富士宗学要集第四巻

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六人立義草案

 夫れ似れは諸仏懸遠之難は○次下に大小薫習之行満つとも百劫に不す辛へ時機を迷倒せは本迹に其れ又難し信し(云云)。
不辨び時機をと者、既に末法の時を迎えては本門八品上行要付たる首題を可き信ず処に、時機不相応の爾前迹門等の修行をする者是れ時機を不る辨え者也、行百劫に満つる共末法の時きに不る叶は故に徒ら事也(云云)、さて本迹に迷倒すると者此の本迹と者聖人の御上にも本迹あるべし、其の故は久遠本地の信心、名字の御尊形、久遠のまゝなる処は本、されども人界に一界出で玉ふ方は迹也、御定判らは久遠元初の天上天下、唯我独尊は日蓮也、但し久遠は本、今日は迹也日蓮は三世常恒に名字利生の本尊也(云云)、以つて之れを知りぬ今日人界の一界に出で玉ふを迹と云ふ計り也、又云く六人の表示は六万恒河沙の菩薩を表する也、されば一己非す独に六万非す多にと釈して一人も一人に非ず六万も多にあらず、四菩薩即一菩薩、一菩薩即四菩薩也、法界一箇の妙法蓮花経の地水火風の四大の惣躰の地涌四菩薩と顕れ玉ふ時に、上行無辺行浄行安立行等と顕れ玉ふ也、是れを別躰の地涌と申す也。

一、天台の抄門日昭謹て言上、先師日蓮忝も為て法花の行者と○酌み天台の余流を尽す地慮の研精を(云云)、又云く副将安全のため構へ法華の道場をたてまつて致す長日の勤行を(云云)。

一、天台の抄門日朗謹て而言上、先師日蓮任せ如来の本意に○日朗忝も相伝し彼の一乗妙典を鎮に奉る祈り国家を(云云)。
一、天台法花宗沙門日向日頂謹て而言上、扇き桓武聖代の古風を○擬●法花の道場に祈る●天長地久を于今に無し断絶(云云)。
一、日興奏し公家に訴へて武家に云く夫れ日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕、本門弘通の大権也と初に遊はして、次下に三時弘経四依の人師の次第を遊は●次下に今入れば末法に上行出世の境、本門流布の時也正像已に過ぎぬ何ぞ以て爾前迹門を強ちに可けん有る御帰依哉、就く中ん天台伝経は当りて像法の時に而演説す日蓮聖人は迎へて末法の代を而恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕也、経文に処載する解釈晒らかなる焉者歟と仰せらる。

私に云く末法の代を迎えて聖人の余流を汲むべき処に正像時過ぎたる迹門の導師迹化、薬王の後身たる天台大師の余流をくむと云ふ事僻事也、されば此の書の次下に何そ指して地涌の菩薩を苟くも天台の末弟と称するやと遊はしたり、さて又国家の祈りの事是又国主御帰依なき処に謗法の国を祈るべき事大僻見也、されば次下に、
祈請之段又以て不審也、所以者は何ん文永免許の古へ先師素意の分既に以つて顕はれ畢ん、又何そ交座●●聖道門の怨敵に鎮に祈らんや天長地久之御願之咒を(云云)。

既に●聖増上慢と者今の禅家の事也、道門とは天台真言の事也、彼れ等今国の師として天下を祈る処に座を並べて国家を祈る大謗法なり、次に文永免許の古へと者は何事ぞなれば佐渡より召し返され玉ひし時、鎌倉なごえと云ふ所に道場を作り十万貫の所帯を付け、聖人の被る仰せ事のあふ故に天下の師匠と可き奉る崇め之由被れ仰せしかども、御帰依なき間とて御祈祷なしと云ふ事を遊ばしたる也、次に後身と云ふは垂迹の事也、天台は薬王の垂迹後身也、再誕と者二度生るゝ事也、されば聖人をば上行の再誕と遊ばす也、其の故は久遠名字の御当体其のまゝ末法に出で玉へば也、さて聖人を上行の再誕と云ふ事経文解釈明なると者は、神力品に斯人行世間能滅衆生闇の文是れ也、釈には未来世々に若し法花経の如説修行の人あらば六万恒河沙の部類眷属としるべし(云云)、聖人より外誰か末法に本門の要法を如説修行したる人ありや(云云)、されば我れ等凡夫に至るまで此の要法を奉れば信心口唱し信同仏意に更に非る凡夫になるべし(云云)。

