如説修行抄筆記
如説修行抄筆記
一、この抄の大意は、宗教の五箇に依って宗旨の三箇を弘通すれば、必ず三類の大難あるの相を御書して、宗祖の弟子、如説修行の人なることを判じたまうなり。
一、題号とは通別あり。通にまた二あり。初めに内外・大小に通ずることをいわば、外道の四韋陀十八大経は如説なり。その所説の如く修行する故に如説修行なり。儒道には仁義等の五常を明かして、その如く修行すれば如説修行なり。
故に開目抄に云く「此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり乃至但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい」等云云。これは儒家の如説修行なり。
また開目抄に云く「此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり乃至各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し(乃至)此等の邪義其の数をしらず」云云。これは外道の如説修行なり。
仏道において四教五時あれども、その教の如く修行するは如説修行なり。法慧等の菩薩は華厳経の如説修行の人なり。迦葉・舎利弗は阿含三蔵の如説修行の人なり。文殊・弥勒等の諸菩薩は方等・般若・法華経の迹門及び涅槃経の如説修行の人なり。上行等の菩薩は本門寿量の如説修行の人なり。故に御書に云く・・五巻三十・四五「華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等」云云。」
次に在世滅後に通ずるは、これにまた三あり。一に人法相対に約し、二に師弟相対に約し、三に自行化他に約するなり。一には人法相対に約するなり。謂く、如説は法に約し、修行は人に約す。在世に於てこれをいわば、釈尊所説の一代経は法なり。その所説の如く自らこれを行ずるは修行なり。
経に云く「我れ本、菩薩の道を行じて」文。「菩薩の道」とは法なり。「行」は修行なり。「我」とは人なり。故に修行は人に約するなり。釈尊の所説とは妙法蓮華経なり。経文に「唯以一大事」と文。修行とは妙法蓮華経なり。経文に「尽くして諸仏の無量の道法を行じ」文。また「我れ本、菩薩の道を行じて」文。御書二十三に云く、云云。
次に師弟相対に約せば、如説とは師説なり。修行とは弟子に約す。謂く、師の所説の如く弟子これを修行す、これ如説修行なり。在世に於ては釈尊の所説の如く、一会の大衆これを修行す。薬草品に云く「其れ衆生有って、如来の法を聞いて、若しは持ち、読誦し、説の如く修行す」文。「其れ衆生有って」とは弟子なり。「如来」とは師なり。「法」とは所説の法なり。「若しは持ち、読誦し」とは修行なり。この一文、弟子の人法に約すること分明なり。
三に自行化他に約す。如説とは化他なり。修行とは自行なり。謂く、五種法師の中に四は自行なり。解説は化他なり。自ら妙法を受持、読、誦、書写するは自らの修行なり。他を教えてなさしむるは化他なり。他に教ゆるは如説なり。他に教ゆる如く自ら修行する、これ如説修行なり。釈に云く「行ずる所は言う所の如く、言う所は行ずる所の如し」文。「言う所」とは所説なり。「行ずめ所」とは修行なり。滅後に於てもこの三あり。宗祖に於てもこの三あり。宗祖の如く口に妙法を説き、身に妙法を修行し、その所説の妙法を弟子檀那修行するなり。弟子檀那に教ゆるは化他なり。自ら修行するは自行なり云云。四巻二十三。
四に、在世・滅後の人法・師弟に約する経疏ありや。
答う、師弟に約する事は、法師品に在世の師弟、滅後の師弟を明かすなり。在滅の弟子を明かす経文に云く「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん」文。在世下品の師を経文に説いて云く「広く妙法華経を演べ分別するなり」文。また滅後下品の師を説いて云く「能く竊かに一人の為にも、法華経を説かん」文。師弟を説く経文を合してこれを見れば、師の妙法華経を説くを聞いて、弟子それを修行する故に、如説修行は弟子に約するなり。人法に約することは上に経文を引くが如し。また薬草品の「其れ衆生有って、如来の法を聞いて、若しは持ち、読誦し、説の如く修行す」の文、師弟・人法具足せり。謂く、「其れ衆生有って」は弟子なり。「如来」は師なり。また如来は能説の人なり。「法」は所説の法なり。自行化他の約すること、疏八に云く「四人は是れ自行、一人は化他なり」文。
次に別して当抄の意は、内外・大小・本迹・観心の中には本門観心の如説修行なり。在世滅後の中には、別して末法今時の如説修行の師弟・人法なり。
問う、その証文如何。因みに大聖人を以て末法の三徳とする正しき証文の答は観心抄に云く、三義あり。
答う、一には迹化他方を止めたまう経文の元意を、本尊抄に判じて云く「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」文。私に云く、「末法」等とは滅後第三の末法今時なり。「地涌の菩薩」とは師なり。「閻浮の衆生」とは弟子なり。また「地涌の菩薩」とは人なり。「寿量品の肝心たる妙法」とは本門観心の法なり。故に末法の師弟・人法に約するなり。
二は本化を召す経文に云く「是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」文。「「滅後」とは第三の末法なり。「護持・読誦」とは修行なり。「広く此の経を説かん」とは如説の大法なり。「是の諸人等」とは能く説き能く修行するの人なり。尚この経文の元意を御書の五・二十三に云く「上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば乃至寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり」文。既に文の中に「末法」という。また寿量品の題目は本門観心にしてこれ法なり。上行菩薩は能弘の人なり。
三は地涌の菩薩の発誓の文に云く「而も仏に白して言さく。世尊、我等仏の滅後に於て乃至我等も亦自ら是の真浄の大法を得て、受持読誦し、解説書写して、之を供養せんと欲す」文。「我等」とは人なり。「仏の滅後」とは末法なり。「真浄の大法」とは本門の妙法なり。玄七に四徳に約して釈す。四徳即ち妙法なるが故に「真浄の大法」の言は本門の大法なり。「受持」等は修行なり。
四に別付嘱の文に依るが故に。経に云く「要を以て之を言わば、如来の一切乃至是の故に汝等如来の滅後に於いて、応当に一心に受持、読、誦、解説、書写し、説の如く修行すべし」文。「四句の要法」は本門寿量の妙法なり。「汝等」とは人なり。「滅後」とは末法なり。「一心に受持」等とは修行なり。その外、十神力の元意及び総付嘱の元意はこれを略す。八の巻二十五丁四十四、二十六、十神力なり。二十六、二十八、これ総付嘱なり。正しく・・当文三十六に云く「末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是れなり」文。
問う、正しく如説修行とは、その姿如何。
答えて云く、受持、読誦、解説、書写なり。受持、読誦、解説、書写すべしと他に教ゆるは如説なり。自ら受持、読誦するは修行なり。他に教ゆるは説法なり。その説法の如く自ら修行する故に如説修行なり。「言う所は行う所の如し」これを思え。これ則ち人法なり、師弟なり、自行化他あるなり。
問う、入文の中に五種の行を簡んで摂受の行と斥えり。何ぞ今の修行、五種の行ならんや。二十・十九、信心深き者も法華経の敵を責めずんば得道あり難き事。
答えて云く、地涌を召すの経文、同じく発端の文及び付嘱の文、皆五種の行なり。何ぞこれに違して別に修行あらんや。但し名は同じけれども修行の相は不同ならんか。妙法を受持し、妙法を読誦し、妙法を解説し、妙法を書写するなり。一部広の修行に非ず。略を簡び肝要の五種の行なり。簡ぶ所は広・略の修行なり。御義口伝下四十二丁。
一、題号に三大秘法の含まるる事。宗祖大聖人上行菩薩なる事。四巻二十。
如説とは能説・所説あり。所説は則ち妙法蓮華経なり。能説の教主は即ち日蓮聖人なり。然れば説の一字は人法の本尊なり。修行とは題目を修行す。信ずる故に行ず、これ信行の題目なり。故に修行の二字は本門の題目なり。この本尊所住の処は即ち本門の戒壇なり。謂く、本尊を信じて題目を唱うるが故に、非を防ぎ悪を止む。これ戒壇の義なり。当体義抄に云く「然るに日蓮が一門乃至南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」。合すべし云云。
一、入文に三あり。初めには宗教に依って宗旨を弘むれば必ず大難あることを標す。二には「其の故は」の下は釈なり。三には「哀なるかな」の下は総結なり。初めの標にまた二。初めに宗教・宗旨を標し、次に「如来の在世より」の下は大難を標するなり。
一、夫れ以んみれば乃至此の経を信ぜん人文。この文、宗教に約するに「此の経」とは第一の教なり。「信ぜん人」とは第二の機なり。「末法」とは第三の時なり。「此の土」とは第四の国なり。「流布の時」とは教法流布の前後なり。これ宗教の五箇分明なり。また宗旨の三箇に約するに「此の土」とは本門の戒壇なり。「此の経」とは本門の本尊なり。「信」とは本門の題目なり。所謂題目に二あり、信行なり。題目には修行といい、此には信という。これ信行の題目なり。この故に宗教・宗旨を標すというなり。
一、末法流布の時文。経に云く「後の五百歳中広宣流布」文。次第の如く末法流布なり。一縁浮提なり。別しては日本国なり。
一、此の土。宝塔品に云く「誰か能く此の娑婆国土に於て」文。涌出品に云く「尚此の土に於て」文。私に云く、通じては一縁浮提、別しては日本国なり。御義口伝下十八丁。
一、此の経を信ぜん人文。「信」とは受持の義なり。「此の経」とは題目の五字なり。経に云く「此の経は持ち難し」文。御義口伝上四十七丁。
一、如来の在世より等。必ず大難あることを標するなり。「怨嫉」とは疏八・十六に云く「四十余年即ち説くことを得ず。今説んと欲すと雖も、而ね五千尋で即ち座を退く。仏世すら尚爾なり、何に況や未来をや」等云云。記八本十五に云く「今通じて論ぜば、迹門には二乗鈍根の菩薩を以て怨嫉と為し、五千起居は未だ嫌う可きに足らず。本門には菩薩中の近成を楽う者を嫌って怨嫉と為す。衆こぞって識らざるは、何ぞ恠と為すを得ん」文。御書十七・六丁、往いて見よ。
一、其の故は在世文。この下、釈に二。初めに略して釈す、また二。初めに在世の怨嫉を挙げて滅後の大難を況出するなり。是に四重あり。一には教主に約し、二には所化に約し、三には調機に約し、四には法体に約するなり。
初めに教主をいわば、在世は三惑已断の仏なり。而るに猶多怨嫉あり。何に況や末法は一惑未断の凡僧なればなり。必ず大難あるべき道理顕然なり。
二に所化をいわば、在世は三惑已断の大菩薩・阿羅漢なり。故に怨嫉を成すべからず。而るに猶怨嫉多し。況や末法は三毒強盛の凡人なり。故に必ず大難あるべき道理なり。
三に調機に約せば、在世は人非人等ありと雖も調機調養したまう故なり。而るに猶五千起去等の怨嫉あり。況や末法には調機等の義なき故に必ず大難あるべきなり。
