第十七回法華講全国大会

 
        正信覚醒運動を振り返って   正信会副議長 近藤済道師

 謗法厳誡・護法の赤誠貫いた十五年

  祖道の恢復願いさらに信行増進を

 第十七回法華講全国大会、まことにおめでとうございます。

 本日は、昭和五十二年に端を発した正信覚醒運動の十五年の歩みを振り返ってみたいと思います。 もともと正信覚醒運動は、「長い間において学会が宗門の法義の上において間違ってきてしまった。それを指摘して、なんとか直して昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい。昭和三十八、九年の頃から、もうすでに十六、七年に及ぶその間に、積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといってもなかなかできない」との先師日達上人のお言葉に象徴されると思います。 日昇上人、日淳上人、日達上人と、歴代の猊下が、創価学会の自主的活動を温かく見守られたにもかかわらず、学会は徐々に信徒団体から逸脱していきました。特に、三代会長池田氏の代にいたって、学会は会長本仏論や王仏冥合論に代表されるように、意図的に本宗の教義を歪め、最終的に、五十二年路線において創価教・池田教として独立することを目論んだため、これを指弾し、教義の是正、謗法糾弾運動として出発したのが正信覚醒運動であります。

 当時、活動家僧侶といわれた私たちは、あらゆる機会をとらえて謗法是正を訴え、これに呼応した檀徒の皆さまとともに、僧俗一体となって護法の赤誠に努め、本尊模刻の大謗法を始め、政教分離違反、盗聴事件などの社会的不正も厳しく糾弾してきました。その結果、無反省だった池田氏も五十四年四月二十二日、ついに総講頭職を引責辞任、次いで二日後に学会会長を辞任しました。

   池田氏に諂った宗門

 ところが、同年七月二十二日に、正信覚醒運動を支持された日達上人がご遷化されると、反省はポーズにすぎなかった池田氏は、たちまちに復権を画策し、私たち正信の僧俗への復讐に手をつけました。そしてその池田氏の無慚無愧にいっそうの拍車をかけたのが阿部日顕師だったのです。

 先ず阿部師は、昭和五十五年四月六日の代替わり法要において、「(池田氏の昭和五十五年四月二日付け聖教掲載の所感について)私はこれをまことに誠意と勇気に充ちた、また深い信心を根本とする仏祖三宝への懺悔と受けとめるものであります」「(池田氏および創価学会は)将来の世界に渉る広宣流布の為、大いに必要な団体であり、人物であると私は信ずるのであります」と持ち上げ表舞台に正式に復活させました。と同時に、総講頭辞任勧告を突きつけた法華講連合会役員全員を辞任に追い込みました。

さらには、創価学会および池田氏を批判するなら、第五回檀徒大会の本山での開催は許さないとの命令を出したのです。この時、私たちは今後予想される宗・創一体の弾圧に対して、一蓮托生で護法の運動をやりぬこう、正信覚醒に当たろうと覚悟を決め、正式に正信会を発足したのです。五十五年七月四日、総本山大石寺蓮東坊でのことでした。その後、事態は予想どおり進み、第五回大会の中止命令が出され、宗務院の意向に反するならば厳重処分するとの院達が発せられました。

しかし、同年八月二十四日、創価学会の妨害、宗門の処分をちらつかせて執拗な脅迫にもかかわらず、僧侶百八十七名、壇信徒約一万三千名の出席をもって正信僧俗は、日本武道館で第五回全国檀徒大会を開催したのです。大会の大成功によって、正信覚醒運動はますます盛んになりました。怒り狂った池田氏は、阿部師を傀儡して処分を断行させ、先ず現正信会議長を始めとする五師を住職罷免処分としました。しかも宗規によって、誰人も採決には異議の申し立てができない、宗門の裁判所である監正会の処分無効の採決を強引に無視したのです。

 その後は、昭和五十六年六月十六日に行われた岡山県玉野の法命寺落慶入仏式のお目通りの時の 阿部師の発言、

「皆さん、正信会の連中が目障りでしょうがもう少し待ってください。今度私がアメリカに行きますが、その際池田先生とよく話しあって全て決めてきます」が示すとおり、正信会僧侶百七十九名全員の擯斥処分が次々と断行され、実に宗門僧侶の三分の一が追放されたのです。その結果、処分問題は司直の手すなわち裁判の俎上に上ることになりました。

