第十四回日蓮正宗法華講全国大会
正信会議長指導 渡辺広済御尊師
本日ここに正信会僧俗が集い、第十四回日蓮正宗法華講全国大会が盛大に開催されましたことを、まずもってお祝い申しあげます。全国の皆様、本日はおめでとうございます。
現在の私達がおかれている厳しい現状につきましては、すでに本日この大会に参加されている代表の皆様はよくご認識のことと思います。特に裁判問題は、大切な問題でありますので、弁護団の先生方にはなお一層奮起して頂き、私たちの運動の上から重要な拠点である各寺院を、法律の面からもお守り下さるようお願いを申しあげる次第でございます。
必ず突破口あると確信
裁判というものは、人間の定めた法律上から人が人を裁くものでありますから、必ずしも正しい方が勝つとは限りません。これまでの判決の流れを見てもおわかりの通り、どう考えても理論の上からは圧倒的に当方が勝っているのですが、判決では敗けております。これはなぜであるかを考えてみると、裁判所の裁き方として、社会的秩序、あるいは影響を考え、数の多い方、力の強い方、さらには混乱の大小を先に考慮して判決を下していると思えてならないのです。いかに宗教的に知識の乏しい裁判官とはいえ、我々僧俗がこの裁判に敗ければどれだけ困るかは充分にわかっているはずで、またその背景もある程度は理解をしていると思われます。それでも勝てないのはどうしてか、やはり世間的な影響力の違いとしか思えません。すなわち、ここで我々を勝たせれば宗務当局はじめ宗門の混乱、さらには創価学会という巨大な新興宗教が混乱を起し、その混乱は世間的にも大なる影響があると判断した上での判決でありましょう。従って敗けさせても影響の少ない方、すなわち我々を敗けさせておく、というやり方ではないかと考えております。
私は法律上のことは素人でわかりませんが、仏法の上から、あるいは世間の常識から考えてみても私たちが正しいことははっきりしているのでありますから、必ず突破口はあると確信しております。弁護士の先生にもここは一番、じっくりとお考え頂きまして、ツーアウト、ランナーなしからの逆転を期待する次第でございます。
現在、池田大作氏の悪しき体質、そして悪業の数々は、先般、藤原行正氏が出版した『池田大作の素顔』をはじめ週刊誌等でも数多く報道され、ある雑誌のアンケートでは、日本中の“気にくわない奴”の第三番目に堂々とランクされていました。「池田大作という男は、ウサン臭い奴だ」というイメージを、ほとんどの日本人が持ちはじめているのであります。
さらには公明党前委員長の明電工、中瀬古氏との株にまつわる問題、また池田克也代議士のリクルートの問題、長野県山中の母子バラバラ殺人事件など創価学会にまつわるダーティな面は枚挙にいとまがありません。創価学会は得体の知れぬ団体、油断出来ぬ団体、これは一部の提灯持ちの文化人やジャーナリストを除けば日本の知識階級の人々も充分にわかっていることであります。それがなぜいまだにのさばっているか、考えていけばその理由はいろいろあるでしょうが、私たち信仰者として指摘すべきことは、創価学会、なかんずく池田大作氏の悪を知りながら知らぬふりをし、あまつさえ庇いだてさえする阿部日顕師が最も悪いということであります。昔、私は個人的に阿部師とはかなり、近い関係にありました。ある日阿部師が私にこう言ったことがあります。「君、君たちはね、本当の貧乏はつらいぞ。それから池田という男の怖さを知らないんだ。あいつは怖い男だよ、本当に怖いんだぞ」。まじめもまじめ、大まじめで私にこう語ってくれたことがあります。
私は個人的な会話の中から、何度も阿部師の本当の気持ちを聞いております。阿部師は池田大作氏を大嫌いです。これははっきりしています。大嫌いだけど、こわいのです。貧乏はつらい。こんなことは言われなくてもわかります。池田さんはこわいぞ、確かにその通りかも知れません。しかし、そういう理由で僧侶が謗法を容認して良いということには決してならない。
第一に富める者は日蓮
あの極寒の佐渡の国にあった大聖人は「二月(ふたつき)は寒風頻(しきり)りに吹(ふき)て霜雪降(ふら)ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒(はちかん)を現身(うつしみ)に感ず」という厳しい自然環境の中、さらに「野中に捨てられて雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をささへたりき」と物凄い寒さの中で食べ物さえままななぬことを訴えられ、「佐渡の国は紙、候はぬ上、面々に申せば煩あり」との御不自由なご生活を送られながら、それでもなお「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と胸を張って仰せでございます。
