富士宗学要集第十巻

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール

宗教深秘鈔

大弐日寛謹みて書す。
経に云く、是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差(文)、宗祖云く、如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残し玉ふ所の秘法何物ぞや。答へて云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり云云。問ふ今引く所の経文及び祖意如何。答ふ若し此れ等の意を知らんと欲せば、先づ宗教の五箇を了すべし。譬へば医師の良薬を与へんと欲する、先づ必ず薬を識り病を知り時を弁じ住処を検し前の医を与ふる所の法を聞き、而して後に薬を与ふるが如し、言ふ所の宗教とは所謂教機時国教法流布の前後なり。第一に教とは、即ち一代諸教の勝劣浅深を知る、これを教を知ると謂ふなり。諸宗の祖師皆此の義に迷ふ。天台智者のみ独り其の美を●にす。然りと雖も仍ほ弘め残す所の最大の深秘の大法経文の面に顕然なり。但吾が蓮祖大聖のみ深く其の源を尽し玉へり。是併しながら付属は時に従ふ故なり。今且く一文を引く。まさに一代諸経の浅深勝劣を示すべし。所謂開目抄に云く、一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘ししづめたまへり云云。然るに宗門の先達尚此の意を知らず、況や予が如き頑愚豈其の意を弁ずべけんや。然りと雖も富山の蘭室に寓する歳有り吾豈其の香を聞かざらんや。松高ければ藤長く、源遠ければ流れ長しとは是れなり。学者まさに知るべし、爾前に一念三千を明かさず、故に但法華経と云ふなり。迹門にこれを明すと雖も真の一念三千にあらず。猶水中の月の如し、故に但本門寿量品と云ふ。文上にこれを明すと雖も仍ほ是れ在世脱益なり。故に文底秘深と云ふなり。但の字是一字なりと雖も義は是れ三字なり。然れば則ち一代諸経の中には但法華経。法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘深の大法のみ釈尊出世の本懐多宝証明の本意、分身舌相の本意、本化を召出す本意、蓮祖弘通の骨目末法下種の正体なる故に最極の中の最極、無上の中の無上、正中の正、妙中の妙なり。斯の如くを知るを教を知ると謂ふなり云云。問ふ経に云く、唯以一大事因縁故出現於世と云云。妙楽記の一に云く、大事の因縁迹門に在りと雖も理に拠るにまさに須く雙て本迹を指すべし云云。故に知ぬ正しく法華一部迹本二門を以つて、如来出世の本懐となす、何んぞ此の義に違はんや。答ふ亦経文及び祖判に准ずるに、如来の本意別して末法に在り、故に取要抄に云く、寿量品に云く、是好良薬今留在此等云云。文の意は上に過去の事を説くに似たる様なれども此の文を以つてこれを案ずるに滅後を以つて本と為す。先づ先例を引くなり。分別功徳品に云く、悪世末法時等と云云。神力品に云く、以仏滅度後能持是経故諸仏皆歓喜現無量神力等と云云。薬王品に云く、後五百歳中広宣流布云云。又云く此経則為閻浮提人病之良薬等云云。涅槃経に譬へば七子の如し。父母平等ならざるに非らず。然るに病者に於いて心則ち倫重等云云(以)上。文中に云く、滅後を以つて本となすは滅後末法を以つて仏の本意と為すなり。故に五文を引いて此の義を証するなり。過去の事を説くとは即ち是れ本因本果の法門なり。釈尊既に本因妙の修行に依つて本果の成道を唱ふ。今此文を引くは、末法の衆生も亦本因妙の修行に依つて必ず仏果を成ずべきを顕はすなり。故に先に先例を引くと云ふなり。権迹の修行は既に先例なし豈、本無今有にあらずや、。此の先、先例を引くの文深くを留むべし。神力品の中の能持是経者は是れ結要付属の正躰寿量品の是好良薬の妙法を指して是の経と云ふなり。故に御義口伝の中に是経とは題目の五字と云ふと云云。薬王品の病之良薬これに准じて知るべし。然らば則ち仏の本意は別して滅後末法に在ること皎在目前なり。問ふ滅後末法を以つて仏の本意と為すこと文理稍明なり。然りと雖も仍文底秘深の大法を以つて如来出世の本懐と為すこと其の明証如何。答ふ世間の学者多く耳従り入り口従り出るを貴びて須臾も神に染まず。汝これを聞いて後慎みてこれを信ずべし。