついていますし、ただ組織が発展・拡大していくことだけを見て良しとしてはいけません。  ですから日達上人も創価学会によって組織が拡大していく様相を見て、非常に危機感を抱かれ「ただ水ぶくれのように大きくなって、生活が楽になればいいという考えは、これは僧侶もたいへんな誤まりです」【注H】といって、阿部師をはじめとする当時の宗門の役僧達に、法滅の聞きがしのびよってきているとの警鐘を鳴らされました。

 いま日達上人の危機感がまったくその通りになってしまったといえるでしょう。不軽菩薩菩薩を承継するという宗開両祖の慈悲行と、今の阿部宗門の功徳と罰をふりかざした信徒獲得競争の姿勢とはまったく異質なものなのです。

 *受持行ということ

 法華経に、「一念信解」「初随喜」ということが説かれているように、私達には、法華経を受持し、御本尊にめぐり会えてことをありがたいと思う随喜の心があればそれで十分なのです。この人生において、大聖人の仏法にめぐり会えたこと、この御本尊にめぐり会えたこと、それがいちばんありがたいことであり、なによりもうれしいことである――そういう信仰が芽生えたところに受持行があるのではないかと思います。

 さらにその姿勢が、具体的に、大聖人への常随給仕の報恩行として表れていくのです。

 法華経の「提婆達多品」に、

「果を採り水を汲み 薪を拾い食を設け 乃至身を以って牀座と作せしに・・・」

                              (『開結』四二二頁)

 と説かれるような、正法正義をそのまま自分の身をもって、行じていくこと、すなわち、人法一箇の御本尊・大聖人にお仕えし、仏の使いとして世のため法のために汗を流そうという志、それがそのまま受持行なのです。

 したがって、末法における仏道修行の要諦は、直ちにこの妙法蓮華経を一念に受持することであって、唱題の量、入会勧誘の数、登山参詣の回数によるものではありません、この点、宗門や学会に見られるノルマを課しての折伏や競争をあおっての御供養金集め指導など、仏道修行を歪曲しかねない、非常に大きな問題をはらんでおります。一念信解という受持行の基本をよくよく考えなければなりません。

 僧侶や法華講の中心者たるもの、このことを率先垂範していかなければなりません。ましてや、猊下や会長と称して人の上に立つからは、他の手本となって下種三宝に仕えてこそ、その地位に留まれるのです。

 はたしてこの経文のように、三宝に身をもって仕える精神が、今の阿部師や池田氏にあるでしょうか。日蓮大聖人に常随給仕するという精神は、少なくともこの二人からは微塵も感じられません。

 むしろ、御本尊や大聖人の御名を利用して我が名利をむさぼり、批判者には大聖人の権威を盾にして「謗法者」のレッテルをはり、自己の罪業を力や権威でもって隠蔽しているのが実態ではないでしょうか。

 『白米一俵御書』には、

 「仏になり候事は凡夫は心ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり」   (全集一五九六頁)

とあります。

 「観心の法門」といっても、それは難しい教理や観念にあるのではないのです。文字通り大聖人、日興上人の慈悲行をわが身に引き当て、実践していく信仰者そのものにあるとのことです。

 正法正義のため、大聖人のため、そして一切衆生のためという純粋な一念を発し、それをわずかでも行じていこうとするところに「観心の法門」があるわけです。

第三章 功徳と現証
 
 

 
阿部宗門  現世利益  主観的現証     功徳はもらうもの
正信会   六根清浄  理証・文証・現証  功徳は積むもの
 
 *現証という妄想

 阿部師は、創価学会の対抗心からか、阪神・淡路大震災や、奥尻島の津波被害、普賢岳の噴火など、ここ数年の自然災害を、創価学会の謗法による悪現証とし、このことをまるでご仏意であるかのように喧伝し、池田創価学会が謗法をするから、このような災害が起きるのだと主張します。【注I】。