そして大聖人の御身を案ずるご信者に対して「空に読み覚えよ、老人等は具に聞き奉れ、早々に御免を蒙らざる事は之を嘆く可からず。日蓮が御免を蒙むらんと欲するの事を色に出す弟子は不孝(ふきょう)の者なり、敢えてご後生を扶(たす)くべからず」と仰せられております。すなわち、「この日蓮の書き物を暗記するぐらいに何回も読みなさい。また、年老いて目が不自由な老人や文字の読めぬ老人はしっかりと耳で聞きなさい。日蓮に流罪の赦免が早々にないことを決して嘆いてはいけない。日蓮が赦免されぬということにはきっと何かそのわけがあるに違いない。であるから日蓮が赦免を蒙れば良い等と顔に出したり、口にする者は日蓮にとって不孝の弟子共である。そういうさもしい弟子の後生は救うわけには行かないぞ」と仰せ遊ばされているのでございます。
貧乏はつらい、池田さんはこわいーそこまではわかります。しかし、いやしくも自ら日蓮正宗の第六十七世と名乗る阿部日顕師は、この大聖人の毅然とされたお姿を何と拝するのか、一度それこそお伺いしたいものと思っております。こわがるだけならまだ救いがある。阿部師はかって教学部長の時代に、宗門の若手僧侶の論文が創価学会に都合の悪いことが書いてあるということで、学会本部にその論文を持って駆け込み、それがきっかけで若手僧侶が次から次へと吊し上げを喰い、日達上人を悩ませ奉ったその張本人であります。
改称あれば抗議の登山
また、近頃は、来年の大石寺開創七百年をもって、大石寺を本門寺と改称する等という、およそ正気の沙汰では考えられぬような噂を耳にします。百八十余名の僧侶と、その僧侶を信仰の師匠と仰ぐ全国二十万人に近い純信なご信者を問答無用と宗外に放り出したのみならず、池田大作氏の尻馬に乗って、もし大石寺を本門寺と改称するようなことが現実にあるとするならば私たちは断じて見逃すわけにはいきません。
もし、そんな気配が微塵でも見えたならば、皆さん、正信会の僧俗全員、大聖人の真の弟子檀那の誇りと、信心をもって、大聖人の御意に傷をつけ奉る者共に鉄槌を加えるべく、抗議のため、大石寺へ登山しょうではありませんか。
時を待つべきのみ
信仰上許せぬ「本門寺」改称
今、こんな大事なときにこれを傍観し、看過したとなれば悔いを永遠に残してしまいます。また、何よりも大聖人にお叱りを蒙ることは間違いありません。大化城をぶち壊し、不開門を移動し、赤の広場ならぬ鶴の広場をこしらえるくらいならどうぞご勝手で済みますが、本門寺となるとそうはいきません。私たちの信仰上の上から決して見逃しはしませんよ、と正信会僧俗一同の声として今日この大会で、阿部日顕師にはっきりと申し上げておきます。
広布の願業は常に持続
そもそも本門寺とは、一期弘法抄、あるいは富士一跡門徒存知事を拝すればよくおわかりのごとく「国主この法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と大聖人はご教示遊ばされ、日興上人は「仍って広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」と、宗開両祖がはっきりと本門寺と名乗るときはこうなった時であるとお示しになっているのであります。すなわち「上一人より下万民にいたるまで」正法に帰依し奉った時にはじめて立てられる寺号であります。然るがゆえに大聖人は、「時を待つべきのみ」と仰せになっているのであります。本門寺とは一天広布のあかつき、その時にこそ名乗る寺号であることは正宗の僧俗なら誰人も知らぬわけはございません。また、あくまで果てしなき理想、常に持ち続ける願業こそ本門寺の寺号であって、ここに日蓮正宗の宗旨があるのでございます。
どうか、これ以上の悪名を流さぬよう、老婆心ながら阿部日顕師にご忠告申し上げる次第でございます。
「血の涙出る思いの君たちをいじめし輩は地獄の使いか 正信の仮面の僧の弾圧に君らは勝ちたり諸仏も讃えて」 だそうです。これは今年の四月十九日に池田大作氏が作った和歌だそうです。
歌かどうかは、読んだり聞いたりした人が決めればいいことですが、こういう和歌まがいのものを目にしますと、改めて俵万智の『サラダ記念日』がとても心地よくひびいて来ます。
「垂井にて悔しき涙のあの日をばいかに忘れじ我等の心は」
こうなってくると和歌の心など全く感じられません。また翻って考えてみれば、昭和五十三年から全国に火の手を上げた正信覚醒運動が、天下盗りを企む池田氏にとってどれほどこたえたかの証明とも申せます。この恨み節を披露した日に池田氏はこう語っています。「さて昭和五十二年ごろから、ここ垂井の地でも正信会の悪侶らによる邪悪な策動によって大切な会員が卑劣な手段でいじめ抜かれた」と被害妄想的発言をなした後、「その最も大切な信仰の世界を正信会のような悪侶に蹂躙され、踏みにじられることは絶対にあってはならない」と叫んでいます。
正宗踏みにじる張本人
