第十三回日蓮正宗法華講全国大会

 
   正信会議長  渡辺広済御尊師 指導

本日、ここに神戸ポートアイランドにおいて正信会僧侶百五十四名と全国各末寺、布教所の所属法華講員の代表七千名が集い、第十三回日蓮正宗法華講全国大会が盛大に開催されましたことを、ともどもに喜び合いたいと思います。

 全国の皆様、本日はおめでとうございます。

 遠くは韓国、台湾、そして北は北海道、南は沖縄の地より代表の方々がかけつけられています。地元僧俗を代表し、また、正信会を代表いたしまして、遠来の皆様に心より歓迎の意を表します。遠方より本当にご苦労さまでした。

 また、先ほど祝辞をいただきました正信会弁護団団長小宮山先生、同じく弁護士の片井先生にはお忙しい中をご来賓としてご主席をいただきました。本日の参加者を代表して厚く御礼を申しあげます。ありがとうございました。さらにジャーナリストとして、特に創価学会ウオッチヤーとしてご活躍中の内藤国夫先生にもご多忙の中をこの会場までお運びをいただき、拙い私たちの大会をご覧いただきましたことは、実にありがたく、深く感謝し御礼を申しあげます。ありがとうございました。

strong>求道とは己の分際を知ること

さて、今年度の私たちの修行のテーマは「求道」であります。この求道の姿勢を最も端的に大聖人さまが私たちに教えてくださっているのが兄弟抄の一節であります。

 「設ひ、いかなるわずらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(全集一〇八八ページ)とのご金言こそ求道のあり方なのです。

 私たちが生きているこの世界はわずらわしき世界であります。次から次へと悩みや苦しみが起きてきます。大聖人も、「善からんは不思議、悪からんは一定とおもへ」と仰せでありますが、この世界において安穏、安楽を求めても、所詮はかなわぬことです。また、反対にどんな苦しみや悩みであっても百年続くことはありません。それを心して、他のことに心を奪われることなく、ただただ、法華経、すなわち御本尊への信仰を深めることだけを考えていきなさい、と仰せなのです。

 わずらわしいことが起きる、それに心をとられる、そのわずらわしいことをなんとかしょうとして、次の手を打ち、そこにまた、苦しみや悩みが起きてくる、こうして私たちは道に迷っていくのです。昔の人の歌に、「誰とても 知らぬわけでは なけれども 知りつつ道を ふみ迷ふかな」というのがありますが、こうした人間の弱さを大聖人は御歌に残されまして、「おのづから よこしまに降る雨はあらじ 風こそ夜の 窓をうつらめ」(全集一四八六ページ)とお詠みになられました。

 誰しも、曲がって生きようとは思いません。みんなまっすぐに生きようとするのですが、娑婆に生きるという事実、現実を忘れてしまうがゆえに、楽をしたい、人よりも良い物を着たい、立派な家に住みたい、高級車に乗りたいと次から次へと煩悩が湧いてくる。そして遂には道を誤っていくのです。

 およそ人には分際というものがあります。この分を知るということが信心の上ではまことに大切なのであって、分際以上のことをしょうとすれば、必ず苦しみや悩みとなっていく、そして最後には仏さまからお叱りをいただくという結果になってしまうのです。

 求道とは、私たちの一人一人が信心を深め、強めていくために、あえて苦しい修行でもいとわずにやっていく、その姿勢を示す言葉ですが、また一面、自分自身を見つめるという意味もあります。自分を見つめることは、分際を知るということです。この分際を知りますと、次になにをすべきかがわかってきます。お金がない、貧乏だ、という人が、いくら金が欲しい、金が欲しいと朝から晩までつぶやいていても、お金は入ってきません。そして、そういう人は往々にして、他人にお金が入ることをうらやましがったり、悔しがったりするものです。ですから余計貧乏になる。お金が無いだけでなく、心までが貧しくなっていくのです。

 仏教説話として有名な「貧女の一灯」というお話がありますが、あれは貧しい女人が仏さまになんとかご供養したいということで、自分の髪の毛を売って一本のローソクを買い求め、仏さまにご供養しその功徳で成仏をしていくという物語ですが、あの中で説かれているのは、貧しい女人が御供養のために、女の命といわれる髪の毛を売った。その行為の尊さを教えるとともに、もっと大切なことは、女人が己を貧乏と自覚し、それならなにができるかを考えたことを教えているのです。

