富士宗学要集第三巻

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蓮祖義立の八相

第一 下天
凡そ、釈尊下天の相とは、功行既に満じて期運至る、故に将に下りて作仏せんとす。即ち五事を観ず、一には機を観じ、二には国を観じ、三には種姓を観じ、四には父を観じ、五には母を観ず云云。
上行亦爾なり、霊山の親承、後五百才の期運至る、故に将に世に出現せんとす。即ち、五事を観ずるなり。

一には機を観ず、謂く今は是れ世出結縁の衆生悉く尽きて皆是れ本未有善の衆生なり。太田抄廿五四に云く今既に末法に入り、在世結縁の者、漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽く、彼の不軽菩薩、末世に出現して、毒皷を撃たしむるの時なり文。

二には国を観ず、謂く脱益の化主は既に月氏に出現す。下種の教主応に日本国に生ずべし。諌暁抄廿七廿八に云く、天竺国をば月氏国と申す。仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、豈聖人出でたまはざらんや。月は西より東へ向へり、月氏の仏法、東へ移るべき相なり。日は東より西に入る、日本国の仏法、月氏へ帰るべき瑞相なり等云云。日本中に於ても別して東海の辺に生じたまへり。本尊問答抄九廿七に云く、日蓮は東海道十五箇国の内第十二に相ひ当る、安房の国、長狭の郡、東条の郷、片海の海人の子なり文廿二卅外十二廿八蒙卅三。

三には種姓、若し帝王将軍等の家に生れば、更に軽賤憎嫉等有るべからず。若し爾らば、結縁の便り少し、故に微家に託生し、応に謫戮等を忍んで、全く経文の如く、身に当て之を行じ、普く毒皷の縁を結ぶべし云云。
中興抄十八十七に云く、日蓮は中国都の者にも非ず、辺国将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民の子にて候文。佐渡抄十七廿に云く、日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出でたり文。
房州は中国にまさる事、下録外を引く、往て見よ。

四には父を観ず。凡そ所弘の妙法は、応に広く月漢日の三箇国に流布すべし。故に三国氏を以て、須く其の父となすべし。註画讃に云く、御父は三国氏重忠云云。救護本尊の端書に云く大覚世尊御入滅の後、月漢日三箇国の間、未だ此の大本尊有らず等云云。報恩抄下に云く、日本乃至漢土月氏一閻浮提に人毎に有智無智を嫌はず、他事を捨てゝ南無妙法蓮華経と唱ふべし云云。

五には母を観ず。謂く我家は謗法の不浄を忌む、故に応に清原氏の胎内に託すべし云云。清は即ち清浄なり、是れ飯に糞を雑る如き謗法無き故なり。原は胎と通ずるなり。古歌に云く、信濃なるそのはらにしも宿らねど皆ははきゞと思ふ計りぞ云云。註画讃に云く、御母は清原氏、産湯記に畠山殿一類なりと云云。
問ふ、所引の証文皆下方内観の相に非ずや如何。答ふ今出世の外相を以て、下方の内観を推するに、理必ず然るべき故なり。例せば以生顕具等の如し。

第二 託胎
凡そ釈尊託胎の相とは、摩耶夫人夢みたまふ六牙の白象に乗る人白日の精を貫き胎内に入る。夢覚めて王に申す、為に瑞相を説く云云。

蓮祖託胎の相とは、祖師年譜上に云く、有る時御母夢みらく叡山の頂きに腰をかけて、近江の湖水を以て手を洗ひて、富士山より日輪の出でたまふ懐き奉ると思ひて、打ち驚いて後、月水留まると夢物語したまふ云云。
諌迷二九に云く、光明赫たる日天子、蓮華の上に乗り胸中に入り給へりと夢覚めて懐妊せりと覚えたり云云。又年譜に三国太夫の御夢云云。

第三 出胎
凡そ釈尊出胎の相とは、四月八日の日始めて出づる時、摩耶夫人嵐毘尼園に至る、菩薩漸々に右脇より出で給ふ。樹下に於て、即ち七宝の蓮華に坐す。大きさ車輪の如し、菩薩便ち蓮華の上に堕て自ら行ずること七歩、右手を挙げて唱へて云く、天上天下唯我独尊云云。御名は悉達太子云云。

