富士宗学要集第十巻

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佐渡国小関法華縁起 日代記

序 此の古文書は殆ど秘書である、西山本門寺に首●の代師正筆が存在する。内容は小関に久住する守定の孫弥次郎大夫定久に弘安五年、永仁三年大梵天王の託宣して日蓮大聖人の末法弘法を宣伝したる其有様が如何にも音楽舞戯入りで魅惑的であるとして地頭が追放したので田浦に遷りても猶此託宣止まず、遂に元の小関に還りて大梵天の題目碑を立てたと云ふ記事で、代師の記せし定久の家系は孫の彦次郎守正まで引いてある、此が貞治五年此記の成る頃で、此時は相当に小関に法華の結衆が出来て阿仏房妙宣寺系で代師を仰いで居たものと推定する。爾後如何にして消滅したるやは分明ならざれとも、阿仏房家の身延転入巳前に此故跡が地理の関係より衰滅したものであろう。
目下一回の渡島調査(昭和八年)では充分でないが、ヲゼキの地名が幸に小木港の内●に在りて沿岸は震災の為に隆起して古形を見る由もなけれども、田浦と云ふが今は田之浦とて岬村の大字で即小木港の西北に当る所らしく大概此辺に定めば大差なしと思ふ。但し此辺は日朗を主とする安隆寺の範囲なれば少しも手が●りの見えぬを憾む、兎も角珍材であるから●に止めて置くのである。

(首●)
又少女一人あり・一人は釈迦王とし十一歳、一人は勢熊とし十三歳なり。
時に舞遊の事(天女の如く人声を聞く見る人眼を迷はす)園中奇妙只此の事也。
たかきところにだんをついて其の上に高座をかざりて其の上に座し、其の前には舞台をしつらいて五へいをもつて天をまねき給へば、はれたる空かきくもりて大雨一時にふる。又へいを空へあふぎ給へばかきけすやうにはれにけり。又高座と舞台との上には雨そ●がず。此の如き不思議を見てこの少女等十余日間おもしろくめでたくまふほどに其の近辺の人をはじめとして海船の上下万人こぞつて見る事なのめならず。定久此の如き不思議出現する事三十日におよべり。
詮句に云く此の度流人日蓮は仏使上行菩薩なり云云矣。
又梵天曰く夫れ釈損一代五十年の間五時に教を説き給ふ。其の中に此の法花最第一と説き定め給ひて諸経中王の文分明なり。此の経を信じ奉らずんば仁王経、大集経、最勝王経等に説きたる三災七難起つて、石のいかたをながし人民やみしに飢渇入るべしとの●しる間、百姓等地頭殿にそせうして所をおいだす。
田浦といふ処に十日計り住むといへども猶梵天のたくして希代未曽の事を申す間地頭殿おぢおそれてよびかへし給ふ。しかるに小関の住所と申すは祖父守定より今の定久まで既に百年にやよぶまで、法花経のをはしましけるをしらざりける事よと悔いて、よこやをあらためてつまむきに作れる此の故なり。是れも法花経のいとくをあらはさんがために大梵天王、定久にたくし給へり。
抑も大梵天王と申すは、かけはくもかたし気なし、昔三千塵点劫の時大通智勝仏出世し給ひしに十方より五百万億梵王、惣て五千万億の大梵、娑婆世界に来りて法花を説き給へと申し給ひしなり。
日本の天神七代、地神五代と申すもわつかに六十六箇国のあるじなり、唐土の三皇五帝と申すも三百六十余州の主なり、大梵天王と申すは三千大千世界の惣領一切衆生の父たり、然れば則ち定久も小関の住所賤しき身たりといへども梵天のたくし給へる事しゆくしうなきにあらず、地涌千界の菩薩の其の一か法花流布すべきずいさうなり。
又例せば昔の由来を尋ぬれば善光寺の如来は本太善光にたくして仏の不思議をあらはし、日吉の山王も大津のしづの小田つねよにたくして一乗守護れいけんをほどこし北野天神も西京のしづの女七条のあこやにたくして天神のふしぎをしめす。
然れば則ち梵天のたくせんにまかせて宮殿を作り長さ尺五の石の面に妙法蓮華経の五字をあらはして大梵天王と号して崇たてまつる。故に方便品に云く仏種縁より起る是の故に一乗を説く、化城喩品に云く是の本囚縁を以て今法華経を説くと説けり、これによつて法華信心のともがちは梵天帝釈の●護を蒙り、四大天王にはぐくまれたてまつりて現世後生安穏にして子孫繁昌すべきなり、欲界の六天は八部衆をいんそつして四方四域を守護し四海をたいらげ給はんにゑぞむくりをはじめとして四方のゑびす皆悉くなびきしたがふべきなり。
貞治五年卯月 日
佐渡の国小関の方華縁起。
定久==・==女子==・==守正
託宣別紙に在るなり。
聖人御滅後十四年に相当るなり。
弘安五年●年、永仁三年己未三月定久託宣也
編者曰く西山本門寺日代上人正筆を以て之を写す、史蹟今正に考査中なり珍材の故に之を載す、又易読の為に仮名書の右傍に漢字を宛て置く。

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