ちなみに「蹂躙」とはふみにじることですから、「踏みにじられ、踏みにじられること」と二回も繰り返しているところを見ると、蹂躙するという言葉の意味をよくわからずに使っておられるのかも知れません。実際見ていて少しも飽きない御仁であります。
「いざとなったら学会と手を切る。たとえ小さくてもいい。大聖人の仏法を守って、まっすぐに進まなければならないと私は思っておる。これが本音であります」あるいは「一人になっても良い、百姓してでも本山を守る覚悟である」−ここまで、御先師日達上人を嘆かせ奉り、「本山の会計簿を見せろ、見せなければ手を切る、おさらばする」、また、「あのお金はどうなりました ? 早く出して下さい」と日達上人を恫喝し、僧侶は吊し上げる、御本尊の模刻はする、とやりたい放題のことをやっておきながら、十年たつと、自分が被害者の側におさまって、「正信覚醒運動の悪侶達」と悪態をつく。正信会が学会を蹂躙しているのではない。池田大作氏が日蓮正宗を蹂躙し、大聖人の仏法を蹂躙しているのであります。「蹂躙」とはこうして使う言葉です。
粘り強く運動を推進
着実に根をおろす法燈相続
こういうお二人、阿部師と池田氏を相手に私たちの運動があるのですから、こちらも大変です。力が正義、数が正義という考え方で、力まかせに何でもやってくる人達ですから、私達もここは一番、もう一度、運動当初の頃に立ち還り、腹を据えて運動に取り組んでいこうではございませんか。それには、私達は正しいことをしている、正しい信心をしているという絶対の確信を強く持ち続けることが最も大切です。そして、その強い信念のもとに正信覚醒運動を、楽しみながら、悠々と実践していく以外にありません。大聖人の信心の血脈はわれに在り、何があろうと、何が起ころうと、僧俗一致し、あわてず、騒がず、一歩一歩前進あるのみであります。間もなく参議院の選挙がありますが、皆様方のご近所の学会員を見てごらんなさい。Fだ、公明党だと走り回っています。対して、私達は信心一筋でいいのです。現在のこの混迷状態を解決するのはいつの日かわかりませんが、あわてず、騒がず、じっくりと、粘り強く運動を推進していきたいと思います。
もし私達の時代に解決できないとしても法燈相続さえしておけば、子が、そして孫が私達の意志を継承してくれます。「信心って楽しいよ」「正信覚醒運動はいろいろなことがあって愉快だよ」と子供達に語っていけるぐらいの大きな気持ちをお互いが持ち合って、本当の団結をしていきたいと思います。
運動の当初、青年僧侶と言われていた私達正信会の僧侶も、十年以上の歳月が経過した現在では、かなり年をとってきました。「夜目、遠目、傘の内」と申しまして、今日は舞台と客席が小々離れていますから、僧侶達の顔のシワも見えにくいかも知れませんが、近くで見て頂くとそれなりの年齢の顔になっております。しかし、僧侶の方の法燈相続は着実に根をおろして、次から次に新しい出家得度者が続いていますのでご安心下さい。僧侶の方は大丈夫ですが、皆様方の方もしっかりとお願いいたします。
strong>歓喜に満ちた信仰生活
若い人や、学会員を折伏しても御本尊が無いのじゃないのか、と心配する人もおられるようですし、宗門や創価学会でも「正信会には御本尊が無い」と宣伝しているようですが、これも心配要りません。あなた方が一生懸命折伏しても、あと五十年やそこらではビクともしませんので安心して折伏して下さい。
創価学会が相手じゃデカすぎると思っている人もあるようですが、正信会だって小さくはないのです。要は異体同心です。これさえあれば大丈夫です。異体同心の心で、歓喜に満ちた信仰生活を私達が示していけば、若い芽は必ず育ってくるものです。そして、一人一人が自分に出来ることは何かを考え、それを実践することです。大聖人はしっかりとご覧になっています。このことを信念として持ち続け、息の長い運動を展開していきましょう。眉つり上げて、血相変えて飛び回る必要はありません。やるべきことを坦々とやる。これこそが正信覚醒運動です。もしどうしても、どうしても日蓮正宗が駄目なら、「我々で新生の正宗を作っていけばいい」−そのぐらいの余裕と腹ずもりで行きましょう。今、私達が味わっている試練は、私達をより強く、よりたくましく、より大きくするために大聖人がお与え下さっているものであると受け止め、「日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり」とのご金言を仰いで成長してまいりましょう。
さて、来年は、大石寺の方で複雑な動きがあるようですので、静岡県のどこかで第十五回大会を開催していきたいと考えています。よろしくお願い申し上げます。来年はみんなで静岡へ行きましょう。 なお最後にこの大会を開催するに当って、寝食を忘れるほどのご苦労をおかけした地元四国の正信会僧俗の皆様に、全員を代表して御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。