蓮祖出胎の相とは、人王八十五代御堀河院御宇、貞応元年壬午二月十六日、午の尅に誕生したまふ。夢想現事の不思議有り、初の夢想とは、産湯記に云く、将に産生せんとする夜の夢に、富士山の頂に登り十方を見るに、明なる事掌中を見るが如し。梵帝四王等諸天来下して云く、本地自受用報身の垂迹上行菩薩、御身を凡地に謙下し給ひ、御誕生唯今なり。無熱池の主、阿那婆達多竜王、八功徳水を持ち来るべし。当に産湯に浴し奉るべし、竜神即時に青蓮花一本荷ひ来る、其の蓮より清水を出し御身を浴す、乃至白蓮を各手に捧げ日に向つて、今此三界乃至唯我一人能為救護と唱え奉ると見て即ち出生し給ふ。即毎自作是念等と苦我啼き給ひき、我少し未寐時諸天一同音に唱へて云く善哉々々善日童子、末法教主釈迦仏と三度唱へて礼を作し而して去り給ふ云云、深秘々々。

次に現事とは、諌迷二九に云く、生産已前に小湊浦に数茎の青蓮華忽然として生ぜり、好華殊に艶色を施し、奇香弥芳馥を発す。近里遠郷、道俗長幼群を成し列を引て之を見る。野人村老驚歎して云く、四季を以て計れば、今二月中旬蓮花の開く時に非ず。又復蓮花は尋常には泥水に出づ、然るに大海の中に蓮花の生ぜる事前代未だ聞かず、其の上青蓮華は人中に希なり。時に吾祖二月十六日に誕生せり。翌日より海中の蓮花漸々に凋めり、是に依りて皆知る、誕生の瑞相なりと。故に時の人蓮花の生ぜし海を蓮花が淵と名づく、自余の処は潮干たる時は陸地となる、蓮花の開けし処は常に潮湛へて深し、是の故に蓮花が淵と名けたり云云。又云く、伝へ聞く転輪王世に出で給ふ時、海中に優曇華開くことあり。文句に云く優曇華とは三千年に一たび現ずと云ふ、則ち金輪王出づ云云。又釈尊誕生の時陸地に蓮花を生ず、因果経に云く、太子生る時樹下に亦七宝蓮花を生ず云云。雨の猛きを以て竜の大なるを知り、華の盛なるを以て池の深きを知る等云云。又註画讃に云く、如来は二月十五日に滅を示し、元祖は二月十六日に生を現ず、死生の次で恐くは所以有らん。此の汀に小水有り、旱潦に乾溢せず、是れ産育の浴湯なり文。御名は善日丸なり。産湯記の如し。諸仏の薬王丸は証文なきか。

第四 出家
凡そ釈尊出家の相とは、御歳十九の時二月七日夜半に父王の家を出で、苦行林の中に至る、車匿に就て七宝の劔を取り、自ら鬚髪を剃り、跋迦仙人の道を問ふに、天に生ぜんが為め云云。故に之を捨て阿羅仙人の下に至り道を問ふに、非想処を解脱と為す云云。故に亦之を捨て又迦蘭住と問答して、亦復を捨て終に尼連禅河の側に至る。十二年の間苦行楽行したまふなり云云。
蓮祖の出家の相とは、本尊問答抄九廿七に云く、生年十二にして同郷の内清澄寺と申す山に登り住しき云云。録外宗要抄五月十二日云云。其の後嘉禎三丁酉年十六歳の御出家なり、年譜の意なり。妙法尼抄十三廿二に云く、十二十六の歳より三十に至るまで二十余年の間、国々寺々を習ひ廻り候云云。十二は既に是れ登山なり、十六豈出家に非ずや。南条抄廿廿五に云く、法然善導等の書き置いて候程の法門は日蓮は十七、八の時より知りて候ひき、此比の人の申す事は之に過ぎず云云。之を思へ云云。故に宗要抄十八の説、信受すべからず云云。

