妙法曼荼羅供養抄

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妙法曼荼羅供養抄
 
一、当抄大意の事
 凡そ妙法の曼荼羅とは、即ちこれ我等が受持し奉る所の三大秘法の随一、本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智の冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有の妙法蓮華経の御本尊の御事なり。これ即ち釈尊出世の本懐、多宝証明の本意、分身舌相の本意、本化涌出の本意、天台未弘の大法、蓮祖弘通の骨目、末法の我等が現当二世を成就する秘法の中の大秘法なり。
 問う、釈尊出世の本懐は、但法華経を説いて在世の衆生を脱せしめんが為なりや。
 答う、一往は然りと雖も、実に本意を尋ぬれば、唯これ末法今時の我等衆生に本門の本尊を受持せしめんが為なり。故に経に云く「是の好き良薬を、今留めて此に在く」と。また云く「悪世末法の時」、「後の五百歳中広宣流布」等と云云。宗祖、此等の経意に准じ、判じて云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」等と云云。
 
 問う、多宝の証明、分身の舌相もまた在世の衆生の為なりや。
 答う、一往は爾りと雖も、実に本意を尋ぬれば、末法今時の衆生に本門の本尊を信受せしめんが為なり。何となれば、在世の衆生は久遠已来の調機調養の輩なり。故に一人に於ても無智の者これなし。且く舎利弗・目連等の如きは、現在を以てこれを論ずれば智慧第一・神通第一の大聖なり。過去を以てこれを論ずれば、金竜陀仏、青竜陀仏なり。未来を以てこれを論ずれば、華光如来、光明如来等なり。霊山を以てこれを論ずれば、三惑頓尽の大菩薩、本を以てこれを論ずれば、内秘外現の古菩薩なり。文殊・弥勒等の大菩薩は、過去の古仏の現在の応生なり。梵釈・日月・四天等は、初成已前の大聖なり。故に仏の在世には、一人に於ても無智の者これなし。誰人の疑を晴らさんが為に多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出し給わんや。随って経文には「況滅度後」、「令法久住」等云云。此等の経文を以てこれを案ずるに、偏に末法今時の我等衆生に本門の本尊を信ぜしめんが為なり。
 
 故に宗祖云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」等云云。「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは、即ちこれ文底秘沈の三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。故に「肝要」というなり。当に知るべし、肝要とは即ちこれ文底、文底とは即ちこれ肝要なり。本化涌出の本意もまたまた是くの如し。故に撰時抄に云く「寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたる」等云云。
 然れば則ちこの妙法の曼荼羅は、釈迦・多宝・分身・地涌の御本懐、正像未弘の大法、末法流布の大白法、我等衆生が現当二世を成就する秘法の中の大秘法なり。誰かこれを信ぜざるべけんや。
 
一、当抄題号の事。
 いう所の「妙法」とは、中央に已に妙法蓮華経と題す。故に「妙法曼陀羅」というなり。若し左右の十界は唯これ中央の南無妙法蓮華経の具徳なるのみ。或はまた真言宗の金胎両部の曼陀羅に簡異するが故に「妙法曼陀羅」というなり。御書五十、敷マンダラ事、三十五五十。
 次に「曼陀羅」とはこれ梵語なり。此には功徳●と翻ずるなり。これ即ち釈尊因位の万行、果位の万徳の功徳を、一処に●めて妙法五字に具足するが故なり。本尊抄に云く「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」等云云。
 「釈尊の因行果徳の二法」とは、若し迹門・爾前の意を以てこれを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求むるに、或は能施太子、或は儒童菩薩、或は尸毘王、或は薩●王子。或は三祇百劫、或は動●塵劫、或は無量阿僧祇劫、或は初発心時、或は三千塵点の間、七万五千六千七千の仏を供養し、積功行満して今教主釈尊と成りたまう。是くの如き因位の諸行、皆悉く妙法の五字に具足す。故に無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」云云。
 