三大秘法抄に云く、予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何んと悔ゆとも叶ふまじきと存ずる間貴辺に対して書き遺はす、一見の後秘して他見あるべからず。口外も詮無し。法華経を諸仏出世の一大事と説かれて候は此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給へばなり、秘すべし等云云。問ふ多宝の証明分身の舌相通じて法華一部に亘る。何んぞ文底秘深の大法を証すとなすと云はんや。答ふ今経文及び祖判の意に准ずるに証明舌相等は正に末法のためなり。故に取要鈔に云く、疑つて云く、多宝の証明十方の助舌地涌の涌出此等は誰人のためなりや。答へて云く、世間の情に云く、在世のため、日蓮が云く、舎利弗目連等は現在を以つてこれを論ぜば智恵第一神通第一の大聖なり。過去を以つてこれを論ずれば金竜蛇仏青竜蛇仏なり。未来を以つてこれを論ぜれば華光如来、霊山を以つてこれを論ずれば三惑頓尽の大菩薩本を以つてこれを論ずれば、内秘外現の古仏なり。文殊弥勒等の大菩薩は過去の古仏、現在の応生なり。梵釈日月四天等は初成己前の大聖なり。其の上前四味の四教一言にこれを覚る。仏在世には一人に於ても無智の者これ無し。誰人の疑を晴さんが為に多宝仏の証明を借り諸仏舌を出し地涌菩薩を召されんや。方々以つて謂れ無き事なり。随つて経文に況滅度後令法久住等云云。此等の経文を以つてこれを案ずるに倫に我等が為めなり。(己)上。身子等の中に三時及び本迹に約してこれを論ずれば応生即ち是れ住上の菩薩なり。況滅度後の文、別意末法に在るなり。既に如来の現在を挙げてこれを況する故なり。文の意に云く、如来現在猶多怨嫉。況んや正法をや。況んや像法をや、況んや末法をや云云。令法久住の文亦復しかなり。故に我等が為と云ふなり。然らば則ち多宝証明分身舌相正しく末法の衆生のためなること文に在つて分明なり。況んや本化を召すの意是れ末法の為なること諸門通同なり云云。問ふ多宝の証面分身の舌相末法の為なること文理稍明なり。仍ほ文底秘沈の為なること。其の明文如何、答ふ且く一文を引いて汝が信を決すべし。下山抄に云く、実に釈迦多宝十方の諸仏寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんがために出し給ふ広長舌なり云云。実の字に意を留むべし。但寿量品の肝要南無妙法蓮華経と云つて本迹一致、一品二半及び神力品の南無妙法蓮華経と云はず。師子身中の虫四海に充満す、知らずんばあるべからず、責めずんばあるべからず云云。学者まさに知るべし、肝要は即ち是れ文底の異名なり、故に開目鈔には寿量文底と云ひ、今此の文に寿量品の肝要と云ふなり。諸文の中の寿量肝要の文これに准じて知るべし。本化を召すの本意亦復是の如し。故に撰時鈔に云く、寿量品の肝要南無妙法蓮華経の五字流布せんずる故に此の菩薩を召し出されたり云云(取)意。若ししからば多宝の証明分身の舌相地涌の涌出並に是れ文底秘沈の大法なること豈分明にあらずや。然らば則ち文底深秘の大法は最極中の最極、無上の中の無上なり。是の如く知るを、是れを第一に教を知ると謂ふなり。問ふ教の勝劣を知つて何んの詮か有るや、答へて云く、浅は易く深は難し釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり。有智の君子経を尋ねて宗を定めよ等云云。故に専ら経の勝劣を判じ以つて宗教を定む、教に依つて行を立て以て成仏を期するなり。宗祖云く、外道の教は易信易解、小乗は難信難解、小乗経は易信易解、大日経等は難信難解、大日経等は易信易解、般若経は難信難解、般若経と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と重々の難易あり。問ふて云く、其の義を知つて何の詮か有るや。答へて云く生死の長夜を照す大燈明、元品の無明を切る大利劒、此の法門に過ぎざるか(己)上。
