富士宗学要集第十巻

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当家三衣鈔釈文

  (明治三十三年七月 水鑑日享稿)
本文中自有分科、又錯綜有難弁、即本師自科道理引証料簡、其中道理引証之二者、唯明法衣袈裟数珠、至料簡之中始明之更挿袈裟最末又明数珠、故分科徒不得明瞭、今唯為初学強分科、是惑恐傷本師玄意、読者察之勿滞則幸甚矣
寛上述三衣鈔 明治三十三年七月
沙弥水鑑分科之
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当家三衣鈔釈文 明治三十三年 水鑑日享 稿
当家三衣鈔                                左伝日衣身之章也、                            註云章明貴賤也云云、天子十二章、謂日月星辰、此三取照臨於下也、第四是山、興雲致雨左右画也、第五是竜、変化無窮左に上て右に下る、第六是華虫、此即雉也、取耿介、向合左右に画之、第七是宗●、左即白猿、右是白虎也、第八是藻、是文章也、形如藤巴左右画之、第九是火、炎上て以助徳、亦是左右画也、第十粉米、潔白能養、丸而散米之体二、左右画也、第十一是●斧也、取断割義刃を向合而左右画之、第十二是●、是古仏字也、亜両巳相背、周礼司服註云、取臣民背悪向善也、此古文字を左右画之也、前六画衣、後六繍裳、上日衣、下日裳也、此則天子十二章也、諸侯八章、太夫四章、士二章、庶人則無、故言明貴賤也。
左伝乃至賤也は、文春秋左氏伝校本四八紙に在り、晋狐契の語なり。
衣等は、左丘明の伝辞、章等は、預解文に在るなり。
衣は、白虎通と云ひ、衣隠なり、釈名に云く衣は依なり、人依を以て寒暑を庇ふ所以なり、伝玄衣銘に云く、衣服は其義より君子の徳なり、衣は以て外を飾り徳は以て内を飾る、礼記玉藻に衣は正色、裳は間色、易知録白帝(黄帝)冕を作り旒を垂れ紘に充つ、玄衣黄裳たり以て天地の正色に象る、旁ら●●を観ず(雉名其羽五色皆備ふ)草木の華の五采を染め文章と為し以て貴賤を表す是に於て袞冕衣裳の制興る、章は倭訓(アヤトル)文章なり明了なり。
章に貴賤を明かすとは校本に云く、貴賤は章を以て字釈を明かす、章即ち明の義なり。
天子は白虎に通ずとは、一に曰く天子と爵の称なり、天子と称る所以は何ぞ王は天は父、地は母、天の子たり云云。
十二章は図に之を示す、書益稷曰く帝(舜帝)曰く乃至予古人の象を観るに日、月、星辰、山、竜、華蟲を以て会に作り、宗●、藻、火、粉米、●、●を以て●繍し、五采を以て彰に五色を施し、服を作らんと欲す、汝明にせよ(文周)礼冬官曰く画●の事、五色を雑ゆ、東方は之れ青と謂ひ、南方は之れ赤と謂ひ、西方は之れ白と謂ひ、北方は之れ黒と謂ひ、天は之れ玄と謂ひ、地は之れ黄と謂ひ、青白と相次ぐなり、赤青と相次ぐなり、玄黄と相次ぐなり、青赤と之れ文と謂ひ、赤白と之れ章と謂ひ、白黒と之れ●と謂ひ、黒青と之れ●と謂ひ、五采を備ふ之れ繍と謂ふ、土は黄を以て其の方の象天時変る、火は●を以てす、山は章を以てす、水は竜を以てす、鳥獣蛇四時五色の位を雑へ以て之れを章とし之れを巧と謂ひ、凡そ画●事素功を後にす。
藻は孔安国尚書大伝に曰く、藻は水草之れ文と有るは以て文に喩ふ。
藤色は画藻、是れ藤花の巴状をなすが如し。
粉米は粉●に通ず、説文に曰く袞衣、山、竜、花蟲、●は画粉なり、玉篇に曰く●は綵なり、一に粉米を作る釈文に粉米は説文に●●に作る、説文に曰く繍衣米を聚るが如くなり、書益稷曰く藻火●●。
●は説文に曰く白黒と相次ぐ文、爾稚釈器曰く、斧之れを●と謂ふ、疏に曰く●は蓋し半白半黒、斧に似て刃白く身黒く能断の意を取る。一説に白は西方の色黒は北方の色、西北黒白の交、乾陽位焉、剛健能断故、●を画き黒白を以て文と為す云云。
●は説文に曰く黒青と相次ぐ文、左伝(二四)に曰く、火竜●、●其文昭にするなり、康熈字典に曰く按●の状、亞の如し、亞は古弗字、増韻と云ふ、両巳相背形、周礼司服(春官)註疏、●臣民悪に背き善に向ふを取つて亦合離の義去就の理を取る。
裳は釈名に曰く、下に曰く裳、裳は障なり、自障を蔽ふ所以なり、説文に曰くした●なり。
斯の旨は衣は身の章、黄帝舜帝衣章を制するの深旨なり。
吾家の法衣は法衣の名通義に従ひ広く之れを用ふ、則ち三衣及び二衣素絹等自摂す矣、別義より狭く之れを用ゆれば二衣所変の法服及び素絹之れを摂す矣、今是より当家所用の三衣を云はゞ前二の摂に非ざる故のみなり。
若暁斯旨則知吾家法衣而巳。
〔追記〕
康熈字典広韻耿介なり、憑●顕志賦独耿介而慕古兮●敬業詩少年負壮気耿介衝冠 康熈字典 堅確不抜亦曰介○介介猶耿々也後漢馬援伝介介独悪是耳
今は守操堅固苟くも世と合はず等の意なるか。
古事類苑服飾部(一五四)天皇礼服
〔儀式六〕礼服制、天子袞●、十二章、牙笏
〔延喜式(十五内蔵)〕元日御礼服玉冠牙笏等、当日平旦寮官人於大極後殿下持候之随内侍宣進之
〔西宮記(臨終四)〕天皇礼服、赤大袖、縫日月山竜虎猿等形同色小袖、●縫鉞形白綬玉佩二旒●冠御笏、烏皮●、長男、童帝御装束同之有日月冠女帝御装束皆白、后御装束青綵色韓衣也、太子赤縫竜形(巳上在内蔵寮)
〔西宮記(臨時八)〕天皇即位(同上)御服赤、日月七星竜猿虎形等繍大袖小袖(無繙)赤御●(鉞形)白綬、玉佩二旒、烏皮●(○畧)下
〔尚書注疏(五虞書)益稷、帝曰(○中畧)子欲観古人之象(伝欲観示法象之服制観旧音官亦官喚反)日月星辰山竜華蟲(伝日月星為三辰華象草華蟲雉也画三辰山竜華蟲於衣服旌旗)作会宗●(伝、会、五采也以五采成此画焉宗廟●樽亦以山竜華蟲為飾会胡対反馬鄭作馬同、鄭云宗●絵●音夷虎也)藻火粉米●●●繍(伝、藻水草有文者火為火字粉若粟氷米若聚米●若斧形●為両己相背之精者曰●五色備日繍藻音早、本又作藻、粉米音米、●音●、白与黒謂之●音弗、黒与青謂之繍音音秀説文作●●徐本作●●●徐勅私反、又勅其反、馬同、鄭陟里反、刺也、背音佩)以五采彰施于五色作服汝明云云、天子服日月、而下諸侯自竜袞而下至●●士服藻火、大夫加粉上得兼下、下不得兼僣上以五采明施于五色作尊卑之服汝明制之
〔事物紀原(三衣袞帯服〕袞衣
事始曰黄帝作画象日月星辰於衣上以天故有袞竜之頌黄帝内伝曰帝伐蚩尤乃服袞●至舜始備十二章書称予欲観古人之象……………………………………色作服是也周色登日月於大常九章而巳余五服倶周制也
〔武家厳制録〕禁中並公家中諸法度(○中畧)
一天子礼服大袖小袖裳御紋十二象諸臣礼服各別(○中略)右可被相守者也、慶長二十乙卯年七月日 二条関白殿昭実公判 秀忠公判 家康公判(巳上古事類苑)
和漢三才図会巻廿八衣服類○衣裳九章竜山華蟲火宗●皆●於衣藻粉米●●皆繍於裳天子之竜一升一降上公但有降竜以竜首巻然故謂之袞加日月星為十二章
当家三衣鈔
夫法衣者応法而作、故云法衣也。法衣有三、一僧伽梨、即大衣也。二●多羅僧、即七条也。三安陀会、即五条也。
此名三衣也。色亦有三、謂青黒木蘭。鈔云、青謂銅青、黒謂雑泥、木蘭即樹皮、是名壊色。此離青赤白黄五正、及、緋紅緑碯黄五間故也。諸文広博、是故畧之。
問一致勝劣、宛如雲泥流々所伝、亦分天地。雖然、及其法衣、更無有異、全是同也。所謂、紫衣、香衣、綾羅、錦綉、七条、九条等也。唯当流法衣、薄墨素絹五条、而永異諸門流、其謂可得聞耶。
答其謂非一、所表甚多。今約三門、略可示之。所謂道理、引証、料簡也。初道理、亦為二、初但用素絹五条道理者。間但用素絹五条、
当家三衣鈔は前開題の如し。
日寛は大石寺二十六世なり紀伝続家中鈔及び寛師伝等の如し、謹記は本師の虐称なり、師著述毎に愚記及び謹記等の遜称を用ふるなり、応法而作は三衣は是れ賢聖沙門の標幟にして、衣相は福田生長の義に依り衣体は清浄無染を尚び仏陀之を制し門弟に之を著さしめ敢て違乱を許さず。
法衣有三は、且らく通義に従ふ、仏法の流域は甚だ広く、処に依り、時に従って衣相衣体稍殊異なり、若し六物百一に至つては依用同じからず、然りと雖も三衣は依然在世の形式を襲ふ、但だ当流自ら之に異るのみ。
僧伽梨等とは此れ翻名無く且らく品により上衣、中衣、下衣と名け用により入王宮、聚落衣、入衆衣、院内道行雑作衣と名け又相により二十五条乃至九条(上衣)、七条(中衣)、五条(下衣)と名づく。
鈔は南山行事鈔なり。
壊色は心地観経無垢性品に曰く、本袈裟を制し染るに壊色とせしむ、五欲の想を離れ貧欲を生ぜらしむ云云、所詮正間の美色を壊ち糢糊不明の色を成すと云ふ、正間等とは、正は単なり純なるものなり、青黄赤白黒に次ぐが如く東中南西北及び木土火金水に配す、間は複色雑なるものなり、青黄を混じて緑となすが如し、是れ支那古来の通説にして仏家は之を准用す、然れば当今光線学大に発達し色彩の分類最も精密を極む、。かに支那説の上に出づ、即ち太陽
                                     の七単色、四十九複色、無数雑色等の如し矣、是れ本文に係る所に非ずと雖も便に因り之を弁ずるのみ。
緋紅等は緋は青黒の間色なり、紅は紅白、紫は赤黒、緑は青黄、碯黄又碧は(諸抄有取硫黄有取碧今従碧)青白の間色なり。
諸文広博は、袈裟の制は諸部律文散見広く周覧に難き故南山釈門章服儀一巻を製し更に之を明す、霊芝之が応法記一巻及び六物図一巻を作り広く三衣の体相を明す、其の他行事鈔資持記等亦散説す、此等の文広く寸紙に尽す可きに非ず故に是の故に之を畧すと曰ふ、近代慈雲方服図儀二巻広本十巻を作る最も明了なり見る可し焉。
一致勝劣は、迹本二門の一致勝劣なり、此の二義は日宗分岐の大標にして宗祖在世に胚胎し滅後生長す、天目日向初て●を発し、爾来●論多岐底止する処を知らず以て今日に致る、然りと雖も一致義中未だ精ならざる者有り、勝劣義中亦祖意を得ざる有り矣、夫れ宗祖の立意固り勝劣に在り、故に独一本門と云ふ、然りと雖も決して孤立本門に非ず権迹該摂して網まざる所なし、悲しい哉凡徒凝滞にして物を封ぜられ本迹一致の謬義を生じ或は迹門無得道の邪見を懐く者有るに至る、凡そ権実本迹而二不二常別常同境に随て適を得ず則ち邪見に随て這般の深義浅智は測る所に非ず不伝家の識る所に非ず、故に五老は伝を得ず、而して此理に迷ふ、滅後に於て等しく一致の謬義を唱ふ、祖意に乖戻して開祖一人正伝胸憶に在り持ちて失はず本門の大義を唱へ独り祖風を顕し天目以後の輩に至る者唯開祖の口吻を学び而して正さず却て永く真義を失ふ猶虎を画いて猫を類するが如し乎、然し自ら勝劣の本義と称ふ、是れ憫笑に値ひせざる者なり。
雲泥は、天地霄壌と同じく雲泥万里の差なり。
流々等は、一致勝劣の二義是れ本宗流派の一大分水嶺にして此間又小流有り、一致派に於ては像門有り、昭門有り、又中山有り、不受不施有り、互に軒●稍反目をなす、此中像門早く京洛に陣し最も優勢にして門葉頗る張る不受●爾にして門戸最少なり、勝劣派に於ては初め正伝富士門流に有り其の他日什の一品二半の義有り、日印日真の寿量一品の義有り、日隆の八品の義有り、門葉匹敵固執して和せず、加之各敵正伝家、此中に亦異轍無きに非ず且つ富士門派を挙ぐる者、当流の外に尊門有り大に異義を立つ、又郷門有り、妙門有り、代門有り各々稍途を殊にし自外堅樹の小異流の若きに至つて枚挙に遑あらず焉。
紫衣香衣等は自ら他宗破の下に之を弁ずるが如し。
綾羅錦繍は、綾倭名「アヤ」、説文に曰く、東斉布帛の細者を謂ひ綾と曰ふ、釈文に曰く綾は凌なり其文に之を望ふは氷凌の理の如くなり、羅倭名「ウスハタ」類篇に曰く帛なり、釈名に曰く羅文疎羅なり、戦国策曰く下宮羅●を糅へ綺穀を曳く、錦は和名「ニシキ」説文に曰く、●色織文なり、徐云く●離色なり、拾遺記に曰く五色の糸を染めて織り以て錦となす、繍は和名「ヌヒモノ」説文に曰く五采を備ふるなり、周の礼冬官曰く、画績の事五采を備へて繍となす、書益稷曰く●●綺繍云云。
其謂如何。答今畧言之、且有二意、一是表末法下位故也。左伝曰、衣身之章也云云。註云、章明貴賊也云云。外典既爾、内典亦然。妙楽大師云、教弥実位弥下矣。宗祖大聖人云、教弥実位弥下六字、可留意案云云。
今謹案云、凡如正法一千年、初五百年之間、迦葉阿難等、居羅漢極位、弘通小乗教。後五百年之間。馬鳴竜樹等居初地分果、弘宣権大乗。次像法千年之間、南岳天台等、居相似観行、弘法華迹門。今至末法即蓮祖大聖人、居理即名字、宣法華本門。豈非教弥実位弥下乎。是故、当流但用下劣素絹五条、而表教弥実位弥下、末法下位也。二是●末法折伏行故也。謂素絹五条、其体短狭、而起居動作、最是便也、故名行道雑作衣也。豈非●走東西、修折伏行耶。
末法の下位は、仏の遺法漸次微末に帰す矣、法微末、機不熟故に行証の聖者無く、但だ放逸の凡夫有るのみ行人下位知るべし、委しく次下の文の如し。
妙楽大師曰く等は、輔行の文なり、止観六に曰く、前教に其の位高き所以は方便の説円教には位下る者真実と説く(文)輔行に之を釈して曰く、教弥々実なれば位弥々下る、教弥々権なれば位弥々高し、故に通は八地に在り別しては初地に在り円は初住に在り(文)妙玄五に曰く、我の因を以て汝の果と為す別位則鹿(文)又曰く譬へば辺方未だ静ならず職を借りて則ち高し、爵を定め勲を論じ、官を置く則ち下の如し(文)。
宗祖大聖人云くとは、四信五品鈔に云く、又一念信解の四字の中の信の一字は四信の居初之至迹門より本門尽機なり教弥々実なれば位弥々下る、の六字心に留めて案ずべし(文)。
正法像法末法等は三時の名諸経論に出づ、垂裕記一(十八)に曰く、正像と言ふは諸仏滅後法に三時有り今茲に釈迦正法像法各一千載、末法万年、理、教、行、果の四皆備足す、仏在世の如し、故に正法と名く、上に三有りと雖も全く果証無し故に像法と名く、像は似なり、正に似る故に修行既に寡し、理教僅に存し、法巳に微末故に末法と名く(文)玄賛五(二十九)に云く、若し仏正法に教行証の三皆具足有り、若し仏像法に唯教行有りて証果の者無し、若し仏末法に唯教在る有りて行証並無し、教は禀け行は行じ果は証するにて同じからず云云、補注七(十六)に曰く、有人青竜疏を引て云く教有り行有り証有り名けて正法となす正は証なり、教有り行有り証無し名けて像法となす、像は似なり、此の三者名つけ末法となす、末は微なり(文)。
千年五百年等は諸経論に三時を説く年紀●促同じからず、今文に正像各々二千は正大悲経の文に依る、然るに大乗の聚●悔経の若し、正像各々五百、悲華経の若し、正千像五百賢劫摩耶大集の若し、正五像千、其の他正法後法滅と説く有り機宜同じからず、経説万差、和会須べからず、五百年は、月蔵分五箇五百、●尼母一箇五百、其の他五百後の五百と云ふ甚だ多し、是れ千年万年の例等粗大数を云ふのみ、今文に正法初後の五百は、摩耶経の文に拠る歟、猶本鈔白衣法滅の下の文を見るに迦葉阿難等は摩耶経及び付法蔵因縁の伝等委曲なり。
羅漢極位は阿羅漢是れ無学果にして声聞の極位なり、弘通小乗は、小乗弘通初めの五百に限るに非ず後の五百に浸潤す、今但だ大途と云ふ、猶大乗流通は馬鳴竜樹に●ず初めに在るが如し、馬鳴竜樹は大蔵中各々別伝あり、付法蔵伝及び其の他史書に載記せざる無し焉。
初地分果は竜樹初歓喜地菩薩、馬鳴八、不動地菩薩、初地八地共妙覚果満の仏に対して則ち分果なり、今初地分果と云ふは文略なり。
権大乗は、馬鳴の真如、竜樹の虚無未だ円満真実の域に達せず故に権大乗と云ひ摂して別教に在り。
南岳天台等は、伝共に続高僧伝(二十一)及び仏祖統記(二十七)釈氏稽古畧二に在り焉。智者大師別伝有り、国清百録四、其の年譜及び事蹟を載す。
南嶽慧恩禅師
生、梁天監十三年、仏滅後千四百六十三年
滅、陳大建九年、●千五百二十六年
天台智者禅師
生、梁大同四年、仏滅後千四百八十六年
(依国清百録)(高僧伝云六十七歳恐誤)
滅、陳開皇十七年、●千五百四十六年
相似観行は、続高僧伝に曰く、南岳伝に●即法華行法を諮受し三七境界卒載叙を難じ、次に師の位を諮り即ち是れ十地が恩と曰ふに非ざるなり、吾是れ十信鉄輪の位のみ、時に事を以て験に解行高明根識清浄、相に初依に同じ能く密蔵を知る云云、円教十信即六根清浄而相似即位なり、又曰く(智者伝)学士智越に命じて石城寺に往く、清洒、吾れ彼の仏前に於て命終して牀を東壁に施し面を西方に向く乃至吾衆を領せず必ず六根浄し他の為に己れを損す只是れ五品内位のみ云云。知んぬ、天台は是れ観行即なり、諸余集下(四十八)に曰く、蓋し大師行位に拠り迹有り本有り本固り等妙相測の人なり、姑く本を置て迹を論じ、別伝を按じて云く、吾れ徒を領せず必ず六根浄し、它の為に己を損す、祇是れ五品のみ、然れば所証の法門則ち既に陀羅尼を得矣、且つ陀羅尼位は十信に当る云云(文)相似観行の名義は止一の五(二十八)に委曲なり。
法華迹門は、末法本化弘通の法に対し、天台所弘事理本迹四種三観を以て悉く迹門なとす是れ本化家の名称なり。末法宗祖等は、通途の如し。
理即名字等は、名義止観一の五(二十七)に出づ、曰く理即は一念心即如来蔵理、如の故に即空、蔵の故に即仮、理の故に即中、三智一心、中は不可思議を具す、上説の如し、三諦一諦三に非ず一に非ず一色一香一切の法を具し、一切の心亦復是の如し、是れ理即是れ菩提心と名く、亦是れ理即止観、即寂を止と名け即照を観と名く、名字即は理即是なりと雖も日用知らず、未だ三諦を聞かざるを以て全く仏法を識らず牛羊の眼の如く方隅を解せず、或は知識に従ひ或は経巻に従ひ上の所説一実の菩提を聞く名字の中に於て通達解了す、一切の法皆是れ仏法と知る是れ名字即菩提となす、亦是れ名字止観、若し未だ聞かざる時処々に馳求して既に聞くを得巳て攀●の心息むを止と名く、但法性を信じて其の諸を信ぜざるを観となす(文)。宗祖大聖居理即名字は、血脈鈔に曰く、日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり、本尊鈔に曰く、末代の理即我等云云(巳上依当抄十三紙)本因妙鈔五重顕観の下に曰く、予の教相観心は理即名字愚恵愚見なり、日蓮名字即の位、弟子檀那は理即の位云云、種脱血脈鈔に曰く、名字の妙法を持つ所は直体の本門なり、直に唱へ奉る我等は名字即釈迦即迹也(種四)当鈔数処に久遠名字の名出づ、又御義口伝に曰く、されば無作三身は末法の法華経の行者なり(寿一)、又曰く末法の仏は凡夫なり凡夫僧なり、法は題目なり僧は我等行者なり仏共云はれ又凡夫僧共云はるゝなり(常十三)内(二十七)顕仏未来記に曰く、彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮名字凡夫なり云云応に知るべし、宗祖見地或は理即在り或は名字在り然れば理即是れ総を示し名字定んで別を示す、師檀総別兼て挙ぐる故に今文理即名字に居すと云ふなり。
本門とは、末法に至り本化出現し本地の法流通す故に本門と云ふ、委しくは開目鈔、報恩鈔、本尊鈔、血脈鈔等の文の如し、依義判文鈔に曰く、問ふ三大秘法並に本門に曰ふ其の意如何、答ふ本門と言ふに於て且らく二意有り、一は本門寿量文底秘法故に本門と云ふ、二は久遠元初独一本門故に本門と云ふなり、応に知るべし久遠元初は唯是れ本門の一法、更に迹は論ずべき無し故に独一と云ふ、二意有りと雖も是れ一意のみ。(第四此尤良薬下)
素絹五条其体短狭は、四分律に曰く、安陀会長さ四肘(七尺二寸)広さ二肘(三尺六寸)欝多羅長さ五肘(九尺)広さ三肘(五尺四寸)僧伽黎亦然り云云、五条狭少は是れ造作に便なる故なり、凡そ衣量は身量に応ず然れば量を減ずるは是れ倹徳にして罪を成さず、量過ぐるを是れ驕奢説浄に応ず、章服儀載下流其●奢倹狭を論ずるに至る、未だ其人を見ず、又云く衣服量を立て減を開かん過ちを制する者倶に貧競の情を抑るなり云云、近世当流に著する所の衣量は凡そ長さ三尺六寸広さ一尺六寸(鯨尺)倹約を表する所敢て仏制に背かざる歟、之に反し其の横被の如きは漸く広さ二寸余に至り且つ華線美を競ひて古制に違ふ、加之衣相条葉一長一短稍法に如しからず有志は須らく之を改めしむべし、且つ他宗門所用の輪袈裟畳五条と称するもの甚だ珍狭に過ぐ、僅に其の形名を存するのみ、縦令是の儀表其の実身を蔽ふ者非ずと雖も倹狭此の如きの極に至る豈法に違ふこと無きを得ん耶、次に素絹衣は短少に之を製す、法服(偏衫)娑婆の為に似ざら令むべし、然りと雖も当流現用の素絹猶衣量四十尺を要す、是れ短狭と為す耶、又二十尺を以て之を制するあり半衣と称して之に●ふ、是れ豈好事乎、加之法主学頭大礼着用の長絹襟立の如きに至つては是れ過奢の服に至つては是れ過奢の服に非ずとなす耶、何となれば襟立は原勅賜に出づ決して仏意に応ぜす猶紫衣の如き歟、長絹は長く裳を垂れ数尺之を曳く、朝服襲裾を曳下するに類す、大優姿は末法折伏の行儀に非ざるなり、往昔支那の講僧納播を曳く者有り、僧史畧に曰く又三衣の外納播を曳く者有り、形、覆肩衣の如し寄帰伝に出づ、講員自ら許し即ち之を曳く、若講一本を通し則一支を曳く、二三本を講じ亦講数に随して之を曳く、納播の如き是なり(文)是れ豈徒に華美を●ふ抱腹可笑に非ず乎、類を知る、襟立長絹亦殆んど之に似たり、何ぞ当流行儀に背かずと言はざるを得ん耶、然し古師は未だ此論有るを見ず、因襲の久しきなり、誰か尤ず、中世以来衣師の製する所に委せ漸く流俗過奢の風成る。折伏奔走の衣量は決して然る可らざるや明なり矣。
如幻三昧経名忍辱鎧也勧持品云、悪鬼入其身、罵詈毀辱我、我等敬信仏、当着忍辱鎧等云云、可思合之
 次用薄墨道理者
問法之色、但用薄墨其謂如何。答亦有多意一是表るが名字即故也。謂末法是本未有善の衆生、而最初下種の時也。然に名字即下種位也。故荊渓云、聞法為種等云云。聞本豈非名字乎、為種豈非下種位乎。故表名字即但用薄墨也。二是為簡異他宗也。謂当世他宗名利之輩、不修内徳、専荘外相、綾羅錦綉、以纏其身、青黄五綵、耀動衆心真紫上色金襴大衣、令夫人孺子生愛敬之想以俟衆人之供養也。今為簡異加此之輩、但用薄墨也。薩婆多論言為異外道著三衣是也。三是為結順逆二縁也。
忍辱の鎧は、末法折伏の行者三軌を奉じ万難を忍ぶ可きを明すなり、薄墨等は次下に白明なり。本末有善は、文句の記二十八(五十一)に曰く、問ふ釈迦出世し、●●して説かず、常不軽一見し、造次にし言ふは何ぞや、答ふ本巳有善は釈迦小を以て而将護之し、本未有善は不軽大を以て而強毒之す云云、(文句)本未有善は宿植徳本無き衆なり、且つ不軽品の文に従つて曰く、最初威音王如来既にに滅度を巳へ正法滅後像法中に於て増上慢の比丘大勢力有り、又曰く四衆の中に瞋●を生じ心不浄なる者有り、悪口罵詈して言はく是の無智の比丘何所より来る云云、今仏の末法を以て濁悪世と為す、是の経論通説諸家之を争はず、然りと雖も所見自ら寛厳無きに非ず日蓮宗及び浄土門家其の厳なる者なり。最初下種の時等は、下種は輔行一の五(十六)華厳経第七を引て曰く、仏種子を衆生の田に下し正覚の芽を生じ仏種を断ぜざらしむ云云。最初は久遠元初本因妙の種を以て、末法本未有善の衆生の心田に下すなり、種熟脱の三益自ら三世に亘り九世三益を成ず、委しくは文句の記一(二十九)以下の文の如し、然れば今家の三益、台家の三益と其の相自ら異る須らく混同すべからず矣。
名字即是下種の位等は、宗祖三益を説いて下種を宣し熟脱に及ばず、六即を及ばず、六即を説いて理即名字を宣し観行巳上に及ばず(御義口伝寿量品の一文は自ら別義なり)知んぬ当流は是れ下種正益名字正位を明すなり矣、半偈成道刹那成道に准じて之を知るべし。
荊渓曰く等は、妙玄二上(十五)に曰く、明に衆生種、非種、芽、未芽、熟、不熟を識る云云(玄文)種芽等は、皆二法を以て種熟脱と為す故なり、法を聞て種と為し、発心を芽と為し、賢に在るは熟の如く聖に入るは脱の如し云云●文。
真紫上色は、我が邦紫を以て上色と為す、最古、孝徳帝大化三年十二月、冠に七色十三階を制す、一織冠、二繍冠、三紫冠、四錦冠、五青冠、六黒冠、七建武冠、而して服色織冠には深紫を用ひ繍冠之に同じ、紫冠には浅紫を用ひ、錦冠には真緋を用ひ、青冠には紺を用ひ、黒冠には緑を用ふ、織繍は色に非ず故に色を以て之を言ふ、冠服倶には紫最上、爾来紫を尚び俗と成し以て今日に至、民心に浸潤して官色及び許色と称す。
青黄五綵等は、業疏に云く法衣道に順じ錦色班綺心神を耀動す、青黄五綵真紫上色流俗の貧る所故に斉しく削るなり文。
夫人嬬子は、夫人貴婦の称、今文に猶云く女子小児歟。
薩婆多論に曰く等は、薩婆多此の説一切有と云ふ、即ち上座部第一の有部宗なり、此の部律を十誦律と云ひ、飜じて六十一巻と為す、今此論即ち十誦律と釈するなり、六物図に云く、薩婆多と云ふは未曽有の法を現ぜんと欲す故に一切九十六通此の三つ名無し、外道に異らざる為の故なり(文)。
謂僧祇律云、三衣是賢聖沙門標幟也。済縁記云、軍中標幟、有所別故云云、標幟即是旗幟也。凡諸宗諸門標幟、与当門流標幟、其相天地雲泥、明なり於源平の紅白、故信者馳集、而結順縁、謗者成敵、而結逆縁、故但用薄墨也。四是為制自門非法也。悲哉、澆季沙門、行跡多不宜矣、是併自宗他宗、自門他門、皆是黒衣等、而更無所可分、故悪侶恣心、多行非法、猶要罪推他宗他門、然に当門流法衣、顕著更無所紛、故雖不名乗、而万人知之、故雖為若侶尚強恥忍之、多不行非法、故但用薄墨也。
 次引論
第一、生御影、即在重須也。第二、造初御影、即在当山也。蓮師御伝記八云、弘安二年富士戒壇板本尊奉造立時、日法心中有為末代不見不聞之人、欲造聖人御影之願。故先造一体三寸御影、便奉入袂備聖人高覧、而請免許、聖人取此御影、而置御手上、被為含笑、即有免許。因之、奉造等身御影、而消聖人御剃髪、御衣を彩色し給也云云。一躰三寸者、即造初御影也。等身御影者、即是生御影御事也。此之両御影、並是、薄墨素絹五条袈裟也第三鏡御影、今在鷲巣、亦是薄墨法衣也第四御書類聚云、大聖人薄墨染袈裟、真間在之第五録外十五云薄墨染衣一、同色袈裟一帖給候(巳)上第六阿仏房鈔(三十一)絹染袈裟一進候云云、定是薄墨也第七、開山上人二十六箇条云、不可為衣墨黒事云云。
僧祇律は僧祇此には大衆と飜ず、即ち大衆部律訳して四十巻有り。
済縁記は霊芝元照作八巻有り、即ち四分随機羯磨済縁起是れなり。
源平紅白は清和六孫王、経基王、姓を源氏と賜ふ、子孫武臣たり、白旗を用いて標と為す、桓武曽孫高望王姓を平氏と賜ふ、子孫武臣たり、赤旗を以て標と為す矣。
澆季は人情軽薄三宝を信ぜざるなり。
皆是黒衣は当時僧風一般に服は黒衣と常とす、故に衣色を見て其の宗属を知り難きなり。
悪侶若侶等は、侶は徒なり、輩なり、猶悪僧若輩と謂ふが如し焉。
名乗は、乗は擬字なり「ノル」即ち宣言の義、中世巳来向他自称の姓名を云ふ名乗なり。
恥忍之は、恥自恥なり、恥ずる故に己れに克ち之を忍び放逸ならび矣、忍辱とは義稍別なり。
生御影即重須に在りは、重須は今の駿河国富士郡北山村字北山即本門寺所在の処、開山久住の地、古来重須と称するなり、生御影は、当今本門寺本堂に之を安置す、明治二十一年調べし所同明細誌に曰く、宗祖御影木像御丈弐尺八寸、宗祖御在世の砌中老日法命を受けて之を作る、即ち正御影尊是なり、開山日興身延離山の際随身せる所なり(文)然りと雖も他の称には後人の作なりと或は然る歟。
造初御影は、本山宝蔵に安置す明細誌(同上)に曰く、伝に云く中老僧日法の作なりと読経の御姿、法衣薄墨色素絹五条袈裟、但し彩色古くして鮮明ならず、古仮名書伝記に造初御影富士大石寺に在りと記せるもの是なり(文)。
                                     等身等は、身量、像生身と斉等故生御影即生身の影像なり。
鏡の御影今鷲巣に在りとは、鷲巣は今上総国長柄郡茂原町字鷲巣村なり、同地に本門法華宗本山(八品)鷲山寺と称す、此に御影有り、同寺は建治三年中老越後公日弁の創造(或説)弁師は熱原甚四郎の長子、根方滝泉寺の学匠たり、一旦同侶日秀日禅と宗祖に帰伏し、開山富士草創の時之に隷して支坊を営む、元徳二年大石寺番帳に云く、三番理境坊阿闍梨日秀、四番少輔房日禅、七番越後阿闍梨日弁云云此等の事蹟、日潮の本化統領等と大に支牾す須らく考索を要する矣、鷲山寺所蔵の外に鏡の御影と称する者京洛本国寺に在り、薄墨の衣白五条の袈裟、又当山に鏡の御影と号する有り摸写人詳かならず、猶薄墨衣白五条の袈裟なり、三位日順摸写の御影、讃岐夢の御影亦然り。
 長国山鷲山寺、或曰く文永年間領主小早川左近太夫祈願建立、或曰く建治三年 小早川内記開基、或曰く宗祖滅後
〔追記〕
衣証事記〔高恩坊日現)一、元祖中山浄河弥堂に於て百坐御説法の時日朗随影給仕の時着し玉ふ法衣は所謂素絹五条、白袈裟なり、今上総国平賀郡本土寺の霊堂なり、今に至り寺僧等是を日朗堂参の衣と云ふ、平賀は日朗の出生地なり。
一、上総国佐倉領内師谷村常信寺本真言寺為り、時に日朗教誡に依り法花寺と改む、之に依て弘法像を以て元祖自ら印相を改め御自身の御影と成し玉ふ、其の体内に法衣両指十爪を納む、其の法衣は所謂素絹白五条なり。
一、上総国鷲巣長国山鷲山寺の霊宝元祖御著の素絹白五条等一帖有之興門嫡流の徒輩著する所の法衣に全く異ならざるなり云云。
一、元祖一代所書の絵像皆鎌倉の大蔵卿の筆なり、正中二年失物の内両尊は大蔵卿の筆なり、絵像は房州保田妙本寺に之有りと伝ふ、而して真向の御影と云ふ、又興師の絵像は上総国一ツ松本興寺に之有り、右両尊共素絹白五条なり、又今に至り元祖嫡々附法日興上人の流を汲む勝劣一葉の根元多宝富士大石寺より出す処の両尊は素絹五条なり、大蔵卿の筆なり〔是本書なり)(已上)
私云く、明治四十二年九月拝見、真向御影は正しく薄墨衣白五条なり。
又衣証の事は天保十年之を記す、然るに嘉永七年善妙書写の秘蔵録三巻中(要山流 )三衣の事の下記に日朗堂参衣常信寺像鷲山寺衣等同轍なり、敦前何後なる歟、又衣証事記表紙裏に記蓮永寺日持作御影、衣字剰、及中村旦林御影亦薄墨衣白五条也云云。
真間は、今の下総国東葛飾郡市川村字真間、此地に日蓮宗大本山弘法寺有り、此の袈裟同寺所蔵と云ふ、予未だ現状を群にせず、真間弘法寺は元天台宗為り、文永中住僧了性富木常忍に屈せられ退走して自然本宗寺院為り、五老日頂之に住す。
録外十五(三十三)四菩薩造立鈔に曰く、白小袖一ツ薄墨染衣一ツ同色、袈裟一帖鷲目一貫文給ひ候云云。
阿仏房鈔は内三十一(二十四)阿仏房消息の首章なり、廿六箇条等は日興遺誡置文第弐十条の文なり。
 三科簡者
問唯於当流、不許法服七条等其謂如何。
答凡法服者、上曰偏袗、下曰裙子、抑仏弟子本腰巻裳、左肩着僧祇支、以襯三衣也。僧侶祇支者、名覆膊衣、亦名掩腋衣、是覆左肩、及掩右腋故也。阿難端正、人見皆悦、仏使着覆肩衣、此覆右肩也。而後魏宮人、見僧袒一肘、不以為善、便縫合之、以名偏袗、会云衫未有袖端也云云。其後唐代大智禅師、亦加頸袖、仍名偏袗、是従本立名也。言裙子者、旧云涅槃僧、本無帯襷、其将服之時、集衣為●、束帯以二条也、今則畳●付帯也。今取偏袗裙子、通名法服也。如此法服、七条九条、乃是上代高位法衣、而非末法下位所着、何可許之耶。孝経曰非先王法服、不敢服云云、註云法服法度服也、先王制礼、異章服、以分品秩、卿有卿服、太夫有太夫服、若服非法服僣也云云、又云、賤服貴服、謂之僣上、僣上為不忠云云、外典尚爾、況内典乎。
抑仏弟子等は、上古天竺の風俗裁縫を加へず長帛にて身を纒ひ翩々乎、仏弟子亦之に准じ内裙を以て腰を纏ひ三衣を襯す、右肩を袒ぎして祇支を覆肩とは尼衆の為め始て之を作る、広く比丘衆の着用を許さず矣、僧祇律三十八に云く、仏舎衛城に住す爾の時比丘尼有り年少く端正、衣を着し道を行く、時に両乳現出す、男子見已て之を笑ふ、諸比丘聞已て大愛の道を語る、大愛の道は即ち是事を以てす、往て世尊に白す乃至仏言さく今従り已後応に僧祇支を作るべし矣云云。
六物図に曰く、尼女は報弱なり故に祇支を制し左肩を披き以て袈裟を襯す、又覆肩を制し右膊を掩ふに用ひ形醜を遮る、是の故に尼衆必ず五衣を持つ大僧亦畜用有り、但し是れ聴衣のみ(文)、報弱は受体柔弱なり、膊は肩なり、五衣は三衣及び僧祇支と覆肩なり、聴衣は阿難の祇支を用るが如く別開のものなり、襯は褻なり直に膚に近きなり、僧祇支等は名義集に曰く、僧祇支梵語で僧却●、僧迦鵄亦同じ、此を掩腋衣と云ふ、又上狭下広衣と云ふなり、僧祇二衣、並長さ四肘、広さ二肘、故に知んぬ亦袈裟●方に同じ(四角)、但し条葉無きのみ(文)、腋は増韻曰く左右の脅の間を腋と曰ふ、博雅曰く●之を腋と謂ふ、広韻曰く牲後、頚骨、儀礼註●肺膊●と曰ふ、膊は肩膊なり。
阿難端正等は、住法図賛(南山)に曰く、阿難報力休壮円満具足、士女咸く愛著を興す乃至目は浄色を悦び心酔神昏子頚を繋ぎ而して沈殺は此に由て曲て制して覆肩の衣を著さしむ、文句記四十紙に曰く、阿難端正人見て皆悦ぶ、仏覆肩衣を著さしむ、一女人有り児を将ひ井に脂で阿難を見、目視不●覚へず●を以て其児の頚に繋ぐ、中阿含曰く、四衆若し其(阿難)黙、行住坐臥、指●、処分、進止、動転を観て皆歓喜す(文句)。
偏袗及び後魏宮人等は六物図に曰く此方往古並びに祇支を服る、後魏(南北朝)の時に至り始て右袖を加ふ、両辺縫合せ之を偏袗と謂ふ、領を截ち裾を開き(後の襟下と裾を一尺斗り縫ずして置くなり)猶本相を存す(祇支、覆肩 二衣の本相なり)故に知んぬ偏袗の左肩は即本の祇支、右辺は即覆肩なり、今人之に迷ふ又褊袗の上に復た覆肩を加ふ云云。名義集七に曰く、竺の道祖云く、魏時僧請て内に於ては自ら恣にす、宮人僧偏袒を見以て善と為さず、遂に此衣を作り僧に施す、因て左辺にある祇支の上に綴ぶ因て称を受く、即ち偏袗の右辺なり今祇支の名を隠し通じて両袖を号して偏袗と曰ふ、今作らん時は須らく後縫を開くべし、領を截ち以て元弍を存する故なり、僧史畧一に曰く、又後魏官人僧自恣偏袒右肩を見る、乃ち一肩衣を施し、号して襦袗と曰ふ、其の両扇衿袖を全くし祇支の体を失ふ魏より始まるなり(文)。
会云袗等は、●会乎、会正記(允堪行事抄)乎、未だ詳ならず、袗は篇海曰く、小襦なり、一に曰く単襦釈名に曰く袗芟なり、袗末に袖端無きなり、束晢近遊賊して曰く、汗袗を脅かし以て当に熱せしむべし。
大智禅師は南栄禅第三世百丈懦海禅師なり、伝燈録六に曰く、肇め少室より爾谿に至り以来多く律寺に居す、院別るゝと雖も然も説法住持に於て未だ規度を合せず故に常爾懐を介す、乃ち曰く祖の道布化を延べんと欲す、元末際不泯を●ふ者豈諸部阿笈摩教と随行為さん耶、或曰く瑜伽論瓔珞経、是れ大乗戒律の故に依随せざらん哉、師曰く、吾が宗の所は大小乗の局に非ず、大小乗の異に非ず、当愽約折中制範を設け其の●に務るなり、是に於て意を創り別して禅居を立つ云云。
百丈鋭意経営、細大に僧規を制し禅林独行、面目一新、以来禅門翕然として百丈のに清規に依る、今文に云く頚袖等は考諸伝記に説無し、此の文拠未だ考にせず。
裙子等は泥縛些(桑箇)那、或は泥代散那と云ふ、西城記に唐に裙と言ふ、旧くは涅槃僧と曰ふ訛なり、既に帯●無く其の服将なり、衣を集め●と為す(襞なり便縫曰く==・==なり)束帯するに条を以てし、●則ち諸部各々異る、色は乃ち黄赤同じからず、釈名に云く裙群なり、群幅に連接するなり(文)●は類篇に曰く、衣糸に曰く●韓愈の詩に曰く妻は痩せ腰●を剰す。
問他流上人、皆着香衣、是為簡異平僧故、中正論二十云吾宗上人、色衣用木蘭色、而此木蘭、皮有香気、而准彼色染之、故亦名香衣也、皆着此衣、是為簡異平僧也云云、最有其謂、何不許乃耶。答是将簡異平僧、却濫他宗の住持、曷可許之乎、応知畠山か白旗而有藍皮、吾家平僧、則無袖裏今古雖異、倶無所濫也。問他流皆着直綴当家何不許之耶、答凡直綴者、唐代新呉、百丈山恵海大智禅師、偏衫裙子、上下連綴、始名直綴。故知只是縫合法服、既不許法服曷可免直綴乎、況復由来、出於謗法之家、那可用之乎。問若爾、横裳始於慈覚、何亦用之耶、答実是伝教大師相伝也、故健抄四(五十二)云、天台宗裳附衣、始自慈覚大師也、根本是伝教大師御相伝也云云、何同直綴来由乎、故開山云云。
上人等は、上人は、凡僧法橋に進み上人位為り、今左に僧位僧官及び服制一班を示す、但し当流(要法寺を除く)古来無位無官の故の此の列に在らず。
                                            大准二位大納言                                         緋色素絹衣、紫地浮紋或は       僧 正    小准二位中納言                              権准三位参議                                          緋色袈裟紫衣、勅許に拠る
法 印====(大和尚位)准四位殿上人
                                            大准四位殿上人
                  黒素絹或は当職品秩着色衣
僧 都    小准従四位殿上    に依る、紫地浮紋袈裟、紫              権准右同断                                           衣を着すは勅許を要す
法 眼 (和尚位)准五位殿上人
                                                                          律師     准五位少納言     白素絹衣同地同色
       侍従之に准ず     袈裟
法橋(上人位) (高野山制、衆分三等皆白袈裟を着す)
吾家の平僧等は、当流は三網に任ぜらるゝ無し、故に上人平僧位共他門と別異、今左に之を示す、然りと雖も近年制度大に紊る、興門宗制の如し、准教師より(平僧初級)衣袖裏を開く是れ古制に背く、有志須らく復古を図るべきなり。
                                            上人(法主)                                           衣裾裏及び             上人     准上人(学頭)                                          袖裏有り
       贈上人(能化)
                                                                                 阿闍梨号                                             衣裾裏有り
平僧====大衆 坊号                                               未だ袖裏有らず
       若大衆
                                                                          所化沙弥==・==衣、裾、袖裏無し
                                     唐代等は、徳、順、憲宗の代なり、新●は洪州に在り、百丈は山の名なり、峻坂千尺、因て之を名づく師之に居す。
直綴等は、百丈清規の二に云く、相伝前の輩、僧偏袗有り而して裙無し、裙有るは偏袗無きを見る、遂に二衣を合せて直綴と為す、然れば普化木に直綴を索め、大陽草に覆有の裙を伝ふ、古亦有り矣。
謗法を出す等は、禅天魔家創制の故。
横裳等は、形に因て名づく、即ち素絹衣なり。
〔追記〕
顕密威儀便覧上、素絹の色亦官に従つて単而して長、一身有半、有帯、宜しく絹精好なる及び布を用ゆべし、織絞絹を禁ず、長さ身に恊ふ、野山僧は空衣為り、醍醐僧正曰く等身の衣。
三中口伝第四(甲)装束の事取要(僧服集要に之を引く)一、素絹は坂衣とて公界に出でざるなり、坂の上下の用又武者の時太刀刀を差す可き為なり、慈恵より始むるなり。
南都僧俗職服記(文政十一)一、素絹襲無く僧網無し、夏は生絹、冬は練絹、無紋白衣なり、但し色衣は文に有り、長裳、切裳等絹衣の如し、又云く薄墨色の素絹有り、当時多分に之を著さず、法中相応の色たる可き歟○素絹は略服なり、常の服なり、法用に依ては之を著さず云云。
素絹の素は白にあらず、織紋なき常の絹と云ふなり、安斉随筆十一(百三の五)に出づ。
故開山云云は、開山上人遺誡置文第十九条に直綴着す可からずの文是なり。
問他流皆着黒衣、何不許之耶、答北方黒色、非是壊色、録外二十一引法皷経云、黒衣謗法必堕地獄云云、謗者乖背別名也、法謂法度也、北方黒衣、豈非謗法乎、例如六物図云、自楽色衣、妄称王制雖伝飾過、深成謗法云云、況復当世黒衣、其色甚美、如紺瑠璃、似烏鵲羽、若非藍染、焉得彼色、如方等陀羅尼経、尚不許往来藍染家、何況可免染三衣乎、是則従藍而生多虫、其虫与藍倶入曰、春之而後、染一切之物、非但不浄、亦殺多虫、何可許之乎、然諸宗之輩、唯愛其色美、不識背仏制、若於当流、謹恐謗法故不許之、開山云云云。
北方黒色等は、北方は正色を五方に配し、黒色は北方に当る、是れ正色の故に袈裟不正色に非ざるなり。
六物図に云く等は、其の次上の文に曰く、末世学律聖言に反し、冬は綾羅を服ひ、夏は紗●を資ふ、朱を乱すの色鮮華を厭はず非法の量長く●膝を垂る(文)。
王制は、云く勅賜紫衣、此等を知る文、当時の衣体色量倶に非を顕はし、以て過を飾るを斥くなり、大唐日本時国異ると雖も弊風是れ同じき故、寛師亦援引以て権迹家の奢侈を戒飾す矣。
方等陀羅尼経等は、其経護戒分を挙ぐ、七科五事其の一なり、文に曰く復次善男子復五事有り、脳皮家と往来を得ず、藍染家と往来を得ず、養蚕家と往来を得ず、圧油家と往来を得ず、掘状蔵と往来を得ず、是の如き五事是れ行者護戒の境界なり(文)。
開山云云は、遺誡置文第二十条に衣の墨黒く為す可らざる事、及び第二十一条に謗法と同座す可らず与同罪恐るべき事の文歟更に考ふべし。
問諸流之中、有或楽着紫衣、但当流曷不楽之耶、答此是始乎唐則天朝而後諸代有り   此事也、雖然流俗所貪、夫人女子所愛、而儒家尚斥之、況於仏氏乎、資持記下一云、嘗考大蔵、但有青黒木欄三色如法也、今時沙門多尚紫服、按唐記、則天朝薛懐義、乱於宮庭、則天寵用、令参朝議、以僧衣色異因令服紫袈裟帯金亀袋、後偽撰大雲経、結十僧、作疏進上、復賜十僧紫衣亀袋、由此弊源一洩干今不返、無智俗子、濫跡を釈門、不務内修、唯誇外飾、矧乃輙預耆年之上、僣称大聖之名、国家所未許、僧門之所不挙、致使貪婪嗇●之輩、各逞奢華、少欲清浄之風、於茲墜滅、且儒家人倫之教、則五正為衣、釈門出世之儀、則正間倶離、故論語云、紅紫不以為褻服、乃至況律論明文、判為非法、苟不信受、安則為之云云、応法記云朱紫世以為栄、出家超世、故須捨之、今時釈子、反求紫服、以為栄、身豈非厭棄道翻希入俗乎云云、六物図云、自楽色衣、妄称王制、雖云飾過、深成謗法云云、色衣即是紫衣也。
或は楽て紫衣を着するは、紫衣は是れ勅賜の故に名利の大僧競て之を楽ふ、近古最も甚し矣、支那紫衣の始めは下文の如し、日本紫衣の始めは六物抄の上に委しく之を出す。
儒家尚之を斥くは、論語湯貨第十七悪紫の章に曰く、紫の朱を奪ふは悪しき文歟、孔安国曰く、朱は正色なり、紫は間色の好者、其の邪を好んで正色を奪ふなり、知言四に云く、子卿曰く、紫色の美好む者なり、朱色の美明なる者なり、流俗其の美好を以て悦と為す、紫を貴び朱を過ぐる故夫子以て譬を取るのみ、按韓非子、斉桓公紫の衣朝に視る群臣皆紫を服ふ、左伝良夫は紫衣を●る、戴記玄冠紫矮、魯桓公より始む、蓋し紫の色の最美は許慎漢人赤青色の説有り則今所謂紫是れ已に当時競つて之を尚ぶ、楽之鄭声猶朱之の為に奪ば所る焉(文)。
按唐紀等は旧唐書に依る歟、賜紫の事蹟、僧史畧に委しく之を引く、今圧はず繁く之を引く、僧史畧下(五十六)に曰く、古の貴ぶ所名と器となり焉、人服章を賜ふ極は則ち先紫緑●黄授乃ち降次と為す、故に曰く紫授を加へ必ず金章を得、僧但だ其の紫を受け金ならざらしむるなり(方袍非緩)諸史を尋ぬるに僧衣は赤黄黒青等の色にして朱紫を聞かず、唐書を案ずるに則天の朝に僧は法朗等と有り、重て大雲経に訳して符命を陳て言さく、則天は是れ弥勒下生して閻浮提主為り、唐氏徴を合す故此に由て命を革め周と称す(新大雲経に曰く終後弥勒宮に生ず則天是れ弥勒と言はず)法朗薜懐義九人、並に県公を封ず、賜物差有り皆紫袈裟銀亀の袋を賜ふ、其の大雲経を天下の寺へ頒ち各々一本を蔵し高坐講説せしむ、賜紫此より始るなり」新唐書を観るに大雲是れ偽書とは言ふ、則ち非り、此経晋朝已に訳し旧本便に女王曰く時に豈天后有り耶、蓋し重訳に因る故に厚誣加ふ有り以て薜懐義を挟み、其の門に在りて譏誚を致招すなり、乃至(玄宗、粛宗、順宗、憲宗、穆宗、文宗、武宗、等皆此賜を行ふ、只睿宗未だ聞かず)東観奏記に曰く乃至大中十一年十一月十四日延慶の節、両街僧道麟徳殿に赴内、議論し可孚紫を賜ふ、又日本国僧円載西明寺に住し、辞して本国を廻り紫を賜ひて遺還す、乃至僖宗昭宗諸道薦むる所の僧に紫衣を賜ふこと極て多く録さず、乃至梁、唐、晋、漢、周皆爾り、今大宗唯誕節に賜るなり、其或は内道場の僧已に紫を著す、又紫羅衣三事を賜ふ、之を重賜と謂ふ、若し諸国を偏覇して賜ふ亦同じ、偽蜀時に雲南国、内供奉崇聖寺主を遣し紫銀鉢を賜ひ僧通好便に充つ焉、後蛮土に上る者有り、金鉢を賜ひ猶中国に銀魚を賜るが如くなり、倭国には則ち僧伝燈法師の号を賜ふ、高麗、僧に紫衣を賜ふ、則ち金銀の鈎を以て紐上に施し別して高下を甄るなり(已上)。則天等は、太宗才人は武氏なり、太白屡々昼見、太史占て云く、女主昌、民間又秘記を伝へて云く、唐三世の後女主武王の代天下有り、太宗之を悪み貞観末年武衛将軍李君羨を罪す、(小名五娘而官称封色皆有武字故)、太史李淳風に秘記を弁折せしめて云く、其の人已に宮中に在り、然れば武氏是れ其の人を知る能はず、太宗崩後出でゝ尼と為り寺に入る、高宗宮に納れて昭儀と為す、寵後宮に傾く、巧慧権数多く后妃を斥けて皇后と為るに至つて天后と称せらる、高宗風痃に苦しみ政を視る能はず、后性明敏文史を渉猟す、故に代て事を処す、皆旨に称ひ委しく政事を以て権人主を駕ぐ、高宗崩後頻に宗室を戮し、皇祚を移さんと欲し李敬業武氏を討つの●に云く、偽りて朝に臨む武氏は人温順に非ざるなり、地実に寒微、昔太宗の下陳に充りつ、嘗て更衣を以て入侍し晩節を泪す乎、春宮を穢乱し密に先帝の私を隠し陰に後庭の嬖みを図る、元后●●を践み吾君の聚●に陥り、姉を殺し兄を屠り君を弑し母を酖む、人神之同嫉する所云云以て人と為りを見るべし矣、中宗を廃し後諸李殄滅す、拝洛の図るを受け国号を改めて周と曰ふ、則ち天楼に御し天下を赦し終に唐室に移る、老疾甚だしく中宗復位に及び尊号を上り則天大聖皇帝と曰ふ、武氏陰険残忍、親を殄して厭はず、婬蕩老に及び衰へず嬖幸頗る多し、僧薛懐義、張易之、張昌宗(有蓮華称)等尤者なり、然りと雖も能く忠直に任め群雄に駕馭たり文芸を収容して狄仁傑婁師徳姚元崇等の如し、其の親任を為す所然り武氏亦不世出の女傑哉。
薛懐義は李唐の鼠賊、釈門の妖蘖なり、猶我が孝謙の朝妖僧道鏡有り東西の醜事なり、懐義固り僧行有るを聞かず、武后の幸を得、出入御馬に乗り、朝貴皆匍匐として礼謁す、多く無頼の少年を聚め度々僧と為す、縦横に法を犯し、嘗て自ら新平道大総管為り、突厥を討つ是れ何事なる哉、武后又命じて天堂を作り日に万人を役ひ費億を以て計、府蔵空と為る、懐義度する所の力士僧為る者千人に満つ、姦謀有り之に流る、懐義問はず、又命じて牛を殺し血を取りて大像を画く、首の高さ二百尺、云く懐義膝血を刺し之を為す。天津橋(河南府城西南)南を張る、侍御医沈南●亦幸を太后に得、懐義心に慍り乃ち密に天堂を焼き延て明堂に及び皆尽く、風血像を裂て数百段為り、太后之を諱み命じて更に明堂天堂を造らしむ、懐義内々自ら安からず言不順多し、太后陰に人をして之を殴殺せしむ(易知録に依る)奸像遂に終り全からず快なる哉。
金亀袋は魚形にして腰に佩ふるなり。
上疏進上は、法朗徳義等女主昌又は女主武王等の秘記を附会し大雲経女王の文を以て上意を邀へ阿諛する之なり。
弊源一洩今に返らずは、弊源始め則天の賜紫、緇服を奢華にし、今に返らざるは資持記主霊芝元照は北宋の末の人なり、南山律一張已後久しく振はず、仁宗の時允堪会正記等を作り南山律を興し以て霊芝に至る、霊芝の代則天賜紫と時を根距つこと殆んど四百五十年、流弊猶息まず賜紫を以て賞僧の嘉典と為す、委しくは僧史略等の如し、故に霊芝此の歎き有るなり。
不務内等は、内に密行の赫●無く却て外に燦爛の儀表有り、是れ即ち内醜蔽ふの法服仏陀の歎息亦如何焉。
預耆年之上は、耆年即ち長老尊宿は、臘に長じ徳碩の者なり、今記に主弾薄徳青年の輩を斥けて敢て碩徳の長老に交る、大師国師禅師の嘉称を濫る者なり。
国家乃至僧門等は、国家の法度は奸僧を網する能はず、僧林の規律は犯僧を挙遣する能はず、故に僧風大に紊乱す、貧婪多欲の徒、嗇●無厭の輩、時に乗じて名利を邀く、美衣翻々として朝野に●翔す、奢侈風靡して俗界も甚し、茲に於て少欲知足の徒彼等と歯ぶ所為らず、清浄寂莫の士、却て彼の輩に擯斥せらるゝ所為り、徳風地を払ひ満目荒寥たり焉。
五正を衣と為すは、正間共正服と為すは周末已降なり、上世服は正色を以てし間色を服ひず、玄衣黄裳の如き是なり。
正間共離は、袈裟は是れ不正色の故、委しくは前の如し。
論語に曰く紅紫等は郷党第十君子章の文なり、朱注に曰く紅紫は間色不正、且つ婦人女子の服に近きなり、褻服は私居服なり、言はヾ此れ則ち以て朝祭の服為らざるを知るべし(文)。
知言曰く、茂卿曰く紅紫は褻服を以て為さず、王粛曰く皆不正、褻尚衣ず正服施す所無し、朱註之に因る、然るに孔子の時に当り朝祭の服、皆先生の礼有り故に言ふべからず、褻服独り宜しく俗に従ふが若し、然る故に爾云ふ此れ本文の所以は言止褻服と言ふ、而して義自ら足るなり、王朱及び朝祭の服孔子の時は知らずと謂ふべし云云。律論明文等は、心地観経に云云、四分律に云く上色染衣、服するを得ず当に壊を袈裟色と作すべし等の文なり。
応法記は霊芝の釈門章服儀応記(一巻)是なり。六物図は、三衣色相を明す下文なり、往時高僧王制に依て強て之を着す、今時の奸僧百万に懇願し却て王制に托す、是れ則ち明かに過を●す者なり。
色衣即紫衣は、霊芝言ふ所の色衣は是れ王制紫袍を指すなり。
問扶桑記云、伝教大師、自講法華八幡大菩薩、手供養紫袈裟云云、八幡大菩薩、豈可供養非法之法衣耶、答神明内証、非凡所測、惑恐応是随力護法乎、五分律云雖是   我語、於余方不清浄者、不行無過、雖不我語、於余方清浄、不得不行云云、此方風俗、専尚紫衣、故随其所尚、而供養之歟、是一向格別事、那そ可引彼例此乎。」問当流不許七条九条、已闕三衣、焉知其可耶、答当家之意、非闕三衣、但異上古三衣而已。謂、衣袈裟数珠、是名三衣、数珠何名衣耶、相従初二故也、或法性之珠、隠蓋百八煩悩故名衣也、白虎通云衣者隠也、文子云、衣尼以蓋形云云。
扶桑記に云く等は、本拠未考諫暁八幡鈔二十七(六)に曰く、扶桑記に云く、又伝教大師為に八幡大菩薩を奉じ神宮寺に於て自ら法華経を講じ、乃ち聞竟て大神の託宣我れ法音を聞かず久しく歳歳を歴、幸に和上の値遇に正教を聞くを得、兼て我が為に種々の功徳を修む、至誠随喜何ぞ謝徳に足る矣、兼て我が所持の法衣有り即ち託宣の主自ら宝殿を聞き手に紫袈裟一、紫衣一を棒げ和上に奉上し、大悲力の故に
幸ひ納受を垂れたまへ、是時禰宜祝等各々歎異して云く元来是の如き竒事を聞かず見ざる哉、此れ大神施す所の法衣今山王院に在るなり(文)啓蒙附記皇円作る所の扶桑記に言く、今謂ふ扶桑記は是れ扶桑略記歟、而して本抄の文是れ取意なる歟、群書一覧に依るに扶桑略記完備の本無し僅に写本拾四巻残る焉、而して或は皇円(法然の師)阿闍梨抄に曰く、或は准后親房抄に曰く、委細本書往見。
随方護法は、方処風土の宜しきに随て種々方便を以て大法を擁護するなり。
五分律等は、仏化機に従ひ、処に随て一律なる能はず、故に此の方律の文有り彼方の風土に適はず、彼の律文、此方の風土に適はざる有り、不適不当、即ち穢乱の伏処故に適宜を以て清浄と為す、是れ即ち随方毘尼なり。
一向格別の事は、八幡の賜紫、此界の常典に非ず、故に是れ出格なり、今八幡賜紫を以て着紫の好例為んと欲するは理大に謬れり矣。
相従初二は、初二は素絹衣及び袈裟なり、此二、相体及び義理倶に是れ衣なり、数珠は相体全しと雖も衣に非ず、衣は義理有り故に今師上二衣の義を立てゝ三衣と為し相従せしむ、随方随時毘尼亦何ぞ妨げん哉。
百八煩悩は見修二道九十八使に十纒を加へ之を称す、或は百八見を以て之を称す、百八見亦二説有り今左に之を図す。
白虎通は、白虎通徳論四巻、東漢班固之を撰す、本文は四巻に衣裳の部在り、曰く聖人衣服を制する所以は何を以てか●●を為す、形を蔽ひ徳を表し善を勧む尊卑は別なり、名けて裳為る所以何ぞ衣は隠るなり、裳は●なり、所以に形を隠して自ら彰閉なり云云。
文子曰くは、文子は道家者流なり、一巻或は二巻有り。
〔追記〕
化儀秘決(三衣の事)
○常には数珠袈裟衣を三衣と云ふなり、当宗今程は九七条をかけざる間数珠袈裟衣と云ふなり。
又曰く数珠は木にてひくなり、何ぞ三衣と云ふや、答て云く通惣して云ふ歟、其上煩悩をかくす衣なれば不思議の上の衣なり此重に於て草木絹布の異義在るべからずと云ふなり。
問当流薄墨、三種之中、是属何色耶、答此是顕露分明泥色也、諸文雖云青黒木欄、非是北方黒色、只以黒泥、而涅染之也、故注云緇泥涅也、是故十誦名青泥桟、甫註十四云青泥木欄也、以黒名同、勿濫当世他家黒衣云云。
問当流或時着白袈裟不可無謂、応得聞之耶、答此有多謂、今畧示之、一、表最極初心理即位、故謂於泥色中、亦分六即、白色是理即也、淡薄是名字即也、乃至黒色是究竟即也、況復如天台宗、初心比丘、及京都宗門諸寺、新発意、始係袈裟時、必先係白袈裟、豈非表最極初心乎、血脈鈔曰、日蓮名字即位、弟子檀那理即位也等云云」二、蓮祖、或時係白袈裟、故謂、正中山、蓮祖御袈裟有之、地新田山絹、而白袈裟也、蓮師謙下御身、而表理即位、係白袈裟乎、本尊鈔云、末代理即我等云云、可思合之、蓮祖尚爾、況末弟乎」三、表白蓮華故、此亦有二意、一表当体蓮華、謂薄墨衣上、係白袈裟、豈非泥水生白蓮華乎、此即表吾当体蓮華也、故本門寿量当体蓮華仏者、但限当流行者也。二、表不染世法、謂薄墨衣上に係白袈裟、豈非雖在泥濁不染泥濁乎、如幻三昧経、袈裟亦名蓮華衣、亦名離染服也、涌出品云、不染世間法、如蓮華在水云云、是故但限本化末弟也。
涅は説文に品く、黒土水中に在るなり、准南子真訓に曰く涅を以て緇に染む、則ち涅は黒し。
注に云くは、六物図の註なり、註に曰く緇を泥涅と謂ふは、今時禅衆深●並に深蒼褐、皆黒色に同じ(文)六物図首書に●注と傍訓して曰く(緇者)クリ、黒なり(深●者)赤青ソ(深蒼者)藍染ソ藍染非法なり、亦緇泥涅の首書に曰く資持記に云く泥は謂く菓汁を以て鉄器に浸し遂に黒色と成る、河底の緇泥亦染りて黒たる可し。
青泥桟は、青泥は通途の如し、桟は是れ桟香なり、南方の草木状に曰く、蜜香樹其幹桟香と為る、爾雅の釈木に曰く、桟木は干木なり(文)桟即木欄歟、更考。
泥色中に於て亦六即に分つは、是れ本師の卓見、末流之を仰がざるべからず、何者此れ一理の内、白色淡墨尽く納る故なり、凡そ泥黒は北方黒色に非ずと雖も其の濃深なり、決して薄墨の此に非ず、故に或は緇と曰ふ、然れば即ち●五人蒼青色、緇七入黒色なり、泥涅必ず緇に非ざる可し、然りと雖も淡黒には非ざるなり、故に今之を究竟即に推し淡黒を以て名字即と為し、白色を以て理即と為い、薄黒衣、白袈裟、之に因て解と為す甚だ婉曲なり哉。
京都宗門、天台宗乃至白袈裟等は、宗門諸寺位官制、掲前の如し、律師上人既に白袈裟、白素絹なり、況んや平僧及び新発意乎、真言高野山、学侶、衆分、入寺、阿闍梨三等に分ち衆分を又上座、中座、下座に別ち各々白袈裟を着す、臘十年より四十年前後に至り進んで入寺に至る、黒袈裟を着し又同山勧学院学道衆一年二年倶に白小五条を着し三年より黒小五条為るなり、天台宗、浄土宗等未だ考へず追検を要す。
新発意は、新に道意を発する者、其の名広く三乗を被る、新発意菩薩と云ひ、新学比丘と云ひ、又新発云沙弥を云ふ、今新学比丘及び沙汰を指すなり。
最極初心は、諸宗白袈裟を着すれば皆初意に属し漸次色衣を着す故に云爾。
血脈鈔に曰くは、文本因妙鈔文句七面決五重顕観の下。
或時等は、祖書多く染袈裟及び薄墨袈裟を言ひ、白袈裟を言はず、然るに多時染袈裟を着す歟、故に或時はと言ふのみ。
三白蓮華を表す等は且らく部局を取て論と為す即ち別意なり、後輩通惣して拡充すべからず矣。
                                     本門寿量等は、当体義鈔(内二十三)の文意を取るなり。
不染は世間法等は、蓮華離染等の前文に因て之を引く、専ら袈裟の義に関するに非ざるなり。
〔追記〕
法体装束の事
一、入道著用衣袴の事 薄墨絹は貴人之を着用す
同色布 貴賤之を著す
色の浅深は人の年による、極く宿老はちと濃かるべし。
 日我化儀秘決往見 六即の事
精師白袈裟の事
諸宗階級
高野山学侶法式……平袈裟、白平絹を以て七条に仕立申候、横被も同体同色の品を用ひ候云云、高野山聖方階級衣体の次第書………
一、出家受戒以後十ケ年の内は文字細美の直綴絹白五条袈裟白帽子著用仕り来り候……真言律宗法義昇進訳書………
初戒者は黒色の褊袗裙にて鼠色の七条漫衣の袈裟……沙弥は鼠色の褊袗裙同色の五条七条云云
東派浄土真言………
平僧衣体………
五条袈裟白平絹………
時宗旨………
但し本山遊行上人儀は参内の節も薄墨衣麻五条又は二十五条の袈裟相著し候尤も生涯内衣迄も薄墨色に仕立著服仕候、藤沢上人是又同様に御座候。
〔追記〕
当家袈裟相伝、日意…第二衣の事……石塔口決(天台御作)に云く、一切衆生本有仏性識神命根息風と云ふ衣なり、又云く柔和忍辱衣(文)「私云く薄墨の衣なり是れ即ち息風色なり、既に識紙命根息風の衣なりと釈せり所詮薄墨は色心一体の意なり」伝て云く純白色は有為仮諦、純黒は大空深染の故空諦色なり、今薄墨色は有に非ず空に非ず==・==の中道なり、止の一に云く一色一香無此中道、玄の二に云く、夫れ究竟は中乃究竟なり云云、天台秘蔵の法門に薄墨の中道と云ふ相伝有之恵旦両流共之を秘す法門なり云云、されば伝教大師三昧開発し一乗を悟解し叡山を開き給ふ時に乗急の因内に戒急の縁助を催し外に大宮権現本地久成の釈迦如来猿と顕現して中道実相の色質此衣色を顕示し給ふと口伝するなり、是れ即ち薄墨は猿の毛色なり万法惣じて一心に衆途三観を了し内証を此衣に色に顕すなり云云。
顕密威儀便覧巻上(白袈裟)密宗白袈裟は故仁和親王自り創む、●此以来其徒始て別度を得、親王と雖も安ぞ沙弥と名けん、而して白袈裟白祇支を用ふ、況や院家学侶に於ておや、蓋し門主院家は白袈裟白素絹白直綴を用ひ、学侶は白袈裟白素絹黒直綴を用ふ、此れ密家の通憲と為す、且つ賜色門主と雖も若し三摩耶戒壇に入るには必ず白素袈裟を用ふ、実には未達の標幟なり、然れば本より須らく染色すべし法滅尽経に仏言さく沙門の袈裟は変白、今果然なり、昔唐末予算に観音禅師有り南方の禅客を見るに多く白紬を搭く、常に●器を以て染色を盛り之を染めしむることを勧む、天下皆黄紬と謂ひ、観音衲と為し、僧史略に載す、又密部に依て馬鳴菩薩白馬に乗るに白衣を著す、又観音大士白衣を服ひ白蓮中に在り白衣観音と名く、無畏護者と名くるなり、白衣を服る並に是れ菩薩衣苟くも安ぞ沙弥と名けん、菩薩の服を服る何ぞ哉。聖道衣料篇
〔追記〕
如幻三昧経等は、未だ蓮華離染文を見ず、同経の下(頻本地二ノ一〇〇)に云く、其の袈裟は(晋に無穢垢と言ふ)無穢垢即無所有、其の無所有即無所住、其の無所住則ち昿然と為す、其の昿然は乃ち出家為り云云、又所々に蓮華離染りの文と雖も梵行を刺し袈裟と云ふに非ず矣、聖善任意天子所問経亦然り。
問是白袈裟法滅之相、摩耶経下曰、時摩訶摩耶聞此語已、即問阿難、汝於往昔侍仏以来、聞世尊説、如来正法幾時当滅、阿難垂涙便答、我曽聞世尊説於当来法滅之後事仏涅槃後、摩訶迦葉共阿難、結集法蔵、悉事畢已、摩訶迦葉、於狼跡山中、入滅尽定、乃至、六百歳已、馬鳴善説法要、七百歳已、竜樹善説法要、八百歳後、諸比丘等、楽好衣服、縦逸嬉戯、九百歳已、奴為比丘、婢為比丘尼、千歳已、諸比丘等聞不浄観瞋恚不欲、千一百歳已、諸比丘等、如世俗人、嫁聚行媒、於大衆中、毀謗毘尼、千二百歳已、是諸比丘、若有子息、男為比丘、女為比丘尼、千三百歳已、袈裟変白、不受染色、千四百歳已、四衆殺生、売三宝物、千五百歳、比丘相互殺害、於是仏法而滅尽(已上畧抄)応法記云、摩耶経云、仏滅一千三百年後、袈裟変白、不受染色、若准付属儀、仏令阿難将僧伽梨往須弥山項起塔供養、又勅帝釈、紛雨新華、仍告風神、去其萎者、諸比丘問仏、仏言慮ると後袈裟変白也、今時日寂覩実為痛心、豈非魔外壊滅吾教乎悲哉云云。
狼跡山は、是れ鶏足山なり、其の山三峯あり、鶏足を仰ぐが如く狼の跡に似たり亦狼路と名く、西城記下九摩掲陀国の下に曰く、莫訶河の東大林野に入り行くこと百余里、屈屈●幡陀山に至る(唐に●足山と言ふ)亦窶廬播陀山と謂ふ(唐に尊足山と言ふ)高巒峭険、壑洞無涯、山麓谿潤、喬林羅谷、崗岑嶺嶂、繁草波巌、峻起三峯、傍挺絶●、気将天接、形与雲斉、其後尊者大迦葉波乃至将に寂滅に入らんとし、乃ち●足山往く、山陰を上り、屈槃に路を取り西南の岡に至る、山峰険阻、崖径槃薄、乃ち錫杖を以て控え、之を●と割るが如く、山径既に開け、逐路進槃し紆曲折回して互に斜通し山頂に至る、東北面出、既に三峯の中に入れば仏袈裟を棒げて立つ、願力を以ての故に三峯斂覆す、故に今此山三背隆起し、当来す慈氏世尊の興出なり、乃至今山上●堵婆を建て静夜遠望すれば或は明炬見へ其の登山する有り、翻て覩る所無し(文)。
応法記は、霊芝元照之を述ぶ前の如し。
(朱書)霊芝の歎は白袈裟にあらざるなり。
今時下、元照辞也」、大集経第十法尽品云、王既知、正法隠没已、余残の在る比丘召換集一処、●膳衆美味種々而供養、復捨千万宝一宝直百千、以此衆宝物、擬造五百寺、一々諸比丘、各施百千物、師等在此住せよ、我等当養育、為我説正法、我当至心聴、一切皆黙然住、一切無説者、王白諸比丘可んや知法耶、語已て袈裟白し染色不復現等云云、法滅尽経云、仏告阿難、吾涅槃後、法欲滅時、五逆濁世、魔道興盛、魔作沙門、壊乱吾道、着俗衣裳、楽好袈裟五色之服、飲酒●肉、殺生、貪味、無有慈心、更相憎嫉」、自共於後不修道徳、寺廟空荒、無復修理、但貪財物、積聚不散」、法欲滅時、女人精進、恒作福徳、男子懈怠、不用法語、眼見沙門、如視糞土」、悪人転知如海中沙、善有甚少、若一若二、劫欲尽処、日月転促、人命転短、四十頭白」、乃至聖王去後、沙門袈裟、自然変白、吾法滅時、譬如油燈臨欲時、光更明盛等云云。
今時等は、即ち趙宋の朝なり、元照常に僧服の違乱を慨す、故に屡々此等の言有り、六物図(同人)曰く、近くは白布を頭●と為す者を見る、斯れ又怪む可し、資持紀(同人)或は緇巾を頂に纒ひ、或は白布を頭に兜ふ、鄙俗の風盛んに干世に伝ふ、法滅の相果して茲に現る(已上)、●会云く喪服は麻首腰在りと皆●と曰ふ、首●子有る麻を以て之を為し囲九寸、腰●大七寸有余、両股に相夾んで両頭之を結ぶ、首●緇衣冠に象り腰●は大帯に象る云云、当家中世已来僧顱頭巾有り、衣頚纒衿有り、是れ恐らく他門の弊風流伝歟、今の時改めざれば千歳救ふ能はず焉。
(朱書)聖王去後の四字は取意の文歟。
名義七云捜玄、引大集云、王問比丘不能説、遂羞堕地、袈裟変白、法滅尽経云、沙門袈裟、自然変白云云、書注下云、法滅尽経云、沙門袈裟自然変白、大集経曰、法欲滅時袈裟変白等云云、此等之文、豈非是白袈裟法滅之相耶」、答今以両意、須会此文、一是月氏日本国風異故、顕戒論中、引梵網経云、比丘皆応与其国土衣服色異、与俗服有異等云云。
謹准此文、月氏日本国風已異、衣服之相乃是不同、謂月氏之俗、皆着白色、故経論常談、呼俗名白衣、故袈裟変白、則同俗服、故成法滅之相、是則与其国土衣服色不異、与俗服不有異故也、若日本俗、喪服之外、不着白色、故袈裟変白、不同俗服、若爾与其国土衣服色異に、与俗服有異、如何可云法滅之相乎。然則仏准月氏之法故、言法滅之相、今准日本之風故、係白袈裟、更無妨碍也。
名義七云は、翻訳名義集七巻法雲之を編すの下文袈裟の条の下に在り。
不能説は、比丘は法要を説く能はざるなり。
〔追記〕
書註下は、円智註一、安国論、涅槃経雖著袈裟の下の釈なり。
月氏之俗等は、西域記二一(四)に曰く、衣裳服玩、無所裁製、貴鮮白、軽雑彩、男則繞腰絡腋横巾右袒女乃●衣下垂通肩総覆、頂為小髻余髪垂下、或有剪髭、別為詭俗、首冠華鬘身佩瓔珞、其所服者、謂●奢邪衣乃●布等、●奢邪者野蠶絲也、蒭摩衣、麻之類也、●鉢羅衣、織細羊毛也、褐刺●衣織野獣毛細●可得●績、故以見珍而充服用、其北印度風土寒烈、短製褊衣頗同胡服、外道服飾紛雑異製、或衣孔雀羽毛、或飾髑髏瓔珞或無服露形、或艸板掩体或抜髪断髭或蓬鬢堆髻裳衣無定、赤白不恒、沙門法服惟有三衣及僧却崎泥縛些那、三衣裁制部執不同、或縁有寛狭、或葉有小大僧却崎覆左肩掩両腋極左開右合、長裁過腰、泥縛、些那既無帯●其将服也集衣為●、束帯以条●則諸部各異色乃黄赤不同(文)。
経論常談等は、法華経持品に曰く与白衣説法及び涅槃経等例証甚だ多し。
二是当分跨節法相異故、今謹案曰、袈裟変白、已在両時、一像法之初也、謂摩耶経付属儀文是也。二末法之初也、大集経法滅尽経之文是也、当知此之両文、倶有当分跡節二意、以何得知之乎、一謂惣於一代四味三教、皆具二意、豈可此之一文、不具二意乎、天台大師玄文第二云云、妙楽云、当分通於一代、跨節唯在今経、仏意非適今也等云云。二謂袈裟変白之後、法華迹本二門、広宣流布す、謂天台大師、仏滅後一千五百年、出現漢土、弘宣法華迹門、蓮祖大聖、如来滅後、後五百歳出現日本、流布法華本門、此等現時豈非分明乎。
玄文第二は、妙玄を一下(五十)に曰く、一当分、二跨節、当分は三蔵仏赴種々縁説種々教の如し、乃至二跨節は何処別有の四教主各々身、各々口、各々説云云。
妙楽云くは、同上の文。
千五百年は上已に委曲。
後五百歳は、或は像法中を指す、然りと雖も五箇五百歳を指す、是れ台家の通説、而して宗祖誕生は仏滅二千百七十一年に当る、入滅は二千二百三十一年に当る。
三謂白是無作本色、清浄無染也、是故、●表白法流布、故一代諸経之中、多以白色而表善事、所謂眉間白毫、顔色鮮白、白業、白善、白法、白論、法華白牛、普賢白象等是也、天台云白色譬天云云、又云白即表浄云云、且如眉間白毫放光、即具二意、謂一破闇、二普照也、破闇如表法滅、普照如表流布、自余諸文准説可知、是故袈裟変白之文、並具当分跨節二意也、故摩耶経千三百歳已、袈裟変白、乃至千五百歳仏法滅尽者、若約当分千三百歳、袈裟変白、是法滅前相、千五百歳、即是仏法之正滅尽也、若約跨節、千三百歳袈裟変白、即是白法流布瑞相、千五百歳天台弘通、即是法華白法正流布也、大集法滅二経亦然、若約当分、沙門袈裟自然変白、是表前代流布一切仏法滅尽也、若約跨節、却是白法流布瑞相、故今係白袈裟、非但風俗無妨、亦表白法流布也。
白是無作本色は、文句(譬喩品白手下)に云く、駕以白牛、 譬無漏般若能導諦縁度一切万行到薩婆若、白是色本即与本浄無漏相応体具万徳如膚充煩悩不染如色潔(已上)記六(下)次白是下弁体徳乃至次体徳中云白為色本、本体無垢故云本浄、修称於性故云相応(文)。
白色善事等は、白は増韻曰く素なり、潔なり、荀子曰く、説は行はず則ち道は白く而し冥窮、註に曰く、白道は道明るしと謂ふなり、白是れ明の義なり、礼檀云云曰く、殷人は白を尚ぶ云云、白の義支那人必ず之を善とせず、室利多は梵語此に白と云ふ、叔離は梵語此に白色と云ふ、天竺人、固り白を以て善と為し之を尚ぶ、囲●自り仏経に至る皆此説有り矣、啓運抄四十二(四十六)に曰く、真言にも八葉の白蓮を阿字素光の色と云ふなり、白色の衆色に染らず、理不生の義なり、又白色は衆色の根本なり、不生本理は万法の本源なる故なり(文)。
眉間白毫は、大般若三十一に曰く、世尊眉間に白毫有り右旋柔●羅綿を覩る如し、鮮白光浄瑜雪に逾ゆ(文)大論四(二十一)其の他涅槃大集報恩善生等経之を載す枚挙に遑あらず、文句記六(十七)に曰く、白毫種々功徳を具す、観仏三昧経に云く仏初生の時牽は長さ五尺、苦行の時は長さ一丈四尺、得仏の時は長さ一丈五尺、其の毫、中表倶空、白疏璃筒の如し、内外清浄、初発心従り中間行々、種々相●乃至涅槃に入り一切功徳皆現毫中、毫は二眉の間に在り、即ち中道常なるを表するなり、其の相柔●楽を表し、巻舒自在我を表す、白即ち浄を表す、光を放て闇を破るは中道の知慧を生ずるを表し、光り此土他土を照すは自覚覚他を表す(文句)。顔色鮮白は、止五の二(十八)に曰く、大品に曰く色浄の故に受想行識浄、般若亦浄、法華に云く、顔色鮮白六根清浄即ち其義なり(文)白業白善等は、妙法尼書(内三十二)に曰く、一代聖教を定る名目に云く、黒業は六道に止まり白業は四聖となると云云、(文)玄二弁人天十法中に云く性は是れ白法、作は是れ造止行の二善、因は是れ白業、縁は是れ善我我所等云云、白是れ善、黒是れ悪は仏家の通説、大論明に之を弁ずる有り、予未だ其文を見ず其の他経論亦然り、追て考証を要す。
白法は大集等の諸経説。
白論は、修多羅白論に依り、修多羅黒論に依らず等此れ竜樹の説歟。
白牛は註譬喩品。
普賢白象は観普賢経等天台云く白色譬天者止五の二(三十一)に曰く白は人に譬へ、白白は天に譬ふ(文)。
又云く白即は文句の上に引くが如し。破闇普照の二意は、文句の説を取ること上の引文の如し。
問当流法衣、●用麻苧、既如来着麁布僧伽梨、天台四十余年唯被一衲、南山不兼●紘、妙楽太布而衣、然於当家、尚許緞子紗綾縮緬等之法衣、如何可得不違仏制乎、答実如所問、是所吾欲也、然不制之、強准世耳、智度論云、仏言、従今日、若有比丘一心求涅槃、背捨世間者、我聴着価値十万両金衣、食百味食等云云、然及当世、於門葉中、一心求仏道、背捨世間者、如爪上土、徒着万金衣、食百味食者、猶如大地、嗚呼後生日三ひ省身云云。
既如来等は、六物図に曰く、然れば其の衣体は須らく厚密を求む、離諸華綺律(四分)に云く、若し細薄生踈綾羅綺錦紗穀紬絹等並に法に非ざる物今多くして仏語を信ぜず、貪服此等は諸衣論に云く、如来は麁布を著し僧伽梨此方南嶽山衆及び古より有道の高僧布衲は艾絮一絲を雑へず、天台唯一衲を被り、南山の●紘●渓は大布の衣を兼ねず、永嘉の衣は不蚕口豈慈惻の深真尚ぶ可き非ずや(文)。
麁布僧伽梨は、麁布は梵に云く屈●此には大細布と云ふ、厚密布なり、聖迹記に云く、如来は十三条の大衣を着す、名義集に云く、木綿は華心を緝ぎ織て其色を青黒と成す云云天台等は資持記の文なり。
南山等は●は帛なり、紘は綿なり。
南山行状に云く、大師の三衣は唯布●紘を兼ねず、常に堅く食資の縁に臥せず云云。
是吾が欲する所なり、然も不制なり等は、徳川家康幕府を開き政権を握て以来、仏教家に啗はすに、僧位僧官を以てし優待至らざる無し、煩●の法度を立て以て教家不覊の行動を鉗制す、之を以て有為の聖僧跡を山林に晦し、名利の凡僧は却て天下に顕れ、彼の僧位僧官を覬覦するに汲々たる乎、及ばざるを悲しむ、我門葉少くして其の弊風を受くること亦少なしと雖も精師既に阿州夫人鏡台院帰依する所たり、降て宥師に至り又徳川六代夫人天英院猶子たり、枯淡に自ら甘じて敢て権家に縁を攀く志無しと雖も何ぞ多少の●縁を免れん耶、名利の風嫋々たり乎、一門靡くに非ざる無き耶、本師正しく此時に在り、清浄を自ら持ち循々教導滔天の勢ひ終に回る可らず焉、徒に時勢の非を嘆く、故に強准世耳の言有り、然りと雖も又後生を救う   可らざるを憫む、故に日に三たび身を省るのを語有り、後学須らく本師の苦衷を酌み猛省す可し矣。
智度論曰等は、夫波羅提木又は随時随処寛厳不同、如竜樹は、大乗菩薩、出格の人なり、故に此の言有り、即ち非常の人非常の事を行じ常人の軌可きに非ず、抑も美衣美食は、比丘僧に於て厳禁為る故に同論文に曰く、如来は麁布僧伽梨を著す云云。
〔追記〕
衲は納の俗字なり、納は補綴なり、褸裂なり。
大布は麁布なり。
問袈裟功徳、実是無量、所謂悲華経の五種功徳。心地観経の、雷電無畏。堅愚経、賢誓師子。海竜王経、竜得一縷、大智度論、蓮華色尼、酔波羅門等、不遑枚挙、今疑、諸宗門袈裟、皆具如此微妙功徳耶、答妙楽大師記三中云、経被法服者、如瓔珞経云、若天竜八部闕諍、念此袈裟生慈悲心、乃至然必須弁行鉢、顕教以分味殊等云云、是肝心文のなり学者善思、又当家三重秘伝云云。
袈裟功徳の事釈氏法衣訓往見、悲華経等は、経に云く仏宝蔵の仏前に於て願を発す、願仏成ずる時、袈裟に五の功徳有り、一に我法中に入り重て邪見等を犯すも一念の中に於て敬心尊重せば必ず三乗に於て授記す、二、天竜人鬼、若し能く此の袈裟を敬ふこと少分なりとも即ち三乗を得て退かず、三、若し鬼神諸天袈裟を得る有り乃至飲食充足す、四、若し衆生共に相違背せば袈裟を念ずる力を尋て慈心を生ず、五、若し此れを少分持てば恭敬尊重常に他に勝ることを得べし(已上)。心地観経は無垢性品偈に曰く、智光比丘善聴に応じ大福田衣十勝利、乃至若し竜身一縷を披て有れば金翅鳥王の食を脱し得、若し人海を渡るに此衣を持てば竜魚諸の鬼難も怖れず、雷電霹靂天の怒りも袈裟を披る物は恐畏無し云云。
賢愚経は、経に云く共に過去此の閻浮提に大国王有り名けて提●時と曰ふ、師子有り名けて堅誓と曰ふ、●体金色果を食し草を啗ふ、群生を害せず、一猟師有り鬚髪を剃除して身に袈裟を著し、内に弓箭を佩び之を獲らんと欲す、師子念じて言ふ此の聖人の標相を害せんは忍びず自ら毒箭を受く、即ち偈を説て曰く耶●羅、婆奢沙沙訶、此語を説く時天地動くこと大、雲無くして雨、諸天観見、華を雨して供養す、大王此の剥皮を得て此の状態を聞き悲喜交集す云云(畧)抄。海竜王経に云く、竜王仏に白さく、此の如き海中に無数種の竜四の金翅有り常に来りて之を食す、願くば仏擁護して安穏を得せしめ、是に於て世尊身の●衣を脱ぎ竜王に告ぐ、汝是の三衣を取て分ちて諸竜に与へ皆中に周●せしむ、一縷の値の者有り金翅鳥王の犯して触るゝ能はず、禁戒を持つ者願ふ所必ず得(已上)。
〔追記〕
(大智度論)は十三にあり、蓮華色比丘尼が過去に●女のとき袈裟を着て戯笑せしが因縁となりて迦葉仏の時に比丘尼となれり、其の●女なりし業にて破戒して堕獄せしが罪つきて釈迦仏の時に生れて六神通の阿羅漢となりしなり云云(釈氏法衣訓)                                    問数珠由来如何、答夫数珠者、此乃引接下根、牽課修業之具也、木●子経云、昔有国王、名波流梨、白仏言、我国辺小、頻年、寇疫穀貴民困、我常不安、法蔵深広、不得遍行、唯願垂示法要、仏言、大王若欲滅煩悩、当貫木●子一百八箇、常自随身、志心称南無仏南無法南僧、乃過一子云云、応知木●子之円形、是表法性妙理也、玄文第一云理絶偏円、寄円珠談理云云、弘五上云、理体無欠、譬之以珠云云、土宗平形大違所表也、一百八箇即表百八煩悩也、数珠須●不可雖も身故、又常自随身也。
記三中等は、文句記六(四十四)文、序品剃除鬚髪而被法服の文を釈するなり。
乃至は、意比丘安ぞ忍ぶ可らざらしむ、亦俗衆をして慕楽を生ずる故竜一縷を得て牛角一触等と云ふ、彼王慕ふ所(記前文、普安王なり)此れと大同、此中に牴合する所見の意を明し、序表を以て諸度行相の功徳及び袈裟等を正し但だ是れ此に寄せ汎く之を明すのみ(文)此の文即ち至なり。
学者善思は、行別教異味殊に依る故、袈裟の功徳亦碩異、後学熟思すべきなり。
当家三重秘伝は、権実、本迹、種脱の三重なり、本師の三重秘伝鈔に委曲なり。
数珠の由来等は、教家皆此の由来を忽諸にし論覈せず、夫れ律部は数珠の名を聞かず、原始聖教当然なり、然れば則ち数珠は何に因て起るや、或は曰く密教より起る、按数多数珠経、皆密家の訳に属す、然りと雖も此等の論遽に断ずべからず、若し深く之を覈検せんと欲すれば別して義章有り云云。此乃引接下根等は、釈氏要覧中に云く、牟黎曼陀羅呪経に云く、梵語鉢塞莫、梁に数珠と云ふ、此れ乃ち是れ下根に引接し修業に牽課するの具なり、名義集七に云く、鉢塞莫、或は阿●●迦と云ふ、二を合せ数珠と云ふ。
木●子経は、晋訳仏説木●子経に依る歟、唐の不空訳木●経の文亦晋訳に同じ、然れば今引く引文を畧するが故に具文を引て曰く(此下に具文を引くべし)
木●子は、伽梵達磨訳する所、千手合薬経の註に云く、阿梨瑟迦紫は、木患子是れなり、恵琳閻曼徳迦義軌音義に云く、木●音は患、考声を木●と云ふ木の名なり。一百八箇は、校量数珠功徳経に云く、其の数珠は当に須らく百八顆に満たさるべし、若し其れを得難く或は五十四、或は二十七、或は但十四(文)、瑜伽念珠経に云く、念珠の分別に四種有り、上品最勝及び中下、一千八十を以て上と為す、一百八珠を最勝と為す、五十四珠を以て中と為す、二十七珠を下類と為す、陀羅尼集経難二に云く、其の数皆一百八珠は満つ、或は五十四、或は四十二、或は二十一、亦中用を得乃至円浄皎潔大小任意乃至是の相珠一百八顆を作り成珠を造るのみ、又一金珠を作り以て母珠と為す、又更に別に十顆銀珠を作り以て記子に充つ、此即ち名けて三宝と為す、法相悉く円備に充つ能く行者の是珠を●しむる時、常に三宝の加被護念を得(文)。
南無仏等は、是れ則ち五印通仏教者の口称三帰戒の者なり、委く云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧なり、彼利語言ブツドハン、サラナミ、ガツカミ、サングハム、サラナム、ガツカミなり。
〔追記〕
和漢三才図絵八十三喬木類、木欒子、欒華和名無久礼邇之、本綱此の樹山中に生ず、園圃の間に或は之れ有り、葉木槿に以て薄く細し、其の花黄槐に似て稍長大、子殻酸●に似て其の中に熟せる豌豆の如き実有り、円くして黒く堅硬なり、之を木欒子と謂ふ、堪て数珠と為す云云。
康煕字典、●唐韻 集韻 並胡慣切音患……………
広韻 無●、木名………………正字通 謂可為念珠………………
玄文第一等は、玄義序王の文なり、仏法華を説て円珠に寄せ而して絶理を譚る文一上十七に在り。
弘五上等は、止観開門傾蔵捨如意珠を釈する文なり、止弘五の十に在り。
土宗平形は、浄土門徒所用の数珠、多く平形の故に云爾。
南無仏南無法南無僧者、若当流意、南無本門寿量肝心、文底秘沈大法、本地難思境智冥合、久遠元初自受用報身、無作三身、本因妙教主、末法下種主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。南無本門寿量肝心、文底秘沈大法、本地難思境智冥合、久遠元初自受用報身、当体、事一念三千、無作本有南無本門戒壇大本尊。南無本門弘通大導師、末法万年総貫首、開山附法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師。嫡々附法歴代諸師、如此三宝を、一心念之、而唯当称南無妙法蓮華経、乃過一子云云、行者謹勿超越次第、如勢至経、因妄語罪、当堕地獄。亦復勿超母珠、如数珠経、過超諸罪、数珠如仏云云、超母珠之罪、何超諸罪乎、今謂蓋是忌名歟、孔子至於勝母、暮矣、而不宿過く、里を名勝母、曽子不入等云云、外典尚然、況仏氏乎。

#10 ・303
当家三衣鈔畢
 享保十乙已年 六月於大坊書之
一子を過ぐは、陀羅集経等ど、所謂是珠を●くなり。
(勢至経難数珠経未考)
録外四法戒門書至云く、数珠経に云く、母珠を越ゆ応らず、過ち諸罪に越ゆ、数珠は仏の如くせよ、勢至菩薩経に云く、平形念珠を以ちゆる者は、此は是れ外道の弟子なり我が弟子に非ず、我が遺弟は必ず円形の念珠を用ゆ可し、次弟を超越する者は因果妄語の罪に依て当に地獄に堕すべし(文)。
忌名歟は鹽鉄論に云く、里は勝母と名く、曽子孔子に至り勝母は文選二十八楽府下(陸士衡)猛虎行に云く、渇しても盗泉の水を飲ず云云、註善曰く尸子曰く孔子勝母に至りて暮れ而して宿らずして過ぎ盗泉渇して飲ず其名を悪むなり云云。
曽子不入は、文選三十九(二十一)に云く、故に里名勝母曽子邑号朝歌に入らず墨子車を廻らす云云。
准南子鹽鉄論及史記鄒陽伝等の記此事勝母は准南子及鹽鉄論に云く、里名尸子及史記に云く、県名未だ其処を知らず蓋し以て名に順じて入らざるなり云云、史記鄒陽獄中梁孝王に上て云く、臣盛飾して朝に入るを聞は利を以て汗義とせず、砥●名と号するは欲を以て傷行とせず故に県名勝母曽子入らず云云。
〔追記〕
法衣供養談義所引文、類雑三(五十七)仏説勢至経に云く、平形の念珠を以る者此は是れ外道の弟子なり我が弟子に非ず、我が遺弟は必ず円形の念珠を用ゆべし(已上)、但し啓蒙三十四(六十四)に云く、言野鄙なり追て本経を検すべし云云、我云く義妨げ無き歟、玄一弘五前の如し、又録外四(四十五)にも引用云云故に土宗は外道の弟子なり。
一不可超次第事、又勢至経に云く次第を超ゆるは妄語罪に因り当に地獄に堕すべし(已上)私云く戒門の故なり。
「止弘五の一(九)而復下正明以仏乗為施即能化之心」(弘)
「而復学仏慈悲無諸慳悋於止観、施於彼者」(止)
「問………即是辟之也」(弘)
「即是開門傾蔵捨如意珠」(止)
「若以権法化人、法門雖開不名傾蔵、今於一心開利物門、傾秘密蔵示真実珠心既に   不窮蔵亦無量、蔵既無量珠亦無辺、含一切法故名為蔵理体無欠譬之以珠、是即開示衆生本有覚蔵非余外来」(弘)
                                     #10 ・305
実相寺大衆愁状
岩本実相寺に古写本があり、重須本門寺に開山上人の正筆があるが多少の誤字擬字もあり破缺もありて、中々難読の文字であるから伝写本はあるまい。静岡県史史科に編入せらるゝ時、其の編纂主事足立氏が予と共に校定に苦んだものであるけれども活字となつて見ると意外にも猶二三の誤りが見ゆるは致し方もない事である。
此古文書は興師の作なりや、後年の写なりやは判定できぬのみならず、直接に日蓮宗史に無関係のやうであるが裏面には日興上人等の青年僧の意気硬骨がほの見ゆる。
文永五年(興師廿三才)時の実相寺等四世の天降り住職慈遍は身分の高貴なる割合に学も徳も行くも無かつた。田舎の裕福な大寺に主として其財物を悪用して放免無慚の有らん限りを尽した。其を式目の五十一ケ条に擬して五十一ケの罪科を並べて鎌倉政府に訴へたもので、今後の住職は開山たる智印上人の遺告の如く寺内僧の学行に秀でたる者より推挙して早々此の寺家中に無縁の悪住職を止めらるべしとの歎願である。
其本文に前後に一枚充の文書があるのは愁状には関係はないが、其が同時代であるから興師が序に書き入れられたのである。其で見ると同六年までには本件は落着しなかつたものと見ゆるが、住職には非運で寺家大衆に有利であつたやうである。各古伝には実相寺の住職の名を四十九院申状中の人名から思ひ付いたか厳誉律師と云ふ名にしあるが、此の古文書の慈遍と同人か異人かは判然せぬ。まさか文永五、六年、此の問題の仁が其儘居据(十年も)る事もなからうで、四十九院が実相寺の兼職とすれば二位厳誉は慈遍の次の住職かも知れぬが、兼務でなく四十九院は独立でありとすれば、実相寺の住職の名は不明であるから、御書にある豊前公か日仲聖人とかであらうと思ふ。
日蓮教団の多数の人が寸分の考察を加へず、漫然と直に厳誉を以て実相寺住職とする事を怪しむものである。序ながら記しをく。
                          日亨記

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