一、五人一同に云く凡そ和漢両朝の章疏を聞いて○抽い哉日興尊高の台嶺をさしみして辺鄙の冨山をあがめ明静の止観を閣きて執すと仮字の消息を(云云)。
私に云く是れは唐朝には天台山、日の本には比叡山、彼れ等は和漢両朝の章疏を披き本迹二門をさぐる処を台嶺をさしみて冨士山を専らとすると云ふ事也、さて明静の止観を閣きて仮字の消息を執すとは止観明静前代未聞なるを閣きて聖人の仮字の御書を専とするは僻案の至り也と(云云)。

一、日興上人云く小権迹本と次第して四依の人師弘経し玉ふやうを遊ばし下して次下に然に今本迹両経共に称する天台の弘道と之条違背●経文解釈に失す拠ろを(云云)。

私に云く巳に宝塔三箇の鳳詔に依つて勧持二万の勅答、過八恒沙の競望をば迹化の故に止善男子とをしとゞめ此の土の弘経をゆるし玉はず、地涌千界の本人を召し出して如来一切所有之法とさづけ玉ふ也、然るに末法に入つて本迹を并べて一致と修行する事は僻事也(云云)、又云く迹化と者弥勒文殊等の事也本化と者六万恒沙の上行等の菩薩也、迹化は迹座につらなり本化はかりそめにも迹の座に出で玉はず、されば上行菩薩は迹門十四品にも来り玉はず本門八品に出で玉ひて末法の本門弘経の付属をうけ給はり六品は又流通還迹なれば迹の座と立たせ玉ふ也(云云)、能く々此の御書を可し拝す委くは不る書か也(云云)。                                       又云く天台は迹化薬王の後身像法弘通の導師也、雖も然りと前後六箇の釈を作つて本迹の異を分つ、伝教は又天台の再誕にして本門を募として正像稍過き已りてと○いひ、或は語れば代を像の終り末の始め○有る似え也と像法迹門の導師ながら末法本門弘経の時節を釈し玉ふ、此の書は観音薬王既に居す迹化に南岳天台誰人の後身ぞや(云云)、又云く末法既に二百余廻本門流布の時節也何ぞ以て一部の惣釈を猥りに三時の弘経を難せんや(云云)、仰せと。

私に云く既に如く此くの本迹の違目明なる上に迹化天台の余流を酌んで聖人の尊跡を欺くや次に又天台山と冨山との事、天台山と者台星所居の山、唐土は又晨旦国と名けて星につかさどる国也、冨山は大日蓮花山と号して日天能住の山也何ぞ台星辺鄙として日天能住の冨山を下さんやと(云云)、されば此の抄に。
爰に知ぬ先師自然の名号と与妙法蓮花の経題山州共に相応●弘通在り此の地に(云云)。

一、此の次に記八に引く大論の文を法花は是れ秘密付す諸の菩薩に如き今の下文に召すか下方を尚待つ本眷属を験に余は未た堪え等(云云)。
此釈の今下文と者法師品を因つて薬王菩薩に告く八万大士にと説き玉ふをば宝塔品の如来不久○有の在るの文にてありけり、後に涌出品にして本化の菩薩涌出し玉ふ今下の文と者付属有在の文なり、されば釈に云く声徹●下方に召し本弟子を論す於寿量を(云云)、又此の抄に云く。

次に上行菩薩と者本極法身微妙深遠に●而も雖居すと寂光に為に未了の者の以事顕理して而従地涌出より以来承け付を於本門に待ち時を於末法に降し生を我か朝に示す訓を仮字に(云云)。

