富士宗学要集第二巻

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日 眼 御 談

一、法花経寿量品に云く本行菩薩と文、爾らば本果已前か已後か誠に以て大事なり如何、答ふ本行菩薩道に二筋之有り大智門は従因至果と修し曻る故に我本行菩薩道とは本果なり。
次に大悲門の本行菩薩道とは従果向因と行ずる故に本果已後の本行菩薩なり。
此の如く二筋に心得べきなり。

尋ねて云く其の証如何、答ふ玄文七に六重本迹と者釈尊の理即名字観行相似と修行曻進する相は大智門の修行なり、従因至果の迹門の重なり是は修一円因感一円果の仏是なり、自行極満必有化他の相貌なり、次に不軽品の説相は本門の従果向因門と習ふ べし、是即高祖聖人の御修行の重なり、御抄に云く日蓮は法花経の行者なり不軽の跡を紹継すと云云、高祖は大悲門の御修行なり、故に本門の大導師にて御座すなり、是は妙覚極果の釈迦如来下種の為に日蓮聖人と顕れ玉ふ、本果なり、後の本行菩薩なり云う 所の 本行は久遠名字即の行相を顕し玉ふ故に本行とは云なり、惣じて得意べし天台は大智門の修行なり高祖は大悲門の御修行なり之に依つて三世に不軽の行を示し、本未有善の衆生に強毒し玉ふなり、彼天台は観行即に居て名字即を利す此は名字即に位して理即の 衆生を益す、又彼は観行の因に依り六根の果を得六根の果とは相似即なり、此は名字即に居して理即の当位を本有の法躰と顕す当位即妙不改本位是なり。

尋ねて云く正像末の三時を本因本果に当づる様如何、答ふ正像二千年は本果の如来を本尊と為し、或は脱し或は熟し、末法は本因の高祖を本尊と為し下種するなり、彼れは本已有善の衆生なる故なり、是は本未有善の衆生なり、本未有善の衆生は下種無しと は永 劫にも成仏有らず、彼は迹、此は本なり、本未有善の衆生をば不軽大士の利益なるべし、不軽大師とは釈尊の本因なりと云ふ事疑無し、今末法の高祖は不軽大士にて御座すなり、さだにも有るならば高祖は釈尊の本因にて御座すべし、爰を以て太田抄に云く今 既に 末法に入りぬれば在世結縁の者は漸々に哀微し権実の二機皆悉く尽きぬ彼不軽菩薩末世に出現して毒皷をうたしむる時なり云云、此御書の文に在世結縁の者と云ふは本已有善の衆生なり、権実の二機とは権とは正法千年の法花已前の権機なり、実とは像法千年 の 法花の迹門なり実機なり、此権実の二機皆悉く尽きて本未有善の下機斗り之有り故に不軽の強毒尤時を得云云、所詮脱益の機の為には本果を面と為し本因を裏と為す下種の機の為には本果を裏と為し本因を表と為す凶行果徳の表裏は種脱観行の機の前なり、 能々 思惟すべし、台家通釈の意なり、当家は正在報身と云云。

尋ねて云日蓮宗の宗旨は種熟脱の三益の中には何そや又所依如何、答ふ日蓮宗は宗旨宗教とて諸門各別に沙汰すと聞えたり、余流は不知案内の故に当要に非ず故にに且く之を略す、当門に於ては末学の間未だ深旨を極めず、斟酌為りと雖纔に汝に対して竊に之を 示す、宗教には熟脱の本門を教相とし教化示導すべし是れ即宗教なるべし、さて下種の法門専ら宗旨なるべし、次に所依とは法花経一部は脱益・爾前の説教は熟益なり、此等は宗教の所依なりさて寿量品を下種の所依と云うべきなり。疑て云く寿量品は在世の 三 乗の脱益なり、何ぞ下種の所依に之を取るや、答ふ在世脱益は一品二半・滅後の下種は題目の五字なり、本尊抄に云く彼れは一品二半此れは但題目の五字と釈し玉へり、文の底なり。