 正信会関係の裁判は、平成元年三月二十三日の東京地裁の敗訴に連動してか、初期は各地裁とも敗訴の連続でした。「寺を明け渡さなくてはならないかもしれない」との不安が、私たちに容赦なく襲いかかってきたのです。この時私たちは、裁判は専門家たる弁護士の先生方にお任せし、信仰的には「試練は私たちをより強く、より逞しく、より大きくするために大聖人がお与え下さっているものと受け止め、この試練に、立ち向かっていこう」との議長指導を合い言葉にして精進努力いたしました。その一環として「継命新聞」で、池田創価学会の謗法と悪しき金権体質、公明党との政教分離違反などを、大々的にキャンペーンし、一般学会員はもとより創価大学0B、議員、有識者等の人々に、地道ながら粘り強よく訴える運動を展開しました。この赤誠が仏天に通じたのか、平成元年九月八日、敗訴判決の流れを大きく変える最高裁判決が下り、「寺を明け渡す」との危機は一応ぬぐい去ることができたのです。

しかし、先の最高裁判決は、大量処分事件や、先行五人の裁判とは事件の性質が異なるため、決して安心はできません。それゆえ今後とも、油断なく見守っていかなければならないと思っています。

野望挫いた正信僧俗

さて、大石寺開山七百年に当たる平成二年を迎えるや、あれほど蜜月を誇った謗法者池田氏と謗法与同者たる阿部師との間に不協和音が聞こえ始めました。私たちは、平成二年を前に池田氏が本門寺改称の野望をもっていることを察知し、もしこのことを許したならば、宗開両祖に申し訳が立たないとの危機感から、平成二年三月十一日、大石寺への抗議登山を実施いたしました。その折、

「日顕師は即刻辞職せよ」

「池田氏の総講頭職を解任せよ」

「富士の伝統法門を改変するな」


との三項目の要求を突きつけるとともに「我等の忠言を軽んじて侮るならば必ず仏天の御罰を被るであろう」と諌言したのです。五日後、阿部宗門は本門寺改称を公式に否定しました。

 思うに、大石寺開山七百年、学会創立六十周年、自らの会長就任三十周年のこの年に、池田氏は、なんとしてもこの野望を達成したかったのです。しかし阿部師は、まさか池田氏が大石寺の伝統法門まで破ることはあるまいとタカをくくり、適当に相づちを打っていたのでしょう。ところが、いよいよその年となり、池田氏の本門寺改称計画が本気であることに気づいた阿部師は、いかにも正信会に答えるかのような形で、実には、池田氏に対し本門寺改称などありうるはずがないと否定したのでしょう。

これに対して池田氏が「約束が違うではないか、人をさんざん利用しやがって」と怒ったのが、今回の紛争の発端、目にみえない真実ではなかろうかと私は思っております。

 いずれにせよ、私たちの護法の声は、王室外交等あらゆる手段を講じて不開の門を通り、末代まで自分の名を残さんとした池田氏の野望を粉砕したのであります。そしてこの時、私たちは、信仰の故郷ともいうべき大石寺の現状を目の当たりにして、運動初期からの方針であった「富士の清流を取り戻す」との方針を、より長期的展望に立った「富士の清流を厳護する」との方針に変更しました。その上で、御開山日興上人の身延離山のご精神と謗法厳誡の遺誡をあらためて僧俗ともに銘記し、もって大石寺開山七百年の佳節にお応えしたのです。

 平成二年十一月十六日、池田氏は、本部幹部会の席上、自ら阿部師への報復攻撃を行い、「破門も辞さず」との覚悟で、五十二年路線の完全復活を開始しました。宗門への逆質問から始まって、怪文書「地涌」の発刊、「聖教新聞」「創価新報」そして「中外日報」を使っての僧侶および寺族のスキャンダル暴露や中傷、阿部師の退座要求署名、儀典部を設けての冠婚葬祭の実施、嫌がらせとしかいいようのない裁判攻撃、金権を用いての宗内 乱と離脱僧侶による徹底した阿部師への攻撃等々、その戦略は、日蓮正宗を潰し、一宗一派の在家教団を確立することにあるようです。

これに対し阿部宗門は、任期制を導入しての事実上の総講頭・大講頭の解任、池田氏への謝罪要求書、SG1すなわち海外の指導権の剥奪、創価学会による団体登山の廃止、新設の末寺経由の添書登山実施、信徒団体の解散勧告そして破門通告と、対抗措置を取り、もはや双方の関係は、二度と修復がかなわぬ状態に入ったことは、皆さまご存じのとおりです。