 しかしそれならば、関東大震災や昭和二十年の大石寺の火災をはじめ、幾度も台風等で被災したことや、各末寺での人災・天災・不祥事はどのように考えるのでしょうか。自分達に都合のいい、「他人の不幸」を探しては、得意になって吹聴し、自分達の悪現証には一切口をつぐんで誤魔化しているのです。

 ここに驚くべき資料があります。宗門の公的な機関誌に「大日蓮」という冊子があるのですが、この平成十年六月号に、天気図が掲載されています。

 これは何かというと、平成十年に本山で大きな行事が予定されていたちょうどその時、台風が東海地方に向っていた。しかし、二、三日前になったらその台風が蛇行して四国の方に上陸したのです。その事実を二つの天気図を提示して説明しているわけです。

 どうも、阿部師の祈りが台風の進路をも変えたのだと主張したいらしいのですが、これまでの主要行事の晴雨統計表でも示すのならともかく、子供だましのような稚拙な現象論を、公的な機関誌に掲載していることは、非常に驚きました【注J】。

 それも、平成十年の本山における夏期講習会で、わざわざテキストを作成して、学習させる徹底ぶりですから、いよいよもって日蓮正宗もオカルト教団になったのかと、目を疑いました。

 もとより、自分達の利害や感情で、かるがるしく「現証だ」などというべきではありません。創価学会の教学は、何かというとすぐに我田引水的な現象論に結びつけ、批判者の不幸や災厄を喜ぶような独善性をもっています。阿部師もすっかりこの欲得づくの現証信仰の妄想に染まり、功徳を罰をふりかざしているのです。どうも論争やケンカの過程で、相手の手法をそのまま取り入れ、無意識のうちに感化されてしまっているらしいのです。自己中心的な損得勘定や利害をもって功徳だ罰だということ自体が、仏法からはずれたものではないでしょうか。

 *妙法の功徳

 大聖人は弟子檀那に対し、名聞利養に執着することを強く戒められ、むしろ法華経受持によって必ず大難にあうのであるが、それを忍んで法を守ることを教示されています。

 しかし阿部宗門・創価学会ともに、会員・信徒勧誘のために、教団に入会すればいいことずくめ、ご利益の現証があると宣伝する。またそのような類の体験談を競わせています。一度、機関誌に掲載されている体験談の、その後の経過を追跡調査したら非常に面白い結果が出るのではないでしょうか。

 それはともかく、こうしたご利益体験談の必然的帰結として、逆の現証、すなわち批判者・脱会者が不幸になっていなければ困るという論理が生まれます。そこで学会員が、脱会した人達に対して執拗な嫌がらせ等をするのです。

 創価学会の論理では、脱会した人達が成功したり、元気で活躍されると困るのです。だから地獄に堕ちろと願うだけでなく、積極的に脱会者の足を引っ張る行為までする。学会の阿部師攻撃などは、本部が末端のすみずみまで憎悪をあおって怨念教育をしているようなものであり、まったく信仰者以前の姿、人間にあるまじき行為です。  彼らの批判的体質も、攻撃的体質も、このような自己中心的な信心と現証主義からはじまるといえるでしょう。学会の「価値論」からはじまった現世利益は、世俗的な物欲中心主義であり、五欲から起こる打算的な損得は、決して真の仏法の利益(法益)とはいえません。仏法の功徳とは六根清浄であり、一生成仏抄というのが鉄則であるはずです。

 また、貧乏したり、病気になることがそのまま罰でも悪現証でもありません。今生の禍福ということは過去の宿習ということも説かれていますし、現証とは、どこまでも理証・文証に照らし、経文・御書を明鏡とし、仏法の道理を基準として判断するものであります。

 大聖人はむしろ、

 「諸難にもあえ身命を期とせん」     (『開目抄』全集二三二頁)

 「難来るを以て安楽と心得可きなり」   (『御義口伝』全集七五〇頁)

「よからんは不思議、わるからんは一定」 (『聖人御難事』全集一一九〇頁)