御名に三の名あり。産湯記に云く、仮名は是生、実名は蓮長、後には日蓮と号するなり云云。而して御祈請有り。清澄寺大衆中抄卅三十八に云く生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給りし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事不便とや覚し食しけん。明星の如き大宝珠を給ふて左の袖に請け取り候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗并びに一切経の勝劣粗之を知る云云。諌迷論二十二に云く、清澄山に池あり明星水と名づく、祖師行法の時定んで此の水をむすべば、毎夜明星天子池の辺に下りて、吾祖師を守りたまふなり云云。而して諸宗を学べり。妙法尼抄十三卅二に云く、此の度いかにもして仏種をうへ生死を離るゝ身と成らんと思ひ候程に乃至此等の宗々枝葉をば、こまかく習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故文云云。本尊問答抄九廿八往見云云。既に念仏は無間、禅は天魔、真言は亡国、律は国賊なる旨を了し已つて、建長五年春比数々之を思惟す。開目抄上廿九に云く、日蓮案じて云く、世既に末代に入り二百余年辺土に生を受け、其の上下賤、其の上貧道の身なり、乃至日本国に此を知れる者は但日蓮一人なり。此を一言も申し出すならば、父母、兄弟、師匠、国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲無きに似たりと思惟するに、法花経、涅槃経等に此の二辺を合せ見るに、いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に落つべし。いふならば三障四魔必ず競ひ起るべしと知りぬ。二辺の中にはいふべし、王難等出来の時は退転すべくば一度に思ひ止まるべし、乃至今度強盛の菩提心を起して退転せじと願ひぬ文。而して建長五年癸丑四月廿八日朝日に向ひて合掌し始めて題目十返計り唱へ、而して四箇の名言を称へ諸宗を折伏す。然も安国論を奉り、国主を諌暁するなり。

第五 降魔
凡そ釈尊降魔の相とは、菩提樹下に至り、誓願を立てて云く、若し正覚を成ぜずんば此の座を起たず云云。時に魔王四度来り障るなり。初に弓箭を放ち、次に三女を使はし、三に軟語を以てし、四には魔軍囲饒し、皆障る能はず。時に空中に声あって云く、菩薩歴劫に修習して衆生を導かんと欲す、今日樹下に於て無上道を成ず、何ぞ導師を悩まし奉る等と云云。

宗祖降魔の相とは、開目抄上卅一に云く、既に二十余年間此の法門を申すに日々月々難は重なる、少々の難は数を知らず、大事の難四度なり文。一には夜討、文応元年御年三十九の比なり、下山抄廿六卅六に云く、去る正嘉元年に書を一巻註したり、是を最明寺入道殿に奉る。御尋ねもなく御用も無かりしかば、国主の御用ひ無き法師なれば設ひあやまちたりとも、失にあらずとや思ひけん念仏者并びに旦那等又さるべき人々も同意しけるとぞ聞へし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども如何したりけん其の夜の害も脱れぬ。然れども心を合せたる事なれば、寄せたる者は失無くして、大事の政道を破れり云云。

二には伊東、弘長元年御年四十歳。一谷抄卅五廿六云く、去る弘長元年辛酉五月十二日御勘気を蒙りて、伊豆の国伊東の郷と云ふ処に流罪せられたりき、兵衛介頼朝の流されて有りし処なり。さりしかども程無く同三年癸亥二月に召返されぬ已上。四恩抄に四十四に云く、去年五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百六十余日の程は、昼夜十二時に法花経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかゝる身と成りて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき文。三には東条、文永元年甲子御年四十三歳、南条抄廿廿五に云く、今年十一月十一日に安房国東条の松原と申す大道にして申酉の時数百人の念仏者に待ち懸けられて日蓮は但一人十人計りにて物の用に値ふ者は、僅かに三四人なり。射る箭は降る雨の如く、打つ太刀は電の如し、弟子一人は当坐に打ち殺され、二人大事の手にて候、自身も切られ打たれ結句は命に及びたりしが如何候けん打漏らされて今まで生きて侍り弥法花経の信心こそまさりて候へ云云。四には竜口、文永八年辛未九月十二日御歳五十歳、妙法尼抄十三四十三に云く、鎌倉滝の口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候ひき、いかゞして候けん、月の如くおはせし物、榎の島より飛び出し使の頸へかゝりしかば使恐れてきらずと、かうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ云云。廿三種々御振舞抄云云。又画讃三七に云く、空中に声有り告て云く正法の行者を失ひ子孫を滅し、国土を亡ぼさんと、相模守大いに驚き、日蓮房の戮を宥す使を遣はし、竜口の使と金洗ひ沢に於て往き向ふ云云。蒙十五四十四に、此処を行き合ひ川と云ふなり云云。
釈尊蓮祖倶に是れなり、同じく空中の告有り、之を思ひ合すべし。