第二に機を知るとは凡その仏教を弘る者は必ず機を知るべし。豈病を識らずして妄りに薬を授与すべけんや。然るに智恵第一の舎利弗尚機を知らず。金師に不浄観を教へ、浣衣の者に数息観を教ふ。九十日の間に還つて一闡提と成る、末法の凡夫争でか機を知らんや。然りと雖も、若し仏日を以つてこれを照らす則んば其の義分明なり。謂く正像二千年は仍ほ本己有善の機なり。今末法に入れば、皆本未有善の機なり。故に立正観抄に云く、天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如く、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり(己)上。直機とは熟脱に亘らず、直に下種の機なるが故なり。直に下種の機とは本未有善の故なり。天台云く、本己に善有り、釈迦小を以つてこれを将護す、本いまだ善有らず不軽大を以つてこれを強毒す云云。妙楽云く、未とは下種なり、己とは熟脱云云。故に本己有善のためには熟脱の法を説き、本未有善のためには下種の法を授くるなり。然るに末法今時の衆生は本未有善の機類なり。故に但法華経本門寿量品の文底秘沈の下種の機なり。故に法華本門の直機と云ふなり。是の如く知るを是れを機を知ると謂ふなり、問ふ縦ひ末法なりと雖も何んぞ必ず本未有善ならんや。答ふ太田鈔に云く、正像二千余年には猶下種の者有り。今既に末法に入り在世結縁の者漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きたり、彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を繋たしむるの時なり云云。
謹んで文の意を案ずるに、正像二千余年に久遠下種在世結縁の者猶これ有り、今末法に入り久遠下種在世結縁の者漸々に衰微して熟脱の二機皆悉く尽きぬ。唯下種の機のみなり云云。
文に互顕有り、学者見るべし。妙楽云く、聞法を種となし発心を芽となす云云。証真云く、聞法為種とは了因種なるが故に発心為種結縁と云ふは仏果の縁なる故なり云云。例せば本尊鈔に久遠に下種し大通に結縁すと云ふが如し。此に深秘の相伝有り云云。若し他門徒の如く在世下種に約せば、恐らくは大過を成ずるか。何んとなれば既に三周の声聞三千塵点を経歴し、本現脱の人五百塵点を経歴す。今日在世結縁の人は何んぞ二千余年の間に皆悉く尽きんやと云云。まさに知るべし釈尊の御化導久遠元初に始めて、正像二千年に終るなり。今は末法即久遠なり云云。然るに諸門徒一同に末法は本未有善と云云。又在世の教主を以つて本尊となす云云。是れ不相伝の故なり云云。若し深信有るの輩は来りてこれを問ふべし。然れば則ち末法本未有善の機而も最初下種の直機なり。教行証鈔に云く、今末法に入りぬれば在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。此の時は濁悪たる当世逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量の南無妙法蓮華経を以つて下種となす。是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差は是れなり(己)上。文に本門肝心と云ふとは、肝心の両字南無妙法蓮華経に冠るなり。是れ則ち諸文一同に本門寿量の肝心南無妙法蓮華経と云ふ故なり。第三に時を知るとは、具に撰時鈔の如し。末法今時は寿量品の文底三箇の秘法広宣流布の時なり。故に撰時鈔に云く仏滅後に迦葉阿難馬鳴竜樹天台伝教のいまだ弘通し坐さざる最大深秘の正法経文の面に現前なり、此の深法今末法の始め、後五百歳に一閻浮提に広宣流布すべし等云云。故に顕仏未来記に云く、本門の本尊妙法蓮華経の五字一閻浮提に広宣流布すべし等と云云。然るに世上の学者但法華は正像流布の時と云ひ、本迹一致の妙法流布の時等と云ふは、宗祖違背の僻見なり。具に撰時鈔愚記の如し。故に今これを略するなり云云。
第四に国を知るとは、仏教は必ず国に依りて弘むるべし。然るに日本国は退いてこれを論ずれば、法華有縁の国なり。弥勒菩薩瑜伽論及び肇公の法華翻経の後記等の如し。且く日本の名に依る。若し神道抄の如き、即ち多意有り、一には日始めて此の国に出る故に日の本と名づく、二には日の始めの本国なるが故に日本と名づく、三には日の神始めて生まれたまう故に日の本と名づくるなり。四には此の国は日の神を本となして正法の国なるが故なり。若し当流の意は、且く三義を示めす。一に所弘の法を表して日本と名づくるなり。謂く日は是れ能譬、本は是れ所譬、即ち三ケの秘法なり。法譬並び挙げて日本と云ふなり。経に云く、又如日天子能除諸闇等云云。