富士宗学要集第五巻
同附録
当山法門化儀高祖開山日代上人の如くなり、然るに一百六箇本迹奥書の意を案ずるに高祖即上行菩薩なり開山即無辺行菩薩なり、蓮蔵阿闍梨日目は高祖開山奏聞の代たる已に四十二度に及ぶ即浄行菩薩なり、然れば日尊は新弘通三十六ケ所に至る、興師本尊を書写して某中に附益す、本尊の授与に云はく奥州新田蓮蔵阿闍梨弟子日尊云云、誠に以て花洛修行の先鉾、門徒秀逸の良将なり、然るに相談の意趣に於いて相違無くんば通用の籌策を廻らされ開山上人の御本意を顕さるべき者なり、恐々謹言。 永祿元戊午十一月七日日代遺弟日建在判 日尊御遺弟要法寺日辰上人参玉床下 05-055 釈の日辰の伝 釈の日辰、俗姓は田村、世衰へて和州に寓居す父量親、平安城に来り民間に入り名字を村田と改む、日辰永正五戊辰年八月廿六日寅の刻綾の小路西の洞院に於いて誕生す、七才にして永正十一甲戌年二月彼岸、住本寺本堂内に於いて出家す、日法、日辰が髪を剃り右京と名く、九才にして永正十三丙子年正月廿八日日法入滅す、初て右京を以つて日在に付属す、十五歳常楽院日慈に師とし仕へ袈裟を服す、十八歳大永五乙酉年二月廿九日住本寺に帰り復日在を師とす、同年八月四日常円坊日進を以て礼儀を申べ本隆寺開山日真の所に到り玄義等の講釈を聞く、廿三才享禄三庚寅年一夏九旬住本寺本堂に於いて説法す同年八月三日京師を出で同月廿三日駿州冨士西山本門寺に入り日心を師とす、廿四歳同四年辛卯五月八日帰洛す、清大外記還翆を以て外典の師と為し亦日本紀の講を聞く、廿九歳天文五丙申年四月日向国の九沢に従つて周易を伝授す卅二三歳の後、遠蘭南州一鴎瑞竹意庵道三に従って医経を学ぶ、卅四歳同十年辛丑秋建仁寺一花に従って俗典を学ぶ、卅八歳天文十四乙巳九月十五日北野の宮寺の内の会所に至り一切経を拝見せしむ、四十歳同十六丁未年七月二日一切経を披覧し畢ぬ、四十七歳同廿三甲寅年四月泉州堺の津に於いて将に本迹問答を作さんとす、妙法寺の仏寿坊雖問二紙を以つて日辰に贈る、日辰返牒一巻名けて本迹問答と曰ふ永禄元年十一月廿日富士重須に於て抄二冊を作る。 四十八才弘治元乙卯年十一月十七日要法寺緇素一列真乗坊日敬等を以て使と為し貫主為らんと請ふ、日辰再三辞謝すと雖も終に衆言に随ふ。 此秋より後序品の略消を作り退座一面に至る合て十四冊。 同二年六月廿三日日誉と倶に京師を出で七月四日冨士重須に至り日耀に謁す、同七日巳午の二刻霊宝を拝見し奉る、所謂二箇の御相承、本門寺の額、紺紙金泥の法華経一部、本尊十七鋪、安国論釈日蓮勘、天台沙門日蓮勘の文字無し皆悉く蓮祖の御筆跡なり。 同年七月廿二日帰洛し訓蒙抄、止観見聞抄を作る。 永禄元戊午年八月廿三日我れ日玉日住と京師を発し甲州に至り弘通し、九月廿八日甲州府中を出で十月朔日に冨士重須に登り住す、五十二歳同二年己未正月八九両日、日代自筆の五人所破抄を以て点画字勢に至るまで本の如く之れを写す、同十二日戌刻、日住が為に笈の戸を開き霊宝を拝見せしむ、日出自ら笈中より出し二箇の御相承、本門寺の額併に興師の惣付属日妙別付属を拝見せしむ、時に日辰日玉優婆塞一人なり、同日亥の刻日興自筆の一代五時の図を以つて本の如く之れを写す、同年二月三日此の一代五時の図を持って蓮祖御筆の一代五時の図と校合せしむ其本今所持す、同日八通御遺状等之を写す、去る正月廿日未の刻日興惣別付属二通御筆勢の如く之れを写す、重須に於いて都合五座の説法を作す。 