 若し果位を以てこれを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏。四十余年の間に四教の色身を示現し、爾前・迹門・涅槃経等を演説し、一切衆生を利益す。所謂華厳の十方台上盧舎那、阿含経の三十四心断結成道、方等・般若の千仏等、大日・金剛頂等の千二百年余尊、並びに迹門宝塔品の四土の色身、涅槃経の或見小身大身乃至八十御入滅、舍利を留めて正像末を利益す。
 本門を以てこれを談ずれば教主釈尊は五百塵点劫已前の仏なり。因位もまた是くの如し。それより已来十方世界に分身して一大聖教を演説し、塵数の衆生を教化す。是くの如き果位の万徳、皆咸く妙法の五字に具足す。故に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」というなり。
 
 問う、因行果徳の二法、妙法の五字に具足するその謂は如何。
 答う、この妙法の曼陀羅は文底下種の大法なり。故に宗祖云く「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」等と云云。譬えば桃李の一入再入の紅の華も、千顆万顆の緑の菓も、皆咸く種子の中に具足するが如し。因位の万行の華も、果位の万徳の菓も、皆咸く文底下種の妙法の五字に具足するなり。
 猶尼倶類樹の、若しその種子は芥子の三分の一の如き、而して根茎枝葉を生じ、終には大樹と成りて五百乗の車を陰覆す。此くの如き大樹の華も菓も、皆咸く種子の中に具足す。華は根に帰り、脱は種に還るこれなり。故に天台云く「百千枝葉同じく一根に趣くが如し」等云云。
 
 故に文底下種の大法は要中の要なり。この故にこの妙法の曼陀羅は、無量無辺の因果の功徳●と翻ずるなり。故にこの曼陀羅の功徳広大無辺なり。故に祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなし。然れば我等この曼陀羅を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう。故に「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」等というなり。
 次に「供養」とは、弘四末五十八に云く「下を以て上に薦むるを供と為し、卑を以て尊を資くるを養と日う」等云云。文三三に云く「供養とは三業に通じて皆是れ供養なり。別して論ずれば、其の依報を施すを供養と名づく」等云云。「三業に通じて」とは、心に本尊を信ずるは意業供養なり。口に妙法を唱うるは口業供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業供養なり。「其の依報を施す」とは即ちこれ四事供養なり。謂く、衣服・臥具・飲食・医薬等なり。
 日女抄に云く「御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ」云云。録内二十三三十八に「法華経の御本尊供養の御僧●料米一駄蹲●一駄送り給び候ひ畢ぬ」云云。三業の供養肝心なり。
 一に糞掃衣、二に常乞食、三に一座食、四に常露座、五に塩及び五味を受けず。
 
一、本尊文。
 主師親を以て本尊と為すなり。本より高きを本をし尊ぶ意なり。
 
一、入文下。
 
一、文字は五字七字等。
 問う、日本国の諸宗、本尊区なりと雖も皆仏を以て本尊と為す。蓮師、何ぞ妙法を以て本尊と為したまうや。
 答う、具には本尊問答抄の如し。妙法の五字は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊なるが故なり。故に今文に「三世の諸仏の御師」というなり。
 
 問う、応に三世の諸仏の主師親というべし。既に三世の諸仏の御本尊なるが故なり。何ぞ唯「御師」というや。
 答う、これ涅槃経の「諸仏の師とする所は所謂法なり」の文に准ずる故なり。而してその意は実に三徳を含むなり。故に天台云く「法は是れ聖の師。能生・能養・能成・能栄・法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く、法は重きなり」等云云。
 文の意は、総じてこれを論ずれば唯法はこれ聖の師なり。別してこれを論ずれば即ち三徳を含む。謂く、生・養は父母の徳なり。能成は師の徳なり。能栄は主の徳なり。故に妙楽の●八に云く「父母非ざれば以て生ずること無く、師に非ざれば以て成ずること無く、君主に非ざれば以て栄ゆること無し」等云云。この文に分明なり。
 普賢観に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵、十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種」等云云。「諸仏の宝蔵」とは主の徳なり。「諸仏の眼目」とは師の徳なり。「出生」とは豈父母の徳に非ずや。故に妙法の五字は三世の諸仏の主師親なり。故に以て本尊と為す。三徳ありと雖も、総じてこれを論ずれば唯これ聖主なり。故に「三世の諸仏の御師」等というなり。
 
一、一切の女人の成仏の印文なり文。
 前後皆薬王品に由る。文意は、経に云く「若し女人有って、是の薬王菩薩本事品を聞いて、能く受持せん者は(乃至)若し女人有って、是の経典を聞いて」云云。
 問う、応に「一切衆生の成仏の印文」というべし。何ぞ「一切の女人」というや。
 答う、実に所聞の如し。実にこれ一切衆生の成仏の印文なり。然るに「女人」というは、此に四義あり。
 一には、本尊供養の施主は女人なるが故に、別して女人を歎じて歓喜を生ぜじめたまうなり。
 二には、難成を挙げて易成に況するなり。謂く、爾前四十余年の意は女人の成仏を許さず、過失多き故なり。御書十九五十九の如し。云く、男女はその性別れたり。火は暖かく、水は冷し。海人は魚を取るに巧みなり。山人は鹿を取るに巧みなり。女人は物を●むに巧みなりと経文に説かれたり。女人の心をば清風に譬えたり。風はつなぐとも取りがたきは女人の心なり。女人の心は水に画くに譬えたり。水の面には文字留まらず。女人は狂人に譬えたり。或る時は実、或る時は虚なり。女人をば川に譬えたり。心すなおならざる故なり。
 
 涅槃経に云く「一切の江河必ず回曲有り。一切の女必ず諂曲有り」云云。華厳経に云く「女人は地獄の使なり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」云云。銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つとも、法界の女人は永く成仏の期無からん」云云。
 また女人は大鬼神なり、能く一切の人を喰うとも説かれたり。
 平兼盛の歌。みちのく名取郡くろつかという所に、重之が妹数多ある故。「みちのくのあだちが原の黒つかに 鬼こもれりと云うはまことか」。「むぐらおいあれたる宿の うれたきにさびしき ひまなく鬼のすだくなりけり」。
 業平の●。「あれにけりあわれ幾世の宿なれや住みけん人のおとずれもせず」云云。この歌は返しなり。
 竜樹の大論には「一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶ」云云。
 善導和尚は謗法なれども女人を見ずして一期生なり云云。
 華厳の澄観、十願の中に第三に「目に女人を見ざらん」云云。
 南山大師云く「四百四種の病は宿食を根本とし、三途八難の苦は女人を根本とす」。高野山も女人禁制の山と聞く。
 また女は五障・三従の障あり。栄啓期が三楽をえたるも、女人の身と生れざるを一の楽といえり。
 是の如く爾前の諸経に斥われたる女人なれども、この妙法の曼陀羅の力用に依って竜女のごとく成仏す。何に況や男子をや。故に難成を挙げて易成を顕す故なり。
 
 三には、末代悪世の衆生をば男女倶に女人と名づくるなり。
 これ即ち悪世の衆生は、男女ともに法華経の行者を怨嫉する故なり。「猶多怨嫉」の故なり。男女倶に清風の如き故。世の中を渡り、波風もなし。男女倶に水に画をかく如くなる故に行水。信心の心留まらざるが故に。
 男女倶に狂人の如くなるが故に。慶安の●の事。
 男女倶に川の如く曲りたるが故に。泰時、青戸左衛門の事、今これに反す。四には、蓮祖の門弟は男女倶に女人の如し。その故は仏種を懐妊する故に。外十六二十一に云く「末法の始に流布す妙法蓮華経の五字の日本国の一切衆生の仏の下種を懐妊すべき時なり」。
 この四義は次の如し。世界・為人・対治・第一義なり。
 
一、成仏の印文。
 「印」とは即ちこれ判なり。またこれ決定の義なり。世の証文の如し。即ち判形を以て用いて信と為すなり。譬えば伝国の玉璽の如し。命を天に受く。既に寿永く昌んなり。
 御書三十五三十四に「又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき、おこがましき事とはおぼすとも其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ乃至又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず」と。南無妙法蓮華経云云。
 諸門流の曼荼羅には日蓮聖人の判なし云云、云云。相伝あり。
 当門流の弟子檀那は、御判●にすわりたる手続の文書、本門の本尊を受持するが故に、決定して成仏すること疑なし。
 「我が滅度の後に於て(乃至)決定して疑い有ること無けん」とはこれなり。「応に斯の経を受持すべし」とは、応に本尊を受持すべしとなり。「是の人(乃至)決定」とは即ちこれ成仏の印文なり。●の事。
 牛頭決の初めに云く「所決の法門七百余科、皆是れ生死の野を越ゆる牢強の目足なり」。
 
一、冥途にてはともしびとなり。
 荘厳論に云く「命尽き終る時、大黒闇を見れば深岸に墜するが如く、独り広野を逝くに判侶有ること無し」文。讃歎抄十九に云く「正しく魂去る時、目に黒闇を見て高き処より底へ墜ち入るが如し。唯独り●々たる広き野原に迷うなり。其の時の有様思いやるこそ心細く悲しけれ」云云。止七四十七に云く「●●未だ足らざるに●然として長く往きぬ。所有の産貨、徒に他の有に有す。冥々として独り行く、誰か是非を防がん」等云云。
 和泉式部云く「冥より……山端の月」。
 書写山聖空の事。和語記。時に此の妙法曼陀羅、大燈明と成るなり。闇に燈を得たるが如しとはこれなり。
 
一、死出の山。
 讃歎抄に云く「心ならず行く程に死出の山に至る。此の山高くして嶮し。獄卒に駆り催されて泣く泣く山路にかかる。岩のかど剣の如くなれば歩まんとすれども歩まれず。此の山遠き八百里、嶮しきこと壁に向えるが如し。嶺より下す嵐はげしく、膚を徹し骨髄に入る」等云云。
 太宰の高遠、夢の告に云く「古郷へ行く人もがな告げやらん しらぬ山路に独り迷うと」。
 千載集、鳥羽院。「常よりもむつまじき哉時鳥 死出の山路の友とおもえば」。生まるる御子を失い給いければ、伊勢。「死出の山越えてやきつる時鳥 恋しき人の上かたらなん」。
 水戸光国公。「時鳥なれもひとりはさびしきにわれをともない死出の旅路」。
 
一、良馬となり。
 「良馬」とは即ち名馬なり。延宝年中に阿蘭陀より名馬を献ずるに、其の毛、一身しまなり。半井卜養の狂歌に云く「しまぎぬをおらんだものと思いしに よくよく見ればうまれ付きかな」云云。
 後醍醐天皇の時、月毛の馬の三寸計りなるが、一日に八十里を行く馬を献ぜり。出雲の富田を卯の刻に立ちて酉の刻に京に着く。その道七十六里なり。源平合戦の時の判官の青海波、一の谷を落したるは太夫黒蒲殿の月の輪、和田が白波、畠山が秩父鹿毛、一の谷を落つる時鎧の上に負いたるは三カ月という名馬なるが故なり。梶原が賜いたる磨墨、佐々木に賜いたる生●、北条の荒磯、熊谷が権太栗毛、是等は物の数ならず。
 後漢の公武の時も千里の馬を献る。前漢の文帝の時も、千里の馬を奉る。関羽が赤兎馬、玄徳の的●あり。的●は檀渓を一躍三丈す。これも数ならず。
 また屈産乗といえるは、左伝五の註に「屈は地の名、良馬を生ず」と。また史記の世家の註に「屈産は名馬を出す地なり」。クツとは屈支国の事なり。また丘茲とも亀茲ともいうなり。長安の西、七千五百里にあり。
 また項羽が●は蒼黒の馬なり。伝に云く「時に利あらず、●逝かず」等云云。これも物の数ならず。
 周の穆王の時、●●●●●●●●。太平十三初、同抄。慈童。魏の文帝の時、●祖八百年まで慈童、少年の容なり。穆王は八疋の逸馬に乗って、西天十万里の山川を一時に越えて霊鷲山に参詣せり。
 今またまた爾なり。妙法五字の良馬に乗って速やかに霊山浄土に至るべし。
 
