第九回日蓮正宗法華講全国大会
活動方針及び指導 正信会議長渡辺広済師
自行化他の信心銘記を
本日、ここ名古屋市民会館に全国の正信会僧侶約百七十名、そして、これまた全国より、正信の法華講代表二千四百名の精鋭が一同に集(つど)い、第九回日蓮正宗法華講全国大会が盛大に開催されましたことを、心よりお祝い申し上げるものであります。
全国代表のみなさま、おめでとうございます。
複雑な状況下で常に原点を確認
さて、ただいま、副議長の現況報告にもありましたとおり、世間法から見たわたしたちの前途は、けっして楽観できるものではありません。しかし、仏法の上から見るとき、まさに正邪の色分けは明白であります。世法即仏法との教えもありますが、仏法に背(そむ)いて世間法に傾けば、必ず厳しい仏罰を蒙(こうむ)ります。まず、仏法に基(もとづ)いた根本の姿勢をしっかりと確立し、世法に対処していくことが、信仰しているわたしどもの最も大事なことであると思います。
わたしたちの周囲の状況が厳しくなればなるほど、目先の出来事のみに気をとられ、この運動の本質を見失ってしまう人が多くなることが心配されます。現実に、せっかくあのイヤな創価学会を脱会して、菩提寺であるべき各寺院に所属したのもつかの間、つまらぬ一時の感情に溺(おぼ)れて、再びそのお寺を飛び出すような人々もおられます。また、取るに足らぬような邪義邪説に心を奪われ、宗祖の御教示そのものに背く言動をとる人々もおられます。これらはすべて、慢心から起る出来事であります。
今後、さらに事態が変化するのにともなって、あれこれ思いを巡(めぐ)らせ、その挙句、何が何だかわからなくなってしまい、信心から離れてしまうような人々が出て来るかも知れません。、状況が複雑になればなるほど、混迷すればするほど、わたしたちは原点に還(かえ)って、覚醒運動とは何か、そしてその運動を推進するためには何をすべきかを確認すべきであります。
そこで、今回の大会に当り、再度、自行化他という信心修行の原点を見つめ直していきたいと考え、二つのスローガンを掲(かか)げたのであります。
折伏とお講参詣が基本
一人一人が責任果たそう
講中の活性化を計りさらに折伏を
まず、第一に、「講中の活性化を計り、更に折伏を」ということであります。
講中の活性化については、それぞれのご住職はもとより、各講中においてあれこれ工夫され、努力もされているようであります。もちろん、それぞれの地域性、習慣や生活環境の相違等があって、全国的に統一した企画はなかなか難しいのですが、座談会や宅御講を活発にすることにより、講全体が活気づくのはどこでも同じでしょう。
問題は、それでは、座談会を活発にするにはどうしたらよいか、ということです。座談会とは、人の話を聞くことも大事ですが、それ以上に、まず、自分が何かを話すよう心がけるべきであります。話すことがあれば座談会へ行くのが楽しみになってきます。今日、この大会は、しゃべる人と聞く人がはっきり別れています。ほとんどの人が聞く側(がわ)にまわっていますが、今日は仕方ありません。
大いに動き語り座談会を活発に
しかし、この大会が終わり、それぞれのお寺へ帰ったら、さあ今度はみなさんがしゃべる側であります。スライドの感想もよし、決意や体験の感想もよいでしょう。さらには、この市民会館の様子、他のお寺の人と友だちになったことなど、何でもよいから、一つだけでもよいですから話すことを持って帰っていただきたいのです。そして、各地の座談会で大いに語ってください。とにかく人に語ること、語る人が増えれば座談会は活気づくのであります。
また、座談会を成功させるためには、一人一人が歩くことであります。今月の座談会に出席して、ボケーッと人の話を聞いて家に帰り、来月の座談会までボケーッとしていれば、また、来月の座談会の日にはボケーッとしていなくてはなりません。ひじょうに平和的でよいかも知れませんが、このボケーッとした人が増えるにしたがって、そのお寺は全体が、静かな、暗い雰囲気につつまれていきます。そして、出るのはため息ばかりかな、ということになるのです。
ため息つきながら折伏はできません。座談会も暗いし、お寺のお参りも少ないし、私も元気がないし、これといって特別なこともないけど。どう?学会やめて一緒に頑張ろうよ―これで学会員が脱会したら大したものです。
ともあれ、まず一人一人が座談会で話せることを自分の足で探し出す、このことが講中の活性化につながっていくのであります。
この運動は、わたしたち僧侶にとっても、みなさん方ご信者にとっても、何ものにも換(か)え難い、大切なものです。さすれば、何としてもこの運動を、より大きく、より強くしなければなりません。そのためには、あそこをこうしろ、とか、ここがわるいとか、評論家におさまっていては何にもなりません。まず、一人一人が自己の責任を全うし、力を出しきるべきであります。覚醒運動に評論家は要(い)らないのです。
富士の清流を取り戻す―これが、わたしたちの願いであります。富士の清流は何よりですが、まず、各自の寺に清流を通わすことが先決です。清流は動いていなくてはなりません。水が澱(よど)めば、そこに必ず、不純物が入り込んできます。ですから、清流であるためには、やはり一人一人が、常に行動する法華講員でなくてはなりません。どうか、この大会終了と同時に、動く人、そして語る人になっていただきたいと切望いたします。
法華講の信心はお講参詣から
次は、「法華講の信心はお講参詣から」という点であります。