同三月八日冨士重須を出で九日甲州に至り、四月八日甲州府中成田宗純の亭を発し同十八日濃州正興寺に至る、廿一日より一七日説法す、五月四日西美濃大石に至りて弘通す、七日帰りて造仏問答抄読誦問答二冊を作る、同年己未十一月十日法華三部に於いて六十箇条の論議を作る、同三年庚申七月二日論議抄六冊を作る、同月の三日初めて蓮興代目尊印大等の伝を書き以つて童蒙に示さんと欲す、同十九日申刻略ほ之れを書写し畢ぬ。 今日陽元和六年庚申十月七日要法寺大坊に移り此の伝を拝見す、先年日陽弟子円能院日格在京の時之を書写し石州銀山日陽隠居所の本妙寺に於て具に之れを拝見すと雖も今所持せず、故に熟見の為め夜々に灯下に於いて之れを書写す、故に下卦分明ならず悪筆と云ひ老眼と云ひ還つて耻辱を顕し嘲哢を招く、然りと雖も要法寺内に大切なり、殊に辰師御自筆の間大切の故に之れを写し畢ぬ。 右の所迄遊ばされ御一代の下二三丁は別白紙を以つて張り閉ぢ糊付けて置き玉ふとなり、御遷化廿年も後に広乗坊之れを開き之れを知ると云云。 05-057 日シュウ(★貝+周)の伝 釈の日シュウ(★貝+周)上人は要法寺第十四世の貫主なり、俗姓は上京黒川長信の長子なり、姉は名字窪大工源左衛門とて公方の御大工なり、一条室町正親町の上の町、東がわ下かどなり、入道宗清公弟三人妹二人あり幼少より出家。 釈日性 要法寺十五代 釈日恩 要法寺十六代 釈日 要法寺十七代 05-057 釈の日 陽要法寺十八世 釈の日陽父は洛陽四条油の小路町の人、母は雲州神門郡河東富村大社領原田の侍の息女なり、同郡朝山妙伝寺は本寺同開山蓮祖第五祖日大上人開闢の寺なり、此寺の住持式と為て先師日顕御下向の時、予が父、師の伴と為り同時に下向し翌年夫妻と為り予が父母と成れり、六歳の時顕師の弟子と成り法華を習ふ、七歳の春涌出品一品残って雲州大乱に及び畢ぬ、爾来七年の間尼子と毛利と責め戦ふ事七年国中静ならず、其の間杵築大社に悉く北げ入りて大に狂ふのみ、七年過きて富田尼子の家城没落、大主尼子義久毛利に降参す、大守元就芸州に具足し兄弟両人に地行を配て行ひ無役にして遊山するのみ、尼子の侍に山中鹿介と云ふ者、尼子の扶持を放たれ牢人して三四年過ぎて尼子の一族勝久を取り立て雲州に取り出で一両年国中再び乱る、元就九州陣より帰りて軈て雲州へ取り出で数度合戦に及ぶ、終に勝久敗軍して備中に於て切腹す、鹿の介降人と成り謀死せらる、後国定つて顕師に随ひ読経訓声要文名目等諸御書を習学す云云。 去る天正の比本寺より大本坊日周、顕寺迎ひの為に下向す、急に御上洛有りて日辰上人御遷化の故に興門法統相続を致すべき由の御使僧なり、然りと雖も顕師雲州数度の乱逆に抄物法衣以下紛失するなり、歳六十に満ち彼れ此れの用捨に依つて頻に辞退して上洛無き故に、是非に及ばず翌年使僧日周上洛なり、其の時愚御伴申し則大本坊内に学室を構へ蛍雪の功を尽し有る時は寿量の一品を本末を以つて不闕に聞書し二百丁に及ぶ、或る時は玄義一部の咄辰公御講の抄なり是れは日性師の講談、或る時は法華一部序品より勧発品の而去に至るまで一字不闕に●師御講釈、或時は御書初め安国論より終り迄、一部不闕に聴聞し、或る時は俗書論語大学等性師講釈、又或る時は止観一部の見聞同講釈、鑚仰半の所に去る天正十壬午六月、明智日向逆意を以つて天下の大主小田信長公を洛中に於て謀弑する故に天下大乱に及ぶ故に俄に下向し顕師に謁し奉る云云、然るに此の本法寺は顕師開闢、円能坊日賢に授与し給ふなり在寺七年、然る処に此の円能坊は伯州半国の大守景盛と近き親類なるに依つて頻に呼び寄せ給へども堅く辞退なり、然れ共御越に於ては城辺に寺を立て領地の者共悉く授法せしめ自身の授法と堅く約諾に依り伯州上国有増の砌り愚下向す、幸にして愚老に付属有るべき由再三言ふ再々往辞す、円能は顕師嫡弟の契約、愚の子兄なる故に辞退に叶はず、天正十一癸未二月五日請取り今に至る此くの如し云云、当住円能院日格は雲州塩冶板倉佐渡守嫡子板倉源右衛門の三男なり、誕生と等しく弟子と号し三才の時落髪し右京と号す、九才の時より在寺せしめ十五才にして本寺に登り●性二師に随ひ学業を励む、十八歳に至り関左に下り廿余歳にして銀山に下向す、故に即本法寺を与奪せしめ隣寺本妙寺に蟄居す云云。 