富士宗学要集第五巻

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日蓮聖人年譜

後堀河院諱茂仁高倉院の孫二品守貞親王の第三子、母は北白河院藤原陣の入道中納言基家の女、承久三年七月朔日即位編年合運上、東鑑には四月廿日御譲位と云云、或は七月今日践祚と云云、又合運下去年十二月朔日即位と云云保暦間記之に同し。
将軍、東鑑に云く左大臣道家公の賢息歳二つ母は公経卿の女建保二刻誕生関東に下向したまふ。○今日午の尅鎌倉に入り右京権の太夫朝臣の大倉亭に着く、酉の尅政所始め有り若君幼稚の間は二位尼是非を簾中より聴断す可しと云云、目録の下には平政子治八年云云、世に尼将軍と謂ふ是なり但し宣旨は之れ無し。
執権、相模守義時、建保三年乙亥正月八日遠江守時政北条に於て卒去す故に家督を続く、実朝平政子二代の執権なり。御先祖の事、具に諸伝に出たる故に之れを出すに及ばず、然れども少異ある故に重ねて之を挙ぐ、産湯記に云く三国民と云云御母儀妙蓮の説日興之を記、古今和歌集の三国の町が註に云く聖武天皇の後孫云云甘露寺元長の説なり、後化導記に云はく其の先祖遠州の人、貫名五郎重実なり、平家の乱に安房国に流がさる文、註画賛、略伝も之れに同じ。
私に云はく、貫名氏の事、産湯記になし、但し在名ならば其の義別段の事なり、次に貫名重実流罪の事、保元平治並に平家物語、盛衰記、保暦間記、東鑑等未た見当らず、又清盛四十二人の官職を停止し大臣並に近習の者を流刑する事あり、是は公家の近臣の衆なり刺史に非ず目代荘司等には非るなり故に流さるると書けるは不審なり、日朝或記を引きて之れを書す何ぞ信ぜざるや、答へて云はく此の或記に云くと引けるは書名はなきか作者は誰ぞ是れ亦信じ難し、其の故は御書を引ける尚録内録外を混乱して之れを引く故に相違甚た多し故に或記も分明の証拠なければ信じ難し、東鑑を以て之を見るに牢人なるべきか、されば東鑑一に云く甲斐の国源氏等精兵を相具して競ひ来るの由駿河の国に風聞す、仍て当国の目代橘の遠茂、遠江駿河両国の軍士を催し奥津の辺に儲く云云、又云く駿河の目代長田入道の計を以て云云、此両人は駿河の目代なり(清澄寺御書廿一云く又一には日蓮の父母に恩を蒙せたるの人なれば云云)、治承四年十月廿日源平両家、冨士川の東西に陣取る夜半に水鳥の騒ぎ立つを敵の夜打に入りたりと聞なして迯上る、其の後は武田太郎信義をして駿河を守らしむ安田三郎義定を遠州に居きたまふ、頼朝は鎌倉に還り勲功の賞を行ふ罪名の極れる者は其の首を梟し未た極らざる者召し預けらる其の人々許輩云云、之を以て之を思ふに遠流の衆はなきなり、推量するに源氏方より守護を居ゆる故に平家方の人々は自然に分散して浪人となるなり。
兄弟五人ありと云ふ事、産湯記には兄弟の事一言も之れ無し、高祖御母儀妙蓮の説なるが故に伏して之を信ずる処なり、日朝の或記と云へるは二百年以後の説なるが故に信じ難し、略伝には両義を挙げたり一義は諸伝に同じ、次の義は母嗣き無きことを悲み同郡の清澄寺の虚空蔵に祷ると文、若し爾らば当時貫名の名字世間にあるはいかには云ふに彼は重実に二人の子ありと云ふ其の長子の末孫か。
註画賛に云く母は清原氏云云、此の説未た本拠を見ず、産湯記に云く悲母梅菊女童女の御名なり畠山殿の一類にて御座す云云。懐妊の前瑞、産湯に云はく叡山の頂きに腰をかけて、近江の湖水を以て手を洗つて、冨士山より日輪の出でたまふを懐き奉ると思ふて打驚いて後月水留ると夢物語り申したまふ文、又云く父三国太夫、我も不思議なる御夢想を蒙るなり、虚空蔵菩薩猊吉き児を御肩に立てたまひて此の少人はわがために上求菩提也、日の下の人の為に聖財摩訶薩●也、亦一切有情の為に行末三世常恒の大導師なり、是を汝に与へんとて給はると見て後、御事懐妊の由を聞くと語りたまふ文。
御誕生の瑞、略伝に云はく出生の日に当って異気室に満ち涌泉奔沸す日景棟に映し星輝窓罹る文、諌迷論には青蓮華の生することを出せり、予が云く之に就て甚深の習あり具には産湯記に出でたり、誕生水の事深き所以有り志有らん人は産記を拝し奉る可きなり。
貞応元壬午二月十六日辰の刻日蓮聖人御誕生なり、仏滅後二千百七十一年に当るなり周書異記末法に入りて百七十一年なり。
問て云く開目抄に末法に入りて二百年と云云此の文に違す、答ふ是は文永九年の御製作なる故に御誕生とは五十一年の間あるなり。
御生国の事、本尊問答抄に云く然れば日蓮は東海道十五箇国の内第十二に相当る安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり文中興抄には民の子と、妙法尼抄も之れに同じ、佐渡抄に日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり文、此れ等皆卑下の御言也世に此の例あり、明恵上人の書状に明恵は旃陀羅が家より出てたりと書きたまふ此の類なり。
頼朝出張より以来寛正の比までは房州一国を四家にて知行せり謂く安西、金鞠、丸、東条の四家なり、其の後延徳の比より安西一人して一国を領す、其の比里見左馬助義豊が代に一国里見の領分となれり具に軍艦に見へたり。
二年癸未五月十四日午の尅太上法皇時に持明院殿に崩御の由し尊号申すなり東鑑。
元仁元年甲申六月十三日前陸奥守義時卒す六十二才。
嘉禄元乙酉七月十三日、二位尼公甍す合運図家譜に云く平政子逝去法名如実年六十九、東鑑には嘉禄元より安貞まで三年の間漏脱せしむ云云。
安貞元丁亥。
寛嘉元己丑。
貞永元壬辰正月十五日栂尾明慧入寂す、家譜に云く五月泰時成敗式目五十箇条を定む云云。
四条院、東鑑廿八に云く七月廿九日御即位、叙位、今月二日に御即位、五日行幸、官庁云云。
天福元癸巳、本尊問答抄に云く生年十二にして同き郷の内、清澄寺と申す山に登り住しき巳上、録外宗要抄に云く五月十二日云云、惣して録外の御書は録内と同せば之れを引用す可し相違の義あらば之を信ず可からず、殊に此の宗要抄は多く不審ある故に偽書歴然なれども月日分明の証文を見ざる故に且らく引証するなり。
文暦元甲午八月六日後堀河帝崩ず三十三才。
嘉禎元乙未。
三年丁酉御出家の事、諸伝何れも本門宗要抄によりて十八才と云へり、今問ふ南条兵衛七郎殿御書に云く法然善導等の書き置いて候程の法門は日蓮は十七八の時より知って候き文、妙法尼抄には十二、十六の年より三十に至るまで文、此等の違目は何を正とすべきぞや若し諸伝の如く録外を正とせば録内を棄置する失あり、其のうえ録外は自他門とも之れを用ひず、亦復鎌倉に出でゝ浄土宗を学したまふ時は児童にて帰往したまふか、出家となりて往復したまふか、或人の云く縦ひ録外たりと雖も御真筆ならば誰か信ぜざらんやと云へり此れは救ふ言葉なり、録外に於て御直筆甚た多し然れども法門は相違なし、偽書には法門相違のみに非ず事相も又違す故に信ぜざるなり、波木井抄本門宗要抄等は文章卑野にして取り聚めものゝ様なり、其の上法門不審あり旁た信しがたき事也、若し録内と相応する処の録外は同く引用すべきなり。
御得名の事、産湯記に云はく予が童名は善日、仮名は是生実名は蓮長と申し奉り後に日蓮と名乗りたまふ已上、三伝ともに少名は薬王文今何ぞ諸伝に違するや、然るに今は御母儀妙蓮の直説を記す是れ則高祖所覧の本なり、薬王と申す御名は妙蓮の説に非ず亦未た出処を見ざる故に依用せざるなり。
御祈請の事、清澄寺大衆中御書に云はく生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給はりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事不便とや覚し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ふて左の袖に請取り候し故に一切経を見候しかば八宗併に一切経の勝劣を粗之れを知る已上、録外善無畏三蔵抄にも出したまふ大同小異あり、諸伝は録外を綺ひたる者か。
暦仁元戊戌諸宗兼学。
妙法尼抄十三卅一に云はく此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るゝ身と成らんと思うて候し程に、皆人の願はせ給ふ事なれば阿弥陀仏を憑み奉り幼少より名号を唱へ候し程に、いさゝかの事ありて此事を疑ひし故に一の願を発す、日本国に渡れる処の仏経併に菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや、又倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、花厳宗、真言宗、法花天台宗と申す宗共あまた有りときく上に禅宗浄土宗と申すも候なり、此等の宗々の枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故文。
本尊問答抄に云く然るに此の処は遠国なる上、寺とは名けて候へども修学の人無し、然して随分諸国を修行して学問し候し程に我身は不肖なり人は教へず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたき処に適ま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘へて十宗に合せたるに、倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経に相当るに似たり、成実宗は大小兼雑して謬誤あり、律宗は本は小乗、中比は権大乗今は一向に大乗宗と思へり、又伝教大師の律宗あり、別に習ふ事あり、法相宗は源権大乗経の中の浅近の法門にて有りけるが次第に増長して権実と並び結句は彼の宗々を打破んと存せり、譬へば日本国の将軍将門純友等が下に居て上を破るが如し、三論宗も又権大乗の空の一分なり是も我れ実大乗と思へり、花厳宗と、又権大乗と云ひながらも余宗に勝れたり、譬へば摂政関白の如し然れども法華経の敵となつて立つる宗なる故に臣下の身を以て大王に順せじとするが如し、浄土宗と申すは権大乗の一分なれども善導等法然がたばかり、かしこくして諸経を上げ観経を下し正像の機をば上げ末法の機をば下す、末法の機に相叶ひたる念仏を取り出で機を以て経を下し権経を以て実経を打ち一代の聖教を失ひて念仏の一門を立てたり、譬へば心かしこくて身はいやしき者が身を上げ心はかなき者を敬ひて賢人を失ふが如し、禅宗と申すは一代聖教の外に真実の法有りと云云、譬へば親を殺して子を用ひ主を殺して所従而も其の位に付るが如し、真言宗と申すは一向大妄語にて候が深く其の根源を隠して候へば浅機の人顕し難し一向誑惑せられて数年を経て候、先天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云はゞ其の証拠を尋ぬ可きなり、所詮大日経爰に有りと云つて法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経に七重の下劣の経なり、証拠は彼の経此の経に分明なり文。
