第十五回日蓮正宗法華講全国大会
指導 正信会議長 渡辺広済師
本日、此処、静岡市民文化会館におきまして、全国の正信会僧侶並びに各法華講の代表の皆様方が参加せられまして、第十五回日蓮正宗法華講全国大会が盛大に開催されましたことは仏法の上から誠にありがたく心よりお祝いを申し上げるものでございます。
全国の皆様本日はおめでとうございます。私は、現今世間を騒がせている特別御形木本尊の事件に対しまして、私達が信仰の上からこれをどう受け止め、どう対処していくべきかという点からお話を申し上げていきたいと思います。
本尊利用すれば堕獄は必定
今年の三月から四月にかけまして、週刊誌や月刊誌、さらに一部の新聞等において、池田大作が本尊を造った可能性が大きいとの報道がなされ、世間を大いに驚かせました。これらの報道によって、創価学会はもちろん、正信会の僧俗にも様々な考え方、思いがあったように思われます。たとえば「私の家の御本尊は大丈夫なんだろうか」と思った人、或いは悩んだ挙句に御住職に「お清めのお経」と申しますか「御開眼のお経」を願い出られた人もかなりおられたと聞いております。週刊誌等では偽造本尊とか偽御本尊とかいう表現を使っておりまするが、本来、本尊に偽物はございません。
本尊とは根本尊敬(そんぎょう)ということですから「似ている」とか「らしい」という類は本尊とは呼ばないのでございます。正しくは偽造曼荼羅と呼ぶべきではないかと思います。池田さんが漫荼羅を作ったらこれは偽漫荼羅。従って、皆様にはどうか、漫荼羅の真偽と本尊の真偽を混同されぬようにご注意をお願いしたいと思います。こうしたことから、この御本尊を今まで拝んで来た、漫荼羅を拝んで来たということで、どうも気持ちが悪いということでお寺へ納めて、新たに御住職の手より御本尊を御下附いただいた方、また、小さな御形木本尊をお掛けしていて、どちらかと言うと肩身の狭い思いをしていたけれども、今回の騒動を見るにつけ「ああうちは小さくてよかった」と胸を撫でおろした人、実に人それぞれであったと拝察いたします。実に今回の騒ぎはなんとも嘆かわしい、そして起きてはならぬ問題が起きて来たのでございますが、私はここで、何故このような起きてはならぬことが起きてしまったかについて考えてみたいと思います。
まず、問題の原点、これは池田大作という人が私利私欲のため特別御形木本尊を利用したということであり、彼のあさましい心はいくら責められても仕方のないことは申すまでもありません。仏法の上から考えましても彼は間違いなく地獄へ堕ちるは必定でございます。
師弟不二の姿で妙法を受持
これはこれで一応措いておきまして、どうしてこういうことが起きたのかを日蓮正宗の化儀の上から考えてみる必要があると、このように思います。
当宗においては古来より「御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書き之れ有り、師匠有れば師の方(ほう)は仏界の方(かた)、弟子の方(ほう)は九界なる故に師弟相向ふ所、中央の妙法なる故に云云」と。これは有師化義抄の第一一七条でございますが、本来、御本尊は信心の立派な人に対して末寺の住職の申請によって貫主上人が書写遊ばされまして、その授与書に願主の氏名が認められるものでございます。このことによって本師日蓮大聖人とその手続(てつ)ぎとしての貫主上人、住職を経て願主との師弟を確認することが最も大切なことであって、この師弟不二、十界互具の姿で妙法蓮華経を受持し奉るところが御本尊の相貌であり、即身成仏の姿であると当宗では説くのでございます。従って、御本尊下附の方法としては、必ず末寺の住職の手を経て各信者に授与しなければなりません。このことは化義抄第十六条に、御本尊やお守り本尊、或いは戒名をいただきたいという申し出があった時は「田舎の小師に談合を至し可様の望み申す由、申され候時き、諸事の望みに随て本寺に於て免許候へば云云」と申されていることでも明らかであり、末寺を飛び越えて、本山と信者が直接的な関係を結ぶなどということは当宗では全くあり得ぬことでございます。
