富士宗学要集第一巻
富士一跡門徒存知の事
先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては、曾て異義有るべからざるの処、其の整足の弟子等忽ちに異趣を起して法門改変す。況や末学等に於ては面面異轍を生ぜり。故に日興の門葉に於ては、此の旨を守つて一同に興行せしむべきの状、乃つて之を録す。
一、聖人御在生の時、弟子六人を定むる事。(弘安五年十月 日之を定む) 一 日昭 弁阿闍梨 二 日朗 大国阿闍梨 三 日興 白蓮阿闍梨 四 日向 佐渡阿闍梨 五 日頂 伊予阿闍梨 六 日持 蓮華阿闍梨 此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条条の事。 一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍つて公所に捧ぐる状に云く「天台沙門」と云云。又云く「先師日蓮聖人・天台の余流を汲む」と云云。又云く「桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す」云云。 日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。 一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり。仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。 日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず。故に悪鬼神、其の国土に乱入して災難を致す云云。此の相違に依つて義絶し畢んぬ 。 一、五人一同に云く、如法経を勤行し、之を書写し、供養す、仍つて在在所所に法華三昧または一日経を行ず。 日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず。又謗法の代には行ずべからず。之に依つて日興と五人と堅く以て不和なり。 一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり。仍つて比叡山に於て出家・授戒し畢んぬ。 日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり。像法所持の戒なり。日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり。今末法所持の正戒なり。之に依つて日興と五人と義絶し畢んぬ。 已前の条条大綱此くの如し。此の外、巨細具に注し難きなり。 一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり。而るに日興、彼の御廟に通ぜざる子細は、彼の御廟の地頭・南部六郎入道(法名日円)は日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る。滅後其の年月、義絶する条条の事。 釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし(是一) 次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む。二所・三島に参詣を致せり。(是二) 次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り(是三) 次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇を造立し荘厳せり。甲斐国其の処なり。(是四) 已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云。此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ。仍つて御廟に相通ぜざるなり。 一、聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むるの事。 一 日目 ─┬ 二 日華 ─┤ 三 日秀 ─┼─聖人に常随給仕す。 四 日禅 ─┤ 五 日仙 ─┴ 六 日乗 ───聖人に値い奉らず。 已上の五人は詮ずるに聖人給仕の輩なり。一味和合して異義有るべからざるの旨、議定する所なり。 一、聖人御影像の事。 或は五人と云い、或は在家と云い、絵像・木像に図し奉る事、在在所所に其の数を知らず。而るに面面不同なり。 爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり。是に付け、非に付け、有りの儘に図し奉るべきなり。之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり。全体異らずと雖も大概麁相に之を図す。仍つて裏に書き付けを成すなり。但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り。相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り。而る間・後輩に是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。 一、聖人御書の事。付けたり十一ヶ条 彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり。而るに日興、聖人の御書と号して之を断じ之を読む。是れ先師の恥辱を顕す云云。故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。 此くの如く先師の跡を破滅する故に具に註して後代の亀鏡と為すなり。 一、立正安国論一巻。 此れに両本有り。一本は文応元年の御作。是れ最明寺殿、宝光寺殿へ奏上の本なり。一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添えたもう。而して別の旨趣無し。只建治の広本と云う。 一、開目抄一巻。今開して上下と為す。 佐土国の御作。四条金吾頼基に賜う。日興所持の本は第二転なり。未だ正本を以て之を校えず。 一、報恩抄一巻。今開して上下と為す。 身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り、清澄寺に送る。日向が許に在りと聞く。日興所持の本は第二転なり。未だ正本を以て之を校えず。 一、撰時抄一巻。今開して上中下と為す。 駿河国西山由井某に賜る。正本日興に上中二巻之れ在り(此中に面目俄に開く事)。下巻に於ては日昭が許に之れ在り。 一、下山抄一巻。 甲斐の国、下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり。直ちに御自筆を以て遣さる。正本の在所を知らず。 一、観心本尊抄一巻。 一、取要抄一巻。 一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり。仍つて彼の進状を奥に之を書く。 已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる。正本は彼の在所に在り。 一、本尊問答抄一巻。 一、唱題目抄一巻。 此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う。文言義理共に爾なり。 一、御筆抄に法華本門の四字を加う。故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く。先例無きに非ざるか。 一、本尊の事四箇条。 一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし、とて既に立てたり。随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云。而る間・盛に堂舎を造り、或は一躰を安置し、或は普賢・文殊を脇士とす。仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く。 日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと。即ち御自筆の本尊是れなり。 一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ。 日興が云く、此の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず。正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り、弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。 一、日興弟子分の本尊に於ては、一一皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事、最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も、子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も、弟子等之を捨つ。之に依つて或は以て交易し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類い其れ数多なり。故に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。 一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り。所謂日向・日頂・日春等なり。 日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て、或は疵を被り、若しは又在所を追放せられ、一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。 本尊人数等。又追放人等。頸切られ、死を致す人等。 一、本門寺を建つべき在所の事。 五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直ちに寺塔を立てたもう。所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是れなり。而るに彼の本門寺に於ては先師・何れの国・何れの所とも之を定め置かれず、と。 爰に日興云く、凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は、是れ日本第一の名山なり。 最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由、奏聞し畢んぬ。広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。 一、王城の事。 右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法は王法と本源躰一なり。居処随つて相離るべからざるか。仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり。 一、日興集むる所の証文の事。 御書の中に引用せらるる・若しは経論書釈の文・若しは内外典籍伝の文等、或は大綱・随義転用し、或は粗意を取つて述用し給えり。之に依つて日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す。其の功未だ終らず、且らく集むる所なり。 一、内外論の要文(上下二巻)開目抄の意に依つて之を撰ぶ。 一、本迹弘経要文(上中下三巻)撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。 一、漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。 一、日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。 已上、七巻之を集めて未だ再治せず。 一、奏聞状の事。 一 先師聖人文永五年申状一通。 一 同八年申状一通。 一 日興其の年より申状一通。 一 漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。 一 本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。 一 三時弘経の次第並びに本門寺を建つべき事。 一 先師の書釈要文一通。 一、追加八箇条。 近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。 一、寂仙房日澄、始め盗み取つて己が義と為す。彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり。仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり。御遷化の後民部阿闍梨を師と為す(帰依僧なり)。 一、去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る。此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。 一、去る正安年中以来・浄法房天目と云う者有り(聖人に値い奉る)。日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す。又祖師の添加を蔑如す。 一、弁阿闍梨の弟子・少輔房日高、去る嘉元年中以来、日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。 一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり。 一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う。彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり。 一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り(寂日房向背の弟子なり)。日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す。是れ又四脇士を造り副う。彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり。又、神詣を留むるの由、之を聞く。 一、諸方に聖人の御書之を読む由の事。 此の書札の抄・別状有り。之を見るべし。 御本応永廿九年極月廿七日に書写せしめ畢んぬ 筆者日算六十八歳 永正十八年六月四日に之を書き畢ぬ、此の抄は九州日向の国日知屋の定善寺より相伝す、同じく細島妙谷寺に堪忍の境節、北向の御堂の部屋にて之を書写し畢ぬ。駿河国重須本門寺衆大夫公日誉在判。 編者曰大石寺蔵日誉写本に依つて之を写し他の数本を以て校訂を加ふ。 |