富士宗学要集第十巻

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観心本尊抄(首)日相聞書

観心本尊抄聞書 岩城妙法沙門覚応日相之を記す
講師 大石寺廿六世日寛上人
所 化
左面
寂日坊、源立坊、妙教寺、寿命寺
本能坊、要行坊、下之坊、円証
一元、大遠、会山、学要、覚林
右面
孝明、文承、文啓、永山、永学、坦永
寿永、覚応、孝弁、宥真、真隆、了海
湛意、三省、宥存、学宣、円応、栄樹
門啓
爾の時に日寛上人当抄を開拓して、而して仰に曰く今此抄を講ぜんと欲するに三門分別有り、一には大意、二には釈名、三には入文、初に大意とは如来の滅後後五百才に上行菩薩始て此の日本国に出現して、末代幼稚の我等が為に末法下種観心の法門を注し富木五郎入道常忍に送り玉ふ。故に知ぬ、当抄は諸御書の中に尤も肝心也。仍て送状に云く、日蓮が身に当て大事也。無二の志を見れば之を開拓すべし云云、房州妙本寺日我云、当身とは当体蓮華仏也、事の一念三千事行の南無妙法蓮華経観心本尊之を思ふ可き也云云、無二の志とは但一筋之信心なる而巳、然れば当御書は聖人出世の一大事也今何故ぞ輙く之を開拓する耶、則ち当山の大衆数年の間予に之れを講ぜよと請ふ。又師の本願なり又広布の為是の故に今始て之れを開拓するのみ、汝等信心に之れを聴聞すべし、又送状に云く、三人四人座を並べ之れを読むこと勿れ云云。若し爾らば今何故ぞ多人を集めて之れを講ずる、然るに日本国多人有りと雖ども而も但二人也、一は熟脱の行者也、一は下種の行者也、今此の座中悉く皆下種の行者一人なり故に為に之れを読む也、若し霊山に於て御咎め有らば予此の趣を以て応に申し分けを致すべし。又送状に云く、願くは一見を歴る末輩師弟共に霊山浄土に詣で三仏の顔貌を拝見せん云云、是の故に汝等無二の志を以て須く之を聴聞すべし疾く霊山に参り三仏を拝見せよ、若し巳後に於て異義を存ずる輩は当に阿鼻に堕すべき者也。惣じて教旨を論ずるに皆諸宗に亘て宗教宗旨有り、且く天台宗には五時八教を以て宗教と為し、三観三諦一念三千を以て宗旨と為す、当門流に於ては宗教に五有り、所謂教機時国教法流布の前後也。宗旨に亦三あり所謂本門本尊と題目と戒壇と也。今此の御書宗旨の三箇の随一本門の本尊の抄なり。但し此の本尊に亦人法有り、所謂人とは自受用身也、言ふ所の法とは南無妙法蓮華経也。此の人即法也。此の人即法也、人法一なりと雖も宛然の相分也、当に知るべし此の抄は人即法之本尊を遊ばさるる者也。是れ即ちの此書の大意也。次に釈名とは亦分て三と為す。初めに通じて文点を審かにし、二に別して其の義を釈す、三は惣結也。初に文点を審にすとは此の題号を読むに種々の点あり、具に啓蒙等の如し。所詮当流には如来の滅後後五百歳に始む観心の本尊抄と点ずべき者也。後五百歳とは時也、始むとは応也、観心とは機也、本尊とは法也、此の時応機法は相離れざる者也、中に於て二と為す。先づ始の字の点を審にし、次に観心本尊の点を明す。初に始字の点を審にすとは正に応に約して始むと点ずべし。将に此義を明さんとするに畧して四門を分つ。一に四義具足の本文に依る、故に惣じて此の題号は薬王品の後五百歳の文に依ると云ふ事勿論也。別して正しく之れを論ぜば神力品の於我滅度後応受持此経の文に依る。所謂応とは仏、人を勧めたまふ語也。仍て天台は是故汝等一心の下は勧奨付嘱と判じ給ふ。今の題に始むとは地涌千界出現して始むる故に、亦是れ勧むる義也。故に応始の二字一往不同なれども再往は意同じき也。次に経に於我滅度後とは今如来滅後後五百歳と云ふ是れ也。経に受持とは今の観心是れ也。経に此経とは今の本尊是れ也。仍て妙薬の記十卅九に云く、能持と言ふは四法を持つ也。所依の本文既に四義具足す、能依の題号豈に具足せざらんや、故に知ぬ今文の題号は必ず四義を備ふる也。二には四義具足の例文に依る。故に釈尊の観心本尊抄に云く、爾時世尊告舎利弗諸仏智慧甚深無量と云云。爾時とは感応道交の時也、世尊告とは応也、舎利弗とは機也、智慧甚深無量とは法也。又寿量品に云く爾時仏告諸菩薩一切大衆乃至如来秘密神通之力云云。是の如く本迹二文分明也。今此の題号に四義具足する亦復分明也。三には宗祖の法華経四義具足の明文に依る、故に当書に云く此の時地涌千界始て世に出現し妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ云云。又云く仏大慈悲を起し妙法五字の袋の内に一念三千の珠を裏み末代幼稚の頚に懸けしむ云云。四には諸点を簡ぶとは、一には啓蒙に云く始めて心の本尊を観ず云云。此の意は始の字を機に約する也。又啓蒙に云く未曽有の文に合する故に吉也云云。難じて云く未曽有とは即是れ法に約す、是れ機法不対の成ずるに非ずや、況や義の如くんば始観の二字は是れ体也、心本尊は是れ用也、豈に顛倒に非ずや。二には常忍記に云く後五百歳に始めたる心の本尊を観る云云。此の意は始字を法に約する也。難じて云く若し此の如くんば巳に始たる本尊也、而るに此の本尊は今始むる本尊也、何ぞ巳始に約して之れを読むを得るや。三に日忠記に云く第五百歳の二百年に御出世の故に後五百歳の始と題する也文。難じて云く五百歳の二百年の御出世は第五の五百歳中に含在せり是即ち言惣意別なり、故に後五百歳と云ふ、即ち二百年の義有る也。何ぞ亦重ねて始と云ふや。四に日辰の記に云く、万年の始を指す故に始と云ふ也云云。難じて云く後五百歳は即万年の始也。妙楽記一に云く末法之初等云云。諸御書の大旨皆後五百歳を以て末法の始と為す、何ぞ更に始の字を置かんや。五には日我の記に云く、本尊の末法に始まりたる事を遊ばさるる書也云云。此の意は始まると点じて法に約する也、諸義の中に此の点最も勝るなり、然りと雖ども今応の点に約して自ら法の点を摂す。故に此の義をば所含に意得べき也。但法の点には必ず応の点を収めず、応の点には必ず法の点を摂む。是れ則ち法は独り弘まらず、之れを通ずる人に在りの道理なるが故也。疑て曰く、本朝沙門日蓮と有り、故に始観心本尊は是れ法に約すと云ふべし、何ぞ応等と云んや。答ふ此の文に依るに弥応の義好し、何となれば後五百歳に始むる者は誰人ぞや、即是れ本朝沙門日蓮也。
次に観心本尊の点を明すとは、弘二に云く若し正境に非ずば縦ひ妄偽無くも亦種と成らず云云。故に先づ正境を定め以て種を下すべし、今此の中にはノの字の一点は尤も肝心也。是れ則ち一点多生を助くる也。而るに日本国中智者学匠皆此のノの一点を捨つ。故に悉く末法下種の本尊に迷ひ皆阿鼻に堕つ。若し門弟の中にも此のノの点を捨てる者は則ち当に阿鼻に堕ち多劫三五の塵点を経べきこと疑ひ無きもの也。抑も名鳥は高樹に宿り、賢臣は明君に使ふ、予彼々の諸師に及ばずと雖ども本門直機之流を汲む故に蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶの道理にして、深く此の義を知る者也。応に知るべし、観心の本尊とは、彼の熟脱教相の本尊を簡んで此の下種観心の本尊を示す。故に観心の本尊と云ふ、例せば本門の本尊と云ふが如し。
