第六回日蓮正宗全国檀徒大会
正信会会長指導 久保川法章師
学会員一人一人の覚醒こそ最も時に適った信心修行
本日は第六回全国檀徒大会が、宗祖大聖人御照覧のもと盛大に開催され、誠に慶祝にたえません。
私達が仏道修行をして成仏を遂(と)げる為には、其の修行が時に適(かな)っていると云うことが最大の條件になります。故に宗祖は「夫れ仏法を学せん法は必ず先ず時をならうべし」と仰せられています。此の理に従って仏法を見れば、末法の修行は折伏の一語に尽きており、謗法厳誡なくして成仏を考えることは出来ません。
折伏には不自惜身命の自覚で
曽谷殿御返事に「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如く、なるべし」とあります。
たとえ正宗所属の檀信徒であっても、折伏を忘れ、毎日をのうのうと送っている者は、正宗の信心をしているとは云えません。謗法を責めず遊戯雑談(ゆけぞうたん)して暮す者は、法師の皮を著(き)た畜生であります。(松野殿御返事・一三八六・取意)
折伏は慈悲の現われでありますが、相手の間違った考えを破折して正信に導いてあげようと云うものでありますから、それを行えば忽(たちまち)ちに三類の強敵が起って大難を加えることは必定でありますので、折伏行には不自惜身命の覚悟が絶対に必要であります。ですから正宗の僧侶は昔から、口を開けば必ず「不自惜身命でなければならん」と、説法して来たのでありますが、多くは口先だけで、自分自身は命を捨てるどころか、僅(わず)かな今世の名利のために信徒を裏切る僧侶のある事は、誠に情けないことであります。
不自惜身命に就(つ)いて大聖人は「田畠等を奪わるは理の不惜身命なり、命根を断たるを事の不惜身命と云うなり」(七四七)と仰せられています。信心の為に田畠等の物品を失うのは、理の不惜身命であり、命をも惜まず折伏を行ずるのが、本当の不惜身命であるとのことであります。信心の為に物品を奪われるのは、御本尊に物品を御供養するに等しく、命を奪われることは、命を御供養し奉る事であって、此れに勝(すぐ)る功徳はありません。故に宗祖は「身命に過ぎたる惜き者のなければ、是れを布施として仏法を習へば必ず仏となる」(佐渡御書)と仰せられています。
人間にとって命は何物にも勝る最高の宝でありますから、此れを捨てて仏法の修行をするならば、必ず成仏出来るとのことであります。然し、世の中には此の大切な命を、仏法の為に捨てる者は殆どなく、学校の成績が落ちた、或は異性に嫌われたとか、少し位の恥をかいたなど、実に些細(ささい)な事のために、大事な命をいとも簡単に捨てる人が意外と多いのは、誠に残念でなりません。
確かに命は大切なもので、一日の寿命は三千世界の宝にも勝ると云われておりますが、命はいずれ失われるものであり、此の命を仏法に奉って永遠の成仏を得るならば、砂を以(も)って金を買うにも等しいのであって、私達は何としても不自惜身命の信心をして成仏を遂げなければならんのであります。
しかし、諺にも「家貧しくして孝子出ず」とありますが、如何に不自惜身命の信心をして仏法の為に命を捨てようと思っても、その機会がなければ容易に出来るものではありません。
雪山童子が羅刹(らせつ)の為に命を望まれ、楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が皮を求められたればこそ、仏法の為に命を捨てることが出来たのであります。
七百年の昔、大聖人の宗旨建立に生れ合せた人々は、最高に幸福であったと思います。それは順逆共に下種益を受けることが出来たからであります。特に順縁の弟子檀那となった人々は、仏法の為に怨嫉(おんしつ)されて処を追われ、領地を召し上げられ、果(はて)は命まで奪われるなど、三類の強敵は嵐の如く涌き起って来たのでありまして、大聖人の弟子檀那として、それに耐えているだけで、自然に不自惜身命の修行が出来たばかりでなく、命を捧(ささげ)るべき機会は随所にあったのでありますから、後世の私達より見る時、誠に羨(うらや)ましい限りであります。
中にも戒壇の大御本尊建立の機縁となった熱原法難に遭遇(そうぐう)して投獄された二十人、遂(つい)に首を切られた神四郎・弥五郎・弥六郎の三人は、最も大果報の人と云うべきであります。
大聖人によって三大秘法の仏法が建立されて以後の衆生は、その仏法を正しく修行するならば必ず大難が起り、何時でも三烈士の如く、不自惜身命の修行が出来る筈(はず)でありましたが、実際には命を惜み迫害を恐れて宗開両祖の意の如く修行する人は少なかったのであります。