延応元己亥二月廿二日後鳥羽帝隠岐国に於て崩ず六十才。
仁治元庚子。
同二辛丑天下大に飢ゆ。
同三壬寅三月六日御即位、順徳院佐州に於て崩ず四十八才。
後嵯峨院諱邦仁、平の泰時卒す六十五才。
寛元元癸卯美濃公天目生る生国知らず門徒衆の説に順して且く之を書く追て考ふ可きなり甲州田野郷生。
二甲辰将軍頼嗣頼経次男。
三乙巳日朗下総平賀に誕生す。
四丙午日興甲州大井に誕生す三月八日、時頼執権。
後深草院諱久仁。
宝治元丁未六月五日、三浦若狭の前司泰村、能登の前司光村、毛利入道西阿以下宗たるの輩二百七十六人都合五百余人大将の法華堂に於て自害し滅す。
二戊申。
建長元己酉。
二年庚戌。
三年辛亥。十二月廿六日、近江太夫判官氏信武蔵左衛門尉景頼、了行法師、矢作左衛門尉、長の次郎左衛門尉久連等を生け虜る東鑑四十二。
四年壬子征夷大将軍一品中務卿宗尊親王、後嵯峨院第一の皇子御母は准后朝臣棟子蔵人勘解由次官棟基女東鑑。
三月廿日頼嗣将軍上洛す保暦間記。
日興仮名は甲斐、駿州岩本実相寺に登りて出家す、師匠は三井寺の僧播磨律師なり。
五癸丑宗旨建立四月廿八日朝日に向ひ合掌して始めて題目十遍計り唱へたまふ、之れに就て違文有り。
清澄寺大衆中御書卅三十九此の悪真言鎌倉に来りて又日本国を亡さんとする其の上禅宗浄土宗なんど申すは又云ふ計り無く僻見の者也、此を申さば必ず日蓮命を断せらる可しと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんが為に、建長五年三月廿八日、安房国東条の郡、清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして浄円房と申す者併に少々大衆に是れを申し始めて、其の後廿余年の間退転無く申せば或は処々を追出せられ或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等、今は見る日蓮が刀剱に当る事を文、御祈請の始め感応ありて智恵の宝殊を得たまふ故、諸宗の勝劣諸師の誤等悉く知見したまふ。
王舎城抄に云はく一切の事は父母に背き国王に随はざる不幸の者にして天の責を蒙る、但法花経の敵に成ぬれば父母国王の事をも用ざるか孝養とも成り国の恩を報するにて候、されば日蓮は此の経文を見候しかば父母手をすりて制せしかども師にて候し人勘当せしかども、鎌倉殿の御勘気を度々蒙りて既に頸となりしかども、終に恐れずして候へば今は日本国の人々も道理かと申すへんも有るやらん、日本国に国主父母師匠の申す事を用ひずして終に天の助を蒙る人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん文。
三沢抄十九二十四に云く此の法門を解してあれば文此の等文は皆得解の類文なり。
本門宗要下に云く建長五癸丑三月廿二日の夜より一七日の間、室内に入り七日を満て同く廿八日早朝、朝日に向ひ掌を合せ十返計り初めて南無妙法蓮華経の七字を唱へしより、已来念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所以、戒律は虚妄の国賊、真言は亡国の悪法、天台は過時の古き暦と此の五箇条の法門を当地頭東条左衛門景信に向つて之れを謂ふ文。
録外たりと雖も古人多く之を用る故に之を引き入定の相を証す、但此書は偽書なり証拠は此の文を見たまふべし、又或抄に一部通惣の妙法の首題を以て所行として神力品の塔中付属の要法妙法五字の首題を三七日道場に入って豁然大悟したまふと云云、此の二文は録内に於て類文なし又御自筆の中に六根浄に叶ひたまへる様躰あり之れに就て例もあり。
生身の愛染明王拝見、正月朔日日蝕の時日形生身の不動明王拝見、十五日より十七日に至る、大日如来より日蓮に至る廿三代嫡々相承、建長六月廿五日、日蓮新仏に授く已上。
此の血脈一紙日興に付属す日興又日目に付す今房州妙本寺にあるなり此の御筆跡を見るに霊山一会現前未散の躰を拝したまふ事も疑ひ無し、其の上未崩を知りたまふこと皆符合す亦例証あり、栂尾明恵二十町余の音楽を聞きたまふ例もあり此れ等は六根浄を得たまふとも申す可きなり、其の外深き所以有り習ふ可し。
六年甲寅二月廿四日戌尅二星合す、七月一日甚雨暴風人屋顛倒し稼穀損亡す。
七年乙卯東鑑漏脱せしむ、日向房州に生る。
康元元丙辰十月五日に改元す、六月十四日巳の尅光物見ゆ長さ五尺余、其の躰初は白鷺に似たり後は赤火の如し、其の跡白布を引くが如し、白昼光物尤も奇特と謂ふ可し、本文所見有りと雖も本朝に於て其の例無し、又近国に同く見ゆ云云、又云く光り物男山に見ゆるの由別当申す、之れに依て仙洞より御尋ね有るの処、司天等同見せざるの由を申すに依り同く石清水より其の図を注進せしむ云云、東鑑、八幡宮震動す編年合運。
十一月寅の尅、最明寺に於て相州落飾せしめ給ふ年三十法名覚了房道崇云云、廿二日執権を武州長時に譲らる、間記には政村長時等に申し付く云云。
妙法尼抄に云はく今日本国已に大謗法の国となりて他国に破らるべしと見へたり、此れを知りながら申さずは縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流罪死罪は一定なりと思ひ定めて、去る康元の比、故最明寺入道殿に申上げぬ、されども用る事なかりし已上、問註抄に云く日蓮一人計りこそ世間出世に正直の物にては候へ、其の故は最明寺入道殿に向つて禅宗は天魔の所以なるべし後に勘文を以て是を告げ知らしむ文。
正嘉元丁巳、日頂下総国中山に生る、門徒存知の事日興云はく印幡国富城庄の本主、今は常忍下総国五郎入道日常文。
三月十四日康元二年を改めて正嘉元年と為す。
八月廿三日乙巳晴る戌の尅大地震音有り神社仏閣一宇として全き無し、山岳頽崩し人屋顛倒し築地皆悉く破損し所々地裂けて水湧き出づ、中下馬橋の辺、地裂け破る其の中より火炎燃え出で色青し云云。
宿屋抄に云く抑去る正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震、日蓮諸経を引て之を勘へたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸天善神瞋恚を成して起す所の災なり文。
中興抄に云はく日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに咎は真言禅念仏律等の権小の人々をもて法華経をかろじめたてまつる故文。
十一月一日大地震去る八月廿三日の如し已上。
駿州岩本実相寺の経蔵に入りたまふ是第三度目なり。
爰に於て御説法あり聴聞して信仰の輩皆受法す、其の中に日興最初に弟子となる是れ駿河御弘通の初めなり。
二年戊午、駿河の国松野に日持生る、○下野国小山に於て和泉公日法生る、○房州奥津に日保生る。
四月十七日日吉神輿三基振り奉る是れ園城寺戒壇勅許有る故なり、○八月一日暴風烈く吹き甚雨渡るが如く昏黒に天顔快晴し諸国田園悉く以て損亡す云云東鑑、同二日洪水人民多く死す合運図。
正元元己未、賢秀公日源冨士熱原生す、○去年の秋より飢饉疫癘止まず。
文応元庚申二月一日園城寺の三摩耶戒壇官符を召し返さる。
亀山院去年十二月二十八日御即位、○伊豆国畠郷に於て郷公日目生る、○七月十六日沙門日蓮安国論一巻を作り以て時頼に献す家譜。
宿屋抄に云く抑も去る正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いて之れを勘へたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を成して起す所の災なり、若し此を対治無くば他国の為に此国を破らる可きの由し勘文一通之れを撰し、正元二年庚申七月十六日御辺に付け奉つて故最明寺の入道殿に之れを進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之れ有る由風聞す等云云。
本尊問答抄に云はく此くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ、結句は此の国他国に破られて亡国と成るべきなり、此の事日蓮独り勘へ知る故に仏法の為め王法の為め諸経の要文を集めて一巻の書を造る、仍つて故最明寺の入道殿に奉る立正安国論と名く文。
妙法尼抄に云く今日本国已に大謗法の国となりて他国に破らるべしと見へたり、此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後世には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流罪死罪は一定なりと思ひ定めて去る康元の比故最明寺殿に申し上けぬされども用る事なかりし文。
夜討、開目抄上三十一に云はく大事の難四度と文、是れ其の最初なり。
下山抄に云はく去る正嘉元年に書を一巻註したり是を最明寺入道殿に奉つる、御尋も無く御用も無りしかば国主の御用ひ無き法師なれば設ひあやまちたりとも失に非ずやと思ひけん、念仏者並に檀那等又さるべき人々も同意しけるとぞ聞へし夜中に日蓮が小菴に数千人押寄せて殺害せんとせしかども如何したりけん其の夜の害も脱れぬ、然れども心を合せたる事なれば寄せたる者は失無くして大事の政道を破れり已上。
妙法尼抄之れに同じ。
御弟子能登公並に檀那進士太郎疵を蒙る云云。
本拠未た見ず故に之れを出さず夜打月日未た分明ならず或る記に云く七月二十日比云云更詳。
文応二辛酉二月二十日弘長元年と為す。
御遷化記録に云はく弘長元年辛酉五月十二日伊豆国へ流がさる御年四十伊東八郎左衛門尉に預くる立正安国論一巻を造り最明寺入道殿に奉る、御正筆冨士西山に之れ有り裏の付き目に日昭、日朗、日興、日持の裏判之れ有り二人は他行と云云。
下山抄に云はく日蓮未た生きたるは不思議なりとて伊豆国へ流しぬ、されば人の余り悪くきには我滅す可きをも、顧みざるか御式目をも破られぬ已上。
妙法尼抄に云はく念仏者等此の由を聞いて上下の諸人を語らひ打殺さんとせし程に、叶はざりしかば長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆国に流し給ぬ、されば極楽寺殿長時と彼一門皆亡ふるを各御覧あるべし、其の後何程もなく召し返されぬ已上。