ましてや御本尊を信者から信者へ、しかも会館で下附するなど、これ自体大謗法というべきでございます。たとえ、陰にどんな事情があり、或いは池田大作さんの懇願があったものか、或いは策略があったかは私どもの知り得ぬところではございまするが、信仰の根幹である御本尊に関することでありますから、いかなる理由があったにせよ、当宗古来の化義を死守すべきであったとの思いを強くするものでございます。この御本尊を会館で下附することに象徴される創価学会の体質は登山、葬儀、或いは法事の依頼に至るまで、全てにわたって末寺の僧侶と信徒の間に学会が介入し、やがては信徒と池田会長の間に師弟関係、乃至は主従関係に等しい組織を作り上げていったのでございます。末寺の住職と信徒のつながりを破壊し、その上で池田大作こそ信心の師匠であると思わせる構造に、そもそも謗法の原因があり、そこに池田本仏論の下地が存在しているのであります。
本来、御本尊を授与するということについて当宗では、「日興の弟子分に於いては在家出家の中に、あるいは身命を捨て、あるいは疵を被り、若しは又在所を追放せられ、一分信心の有る輩に忝(かたじけ)なくも書写し奉り、之れを授与するものなり」と日興上人が富士一跡門徒存知事に仰せの如く、まず第一に信心の決定がなくてはならない。仏法のために身命を捨てる、または疵を受ける、或いは住んでいる所を追われるような難を被り、それでも信心を持続した人に限って、貫主上人が書写し奉って授与するというのが正しいあり方でございます。それは何故かと申しますると、法華経の如説修行とは「受持即観心」と言いまして、この経を持つということに尽きるからであります。「法華文句」には、「この法を持つが仏身を持つなり」とありまする如く、正法正義の正師を信じて持つ者のみが三大秘法の御本尊を受持していると言えるからであります。受持しきった時にこそ「この御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」との日女御前御返事に仰せの御教示が信心の上からはっきりと解ってくると思います。
不信の輩に授ければ大謗法
またさらには、当体義抄に仰せの「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れなり」との御金言を、しっかりと受け止められると思います。すなわち、御本尊とは他ならぬ末法の凡夫の成道をお示し遊ばされたものであって、単にご利益のありそうな掛軸とか、願いの叶わぬことのない「幸福製造機」というようなものではございません。
ところが、こうした考え方に囚われてしまったが故に、創価学会は本尊観の上から大きな誤りを犯してしまったのであります。今回のこの本尊問題も、御本尊さえ受けてしまえば坊さんなんかは要らない、お寺に参詣する必要もない、というような間違った考え方、法を忘れ、師を取り違え、信心の根本をさえ忘れてただ漫荼羅本尊の掛軸さえあれば良いという、御本尊を一箇の品物として考えるところから起きてきたことであることに間違いはございません。こうした間違いや謗法を戒める上から、宗門古来よりこの御本尊を不信の輩にみだりに授与するなかれと固く戒められて来たのでございます。日興上人は「御筆の本尊を以て形木にきざみ、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞こえあり、所謂、日向日頂日春等なり」と申され、たとえ御形木であっても不信の輩に授与して御本尊を軽んずることは大謗法である旨を強く御教示遊ばされておられます。
しかし残念なことに、日興上人の戒めとは逆に、こうした謗法行為は折伏とか広宣流布とかいう美名のもと、以前より今に至るまで平然と行われておるのが現状であります。かつてあの大折伏の当時、各末寺では下附する御本尊も多いが、返却される御本尊も数え切れないほどありました。しかも、末寺へ返却されるのはまだましな方で、捨てられたり、燃やされたり、神戸の闇市で売られたり、行方不明になった御本尊の数を思う時、私は信仰の上から実に情けなく恐ろしい気持ちがするのであります。そして現在でも、外国においては芽茶苦茶な折伏、その結果として御本尊への不敬が続いていると聞いております。こうして、御本尊を軽んずるその上に、やがて普通の御形木御本尊の他に、今問題となっている特別御形木御本尊が半ば強制的に下附されるようになった。
今回の一連の報道の中で、普通の御形木御本尊と特別御形木を並べて、本物は一月一日、偽物は一月七日と、書写の日付によって真偽の見分け方としているものがありましたけれども、あれは全くの間違った報道ですので、ああしたもので右へ左へ走り回らないようにお願いをしたいと思います。
本尊に階級があるかの錯覚
いずれにしても、こうした流れの中、やがて御形木のお守り御本尊までが下附された。一時、学会においては特別御形木本尊のさらにその上のランクということで、特々御形木御本尊という話までございました。これはあたかも御本尊の大きさや表装によって上下の階級があるかのような感じであり、「あの人より私の御本尊の方が立派」とか「お宅ではまだこんな小っちゃな御本尊なの」とかいう具合に御本尊を区別するが如き風潮を生み出して行ったのであります。これこそ大変恐ろしいことであり、御本尊に対する不敬、謗法以外のなにものでもありません。
こうしたことを、消極的であったとは申せ、宗門が学会を諌めることもせず認めてきたことは事実であり、私達僧侶も深く反省すべきであると考えております。
そして日蓮正宗の宗務院は日興門流として確認すべきことは明確に確認して、日有上人が化儀抄に「彼の弟子檀那等が我れと所望する時は爾るべからず」と戒められていること、御本尊はあくまで末寺の住職の手を経て下附するものという大原則を破ってしまったが故に起きた問題であると結論するものであります。
創価学会とそれに汚染された宗門は信仰上大きく狂ってしまった
抗議登山で「本門寺改称」は粉砕
池田構想を助長させた阿部師
よく「創価学会は本山直結であり、日蓮正宗の信徒団体である」という言葉を耳に致します。
そして阿部日顕師も宗門の僧侶も、さらには池田創価学会もそれが当然と思いこんでいる様子でございます。ところが実はこうした考え方そのものが当宗本来の本山と末寺の関係、そして本当の師檀関係のあり方というものから大きく外れてしまっているのでございます。
「田舎の小師」と日有上人が仰せの各末寺の住職と信者との師弟子、師檀の関係を混乱しての当宗の信心はあり得ません。ここのところを明確にしておかぬ限り、宗門と創価学会は二度、三度と同じような騒動が起きて来て当たり前であります。
さきに問題となった八体の板御本尊模刻事件といい、このたびの特別御形木本尊の疑惑事件といいそれが単なる偽物を作ったとか、イヤ作っていない、そんなことはしていないとかいう次元の問題ではなく、その本質が全て信心の狂いから生じて来たものであり、起きてはならないが、起こるべくして起きて来たことであると申し述べる次第でございます。要するに、
一、受持即観心を間違えていること 一、師弟相対という観点からしても創価学会及びそれに汚染されている阿部宗門は信仰上大きく狂ってしまっている
ということを、本日この機会に正信会としてはっきり指摘しておくものでございます。
公開質問状に未だ回答なし
すでに皆様ご案内の通り、今回の騒動に当たって正信会としては去る四月二十八日の宗旨建立の佳日を選んで宗務院並びに池田大作氏に対して公開質問状を内容証明郵便を以って送付致しましたが、今日に至っても未だ回答は届いておりません。どうか皆様方はそれぞれのお寺の御住職の指導をしっかりとお受けになり、正信会としての考え方、信心の上に立って御本尊をどう受け止めるかをよく御理解下さるとともに、池田大作一人のためにご自身の信心までがおかしくなってしまったら悔いを千歳に残すことを忘れないでいただきたいと強く念願をするものでございます。
私達はあくまで、日興門流の真の僧俗としてたとえ他はどうであれ自らは正しい本尊観に立ち、当門流古来よりの化義をこの際改めて確認して信心修行に励むことを今日ここで誓い合おうではありませんか。