私に云く此の本極法身微妙深遠と者久遠常住の本地の事也、されば弥勒も序品の時雨花動地の時は文殊に以て何の因縁を而も有る此の端の問難をなせり、此れを文殊の云く欲すと説んと法華経を答へ玉へり、爰元を釈●云く跡事浅近可し寄す文殊に本地難し載せ故に唯託す仏に文、迹事は浅近なるに依つて文殊に問ひ玉ふ也、さて本地難載故唯託仏と者涌出品にして上行等の六万恒沙の菩薩の既に花厳より以来迹門までも出て玉はざるが本門に於て涌出し玉ふを我れ於て此の衆中に乃ち不識ら一人もと仏に問ひ奉り玉ふ也、時に仏我れ十従り久遠来教化す是れ等の衆をと答へ玉へり、是れを釈する故に唯託す仏にと釈する也、爰元をこそ釈に本極法身微妙深遠仏若し不んは説か弥勒尚闇し何に況んや下地、何に況んや凡夫をやと(云云)、弥勒既に本化上行等をば不識ら一人もとあやしめ玉ふ、是れ補処の菩薩にして三世了達し玉ふと云へども迹化の菩薩なる故に本化の菩薩をしらざる也、かゝる処の本化上行の再誕、久遠名字の本地の本尊日蓮聖人を閣きて天台の酌む余流を其の上仏法東漸の時は梵字を翻して漢字となし唐土へ渡し漢字を仮字に翻じて日本に渡す、さて聖人の御仏法御修行の要法の唐土天竺へ流布せん時は仮字を以つて可し訳す、爰をこそ蔑如し和国之風俗をかな崇重す漢家之水露を但西天之仏法東漸之時は既に翻して梵音を如く伝へしか和漢に、聖語広宣之日は亦訳●仮字を可し通す梵震に(云云)。

此の水露と者文字の点の草の葉にこぼるゝがやうなるを云ふ也、又云く此の書に以事顕理の釈、此の理は廃事存理の理にして常の理にあらず是れは極理の理也可し思案す、又云く漫茶羅堂は実報士、御影堂は寂光土也、されば大石寺には御影堂には結衆ばかり出仕し玉ふ也(云云)。

一 五人一同に云く先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔より是をきざみ弘安帰寂の日に至るまで随身す何ぞ輙く及ばん言ふに哉(云云)、興上人云く深く権実已過之化導をあらためて為に弘めんが上行所伝の乗戒を所の図する本尊は正像二千年之間一閻浮提之内未曾有の大曼茶羅也、当て今の時に迹化の教主尚無益也況んや多●婆和の拙き仏をや、次に随身所持の俗難に至ては只是れ継子一旦の寵愛は月を待つ片時の蛍光と可し心得(云云)と、仰せ候。

随身所持の釈尊と者は伊豆の国伊東に聖人配流せられ玉ひし時立像の釈迦の網にて引きあげけるをまいらせたれば御所持ありて、御臨終の時立像の釈迦をば墓所のかたはらにたてをくべし、十月十六日に御自筆西山にあり、是れに重々の仰せあり紙のつぎめに六老僧の御裏判あり志あらば求めて可し奉る拝し、かゝる眼前の証拠等ありながら造仏すべきや、次に未曾有の大曼茶羅は末法の本尊也、其の本尊と者聖人の御事也南無妙法蓮花経日蓮判と主し付け玉ふて釈迦多宝四菩薩梵天帝者等は皆本尊より出で玉ふ所開也さて判形をするが大事なれ(云云)。

一 五人一同に云く冨山立義の為く体ただ非ず擬するのみに法門之異類を剰へ構ふ神無之別途を既に以て失ふ拠を誰か信ぜんや之れを(云云)。
日興上人云く我か朝は是れ神明和光の塵○何ぞ背いて善神聖人の誓願に新に詣ん悪鬼乱入之社壇に哉、但し広宣の代垂迹還住の時は尤も撰びて上下を可し定む鎮守を(云云)と仰せ候。