今此の義を明すに略して三門と為す。初には当家所立の教相観心の相を示す、自ら五重の道理文証有り。一に開目抄の上に云く、真実の一念三千は但法華経本門寿量品の文の底に秘し沈め給へり云云。是れ則ち文上脱益教相本尊を簡で、以て文底下種観心本尊を示す、故に秘沈と云ふ也。二に十法界卅四卅一に云く、観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず云云。彼の天台の四重の興廃と宗祖四重の興廃と文同義異也。今此の文宗祖の興廃也。是れ則ち彼の教相本尊を廃して、以て観心之本尊を立つる也。三に本因妙抄に云く四に名体不思議とは是れ観心直達の南無妙法蓮華経也云云。是れ則ち前三重の教相を簡び、以て第四の観心直達の題目を取るなり。四に又本因妙抄に云く下種の法華は独一の本門也、是れ不思議実理の妙観也云云。五に又本因妙抄に云く、一代応仏の或を引へたる方は理の上の法相なれば、一部倶に理の一念三千等云云。是れ則ち一部八巻皆教相と為して、文底を以て観心本尊を為す也。当に知るべし当家所立の教相は永く諸家に異る。
次に宗祖の本意は唯種脱に在るを示す。常忍抄に云く、日蓮之法門は第三の法門也云云。此れ常途の如し、又本因妙抄に云く、彼の本門は予が迹門、彼の観心は予が教相云云。又一百六箇の法門皆是れ種脱の二門也。
次に正く熟脱教相本尊を簡び、下種観心本尊を示すとは、一は本門の本尊と観心の本尊と名異義同也。何となれば倶に教相熟脱之本尊を簡び、以て観心下種の本尊を顕す故也。二は本因妙抄破教立観の下に云く、爾前迹本の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経観を立つ云云。三は又会教顕観の下教相の法華を捨てゝ観心の法華を信ずる也云云。四は此の書に云く、本門の肝心南無妙法蓮華経に於て云云。又云く寿量品の肝心妙法蓮華経云云。此は中に本門及び寿量品とは正く爾前迹門前後十三品を簡ぶ也。肝心と言ふとは正く熟脱の法華を簡ぶ也。南無妙法蓮華経とは即ち是れ、観心の本尊也。五は下の文に云く、在世の本門と末法と一同の純円なり。但し彼は脱、此は種、彼は一品二半、此は題目の五字也云云。此の文正に是れ此書の本意也、故に観心の本尊とは即ち是れ下種の本尊の事也。此の如く意得て須く但一筋に信心修行すべきもの也。返す返すも信心に習学せよ。此のノの字一点を日寛が形見となして各の信心之れを伝へ広布の願を成就せよ、必ず必ずノの一点を忘れず疾く霊山に詣で三仏の顔貌を拝見せよ南無妙法蓮華経。六月廿四日
別座に云く前代巳来此の書を讃すと雖も還つて書の意を死す。又当山に於て、先師学匠此の書の講談始終を聞かず、予年六十に始めて之を開拓す。汝等如何国王将軍の御前にて之を講ずるに、恐れ無く怖れ無く、予が如く之を談ぜよ云云。
 二席 六月廿六日
次に別釈とは、云ふ所の如来は即ち応身也。滅後の語は正像末に通ずるなり、後五百歳は別して末法の初めを指す也。問ふ大集経と今経と隠没流布の相違如何。
答ふ具には撰時抄の如し、但し末法流布の法花とは即ち是れ末法下種観心の法華経也。上野抄に云く、末法に入りぬれば余経も法花経も詮無し等云云。高橋抄に云く(四十四卅五)末法に入りぬれば小乗経権大乗経並に法華経は、文字は有れども衆生の病の薬とは成らず云云。
問ふ此の題号神力品に依ること何を以て之を知る、答ふ此の書の大旨を案ずるに、既に結要付属に依て明す故に、正しく神力品に依る也。
問ふ始むと点ずる時は、但だ竪に正像を簡ぶ乎。答ふ若し始むと点ずれば必ず横竪を簡ぶ、謂く横には一閻浮提を簡び、竪には正像を簡ぶ、故に本尊問答抄に云く、此の御本尊は世尊説き置せ給て二千二百三十余年の間一閻浮提之内未だ弘めたる人候はず当時こそ弘まらせ給ふべき時に当る。
中に於て竪に簡ぶを以て正と為す、故に未曽有の本尊抄と云云。報恩抄、取要抄、秘法抄等皆此の意也。問ふ始の字応に約して竪に正像を簡ぶ証文如何。答ふ万年救護の御本尊の端書に云く、大覚世尊御入滅後二千二百廿余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三箇国之間未だ此の大本尊有らず、或は知て之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す、後五百歳之時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す(巳)上。文永十一年(甲)戌十二月 日。問ふ宗旨建立より巳後本尊を遊ばさるる耶、答ふ私語式の意は所問の如き也。啓蒙の意は縦容也。今正しく之を答ふ佐渡巳前には未だ遊ばされざる也。未だ身業の読誦を終へざる故也。佐渡に移させられ給ふ時数々の二字を読ませたもう、仍て一書に云く、日蓮法華経一部読みて候云云。既に其れ未だ身業読誦を終へず何ぞ本意を顕わさんや。縦令ひ遊ばさるる有りと雖も本意に非ず。仍て三沢抄に云く、佐渡巳前は仏の爾前経の如し等と云云。故に知んぬ佐渡巳後に於て御本意を顕す也。問ふ若し爾らば佐州にして則ち之を遊ばさるる乎。答ふ此の事測り難しと雖も而も此の御書述作の後之を遊ばさるると見えたり。故に御本尊の廿余年云云。此の書の述作二廿年に当る故也。但し文永元年の紺紙金泥の御本尊当山に在り、又中山に建長年中の御本尊有りと之を聞く、此れ等は或は一機一縁の為にして御本意に非ざる也。問ふ若し爾らば建治文永の御本尊並に是れ本意にして終窮究竟の極説なり耶、答ふ玄義第七三世了簡の下、又日眼女抄往見、若し弘安巳後は終窮の極説也。但し正しく極を論ぜば弘安二年御年五十八にして本門戒壇の御本尊を図す是れ則ち宗祖終窮地究竟の極説也。之に付て天台大師は五十七歳にして己心中の法門を説き巳り章安に付属し御年六十にして御入滅し給ふ也。吾が宗祖聖人は御年五十八にして御本懐を遂げ六十一にして御入滅し給ふ也。是れは像末の次第也。又天台大師四月廿六日止観を説き始む、宗祖は四月廿五日本尊抄を終る、又十月と十一月との御入滅也。此れは種熟の次いで也。例せば釈迦は脱の終り二月十五日に御入滅也。宗祖は下種の始め二月十六日出現し給ふが如し、又天台大師と日蓮聖人と各々本意を遂げ畢つて四年を過ぎて御入滅有り不思議也。但し一説に天台大師五十七歳にして御入滅と云云。統記等に出づ今之れを会合するに智者大師既に五十七にして御本意を顕し章安に付する故也。例せば世間の人の隠居するが如し、未だ巳に死せずと雖も而も世を譲るが故に五十七入滅と云ふか。但し智者誕生の日未だ之れを知らず。若し之れを知る者有らば誰れ人も書き付けて疾く知らずべし。釈尊宗祖並に御誕生は即ち仏生日也。御入滅亦仏滅日也。準知するに天台大師も必ず仏生日に御出現有るか不思議也。
問ふ御本尊の讃文諸山、上に例する皆卅余年と書く、啓蒙に云く、京本国寺に弘安元年四月の御本尊有り、又日弁所持の御本尊弘安二年七月也。倶に卅余年と有り云云。又本尊問答抄、初心成仏抄、四条抄、千日抄等皆卅余年と云云。啓蒙に云く、深意あるべし云云。今之を推量するに仏七十二にして始めて法華を説き、七十六の御時正に寿量品を説き、七十七にして神力品を説き事極まる也。故に以て御年七十七歳より弘安元年に至る即ち二千二百卅一年に当る。故に弘安元年巳後は並に是れ卅余年也。覚応私に云く、享保六、七月七日重須に詣うで宝物を拝見するに、弘安二年同三年の御本尊並に二十余年と有り、又仙台仏眼寺の重宝に文永五年十月十三日の御本尊有り、卅余年と云云。