兵衛志殿御返事に云はく、されば極楽寺殿はいみしかりし人ぞかし、念仏者等に誑されて日蓮を怨ませ給しかば我が身と云ひ一門皆滅びさせ給ふ文。
聖人御難抄に云はく法華経の行者を軽賤する王臣万民、初は事なき様にて終に亡びざるは候はず文。
東鑑に云はく十一月三日寅一点、入道、従四位上行、陸奥守平朝臣重時卒す年六十四時に極楽寺の別業に住す、発病の始より万事を抛つて一心に念仏し正念に住して終を取る云云。
聖人を流罪し奉るに於て纔に百五十日に此の報あえ他宗皆往生極楽の証とす当宗は爾らず、既に謗罪の仁なり何ぞ重苦に沈まざらんや其の証いかん、謂く五十二巻八月十三日に又極楽寺奥州禅門没後追福の為に五部の大乗経を書写供養せらる、是れ左典厩の御夢想に依つて一日の内に頓写開題せらるゝなり云云、此の文を見るに没後苦有ること決定なり。
河名津着舟の事、録外に船守弥三郎許御書あり前後二通なり、其の中給仕供物等の事あり註画賛の如し。
立像の釈迦仏の事、大躰船守抄註画賛の如し、但し御祈念に就いて不審あり註画賛に云はく但馬公日地と師弟三人して御祈念と云云。
今謂く此の説審ならず其の故は御遷化記録には但馬公は十月番衆淡路公は三月番衆若輩衆にして此の節未た出家せず、纔に一二歳の小児なるべし、此の年日朗十七才にして未た出家せず故に比知して推量せよ、此両人は皆若輩衆なるが故に其の為め言下に知る可し。
承賢治部房日延生る駿河岩本実相寺僧なり。
同二年壬戌富城寂仙房日澄下総生す日頂の舎弟日向の弟子なり冨士に帰伏し学頭となるなり、寂日坊日華、甲州上野二十家に生る。
東鑑に云はく戌の刻、入道、正五位下行、相模守平朝臣時頼法名道崇年三十七、最明寺北亭に於て卒去す、御臨終の儀、衣袈裟を着け縄床に上り座禅せしめ給ふ聊か動揺の気無し頌に云く、
業鏡高く懸る三十七年、一槌打砕す大道担然たり、
弘長三年十一月廿二日、道崇珍重云云。
三年癸亥二月廿二日御赦免あり、○摩訶一院日印越後に生す。
八月十四日大風、東鑑に云はく朝より天陰り雨降り雷鳴数声、則南風烈く雨脚弥よ甚し、午の尅大風樹を抜く民屋大略全き所無し御所西侍顛倒棟梁桁等之を吹き抜ふ、亦由比浜着岸の船数十艘破損漂没す已上。
文永元甲子時宗執権、○八月北条長時死す歳三十五一覧、但東鑑に違す、合運に云はく大彗星出づ、○註画賛に云く七月五日大彗星出づ文東鑑に云はく十一月廿五日、月、房第五星を犯す相去ること四寸ばかり。
彗星月日分明ならず東鑑にも漏脱せるか画賛の七月五日の文は何等の文によるや知らざる故に之れを出ださず。
悲母の蘇活の事、祖師房州下向のこと何比ぞや未た分明ならざる故に之を出さず,亦妙蓮死去も画賛略伝ともに分明ならず御祈念ありし事日朗御自筆の状に之れ有り、聖人の御乳母のひとゝせ御所労御大事にならせ給ひ候てやがて死なせ給ひて候し時、此の経文をあそばし候て浄水をもちてまいらせさせ給ひて候ひしかば時をかへずいきかへらせ給ひて候経文なり、なんでうの七郎二郎時光は身はちいさきものなれども日蓮に御こゝろざしふかきものなり、たとい定業なりとも今度ばかりたすけさせ給と御せいぐわん候已上略抄、弘安五年二月廿五日日朗判文、御正筆大石寺にあり。
東条御難、聖人御難抄に云はく文永元年甲子十一月十一日には頭に疵を蒙り右の手を打ちをられ已上。
妙法尼抄に云く本は房州の者にて候しが地頭東条左衛門景信と申せし者、極楽寺殿、藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度々の問註ありき、結局合戦起りて候上、極楽寺殿の御方人、理をまげられしかば東条の郡をせかれて入る事なし父母の墓を見ずして数年なり已上。
南条兵衛七郎抄に云はく念仏実に往生すべき証文あらば此の十年が間、念仏者無間地獄と申すをば何なる所にても出てて、つめずして候べきか能々弱き事也、○結句は法門には叶はずして闘にし候なり、念仏者は数千人の方人多く日蓮は唯独り方人は一人も之れ無し、今までも生きて候は不思議なり、今年も十一月十一日に安房国東条の松原と申す大道にして申酉の時計りに数百人の念仏者に待ち懸けられて日蓮は但人十人計りにて物の用に値ふ者は僅に三四人なり、射る箭は降る雨の如く打つ太刀は電の如し、弟子一人は当座に打ち殺され二人は大事の手にて候、自身は切られ打たれ結句は命に及びたりしが如何が候けん打ち漏されて今まで生きて侍り、弥法花経の信心こそまさりて候へ、第四巻に云はく而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後、第五云一切世間多怨難信等已上。
録外波木井抄に云く文永元年甲子十月三日、安房国に下る三十余日なり、同く十一月十一日安房国東条小松原と申す大道にして数百人の念仏者の中に取り籠めらる伝に云神僧一人天津の宿を触れて云く日蓮只今帰りたまふ道に於て必す難に逢ひたまふ早速御迎に出つ可し之れ依て工藤の一類五十余馳せ来て急難を救ふ云云、日蓮は唯一人物の用に合ふ可き者纔に三四人等云云。
弟子一人とは鏡忍坊日暁なり二人は大事の手とは左近亟と左藤次となり、乗観房、長英房、大疵を蒙るとは此の説又非なり、其の故は乗観房は日弁、長英房は日比なり、皆若輩衆なり此節四五才の小児なり争か御伴を勤めらるや年序之れを思へ、然るに彼門徒の衆の云く日弁は仁治二辛丑誕生なり入滅は応長元年辛亥潤六月二十六日酉の尅御遷化と云云、此義に順せば日照日朗日興より年老なり争か其の義有らんや、況や日弁元徳二庚午歳まで大石寺に住せり、其の上日興弟子分の名帳に載せたまへり何ぞ妄説を作さんや、恐くは天目生滅を以て日弁に付けたるか、松野甲斐公日持と日弁の事は日興自筆重須に在り往て見る可きなり、日比の事も皆若輩衆なり妄説と知る可きなり。
此年誕生寺建立の由書ける抄あり此の説は偽妄なり慥かなる証拠なき故に慥なる宿所なき故に、山中にて疵を療治したまふ此等は寺なき証拠なり亦説法のあるは弘通の初めなり。二年乙丑、日尊奥州玉野に生る、○正月十五日午尅地震二月九日大地震、○十二月、十四日今暁彗星東方に見ゆ。
三年丙酉、二月一日雨降る晩泥雨に交つて降る希代の恠異なり粗旧記を考ふるに埀仁天皇十五年丙午星、雨の如く降る、聖武天皇の御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下る、同く十四年壬午十一月陸奥に丹き雪降る、光仁天皇の御宇、宝亀七年丙辰九月廿日に石瓦雨の如く天より降る、同く八年雨降らずして井水断ゆ云云、此の等の変異上古の事と雖も時の災なり、而して泥雨始めて降る此時に於て言語道断説く可からず東鑑合運に云く蒙古高使来る大船三艘文、家譜に云く是の年蒙古国王書を日本に致す文、七月廿四日惟康将軍に任す家譜、合運には二年とあり間記今同し。
四年丁卯。
五年戊辰、後の正月十八日蒙古牒状来る畧伝。
種々御振舞御書に云はく、去る文永五年後の正月十八日西戎大蒙古国より日本国を襲ふ可きの由し牒状を渡す、日蓮の去る文応元年太歳庚申立正安国論に勘るが如く今に少も違はず符合す文。
中興抄に云く、去る正嘉年中大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかどもなにのゆへ、いかなる事の出来すべしとも申す事を知らざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに、咎は真言、禅、念仏、律等の権小の人々をもて法花経をかろしめたてまつる故に、梵天帝釈の御とがめにて西なる国に仰せ付けて日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ給ひ畢ぬ、此の事を諸道の者おこづきわらひし程に、九箇年すぎて去る文永五年に大蒙古国より日本国をおそうべきよし牒状渡りぬ已上。
某状に云く上天の命を眷くる大蒙古国の皇帝、書を日本国王に奉る、朕惟みれは古より小国の君として境土相接つて尚務て信を講し睦を脩む、況や我祖宗、天の明命を受け邇夏を奄有し遐方異域威を畏れ徳に懐つく者悉く数ふ可からず、朕即位の初め高麗無辜の民を以て久く鋒鏑に瘁る、即兵を罷め其彊域を還し、其の旄倪を反へさしむ、高麗の君臣咸く載せて来朝す、義君臣と雖も歓び父子の若し、王の君臣を計るに亦已に之を知る、高麗は朕が東藩なり日本密に高麗に邇し、開闢より已来亦将に中国に通せんとす朕が躬に至つて一葉の便り無し以て和好を通せず、尚恐くば王国之を知る未審し、故に将に使を遣して書を持て朕が志を布告す、冀くば今より以往間を通し好を結び以て相親睦せん、且聖人は四海を以て家と為す相通好せざるは豈一家の理ならんや、以て兵を用るに至ては夫れ孰か好む所王其れ之を図れ不宣、至元三年八月日已上全文。
此の状到来に付て返状有る可きや否や牒使を誅す可きや否や、諸道の勘文を召す、公家の僉議数箇度異議多しと雖返牒無くして牒使を返すと、此の使夜々筑紫の地を見廻り船の津、軍場悉く差図し景気を相し案内を注して皈りける、其の後文永十一年十月五日卯の時対馬国府の八幡宮、仮殿の中より火炎もえ出づ、国府の者ども焼亡かと見る程にまぼろしなり、こは如何にと云ふ程に同日申の刻に対馬の西さすの浦に異国船四百五十艘三万人計り乗りて寄せたり云云。
十一通の状、八月廿一日安国論を献す是第二度目也。
種々振舞抄に云く此の書は白楽天が楽府にも唱へ仏の未来記にも劣らず、末代の不思議何事か是に過ぎん、賢王の御代ならば日本第一の権状にも行はれ現身に大師号もあるべし、定めて御尋有りて軍の僉議をも云ひ合せ調伏なんども仰付られんと思しに其義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状を書きて方々へ驚し申す文。
宿屋抄に云く其の後書絶て申さず不審無極に候、抑去る正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘へたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を成して起す所の災なり、若し此れを対治無くんば他国の為に此国を破らる可きの由し勘文一通之を撰して、正元二年庚申七月十六日に御辺に付け奉り故最明寺の入道殿に之れを進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之れ有る由し風聞す等云云、経文の如んば彼の国より此国を責めん事必定なり、而るに日本国の中の日蓮一人当に彼の西戎を調伏す可き人に当り兼て之を知って論文に之を勘ふ君の為国の為め神の為め仏の為め内奏を経らる可きか、委細の旨見参を遂けて申す可し恐々謹言。
文永五年八月廿一日   日蓮在御判
宿屋左衛門入道殿 法名最信
十一通の状事。
註画賛に出でたれども分明の証拠を見ざる故に之を出さず、平の左衛門尉に状を遣はさるゝ程にては泰盛にも遣はさるべし是れ一の不審なり、弥源太と云ふ者の東鑑に見当たらず是二、光明寺は記主上人の建立と云云此の人弘安十年に入寂なり同時の人なり実名は良忠と云ふなり、法然の孫弟子小石川の良忠と同名異躰なり、此の良忠は三井寺の僧なり北条経時の建立と云ふ説あれども東鑑には全く見へざるなり。
録外波木井抄に云はく文永五年戊辰後の正月蒙古国より日本国を襲ふ可きの由し牒状之れを渡す、同く十月訴状を書いて此状予未た見ざる故に書かざる也重ねて最明寺殿の見参に入れ奉りければ御祈祷申す可き由ありき此の文章最明寺を宝光寺と号す可き也日蓮云はく建長寺極楽寺等の念仏者、禅宗等の堂塔を焼き払ひて彼れ等が頚を由井ケ浜にて悉く切り失はる可く候、然らずは只今此の日本国の人々他国より責められ同士打して自界叛逆難有り可し、鎌倉中の持斎僧を御供養候事、但牛を飼ひ給ひたるにてこそ候へと申したりしかば、日蓮房は最明寺殿を牛飼と申し候と讒言す文偽書歴然なれども事を知しむる為に之を引く。
種々振舞抄に云く国に賢人なんども有るならば不思議なる事かな是偏に但事に非ず、天照太神八幡宮の此の僧に付けて日本国を助く可き事を御計ひの有るかなんどゝこそ思はる可きに、さはなくして取りも入れず、或は返事無く、或は使を悪口し、或はあざむき、或は返事をなせども上へも申さず、是れ偏に只事に非ず設ひ日蓮が身の事なりとも国主となりて政をなさん人々は疾く申したらんには政道の法ぞかし、況や此の事は上の御大事出来するのみならず各々の身に当り大なる歎き出来すべきぞかし、而るを用る事こそ無くも悪口まではあまりなり、是れ偏に日本国上下万民、一人もなく法花経の強敵と成って年久く成りたれば大禍の積れば大鬼神の各の身に入る上、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるう者なり、文。
一蝦夷島の事或は浮周とも俘囚とも羯とも。
三三蔵祈雨抄に云く然れば文永五年の比、東には浮周に起り西には蒙古より責め使付きぬ、日蓮案して云はく仏法を信ぜざる故なり文。
佐渡御勘気抄に云はく、エゾは生死不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造る善人なり、いかにとして頚をばエゾにとられぬるぞ、是れをもて思ふに此の御房達に御祈りあらば世々に入道殿事にあひぬと覚へ候文。
保暦間記に云く先祖安藤五郎と云ふは東夷の堅めに義時が代官として津軽に置きたり文。安国論奥書に云く是れ偏に日蓮が力に非ず法花経の真文の至す所の感応か、連々合戦絶へず既に海外二夷之れ起る此の書宛も符契の如し人以て耳目を驚す文。
エゾ合戦の事
分明の証拠未た見当らざる故に之を書かず、或記東西同時他国侵逼未た其の例を聞かず云云本拠を出たさず、史記、間記、家譜等にも其相を出ださず推量するに寛文十一年辛亥春東夷起つて両年合戦あり此の如くなるべきか。
顕立正安意抄に云く設ひ日蓮冨楼那の弁を得て日連の通を現すとも勘る所当らずんば誰か之れを信ぜん、去る文永五年に蒙古国の牒状我朝に渡来する所、賢人有らば之れを恠む可し、設ひ某を信せずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙るの時、吐く所の強言次の年二月十一日に符合せしむ情有らん者は之れを信ず可し、何況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪ひ取る、設ひ木石たりと雖も設ひ禽獣たりと雖も感ず可し驚く可し、偏に只事に非ず天魔国に入りて酔へるが如く狂ふが如く歎く可く哀む可し恐る可し厭ふ可し文。
此の時節日興等如影随形したまふ。されば血脈抄に云はく又弘長配流の日、文永流罪の時も、其外諸所の大難の折節も先陣をかけ日蓮に如影随形せしなり誰か之れを疑はんや云云、此の時日興廿三伊東以来昼夜奉侍したまふ。
五月八日、両日雙び出づ。
六月十八日、大旱魃の時、極楽寺の良観房、雨の祈を申し請けて今日より祈りたまふ。
頼基陳情に云はく此の事の起りは良観房常に高座にして歎いて云はく日本国の僧を皆持斎になして在家の人々には八斎戒を持たせ国中の酒を留めんと思ふに、日蓮が謗法にせかれて叶ひ難き由し歎かせ給ふ由を、日蓮聖人聞かせ給ひて如何してか彼の誑惑の大慢を倒し無間地獄の大苦を救はんと仰せ有りしかば、頼基等は法花経の御方人大慈悲の仰にて候へども、彼の御房さる人にておはしますを輙く仰ある事、世の気色も如何と弟子達一同歎き申し候し程に、去る文永八年六月十八日下山抄には廿四日まで云云大旱魃の時彼の御房雨の祈を申し請けて万民を扶けんと申す由を、日蓮聖人聞し食して此躰は小事なれども此の次でに日蓮が法門の邪正を万人に知せばやと思し食して、仰せられて云く良観房の雨の祈を承れり若し七日が中に雨を降らす程ならば念仏無間と云ふ法門僻事なるべし、速に此の義を捨て良観房の弟子と成つて二百五十戒を持つ可し、雨降らざる程ならば彼の御房の法門戒を持けるが大誑惑は顕然なる可し、上代も祈雨に付いて勝負を顕はす例之れ多し所謂護命と最澄と守敏と弘法となり、仍て良観房の許へ周防房と入沢の入道と申す念仏者を遣はす御房と入道とは良観が弟子、又念仏者なり、今に日蓮が法門を用る事なし是れを以て勝負とせん、七日の中に雨下るならば本の八斎戒念仏を以て往生す可しと思ふべし、雨降らすば一向法花経に成る可しと云はれ候しかば、此れ等を悦んて極楽寺の良観房に此の由を申し候けり、良観房悦をなして七日が中に雨降らすべき由し申して弟子百二十余人身より煙を出して声を天にひゞかす、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は八斎戒種々に祈るに四五日まで雨気無ければ神ひを消し、多宝寺の弟子等を数百人呼び集めて力を尽したるに七日が中に終に露計りだに下らず、下山抄には二七日まで一雨も下らず風も止むこと無し其の時日蓮聖人使を遣はす事三度に及ぶ、慥に申含めよ泉式部と云ひし婬女、能因法師と申せし破戒の僧、狂言綺語の三十一文字をもつて忽に雨をふらす、良観房は持戒持律の上、法花真言の義理を極め尽し給ひて候上、慈悲第一と聞へさせ給ふ上人の一人二人ならず数百人して七日が間に何に雨降らさせ給はぬやらん、是れを以て思ふに一丈の堀を越へざる者が二丈三丈の堀を越ゆる由を申さんをば人信じ候べきか、安き雨をだにふらし給はず況や一期の大事たる往生成仏をや、されば今より日蓮を毀らせ給ふ邪見をば之を以て翻へし給へ、後生も恐しく思ひ給はゞ来り給へ、雨を降らす法と仏になる道とを教へ奉らん、七日の中に雨こそふらせ給はざらめ日弥照りまさり八風吹き重りて民の歎き倍す深し、速に御祈りやみ給へと第七日の申の時の使有のまゝに申しければ良観房は汗と涙とを流す、弟子檀那同く音もおしまず口惜がる由し普く聞へ候き、御勘気の時、此の如き事御尋候しかば有まゝに申され候き、然らば良観房、身の上の恥を思はゞ跡をくらまして山林にも隠れ又約束のまゝに日蓮が弟子とも成りたらば道心ある者にてあるべきに、さは無くして無尽の讒言をまうけ権門に事を寄せ、武蔵の前司入道殿を申しかすめ奉つて田舎にて殺さんとせしは是れ貴僧かと日蓮聖人語らせ給ひ候き、又頼基も見聞仕つて候しなり文。画賛に性公猶一七日祈らんと請ふ等とは此の義御書の中に見へず其の上許諾のしてなし妄説一定なり、又早く予に帰すべし使ひ三度に至て師徒寒心しきとは此の説も偽なり全く諸書になき事なり。
下山抄に云はく、起世経に云はく、諸の衆生有りて放逸の為に清浄の行を斥ふ故に天雨ふらさず云云、又云く法の如くならざる有り慳貧、嫉妬、邪見、顛倒の故に天則ち雨をふらさず云云、又経律異相に云く、五事雨無し一二三之を略す、四に雨師婬乱、五には国理治せず雨師瞋る故雨ふらず云云、此れ等の経文の亀鏡を以て両火房が身に指し当て見よ少しも曇り無し、一には名は持戒と聞ゆれども実には放逸なるか、二には慳貧なるか、三には嫉妬なるか、四には邪見なるか、五には●乱なるか、此の五には過く可らず、又此経は両火房一人には限る可らず昔をも鑑み今をも知れと文。
妙法尼抄十三四十九に云く、是は一向に法華経の敵、王一人のみならず一国の智人並に万民等の心より起れる大悪心也、譬へば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に身変して赤く、身の毛さかさまに立ち五躰ふるひ面に炎あり、かほは朱を指したるが如し、眼まろくほりて猫の眼のねずみを見るが如し、手はわなゝきて柏の葉を風の吹くに似たりかたはらの人是を見れば、大鬼神に異ならず、日本国の国主諸僧比丘比丘尼等も亦是の如し、憑む所の弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云ふを聞き、真言は亡国の法と云ふを聞き、持斎は天魔の所為と云ふを聞いて、念珠をくりながら、はをくひちがへ鈴をふるにくびをどりおり、戒を持つに悪心を懐く、極楽寺の生仏と云ふ良観聖人折紙をさゝげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は興に乗つて奉行にひざまづく、諸の五百戒の尼御前等ははくをつかい伝奏をなす、是れ偏へに法花経を読みて読まず聞いて聞かず、善導法然が千中無一と弘法、慈覚、達磨等の皆是戯論教外別伝のあまき古酒に酔はせ給ひて酒狂ひにておはするなり文。
六年己巳二月十一日、三の月並び出つ合運、蒙古の使者、高麗の船に乗りて対馬の国に到り日本の塔二郎、弥二郎と云ふ者を捕へて蒙古へ帰り日本の事を尋ね問ふて禄物をあたへて帰らしむ一覧。
八月十日日像下総国平賀村に生る小字京一丸。
七年庚申。
八年辛未、家譜に云はく、日本使を遣はし蒙古国に報ず已上、一覧に云はく、蒙古の使者趙良弼、筑前の今津に着いて牒状を呈す、公家武家返事なし、趙良弼は筑前より空く帰る已上。
行敏の状の事。
未た見参に入らずと雖も事の次を以て申し承る常の習ひに候か、抑も風聞の如んば所立の義最以て不審し法華の前教一切の諸経皆是れ妄語にして出離の法に非ず是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむる法なり是二、念仏は無間地獄の業と為る是三、禅宗は天魔の説、若し行者の失に依て誤て悪見を長ず是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり仍て対面を遂け悪見を破らんと欲す、将又其義無くんば争か悪名を痛まられざらんや、是非に付いて委く示し給はる可きなり恐々謹言。
七月一日 僧行敏在判。
日蓮阿闍梨御房
条々御不審の事、私の問答事行き難きか、上奏を経られ仰せ下ださるゝ趣に随ひ是非を明めしむ可きか、此くの如く仰を蒙るの条最も庶幾ふ所に候恐々謹言。七月十二日、日蓮在判。
行敏御返事
行敏奏状の案。
僧行敏謹んて言上す。
早く日蓮を召し決し邪見を摧破し正義を興隆せられんと欲する事。
副へ進す。
一通、行敏書状の案
一通、日蓮の返状
右八万四千の教々而も出離の教にあらずと云ふことなし、大小顕密の法々而も解脱の法にあらずと云ふことなし、譬へは葛氏一百の方は病に依て以て薬を施し匠石長短の材は物に随て以て器を成するがごとし、一を是し諸を非す理豈に然る可けんや、而るに日蓮偏に法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す、所謂る法華の前説の諸経皆妄語にして更に衆生出離の法に非ず、念仏是れ無間地獄の業、禅宗即天魔波旬の説、大小の戒律は世間誑惑の法なりと云云、然る間無智の道俗頑愚の男女仰いで信受し伏して頂戴す、或は年来の本尊弥陀観音等の像を火に入れ水に流し、或は多日薫修の念仏持戒等の法、唇を反へし毀謗す、逆悪の余り法華守護と号して兵杖を家内に貯へ凶徒を室中に集む、此れ等の所行去る弘長流罪の日已に露顕せしむるの上、当時殊に興盛なり、幸に哀憐を蒙て免許せられば須らく前非を悔ゆべきの処に邪見の憶ひ弥よ高く悪行の計こと倍す盛なり、近日旱魃の事に依て諸寺に於て雨を祈らるの時、日蓮弟子を良観上人の所へ遣して両三度則ち申して曰く今御祈祷の人と称する天台、真言、禅、律僧等、雨の祈祷は甚た神慮に叶ふ可からず、率土の旱魃、東西の夷戎、興起して他に非ず併ら禅戒念仏等の繁昌に拠る、然らば建長寺、極楽寺、多宝寺、大仏殿、長楽寺、浄光明寺以下の諸伽藍を焼き払ひ、及び禅僧念仏僧等の諸僧の頚を斬て由井が浜に掛るの後に、旬に雨一天に潤ひ徳風四海に静ならんと云云、彼の弟子等同く処々温室堂社見物等の所に於いて悪言を吐く事、称計す可からず、此れ等の伽藍は忝くも関東鎮護の霊場仰崇他に異なり、霞軒甍を顕し月輪面を並ぶ彼等の僧侶は又当世英傑の竜象、帰依誠有り戒香身に薫し道風人を化す、而るに寺を灰焼地と成し僧を斬刑罪に宛てられんと擬するの条、下愚愁憤を懐く、上聞争てか痛思せざらん、摩訶提婆の真言を五縁に乱るや未た必す寺宇を焼かず、守屋逆臣の仏法を一時に滅すや未た必も僧頭を斬らず、日蓮が造悪の如に至ては上古に更に比類無し末代争か等輩有らん、啻に一身の悪見のみに非ず普く百人の謬誤を致す、茲に因つて行敏悲哀に堪へず今月八日状を遣はし問ふて云く四箇条事書状に見る事若し実ならば仏法の怨敵なり之を対破せんと欲す、日蓮報して云く私の問答事行き難きか上奏を経られ是非を明む可し云云、然らば則ち且は仏法興隆の為め且は衆生利益の為め日蓮を召出され悪義を停止せば白法森羅として鎮へに公家武家の安全を祈り蒼生聯綿として普く今世後世の仁恩を戴かんのみ、懃歎の余り言上件の如し、文永八年太歳辛未。
祖師御会通卅七巻に出でたり。
良観房の書状。
其後良久く見参に入らず候、罷出候便宜の時を以て参上仕り、何事も申し承る可く候、兼て又此の参られ候僧申さるゝ旨候便宜を以て入道殿の御辺に伺ひ申さしめ給はる可くやらん心事参上の時を期し候、恐々謹言。
七月廿二日  忍性在判、良観の事なり
治部入道殿 信濃判官入道殿
妙法尼抄に云く、極楽寺の生き仏と云ふ良観聖人折紙をさゝげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗って奉行人にひざまづく已上。
下山抄に云はく予此の事を見る故に彼の檀那等が大悪心を恐れず弥盛に責むる故に両火房内々諸方へ讒言を企て予が口を塞かんと励しなり又経に云く供養汝者堕三悪道等云云、在世の阿羅漢を供養せん人尚三悪道脱れ難し何況や滅後の誑惑の小律師法師等をや、小戒の大科をば之を以て知る可し文。
奉行人に大して仰せ含あらるゝの事。
種々振舞抄に云はく、さありし程に念仏物持斎真言師等、自身の智は及ばず訴状を以て上臈尼御前達に取り付き種々に構へ申し報恩最後には天下第一の大事日本国を失はんと呪咀する法師也下廿二、故最明寺入道殿、極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺、寿福寺、長楽寺、大仏寺、等を焼き払へと申し、道隆上人良観上人等の頚を刎ねんと申す、報恩御尋あるまでもなし但須臾に頚めせ弟子等をば又或は頚をきり或は遠国につかはし或は籠に入れよと御評定に云く何と無くとも日蓮が罪過免れ難し、但し上件の事一定申すかと召し出して尋らるべしと召出されぬ、又奉行人の云く上への仰せ是の如しと申せしかば上件の事一言も違はず申す、但し最明寺殿、極楽寺殿を地獄と申すは虚事なり此の法門は最明寺殿、極楽寺殿御存生の時より申せし事なり、所詮上件の事共は此の国を思ふて申す事なれば世を安穏に持たんとおぼさは彼の法師原を召し合せて聞し食せ、さも無くして彼れ等に替つて理不尽に失に行はるゝ程ならば国に後悔有る可し、日蓮御勘気を蒙らば仏の御使を用ひぬに成るべし、梵天帝釈、日月四天の御とがめ有りて遠流死罪の後、百日一年三年七年の内に自界叛逆難とて此御一門どし打ち始まるべし、其の後他国侵逼難とて四方より起り殊に西方より責られさせ給ふべし、爾の時後悔有る可しと平左衛門尉に申し付しかども太政入道の狂ひし様に少も憚ること無く物に狂ふ。
下山抄に云く、内々は頚を切らんと定めぬ、予は又兼て此の事を推せし故に弟子等に向つて云はく我が願既に満し悦び身に余れり、人身は受け難くして破れ易し、過去遠々劫より由無き事には身を失ひしかども法華経の為に命を捨る事は無し、我頚を切られて獅子尊者が絶えたる跡を継き天台伝教の功にも越へ付法蔵の二十五人に一を加へて二十六人と成り不軽菩薩の行にも超えて釈迦多宝十方諸仏に如何せんと歎かせ進らせんと思ふなり、故に言をも惜まず以前に有し事、後に有る可き事の様をも平の金吾に申し含めぬ文。
八月廿二日平左衛門尉頼綱を以て安国論を進奏す是第三度なり、平左衛門尉頼綱に遣はす状。
一昨日見参に罷り入り候の条悦び入りて候、抑人の世に在る誰か後世を思はざらん仏の出世は専ら衆生を救はんが為なり、爰に日蓮比丘と成りしより旁法門を開き已に諸仏の本意を覚り出離の大要を得たり、其の実は妙法蓮華経是なり、一条の崇重、三国の繁昌、義眼泉に流る、誰か疑網を貽さんや、而して専ら正路を背き偏に邪途を行す、然る間聖人は国を捨て鬼神は瞋を成し七難並び起りて四海閑かならず、方に今世は忝く関東に帰して人皆東風を貴ぶ中ん就く日蓮生を此土に得たり豈吾か国を思はざらんや、仍て立正安国論を造りて故最明寺の入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ、而るに近年の間多日の程、犬戎浪を乱し夷敵国を伺ふ先年勘へ申す処、近日に符合せしむる者なり、彼の太公が殷の国に入るや西伯の礼に依る、此の張良の秦朝を量るや漢王の誠を感す、是れ皆時に賞を得たり、謀を帷帳の中に廻して勝を千里の外に決する者なり、夫れ未崩を知る者は六正の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、而るに日蓮忝くも鷲嶺鶴林の文を開いて鵞王烏瑟の志を覚り剰へ将来を勘へたるに粗符合を得たり、先哲に及ばずと雖も定めて後人に希なる可き者なり、法を知り国を思ふ志尤之を賞せらる可き処に邪法邪教の輩、讒奏讒言の間久く大忠を懐いて未た微望を達せず、剰へ不快の見参に罷入る偏に難治の次第を愁る者なり、伏して惟れば泰山に昇らずんば天の高きことを知らず深谷に入らざれば地の厚きことを知らず、仍て御存知の為に立正安国論一巻を註して之を進覧す、勘へ載する所の文、九牛の一毛なり未た微志を尽ざるのみ、抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を廻して須らく異敵を退くべし世を安んじ国を安んするを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為め仏の為、神の為め一切衆生の為に言上せしむる所なり恐々謹言。
文永八年九月十二日いに八月廿二日云云日蓮在判
謹上平左衛門尉殿。
御振舞抄に云はく文永八年太才辛未九月十二日御勘気を蒙る、其の時の御勘気の様も常ならず法に過きて見ゆ、了行が謀叛を起し太夫律師が世を乱さんとせしを召取られしにも過ぎたり、平左衛門尉を大将として数百人の兵者にドウ丸着せてエボシがけして眼を瞋らし声をあらゝかにす、大躰事の心を案するに太政入道の臣乍ら世を取り国を破らんとせしにも似たり只事とも見えず。
報恩下に云く平左衛門尉並に数百人に向つて云く日蓮は日本国の柱なり日蓮を失ふ程ならば日本国の柱をたをすになりぬ等云云。
日蓮是れを見て思ふ様、日来月頃思ひ儲けたりつる事是なり、幸なる哉法華経のために身を捨てん事よ、臭き頚を刎られたらば砂に金を替へ石に玉をあきなへるが如し。
中興十八十九云はく世間に一分の科もなかりし身なれども、故最明寺入道殿極楽寺殿を地獄に堕ちたりと申す法師なれば謀叛人にもすぎたり。
さて平左衛門尉が一の郎従少輔房と申す者、走り寄つて日蓮が懐中せる法華経の第五巻を取出しておもてを三度さひなみ散々に打ちちらす。
南条卅三七云く、梵王帝釈是れを御覧ありき鎌倉の八幡大菩薩も見させ給き已上、下山五十二に云はく十巻倶に散々に引き散らして踏み乱せし大科は免れ難くこそ候はんずらん、日本国守護の天照太神正八幡等も争てかゝる国をば助け給ふべき、急々治罸を加えて自禍を免れんとこそはげみ給ふらめ、遅く科に行ふ間、日本国の諸神共四天大王に禁められて有らん知り難き事なり、伝教大師云く窃に以ふ菩薩の国宝は法華経に載す、大乗の利他は摩訶衍に説く、弥天の七難は大乗経に非ずば何を以て除んと為す、未然の大災は菩薩僧に非んば豈冥滅を得ん等云云。
又九巻の法花経を兵者打ち散して或は足にふみ或は身に躔ひ或は板敷畳等、家の二三間に散さぬ処もなし、日蓮大音声を放つて申す、あら面白や平左衛門の尉か物に狂ふを見よ殿原但今日本国の柱を倒すと喚びしかば上下万民惶れて見えしなり日蓮こそ御勘気を蒙れば臆して見ゆべかりしに、さは無くして是は僻事也とや思ひけん、兵者共の色こそ変じて見えし。
一谷抄に云はく、日蓮は愚なれども釈迦仏の御使、法華経の行者なりと名乗候を用ひさらんだにも不思議なるべし、其の失に国破れなん、況や或は国々を追ひ或は引きはり或は打擲し或は流罪し或は弟子を殺し或は所領を取られ現の父母の使をかくせん人々よかるべしや、日蓮は日本国の人々の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし是を背かん事よ、又云く釈迦仏法華経の御敵とならせ給ひて有りし事は久し文。
一、此文に国々を追ふとは、光日房抄に云はく日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故二十余度、所を追はれ已上。
一、引はりとは、諌暁八幡抄に云はく、日蓮一分の失無くして南無妙法蓮華経と唱ふる失に、国主の計ひとして八幡大菩薩の御前にして一国の謗法の者共に引き張らせてわらはせ給ひし是れ八幡大菩薩の大科にあらずや。
一、打擲とは、御振舞抄に云はく、日蓮が懐中せる法華経の第五巻を取出しておもてを三度さひなみ文、南条兵衛七郎抄に云はく自身は切られ打たれ結句は命に及ひたり文、御難抄には頭に疵を蒙り右の手を打ちをられ文。
一、弟子を殺すとは、南条抄に云く弟子一人は当座に打殺され二人は大事の手にて候文。聖人御難抄に云はく三位房が事は大不思議の事共候しかども、殿原の思ひには智恵ある者をそねませ給ふかと愚癡の人思なんと思うて物も申さで候しがはらぐろと成りて大難にも値ひて候ぞ文、上野抄に云はく貴辺は既に法花経の行者に似させ給へる事は猿の人に似、餅の月に似たるが如し、あつはらの者共の、かくをしませ給へる事は承兵の将門、天慶の純友の様に此の国の者共は思ふて候ぞ、是は偏に法華経に命を捨つる故なり全く主君に背く人とは天は御覧あらじ文。高橋抄に云く其故は駿河国はかうの殿の御領殊に冨士なんどは後家尼御前の内の人々多し、故最明寺殿、極楽寺殿御敵といきどをらせ給ふなれば聞付られては各御歎なるべしと思ひし心計り也、今に至るまでも不便に思ひ進せ候へば御返事も申さず候き、御房達のゆきとをりにも穴賢冨士賀島の辺に立よるべからずと申せども如何が候らんと覚束なし文、此中に死せる人々は熱原神四郎、田中四郎、広野弥太郎此三人は頚切られ所領取上けらるゝ也、残り廿一人は追出さるゝなり具には強忍状の往復の時証文どもを出す可きなり、怨敵大陣抄に云はく度々の御所領を返して今又所領給らせ給ふと云云、出家には下野公日秀と越後公日弁となり滝泉寺の事の時追出され給へり、又佐渡にて追出され過料を出す等の事あり分明の証文を見ざる故に之を出さず。
註画賛には伊和瀬の大輔悪口。
此事録内に於て未た見当らざるなり、身躰を曳き張り八幡抄を引く本間の弁、石を擲つ等既に経文に杖木瓦石而打擲之と説く豈其の義莫らんや、又日朗は師と同罪たるを望むと雖も之を許さずとは此の義不審なり。
頼基陳状に云はく某も文永八年九月十二日の御勘気の時は供奉の一分にてありしが同罪に行はれて頚を刎らるべきにてありしが、身命を惜む者にて候かと申されて候しかば竜象房は口を閉づ文、此の文の如んば三位公日真は勿論同罪疑ひ無く皆重科に行はる。
開目抄に云はく、今度はすでに我身命に及ぶ、其上弟子といひ檀那といひ、わつかの聴聞の俗人なんど来りて重科に行はる謀叛なんどの者のごとし文、此文に弟子檀那暫時聴聞衆重科に行はるとは、報恩抄の下に云く、御尋あるまでなし、但須臾に頚をめせ弟子等をば又或は頚をきり、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと尼御前達いからせ給ひしかば其まゝ行ひけり文、光日房抄に云はく九月十二日御勘気に十一月に謀叛の者出来す、返る年の二月十一日に本国のかためたるべき大将共由しなく打殺されぬ、天の責と云ふこと明也、此れにや驚きけん弟子共は免されぬ文。
此れ等の亀鏡を以て之を思ふ弟子は日朗一人にはあらず、其の外に有り合せたる弟子檀那皆難にあふ但六人に限ると思ふべからず、爾るを日朗日真俗四人土の籠に入ると書けるは偏執か、血脈抄に云はく又弘長配流の日、文永流罪の時も其の外諸所の大難の折節も先陣をかけ日蓮に如影随形せしなり誰か之れを疑はん已上、又権実二教の兵場にては先陣は毎度日興、後陣は日朗其の外の臆病者どもは大難の悪風に吹き散らされて彼此にたゞすみ大将日蓮をも見失ひけり日興日朗なくば某が大陣もあやうく見えけん已上、又竜の口依智并に佐渡道中在島の内、音信請取の日記今に之れ有り冨士重須に往て拝見すべし、聖人御難抄に云はく、名越の尼、少輔房、能登房、三位房、なんどの様に臆病物おぼへず、欲ふかく、つたなき者共はぬれる漆に水をかけ空をきるやうに候文、此時より退転の意も付くか。
種々振舞抄に云く、さて十二日の夜、武蔵守殿御預にて夜中半に及んで頚を切らんとす文。
撰時鈔下に云く、結句は小路をわたしなんどせしかば申したりしなり文。
録外神国王抄に云く、日中に鎌倉の小路を渡す事朝敵の如き文、八幡の前にて下馬の事未だ分明の証拠を見ず但し御化導記に御書を引く例の内外混乱私ましりの御書なるが故見ざるなり。
諌暁八幡抄十三に云はく、八幡大菩薩の御前にして一国の謗法の者共に引き張せてわらはせ給ひし是れ八幡大菩薩の大科にあらずや、其の誡めとをぼしきは只同士討ち計りなり文、上に之を引く。
又十一此の大菩薩は法華経の行者を守護す可きの由し起請を書き乍ら数年の間法花経の大怨敵を治罰し給はざる事不思議なる上、適法花経の行者出現せるを守護こそ無からめ、国主等の怨する事犬の猿を食し蛇の蝦をのみ鷹の雉を取るが如く猟師の鹿を射るが如くなるを八幡大菩薩の御前にして一度も誡めず、設ひ誡る様なれども偽り愚なり文。
一頼基へ御告の事。
御振舞抄に云く、鎌倉を出てしに中務三郎左衛門の尉と申す者の許へ熊王と申す童子を遣はしたりしかば急き出てぬ、今夜頚を切られにまかるなり、此の数年が間、願ひし事是なり、此娑婆世界にして雉となる時は鷹につかまれ鼠となり時は猫に●はれ、或は妻子の敵に身を失ひし事大地微塵よりも多し、法花経の御為には一度も失ふ事なし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず国恩を報すべき力なし、今度頚を法花経に奉りて其の功徳をば父母に廻向せん、其の余をば弟子檀那等にはぶくべしと申しゝ事是なりと申しゝかば、左衛門尉兄弟四人馬の口に取り付き腰越竜口に付きぬ、こゝにてぞあらんずらんと思ひし処に案の如く兵ども打まはりて有りしかば左衛門尉申す様只今なりと泣く、日蓮申す様不覚の殿原かな是れ程の悦をば笑へかし何に約束をば違へらるゝぞと申せし時主君耳入抄には子丑の時と云云開目抄下之れ同し、江の島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日の夜のあけ方に人の面も見えざりしが物の光り月夜の様にて人の面も皆見ゆ、兵共おぢ怖れて一町計り馳せのき或は馬より下りて畏れ或は馬の上にて、うずくまる者もあり、日蓮申す様何に殿原はかゝる大禍ある召人をば遠のくぞ近く打寄れや打寄れやと高々と喚はれども急ぎ寄る人もなしさて夜も明けしかばいかに頚切るべくは急いて切るべし夜明けなば見苦しかりなんと、すゝめしかども兎角返事もなし。
妙法尼抄に云く、九月十二日の丑の時に頚の座に引すえられて候き、いかゞして候けん月の如くおはせし物榎島より飛び出して使の頚へかかりしかば使恐れてきらず、とかうせし程に子細どもあまた有りて様々天変とも有り云云其夜の頚をばのがれぬ。
下山抄に云く、刀のさきに懸りなば法華経を一部読み進せたるにこそと思ひ切て不軽の如く等文。
録外本門宗要抄下に云く江の島の方より大なる光物日蓮が頚の座の上に出現し鷹隼の飛ふが如くにして後の山の大木に移るかと之を見れば忽に雲霧を出して即昏闇となる、太刀取り越智三郎左衛門、既に持ち開き日蓮が頚を打ちしに太刀忽ち折れ親り没落して手足動かず、其の時依智の三郎左衛門大に驚き去り退く、早速御所に使者を走らしむ、御所中にも種々の恠在りと雖も先つ虚空より大音声を放て喚つて曰く日蓮は日本国の仏法の棟梁なり我国の世法の枢●なり正法の行者を失はゞ汝が子孫を滅し国土を亡す可し。
諸伝此の説に拠るなり、然るに此の文言とも信じ難き事あり然りと雖も得意のために之を引く、其の故は太刀折れたりと云ふ事古も其の例あり東鑑等に見えたり、然れども録内に一処として其の義なし故に不審あり、況や文躰敷皮に座する否や光物出で各にげ去る太刀を取るに遑あらず、此の故に太刀の折れたるは信じ難きの一なり、次に虚空に声ありて子孫も国土も滅亡す可しと喚る之を聞て流刑せるは信じ難きの二なり、其の故二位殿夢中の示現尚以て之を信す、されば東鑑二十五に云く三月廿二日波多野次郎朝定、二品の使として伊勢太神宮に進発す、是れ今暁二品夢想有り面二丈計りの鏡由井の浦波に浮ふ、其中に声有りて云く吾は是太神宮なり天下を鑒るに世大に濫て兵を徴すべし、泰時吾太平に瑩かさん者なりと、仍て殊に信心を凝したもう、是は女人なればさもあるべしと云ふ義あり、東鑑五十二巻に文永二年八月十三日五部の大乗経書写供養せらる、是れ長時武蔵守夢想により此の如しと、具に重時終焉の下に之を引く、此等を以て見るに代々仏神信仰は他家に異なり夢中の示現此くの如し、況や現の声を聞いて流罪する事一家になき例なり、其の上太刀折たるに免許せる例もあり、三代将軍二位家の時の例に違せざる仕置なるが故なり、此等を以て之を思ふに宗要抄は偽書歴然たり信ずべからず、然るに日朝日澄録外を依用して録内を棄置すること然る可からざる事なり。
又云く此の光物とは月天子の所現なりと、或は八幡大菩薩の所変とも云ふなりとは録外四条金吾抄に云く三光天子の中に月天子は光物とあらはれて竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日以前に下りて日蓮に見参したまふ、いま日天子ばかり残り給ふて定めて守護あるべきかと文、蓋し此の文に依るか、略伝に云く八幡宮擁護、弁財天加保云云、是れ皆学者の意巧に依る今用ひざる所なり証文見ざる故、乙御前抄に云く抑法華経をよくよく信したらん男女をば肩ににない背におうべきよし経文に見えて候上、くまらえん三蔵と申せし人をば木像の釈迦負はせたまひて候しぞかし、日蓮が頚には大覚世尊かはらせ給ひぬ昔と今と一同也文。
又厳嶋大明神は女身と現して本尊を所望したまふ、聖人之を書き名を聞きたまはざる故授与書したまはず、女人来りたまふ時名を尋ねたまへば厳嶋女と答へたまふ故に大明神と覚知したまふ其外諸神守護具に記す能はず。
真言諸宗違目抄に云く日蓮流罪に当れば教主釈尊衣を以て之を覆ふか、去年九月十二日夜中に竜口を脱るゝこと必す心固きに仮つて神の守り即強し等是也文、二文義同し之を以て正と為るなり。
一、御所中●動の事、証文無しと雖も其の理当然なり況や殿中の事凡下の知ること能はざる所なり今を以て昔を知れ。
又妙法。抄に子細ども余多あり云云、星下抄に云く守殿の御だい所の御懐妊なればしばらくきられず終に一定ときく已上、是れは他宗どもの申す言葉なり此等も子細どもの内に入る可きなり、所詮物怪どもある法師なれば日蓮房刎ぬ可からざるの由し両方の使者七里浜又金洗沢とも云ふにて行き合ふ此の故に其夜はのびたり云云。
九月十三日聖人を依智に移し奉る。
御振舞抄に云はく。計り有りて云く相模の依智と云ふ所へ入らせ給へと申す、是は道知る事なし先打すべしと申せども打つ人なし、さてやすらふ程に或る兵士の云く其れこそ其の道にて候へと申せしかば道に任せて行く、午の時計りに依智と申す所へ行き付きたりしかば本間の六郎左衛門尉の家に入りぬ、ものゝふどもに酒取りよせてのませて有りしかば各かへるとて頭うなだれ手を叉へて申す様、此の程は何なる人にて御座すらん、我等が憑んで候阿弥陀仏を謗し給ひ候と承れば悪み進らせて候つるに親り拝し奉り候つる事共を見進せて候へば貴さに年来申しつる念仏をば捨て候とて火打袋より念珠を取り出して捨る者もあり、今は念仏を申さじと誓状を立る者もあり、六郎左衛門の良従等番をばうけとりぬ、左衛門尉も還りぬ其の日の戌の時計りに鎌倉より上の御使とて立文を以て来りぬ、頚切れと云ふかさねたる御使かとものゝふどもは思ふて有し程に、六郎左衛門の代官右馬の尉と申す者立文もて走り来り、ひざまづいて申す今夜にて候べし、あらあさましと存して候つるにかゝる御悦の御文来りて候、武蔵守殿は今日卯の時にあたみの湯へ御出で候へば急きあやなきこともやと、まづこれへ走りまいりて候と申す、鎌倉よりの御使は二時に走りて候、今夜の内にあたみの御湯へはしりまいり候べしとてまかり出ぬ文。
一星下りの事、開目抄下に云く日蓮案じて云く法華経の二処三会の座にましし日月の諸天は法華経の行者出来せは磁石の鉄を吸ふが如く月の水に還るかごとく須臾に来りて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給ふべしとこそをぼへ候に、いまゝで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮法花経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘へて我身にあてゝ身の失を知るべし文。
佐渡御勘気抄に云く、追状に云く、此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給ふべしあやまちしては後悔あるべし云云、其夜は十三日兵士共数十人、坊の辺り併に大庭になみゐて候、九月十三日の夜なれば月大に晴れてありしに夜中に庭に立ち出で月に向ひ奉りて自我偈少々よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あらあら申して、抑も今の月天は法華経の御座に列りましす名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給ひ嘱累品にしては仏に頂をなでられまいらせ如世尊勅当具奉行と誓状をたてし人ぞかし、仏前の誓なれば日蓮なくば虚くてこそおはすべけれ、今かゝる事出来せばいそぎ悦をなして法花経の行者にかはり仏勅をもはたして誓言のしるしをもとげさせ給ふべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ふものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも、うれしがほにて澄み渡らせ給ふはいかに、大集経には日月不現明ととかれ、仁王経には日月失度とかゝれ、最勝王経には三十三天瞋恨を生す等とこそ見え侍るに、いかにいかに、月天月天と責めしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかゝりてありしかば、ものゝふども皆ゑんよりとびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即天かき曇りて大風吹き来りて榎の嶋のなるとて空ひゞく事大なるつゞみを打つが如し、夜明れば十四日卯の時に本間の十郎入道と申すもの来て云く昨夜の戌の時計りに守殿に大なる御騒きあり陰陽師を召して御うらなひ候へば申す大に国乱れ候べし、此御房御勘気の故なり、いそぎいそぎ召し返へされずば世の中いかゞ候べかるらんと申せば、ゆるさせ給ひ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつれば、それを待つべしと申す、依智にして廿余日其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度、或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなり、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人にしるさる、皆遠嶋へ遣すべし、ろうにある弟子をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる者は持斎念仏者が計り事なり其の余はしげければかゝず。
一師匠を捨て落失する弟子檀那どもの事。
四条金吾抄に怨適大陣既破事云く此の法門につきし人あまた候しかども、公私の大難度々重り候しかば一年二年こそつき候しが後後には皆或は返り矢をいる、或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ、釈迦仏は浄飯王の嫡子、一閻浮提を知行する事八万八千二百一十の大王也、一閻浮提の諸王頭を傾けし上、御内に召仕し人十万億人なりしかども、十九の御年、浄飯王宮を出でさせ給ひて檀特山に入りて十二年其間御伴の人五人なり、所謂拘隣と●●と抜提と十力迦葉と拘利太子となり、此五人も六年と申せしに二人は去りぬ残の三人も後の六年に捨て奉りて去りぬ、但一人残り給ひてこそ仏には成らせ給しか、法花経は又此にも過ぎて信じかたかるべし難信難解は此なり、又仏在世よりも末法は大難重なるべし此をこらへん行者は我功徳には勝れたる事一劫とこそ説れて候へ。
新池抄に云く、貧なる者は富めるをへつらひ賤しき者は貴きを仰き、無勢は多勢にしたがう事なれば適ま法華経を信ずる様なる人々も、世間をはゞかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり。
如説修行抄に云はく、されば此経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難三類甚しかる可しと、然るに我弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る、今始めて驚き肝を消して信心を破りぬ、兼て申さゞりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後々々々々と朝夕教へし事是也。
兄弟抄に云く、初め信して有しかども世間のおそろしさに捨る人々数しらず、其中に返って元より謗する人々も又あまたあり。
佐渡抄に云く、日蓮を信するやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑を起して法華経を捨るのみならず、かへりて日蓮を教訓して我れ賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界、我れは十九界と云ひ、外道が云く仏は一究竟道我等は九十五究竟道と云ふが如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこはし、我れ等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳を笑ふなるべし笑ふなるべし、南無妙法蓮華経。
大難を恐れて他宗になり還つて誹謗する弟子檀那之多し、故に此の如く御文躰之れ有り、聖人御難抄に云く、名越の尼、少輔房能登房三位房、なんどの様に臆病物をぼへず欲ふかく、つたなき者共は、ぬれる漆に水をかけ空をきるやうに候ぞ等云云、かやうの衆之れ多し安房国新尼等例して知る可し、次に我等は、やはらかに法華経を弘むべしと云ふ他宗よりも久く阿鼻にあらん事とは、本迹一致と立る門人、一部修行本勝迹劣と立る門人、八品所顕と立つる門人は思慮有る可きなり、其の故は一致と云ふ人は開山日昭日朗日向の義をたすけん為に爾か云ふか、されども御書に違する故に師敵対となる、一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるゝ御書に背く、八品の衆は観心下山等の御書に違する故に慎みあるべし、又大進房等は初め師を捨て現罸を蒙り還り帰参する人々之れ有り。
兄弟抄に云く、何況や法花経の極理、南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始ならん人の弟子檀那なんどならん人々の大難の来らん事をば、言をもて尽し難し心をもてをしはかるべし。
妙法尼抄に云く、弟子等或は所領を召し或は籠に入れ或は遠流し或は其内を出し或は田畠を奪ひなんどする事、夜打、強盗、海賊、山賊、謀叛等の者よりもはげしく行はる。
一、此の中に所領を召さるゝ衆は日興伯耆房、日持甲斐公賢秀下野房承賢治部房等なり、具に次下に証文どもを出す可きなり、四条金吾も所領を召さるゝの内に入るなり、されば不可惜所領事に云く度々の難、二箇度の御勘気に志をあらはし給ふだにも不思議なるに各のをどさるゝに、二所の所領を捨てゝ法花経を信しとをすべしと御起請の候事なにとも申す計りなし。
一、籠に入らるゝ人々は九月十二日の時は有り合せたる人々皆難に逢ふ又籠に入るなり、但し註画賛には日朗日真と俗四人合六人云云、未た分明の証拠を見す、三位公日真の事は問註抄に出でたり其の外は見えざるなり、次に日朗への御状の事録外廿三ウ一と註画賛とに出たり『但し此の御状は日朗未た出家し給はざる在俗の時に遣はされたる御状と見えたり、其の故は此御状にあはれ殿は法華経一部色心二法共にあそばされたる已上、此の殿の字正く在俗なり其の上に例あり。