四に法体に約せば、在世は脱益の法華なり。而るに猶近成を楽うに怨嫉多し。況や末法は下種益の法華経なるをや。必ず大難ある道理なり。次上に引く記八の釈と合して得意すべし云云。
一、調機調養して法華経。調機調養は塾益なり。塾益後の法華経は必ず脱益の法華経なり云云。「其の故は」より「怨嫉多し」に至るまで、在世の師弟、人法、自行化他なり。題号に合せ見るべし。また四重の中には、初めの師弟等の二は広く諸経に通じ、九横の大難等に合す。次に調機等の二は別して今経に約す。中に於て初めは権実相対の違、後の一は本迹相対の違なり。記八に合して見るべし。
一、何に況や末法等文。これより下は末法に当てて「況滅度後」の文を釈す。二あり。初めは正釈、四意あり。一には能化に約し、二は弟子に約し、三には調機に約し、四は法体に約す。在世に対して得意すべき者なり。
一、何に況や。「悪師には親近す」まで冠すべきか。何に況や凡師なり、何に況や三毒強盛の弟子なり、何に況や調機調養なき故に、善師をば遠離し、悪師には親近するなり。
一、末法今の時。五箇の教相なり。「末法」とは時なり。機・教は文に分明なり。「時刻当来す」とは流布の前後なり。略して国土を挙げざるなり。師弟をいわば住処は自ら顕るればなり。
一、其の師を尋ぬれば凡師なり文。この下は末法の師弟・人法・自行化他を明かすなり。題号に合すべきなり。またこの下は宗旨の三箇を釈するなり。「其の師」とは人の本尊なり。御義口伝下九・二十五丁。「真実の法華経」とは本門の題目なり。妙法五字は本尊といわれ、題目といわるる両辺あり。今、人の本尊に対して題目というなり。一箇三箇の開合、これを思え。
一、故に善師をば遠離し等文。これは調機等に対して見るべし。意に云く、人非人等ありと雖も調機調養せる故に怨嫉あるべからず。而も猶これあり。何に況や末法には、調機調養なき故に必ず大難ありとなり。
一、其の上真実の法華経文。「其の上」とは何況の意なり。「真実の法華経」とは在世の脱益に対す。故にこれは下種の法華経なり。これ則ち種脱相対なり。
問う、釈尊所説の法華経は真実に非ずや。
答えて云く、これ真実なり。今文は下種に対する故なり。下種なき脱は「超高が位にのぼる」等なり。開目抄下十に云く「在世法華経に於て得脱することは久遠の下種を顕す故なり」と。妙楽云く「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」文。下種は本なり、脱は迹なり。脱益の真実なる事は下種の真実なるが故なり。今は功の種に帰せしめて、別して「真実」というなり。また像法天台の弘経に対するなり。御書に云く「正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり」文。宗祖の弘経は「有のままの妙法」なり。故に「真実の法華経の行者」というなり。
一、されば此の経文。これより下は二に弟子檀那を教誡したまうなり。中に於て初めは総じて教誡し、次に「然るに我が弟子」の下は不信の人を挙げ、別して教誡したまうなり。これにまた二。初めには不信の人を挙げ、次に「兼て申さざりけるか」の下は教誡す、また二。初めに兼日の教えを挙げ、次に「予が或は」の下は重ねて教誡したまうなり云云。この大旨題号に合す。初めは如説、「予が或は」の下は修行なり。謂く、弟子檀那に対し三類の大難あるべしと教ゆるは説法なり。自ら説の如く大難に値うは修行なり。
一、三類文。記八に云く「文に三。初めの一行は通じて邪人を明かす、即ち俗衆なり。次の一行は道門増長慢の者を明かし、三に七行は賢聖の増上慢の者を明かす。此の三の中に初めの者は忍ぶ可し。次の者は前に過ぎたり。第三最も甚だし」文。
一、然るに我が弟子等の中にも文。檀那を等するなり。開目抄下四十六に云く「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし乃至妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん」文。
この文は初めに弟子、次に「妻子」の下は檀那なり。また当巻四十二に「各各我が弟子となのらん人人」等文。当抄次上に「行者の師弟檀那」と云云。これを以てこれを思うに檀那を等するなり。興目両師は不惜身命なり。御相伝に「日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩行か。日興先をかくれば無辺行菩薩か。其の外の臆病者共等」云云。また十七・二十六云云。
一、或は所を・をわれ文。これは清澄山及び鎌倉等の所々なり。七巻二十四に云く「日蓮は景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたり」等云云。
一、或は疵を蒙り文。房州東条小松原の御難なり。文永元年甲子十一月十一日甲酉の時なり。御書二十巻二十五丁、云云。
一、或は両度の御勘気文。一度は弘長元年辛酉五月十二日、伊豆の伊東へ流されたまう。四恩抄の大旨云云。一度は文永八年辛未九月十二日、竜口より直ちに佐渡へ流さるるなり。
開目抄上三十一に云く「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」文。これに付いて四箇の大難に異説あり。一には伊東配流、小松原、竜口、佐渡流罪、これを四度とするなり。御書二十二・三十一に云く「弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」文。この文は佐渡流罪と竜口は別にして四ケ度とする様なり。また十八巻十三に云く「或は頚をきられんとし、或は流罪両度に及べり」文。この文また別に挙げたり。また一説に、松葉ケ谷の夜打ちを加えて竜口・佐渡を合するなり。
私に云く、竜口・佐渡流罪は一処なり。二十六巻三十八に云く「去る文永八年九月十二日に都て一分の失無くして佐渡には流罪せられ外に遠流と聞へしかども内々には頚を切んと定め予は又兼て此の事を推せし」等云云。
この文を以て考うるに、佐渡流罪と竜口と内外の沙汰不同なり。故に別にこれを挙げたまうか。諸抄の御妙判に「国主より御勘気二度」とあり。これ伊豆と佐渡となり。然るに佐渡流罪の日限を九月十二日と遊ばされたり。次上に引く御書に云云。また十八巻十九に云く「去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて北国佐渡の島にうつされて候いしなり」文。十三巻四十二に云く「去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国に流さる」文。また十三巻四十二に「念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」文。また二十六・三十六に云く「正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉るないし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども乃至日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」文。此等の大旨を見るに、夜打ちを加えて四ケの大難とすべきか。猶考うべし云云。
一、問うて云く如説修行等文。この下は行者値難を明かすなり。問に二意あり。謂く、三類の強敵あるを以て知んぬ、如説修行の人に非ざる事を是一。また大難あるを以て如説修行の行者といわば、「現世安穏」の経文は妄語なりや是二。
答に二意あり。初めに行者値難を明かし、次には経文虚しからざるを明かす云云。この一段の問答、開目抄下巻三十九、四十を合せ見るべし。
一、「答えて云く」の下。この下は行者値難を明かすに二あり。初めに例を挙げ、次に「然るに今」の下は値難あることを以て末法の行者なることを明かす。初めの文にまた二。初めに正しい例を挙げ、次に「此れ等の人人」の下は反詰なり。初めに例を挙ぐるに三。初めに現在、二に過去、三に「竺の道生」の下は未来なり。これ則ち釈尊の三世なり。
問う、過去・現在と次第せざるや。
現顕なるに約して先ず現在を挙ぐるなり。御書三十八・十九に云く「日蓮は三世の大難に値い候ぬと存し候、其の故は現在の大難は今の如し、過去の難」等云云。これに例して知るべし。
一、竺の道生文。この下は啓蒙に二義を挙げたり。一は道生等の三人は通途の仏法に付いて難に値うの例に出したまう云云。二は三人の本意も法華に成るべき故に天台・伝教一具に出したまうと云云。啓蒙取捨の如く、後の義可なり。今の結文に「此等の仏菩薩」等云云。開目抄下四十に云く「此等は一乗の持者にあらざるか」文。啓蒙九巻、往いて見よ。
一、然るに今の世は等文。この下は値難を以て末法の行者なることを明かすに二。初めは値難の所以なり。次に「日蓮」の下は末法の行者なることを明かす。
問う、この下は値難の文なし。何ぞ値難を以て末法の行者なることを明かすというや。
答う、問難に「如説の行者は現世安穏なるべし」とは、末法の法華経の行者を問うなり。答の大旨、先ず在世及び正像二時の法華の行者の値難を出し、次に「然るに今」というは、正しく末法の行者の値難を述べて問難を答うるなり。「然るに今」等の意に云く、在世及び正像の間の法華の行者、既に値難あり。況や末法の今は、時を論ずれば闘諍堅固・白法隠没の時なり。国を論ずれば謗法の悪国なり。機を論ずれば謗法の悪臣・悪民なり。法を論ずれば邪法なり。師を論ずれば邪師なり。故に正像の行者を見て必ず大難を致す。三類の強敵あるを以て法華の行者なることを知るべし。「況滅度後」の経文に附合するが故なり、という大旨なり。
一、末法の行者の難に値う所以は、時・機・国・法・師、倶に悪邪充満するが故なり。正法の行者を見て種々の難をなすなり。謂く、これまた宗教の五箇なり。初めの「闘諍堅固」等とは第三の時なり。「悪国」とは第四の国なり。「悪王悪臣悪民」とは第二の機なり。「正法を背きて」の下は第五の教法流布の前後なり。第一の教を挙げざる事は、今師の弘通第一の勝教なるが故に此には挙げざるなり云云。
一、仏勅を蒙りて文。時に約すれば、経文に「悪世末法の時」と。また「後の五百歳中広宣流布」文。国土に約すれば、経文に「誰か能く娑婆国土に於て」と。また「娑婆世界に自ら又六万」文。教に約すれば、宝塔品に「広く妙法華経を説かん」と。涌出品に云く「広く此の経を説かん」と。神力品の四句の要法等云云。
一、法王文。薬草品に云く「有を破する法王」文。授記品に云く「大雄猛世尊 諸釈の法王」文。
一、経文に任せて権実二教のいくさを起し文。
問う、「経文に任せて大小・権実・本迹の軍」というべし。何ぞ但「権実」というや。
答う、玄義第七・三十六に云く「通じて本迹を論ずるに只是れ権実」文。故に権実の言に本迹を兼ぬるなり。これ則ち迹権本実の故なり云云。
一、忍辱の鎧文。勧持品に云く「当に忍辱の鎧を著るべし」文。
一、妙教の剣文。「今経は能く元品の無明を切る利剣なり」云云。十七・三十五。