倩ら在寺の功を案ずるに去る天正十壬午歳下向已来、天正十六戊子本寺本堂供養一千部修行に東西の諸末寺の僧等上洛せしむ之を勤むべき由使僧を以つて相触れらる、雲石の老僧等十余輩召具し上洛を遂げ列座し化儀を調ふ其の勲功に依り院号を本寿院と贈らる、又去る文禄四乙未四月上洛し五月、日性の取次を以て権大僧都に任ぜらる時の伝奏は中の御門資胤卿なり、同伝奏を以て同五月十八日法印位に任ぜられ綸旨を頂拝す、上人日●へ披露す云云、同七月に下向云云、又去る慶長十三戊申二月十六日隠居日●上人御遷化三月中旬に聞ゆ、故に四月二日立ちて同十二日京着し当上人日性に謁し●師御廟へ詣す、七月二日京を立ち同十日に下着す、又去る慶長十九甲寅二月廿六日日性上人遷化、後住に泉州境住本寺の住大雄院日恩入院す、上人に謁する為に去る元和三年丁巳四月二日銀山を立ち備後の中前を経て上洛し日恩上人に謁す、東山性師の御廟併に代々の石塔を拝し、爾来駿州冨士大石寺は興師御開闢の地なり門徒の本寺為るに依つて此の地に詣でんと志し、同四月十四日要法寺を立ちて恵●坊日「同行して先叡山一見を為す、吉田白河一乗寺を経て雲母坂を登り弁慶水に付き戒壇堂常行堂根本中堂等残る無く之れを一見す、折節山王祭り麓に下りて見物し晩に大津に泊り、翌朝送りの衆達に暇を乞ふて舟にて矢羽瀬に付き近江路を経、西美濃垂井に宿し、日目上人の御廟此地の由を兼て之れを聞くに依つて方々尋るに久しき事なる故に所の者之れを知らず、上の日目上人の伝の下に具に記す云云、翌日濃州正興寺に付く、住持は先年本寺に於て入魂の仁なり、依つて三日抑留し因幡山等見物し、同十八日正興寺を立ち東海道を経、駿州妙音寺に着く、是れも要法寺末寺の故に住持の馳走斜ならず両日抑留し、四月廿四日大石寺に着く、当住日昌上人は本来要法寺の住僧所化為るに依つて日●性両師の下に同学累年の故恋志斜ならず、殊に要法寺に於て雲石両国宿坊の手筋の僧為るに依つて、御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅、御書八幡抄一通関東紙三十九丁次御消息十行廿行五行十行或一紙二紙御判形の有る斗りも十五枚等、長さ一尺五寸余、横一尺余竪八寸斗りの御つゞらとて唐のつゞらの旧りたるなり、興師已来の入物となり、此の中に御正筆計り一盃あり、辰の刻より未の刻に至るまで拝覧し奉るに尽きず、後には巻目を開かず其の儘押し頂き押し頂き申して終り迄頂き奉る、高祖上人の眉間の骨舎利水精の瓶塔に入れて新たに拝見々々。 翌日重須本門寺に詣るに其の道廿余町是は興師御隠居の霊地なり当上人日健に謁す宿坊本行坊取次即日、正御影を拝し奉り朗師の落涙の流跡残りて今に見ゆ、其の外御形貌殊勝千万の躰たらく正身の聖人に値ひ奉る心地して感涙心肝に銘ず、暫く看経誦経し稍終て大坊に帰り振舞畢つて暮に大石寺に帰る。 翌朝重須より使僧を以つて本行坊明朝振舞の案内あり辞退に及ばす、翌朝亦恵●坊同心して重須に至る、取り々馳走座果て風呂湯に浴し終に亦正御影御戸を開き戸帳排きて心閑に拝し奉る、大坊に帰り御霊宝頂拝す二ケ御相承是は日辰上人正筆御拝覧の時点画少しも違はず書写して今本寺に在り、本門寺額、紺紙金泥の法華経一部、曼荼羅十七幅、安国論皆御正筆なり、一々残らず頂拝す興師御遺骨等頂拝す、薄暮に及びて亦振舞夜半迄乱酒なり酒果てゝ本行坊に宿し、翌朝亦頻に抑留し、振舞果て大石寺に帰る。 