別座仰せに云く、仏眼寺の御本尊は不審也云云。次に観心本尊を釈せば、問ふ能化の観心か、所化の観心か、答う凡そ今観心とは即ち是れ所化に約する也。此に於て二義あり、一には末法我等が観心を明し、二には観心の相貌を明す。初の意は、夫れ観心とは即ち是れ我れ等の信心口唱也。故に下の文に云く、幼稚に服せしむ云云。又云く、末代幼稚の頚に懸け令む云云。此れ即ち観心也。而るに日辰云く、能化所化の観心云云。又日我云く、能化の観心也云云。此れ等恐らくは不可也。今問ふ能化は即ち能弘の師、何ぞ観心を用ひんや。次に相貌とは凡て当家の観心は上根上智の観心に非ず。只是れ下根下機の観心也。但だ仏力法力を憑み余念無く南無妙法蓮華経と唱ふれば即ち日蓮と成り即ち本尊と成る。是れを観心本尊と云う也。故に当体義抄に云く、但だ法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱ふる人、乃至無作三身の当体蓮花仏、是れ即ち法花の自在神力の顕す所の功能也。敢て之を疑ふべからず、疑ふべからず云云。此の中に法華経とは、末法下種の法華経也。仍て次下に本門寿量の当体等云云。又下に云く、本門寿量の教主等云云。当に知るべし倶体倶用の無作三身とは、即ち是れ日蓮也。当体蓮花仏とは是れ妙法蓮華経也。但だ余念無く、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、即日蓮即御本尊也。是れ則ち仏力法力に依る。全く自己の力に非ず。故に次下の文に云く、法華の自在神力の顕す所の功能なり云云。法華とは、即ち是れ法力也。自在神力とは、即ち是れ仏力也。又本因妙抄住不思議顕観の下の口唱首題の理に造作無し等云云。然るに天台等は、自己の心を観じ、其の末弟等皆自力を以て、成仏を遂げんと欲す、墓無き思ひ也。当に知るべし天台弘通の所化の機は、帯権の円機也。日蓮弘通の所化の機は、是れ即ち本門の直機也。我等直達の妙法を信行する故に、以て直達也、本因妙抄に云く、理即短妄の凡夫の為、観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是れ也云云。而るに啓蒙に云く、事造の本尊に向て之を礼拝する。即ち是れ観心也と、或は浮浅也或は伝ひ過ぎたり矣。又日忠の記に云く、聞仏寿命長遠乃至能一念信解等云云。寿命長遠は事の一念三千也。一念信解は、是れ事の観心也、能観所観倶に事也云云。此の意は凡そ事の一念三千は、本因本果也。下の文に云く、能化巳に、過去にも滅せず、未来にも生せず所化以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足せる三種の世間也云云。即ち此の意也。然りと雖も此れ皆脱益の教相にして、倶に理に属する也、故に知ぬ、当流の事の一念三千は、永く諸流に異なる。当に知るべし、当流は但だ造作無く、唯信心に題目を唱うる。即ち日蓮即本尊也。此れ即ち当流の観心法門也。仍て、修禅寺相伝に云く、本門実証の時には、無思無念にして三観を修す云云。此れ即ち本覚無作の一心三観也。玄三四に云く、思無く、誰の造作無く、故に無作と云ふ云云。又大教縁起に云く。妙名を唱うる、即一心三観一念三千也。何んぞ妙名に観心無しと云ふべけん耶文、又記三に云く、手に経巻を取らず等云云。此れ等の御釈は内鑒冷然なり、故に知ぬ当家の観心は、但仏力法力を憑み、妙法を信じて南無妙法蓮華経を唱うる、即ち本尊也。即ち仏也。故に余念無く口唱する行者は一生の内に即身成仏する也。頼母敷き也、頼母敷き也。六月廿六日
 三席 六月廿八日
別釈の中に第四本尊の義を釈すと、亦二門と為す、一に本尊の躰を示し、二に本尊の名義を明す。初め本尊とは、即ち是れ事の一念三千也。迹門実相の一念三千は理性の三千也、本門事円の一念三千は三妙合論の三千也。並に是れ熟脱三千にして文底下種の三千に非ざる也。当に知るべし当家の事の一念三千の尊体とは、即ち是れ久遠元初の自受用身也。伝教云く、一念三千即自受用身云云。但し此の自受用身とは、一代教の中但法花経、法花経の中但本門寿量品、本門寿量品の中には、但文底に秘沈す。其の故は釈迦世尊巳に蔵通別円迹本と次第昇進して、漸く正在報身の仏と成る。是れを応仏昇進の自受用身と云ふ也。今此の事の一念三千の尊躰自受用身報身とは、即ち是れ久遠元初の自受用身今日蓮の尊躰也。惣勘文抄に云く、釈尊久遠五百塵点劫之当初凡夫にて御座せし時、我身は地水火風空なりと知し、即座開悟得脱云云。此の中知るとは、心也、智也。地水火風空とは、本有の五大にして色法也、又境也。此の色心境智の二法冥合する、則事の一念三千自受用身の尊躰也。当体義抄に云く、至理に名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時の不思議の一法之有り乃至闕減無し等云云。
之に付て開合有り、開すれば色心各別し、或は色法を以て即ち境と為し、或は心法を以て即境と為す、天台の通例なり、故に勘文抄の如く色法を以て境と為す故に此の五字を以て人身の体を造ると云ふ也。是れ則ち本地難思の妙境也。故に知らぬ、今の本尊は即ち自受用身の当体を指す也。次に当体義抄の如く、心法を以て境と為す故に不思議の一法と云ふ也。是れ即ち本地難思の妙智也。故に亦事也。当に知るべし、若しは心、若しは色、並の事の一念三千也。若し合せてこれを論ずれば、人法一躰色心不二の境智冥合の尊体は、即ち是れ本尊也。本地難思境智冥合の妙法とは是れ也。当に知るべし今の観心は只是れ信心口唱也。今の本尊は即ち是れ境智冥合の尊体也。末代の吾等此の本尊を信ずれば、即ち是れ境智冥合の尊躰観心の本尊也。
問ふ蓮祖何時に内証真身の成道を唱ふるや。答ふ開目抄下廿四に日蓮と云し者等云云。次に本尊の名義とは本より尊とし読めば所弘の法也。本とし尊と読めば能弘の人也。是れ則ち本尊には、根本主師親等の四義具足する故に尊としと云ふ、一仏境界無二尊号これを思ひ合せ。問ふ本尊問答抄には能生を本尊となす云云。答ふこれに付いて分別有り或は主師の徳を具足せる父母有り、又主師の徳を具せざる父母有り。所謂舜の父は、頑愚にして且つ賤き故に父なりと雖も尊としとならず、而るに今の本尊は三徳具足の親也。故に普賢観経に云く、法蔵云云、即ち是れ主君の徳也。又云く眼目即ち是れ師の徳也。又云く能生等云云。即ち是れ親の徳也。故に知んぬ、問答抄は三徳具足の親を以て、則ち本尊となす。故に能生云ふ也。又妙法尼漫茶羅供養抄廿八に、但だ師を挙ぐると雖も、亦三徳を具す云云。これを思へ。書廿七に、異本及び、記十の文を引いて云く、諸仏の師と云云、又云く、能生等と云云。記に云く、法を以て本となす云云。開目抄下に云く、主師父母云云。然るに啓蒙に録外廿三(十四)日女抄を引いて云く、本有の尊形等と云云。此の了簡不可也。何となれば、日女抄本尊の文義を釈するに非ず。又真偽未決也。又日忠日我の了簡亦不可也。今難じて云く、若し義の如く久遠元初に於いて、本尊の名義如何んが意を得んや。又漫茶羅此に功徳聚と云ふ也。問ふ啓蒙に惣別の本尊を明かす云云。又日辰抄に惣別の義をいだす。如何んが意得んや。答ふ当流には用ひず。且く惣相別相を立つれば、本門戒壇の本尊は、即ち惣相也。在々処々の本尊は是れ別相也、抑も末代凡夫唯だ一念信心に、口に南無妙法蓮華経と唱ふるは、主師親の三徳四徳円満の尊体と成る故に、止観第四(五十九)に云く、法華に云く、己が智分に非らず、乃至心に法を信ずれば、法心に染む等云云。
第三惣結とは、一には初の如来滅後等の九字は、即ち正像未弘の法を顕すなり。次に観心とは、即ち是れ本門の題目なり。次に本尊とは、即ち是れ人法一体の尊体なり。此の本尊の所居の処は、即ち是れ戒壇なり。故に知んぬ、此の本尊抄亦正像未弘の三大秘法抄とも名くるなり。
二には初の九字は、即ち末法能説の師を顕わすなり。次の観心本尊の四字は、即ち是れ所説の法なり。所説の法の中に観心の二字自ら智行位の三妙を収む、本尊は即ち是れ境妙なり。故に知んぬ亦末法下種の本因妙抄と名づくるなり。三には初の九字は、即ち能弘の師を挙げ、次の四字は所弘の法を挙ぐ、若し開すれば色心各別なり。所謂色は一念三千即自受用身本有五大の種子の法なり。心は自受用の心智一念三千なり。若し合すれば色心不二の妙境妙智、境智冥合事の一念三千なり。故に亦末法弘通の事の一念三千抄とも名づくるなり。四には初の九字は末法弘通なり。次の四字は所弘所行の題目なり。凡そ観心とは、只是れ信心口唱の修行なり。是れ則ち本尊の題目を信行する故なり。故に亦末法事行の題目抄とも名づくるなり。五には、亦是人於仏道決定無有疑抄とも名づくる。日蓮聖人所弘の仏法を信じ南無妙法蓮華経と唱ふる人は、決定成仏疑ひ無き故也。次に日字の事、重々の習合これ有り云云。会疏二(六十二)云く、日に三義有り、一には高円明らかなるは主益に譬ふ、二には万物を生長するは親益に譬ふ、三には照了除闇は師益に譬ふ、又恵日大聖尊と云ふ事なり。御書に云く、日蓮は一閻 浮提第一の智人云云。又云く、大人云云。又云く聖人云云。又云く唯我独尊云云。又既に所居の処大日蓮花山なり。故に能居の人亦日蓮と名づくるなり、是の如く重々大事の法門口外すべからず、信心を取るべし。六月廿八日
別座聴聞記、凡そ本尊とは事の一念三千也。其の体は久遠元初の自受用身なり。惣勘文抄に云く云云。此の中に知とは心なり。智なり。五大は色なり。境なり。色心不二境智冥合の尊体は、即ち是れ事の一念三千の本尊なり。当躰義抄に云く云云。此の上開合を論ずれば、若し開するときは色心二法なり。色は本有は五大種なり。久遠名字の釈尊の五大即法界の五大なり。法界の五大即釈尊の五大なり。仍て事の一念三千なり。此れ色境なり。次の心とは、当躰義抄云云。此の中不思議の一法とは心法なり。此の心法即智恵なり。此の智即事の一念三千なり。若し合すれば、本地難思境智冥合の妙法即事の一念三千なり。仍つて内証真身成道より外に成仏これ無し、是れ則ち名字の即身成仏なり。問ふ蓮祖何時に成道を唱ふるか。答ふ開目抄下(廿4 )の如し云云。まさに知るべし。久遠名字の釈尊と末法出現の日蓮と同体異名なり。籤八(四十一ヲ)云云。次に事の一念三千抄と云ふ事。若し開すれば観心、但だ信心口唱本因本果なり。仍つて本因妙の信心口唱は即事の一念三千なり。天台云(文九廿)。
当に知るべし信心は是れ因なり。口唱は是れ果なり。次に本尊とは、事の一念三千なり。若し合すれば観心は、仏界即九界なり。次に本尊とは九界即仏界の故に観心即本尊なり。故に我等が信心は、即ち本尊の体なり。私に云く、此の意初め観心の二字をば九界となし、亦本因とするなり。次に本尊の二字を仏界となし、亦本果とするなり。
又別座にこれを聴聞す、凡そ本尊とは、事の一念三千なり。其の体自身なり。勘文抄の如し云云。問ふ此れ修得なりや。答ふ修得なり。即ち南無妙法蓮華経と唱え得るなり。当躰義抄の如し云云。次に開合とは、開は則云云。前の如し、合すれば本地難思等と云云。弘五上に云く、無始色心本是理性妙境妙智等云云。故に知んぬ、只是れ久遠名字の妙法云云。次に日蓮聖人成道の事云云。観心本尊と合する時文九廿之れを引く云云。
 四席 七月朔
第三に入文判釈とは、亦分けて三となす。初めに一念三千の出処を示し、次は観心の本尊、三には惣結、初めの文亦二、初めに正しく一念三千の出処を示し、次に三千、情非情に亘ることを示す。初めの文亦二、初めに正しく出処を示す、次の問て曰く玄義の下は出処止観の正観章に限ることを示すなり。
一、摩訶止観第五(文)、此れ正しく一念三千の出処なり。具さに弘決第一の釈の如し云云。
一、世間と如是の一なり等(文)、此の二句宗祖の注文なり、これについて諸師異義蘭菊なり。今謂く此の注は只是れ異文を会するのみ。何んとなれば、止観の文一念三千の数量を成ずるに、自から二種有り、一には開釈中の心は十界を能具となし、世間を所具となす。又世間は是れ能具、十如はこれ所具なり。則ち三千の如是を成ずるなり。二には結成の中の心は、十界は能具、十如は所具、又十如は能具なり。世間は所具なり。則ち三千の世間を成ずるなり。若し十如を得、若し世間を得れば、二種異なると雖ども、しかも三千を成ずることは、只これ一なり。故に世間と如是と一なりと云ふ。次に開合と異とは、若しくは結成の中、若しは開釈の中に、各開合有り、若し開釈の中には則ち世間を合して十如を開す、故に三千如なり。若し結成の中には則ち世間を開して十如に合する故に三千世間なり。天台一家の意この二途を出です。当家の心亦この二途に依る、故に開合の異なりと云ふなり。当に知るべし、今引証の文は是れ三千世間に約するの文なり。亦次下に、開釈の中の文を引く、悪国土相性等の文是れなり。而るに日遠の止観追加に云く、開釈結成倶に但十如に約す。則ち是れ法花の十如に依つて三千を立つる故なり。故に世間とは、即ち如是の事なり。故に世間と如是と一なりと云ふ云云。取意。此の了簡に世間即ち是れ如是と云ふ事一往爾りと雖も、再往不可なり。何んとなれば、凡そ大師の本意は本門寿量に依つて、則ち一念三千の義を成ず。故に十章抄に云く、義分は本門に限る云云。但だ大師且らく、本門の義を以つて、迹門の十如と与て三千を釈す。是れ則ち外適時宜の故なり。故に知んぬ、若しは十如に約して三千を釈し、若しは世間に約して、三千を判ず。並に本門寿量の意なり。十界久遠の上に国土世間既に顕はるる故なり。又妙境要解に云く、開迹は法花十如に依り、又結成の中は大品涅槃経に依る云云。此れ亦大いに不可なり、又朝抄に云く、開釈の中は迹門の意なり、結成の中は本門の意なり云云。此の大旨はしかるべきに似たりと雖も、而かも釈義不可なり。又日忠日我等の了簡は大体今の意に非ず、故にこれを用ゆべからず。今只だ是れ異文を会するのみなり。何ぞ別義を以つてこれを釈せんや。
此の下正しく出処を示すに三、初めに異文を会し、次に正しく文を引く、三に異本を示すなり。引文の中に三、初めに本尊、次に観心、三千なり。
一、一心に十法界を具す等(文)、此の文の面は常途の如し、今の元意は、一心とは、即ち此れ自受用身の一心なり。此の一心、即ち南無妙法蓮華経なり。十界の聖衆三千即ち是れ本尊なり。御書に云く、日蓮が魂は南無妙法蓮華経なり云云。当に知るべし、夫れ一心具等の文は正しく己心の本尊を明すなり。
一、此の三千一念に在りとは、三千即ち上に顕はす所の本尊なり。一念とは即ち是れ信心なり。若し唯信心なる則んば、此の三千我等が一念に在す。故に此三千在一念と云ふなり。一書に云く、此の本尊も只だ信心の二字に収まれり云云。当に知るべし、此の三千の下は正しく観心を明すなり。