宗祖日蓮云く、日を本門に譬ふるか云云。四条金吾抄に、名の目出度きは日本第一、とは是れなり。能弘の人を表はして日本と名づくるなり。謂く日蓮の本国なるが故なり。諌暁抄に云く、天竺国をば月氏国と申す仏の出現すべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、豈聖人出で玉はざらんや云云。此に相伝有り云云。三に本門流布の本を表する故に日本と名づく。日は是れ本門寿量の妙法なり。此れ本門寿量妙法流布する根本の国なるが故なり。遵式云く、始め西より伝ふ、猶月の生ずるが如し。今亦東より返る、日の昇るが如し云云。宗祖云く、月は西より東へ向ふなり、月氏の仏法東へ移るべき瑞相なり(文)。豈此の国は本門流布の本にあらずや。然らば則ち日本国は本因妙の教主日蓮大聖人の本国にして、本門三箇の秘法広宣流布の根本の妙国なり。
問ふ若ししからば蓮師出世己後はまさに日本国と名づくべし。何んぞ開闢己来日本国と名くるや。答ふ是れ霊瑞感通嘉名早立する故なり。例せば不害国の如し。記一末に云く、魔訶提此に不害と云ふ劫初己来刑殺無き故に、阿闍世に至り指を截るを刑となす。自ら指を●みて痛し後復此の刑を息む。仏まさに其の地に生ずべし。故に吉兆預め彰る、所以に先づ不害の名を置く等云云。今復是の如し、蓮祖まさに此の国に生じ本門深秘の大法を弘通すべし。故に吉兆預め彰はる、所以に先づ日本の名を置く。彼是れ殊なりと雖も其の趣是れ同じ豈信ぜざるべけんや云云。諌暁抄に瑞相と云ふはこれを思ひ見るべし云云。第五に教法流布の前後を知るとは、仏法を弘むる者は必ず先に弘むる法を知つて、後の法を知るべし。先に小乗弘まらば後に権大乗を弘むべし。先に権大乗弘まらば、後に実大乗を弘むべし。先に実大乗弘まらば後に権大乗を弘むべからず。まさに瓦石を捨て而して金玉を取るべし。豈金玉を捨て而して瓦石を取るべけんや。故に正法の始めには迦葉阿難小乗教を弘めて、後竜樹天親権大乗を弘む。像法に入つて則ち天台伝教等法華経を弘通す。故に末法に入り但法華経の本門寿量品の文底深秘の大法を弘むべし。此の如く知りたるを、これを教法流布の前後を知ると謂ふなり。高橋入道殿御返事に云く、我滅後の一切衆生は皆我が子にして平等に不便に思ふなり。然れども医師の習は病に随つて薬を与ふる事なれば我滅後五百歳の間は迦葉阿難等小乗の薬を以つて一切衆生に与へよ。次の五百歳の間は文殊弥権大乗の薬を与へよ。我滅後一千年過ぎ像法の時薬王観音等法華経の題目を除いて、余の法門の薬を与へよ。末法に入りぬれば、迦葉阿難馬鳴竜樹薬王観音等に譲られし処の小乗教大乗教並に法華経は文字は有れども衆生の病の薬とは成るべからず。其の時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授くべし(己)上。此の文意なり。問ふ既に文中に云く、法華経の題目を除く等と。又云く上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を授く等と。まさに是れ如是我聞の上の妙法なるべし如何。答ふ如是我聞の上の妙法は文底秘深の妙法の朽木書なり。故に或る処には、如是我聞の妙法を指すなり。是れ則ち朽木書を以つて其の真益を顕はすなり。実に上行所弘の妙法は文底深秘の大法なり。故に下山抄に云く、又涌出の大菩薩末法の初に出現せさせ給いて、本門寿量の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給べき等云云。明文此に在り、これを疑ふべからず。然るに仍ほ権迹を弘るは金玉を捨て、而して瓦礫を取るが如し。愍むべし悲しむべし、今此の五義を以つて、正しく其の義を暁れば則ち知ぬ。文底秘深の大法は末法下種の正躰蓮祖弘通の骨目なり。伏してこれを思ふべし。仰いでこれを信ずべし。一生空しく過して万劫悔ること勿れ。勤めよや、勤めよや。
宗教深秘鈔畢ぬ
享保元(丙)申九月十七日
御本大日蓮華山に之れ在り。(尾陽名付(高崎勝次郎井上俊弥)彼地に於て書写す。同国丹羽郡三ツ井岩田理蔵謹んで重写したてまつる。)
慈由房蔵本(理蔵写)に依り、秀円房をして謄写せしめ、自ら一校を加へ了ぬ。
大正八年十一月廿七日 雪仙日享 在り判

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール