第十二回日蓮正宗法華講全国大会

 
  正信会議長指導   渡辺広済御尊師

本日、この札幌市民会館において第十二回全国法華講大会を開催し、全国の代表の皆さまに親しくお会いできましたことを心よりありがたく存じます。まず本日の大会のお祝いをのべさせていただきます。全国法華講代表の皆さま、本当におめでとうございます。

 さて、今年度は、正信覚醒運動が開始されてより十年というひとつの節目の年であります。この運動がともかくにも、十年を迎えられましたのは、御本尊のご加護、そして先師日達上人の深いご慈悲があってのことは当然ですが、内藤国夫氏をはじめとするジャーナリストの方々、マスコミ関係者各位のご協力、そして小見山先生をはじめとする正信会弁護団の諸先生方のお力添えのあったがゆえであると深く感謝の意を表すものであります。皆さま、本当にありがとうございました。

「護法」の使命胸にさらに運動を推進

十年とひと口に申しますが、昭和五十三年に本格的な火蓋を切った覚醒運動の中で私たちは、いろいろな体験、経験を味わいました。人の心の暖かさを知りましたし、また、裏切りの冷たさも知りました。僧侶各自の道念と信念、そして法華講員の皆さまの信心で起こした運動でありますが、途中で挫折した人、考え方の違ってしまった人もかなりの数にのぼります。反対に、この十年の間に大勢の人々がこの運動の正当性を認め、法華講に入講されて、本日初めて大会に参加されている方々もおられます。今後も幾多の試練、そして困難が私たちの前に立ちふさがるものと思いますが、大聖人の仏法を正しく護りぬいていくのは我々しかない、との強い自負心と責任感をもって、なおいっそう運動を推進していこうではありませんか。

 さて、今年度の方針とテーマは、昨年と同じ「実践」。そして「真剣な唱題で折伏を」、「青年を育成し法燈相続を」ということです。今年年頭には、各ご住職、ご主管よりそれぞれの講中に発表、ご説明があり、皆さまはよくご理解の上、ご精進されていると思います。「唱題、折伏、法燈相続」、いいふるされた言葉ではありますが、我が日蓮正宗における信心修行のすべてがこの中に含まれているのです。

 大聖人の仏法は信じて行ずる以外にありません。しっかりと唱題し、その唱題で得た自信と勇気で折伏に励み、一度しかない今世を大切に生きぬく、その姿を子供に教えることによって真の法燈相続ができていくのです。別にむずかしいことを考える必要はありません。「夫(それ)信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝、十方の諸仏菩薩、諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」(全集一二五五ページ)

と、妙一尼御前御返事に大聖人はご教示遊ばされています。親が子を可愛いと思うことは理屈ではありません。また、同様に幼な子が母のあとを追うのも理屈ではありません。それと同じで、御本尊を信じ、大聖人を信ずること自体は理屈ではありません。御本尊はありがたい。大聖人はありがたい。これが、「信を入れ奉りて」と仰せのことであります。そしてその心をもって南無妙法蓮華経と唱え奉るのを唱題というのです。その信心の上にたった唱題行があれば、「信心のこころ全(まった)ければ平等大慧の智水乾(かわ)く事なし」(全集一〇七二ページ)という秋元御書に仰せのごとき生き方ができるのであります。

「信」をおろそかにしていた三位房

信心がない唱題、間違った信心での唱題、これらはどれだけ数多くの唱題をしたところでまったく無駄なことであります。大聖人のお弟子の中に三位(さんみ)房という方がいました。この方はなかなか才気のある弁説巧みな有能な方であったようですが、一番大事な信心がなかった。そこで、比叡山に留学中、京都の公家さんたちを前にして説法したことが嬉しくて仕方がなく、大聖人に大得意でご報告申しあげたところ、大聖人は非常にご立腹になられ、「ねずみがかわほりになりたるやうに、鳥にもあらずねずみにもあらず、田舎法師にもあらず京法師にもにず、せう房がやうになりぬとをぼゆ」(全集一二六八ページ)とお叱り遊ばされています。