一、妙法五字の旗を指上て文。軍には旗じるしを肝要とす。今また是くの如し。権実の法論の場所なれば、未曽有の旗を指し上げて仏法の勝相を表するなり。人記品の下の啓運抄の終りに、補註を引いて経に勝幡という。什師の云く「外国には敵を破るに勝つことを得る則は勝幡を堅つ。道場には魔を降するに亦其の勝相を表するなり」等云云。これを以て当文に合すれば、諸宗は法華経の敵なり。今妙法の旗を以てその敵を破るなり。これは譬の意なり。また諸宗は三毒五欲の煩悩なり。猶亦悪鬼入其身の大魔王なり。今この法華経は能く煩悩の賊を摧き、四魔を降伏するなり。録外二十三、日眼御書に云く「法華弘通の旗じるしとして」等云云。合せ見るべし。
一、未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて文。弓あれども箭なければ詮なし。箭はあれども弓なければ無用なり。法華経に「正直捨方便」と説きたまうとも、無量義経に「四十余年未顕真実」の文なくんば、法華経に指示する処の方便は何れの経ぞや、測り難し。爾るに無量義経の文を以てこれを見れば、四十余年の諸経悉く方便なりと知る。故に弓矢具足するが如し。
二句の文を弓箭の相配するに表示ありや。
答えて云く、弓は其の形曲りて直ならず。四十余年の諸経の不正直なるを未顕真実と説く故に、形を以てこれに類して「未顕真実の弓」と判じ、箭は直なる物なれば正直の法華に対す。正直に方便を捨てて後は、但一実円頓の妙法なり。故に各々その形を以てその法体の正直・不正直を顕す者なり。或はまた必ずしも表示を求むべからず。仏意測るべきが故なり。疏四、御義口伝上二十二云云。
一、大白牛車に打乗って文。経に云く「是の宝車に乗じて四方に遊ぶ」文。また云く「此の宝乗に乗じて直ちに道場に至る」文。「打乗って」とは本門の題目を受持する事なり。御義口伝下四十七。この宝乗に乗じて直ちに道場に至るを以て受持と題目とに判ずるなり。道場は極果なり。「乗此」とは因なり。籤五に云く「此の因易らざる故に直至と云う」と。此に乗る事は信心第一なり。録外二十五・四。
一、かたきは多勢なり文。仏敵・法敵あり。主師親の釈尊を捨てて余仏を崇重するは仏敵なり。諸経中王の法華経を捨てて諸経を信ずるは法敵なり。「法王の一人」は「唯我一人」の事なり。
一、法華折伏文。已下は第二の問意に答う。経文虚しからざるを明かすに二。初めに結前生後、次に「天下」の下は正しく虚しからざるを明かす。
一、天下万民・諸乗一仏乗と文。意の云く、現在安穏とは天下万民一同に題目を唱うる時なり。爾るに今時は万民一同に万民を唱えざる故に、如説修行の人に大難あるなり。
一、人法共に不老不死文。寿量品の説相、これを思え。「常に此に在って滅せず」、「常に此に住して法を説く」と云云。御書七に云う「日蓮が慈悲曠大」とは人なり。「南無妙法蓮華経は万年の外・未来」とは法なり。三世常住の利益なれば不老不死なり。御書三十八巻・二十に「日蓮が三世の大難を以て」等云云。
問う、人の不老不死とは釈尊の如く顕然なり。法の方は常住の故に不死とはいうべし。何ぞ不老というや。
答えて云く、爾前経の当分に得益を論ずるは壮なるが如し。無量義経に「未顕真実」と説かるるは、得益を滅せんとする時なれば老いたるが如し。今経に至って破廃せらるれば死するが如し。然るに今、この法華経には是くの如き等の義なし。故に不老不死というなり。経に云く「闘諍堅固・白法隠没」と。これ爾前経の老なり、死なり。今経に云く「後の五百歳中広宣流布乃至無令断絶」文。これ法華経の不老不死なり。
或はまた一重立ち入って今の御文言を拝見せば、人法共に本因本果の理を顕し等という事なり。謂く、不老とは釈尊なり。不死とは上行なり。記九本三に云く「父は久しく先より種智環年の薬を服せり。父は老いたれども少きが若し。子は亦常住不死の薬力を稟けたり。少けれども老いたるが若し」等文。
また御義口伝下三十三に云く「不老は釈尊不死は地涌の類たり」等文。不老不死を以て師弟に配すること分明なり。師弟は即本因本果なり。百六箇に云く「本果妙の釈尊・本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり」文。師弟の御本意、人法共に本因妙を以て、末法の衆生を利益したまう理顕るる時という意あり。謂く、本因本果倶時の妙法を修行する故に、人もまた妙因妙果倶時に感得するなり。当巻四十に云云。「法華折伏」已下の御文言、当巻十三を拝し合すべし。
当体義抄にいう「正直に方便を捨て」とは、今の「法華折伏」より「法王の家人となし」というに当るなり。彼に「法華経を信じ」というは、今の「天下万民」より「繁昌せん時」までに当るなり。彼に「南無妙法蓮華経」とは、今「万民一同に」より「唱え奉らば」に当るなり。彼に「煩悩・業・苦」というより「即一心に理顕われ」までは、今の文の「人法共に不老不死の理顕れん時」というに当るなり。彼に「其の人の所住の処は常寂光土」とは、「吹く風枝をならさず」已下の文に当るなり。
一、問うて云く如説修行等文。この下は如説修行の相を問答するに二。初めは総じて権実相対の意を明かすなり。これに二。初めに問、次に答にまた二。初めに他解を挙ぐ。次は今師の能判なり云云。総じてとは今文に日本国中の諸人という、また総を一切の諸経というの言、諸宗に亘るが故に「総じて明かす」というなり。
一、諸乗一仏乗と開会しぬれば(乃至)浅深ある事なし文。開会の上に猶浅深あり。爾前の諸経は所開なり。法華経は能開なり。既に能所不同なり。何ぞ浅深なしというや。十章抄三十・三十二に云く「法華経は能開・念仏は所開なり乃至設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず、何に況や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはすらめ」云云。