一、若し心無くんば而巳ん(文)、若し信心なき人には、此の本尊在さざるなり。弘五に云く、執著の一念に具せず、無相に達して具す云云。若し池水清ければ、自然に月移る、信心の水清ければ豈に三千の本尊在さざらんや。録外二(廿五)往見。
一、介爾も心有れば(文)、文意に云く、介爾も信心有れば、即ち三千の本尊を具するなり。
一、不思議境等(文)、此の下、観心本尊を結するなり。不思議境とは、即ち本尊を結するなり。意此に在りとは、即ち観心を結するなり。謂く大師の本意、末法の時、此の本尊を信ぜしむと言ふ意此に在るなり。日我等の義不可なり。
一、或本等(文)、此れは異本を示す、其の意往いて同じ、何んとなれば、此の意は一法界の十如に、自ら三世間を具す。故に十界互具百界千如には、即ち三千世間を成ずるなり。
問ふ今文の上には但十界世間のみ有り、而るに十如無し、如何に意得ん。答ふ文の面にこれ無しと雖も百界と言ふ。其の中に宛然として含在せり、此れ即ち大師の深意巧釈なり。若し智者に非ず、平人の釈ならば、直ちに文面に顕はるべし。若ししからば、甚だ文義倶に疎遠なり。
別座に云く、是の如く釈すればこそ智者の釈なれ、凡人ならばよも是の如くは釈すべらかず。
問ふ何ぞ諸師の了簡を用ひざるや。
答ふ諸師皆いまだ相伝を知らず、故に悉く当家の元旨に暗し、豈これを用ゆるを得んや、当流の元意は本因妙抄の開教顕観の文と云云。
一、玄義等と(文)、此の下出処正観章に限るを示すに、又分ちて二となす。初めに玄文止観前四に明さざるを示す。亦二、初めに玄文並に明さざるを示す。又二、初めに正示次に証文なり。玄義等とは上の摩訶止観に対して問起せり、次下の止観の一二三等は上の第五に対して問起せるなり。
一、玄文等(文)、此の下闕答せることは、彼の玄文の中には但千如に限りて三千を明かさず云云。文分明の故に闕答するなり。
一、止観の前四巻等(分)、此の下次に止観前四に明さざるを示す、又二初めに正示、次に証文、次に玄分止観前四に明さざるの相を弁ず、又二、初めに玄分並びに百界千如に限るの相、次に問ふて曰く、止観の下は前六章は即ち方便に属するを明す、又三、初めに正しく明す、次に証文、三に夫れ智者の下は結釈に、又二、初めに本師を歎じ、次に墓無しの下は因に末師を斥たるなり。
一、止観前四巻等と(文)、此れ即ち前六章皆方便に属するを示す。既に前一二三四巻にはいまだ一念三千を明さざるを示す。故に知んぬ、文には但だ四巻と有れども其の義意各別なり。故に引文に若望正観等と云ふなり。
一、心に異縁無かれ等(文)、此の文他破なり、異縁とは法花修行の外は皆異縁なり。
一、廿九年等(文)、九字恐らくは謬まりなり、まさに七字に作るべし。例せば撰時抄の如し、和語式云云。是れ則ち七と九と字形稍や相似たる故なり。故に彼には九の字七に作る、今は九に作る、恐らくは伝写の謬りなるか。論師とは即ち人師を指すなり。
一、問ふて曰く、百界千如等(文)、此の下第二、三千情非情に亘るを示す、又二、初めに界如三千の差別を明かし、次に非情の十如を明かす、又二、初めに正明に、又二、初めに難信難解、次に雖爾の下は道理なり、次に証文なり。
一、問ふて曰く、百界千如等(文)、此の下、界如三千の差別を明す、此の問難は上の疑曰と云うより起るなり、彼の玄文の中には但百界千如有情に限る、是れ則ち迹門の意なり、止観の三千は情非情に亘る、是れ則ち本門の意なり。
一、答ふ此の事難信等(文)、此の中又二、初めに引文次に釈、又二、初めに列名次に正釈なり、或いは云く、答に又二、初めに惣じて難信を示し、次に天台の下は釈、又二、初めに列名、次に別釈、又二、初め教門、又三、初めは標、次は釈、後は結するなり。次に観門に又二、初めに正釈、次に雖爾の下は道理か。
 私に云く、此の答えの中分文失念未決なり後日これを尋ねん。先づ異聞これ述べるなり。
一、其の義は□□自り出でたれども(文)、爾か点ずべきなり。
一、止観に云く等(文)、今此の文を引くは非情に十如を具するを証せんためなり。次に釈籤の文を引くは、十如は唯非情の上の色心二法なるを証せんためなり。次に金・論を引くは、非情に三仏性を具するを証せんためなり。各一仏性とは即ち是れ性徳の性因仏性なり。各一因果とは即ち是れ三千なり。一一の当躰に各三千を具す故に各一因果と云うなり。具足縁了とは三千中道即空仮なり。故に具足等と云うなり。抑も天台家に草木成仏を明かす。惣じて四義有り、一は理性本来是れ仏なるに依る。二には仏眼の照覧に依つて仏と為る故、三には遮那の体、一切処に周遍するに依る故に、四には諸仏反つて作仏せしむるに依る云云。具さに止私一本(廿三ウ)の如し、若し当家の意但だ二意有り、一には草木不改本位の成仏、口伝録外十三十四に云く、草とも木とも成る仏云云。又廿三(卅一)に云く、草木は根本本覚如来本有常住の妙体なり云云。又惣勘文抄に云く、春の時○成仏の徳用を顕はす云云。草木の体は即ち是れ法身なり、草木自然に時を知る、即ち是れ報身なり、草木有情を養育する、即ち是れ応身なり。具さに録外十六無作三身抄の如し云云。二には草木成仏なり、御書廿八(十二)。又卅一(廿一)に云く、草木成仏と云へるは是れなり云云。此の上に元意をいはば本位の成仏は、即ち是れ事の一念三千の本尊也、次に草木成仏は即是木絵の成仏なり。是れ則ち本法下種の本尊と木絵の二像と生身仏ぞと信ずべしと云へる元意なり。
○再聞草木成仏の二意、一には草木不改本位の成仏、二には木絵成仏の元意は、末法の本尊と木絵二像とこれを信ぜしむる心なり。
 七月朔日
五席 七月四日
一、問うて曰く、出処の下、大段第二に観心本尊を明す。又二、初めに観心を明す。次に夫れ寂滅道場より下(十六)本尊を明すなり。初文に又二、初めに略釈なり、次に問うて曰く、法花の下は広釈なり。初に略釈の中に又二となす。初めに問、次に答なり。答の中に亦三、初めは法、次は譬、三は合なり、次に広釈の中又三となす。初めに引文、次に問うて曰く、自他の下は難信難解を示す。三に問うて曰く、経文の下は正釈なり。初め引文の中又二、先に問、次に答なり。答の中に又二、先に惣証、次に別証なり。次に難信難解を示す中に又二、先に問、次に答なり。答の中に又三、初めに引文、次に夫れの下は在世を挙げて滅後を況す。三に汝信の下は結歎なり。第三の正釈の中に又二、初めに現見に約して心具を顕はす、又以性見具と名づく、次に問うて曰く、教主の下は受持唱題を明かすなり、初め心具を顕はす中に又三、初めに六道、次に問答は三聖なり。第三の問答は仏界を具するの相を示すなり。初めの六道の中に又二、初めに問、次に答なり。答の中に又二、先に六道次に四聖冥伏なり。次に三聖の中に又二、初めに問、次に答なり。答の中に又二となす、先に惣答、次に別答、又三、初めに勧誡、次に引文、三に末代の下は道理なり。次に仏界の中に又二、先に問、次に答なり、答の中に又二、先に誡許、次に正答なり。初めの中に又三、先に誡、次に許、三に無過去の下は謗法過失を斥くるなり。初め許の中に又三、初めに生死等の縁、次に儒外を縁となす、三に爾前を縁とす、次に正答の中に又三となす、初めに難信の相を明かし、次に現事を引いて証す、三に此を以つて等の下は結勧なり。