一、天には日月の如し・地には須彌山の如し等文。
 これ薬王品の第二、第三、第四の譬の意なり。経に「又大山、黒山、小鉄囲山、大鉄囲山及び十宝山の衆山の中、須彌山を第一と為るが如く、此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て最も其の上と為す」云云。「又衆星の中に月天子最第一なるが如く、此の法華経も亦復是くの如し。千万億種の諸経法の中に於て最照明と為すなり」。「又日天子の能く諸の闇を除くが如く、この経もまたまた是くの如し。能く一切の不善の闇を破す」。文の中の「法華経」とは下種の法華経、妙法五字の御本尊の御事なり。
 
一、生死海の船なり成仏得道の導師なり。
 薬王品に云く「渡に船を得たるが如し」云云。故に「生死海の船」という。「商人の主を得たるが如し」云云。随問十四十三に云く「経に、商人の主を得たるが如しとは、商主は必ず能く道の通塞及び宝所を知り、彼の商人をして彼の宝を得るに至らしむるが故なり」文。
 浄名に云く「巨海に入らずんば宝を得ず」云云。賢愚経に云く「植を田るは百倍、商●は千倍、仕官は万倍、海に入るは吉く還って無量倍を得」云云。若し導師なくして海に入らば何ぞ宝を得ん。百喩経に云く「昔賈客有り、一導師を得て引いて広野に至るに、一の天祠有り。人を須いて祠り已って、然るに後に過ぐることを得。此に於て衆賈、議して云く、我等皆観たり、如何ぞ殺す可き。即ち導師を殺して天祠を祀る。已に道路を迷い失いて趣く所を知らず。窮困して皆死す」。他宗他門云云。
 当流は寿量文底の大海に入り、下種の大法を得たまいて、我等にこれを授与す
る蓮祖のみ末法の大導師なり。                      
                                    
 四双八句を分かちて二と為す──┐                    
┌────────────────────────────┘          ├──初めに直ちに称歎、また二──────┬───初めに法躰を歎ず 生仏一双  │                └───次に妙用を歎ず 山野一双     
│                                   
└──次に他に対して歎ず、また二────┬───初めに法躰を歎ず 天地一双                    └───次に妙用を歎ず 迷悟一双     
 弘四本四十四に云く「三界の長途は応に万行を以て而も資糧を為すべし。生死の広海は応に智慧を以て船筏と為すべし」。
 
一、二千二百二十余年の間。
 或いは三十余年。これに相伝あり。問う、何ぞ迦葉伝えて弘めざるや。故に先ず世の薬を挙げて譬と為すなり。
 
一、病によりて薬あり軽病には凡薬(乃至)重病には仙薬等云云。
 報恩抄下二十七に云く「仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず」文。薬に上中下あり。故に知んぬ、上薬を仙薬と名づけ、中下を凡薬と名づくることを。
 弘十に云く「神農経に云く、上薬は命を養う。謂く、五石・練形・六芝は命を延ぶ。中薬は性を養う。謂く、合歓は●を●き、萱草は憂を忘る。下薬は病を治す。謂く、大黄は実を除き、当帰は痛みを止む」云云。
 
      ┌─白●            ┌─竜伯          
      ├─紫●            ├─参成          
 五石───┼─石膏       六芝───┼─燕服          
      ├─鍾乳            ├─夜光          
      └─石脂            ├─玉芝          
                      └─霊芝          
 
 止観代十四十八に云く「金丹を服して大仙人と成る」文。
 弘十七十に云く「金を飛して丹と為す。故に金丹と日う」文。
 金を飛水して薬と為るを金丹というなり。愚案五十二に「神農薬を●む、其の数三百六十五種。是れを本草に上中下の三品に分つ。上薬百二十種、中薬百二十種、下薬百二十五種。是れ多く毒有り」。本草は李時珍、明人なり。神農経を釈す、五十二巻あり云云。
 
一、人の煩悩と罪業の病軽かりしかば等文。
 「煩悩」は貪瞋癡なり。業は身に三、口に四なり。
 問う、正像の病軽き所以は如何。
 答う、本已有善の故なり。譬えば実性に生まれたるがごとし。
 問う、九宗は判経に謬り多し。何ぞ薬を識るといわん。若し薬の性を識らずんば、また病を識るべからず。唯天台のみ正義を得て、能く薬の性を識れるがごとし。何ぞ十宗を通じて智者と名づけ、病に随って薬を与うといわんや。
 能破似破の事。十二三十二、これ与えて論ずるなり。
 愚案記の物語の事。
 宋の朱文公、足の病あり。要言十十三。
  幾載相扶くるは疲●に籍る 一鍼還って覚ゆ 奇功有ることを 門を出でて杖を放てば児童笑う 是れ従前勃●の翁ならず
 華陀 沛国●郡の人なり。三国三十三九、二十二初、関羽。
 前の二種は諸宗の祖師、華陀は天台等のごとし。諸病の中に法華経を謗ずるは第一の重病なり。諸薬の中に南無第一の良薬なり云云。
 