なぜここまでお腹立ちになられたのかと申しますれば、京の公家(くげ)さんに説法することそれ自体は立派だし、ありがたいのです。しかし、三位房は、法を説いたことよりも、相手が公家さんであることを自慢し、そのことを喜んだ。これは信心ではありません。相手の身分や地位によって己れの身分や地位が変ると思っている、その根性を厳しくお叱りになられたのです。「其の上日本秋津嶋は四州の輪王(りんのう)の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし、長なんどにつかへん者どもに召されたり上(かみ)なんどかく上(うえ)、面目なんど申すは、旁(かたがた)せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか」(同ページ)と三位房の考え方の浅ましさを指摘遊ばされています。公家によばれたからといってノコノコと出かける馬鹿者め、その上相手のことをお上(かみ)などと書く不埒者(ふらちもの)、そこで少々の説法をして面目が立ったと思うのか、それこそこの日蓮をいやしむ以外の何者でもない。まさに徹底的に三位房は叱られています。

 現在もこれによく似た人がおられます。どこそかの国の勲章をもらったとか、キッシンジャー博士と会って話し合いをしたとか、松下幸之助氏と手紙のやりとりがあったとか。それでご自分が偉くなったと思いこんで宣伝させています。当宗ではこういう人を恥さらし者というのです。三位房は説法をしただけまだましです。勲章をもらって喜んでいたんじゃ話にも絵にもなりません。松下さんを折伏したというのなら立派なものですが、そういう話はまったく聞きません。学会員の中にもシラけた気持ちで殿のご乱心を見ている人もかなりいるようです。一時は創価学会内で強かった「会長本仏論」も、現在ではすっかり色あせてきました。

今から十四年前、「最近ある所では新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません」と、日達上人を嘆かせ奉った「池田先生は仏様」というところから、表面的にではありますが、どうにか創価学会は脱け出しつつあるようです。昨今、池田さんを本当に仏様と思っている人はあまりいないでしょう。そういう意味では大いに結構ですし、私たちの主張がかなり通じたといえます。しかし、池田さんが仏様から降りた分、今度は坊さんたちを巻きこんで僧俗結託して大聖人をいやしめていることも事実であります。中でも一番いけないのは、ご先師が書写遊ばされた御本尊を半強制的に交換させている点であります。

 日達上人は全宗門人、そして正宗の信徒全員が間違いなく血脈付法の猊下と信じ奉り、ご書写の御本尊は戒壇の大御本尊のお写しであると信じてまいりました。これに対して阿部日顕師には、正信会の全僧侶、そして所属の全信徒はもちろん、宗門側の僧侶や信徒の中にも、御本尊を書写できる立場かどうかを疑っている人もいるのです。その人が書いた御本尊と称するものを、間違いのない御先師がお認(したた)めになった御本尊が古くなったからとか、もう亡くなった猊下の御本尊は功徳がない等の勝手な理屈をもって、組織の力で半強制的に取りかえることは、言語道断であります。これひとつみても、宗創が一体となって謗法を犯していることは間違いありません。

正法正義を受持するのはわれら僧俗

私たちは幸いなことに、大聖人の仏法を正しく信ずるとともに、正しい御本尊を頂いて信心しているのですから、真剣に唱題していけば必ず折伏はできます。今年はまだ七カ月以上残されています。僧俗心をひとつにして大いに折伏行に励もうではありませんか。三位房とそっくりな人に負けていたのでは、大聖人からお叱りをこうむります。折伏は難しい、たしかにそうでしょう。信心でも難しく考えていけば難しいものです。