第六 成道
凡そ、釈尊成道の相とは、すでに魔を降伏し已つて大光明を放ち即便はち定に入り、明星の出る時霍然と大悟し無上道を得るを成道の相と云ふなり。是れ且く小機の所見に約す云云。明星出る時は、即ち寅の時なり、故に山門秘伝見聞に云く、明星出る時、寅の時は陰陽不二の時なり云云。

蓮祖成道の相とは開目抄下廿七に云く、日蓮と云し者は去る文永八年九月十二日子丑の時に頸はねれぬ。此は魂魄佐渡の国に至りて返る年の二月雪中にしるす等云云。上野抄外五七に、御臨終のきざみ生死の中間に日蓮必ず迎へに参り候べし、三世の諸仏の成道は子丑の終り、寅のきざみの成道なり文。然れば則ち蓮祖聖人は文永八年九月十二日子丑の終り示同凡夫の当躰を改めずして非滅現滅の相を示す。故に子丑の時に頸刎ねらると云ふなり、同じく寅の時に、内証真身の成道を唱へ、非生現生の相を示す、故に魂魄佐渡の国に至ると云ふなり。故に知んぬ、佐渡已後は直ちに是れ久遠元初の自受用身なり。具には文底深秘抄の如し、深秘々々、故に之を略するのみ。

第七 転法輪
凡そ釈尊の転法輪の相とは、一代五時の説法を転法輪と云ふなり云云。蓮祖の転法輪とは、三沢抄十九廿三に云く、又法門の事は佐渡の国へ流され候ひし以前の法門は但仏の爾前の経と思し食せ、而るに去る文永八年九月十二日夜、竜の口にて頸はねられんとせし時より後不便なり。我に付たりし者共に実の事を云はざりけりと思ひて佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり。此は仏より後、竜樹、天親、天台、伝教も知りて而も御心中に秘せさせ給ひて心より外には出させ給はず。而るに此の法門出現せば正法像法に論師、人師の申せし法門は皆日出でたる後の星の光、巧匠の後に拙を知るなるべし云云。或ひは云く、若し佐渡已前は但だ禅念仏を破して、未だ天台真言を破さざる故云云。或は云く、若し佐渡已前は但だ権実相対を明し、未だ本迹相対をし明さず云云。

今謂く、吾云く、一意無きに非ず、然りといへども其の義未だ究竟せず。若し当流の意は佐渡已前は未だ三大秘法を明さず。佐渡已後に始めて之を宣暢する故なり。故謂開目、撰時、報恩、本尊、太田、取要、治病抄等是れなり云云。
処破所顕の二義撰時抄下愚記の如し。

第八 入涅槃相
弘安五年壬午九月八日午の刻、身延の沢を出で同十八日武蔵の国荏原郡千束の郷池上村の右衛門太夫宗仲宅に入りたまふ。同廿五日より安国論を講ず。聖人曰く、三七日の内に我当に死すべし。其の時地神悲啼して、身を震わすべし云云。十月八日に本弟子六人を定む。此従の前九月上旬身延山に於て、蓮師一期の弘法を日興に付属す。之を身延相承と謂ふ。而るに後十月十二日釈尊五十年の説法を日興に付属し、身延山久遠寺の別当に相定めたまへり。之を池上相承と謂ふなり。而して十二日の酉の刻より、大曼茶羅に向て北面し、十三日辰の刻に方便寿量を異口同音に之を誦し、寿量品の中間に頭北面、西右脇にして化したまふ。御歳六十有一。大地震動す。同じく十四日戌の刻御入棺。日昭日朗子の時御葬なり。夫れ釈尊は、霊鷲山に於て、妙法を演説し、霊山の艮に当る跋提河の辺り沙羅林にして、入滅したまへり。

聖人は身延山に於て、妙法を講誦し、延山の艮に当る田波河の辺り池上邑にして、寂に帰す。
古今道同じく、応に所以有るべし。悲しい哉。恵日既に没し、法燈忽ち消へ、弟子檀那の哀声何ぞ言語に及ばんや。我等誕生の古を聞くに笑を含み、入滅の今は伝ふるに涙を垂る。此憂喜の因に託して、彼の値遇の縁を結す。然れば、則ち蓮祖の八相の義立分明なり。范氏云く、若し賢を知らずんば是れ不明なり。知つて而も挙げずんば是れ賢を蔽ふなり。不明の罪は小にして賢を蔽ふの罪は大なり云云。中正廿六十五引。

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