問う、十六巻四十に云く「法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、この覚り此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり」文。この文の如くんば開会の後、浅深勝劣なしと見えたり、如何。
答う、啓蒙二十六・八十三に多義あり。所詮彼の意は開会に於て相待・絶待あり。絶待妙は仏意の内証なり。この重に入れんが為に相待妙の修行を立てて、麁を簡び妙を取る義なり。今謂く、彼の書は絶待妙を判ず。この書は相待妙の意なり。絶待妙を以て相待妙を離るべからず。
問う、若し爾らば絶待開会の意に依って爾前経を読むべけんや。
答う、宗祖の御本意、開会の上に於て勝劣を立てたまう事、十章抄等に分明なり。一は能開・所開の不同なり。十八巻・四十三に云く「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり」と。十三巻・二十二に云く「又法華経に二事あり一には所開・二には能開」文。
二には権実の不同なり。三十巻に云く「設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず」文。その外体用等の不同あり。既に勝劣あり、何ぞ劣たる爾前経を読むべけんや。
猶また十六巻の「此の覚り起こりて後」という「覚」の字の意は、開会を覚悟する義なり。言く、如何様に覚るぞならば、十章抄に「開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり」と悟る義なり。故にこれまた勝劣あるの義なり。若し開会の後は権実一体にして一向不同なしといわば、「各自ら実と謂う」の執情を失わずして、即ち未開会の法にして今師の所破なり。また云く「行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり」というこの読誦し様は、十章抄に「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり乃至諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり」文。
この文に依ってこれを思うに、法華経の義を成立せんが為に爾前の経文を読む、故に法華の文を読むになるなり。爾前の文義は倶に読むに非ず。文は爾前、義意は法華経なり。「爾前は迹門の依義判文」という。また「文は爾前に在れども義は法華に在り」等の意、これを思え。
御書十三・十二に云く「此の経は相伝に有らざれば知り難し」文。また云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」文。
開会の上に於て体内権実の相伝を知らず、開会の後は権実一体の思いをなす者は、爾前経の利益を成ずべきなり。これ権実相対の意なり。これに例するに、開迹顕本の後は本迹一体と修行するは、体内本迹の相伝を知らず、開迹顕本の後は本迹一致の思いをなして本門を読むは、爾前・迹門の利益なり。
一、予が云く然らず文。この下は今師の能判なり。中に於て初めに略釈、次に「我等が本師」の下は広釈なり。三に「此等のをきての明鏡」の下は結帰なり。是にまた標・釈・結の三段なり。略釈の中に「然らず」とは、総じて諸宗を非する言なり。「金言をまほるべきなり」とは如説なり。修行は自ら仏法修行の言、これを思え。
一、我等が本師文。これより下は広く如説修行を明かす。初めに如説、次に「末法の今」の下は修行なり。初めの文にまた二。初めに在世の始終を挙げ、次に「此の経の序分」の下は勝劣浅深を判ずるに二。初めに経文を引き、二に「是より已後」の下は判談なり。初めに経を引く中に、初めに序分を引き、次に「然して後」の下は正宗を引くなり。
一、本師。
「本」の字、始めなりや旧なりや。玄七に云く「本師の十妙を摂得す」文。これ久遠の釈尊を指して「本師」というなり。久遠本因の釈迦、師匠の有無に異義あり云云。当抄の意は、滅後の宗祖を以て三世に望みて「本師・釈迦」というと、本化上行を以て久遠に望みて「本師・釈迦」というと重々の意あるべし。所詮、今日の師は本師に非ず。末師なるが故に、迹の師なるが故に云云。猶また蓮祖は今日出世あれども本師なり。迹に非ず、末に非ず、久遠最初の本師なり。余所の如し云云。
一、施権文。この「権」とは同体の権を以て衆生に施したまうなり。衆生これを受けて「各自ら実と謂う」の執をなす、故に異体の権というなり。仏意同体、機情異体なり。
一、開権文。この「権」とは異体の権なり。これを開して妙体と成さしむ。故に所開の権は異体の権なり。所顕の権は同体の権なり。
一、廃権文。権として論ずべきなし。議は廃に当る、故に異体の権を廃するなり。
問う、無量義経に三開会を明かすや。若し明かすといわば、彼の経に従一出多を明かして未だ従多帰一を明かさず、何ぞ開会の義あらんや。若し明かさずといわば、今の御文言、意を得難し。如何。
答う、序正相対の時は無量義経にこれを明かさず。三開会はこれ正宗の正意なるが故なり。これまた経の平面に約するなり。義意に約すれば三開会あり。三開会を説く所の序なるが故に、三開会を判じて妨げなし。また文に「以方便力・四十余年・未顕真実」という。四十余年方便を説くは豈施権に非ずや。方便を方便と説くは豈開権に非ずや。開廃倶時なるが故に廃権を論ずる事妨げなし。これ義分に約するなり。故に今の文に三開会を判じたまうなり。爾れども仏、分明に三開会を説き分けたまう事なしといえども、菩薩は上智の故に「以方便力」の一言を聞いて、三の開会と意得分け給うなり。二乗は智劣なるが故に、正宗に至って具に三開会を聞いて得解するなり云云。