しかし、先ほどの、妙一尼御前御返事のように、親が子を思い、子が母親を慕う心さえ持てば、信心は強くなるし、折伏も必ずできるのです。「本山にいけない」、「猊下がいない」とつまらぬことで悩んで学会を脱けられない人が沢山おります。そうした人々が安心して脱会し、正しい信心をして行くためには、まず私たちが、確固たる正義の自信を持つことであります。大聖人は顕仏未来記に、「我が言は大慢に似たれども仏記を扶(たす)け如来の実語を顕わさんが為なり」(全集五〇七ページ)と仰せです。

「正しい信心は正信会にしかない」といい切ることを慢心と見る人があるかも知れませんが、大聖人の仏法を広めるためには、これくらいの自信がなくてはいけません。「されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか」(全集二八九ページ)と撰時抄では仰せであります。勝れたものを勝れているといい、正しいものを正しいと声を大にしていうことが大功徳であるとのご金言です。そして、「これおごれるにはあらず正法を惜しむ心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり」(全集九五七ページ)と佐渡御書に仰せです。私たちは正しいんだとの信念と勇気を持って自行化他の信心に励んで頂きたいと思います。

法燈相続 各人がまず手本たれ

また、折伏と同じく忘れてならないのが法燈相続です。折伏が仏教用語をひねくりまわすだけではできないように法燈相続もまた理屈だけではいかんともしがたいものです。十界互具がどうのと難しい仏教用語を使う父親が、仕事はなまける、昼酒は飲む、同じように一念三千の大好きな母親が、家事はしない、パチンコはする、となれば子供は一念三千も十界互具も大嫌いになってしまいます。大聖人の教えの要は「一度きりの今世をしっかりと真剣に生きて、命を大切に清々しい人生を送って、死んだら霊山へこい」ということですから、その通りにすればいいんです。一念三千も十界互具も、色心の二法もすべて生き方と死に方を教てくださっているのです。

ですから、それを身に帯して生きていくことが信心です。信心を学問と混同してはいけません。「なるほどなあ」と子供が納得する信心、納得する生き方をしていけば、子供は放っておいても自分から信心するようになります。「初心の行者其(そ)の心を知らざれども而も文を行ずるに自然に意に当るなり」(全集三四二ページ)と四信五品抄に、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(全集一二四四ページ)と日女御前御返事に仰せではありませんか。

「信」を根本にした実践にとりくもう

学問もなく、大聖人のお顔も存知あげず、御本尊を頂くこともなかった熱原の神四郎、弥五郎、弥六郎を熱原三烈士と称え、信心のかがみとするのは実にこうしたことからなのです。最も大切なのは信の一字であります。これを以信得入というのであって、理屈のみでは信心とはなりませんし、法燈相続もできません。だからといって、私は信があれば行も学も不要と申しているのではありません。信行学はどれも大切でありますが「行学は信心よりおこるべく候」(全集一三六一ページ)との諸法実相抄のご金言をよくよく拝して頂きたいと思います。信心のない修行も、信心のない学問も大聖人はお好みではありません。

また、机の上だけで学び、論ずることもお心に反すると私は思っています。「末法に入って今日蓮が唱える所の題目は前代に異り自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(三大秘法抄、全集一〇二二ページ)と仰せのように、大聖人の仏法は「実践」が第一です。口だけではなく身で励むことが大切です。ここは札幌「男は黙ってサッポロビール」です。

 この十年を振り返る時、さまざまなできごとが思い出されます。また、まったく悔いがない十年間であったといえば嘘になるでしょう。しかし、僧侶として、信者は信者としてやるべきことをまがりなりにもやりぬいてきました。それがなによりの誇りです。そして、その自負心で足場を固め、明日よりは次の十年の節目にむかって前進あるのみです。一日、一日を大切に生きて、信心堅固に十年をつ重ねた時のおたがいの成長を楽しみに、頑張っていこうではありませんか。

 来年度の第十三回全国大会は、神戸での開催を予定しています。今日の大会よりさらに充実していくためにも、それぞれが明日よりしっかり団結していきましょう。



     

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