尋ねて云く寿量品に於て題目の五字と云ふ事全く見えざる処なり如何、答ふ聊爾に沙汰すべからずと雖も志切なるに依つて少々之を書ん、寿量品に云く如来秘密○力と説き玉ふなり、然りと雖も滅後衆之を明むべからざる間・医師の譬を挙げて是好良薬今留在此 と宣べたり、天台は経教を留め在く故に是好良薬今留在此と云うと釈し下ふなり。 疑つて云く何を以て知ることを得る如来秘密神通之力の文に下種の題目之有りと云ふ事を、今此の事深秘なる故に之を書くべからず云云。

尋ねて云く然らば汝慳恡に堕する失如何、答ふ日眼独り之を秘えるに非ず入唐の伝教宗旨の高祖等血脈として御秘蔵之有り云云、然りと雖努々人に遍く披露すべからず汝心胕に収め信を取るべし所謂如来秘密と云ふ処に通惣の六意と云ふ大事之 有り神通之力と云ふ処に別伝二箇の大事と云ふ事秘事なり云云、叡山の四十六代の座主東陽の忠尋と云ふ人の漢光伝と云ふ抄に云く所詮寿量品に別伝二箇の相承と云へるは分文当機に無作三身を説かざる委細の義是なり、楞厳和尚之を以て随分相伝と書き玉へ り云云、山家大師御在唐の時・如来秘密神通の力の文に於て通惣の六意を相伝し玉へり、六意とは、一に一代諸教中惣じて顕説せざる故に、二に迂廻道根の人並に鈍根小智の人本地説に於て直説開顕し難き故に、三に本地三身の深義仏の内証故に、四に如来 出世の後多時を過ぎ又法躰の故に秘密の詞を以て引□故に・五に法躰の故に・六には実妙なる故・是の如く六意を如来秘密と名づく云云、彼の相承の如くならば題目の五字を意と云ふなり、此の題目は爾前迹門等に之を説かずと見へたり、御抄に云く妙法蓮華 経の五字は四十余年に之を秘し玉ふのみにあらず、迹門十四品に押へさせ玉ふて本門寿量品にして初て本果本因の蓮花の二字を説き顕し玉ふ云云、此の蓮花の二字に教門実義の二之有り教門の時は我実成仏已来は我本行菩薩と云ふ文なり、実義は如来秘密の重 なり、即本因本果分明なり之を秘すべし口伝すべき者なり、去る程に如来秘密の上に六意之在り神通之力の上に別伝二箇所の習ひ有るなり、六意とは上の如し云云、二箇とは如来秘密神通之力の言の下に事成の顕本を含する口と寿量品の当文の当機に無作三身 を説かずと、云ふ事なり、然る間惣の重に六意之有り別の重に二箇の大事之有り、本地惣別は所説に超過すと云ふ事之を思ふべし唯し当家は有量無量○云云。

尋ねて云く南岳の釈に云く具足法身蔵与仏と云ふ釈を御書に引玉ふ事何の意ぞや、答ふ御書の前後に分明なり、凡一切衆生に仏と法身蔵と具足して闕減せざる者なり、されば爾前迹門には衆生の心の外に仏有りとは説くなり、此仏の頂上に妙法華花経の法身蔵 ありと云ふ事を法花経斗りに之を明す、花厳経には心仏衆生三無差別と定たり、乃至法花の方便品には欲令衆生開仏知見等云云、法花の安楽行品に云く唯髪中明珠以て之を与えずとも、輪王の頂上に此の一珠有りとも説き玉ふ故に、仏の頂上に妙法五字の一の珠 有と見えたり、此五字は三世の諸仏の手を懸け玉はざるの処なり、天台云く此妙法蓮華経者本地甚深之奥蔵云云、妙楽此の文を受けて迹中○本地を説くと雖云云、伝教の云く三世諸仏の手を未だ懸けざる所文高祖云く妙法蓮華経の五字経文に非ず其義に非ず云 云、此題目の五字を法身蔵と云ふなり、十界三千の依正・三世の諸仏の因行果徳悉く此中に収るなり故に法身蔵と云ふなり、此五字に万法を収むと云へども全く目に見えざる故に理なり、理なるが故に法身蔵なり。

日蓮宗は此理を持てるなり、御抄に云く題目の理を持つて余文を交えず云云、されば天台宗も法花宗なり、日蓮宗も法花宗なり、一理の中より二宗出てたり、天台宗は輪王を信ずる如く日蓮宗は明珠を頂くが如し、彼は仏を本尊と為し此は経を本尊と為す、法 花経は能生・仏は所生なり、六万九千三百八十余字は一々の文字金色の仏なり、此仏の頂上の宝珠の題目なり、之に依つて六万九千の文字の仏を付属せらるる迹化天台宗は像法の時なり、之に依て六万九千の文字は只妙の一字なり、心を名くて妙と為す、故に 心念の三観三千を所期と為し観行相似と曻進する宗なり、三益の中には熟脱の二益是なり、輪王の頂上の如意珠は輪王の代を継ぐ太子一人此球を受けて、世を支配する様に、仏の頂上の題目を付属せられ玉ふて三界の衆生の主師親と成り玉ふ高祖にて御 座すなり、南岳の釈を引せ玉ふ事、此理を顕さんためにて御座すなり。

尋ねて云く題目は理なり理は法身の境なり、唯境の処に衆生を利益する相如何、答ふ此題目を本尊とし玉ふは事の三千の題目の利益広大なく条凡慮に及ぶべからず聖意に任する斗りなり去り乍ら、天台の云く一身即三身三身即一身と釈し玉ふ秘密の重なる間、 口外大切なり少し之を書くべし、妙楽云く初の釈は三身法体法爾の相即に約す云云、此の妙法秘密の処を法躰と云ふ、此法躰の上に法爾として相即する三身之有り、題目の五字の秘密の重に心意識の三を具足するなり、心とは応身、意とは法身、識とは報身な り、此三は一にして三なり、三にして一なり、故に一身即三身名秘と為す、三身即一身名密と為すと釈するなり、此天台の釈を妙楽は法躰法爾相即と釈し玉ふ此意なり、心意識の三は理智慈悲の三なり、十界三千の依正に理と智と慈悲と芥子ほどの物をも具足 するなり、法々塵々としても心意識の三を具足するなり、然る間妙法蓮華経の五字、衆生利益の処は応身の功能なり、全く題目の五字唯境なりと云ふ事、無相伝の至りなり、迹門不変真如の上に建立する題目の五字は唯理なり、本門の文の底の題目は境の躰即智 と開くるなり、智とひらけてだにあれば三眼三智明了にして九界を知見する処に慈悲門に趣くなり、天台云く境智を発し報と為す等云云境智とひらくるを報とすると読むべきなり、心意識、理智慈悲の言は替れども其意は同じ事に見へたり云云。

尋ねて云く左様に十界三千の諸法に本有として理智慈悲の三を具足すと云ふ事ならば台家には事理顕本を沙汰する時・理顕本と云ふてこそ其躰に理智慈悲の三を具すと申すなれ、何ぞ題目の文字を此の如く云ふや、答ふ天台伝教等は機無く時無く付属無き 故に五字の題目と云ふ事は末法の導師に譲り玉ふて弘通し玉わざるなり、今は日蓮宗に時を得る故なり云云。

尋ねて云く妙法の五字は一なるべし二に之有るべからざる者なり、何ぞ日眼虚言を構へて本迹両門に二反の題目之有りと云ふや、答ふ此不審を至す事は御書を拝見せざる故なり、三大秘法抄に云く題目に二意有り云云、又高祖も然る子細か御座ありて各別 に立て下ふ天台宗も唱ふる故なり、彼は摂受自行の題目なり、高祖の唱へ玉ふ題目は自行化他に亘ると遊したり、事の一念三千云云。
尋ねて云く台家にも此の如く沙汰する事之有るや、答ふ之有り汝強ちに之を疑ふ故に正しき証文を書出するなり、能々信すべし文句要義口伝抄に云く如来寿量品下忠尋釈なり。

 問ふ妙法蓮華経本迹の異相如何、答ふ本迹不同は一章の別義なり、然りと雖も当品は本門の正段なるが故に尤得意べき大義なり前々章の如し、先づ迹門の妙法蓮花と云ふとは法花已前の諸経に或は妙法の名を与え或は蓮花の名を説く事之有りと雖も皆是  各々なり、正く妙法蓮花具足する事之無し、妙法蓮花の四字具足する事は今経の至極の実説なり、先づ迹門の妙法とは妙は謂く言語道断、法は謂く十界十如の法なり、言語道断とは不変真如を指す法とは九権一実十界の不変真如の一理・無差平等なるが  故に妙法と名づく此の如く事理一如の深義鈍根の境界に非ず、唯仏与仏の極体なるが故に喩に依らずんば信解すべからず、蓮花を妙法に譬う十界因果・一如不二の義なり、能譬所譬各別なるに似たり、次に本門の妙法蓮花とは仏立和尚本地の妙法蓮花は  一体一義の所至と釈し玉へり、妙法蓮花一体の異名なり、三千十界の万法全く隔相無く円融々通するは妙なり、然れトモ俗諦常住にして各々本有の法なり、此の如く三千融通の本法全く衆生の一心所具にして已に本分なる処に因果の二徳自然に具足す妙  法蓮花当体蓮花とは即是れなり、三千の諸法の当体を指して蓮花と云う経には有疑□本義○云云、本門の意は三世十方諸仏本有に具足するを経と名く云云、本迹二門の差異は山家大師唐に在て両師の伝時・修禅寺に於て法華経深義の下に於て畧伝三箇、  円教三身、蓮花因果習ひ出す法門なり○云云、右此の如く四十六代の座主の注文、高祖の御抄に同ずるなり、迹門は妙法が家の蓮花、法門は蓮花が家の妙法なり。

問ふて云く迷へば即三道流転・悟さば即果中の証用とは何の意ぞや、答ふ我等衆生は十二因縁に依つて生死に流転するなり、十二因縁即躰宗用なり、玄の一に云く心即惣なり別して三種の心有りと説く文、一心に於て惣別有り故に法花経に於て惣別有 り云云、心と云ふは惣なり、心の惣の中に三種有り、三種とは煩悩業苦の三道なり、迷ふ時は三道流転と云ふ是なり、此の煩悩業苦の三道を法花経に値い奉り法身般若解脱の三徳と転ずるを悟る時は果中の勝用と云ふなり、報中論三の無作三身なり。

問ふて云く法花経に於て体宗用有るが如く十二因縁に於て体宗用有りや、答ふ十二因縁に躰宗用有るなり、玄義本末の釈に分明なり、躰とは識名色六入触受生老死の七は七章とて体なり、愛取の二をは二業とて宗なり、無明行有の三は三煩悩とて用なり 、是を煩悩業苦の三道と云ふなり、是即迹門の境智行の三と成るなり、境妙は体なり、行妙は宗なり、智妙は用なり、法花経の一経は惣別の二なり、惣とは題名、別とは人文なり、人文をば別の三章と云ふなり、此三章は一心三観なり、又一念三千三諦等 の法門なり、此時は中道実相を以て経体とするなり、中為経体の所談をは天台付属の所期なる故に高祖の御本意に非ず、高祖御付属は末法当今の修行なる「常の如し云云、一心の惣別に依つて一経の惣別有り爰を以て法花経即一心一心即法花経なり、人法 花経を持せざれば我心に背く者なり。

亨云此下八十余行史誌旧説に関し参考に為すと雖も宗義に無益なり且く之を削る。


右此料帋は、伊豆国葛見吉田郷光永寺衆中西光坊日鏡下され候間頓写致候。
御本云光永寺より申請候而大見本弘寺にて之を書き畢。
永禄三庚申年九月十一日  泉蔵坊日沐サ

依房州妙本寺蔵日沁ハ本(有日東奥書日順法門聞書合本也)於同寺昭和三年九月四日走々之を写す同五年一月二日校合、更七年七月廿二日清書了雪山文庫主日亨判

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