一、法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに文。文の上は権実相対なり。元意は本迹相対なるべし。寿量品に「我実に成仏してより已来」文。迹門にて不成仏の法なる事、この経文に分明なり。十法界抄に云く「我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや」文。私に云く、未顕真実の爾前経を修行して成仏せずんば、未顕真実の迹門なるが故に迹門無得道義治定せり。故に文相は権実相対なれども、元意は本迹相対なる事、妄失すべからざる者なり。
一、末法の今の学者等文。この下は修行を明かすに二。初めに他宗の僻案を挙げ、次に「此等のをきて」の下は今師の修行なり。初めの文にまた二。初めに僻案を挙げ、二に「是くの如き」の下は経を引いて謗法堕獄を決定せり。今の一致門流の学者、本迹倶に法華経なるが故に皆得道あるべしと思いて、本迹一致と修行するは「此の経を毀謗する」人なり。「雖讃法華経、環死法華心」の故に、入阿鼻獄疑なき者なり。
次上二十四に云く「日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず若し此の経を謗せば義是れ十界の仏種を断ずるに当る是の人無間に於て決定して堕在す何ぞ出ずる期を得んや」文。この文言、本門の題目を以て此の経と為る御書の意なり。前後の御文体、往いて見よ。
一、難じて云く左様に文。この下は別して如説修行の相を明かす。即ち本迹相対の意なり。所謂天台過時の摂受の行を破して、末法折伏の修行を明かしたまう。これ像末相対の本迹なり。御書に云く「天台宗の過時の迹を破して候」「我等が読む所の迹門にては候はず」文。
問う、当流に於て五種の妙行ありや。
答う、題号の下の如し。猶中古の掟に云く「日蓮上人は方便寿量の両品を助行に用いたまうなり。文を見て両品を読むは読、さてそらに自我偈を誦し、今此三界の文を講じ、塔婆などに題目を書写するは受持等の五種の妙行と意得べきなり」文。「受持無行余行徒然」の故に受持の行肝心なり。末法今時の受持とは、本門の本尊たる題目の五字を信ずる義なり。釈に云く「信力の故に受け、念力の故に持つ」文。御義口伝下四十二に云く「五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親り之れ有り」文。同三十一に云く「末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏す可しと定むるなり」文。故に末法は但受持の一行なり。この受持の一行の中に余の四を具す。読誦とは南無妙法蓮華経と唱うる事なり。故に御義口伝上四十七に「読持此経の事。御義口伝に云く五種の修行の読誦と受持との二行なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは読なり此の経を持つは持なり此経とは題目の五字なり」云云文。
解説をいわば、御義口伝下十四に云く「末法に入つて説法とは南無妙法蓮華経なり今日蓮等の類いの説法是なり」云云文。また上四十八に云く「説とは南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類いは能須臾説の行者なり」云云文。
是等の御文言に依るに、末法当今は受持の一行の中に五種の行あるなり。熟益の五種の行を破して、種の家の五種の妙行を立つるなり。題号の下の経文等云云。
一、答えて云く文。答に二。初めに摂折二門の大旨を判じ、次に「されば末法・今の時」の下は、蓮祖、末法如説修行の人なることを明かすなり。初めにまた二。初めに標、次に正しく明かす。初めの標また二。初めに一切の経論二門を出でざるを明かし、次に諸学の不知を標す。次に「然るに摂受」の下は諸学の不知を破す。初めの正しく二門の大旨を明かすに二。初めに譬、次に「仏法も亦復」の下は法に合するなり。
一、春は花さき秋は菓なる文。これは因果の次第なり。春種子を下し秋菓を取るは種脱の次第なり。諸門徒の如く脱益の人法の本尊を信ずる者は、秋種子を下す類なり。「極寒の時は厚き衣は用なり」とは種脱の得益の不同なり。極寒の時は涼風あれども徳用なく、極熱の時は厚き衣はあれどもその用なし。正像二千年は小・権・迹の法、流布得益の時なり。法華経はあれども流布の時に非ず。末法の今は小・権・迹の法はあれども、流布得益の時に非ず。本門寿量の妙法、流布得益の時なり。次下、合法の文、これを思え。
また御書二十二・十に云く「末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」文云云。
一、純円・一実の法華経文。附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり。「純円」とは本尊抄に云く「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」文。私に云く、彼の記、往いて見よ。
一、されば末法・今の時文。この下は蓮祖は如説修行の人なることを明かすに二。初めに正しく明かし、二に「されば釈尊御入滅」の下は結す。文相の大旨は、日本国の諸人、誰か経文の如く行ずるや。日蓮は経文の如く修行する故に如説修行の人なりという意なり。経文の如く修行するが如説修行なり。
