第十一回日蓮正宗法華講全国大会

 
正信会副議長 現状ならびに指導 佐々木 秀明御尊師

    正宗僧俗のあり方追究する運動


 本日は晴天に恵まれまして第十一回全国大会まことにおめでとうございます。また、遠方より参加された方、まことにご苦労さまでございます。

 第十一回という節目の大会ですので、今一度皆様と共々に、この覚醒運動の原点と意義を確認したいと思います。

 皆様方も十分ご承知のごとく、日蓮正宗は大聖人の正統を継いでおる唯一の宗派である、と自負する宗門でございます。ですからこの日蓮正宗に入信をして、他の人たちを折伏し、真面目に信心をすれば正しい生き方が分かり、誰でも成仏できるというふうになっておったんですけれども、入信して、もう一度正信覚醒をしなければならないんですから、ややこしいことになったです。実に情けないですけど、よく考えますと、此の運動は起こるべくして起こったと思うんです。

 日蓮正宗も、ここ数十年いろんな不自然なことがありました。一番の不自然な問題は学会と宗門の関係です。創価学会は日蓮正宗の信者の団体ですが、宗教法人をとり、「指導は私達がします。ご僧侶方は儀式をやって下さい」となったです。実に不自然な話ですが、甘んじてそれを受けなければしょうがなかったですね。強引な折伏もありましたが、なんといっても急激に信者さんが増え、本当に指導している暇もなく、御受戒、葬式、法事で僧侶は手いっぱいだったです。さあ、そのうちに段々おかしな指導がいきわたり、ついに昭和五十二年のような路線になってしまいました。そこで、我々はこれを契機に、創価学会の人たちに正信を取り戻してもらい、日蓮正宗の僧俗の本当のあり方を考えよう、ということが、この覚醒運動の中の大事な部分なんです。

 運動の原点は申すまでもなく、学会の謗法ですが、ずいぶん時間が経ち、学会員さんの所へ折伏に行きましても、謗法はなかった、あったが反省している、といわれると、折伏する方が学会の謗法を忘れてしまい、帰ってきて、なにしに行ったのかなあ、というようなことが多いんです。もう一回、何が原点でこの運動が始まったかということを考えなければいけません。

 大聖人は「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるがごとくなるべし」と仰せられています。

 要するに、日蓮正宗は謗法厳誡の宗なんです。

創価学会の謗法の再確認が必要

日達上人も「白烏の恩を黒烏に報じるのである。今まで創価学会は大石寺に尽くしてくれた。寺も作った。しかし謗法があったら成仏できないから、その謗法を責めることが恩返しになるんだ。だから大いにやりなさい」といわれました。大聖人の御書をひもとき、また日達上人の仰せが理にかなっているということで、我々はこの運動を始めたですね。

 学会にどういう謗法があったかをもう一度確認しますと、まず本尊模刻。それから池田大作さんが「本門弘通の大導師である」、「池田先生に帰命しよう」ー帰命というのは仏様にすることです。それから「お寺というのは儀式の場所、創価学会の会館こそが広宣流布の場である」。これはどう考えても、日興上人が身延を離山された当時の、波木井さんの謗法より遙かにはっきりした謗法ですから、我々はそれを責めました。これだけの謗法も、反省すればその罪は滅するのです。我々僧侶がだらしなくて、創価学会をあそこまで追い込んだといういうふうにだっていえないことはないのですから。仏法には、大罪でも真の懺悔があれば罪は滅し、小罪でも懺悔がなければ罪は消えない、という方程式があるんです。そしてこの運動が進み、さすがの創価学会も「教学上の基本問題」の発表とか、昭和五十三年十一月七日には「お詫び登山」なんてことをしましたから、まあ少しは反省しているな、と思ったですね。

 ところが、山崎正友さんの裁判に池田大作さんが証人で出た時、“私は今まで間違ったことはやっておりません。あの『恩師の二十三回忌に思う』での懺悔も、正信会とか称する輩がうるさいから、ぜひこういうことをいってくれと宗門にいわれたからやった”といってるんですよ。一つも懺悔がなかった。まことに池田大作さんは恥を知らない人です。この人を阿部日顕さんは「広宣流布の上に必要な人」といってるのです。もう大聖人の精神は、大石寺には何一つありません。今この時、擯斥をものともせず、二百名近い僧侶が日蓮正宗はかくあるべきであるというふうに頑張っておる正義のその念に、皆様方も心を合わせて、なお一層の精進を誓い合おうではありませんか。

 我々が得度する時に、時の猊下が出家功徳御書を拝読されて我々に教えて下さいます。その時、まずい僧侶でもまあまあ一生袈裟衣をかけたら、大聖人は「某も祝著たるべし」ー喜んであげよう、と。そのあとに「況や能き僧にて候はんをや」ーまして立派な僧侶となれば大変な功徳ですよ、ということがあるです。その一言に我々は精進をかけておるわけですから、その意味で僧侶を信用していただいて、各の末寺のご住職と一心になって、この運動を推進してもらいたいと思います。