一、観心とは啓蒙十六(本)卅に云く、問う台家の観心なりや。当家の観心なりや。答う附文元意と云云。此の説もつとも可なり、今此の文、略釈の故なり、弘五上(七十四)に云く、一家の観心永く諸説に異なり等云云。台家の附文観心とは且らく此の文を以つて意得べきなり。別義有りと雖も並に皆不可なり、又附文の辺に約して観我己心と言うとは即ち是れ妙解なり、見十法界と言うとは即ち是れ妙行なり。次に当家の元意とは観我己心と言うとは即ち本尊を信ずるなり。己心は即ち是れ本尊なるが故なり。故に初心成仏抄に云く、己心の妙法蓮華経を本尊と仰ぎ奉つる等云云。次に見十法界と言うとは即ち本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は自然に是の本尊が備はるなり。但し啓蒙等に己心の本尊を見る等と云うは大いに不可なり。何んとなれば末法の我等は理即但妄の凡夫にして無智無解なる故に、一向に本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は即ち是れ本尊の全体なり。何んぞ智恵に約してこれを釈せんや。
一、未見自面等の文、問う六根何んぞ面に居するや、答う啓蒙十七に記三下(六十)を引いて云く、若し現量の色等の境に縁する時意又上に居る云云。文三(八十四)に云く、凡人面に於いて欲を越し能く猗楽を生ず、然かる後に身に遍す云云。故に知んぬ六根並びに面に居るなり。問う自身の六根と云うべし何んぞ自面と云はんや。答う且らく六根の面に顕はるに従う故なり。又内心所具の十法解皆面に顕はるる故なり。次下の意云云。故に面と云うなり。
一、明鏡に向う等(文)、即ち是れ法花止観を信ずる時自ずから自具の十界を見る故なり。若し法花止観に背く爾前迹門の謗法の輩は自具を見ず、濁水に心無けれども月を浮べて自ずから浄めり等云云。御書十六(七)往見。
一、設ひ諸経等(文)、此の譬の意は、即ち明鏡に向つて則ち自具の十界を見るに譬ふるなり、是れ即ち法花止観の明鏡を信じて而かも自具の十界を知るに合するものなり。
一、法花経並びに止観(文)、法花経は即ち是れ所釈なり。止観は即ち是れ能釈なり。今能釈所釈を挙げて並びに明鏡となす。これに付いて摩訶止観は法花の能釈か、能釈に非らざるかの事、台家の異論なり、所詮止観は法花の能釈なり、具に御書十一(四十四)の如し、彼の玄文に但百界千如を以つて名づけて妙法となす、止観には一念三千を以つて名づけて妙法となす。故に玄文には広く妙法を釈すれども、猶ほいまだ其の義を尽くさず、但だ有情成仏に限り非情に亘らざる故になり止観の中には広く情非情に亘り妙法の成仏を明かす故なり。当家の元意は法花経即ち是れ所釈の本尊なり。当抄は即ち是れ能釈の止観なり云云。
一、止観を明鏡に譬ふる事、伝教大師の注釈の如し云云。
一、当家の本尊を明鏡に譬ふる事、元政草山集九云云。又御義口伝下(廿八ウ)云云。
一、引文の下問難の中に於いて、天台の釈を問うと雖ども而かも、答えの中にはこれを出さず則ち是れ上に、これを引く故にこれを略するなり。夫れ一心具十法界等の文是れなり。次に十二文の中初めの二文は惣証なり。次の十文は即ち是れ別証なり、此れ健抄の意なり。
一、欲令衆生等(文)、此の中の衆生とは即ち此れ九界なり、仏知見とは即ち是れ仏界なり、啓蒙云云。
一、我本行等(文)、日澄決疑抄云云、今謂はく、しからず言う所の猶未尽等とは仏界所具の九界なり、因位の寿命仏果の上に於いて猶いまだ尽きざる故なり。問う因位巳でに前なり、仏果則ち後なり。何んぞ仏界に九界の因寿を具するを得んや。答う止観宝記五に両義を出だすなり、今の意は其の一義なり。
一、地涌等(文)、問う今此に於いて何んぞ所具の十界と云はざるや、答う文義互現なり、今此の処は文に依つて明す下に於いて義に依つて以つてこれを明すなり、尚具仏界余界は即ち此の意なり。
一、十羅刹の文、日我抄の如し云云。
一、真浄大法(文)、即ち此れ菩薩所具の仏法界なり。これに付いて深意有り、玄第七に云く真浄大法を唱ふる、即ち之れ四徳云云。此れ則ち大師内鑒の釈なり、当家の意の南無妙法蓮華経は即ち是れ四徳なり、御義口伝上(四十四)に云く、南無とは楽波羅蜜なり、妙法とは我波羅蜜なり、蓮花とは浄波羅蜜なり、経とは常波羅蜜なり云云。南無とは此に帰命と云う、伝教の注釈に云く、南とは奉るなり無は命なり云云。故に知んぬ欲得真浄大法と言うとは、地涌千界応さに南無妙法蓮華経と唱ふる発誓の文なり。
一、或説等(文)、此の中、説とは即ち是れ能説にして是れ仏界なり、己身等とは所説にして是れ九界なり。
一、自他面(文)、問難の意は経釈の明鏡に向ふ則んば倶に自他の面を釈する故に自他と云うなり、彼此の十界を言うは、即ち是れ自他の十界。而るに今の人面に経釈を拝すと雖ども、十界互具を見ずと云う事なり、日忠記云云。
一、答の下、此の答の意は即ち是れ難信の法躰を歎ずるなり。当に知るべし、若し難信難解を開すれば六難となす、若し易信易解を開すれば九易となす、具に日忠の如し云云。
一、黒を以つて白と云ひ(文)、墨を作るを正となす、次に答相分明なり云云。
一、十界互具(文)、此の中又二、初めに伏疑、次に救助を求むるなり。
一、然りと雖ども等(文)、此の文の意を云く、若し疑ひて信ぜず救助を難ずと雖も強いてこれを言ふは亦助の法有り、所謂る仏を見、法花を聞いて得道する者もあり、又仏を見ず而も阿難等の辺にして而も得道する者もあり、即ち其の事を引いて証し、具に二類を出だすなり云云。
一、過去に下種結縁無き(文)、執著等の点但だ一類の事と見るべきなり、二類となすは不可なり、其の故は、縦令ひ過去に結縁を生ずと雖も執著無き者は自ら法華を信ずる故なり。
一、竜火等(文)、止観、往見、 七月四日
 六席 七月六日
問うて曰く、教主釈尊等(文)、此の下第二に受持に約して以つて観心を明かす、文分けて二となす、初めに問、次に答なり、初め問に又二、初めに教主に約し、次に経論に約するなり、初め教主に約する文亦二となす、初めに惣じて教主に約して以つて三徳を歎ず、次に別して権迹本に約して以つて因果を歎ずるなり、初めの文二となす、初めに正しく教主の三徳を歎ず、次に如是の下は結歎なり、次の文亦二、初め権迹に約して因果の功徳を歎ず、次に本門に約して因果四となす。初めは因行、次は劫数、三は供仏、四は果を挙げて因を歎ずるなり。三に結歎なり。次に果徳の中又二となす、初めに標、次に所謂るの下は正釈なり、第二に本門に約する中に亦二となす、初めに本因本果の徳用を歎じ、次に其の外の下は惣結なり、初め徳用を歎ずる中又二となす、初め正しく本因本果の功徳を歎じ、次に自ら其の下は化用の広深を明かす、此れ又二となす、初めは身説度生、次に以つて本門の下は広深に亦二、初めに多勝を明かし、次に勝劣を判ずるなり。次に結文の中に又二、先に通結、次に此れ等の下は結歎なり。第二に経論の文に約するに亦二となす。初めに執権謗実、次に夫一念の下は結歎なり。初めの文又二、先に執権、次に爾前の下は謗実なり、初め執権の中に又二となす。初めに経、次に論なり初めの文又二、先に正経、次に諸宗(所執)所讃の経々を引くなり、次に謗実の中に又二となす、初めに爾前今経の相対、次に其の上の下は別にして今経に就くなり、初めの文又二、初めに謗法、次に彼の馬鳴の下は謗人なり。次に別して今経に就く中に亦二となす。初めに謗法に又二、先に無文に約し、次に無義に約するなり、次に謗人又二となす、初めに論師を挙ぐ、釈の中無文無義、次に実人を謗ず、次に人師の無文無義を挙げて以つて実人を謗ず、初めの文中に又二、先に謗を挙げ、次に故請の下は証文を引くなり。