一、諸経は無得道文。これに付いて総破・別破あり。総破は文の如く「諸経は無得道」なり。無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず。終に無上菩提を成ずることを得ず」の文、方便品の「正直捨方便」等の文、「終に小乗を以って衆生を済度したまわず」等の文、「今此三界」已下の文、その証なり。
別破は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」といって破するなり。これ一往その便りに因んで名言を立つるなり。実には各々四ケの名言を蒙るなり。「念仏無間」なることは、三徳有縁の釈尊に背いて他方無縁の教主を崇むる故に、「其の人命終して阿鼻獄に入る」なり。これ則ち未顕真実の三部経を修行する故なり。無量義経に云く「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くなり。「亡国」なることは此土有縁の仏を捨てて、他方無縁の仏を信ずる故なり。譬えば日本国の王を捨てて、他国の王を尊敬するが如きなり。これその国を亡ぼす計りなり。
御書五十四に云く「法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする」等文。三十一巻・十五に云く「彼の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ、日本国は彼の二国のほろぼされんにあに此の国安穏なるべしや」文。三十五巻・四十一に云く「念仏宗と申すは亡国の悪法なり」文。安国論十四、十五に云云。
「天魔」なる事。十一巻・四十に云く「師は魔師、弟子は魔民、一切衆生其の教を信ずるは三途の主なり」文。また「国賊」なり。国を誑惑し、人を惑わし、娑婆に居して安楽の法を勧む。これ国民を誑惑するなり。故に国賊なり。
「禅天魔」の事。御書三十七・三十二に云く「此叉日蓮が私の言に非ず彼の宗の人人の云く教外別伝と云云、仏遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり」文。教外別伝の言、豈この科を脱れんや。已上文。
「無間」なる事。既に仏説にあり。故に「其の人命終して阿鼻獄に入る」なり。御書十二巻・二十三、二十四に大旨云云。
「亡国」なる事。御書十三・三十九、四十に云云。五巻十四に云く「禅宗は日本国に充満してすでに亡国とならんとはするなり」文。三十一巻・十四に云く「禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて乃至叉国賊なり」(取意)文。
「真言亡国」の事。五巻十九、二十四、その外の諸御書に云云。また無間の事、二十六巻四十九。天魔なる事、七巻十八、三十七・十に云云。国賊なる事、三十七巻九丁に云云。
「律国賊」の事。諸御書に云云。所詮、法華経に背けば無間地獄なり。入阿鼻獄の経文分明なり。またこの経を信ぜざる事は第六天の魔王の所以なり。経文には「悪鬼入其身」云云。
御書十六、兄弟抄に云く「亦経に云く正法治国邪法乱国」と云云。「正法」とは法華経なり。「邪法」とは爾前経なり。爾れば余経を信ずるは亡国の義なり。御義口伝下四十六。また爾前・今経勝劣なしと勧め、或は理同事勝、或は時機に叶わずと教えて国民を誑惑する、これ国賊なり。御書の大旨に依ってこれを示す云云。
玄八・三十二に云く「若し此の経に依らば則ち天下泰平ならん」。御義下四十六に引く。
一、音も惜まず文。宝塔品の「大音声を以って普く四衆に告げたまわく」の経文に合すべし。
一、天台大師。摂受の時、折伏あり。折伏の時、摂受あるなり。書三・四十九に云云。
一、九横の大難文。種脱相対なり。天台・伝教等は種熟の異なりなり。本迹・事理の不同なり。二十八巻に云く「天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難叉色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり」文。
一、哀なるかな等文。この下は結勧なり。第三巻終合せ見るべし。
一、一期を過ぐる事文。この下は誡勧なり。初めは誡門、「縦ひ頚をば」の下は勧門なり。「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」とは勧持品の「当に忍辱の鎧を著るべし」及び涌出品の「精進の鎧を被」の文の意なり。啓運抄三十九、九十に云く「瞋恚の劔をば忍辱の鎧之を防ぐ。懈怠の劔をば精進の劔之を防ぐ」文。今の御文言の意、当に精進の鎧を著て退する心なく、忍辱の鎧を著て恐るる心なかるべきなり云云。
一、南無妙法蓮華経。御書五・二十八、九に云く「南無妙法蓮華経乃至日蓮の御房」と。「南無日蓮聖人」等文。人法一箇の御本尊の事なり。今の文に「南無妙法蓮華経」は法、「釈迦・多宝」は人なり。「霊山」というは娑婆即寂光なり。
祖師御約束の事。
録外五・七に云く「相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし」文。「手をとり肩に引懸けて」等文。これ法師品の「即ち如来の肩に荷担せらるることを為ん」の文の意なり云云。
一、二聖・二天・十羅刹女等文。陀羅尼品の大旨なり。経に云く「焼香、幡蓋」文。
一、此の書御身を離さず常に御覧有る可く候。啓蒙・健抄の意は、縦い常にこの書を頚にかけ、懐中したりとも、この書の意を忘れて折伏修行せざれば「離さず」に非ず云云。
私に云く、常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。これ則ち身口意の三業に法華を信ずる人なり云云。 私見聞畢んぬ。
富山二十六世嗣法 大貮日寛在判