   宗門裁判の現況について

次に裁判の経過でございますが、我々は毎度、いろんな大会の席で、この宗門裁判は長引けば有利になるということをいってきたつもりです。何といっても創価学会は大きいです。それが金に糸目をつけずにワーッと裁判所に押し寄せてきますから、裁判所も学会の主張が本当だろう、宗制宗規に則って、正信会の僧侶は寺を明け渡せ、ということになるのですね。それが東京の妙真寺さんの一審判決です。これを不服として控訴した結果、東京高裁では、今度は違った判決が出ました。“日蓮正宗を二分して争っている宗教教義上の問題だから、これを裁判で云々することは出来ない。安易に国家の判定を仰ぐべきではない”という判決が出たんです。何はともあれ寺院でご奉公が続けられるのですから、よかったです。

 さて、昭和五十九年九月二十八日の大阪、蓮華寺さんの地裁判決でも、宗門側の主張が通って久保川法章尊師が敗訴したですが、それを不服として大阪高裁に控訴したです。その判決がこの五月六日に出ました。おおむね妙真寺さんの高裁判決と同じで、宗教上の問題ということで一審の明け渡し判決が取り消されました。

 これで勝利したわけではありませんが、久保川尊師は当面、蓮華寺を明け渡す必要がなくなりました。所属の信者の皆さん方、今まで不都合な面がいっぱいあったと思いますが、これを契機に一層の精進をお願いする次第です。

   法律的な判決を避けた高裁判決

この大阪高裁の判決に対して、五月七日付の聖教新聞では次のように報じています。

 「今回の判決は信仰上の対立に起因した処分については国家権力たる裁判所は一切関知しない、との理由で、双方の訴えを却下したものである。いずれにせよ、日蓮正宗における正邪の判定は極めて明確である。この日の判決によって、久保川がもはや日蓮正宗内においていかなる資格も有していないことが、法律上からもより明確になったわけである」なにが明確になったんですか。裁判所は宗教上の問題だから法律で判定できず、訴えを却下したといってるんですよ。学会はいつまでこういうウソをいってるんですか。これがかって皆さん方のおったところです。その中に、まだまだ沢山の同志がおる。早くいえば身内のケンカです。夫婦ゲンカをしていて他のケンカがおさめられますか。まず、そういう人を正信に目覚めさせて、そして広宣流布のために他宗をも折伏していくのが日蓮正宗の心意気というものです。

 さて、現在、大量処分の裁判が東京を中心に行われております。東京中心というよりも、地方では問題が大きすぎて審理がはかどらない状態で、東京一本に絞られてきており、最近では宗門側証人として早瀬義寛庶務部長が出廷しました。この人が変なことを言い出してるんですね。

 昭和六十年十二月五日、早瀬庶務部長に対する尋問が終わろうとする時に、裁判官が直接証人に問いただしたです。どういう質問をしたかといいますと、宗制宗規第十四条三項に「法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する」という箇所があります。この点について裁判官が早瀬証人に”ということは法主も普通の人ですから、急に亡くなられた時に、その御三方が協議をして法主をお決めになるんですね”と確認したところ、早瀬証人は、“そういう箇所はあるにはありますが、法主が相承をしないで亡くなるということは絶対ないんです。もしそういうことがあると日蓮正宗はなくなるんです”といっているんですよ。

日蓮大聖人の仏法は三世常住

 裁判官は、おかしいなあ、という顔をしたです。それはおかしいでしょう。何のために法主の選定という条項を宗規にとどめ置いてあるのでしょうか。それは、宗教上の血脈とは次元の異なる問題であって、日蓮正宗という団体の中で法主を決めるルールとして定められているのです。ならば宗教上の血脈については、大聖人はどうおしゃているかと申しますと「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし」「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり」ー三世常住だとおしゃってるじゃありませんか。

 大聖人の仏法は勝手に法主を名乗る人の都合でどうかなることは絶対にありません。日顕さんは宗制宗規の手続きをまったく無視しているのに、宗門は裁判でも何とかその場をとりつくろおうとしているんです。日蓮正宗も地に堕ちたもんです。

 さて、この運動も、もう十年近く経ち、いろんな人が出たですね。創価学会は上意下達の組織でしたが、正信法華講は違います。ですからいろんなことをいい、講中で具合が悪くなっている人が沢山おるんです。我々も反省し、なんとしても真面目な人がバカを見ない組織となるよう考えていかなければならないと思います。

 日有上人化儀抄第四に「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是を即身成仏と言ふなり」とあります。

 この箇所は僧侶に残し置かれたものです。師匠を選ぶなら、しっかりした師匠を選びなさい、と。いい師匠にめぐりあえ、弟子となった場合、その師匠も立派な弟子ができたのだから、恥ずかしくないようによく精進し、師弟子ともども修行していくところに成仏の境界があるーこれが日蓮正宗です。 信者さんと僧侶にも、これはあてはまりますね。我々の方にもいろいろと反省しなければならないことが沢山あると思います。それは大いに反省していきます。正信会の僧侶は、少なくとも正信覚醒運動をやろうという精神のある、正義感のある僧侶だと思いますし、いろいろデイスカッションをしてやっていきますから、皆さん方も、どうぞこの正信会僧侶を信用されて、なお一層の精進をお願い申し上げる次第でございます。

   

     

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