一、堅固にこれを秘す(文)、啓蒙に日恵抄の五義を挙ぐ、全く日忠の抄に同じ、恐らくは日恵日忠の床下に於いてこれを聞くか。今謂く皆しからず今但だ是れ正しく当家の観心を明す、是の故に堅固にこれを秘すと云云。是れ則ち受持即観心の義を明かす故なり。
一、三惑巳断等(文)、此の中具に三徳の義有り、謂く三惑巳断等とは即ち是れ父母の徳を挙ぐるなり、次に又十方等とは即ち是れ主君の徳を挙ぐ、次に演説八万法蔵とは即ち師徳を挙ぐ、若し三惑巳断は必ず二徳を備へ慈悲を起す故に父母の徳と云うなり。
一、行く時は梵天左に在り等部、今此の文正しく止観第五(百十七紙)に依るなり。御書十八(十)、これに同じ、然るに御書并に止観の本文恐らくは伝者の謬まりか。何を以つて知ることを得る、則ち二種の作法有り、故に若し行坐の時は必ず右は梵天、左は帝釈なり。若し聴法の時は必ず梵天は左、帝釈は右に在り。今文並びに止観の文既に経行の時を明かす。是の故にすべからく知るべし、梵天右在り、帝釈は左に居る。恐らくは是れ世人此の義を弁ぜず。輙くこれを改めるか。今此の義を明かさんと欲す。自から文理有り。初めに証文とは、一には西域六(十一)に依るに、仏正覚を成じ巳つて父の大王の城に行く時の儀式に梵天は右に在り帝釈は左に居る、故に彼の文に云く、如来大衆と倶に八金剛周衛し四天王前に導き、帝釈欲界天と左に侍べり、梵天王と色界天と右に侍べる等云云。二には仏・利天従り来下したもう時の儀式に依る、故に西域四(十八)に云く、如来、善法堂を起つて諸天衆を従へて中階を履んで下る、大梵王白払を執り銀階を履んで、而して右に侍べる、天帝と宝蓋を持し、水精階を蹈んで左に侍べり、天衆徳を讃す等云云。此れは姨母経の説に依るなり、三に仏入涅槃の後送の儀式に依る故に菩薩処胎経に明かさく。爾の時に大梵天王諸の梵衆を将いて右面に在りて立つ、釈堤桓因諸・利諸天を将いて左面に在つて立つ云云。珠林十九(七)にこれを引く(中字本)、四には戒日大王の祭礼の儀式に依る、故に西域五(六)に云く、戒日王は帝釈の服をなし、宝蓋を執つて以つて左に侍べり、拘摩羅王は梵王の義を作し、白払を執つて而して右に侍べる云云。五には唐の玄奘三蔵の現事を書けるに依る。故に西域二(廿一)に云く、伽藍の側に数百尺の●堵婆有り、無憂王の建立する所なり、是れ釈迦仏昔し菩薩の行を修をする処なり、乃至東に遠からず二石の●堵波有り、各高さ百余尺、右は則ち梵王、左は乃ち天帝の建てる所等云云、故に知んぬ、行座の時必ず右は梵天左は則ち帝釈なり。次に道理を明さば、一に天竺国の風俗に準ずる故に、謂く彼の国の風俗は右を以つて勝となし、左を以つて劣となす則ち漢土日本の風俗に異なる。二には現事に依る、故に大論四十(廿六)に云く、舎利弗は是れ仏の右面の弟子、目連は是れ仏の左面の弟子なり云云、故に知んぬ右は勝れ左は劣るなり。若し聴法の時は、仏は大衆に向つて説法す、大衆亦仏に向つて聴聞す、故に知んぬ此の時は仏の左は還つて上座となり、右は還つて下座なり、故に報恩抄上終に云く、教主釈尊宝塔品にして一切の仏を集め給ひて大地の上に居して大日如来計り宝塔の中の南の下座に居し奉りて教主釈尊の北の上座に著かせ給ふ。
又霊山の講堂は東面、宝塔は西面なり、故に御書卅一(廿六)に云く、去れば故阿仏房聖霊は今霊山の山中に多宝仏の宝塔の内に東向きにおはすと日蓮見まいらせて候等云云。
一、或は能施等(文)、此の四の因行四教に相配す。見るべし。則ち是れ蔵通別円の次第なり。但し能施太子の事は三蔵教に配す。如何んが有るべき等云云。私に云く、能施太子の事大論に出づ。
一、其の外等(文)、問う何に故に本門に約するや、答う十方世界の一切諸法悉く皆一念に居すと明かすとは、即ち本門を顕はす、巳後観心の法門の故なり。
一、答へて云く下、此の下答へに二、初めに経論の難を会し、次に但だ所難の下は教主の難を会す。初めに又二となす。初めに所問を歎ず。次に正会に又二、初めに執権の難を会し次に但だ可の下は、無文無義の難を会するなり。初会の中に亦二、初めに今昔相違の難を会し、次に論師人師の難を会す、又二、先に論師、次に人師なり、次に無文無義の難を会する中又二となす。先に無義の難を会し、次に無文の難を会するなり云云。
一、舌相等(文)、即ち是れ阿弥陀経の説を指すなり。
一、事章(文)、此の事章の二字、異本或は事書或は事畢等云云。今事章の二字を以つて正となす、即ち中山の正本爾かなり。但し恐らくは聖人の筆謬か、中山の了簡是の如し、縦令ひ聖人も示同凡夫の故に或は筆謬有るか。若し爾らずんば示同凡夫に非らず。但し奥義に於いて少しも謬まり無きのみ、世間の聖人に此の例これ多し、次に明らかなりとは二字倶に恐らくは剰せり云云。、七月六日。
 七席 七月八日
一、但し会し難き所は等(文)、此の下第二に教主の難を会す、文又三となす、初め難信難解を示し、次に世尊の徳用を明かし、三に正しく受持即観心を明かす、初めの文又二、先に引文、次に夫れ自仏在世の下は覚知の人少なきに約して以つて難信難解の相を顕はす、自ら又三となす、初めに覚知の人甚だ少なきを明し、次に内鑒冷然を示し、之に天台伝経の下は二聖巳後には多くの人これを知るを明かす。
一、巳今当等(文)、此に開合有り、常途の如し云云。日忠抄爾かなり。
一、問う難信等(文)、此の書の中に三度引く、其の所以は何んぞや、答ふ凡そ当家観心の大事の中の大事なるが故なり。三誡これを思ひ合せ、即ち是れ能信解に当る云ふ心なり。
一、但三人等(文)、横堅に約して以つてこれを簡らぶ、但三人なり。即ち月漢日三箇国の間正像の中に但三人なり。
一、天台伝教巳後これを知る、此れ自ら覚知するに非ず、二聖の智を用ゆる故なり。若し帰依衆の中には自ら進退有り。太田抄の中にこれを明かすが如し云云。
一、但初めの大難を遮す等(文)、此の下次に徳用を明かす中に又二となす。先に開結二経の文を借り以つて種子能生の徳を顕し、次に夫れ以つて釈迦如来の下は、非を以つて是れを顕はすなり。初めの文の中又二となす、先づ開経の文を借り以つて本地難思境智冥合の徳を顕はす。次に結経の文を借り以つて自受用報身三徳能生の徳を顕はす。
一、無量義経云(文)、初め開譬、次に善男子の下は合譬なり、譬は稚小を以つての故と云うが如し、爾か点ぜよ。
一、和合等(文)、今謂く、引文の意は、即ち是れ此の一文の肝要なり、当に知るべし余文は同文の故に来たるなり。謂く国王は是れ父なり、夫人は是れ母なり、父母和合するは、境智冥合と顕はる。故に能く十方三世の諸仏を出生す。従一出多これを思ひ合せよ、又一切諸法皆此の妙法に帰す。此れ即ち次下の意なり。従多帰一これを思ひ合せよ、故に三世の諸仏此の妙法を師となして正覚を成ずと云うなり。天台に云く、百千枝葉同帰一根と云云。妙楽云く、雖脱在現具謄本種と云云。皆是れ次下の意なり。若し元意は和合と言うとは、即ち是れ本地難思境智冥合本有無作の本尊の事なり。是れ則ち能生の徳を具足する故なり。問答抄に云く、能生を本尊となす云云。当に知るべし四義具足の故に能生を以つて本尊となす云云、所謂爾前迹門本門文底の大事は是れなり。