自り元神明と者垂迹の形也、天照太神日本をさぐり出し玉ひてより日本を神国と云ふ、其の後聖徳太子出世し玉ひて仏法を立てんとて先つ四天王寺を建立し玉ふ也、然るに守屋と云ふ者有りて寺塔を破らんとす終に太子日本を仏法の国となし玉ひき、去れば一箇の御定判にも神国始めて仏国となる、今此三界の文の顕れさせ玉ふべき序にあらすや(云云)、神明は謗法の国なれば本地に帰し玉ふ、悪鬼乱入の社壇をば誰か可き崇む、されども天下広宣流布の時は鎮守を可し建立す(云云)。

一寿量品の文の底の指し所と者何ぞや、又文ノ底と者何事ぞと云ふ時、先づ文の底の指し処は神力品也、さて文の底と者末法を心にかけ玉ふを云ふ也、されば神力品にして釈迦多宝分身の諸仏評判して十種の神力を現し玉ふ、是れは何事ぞなれば末法に上行菩薩出現あつて要法を弘め玉ふべき事に依つての神力也、経に云く以仏滅度の後能く持つ是の経を故に諸仏皆歓喜●現す無量の神力を(云云)、さて惣結の文に於て我が滅度の後に○応に受持す此の経を是の人於て仏道に決定無し有る●疑ひ(云云)、其の人行世間に○闇を(云云)、御抄に云く一闇浮提之内正像に末た弘め法花経当世に流布せしめずんば釈迦は大妄語、多宝の証明は泡沫に同じ、十万分身の助舌は芭蕉の如しいかでか其の儀は候べき(云云)。

又五人一同に云く如法一日の両経は共に以て法花の真文也於て書写読誦に不る可ら有る相違也(云云)。
日興か云く如法一日の両経雖も為りと法花の真文正像転時之住古は平等摂受の修行也、今末法の代を迎えて論ぜは折伏の相を不●専とせ一部の読誦を但唱て五字の題目を雖も受くと三類の強敵を可き責む諸師の邪義を者歟(云云)と仰せ候。

摂受と者其の物●●にかいたうしてやぶる義也、折伏は善悪を堅くいましむる事也、如法一日の両経と者如法経と云ふは三七日よむ也、一日と者日の中の読誦なり是れは正像二時の修行、さて折伏と者不軽菩薩は礼拝の行を以つて一切衆生を礼拝し玉ふ、其の故は一切衆生は仏に成り候べき有り仏性と云へども不す知ら之れを、然るを不軽菩薩仏性の方を礼拝し玉へば軽慢し玉ふとて打擲しまいらす也、日蓮聖人又末法に出現し玉ひて一部をよまず五字を以つて一切衆生を利益し玉ふ也、されば御抄に摂受折伏は水火の隔て也(云云)、御抄又云く草木は日輪の眷属寒月に苦を受く諸水は月輪の所従極熱に用を失ふ(云云)、是れ折伏の心也、其の故は草木は秋冬になれば日の影よはき故にかれ●●になる、水は又極熱になれば日の影つよきによつて用をうしなう、御抄に又云く末法に入りて摂受折伏あるべし悪国破国の両国ある故なり(云云)と仰せ候、ゑぞていの者は仏語の邪正と云ふ事なき故に善悪共に仏語を不る知ら故に悪国まで也、さて日本は邪師邪法を信ずるによりて悪国の上に亡国破国可し有る之れ、悪国破国の時節は摂受不可ら叶ふ折伏を専とすべし、夫と者一切衆生に下種の要法を利益せしむる是れ也、されば御抄に摂受の者は折伏をきらい折伏の者は摂受を悲しむと(云云)、折伏行と者慈悲也、勧持不軽の明文上行弘通の現証なり、其の故は御抄に過去の不軽品の勧持品、今の勧持品は未来の不軽品なるべし其の時の不軽菩薩は日蓮なるべし(云云)、さて一部を専にせずとは一部広読をきらひて要法の助経に方便寿量を読む也、次でに云く妙法蓮花経は非す文に非す義に一部の意耳(云云)、妙法蓮花経と者法花経の文にもあらず実相の義にもあらず文義をはなれたる也、さて一部の意と云ふは文の底の妙法蓮花経の事也。