貫主の誤り糾した正宗史が厳然と
正宗七百年の歴史を振り返って見るに、宗門にとって最大の危機は、今から約三百五十年程前、日精上人の時でありました。
堀日享上人は此の事に就いて、
「日精の如きは、私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して、富士の旧義を破壊せるが」(富要九・五九)と、又「遂に造仏読誦を始め、全く当時の要山流たらしめたり」(同六九)と仰せられていますが、時の貫主がその権力を乱用して、他宗門である要法寺の教義を押しつけ、釈迦の像を作って本堂に安置させ、方便品寿量品以外のお経をも読むようにと強要したのでありますから、大変なことであります。
然し其の時も現在と同じ様に、権威を恐れぬ正信の僧俗が、不自惜身命の信心を以って決起し、日精上人の誤りを正した為に大聖人の正義が護られて、今日に伝えられたのであります。此の時に立ち上った僧俗は、貫主の意に反する者として、批判を受けましたが、四十年の後、日俊上人等によって正義であることが立証されたのであります。誠に此等の人々こそ真に不自惜身命の者として成仏したのであって、それというのも、宗門興廃(こうはい)の危機に生れ合せたためであります。
今の私達は、そのときに比べて遙かに重大な時局に直面しております。日精上人の時は単に宗内の問題でありましたが、今は他教団である創価学会が、巨大な財力と公明党の権力を最大限に利用して、日蓮正宗を傘下(さんか)に呑(の)み込もうとしており、已(すで)に弟子分の阿部さんを使って、その野望は九分通り成功しつつあるのであります。
大聖人が、御本仏の首をかけて建立されて以来七百年の間、先師方が身を以って護り抜いてき来た宗祖の正義は、希代(きたい)の食法餓鬼池田大作と阿部日顕師弟によって、正に断絶せんとしているのであって、仏法上最大の危機といわざるを得ません。
今こそ私達は大聖人の仏法を護るため、学会員の一人一人を確実に正信覚醒すると共に、宗門永年の垢(あか)を洗い落して、化法化儀の両面において、正宗本来の姿を明確にすべき時であると思います。
折伏は本来、宗の内外に通ずるものでありますが、現在は学会が最大の魔となって、宗門を滅亡に追い込んでいる緊急の時でありますから、学会員の覚醒が急務であり、最も効果的であって、全檀徒が一丸(いちがん)となって各自一世帯の覚醒を行うならば、山積している一切の問題は一挙に解決し、正宗の法水を宗開両祖の清流に戻すことが出来ると思います。
私達は間近に迫った七百遠忌を、大聖人が真に満足されるものにしなければなりません。その為には、時に当って何が一番の御報恩になるかを考えるべきであります。
現在のように大謗法の学会が横暴を極め、偽(にせ)貫主阿部日顕と共謀して宗門を混乱させ、社会的にも多くの不正を行って、世の批判を受けている、此の現状をその侭(まま)にして、学会の援助により大法要を行い、何百万人が登山した処で、大聖人は迷惑がっておるのではないでしょうか。
彼等は大聖人の御意とは全く関係なく、自分等の利益の為に、見せかけの行事を計画しておりますが、大聖人は、そんなことをするより、一日も早く謗法の学会を覚醒し、早く阿部日顕を対治せよと望まれているに違いありません。私は、大聖人の御意に添い、正信覚醒を強力に推進することこそ、御恩忌に対する最大の御報恩であると確信しております。(拍手)
遠忌めざしかつての友達を再折伏
これからの五カ月は、何万年にも勝る貴重な毎日でありますから、法華講員は時間を大切にしなくてはなりません。寸暇(すんか)を惜み、全身全霊を打ち込んで、正信覚醒運動に励んで行かなければなりません。
昔自分を折伏して呉れた人に対しては、必ずその人を正信に導いて其の恩を返し、かって自分が折伏した人々に対しては、再び正信に覚醒して救いあげ、罪亡ぼしをしなくてはなりません。謗法の毒酒に酔い痴れて、知らず知らずに宗祖へ仇(あだ)をなしている、かつての友達を御遠忌までに悉(ことごと)く正信に導こうではありませんか。(大拍手)
今こそ広宣流布の歴史に上に於いて、又私達の生涯に於いて、最も重要な時であります。私達は人生の総(すべ)てをこの五カ月に懸けて、乾坤一擲(けんこんいってき=運命をかけていちかばちかの勝負をすること)の御奉公を申し上げ、一挙に成仏の本懐を達しようではありませんか。此れこそ最も時に適った信心であり、今日これ以外に成仏の道はないと確信し、各自一層の御精進をお願いして本日の指導と致します。