一、今の世(乃至)謗法の者
 一には諸宗の凡薬、末法の重病の人に応ぜず。故に「諸宗の機にあらざる上」というなり。二には諸宗の医師、不相応の薬を用う。故に却って薬、毒と成る。日本国一同に一閻提大謗法の大病人と成るなり。
 
一、父母を殺す罪。
 大天は母に通ず。父帰るに及んでまた父を殺し、また羅漢を殺せるなり。
 
一、謀叛ををこせる失。
 正平の将門、天慶の純友等云云。
 
一、出仏身血等の重罪等にも超えたり。
 提婆の事、法蓮抄十五三、四の如し。
一、堂塔を焼きはらへる。
 魏の武、周の武、唐の武、守屋、弗舎密多羅。
 
一、一人(乃至)日本国。
 問う、何なる大罪なりや。
 答う、謗法なり。
 一には不信謗法。「疑いを生じて信ぜざらん者は、当に悪道に墜つべし」。妙楽云く「不信頓極を名づけて謗実と為す」。二には毀謗謗法。其の意、知るべし。経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん」云云。
 五逆と謗法と軽重の事。大論六十二二十、御書七古を切らん嘉祥の事。
 
一、わが身に科なしと思ひ。
 啓蒙三十三二十三、斉の桓公の病を見る事。
 扁鵲は勃海郡の人、姓は秦、名は越人。少き時、人舎の長と為る。舎の客、長桑君過ぎれり。扁鵲独り奇とす。常に謹んで遇す。長桑君もまた扁鵲の常の人に非ざることを知る。出入すること十余年、乃ち扁鵲を呼び、私座に語って云く、吾に禁方あり。年老ゆ。公に伝えんと欲すと。懐中より薬を出し、扁鵲に飲ましむ。その禁方を尽く扁鵲に伝え、忽然をして見えず。起ていわく桓公に見ゆ。黄帝の扁鵲に類す。故に扁鵲と名づく。
 和気・丹波の両流の中に、丹波は後漢の霊帝の後なり。後の丹波雅忠を日本の扁鵲と号す。大抄二十五二。
 「わが身に科なし」と思うは、桓公の我が身に病なしと思うが如し。
 
一、女人よりも。
 一に謗法の軽重、二に懺悔の有無。御書十三。
 
一、此等は●病。
 三重秘伝に合すべし。御書二十七に「南無妙法蓮華経を境として乃至罵責流失の人法躰一」云云。
一、いよいよ倍増すべし。
 宋の朱文公、足に病あり。
  幾載相扶くるは疲●に籍る 一鍼還って覚ゆ 奇功有ることを 門を出でて杖を放てば児童笑う 是れ従前勃●の翁ならず
 「今末法に入りぬれば余経も乃至嬰児に乳より外乃至良薬に又薬を加えぬる事なし」云云。
 
一、末法の時のために(乃至)授けさせ給へり。
 此に五意あり。
 
一、一の仙薬をとどめ。
 天台の止十に云く「金丹を服する者は大仙人と成る」云云。宗祖云く「仙薬は命をのべ」等云云。
 妙法五字の本尊を受持すれば、病即消滅して不老不死の果報を得る故に「仙薬」と名づくるなり。
 
一、五百(乃至)一念も仏を・わすれず・まします。
 釈尊初発心の御弟子にして、本尊を受持し信心不退なる故なり。
 「仏」とは色相荘厳の仏に非ず。妙法五字の本尊を「仏」というなり。宗祖云く「釈迦乃至妙法蓮華経五字こそ本仏にてわたらせ給ひ候なり」(取意)云云。
 十二二十七。五意あり。
   一、本因●機 自行証得 心中深秘
 