爾より相州鎌倉比祇谷武州池上妙法寺御煙地参詣を志し、同五月二日大石寺を立ち足柄箱根を越え同五日先江戸の日本橋に着く、伝馬より下り暫く恵●併に僕従等橋の辺に彳み待ち得て酉の刻に至り旅宿を取る、翌朝門徒の僧恵好を尋ね値うて宿坊と為す、寺々御城浅草等見物す、町中に於て古へ要法寺の僧勧乗坊還俗して久円と名く 此の仁に行き相ひて立ち乍ら雑話す、毛利殿の囲碁敵新作に告ぐ新作は日陽が俗弟子なり、翌朝二人同心に来り酒肴取り●●持参し終日古今の雑話す、翌朝新作の旅宿に於いて振舞有るべき兼約の故に翌朝恵●坊宿同心して行き半日雑話す久円相伴なり、暇乞して宿を立つ新作より単衣一枚銀子一枚之を餞す其より池上妙法寺に詣し諸堂宝塔御廟等に詣し看経誦経畢て、翌日鎌倉比祇谷に志し道通り円覚寺、建長寺、寿福寺等一見し若宮神前に至る、是れ古へ高祖上人御難の時奇瑞を露はし冥験の霊瑞末世応化の神に似合はず、併ら高祖上人但説無上道の行者なるに依つて奇瑞を顕はし玉ふならん、爾より比祇谷妙本寺に詣し諸堂を回り、松葉が谷の岩洞は高祖住し給ひて安国論を製作し給ふ岩窟中八畳敷斗りなり高一丈斗り奥に高祖五輪なり前に名□□□、それより出で左に山尾を回つて。々登つて御猿畠とて山の頂迄登つて、右の谷へ下りて高祖常に座し給ふ旧跡五輪等あり、暫く看経誦経しそれより名越の朗師土の籠に謁し、大仏に立ち寄り見る、極楽寺門跡の前を通り腰越に至り竜の口に参り岩崛に居し給ふ、洞敷皮の石高さ二尺余回り二囲斗り御堂五間四面少し間ありて寺有り名□□□、其御堂より五町六町の間に六門徒の寺あり何れも小寺なり。 それより五月十一日大石寺に帰り同十三日の朝大石寺を立ち西山□□□、同晩身延山久遠寺に着き御堂に詣す、翌朝駿州に至り伊勢路を経、同廿三日京着す。 同七月二日京を立ち同十三日銀山に着くなり、又去る元和六年仲秋本寺の使僧として恵●坊日「下向す、日恩上人は御隠居なり日氓ヘ入院の砌り病死し要法寺無主の故上洛せしめ入院仕るべき由の使なり、堅く辞退再三に及ぶと雖も使僧の言理に叶はず、同九月十四日隠所を立ち同廿八日京着す、十月朔寺檀指し集り急に入院せしむべき由も再三辞退す、然りと雖も衆議一同の故に辞するに叶はず十月七日入院せしむ、先例に任せ御影講等式の如く正く調ふ、同十六日所司代板倉父子案内の礼を調ふ翌朝より諸法華寺廿一ケ寺礼を調へて後日に及んで諸寺より返礼あり皆上人達来臨す一寺も代僧無し、爾より後諸檀へ礼す皆門礼なり、在寺四ケ年其の内大坊客殿庫裡等上葺、仏前の唐戸、屏重門再興云云檀那の助成を請はず皆自力なり、さて寺家本堂建立の有ら増し議定して京都の諸檀奉加せしめ早く材木柱板料等少々買求む、故に東西の諸末寺使僧を以つて奉加せしむ雲石両国奉加の為に寺惣代として円教坊下向す、愚老も此の節同心に下り檀方共を見舞ひ奉加の勧をも募り、御堂の為に去る元和九の四月二日京師を立ち同十二日銀山に着き諸檀を集め奉加帳に之を付け置き銀は未調なり、雲州塩冶、平田、嶋根諸皆之れに同じ、翌年三月迎ひと為て使僧有り使は玄光、然りと雖も老耄再洛叶ひ難き由頻に辞退して上らず、故に広成寺日成、大方蔵経の隙明きの故に寛永元年九月入院なり、要法寺仏法相続の次第大概此くの如し云云。 右祖師伝一巻日陽上人の本を以て茲に謄写す本書石州銀山本法寺に在り。 編者曰く筆者不明の転写本に(祖師伝に合本)依て此を写し小訂を加へ延書と為す。 |