又五人の立義既に分つ二途に於て戒門に論ず持破を(云云)。
仰せに云く五人方に又叡山の戒壇を用るや否やの二義あり浜門徒は戒壇をふむ是れ也、然るに。
日歟が云く夫れ波羅提木叉之用否、行住四威儀の所作平●随ひ時機に持破は有り凡聖に、若し論ぜは爾前迹門の尸羅を一向に可し制禁す、若し於ては法花本門の大戒に何ぞ不らん依用せ哉、但し本門の戒体委細の経釈は以て面を可し決す(云云)と仰せ候。

私に云く波羅堤と云ひ尸羅と云ひ皆戒の異名也、四威儀と云ふ者行住坐臥の事也、平険随ひ時機にと者何事ぞなれば正法は時平にして持戒は多く破戒は少し、像法は持戒は少く破戒は多し末法は時険にして破戒楢なし、戒をやぶると云ふも持つ上の事也、末法は無戒なれば破戒も無き也、されば御定判に昔は時平にして可し持つ戒を不可ら持つ刀剣を今は時●なれば不可ら持つ戒を可しと持つ刀剣を(云云)、先づ世間にも昔は時平かなれば文を以つて国を治め、今は時けはしければ文をほ置きて弓箭を専とす、世間すら如し此くの、周文王は文を以つて世を治め玉へば其の名を文王と云ひ、其の後其の子武王は武を以つて世を治め玉へば其の名を武王と云ふ也、戒の持破は時の平●又凡聖に依るべき也、されば一箇の御定判に在世は能化の師は仏也弟子又大菩薩阿羅漢也、滅後は能化の師は凡師也弟子又三毒強盛の悪人也(云云)、在世の菩薩阿羅漢のやうに三毒強盛の悪人戒を可けん持つ耶、凡夫の二字を釈する時惜み身を惜むを命を名けて為す凡愛し妻を愛するを子を名けて為す夫と文、又於て戒に二重あり東大寺観音寺薬師寺三所の戒壇は伝教大師の法花経迹門の叡山の大乗戒にて破る、是れは迹門の戒壇也時を云へば像法也、さて末法に入りては国主此の法を立て本門の事戒を建立あらん時は本門の戒壇を可き用ゆ也、時を可し待つ冨士山に可き被る立て戒壇也本門の戒躰経釈にありと者経には是名持戒と(云云)、定恵力荘厳と(云云)、釈に云く虚空不動戒、虚空不動定、虚空不動恵の三学倶伝名けて曰ふ妙法ととも云へり、又梵網小乗の戒は人能く持つ戒を、一得永不失の戒は戒能く人を持つと云へり。

一 此の外の支流構え異議を●曲稍数多也、其の中に天目の云く以前の六人の談皆以て嘲弄之儀也、但冨山雖も宜しと又有り過失乍ら破し迹門を読む方便品を既に自語相違す不足ら為すに信順を、若し所破のためと云はゞ弥陀経等を可けん読む哉(云云)と仰せ。
私に云く天目と名付け候事は聖人の本尊を遊ばす時、点を一ち打ち御座すを天目はてんが一つすぎたる由申されければ重ねて而点を打ちそへ玉ひて、聖人の仰に我が仏法に於て後代にふすべと云つて譬へば白面にあざのくろきやうに仏法にふすべを可き云ふ者也と被して仰せ天目と付け玉ふ也、天目と云ふ物は薬かけてふすべる物也、然れ者かく付け玉ふ也、ふすべとはあざの事也はゝぐろとも云ふ也。
日興が云く先づ本迹の相違汝慥に自発するや、去る此天目当所に来りて遂ぐる問答をきざみ日興が立義一々に承伏し畢ぬ、○次ぎ下に夫れ取て狂言綺語の歌仙を而備る自作に卿相尚為す短才の恥辱と、況や盗みて終窮究竟の本門を而称する己徳と迷人争でか免れん無間の大苦を哉(云云)。