大事なことは漫荼羅の真偽ではなく、それぞれの信心の真偽であり、本当の御本尊は正法を厳護する我等正信会の信心のところにありと声を大にして訴えていこうではありませんか。(大拍手)
さて、去る三月十一日に私達正信会の僧俗が現阿部宗門に対し抗議登山を実施しましたことは、皆様方のご記憶に新しいところと思います。この抗議登山は、昨年の松山の大会において私が申し上げた約束を実行したものですが、正信会全体としてこの一年を振り返ってみるとき、決して派手ではありませんが皆んなで地道に行学の二道に励み、確かな成長を遂げました。私達の主張していることの正しさの裏付けとして継命新聞では、池田大作及び創価学会の数々の謗法と悪しき体質、金権主義等についてのキャンペーンを繰り広げ、大きな反響を呼びました。こうした私達の護法への赤誠によって、さしもの阿部宗門も路線の変更を余儀なくされ、「本門寺改称」は諦めざるを得なくなったようでございます。このことは仏法のため、大いに喜ばしいことと思います。私達の抗議登山に対して宗務広報という宗務院の公式文書において阿部宗門は「なかでも『本門寺改称の邪計』などとは、いわゆる顕正会の如き逆徒の集団が勝手に抱く何の根拠もない妄想を真似したに過ぎず、このような妄計を利用して騒ぎたてるのは笑止というほかはなく、まことに哀れな姿であります」と発表致しました。 理屈はどうであろうと、結論から言えばとうとう正式に阿部日顕師が「大石寺を本門寺とは致しません」と天下に発表せざるを得なくなったのでございます。このことは今年開山七百年を迎える大石寺にあって、御開山日興上人が最もお慶びになられたことであろうと拝察申し上げます。
阿部日顕さん、よくぞ申して下さいました。
宗務広報では正信会に悪態
それにつけてもあの抗議登山はよほど堪(こた)えたと見えまして、同じ広報でこういうことを言っております。「彼等がこのような行動に出てきたのは、すでに擯斥処分後八年を経過して彼らの運動が衰退の一途をたどり、他方宗門においては開創七百年を迎え宗開両祖の遺訓のままにますます隆昌を重ねていることに対する焦燥と怨嫉によるものにほかなりません」と自画自賛し悪態をついております。阿部さんも冗談きついと思いませんか。特に「宗開両祖の遺訓のままに」などという言い方はまさに最高の冗談、ブラックユーモアとして高く評価をするところでございます。
「本門寺改称」が「何の根拠もない妄想」であったかどうかは阿部師、池田氏のお二人が一番よくご存知のはずです。昭和五十年、当時教学部長であった阿部師自ら宗門の機関誌『大日連』に、「全信徒の指導者たる法華講総講頭池田大作先生も至極お元気で…。猊下と宗門を常にお守り下さっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる広布の基礎であります」、こう述べられまして、池田氏が意図した広布達成、そして本門寺への改称、さらに国主として池田氏自身が不開門をこじ開ける企みを、日蓮正宗の正式な教義として宗の内外に認めさせる作戦のお先棒をかついではしゃいでおったのは阿部さん自身です。
そして昭和五十四年七月、偽って管長に就任した直後、こっそりと池田さんに「偉大なる指導者ありて広布また道にこころし進みゆくらむ」と諂いに諂ったけったいな和歌を送る、さらには「世界にわたる広宣流布のため大いに必要なる人物である」と持ち上げまして総講頭への復権を公然と支持した。御先師日達上人がご苦労にご苦労を重ねてやっと辞めさせた池田さんを再び信者の大将に据え直そうと企んで、昭和五十七年一月十二日正本堂十周年褒賞御本尊なるものを池田氏に贈った。「賞、大法護持広布並びに世界平和貢献の功」とこれを認め、他方池田氏はこのお墨付きの漫荼羅を全国の地方会館に巡回させまして、「いよいよ時来る」と宣伝したことは「広布達成、本門寺への改称の根回し」以外のなにものでもなっかたはずであります。
今後さらに覚醒促す行動を起す