 いま、あらためて正信覚醒運動の十五年を振り返ってみるに、私たちのメインテーマである「護法」の意義を常に心に銘記しつつ、毎年「正信・躍進・実践・求道・弘通」等の年間テーマを掲げ、唱題、折伏、法燈相続、人材育成、御講参詣等を織り込んだ活動方針を設けて運動を展開してまいりました。その振幅は、五十二年当初から、第五回武道館大会の前後が最盛期で、第八回大阪大会頃まではまだ順調でしたが、それ以後は一進一退を繰り返しているというのが率直な状況ではないでしょうか。

また平成二年以前は、敗訴続きの裁判の影響もあって、精神的にも辛く苦しい時期でした。しかし、この十五年の間に、北は北海道から南は沖縄まで、実に三十数ヵ寺もの布教所の建立・開所を成し遂げてきたのです。なんと素晴らしいことではありませんか。残念ながら五ヵ寺ほどの離脱もありました。

しかしその一方で、「明日の判決によっては寺を明け渡さなければならない」との苦しく辛い逆風のさなか、また創価学会によるいわれのない悪口中傷誹謗の中で、それぞれの地域で正信の僧俗が智恵をしぼり、真心の浄財を以って、富士の清流たる清らかな法水を汲むことのできる、正信の修行道場を三十数ヵ寺も建立・開所したのです。それぞれの地で任に当たった僧俗の努力は大変なものであったでしょう。しかしこの事実は、正信覚醒運動の歴史に、さんぜんと輝く金字塔として後世に伝えられ、後日、霊山浄土にて宗開両祖にご面談の折り、必ずお褒めをいただけるものと確信します。

 次に私たちは、この運動のさなか後継者の育成にも努めてまいりました。布教の拠点・修行の道場を開いても、僧がいなくては三事がそろいません。そこで、中部・三重両教区のご住職方の協力を得て、岐阜県の天奏寺で沙弥・行学講習会を開催して、その育成に努めてきました。そして今や、その講習会卒業生が一人前の僧侶となり、新鋭の講座説法を修し、覚醒運動の第一線でご奉公に励むまでになっていることは「継命新聞」の報道でご承知のとおりです。また、所化小僧育成に関しては、正信会員たる各ご住職より真心の寄付をいただき、高校生・大学生を対象として、それこそ雀の涙ほどですが、支援する制度も設け実施しております。

 しかし、創価学会の思想を払拭して真の興門教学の研鑽ならびに復興・正信会の機構整備・無風地区への布教等、まだまだしなくてはならないことが山積しています。今後、各教区の意見を委員会で充分に審議、検討して種々の施策を押し進めていきたいと考えております。

唱題・折伏に努力を

今、現状を直視するに、池田創価学会は一宗一派への独立の道を選び、池田教へと突き進んでいます。その一環として学会員の眼を日蓮正宗の宗史の根本からそらすため、経文の観念文を改竄し、「本門戒壇の大御本尊」との名目を削除してしまいました。一方、阿部宗門は、法義是正の心なきまま、あいも変わらず貫主の権威・権力によって信徒の獲得を図っており、怖れおおくも戒壇の大御本尊様まで、檀徒作りの道具とするという不敬をしています。

 正信会は、日興上人の身延離山のご精神を常に奉戴し、五十二年以前から一貫して池田学会の謗法を声を大に破折してまいりました。また宗・創一体なる時も、ひたすら宗・創の謗法を呵責してまいりました。そして今、宗・創がともに不敬を犯し、次元の低い争いを展開しているのを眼前にみる時、正信会こそが富士の本流であるとの自覚をさらに強くし、法義を先づ第一と立て、是々非々を見極めつつ、唱題に励み、もって正信の修行たる折伏に邁進することを、本大会を契機に決意しょうではありませんか。

 皆さん、本日の大会を単なる打ち上げ花火で終えてしまうか、それとも来年の全国大会までの道程とするかは、私たち僧侶はもちろん、ひとえに皆さまの発心と実践にかかっているのです。大丈夫ですね。ともどもに頑張ってまいりましょう。

(文責編集部・掲載の都合上、副議長の了承を得て要約させていただきました)    

     

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