と仰せになられ、「法華経の信心によって、必ず窮地に立たされることがあるが、それはすべて自身の成仏のための試練であり、その難を乗り越えることによって信心が決定するのですよ」と教示されているのです。すなわち現証とは、法華経の如説修行によってひき起こされる迫害等もまた現証であり、因果の理の表れなのです。

 また自分自身に起こる事象は、受けとめ方によって、マイナスをいつでもプラスに転ずることができます。毒はいつでも薬に転ずることができるというのが、法華経の法門なのです。

 そう考えると私達の人生において無駄なことはひとつもありません。そうとらえていくことが信仰者の姿勢であると思うのです。

 それを儲かったから功徳、損したら罰だというご利益信仰や功徳は御本尊様からもらうものだというような発想になってしまったらどうなるでしょうか。ますます欲深く、エゴの強い人間になるばかりです。自分勝手で、欲深く、私腹をこやす仏様など聞いたことがありません。

 しかも、本当の仏様とは、大聖人のように、一切衆生をなんとかして救おうと、身を捨てて法を説かれる方のことをいうのです。贅沢や快楽に頓着するわけがないのです。それを清浄身というのです。

 私達が法華経を信じて成仏を願うなら、私達自身が清浄にならなくてどうするのですか。それがだんだん醜いエゴがむき出しとなって自分達の幸福しか考えず、人の不幸を悲しむどころか、それを喜ぶような姿では、信仰が狂ってしまっているといわざるを得ないのです。

第四章 血脈相承と貫首
 
 

 
阿部宗門 法主絶対     法主のみ血脈相承  カリスマ信仰
正信会  貫首も名字の凡夫 正信こそ血脈    依法不依人
 
 *宗門はカリスマ信仰

 阿部師はことあるごとに「ご仏意」と称して、自己の思いつきを仏法の不思議と発言していますが、これも自分の立場を神格化させ、絶対化させる演出であり、きわめて危険な洗脳であると思います。

 今回の客殿の建て替えについても、「不思議なことに、阪神大震災がおこり、なるべくして大客殿の寿命がつきて、新しい客殿ができた」【注K】などといって、学会の破門も、正本堂の解体も、奉安堂建設も、自身の思いつきからはじまったことを、さも「ご仏意」であるかのように指導しております。法主である自分は特別な人間で、現代の大聖人であるかのように思っているから、このような神がかり的な発言がでてくるわけです。自分の言動を「ご仏意」として正当化し、絶対化するような、こういう精神構造をもつ人には、慚愧の心は生まれないのです。

 ところで、阿部宗門はいまだに、日達上人から67世の法主として付属相承を受けた証拠を提示しておりません。阿部師が相承を詐称していることは明白な事実です、しかし問題は、相承の詐称のみならず、誤った血脈信仰をもって保身をはかっていることです。

 法主(本来は貫首と称すべきですが)という地位、また血脈相承ということをめぐって、宗門側の僧俗は、ふたことめには「正信会は血脈相承の御法主上人を否定しているから謗法だ」といいます。

 つまり阿部宗門のいわんとするところは、日蓮正宗の血脈とは、大聖人以来、歴代の貫首に密かに伝授されてきたことが根本で、貫首は普通の人とは違う神秘的な能力を保持し、そのカリスマ性の保持によって本宗が成り立っているのだという、いわゆるカリスマ信仰をもって本宗の命脈とする主張です。

 これは、正信会のとの裁判の中で、日蓮正宗(阿部宗門)側が準備書面で公式に主張していることです。

 「・・・・・カリスマの継承のための特殊な儀礼ないし行為が行われるのを常とした、そのようなカリスマ継承の例として、イギリス聖公会における『使徒継紹』や真言宗における『灌頂』などをあげることができる。日蓮正宗においても、右に述べたところと異ならない。日蓮正宗においても、代々の法主は、等しく僧侶であるが、他のすべての僧侶とは異なり、前述のように特別の力ないし資質を有するものとして特別の尊崇を受けて今日に至っている・・・・・」(管長事件第一審準備書面)