仰せに云く天目既に日興聖人と問答の時承伏し下ふ処に重ての難は本迹自発するやと(云云)、譬へば一箇の御抄の如くほの●●と云ふ歌は我れよみたりなんと云はゞゑぞていの者はさもやと可し思ふ、其の如く本迹相違自発すると云ふ共難し用ひ、惣●歌仙の道さへひろい言と云ふて人の云ひすてたる言をばつらねぬ事也つらもからぬ問也天目如し此くの(云云)、夫れ方便○読誦に付いて二の義あり。
一には所破の為め二には借る文証を也、初の為と所破の者純一無雑の序分には且く権乗の得果をあげ廃迹顕本之寿量には猶明す伽耶之近情を(云云)。

既に廃迹顕本の寿量品にも猶天人及び阿修羅は皆謂へり今の釈迦牟尼仏は出て釈氏の宮を去る迦耶城をと説くを、寿量品にも花厳を取り上けて久遠を顕本し玉ふ也、されば爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文、真実の依義判文は寿量品に限ると(云云)、意は迹所破の為に方便品をば読む也迹門をとりあげでは、やぶられべからず、敵陣を破るに案内をしらでは難し破り、能く案内をしれば破りやすし、如く其のなり其の上に迹門は本門の依義判文と者此の本門は一品二半の脱益の本門也、さて真実の依文判義者本門に限れりと者聖人御独歩の久遠名字の本地の本門也、又所破ならば弥陀経を可き読む歟の愚難四重の興廃、三時弘経をしらざる故なり三時弘経は如し常の、四重の興廃と者文句に云く迹の大教興すれは爾前の大教亡す本の大教興すれは迹の大教亡す、御心の大教興すれは本の大教亡す文、爾前の教法は迹門より廃せられ、迹門は本門より廃せられ本門は御心より廃せらる、弥陀経は爾前経、迹門にて廃せられたり、されば此の書に。
夫れ諸宗廃失の基ひは天台伝教の助言に全く非ず先聖の正意に何ぞ為に所破の読む之れを哉経文之明鏡如し日月の(云云)。

いかで弥陀経を可けん読む哉迹門は本門より廃せられ候事は元意本門は観心より廃せらるゝ是れはいかなるぞと云ふに、此の本門と者一品二半の本門也、さて観心と者久遠元初妙法華経の信心也、是れを観心と云ふを意得る時一箇の御定判に、一念三千をしらざるものゝために仏大慈悲を起して一念三千の重宝を妙法蓮花経の五字の袋につゝんで末代幼稚の頚に令む懸け(云云)、天台の迹門の一念三千の観心も妙法五字の袋に浦まるゝ也、是れ即名字の妙法蓮華経観心信心の事也、さて迹の文証を借りて本の実相を顕すと者実相と者三諦也、爾前は隔歴の三諦、迹門は円融の三諦なり是れ皆実相なり、本門の実相と者非す如に非す異に不る如くなら三界の見るが於三界をの文是れ也是れ本門の実相也、実相は母の方也大王の后き也、此の本門実相を顕さん為に迹の文証を借る也、是れ二に文証を借ると云ふ意也、実相は法身、下種は報身、されば釈に云く所成即法身、能成即法身、法報合ふ故に能く益す物をと云ふ是れ也能く々可し案ず●●、初心の間につかざる事のみ也、後見之本たるべからず、但劫者にゆずり奉る也。
新太夫阿闍梨日鎮判
右筆下野公。

於て和泉境本伝寺に妙本寺上人日要之御談義を奉る学頭日杲聴聞し之れを処、新太夫阿闍梨日鎮に奉る伝授し付いて仏報に談合二度日州へ下向二度目の時也。
于時天文六年(乙酉)六月十五日 本永寺日杲判

依て房州妙本寺蔵本(下野公筆日杲奥書)昭和五年自ら写す之れを但し右筆甚た拙く誤脱多々なり校訂の効少し矣原本副本共に末た見之れを後賢宜く修訂す矣。
昭和六年二月八日 日享判

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