創価教に従属する阿部宗門
そして昭和五十九年、「法これ久成の法なるゆえに久成の人に付す」と池田氏に大ゴマをすった上で、遂に法華講総講頭の地位をプレゼント。さらに宗内の僧侶に対しては「今年は実は抽象的な言い方で色々と言っているのですが、色々な意味での初めの年に当たっているのです。そして今までの形とはちょっと変わってきます。これはもうすぐ分かることでありますし、なにも秘密にしなければならないことでもありませんが、ただ形として少々変わって来る意味があります」、なんだか訳のわからない、それこそ抽象的な指導をするとともに「御遺命の広布達成、戒壇実現は間近か、宗門としても昭和六十五年めざして折伏と選挙の応援をしていこう」と煽りに煽ったのは阿部師自身でございます。よもやお忘れではないと思います。
こうした事実、背景を踏まえた上で正信会は一貫して「本門寺改称は大聖人の御心を踏みにじる大謗法」と叫び訴えて来たのであります。「顕正会の如き逆徒の集団の真似」と、宗務院、阿部さんは言うけれども、真似であるか否かは継命新聞或いはその他の出版物を見れば正信会が当初からこの邪な計画に対して破折を加え、追及して来たことは明白であります。また、誤った教義や謗法を破折するのに「真似をした」とか「どこが本家でどこが分家だ」というような品物の商標登録じゃあるまいし、随分身勝手な、かつお粗末な論評であると思います。
一方、池田氏の方はと言えば特別財務で常軌を逸した金集めをしたり、海外の要人と会ったり勲章をもらったり、名誉市民になったり公明党を使って二階堂氏の擁立を画策したり、少しもジッとしていることなく動き回っていますが、内部の造反は相次ぎ、不祥事は続出、選挙には敗けるは、正信会の裁判も思うように行かない、それに加えて今回の御本尊の問題と、まさに踏んだり蹴ったりであります。意義深い「創価学会の日」の五月三日も雨にたたられ、せっかくの記念行事も三日間、連続して雨の中、シメヤカに執り行われたと聞いております。後残るは十月に予定されているあの客殿前の「鶴の広場」での文化祭ですが、おそらくこの日は阿部師・池田氏のご両人が、同じ床の中で違った夢を見る、同床異夢からクシャミと共に覚める日となることであろうと思います。
微力ではありますが、正信会の僧俗はこれまでもそうであったように、今後も仏法を私利私欲・権力闘争のために利用するようなことは絶対に見過ごさないし、もしゴリ押しでもしようとするならば、不惜身命の信心をもって大石寺へでも八王子へでも、信濃町へでも、仏法厳護のため、僧俗一致して押しかける覚悟でいることを本大会の席上で正信会僧俗の声として申し上げておきたいと思います。これこそ真の折伏であると私は確信致します。(大拍手)
真の日興門流として成長を
申すまでもなく私達は日興門流の僧俗であります。今年は大石寺開山七百年に当たりますが、私達はもっともっと日興上人の精神を学ばなくてはなりません。この秋、継命新聞社から日興上人の本が出版される予定になっておりますが、大変内容も立派と聞いております。私達僧侶も含めて一人が一冊を必ず持ってしっかりと日興上人の御心を学んでいただきたいと強く希望するところでございます。そして各人が足元を固め、真の日興門流としての法華講衆という名に恥じない講中に成長をしていただきたいと思います。
大会終了に当たり、三月の抗議登山に続いてこの全国大会開催に際し、昼夜を分かたぬご苦労を重ねられた神奈川、静岡、中部の各御尊師と東海正信連合会の御信者の皆様方に正信会を代表して厚く厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。また来年、第十六回全国大会は五月十九日、宮崎市民会館で開催の予定となっております。本日参加された全国代表者の皆さん、南九州の各御尊師そして法華講の方々に「来年元気で参加します」との心を拍手でお伝えしたいと思います。(大拍手)
南九州の皆さん、来年はどうかよろしくお願い致します。
以上を以って議長指導と致します。
ありがとうございました。