さきほどのスローガンが、どちらかといえば働きかけ、動きの面であるとすれば、このスローガンは、自己の内面の問題、信仰の深化を考えようということであります。法華講員であれば、御講に参詣するのは当然です。その当然のことがなかなかできないところにつらさがあるのです。
知恩報恩忘れて法華講の信心なし
大聖人の御教示の大きな芯(しん)は、知恩報恩であります。恩を知って恩に報(むく)いる―これは、人間として決して忘れてはならぬ心がけですが、なかでも、信心しているわたしたちは、何よりも宗祖大聖人への仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の心を忘れてはなりません。この心を亡失(ぼうしつ)して、どんな立派なことをいっても、どんなに立派に見えることをしても何にもなりません。
大聖人のご出現があったればこその末法であり、末法の衆生をご救済(きゅうさい)くださる大聖人を主師親の三徳兼備と仰(あお)ぎ奉るところに、、わたしたちの信仰の第一歩があるのです。この宗祖のご入滅の十三日の御講に、各自がそれぞれの菩提寺に参詣して御報恩の唱題をする、ここに法華講の信心があり、ここからすべての信心修行が始まるのでありです。
と申しましても、十三日に必ずお寺へ行けるとは限りません。生活している以上、十二日の御逮夜も、十三日も、都合がつかぬ場合があって当然です。行ければ行くに越したことはありませんが、どうしても行けぬ場合はどうするか。
こんなときは、まず、その日の仕事が終わって帰ってからの勤行を、常の日とは、また改まった心で、真面目に行うべきであります。常の勤行はどちらかといえば、自分自身の修行のために行うのですが、この十三日は、大聖人への御報恩の心で、しっかりと読経・唱題すべきです。そして、行ける日にお寺へ詣(もう)でて十三日の失礼を、お寺の御本尊にお詫び申し上げるとともに、ご住職にもあいさつ申し上げることです。
お寺は、御本尊と住職があってのお寺であります。どちらか片方でも欠けたら、そこはもう寺ではありません。御本尊だけにこだわってもいけませんし、住職だけに心を寄せてもいけません。御本尊と住職、この二つを護(まも)りぬく人を信者といい、そうした心を持った人々の集まりを法華講衆と称(しょう)するのであります。
“月に一度は必ず参詣”を習慣に
学会時代の御講参詣では、切符を渡されたり、幹部から、「行きなさい」といわれて参詣していた方々が多いと思います。自発的な参詣ではなかった。ですから、十三日に行けなかったらもう行かなくてもいい、というぐあいにお考えになっていたと思います。
しかし、法華講員たるもの、そんな考えではいけません。十三日に行けなければ、十二日の夜に。それも駄目なら、行ける日に必ず、せめて月に一度は必ずお寺へお参りして、御本尊に唱題する、ということを習慣づけたいものです。
御講に参詣せずして、平然としているような人は、自己の信心を恥ずべきです。行かない人のなかには、「住職の話がつまらないから」とか、「忙しいから」とか、もっともらしく理由をいう人があります。が、面白い話を聞くのが御講ではありません。かりに、住職の話がおもしろくなくても、、仏恩報謝という心がけがあれば、必ずお寺にお参りしようと言う気持ちが起きてくるはずであります。
また、「忙しいから」というのも理由にはなりません。お講は暇(ひま)な人が時間潰(つぶ)しのために集合するものではありません。忙しいのはおたがいさまです。みんな生きているのです。暇で生きている人なんか、めったにいるわけがありません。
月に一度の十三日、この日にお寺へ参詣するためには、何をどうしたらよいかを常々考え、そして工夫(くふう)する。忙しさのなかで、苦労しながらお講にお参りできた喜びは、また格別です。「忙しい、忙しい」と口ではいいながら、一日に何時間テレビを見ているか、考えていただきたいと思います。
もちろん、住職の側も、参詣した人が、お参りしてよかった、と喜べる御講にするよう、努力を怠(おこた)ってはなりません。僧俗が力を合せて、真心をこめて、参詣者の数の多少よりも、大聖人への御報恩の唱題ができたかを考える御講こそが、大切であると思います。
折伏と、御講への参詣―これが化他と自行であります。車の両輪のごとく、この二つができてこそ、わたしたちの人間としての生き方が正しく前進するのです。
どう生きるかを学ぶことが信心
信心とは、決して難しいものではありません。思うようにならぬこの娑婆世界において、自己の欲望達成のために信心するのではなく、思うようにならぬ世界で、自分がどう生きて行くかを御本尊をとおして大聖人から教えていただこう、というのが信心であります。つらく、苦しいのがこの娑婆世界であります。そのなかで、いかに人間らしく生きぬ くかを、自行化他の信心で掴(つか)んでいっていただきたいと思います。
今回は第九回、来年は記念すべき第十回の全国大会を迎えるわけですが、大阪も名古屋も終わりましたので、来年は、やはり東京で楽しく、立派に、第十回大会を挙行(きょこう)したい思います。
それまでには色々な試練や苦しみが、わたしたちの行く手を遮(さえぎ)るかも知れませんが、僧俗で力を合せて、それを乗り越え、また来年、東京でお逢(あ)いするときには、おたがいさらに強く、たくましい信心を身につけて、元気に集い合おうではありませんか。
本日は、ほんとうにご苦労さまでした。