 つまり他の宗教団体が、教祖以来、普通の人にはない能力、カリスマ性を、神がかり的に伝授することによって成り立ってきたのと同じように、日蓮正宗も宗祖大聖人以来、他の僧侶とは違う不思議な能力を代々の法主が密かに伝えているということを、彼らははっきりと主張しています。

 阿部宗門においては、依法不依人の大聖人の仏法を信仰しているつもりが、実は、いつの間にか、他の新興宗教と同じような、カリスマ信仰になってしまっているのです。

 依法不依人であるはずの大聖人の仏法が、阿部宗門においては、いつの間にか、天理教のおみき婆さんかオウム真理教の麻原教祖と同じようなカリスマ信仰になっているのです。

 *師弟ともに名字凡夫

 このようなカリスマ信仰は、大聖人の仏法とは全く異質のものです。大聖人の御法門では、師弟ともに未断惑、名字の凡僧といいまして、末法の法華経の行者は超能力をもったり、あるいは煩悩を断じ尽くした本覚果満の仏ではない。ただの名字の凡僧なのです。この名字の凡僧がなぜ尊いのかというと、南無妙法蓮華経を余事余念なく一心に受持していいるが故に尊いとされるのです。

 このことは非常に大切なことです。本宗が大聖人を仏様と仰ぐのは、釈尊がいまだ成道せざる以前の修行を本因妙の修行といいまして、これは不軽菩薩の修行をもって釈尊の本因修行の姿として説かれていますが、その久遠名字の本因修行を、末法今時にそのままひき移されて修行されたから、我が富士門流では、日蓮大聖人を本因妙の教主釈尊と拝するわけです。

 法華経の行者の位も名字即、未断惑の位、その修行方法は何かというと、一切衆生の本有の仏性を直ちに礼拝する、ただ南無妙法蓮華経だけを礼拝し受持していく。その修行も位も全く同じであると明されております。すなわち仏法のうえでは、能所・信不信(順逆)の差はあっても、大聖人も一切衆生も本質的に差別はないというのです。ですから、「教弥実位弥下」といいまして、凡愚の衆生と同じ位、最低の名字理即に行者の位も定められているのです。

 ところが、阿部師は、末法の凡夫の修行方法と位を全く否定して、自分を絶対化するために、まず大聖人を神秘化し、最高位にもち上げ、ついで血脈法主は大聖人の仏法のすべてを所持するものとして、自分自身の神秘化をはかっているのです。こうした考えが、ひいては日蓮大聖人も過去の人とみて、現在の仏法の所持者である阿部法主が思いついたことが即仏法であると慢心を引き起こし、御書・法華経すら軽視する信仰に堕落してしまう要因となっているのです。

 阿部法主は、大衆との絶対的差別をもって教団の最高位に君臨し、一切衆生を上から卑猊するような信仰に堕しているのです。そこからは間違っても、底辺の衆生を同一苦に立って法を説く、不軽菩薩の精神など生まれようがありません。

 また、こうした誤った論理によって、宗門内には「カリスマの継承たる血脈相承がなくなってしまえば日蓮正宗は成り立たなくなる。だから阿部師に相承がなくてもあったことにしよう」などという考えが生まれてくるわけです。

 しかし、本宗において血脈とは

 「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざればその筋目違うべからず、夫れとは世間に親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり、高祖以来の信心を違えざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり」
                (『聖典』九七七頁)

と、日有上人の『化儀抄』にあるように、宗祖大聖人の信心を違えないところにあります。 三大秘法の仏法を継承し弘通する以外に、何か特別に一人だけ秘法を伝えるなどあるわけがありません。本宗における血脈相承とは、超能力や神秘的能力を秘伝的に授受するようないかがわしいものではない。時代によって色々な化儀や形式が生まれたとしても、その本義は大聖人・日興上人以来の信心を少しも間違えることなく、少しもよけいなものを交えることなく、正しく継承し、弘通していくところにあるわけです。

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