一、普賢経等(文)、此の引文の中に標釈結有るなり。大乗経とは是れ文底下種の本尊なり。宝蔵等とは即ち是れ三徳能生の種子なり。
一、又云く等(文)、此の文亦標結有るなり。此れ亦三徳能生の種子なり。是の諸仏等とは即ち是れ師の徳なり。諸仏是に因つて等とは即ち是れ種に於いて自ら能生の徳有るを明かす。是れとは妙法を指すなり。具得は所生なり。次に三種の身とは亦是れ所生なり。従方等生とは、即ち是れ父母能生の徳なり。次に是の大法印等とは、即ち是れ主君の徳なり。言う所の印とは、即ち押手なり、大字の顕はす所国王の印の故なり。横には四海、堅には一切其の中に第一なる故に大法印と云う、神璽これを思ひ合せよ、此の如き等とは、即ち是れ主に於いて能生の徳有るを顕はすなり。次に福田等とは結文なり云云。
一、夫れ以んみれば釈迦如来等(文)、此れ非を以つて是れを顕はす中に又二となす、先づ正顕、次に雖然の下は結なり。初め正顕の中に又二となす。先に正釈、次に而るに新訳の下は別して真言を破するなり。
一、ヒルサナ(文)、此れ即ち報身なり。新訳に依る故なり、若し旧訳に依れば法身となすなり。
一、但演説等(文)、此の文是れ正しく非を以つて是れを顕はすの語なり。
一、不説(文)、異本には不の字無し其の時は説けどもと、点ずべし、若し不説と云うは、即ち無量義経の意なり。
一、本有の三因(文)、即ち是れ一念三千なり。弘五中(十四)に云く本有の故に元始と名づけ、常住の故に無終と名づく(文)。
一、或貴等(文)。
一、一念三千の仏種(文)、日忠の義勢甚だ以つて浮浅なり、今謂く、此れは是れ文底下種の一念三千なり。所詮元意を論ぜば、若し有情の約せば則ち即身成仏となるなり。若し非情に約せば則ち草木成仏となるなり。
一、問うて曰く等(文)、第三に受持即観心を明かす中に又二となす。先に問、次に答なり、答の中に又三、初め文を借りて義を顕はす。次に私加の下は正釈なり。三に妙楽の下は結なり。初め引文の中に又二となす。先づ無量義経の文を借り以つて受持即観心の意を示す、次に六文を引き以つて所持法躰の功徳を明かすなり。次に正釈の中に又二となす。先づ正釈、次に四大声聞の下は釈成なり。此の釈成の文又二となす、先づ承上起下、次に正しく釈成又三となす、先づ自受用身に約して以つて師弟不二を示し、次に無作三身に約して以つて親子一体を示す。三には久遠元初に約して以つて君臣合体を示すなり。
一、雖未得等(文)、此の中六波羅蜜即ち是れ観心なり。若し我等一念に於いて信心口唱する則は本尊の全体と成る、故に自然在前等と云うなり。
一、次に六文を引くとは、
一、釈尊因果の功徳(文)、問難の意云云。今妙法とは即ち是れ次上の無量義経及び普賢経等の意なり、従多帰一、雖脱在現倶謄本種、同帰一根等云云。
一、我等受持(文)、今元意を示す正に是れ受持即観心なり。何んとなれば信心修行を以つて名づけて受持となす故なり。問う受持は只だ信心なり、何んぞ修行を加へんや、答ふ信心すれば則ち必らず修行有る故なり。一には経に云く、是好良薬等云云、御義口伝下(十三)、二に経に云く、応受持此経等云云。口伝下(四十二)に云く、此の妙法五字を末法○南無妙法蓮華経と唱へ奉るは行なり。惣に無明煩悩の○事を顕はす等(文)。
天台云く、修行を服と名づく云云。大論に云く、信心を手と為す云云。当に知るべし信行の人は即ち本尊と成る、故に自然等と云うなり。
一、無上等(文)、即ち是れ文底なり、口伝上(卅)無上宝聚と言うとは是れ承上の文なり。不求自得と言うとは是れ起下の文なり、抑も天台の観心は不求自得に非ず、既でに己心を観じて、種々に求むるが故なり、末法の観心は不求自得なり。求むと雖ども而かも法力仏力信力に任する故なり。
一、宝聚(文)、功徳聚これを思ひ合せよ、即ち御本尊の事なり。
一、如我等無異(文)、此の中如我等無異とは標文なり。如我等とは釈なり。我等の我と如我の我とは即ち是れ自受用報身なり。昔とは玄三に四重の哢引を明かす云云。当家の意は其れ猶ほ近し実には久遠元初名字の時の誓願なり。若し天台凡そ本因と言うとは、即ち初住巳上を指す、故に知んぬ、当家の意に異なるなり。当に知るべし実には久遠名字の時に於いて末法に出現し、必らずまさに此の妙法を信ぜしむべしと誓願を立てる故に久遠の誓願虚しからず今末法に出現して始めて此大法を弘宣し我等を能く信受せしむ、故に今者巳満足と云うなり。問ふ如何んが一体なるや、答ふ皆令入仏道の故に是れ一体非ずや。
一、宝塔品に云く等(文)、此の中、初めは受持なり、次に所受の法なり、我及多宝とは、無作三身なり。及一字を以つて境智冥合を顕はす、若し我に及ぶ多宝と言はば則ち法身即報身となる。他方従り。かに来たる故なり若し我他方に及ぶと言はば則ち報身即法身となるなり、二仏並座の故なり、既に境智和合すれば必らず慈悲あり、能く応身の用を起す、故に知んぬ此の一文は無作三身を明かすなり。
一、紹継等(文)、是れ則ち久遠元初自受用身の仏の跡を紹ぎ本門下種の本尊を受得す、則ちこれ凡夫自受用身なり、故に須臾聞之等と云うなり。須臾とは但だ一念の信力なり。
一、我実成仏身来(文)、此の中の我とは即ち是れ法身なり、実成とは即ち是れ報身なり、巳来とは即ち是れ応身なり、自我偈の下の口伝下(十四)。
是れ則ち種の家の本果の三身なり。
一、乃至等(文)、日忠抄及び日恵抄云云、今謂く爾からず、此の乃至とは、即ち是れ元初の事なり。勘文抄に云く、当初云云、当体義抄に云く、当初云云、今文の意に云く、本果従り本因名字の初めに至る、故に乃至と云ふなり、所顕とは久遠元初の自受用身即ち我等本有の五大種子なり。
一、我本行等(文)、此れは種の家の本因妙なり、凡そ此の四大菩薩世々番々に示現して釈迦の行化を助ける故に眷属と云ふなり。当に知るべし、我等が為に此れらの大菩薩は皆主君なり、然るに日忠等の了簡甚だ過ぎたり例文これを思へ。
一、身土は一念の三千(文)、此の一文即ち此れ摩訶止観の夫れ一心具十法界等の五十余の文なり、妙楽但だ身土一念三千の六字となす、故に知んぬ、身と土とは即ち是れ三千なり。一念と言ふは即ち是れ我等が一念信解の修行なり。惣じて諸文の中、或は色を以つて能観となし、或は心を以つて観境となし、或は色心不二を以つて観境となす、諸文の釈義異なりと雖ども而も今色に約してこれを論ずるなり。
一、此の本理に称ふ(文)、当家の意は本地難思境智冥合能証所証の本理の妙法是れ則ち不可思議境なり。
  私に云く、当体義抄の能証所証の本理云云。
日忠一字の口伝云云。日恵これを斥けて云く、此れ造作の故に不可なり云云。此の斥尤も可なり、四信五品抄十六(六十八)に云く、題目の理を専らにす等云云、当体義抄に云く、能証所証の本理を顕はす云云。
一、一身一念等(文)、此の一身即ち自受用身なり、一念即ち智恵なり、この本理に称ひ一身の境も一念の智も法界に周遍するなり。南無妙法蓮華経、七月八日
(以上日附与忠記同矣)
因師自筆此ニ畢ル、但シ現本ハ此分ニ止マルカ、行末ハ二行ダケ余白ニ延ビタレバナリ(多ハ十二行ナリ)
現本表紙ニハ後人大書セルモ因師ハ「観心本尊抄、日寛上人、御講記、日因」トアリ
具本ノ随文解釈トハ文意義同互ニ繁簡アリ蓋清書本ナルベシ
昭和五年十一月廿二日 於雪山文庫 日亨在り判

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