一、末法の時のために。
 「我が滅後の一切衆生乃至医師の習い病に随いて薬をさづく」。
 
一、多宝如来・十方分身。
 新尼御前。
 
一、一の仙薬をとどめ。
 「留」の字に相伝あり。「是好良薬、今留在此」は寿量品に説き顕す云云。「仙薬」というは、天台云く「金丹を服する者は大仙人と成る」云云。宗祖云く「仙薬は命をのべ」云云。経に云く「病即消滅、不老不死」。故に「仙薬」という。
 
一、法慧・功徳林。
 何ぞ迹化・他方に授けざるや。
 両種の前三後一あり。
 
一、五百塵点文。
 釈尊初発心の御弟子の故なり、信心不退の故なり。「一念も仏を・わすれず・まします」とは、これ色相荘厳の仏には非ず。久遠元初の自受用身、即ち本化の御師、本仏なり。師は三徳なり。故に本尊なり。この本仏は即ち妙法の五字なり。故に「仏」とは即ちこの妙法五字の本尊なり。
 
一、召し出して授けさせ給へり。
 一に乃往、過去の宝勝如来の滅後に名医あり。父の流水の秘方を伝受し、而も時を以て肝要と為す。金光明経第三七十二に出でたり。
 二に天竺の耆婆は得叉羅国の大医・賓迦羅の秘方を伝授し、而も薬種を知るを以て肝要と為す。●女祇域因縁経に出でたり。
 三に震旦。倉公、扁鵲、華●。倉公・扁鵲は史記の一伝の書に云云。倉公は元里公乗陽慶を師とし、黄帝・扁鵲の●書を伝授するなり。史記列伝四十五に云く「大倉公とは斉の大倉長、臨●の人なり。少くして医術を好み、同郡の元里公乗陽慶を師とす。今、年七十余、悉く禁方を以て之に予る。扁鵲の脈書五色に伝う。病を診て人の生死を知る」云云。公乗の官なり。扁鵲は黄帝の時の扁鵲なり。
 扁鵲 史記列伝四十五 現本は百五初。 扁鵲は勃海郡の鄭の人なり。姓は秦氏、名は越人。少き時、人舎の長と為る。舎の客、長桑君過ぎれり。扁鵲独り奇として常に謹んで遇す。長桑君もまた扁鵲の常の人に非らざることを知る。出入すること十余年、乃扁鵲を呼び、私語して云く、我に禁方あり。公に伝与せんと欲す。泄らすことなかれと。懐中の薬を出して扁鵲に与う。飲ますに上池水を以てす。三十日、当に物として悉く知るべし。その禁方を以て尽く扁鵲に与う。忽然として見えず。扁鵲、その言を以て薬を飲む。三十日にして垣の一方の人を見て、其の病を知ること明らかなり云云。長桑君の秘方を伝受する故に能く病を知る。趙簡子晋の大夫病む。人を知らざること五日、秦の穆公云云。二日の後国安否す。●起つ、桓公云云。●理湯●及ぶ所 血脈鍼石及ぶ所 ●胃酒●及ぶ所 骨髄及ばず。
 ○華他 沛国●郡の人なり。
 難経という医書あり。これは戦国の秦の越人扁鵲が撰ぶ所なり。一抱子が難経本義諺解に云く「秦の大医令、李●、己れが医業扁鵲に及ばざるを以て密かに扁鵲を刺殺す。扁鵲死して後、難経の書を伝えて、華他之を持つ」云云。同二に「難経の序に云く、難経は歴代之を一人に伝う。魏の華他に至り、其の文を獄下に燼す」云云。
 
  五百年が間、唯授一人なり。
 
 各相伝あり。故に能く身の病を治す。「譬如良医」の釈尊もまた上行菩薩に一大事の秘法を伝う。
 二十二二十八に云く「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり」等云云。
 外十六四十一に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日              日蓮在御判
                      血脈の次第 日蓮日興」
 「日興が身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す本門寺に掛け奉る可し」(取意)云云。
 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。
一、されば此の良薬を持たん。
 右現当二世の為に造立すること件の如し。

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