 分を知れば次になすべきことはわかってくるのです。皆様がお詣りするお寺の御本尊、板御本尊をよく拝してください。板御本尊は必ず、蓮台と申しまして、蓮華の台の上に乗っています。したがって蓮台よりも大きな御本尊はありません。必ず蓮台の方が大きくなっている。あの姿が分際を知ることを教えているのです。蓮台より御本尊の方が大きければ、ひっくり返ってしまいます。人もそのとおり、まず、己という入れ物を知る。その上で生きていけば、ひっくり返ることはありません。欲をかくことを悪いとは私は申しません。大いに欲をかいて結構だと思います。しかし、欲をかくならまず入れ物を大きくしなければなりません。それが「法華経の事のみさはぐらせ給うべし」とのご金言です。

 よく私たちの信心の目的は成仏だといいます。成仏とは仏になる、仏にならさせていただくということです。それでは仏とはなにか、どういうことかといえば、結ぶ、しばる、の反対で、ほどける、ほとけ、ということです。ああもなりたい、こうもしたい、あれも欲しい、これも良い、次から次へ欲をかいて生きていけば、自分の手で自分をしばっているのと同じです。ここから離れる、しばっている自分をほどく、ここにほとけがあるのです。

 求道という言葉はなんともいかめしい感じがしますが、要は、年寄りは年寄りなりに、若い者は若いなりに、男は男として、女は女として、一人ひとりが、自分の分際を知り、どうしたら大聖人にお喜びいただけるかを考える、大聖人にお喜びいただくことこそ功徳と考え、そのために精進する、これ以外にないと思います。その姿勢が「御書の身読」です。もう少し学問があったら、話が上手だったら、齢が若かったら、男だったら、折伏できるのに、という人があります。こんな人は一生折伏できません。無いことばっかり探しているんです。折伏しない言い訳を並べているだけです。

「あの人は凄くいい人だ、けれど顔が悪い」というとこれは悪口です。同じことをいうのでも、順序をかえてごらんなさい、「あの人は顔は良くないが凄くいい人だ」、中味は一緒ですが、こういわれればいわれた方も納得をする。同様に、「私は学問はないけれども、齢もとっているけれど、話は下手だけれども、女の身ではあるけれど」と考えていけば、「よし折伏しよう」という気になってくる。これが分を知るということです。折伏はむずかしい、とよくいいます。たしかにそのとおり、むずかしいでしょう、しかし、それは相手に私たちのいい分をわからせて、御本尊の前に座らせようと考えるからむずかしのです。

 大聖人はなんといわれていますか。「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし 謗(ぼう)ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(全集五五二ページ)と法華初心成仏抄に仰せであります。信ずる信じないは向こうさんの勝手です。いわないのはこっちが悪いのです。連れてこなくちゃいけない、御本尊を拝ますようにしなくては駄目だと思うから、行く前にやめてしまう。どうせ私のいうことなんか聞く訳ないとあきらめてしまう。あきらめていないとなれば、これはいわない方が悪いんです。いった以上、聞かせた以上、信心するかしないかは向こうの責任だ、そう思えば折伏できないわけはありません。「御書を身読して折伏を」というスローガンは、こういうことなのです。

己れの生きざまが周囲を教化

ですから、折伏というのは、“何人できた”という、いわゆる成果というものも勿論大切ですが、どれだけの人に強いて聞かせたかということも決して忘れてはならない大切な面であることを知っていただきたいと思います。そしてなんのために折伏するんだ、となれば、これは御報恩のためです。

 報恩とは、仏さま、すなわち大聖人の御鴻恩(ごこうおん)にお報いするために折伏をするのです。また、折伏は、折伏行という行です。酒を飲んで、煙草くわえて、「おい、信心やらへんか」、これで折伏ができるわけありません。報恩の心が根底にあってこそ折伏はできるし、また、子供たち、青少年の育成も立派に実践できるのです。他をあてにせず、他をうらやまず、他をネタまず、ただただ自分自身の道を、大聖人の仏法を信じ、御本尊とともに歩んでいく、これが御報恩の道です。自分の生き方を心得て、油断なく、退転なく、正道を堂々と歩んでいく、その姿はどんな立派な書物や説教より子供の心をゆさぶるに違いありません。大聖人への報恩のために一生を送ろうと決心すれば、必ず生き方が変わってくるはずです。

 いまさらここで威張っていうことではありませんが、私は凡夫です。聞いている皆さま方も凡夫です。衣を着て髪の毛を刈っているから、私もまあなんとかさまになっている。それは私ばかりではありません。座っておられる皆さま方も、全国の代表ということで、少しは立派に見えています。それに今日は全国大会ということで、少々緊張しているし、着ている物だって一応タンスの中で二番目くらいの良い物を着てこられたでしょうから、お互い、普段の自分でない、という顔で向かいあっている。もっとも、それでこそこの場が納まっているわけでありまして、私や、この後ろに並んでおられる僧侶方、さらには皆さまが、全部、地を出して、うちにいるのと同じ状態で大会を行ったならば、何が何だかわからなくなってしまいます。

 しかし、行儀の良いのはこの場限りで、自分達のお寺へ帰ればもっとリラクッスするでしょうし、自宅へ帰ればさらに本性が出る、それを子供達が見ているわけです。折伏はきらい、勤行ももうひとつ、仕事は怠ける、酒はくらう、で、子供に「おい、勤行しろよ」、それで信心するわけはないし、親の いういうことを聞くわけがない。勿論この本日のような姿勢で毎日を送り、日々時々を生きていくことはできません。

風呂にも入るし、ご飯も食べる、そうした中で、常に大聖人への御報恩の心を忘れずに、生き方の根っこをしっかりときめていただく、その上で、枝をはり、葉をしげらせていくことが大切です。生き方そのものが根っこです。「根深ければ枝繁し、源遠ければ流れ長し」との御金言もありますが、日常の生活という眼にみえるところは葉の色も変化し、花が咲いたり散ったりします。

 これが私たちの日常の生活であり、それを支えているのが根っこの部分です。これが生き方の根本となっていくのです。ここに報恩という心をしっかりと定めれば、自ら生き方が決まってきます。そこを子供や青少年は感じるのです。口でうるさくいうよりも、理屈で納得させようとするよりも、生きざま、生き方、人生に対する姿勢そのものが青少年を育成していくことを忘れないでいただきたいと思います。  「報恩の心で人材の育成を」というスローガンは、まず、親の側が生き方を決めよう、との願いがこめられているのです。私は、この大会を通して、大会終了後にどれだけの人材を輩出するかが、成功の成否であると考えています。大会をただ単なる打ち上げ花火で終わらせてはなりません。終わった後、必ずなにかが残っていく大会とするよう、正信会としても、これからなおいっそう努力していく所存でありますので、どうぞよろしくお願いいたします。

大石寺開創七百年には抗議登山を

さて、昭和六十五年度は大石寺開創七百年に当たります。地頭の謗法を嫌って断腸の思いで身延を捨てられた御開山日興上人の謗法厳誡の精神は、いまの大石寺には残念ながら存在しません。ただ正信会の僧俗の私たちの中にこそ、身延離山あそばされた日興上人の御教示が生きていると強く確信するところです。

 現在、大石寺においては、阿部日顕師、池田大作氏を中心に昭和六十五年を目指し、種々の計画がなされているとのことです。しかし、いくら財力、金力にまかせて贅(ぜい)をつくしたとて、御開山上人はお喜びにはなりません。この御開山上人の御精神を忘れた人々に私たちは身をもって諌言し、謗法厳誡という正宗本来の精神を訴なくてはなりません。したがって、正信会僧俗が全員、うちそろって大石寺へ抗議せざるを得ない事態を迎えるかも知れません。その時には、私たちがこの十年間培(つちか)ってきた正信の力の総てをこめて、強く、強く抗議の行動を起こして行こうではありませんか。

 信仰の世界では法の正邪で黒白をつけるのが当然です。私たちはこれまで何回となく阿部当局に対し公場法論を申し入れてきていますが、まったく返答がありません。私たちを謗法と謗(そし)るならば、堂々と公開の場で破折すべきです。それが袈裟、衣をまとって、供養で身を養う僧侶としての最低限の任(つと)めであると私は思います。

第十四回大会は四国で開催

もし、それさえできぬというのなら阿部日顕師はいさぎよく身をひくべきです。日蓮正宗という看板をかかげる以上は、御開山上人を嘆かせ奉るようなことだけはやめていただきたいと、今日、この大会会場に集った私たち全員の声として阿部日顕師に申しあげておきたいと思います。

 全国の皆さま、ご苦労様でした。来年は第十四回大会ですが、四国、愛媛の松山で開催することが、正信会の委員会で決定されています。来年お会いするまで、ともどもに信心に励んでいきましょう。

   

     

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