崇峻天皇抄に云く殿は一定腹あしき相と、又云く殿の人にあやまたれと、又云く殿の来るを見ては一定炎を胸にたきと已上、是れ左衛門尉殿御返事なり、有智弘正法抄に云く、殿何なる事にもあはせ給ふならば已上、在家の衆へは皆此の如し、此例を以て之を知るに未た出家せざる事一定なり、故に殿の字を置きたまふ、若し救して弟子なればとて殿の字を置くに何の妨●あらんやと云はゞ、異躰同心抄に伯耆房か佐渡房等と、又弁阿闍梨が使は已上、御弟子衆の応答ひ皆斯の如し、何ぞ日朗一人にかぎりて殿の字を付けたまはんや、故に此の御書も偽書一定か、此の如く偽を表と為す故に信用し難し』御書判の如んば余多籠舎と見えたり、又熱原の時廿三人籠舎せり次下に之を出す可し。
一、弟子衆の遠流の者分明の証文未た故に書かず。
一、某内を出たさるゝ衆は不可惜所領事に云く、設ひ所領をめされ追ひ出し給ふとも十羅刹の御計りにてぞ定めてあるらんと、ふかくたのませ給ふべし文。
一、田畠を奪はるゝ衆は録外妙一女御前御書に云く故聖霊は法華経に命をすてゝをわしき、わつかの身命をさゝへし処を法花経の故にめされしは命を捨つるに非すや文、又熱原の衆には之れ多し廿一人まで田畠を取り上げられ所を追払はれしなり。
一、家屋敷召し上げらるゝ衆は崇峻天皇御書に云く、遠くは法華経の故へ近くは日蓮が申す故に命に懸けたるやしきを上へ召されたり文。
四条金吾抄に云く、又夜廻りの殿原は独りも憑敷き事はなけれども法華経の故に屋敷を取られたる人々なり、常に眤ばせ給ふべし、又夜の用心の為と申し方々殿の守り成る可し、吾方の人々をば少々の事をば見ず聞かずしてあるべし文、又又佐渡国に於て此やうなる事もあり、阿仏房抄に云く、又其の上或は所を追はれ或は科代を引き、或は家を取られなんどせしに終に志替らでとをらせ給ふ文。
佐渡御供の人々留めたまふ事。
寺泊書に云く、此の入道は佐渡の国へ御供すべき由し之を申すと雖も用途かたがた煩ひ有る可き故にこれをかへす、御志始めて申すにおよばす候、人々に是の如く申し候へ、但し囹の僧等心にかゝれり便宜の時早々に之れを聴かす可し文、文永八年辛未十月廿三日。寺泊より録外妙一尼御書佐渡の国と申し、これと申し下人一人つけられて候はいつの世にかわすれ候べき文録外阿責謗法滅罪抄に云く、同行七八人云云。
御伴には伯耆房日興其外上下七八人なり、其の外は皆召返しさる、其の証拠は道中使日記、併に在嶋の内の請取の日記等、日興の自筆今に重須に之れ在り往拝す可し。
一、佐渡流罪併に頼綱より本間に遣はさるゝの状に。
日蓮房佐渡国へ遣はされ候、両三年も候へば御免有る可く候、若し承て具し下され候人にも若殿原の中にも死罪などに行るゝ事も候とて加様に申候、御領のため悪かる可く候間加様に申し候、恐々謹言。
九月十四日  左衛門尉頼綱在判
本間六郎左衛門尉殿  此状十五日到来云云。
一谷抄に云く、北国佐渡の島を知行する武蔵の前司預りき、其内の者共の沙汰として彼島に行く文、今月十日星下には十月十日。
寺泊抄に云く、相州愛甲郡依智郷をたちて武蔵くめ河の宿につく、十二日を経て越後寺泊の津につく、是より大海を渡り佐渡の国に至らんとす、順風不定なれば其の期を知らず路の間の事心も及ばす又筆も及はず、但そらに推度すべし文。
一谷抄に云く、彼島の者共、因果の理をも弁へぬあらえびすなれば麁くあたりし事は申す計り無し文。
星下抄に云く、同十月廿八日に佐渡国へ着きぬ文。

一、法蓮抄に云く、彼の国に趣く者は死は多く生は希なり、からくして行き付きたりしかば殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり、鎌倉を出てしより日々に強敵重るが如く、有と在る人は念仏の持者なり、野に行き山に行くも、そばひらの草木の風邪に随つてぞよめく声も敵の我を責むるかと覚へ、漸く国にも着きぬ北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく雪深し衣薄く食乏し、根を移されし橋の自然に枳と成りけるも身の上につみ知られたり(文)。
一、星下抄に云く、十一月一日蓮聖人に六郎左衛門が家のうしろ(妙法抄には里より遥にへだゝる野との中間に)塚原と申(妙法には三眛)山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし、上はふかず四壁はあらはに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かゝる所にしきがは打しき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪と雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり(文)。妙法抄に云く、然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立て参せ法花経を手ににぎり蓑をき、笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたらずして四個年也、彼の蘇武が胡国にとめられて十九年が間蓑をき雪を食として有りしが如し(文)。
単衣抄に云く堂にはあらき風より外はをとづるる物なし、眼には止観法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談す(文)。
日蓮悪口罵詈等の文読みたまふ事。
寺泊抄に云く、法華経第四に云く而るに此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや、第五に云く一切世間怨多く信し難し、湟槃経卅八に云く爾の時に一切外道の衆咸く是の言を作す大王今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に往て其所に集り眷属と為る、修善する能はず咒術力の故に迦葉及ひ舎利弗、日●連を調伏す等(云云、云云)此の湟槃経の文は一切の外道我か本師二天三仙の所説の経典を仏陀に破られて奉りて出す所の悪言なり、法華経の文には仏を怨みと為すに非ず経文天台の意は一切声聞縁覚●に近成を楽ふ菩薩等と云々、聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざれば言を出して謗ること莫けけども皆悪嫉の者と定め了ぬ、在世を以て滅後を推するに一切諸宗の学者等は皆外道の如し、彼等が云く一の大悪人とは日蓮当れり一切悪人之に集るとは日蓮が弟子等是なり、彼外道は先仏の諸教流伝の後に謬れるか、彼は仏を以て恐と為し今は諸宗の学者等亦復是くの如し、所詮仏教に依って邪見を起す目の輪る者は大山の輪るかと思ふ、今の八宗十宗等も多聞の故に諍論を致す、○日蓮之を案して云く八宗十宗皆仏滅後より之を起す論師人師之を立つ、滅後の宗を以て現在の教を計る可らず、天台の所判は一切の教旨に叶ふに依る即一宗に於て之を捨つ可らず、諸宗の学者等自師の謬を執するが故或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語ひ結句最後には悪心強盛にして闘諍を起こ失無き者を損して楽と為す、○或人日蓮を難して云く機を知らずして暴義を立てゝ難に値ふと、或人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり、安楽行品には違す、或人云く我も此義を存知すれども言に出さず云々、或人云く唯教門計りなり、理具は我之れを存す、下知は足を切られ清丸は穢丸と云ふ名を給ひて死罪に及はんと欲す時の人之を笑ふ、然りと雖も其人未た悪名を流さず汝等が邪難亦然る可し、勧持品に諸無智の人悪口罵詈す等云々日蓮は此経文に当れり汝等何ぞ此の経文の及加刀杖者に入らざる云々、日蓮は、此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる、常に大衆の中に在りて我れ等を●らんと欲す故に国王大臣婆羅門居士等云々、悪口して●蹙し数々擯出せられんと数々とは度々なり擯出は数々度なり(光日抄には廿余度処追はれ一谷抄には国々を追はれ)流罪は二度なり、法華経は三世の諸仏の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品なり今の勧持品は未来の不軽品為る可し、其の時は日蓮即不軽菩薩と為る可し(文)。

九年壬申二月十七日、後嵯峨院崩す。
光日房抄に云く、日蓮法華経のいみじき由を申せば、威音王仏の末法に不軽菩薩を悪みしが如くに、上一人より下万民に至るまで名をもきかじ増して形を見ん事は思ひよらず、されば設ひ失無くとも、かくなさるゝ上はゆりがたし、況や日本国の人の父母よりも尊く日月よりも高く憑み奉る念仏を無聞の業と申し、禅宗を天魔の所為と云ひ真言は亡国の邪法、念仏者、禅宗、律僧等が寺を焼き払ひ念仏者共が頸を刎らるべしと申す上へ最明寺極楽寺両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申す程の大過身に在しなり、此れ等の大事を上下万民に申付られぬ上は設ひ虚言なりとも此の世には浮び難し、何況や是は皆朝夕に申し昼夜に談せし上へ平の左衛門尉等の数百人の奉行に申し聞かせ何かに失に行はるゝとも申しやむまじき由したゝかに云ひ聞かぬ、されば大海の底のちびきの石は浮ぶとも、天よりふる雨は地にをちずとも、日蓮は鎌倉へは還るべからず、但し法華経の実におはします日月我れを捨て給はずば還り入りて又父母の墓を見る辺も有りなんと心強く思ひて梵天帝釈日月四天はいかに成り給ひぬるやん、天照太神、正八幡宮は此の国におはせぬか、仏前の御起請は空くて法華経の行者をば捨て捨ふか、若し此の事叶はず日蓮が身の何にも成らん事は惜しからず、各現に教主釈尊と多宝如来と十万の御宝前にして誓状立て給しが、今日蓮を守護せずして捨て給ふならば正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、十万三世の諸仏を誑かし奉る御失は堤婆達多が大妄語にも越へ瞿伽梨尊者が虚誑罪にも勝れたり設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天と云はれて須弥の頂におはすとも、日蓮を給ふならば阿鼻の炎には薪となり、無間大城をば出つる期おはせじ、此の罪をおそろしとおほさば急ぎ国土に験を出させ給ひて本国へ還へさせ給へと、高き山に登りて大音声を放つて叫ひしかば、九月十二日の御勘気に十一月謀叛の者出来す、返る年の二月十一日に本国のかためたるべき大将共由しなく打殺されぬ、天の責と云ふ事明なり(文)。
秋元抄に云く、此の国他国より責められ自国どし打して此の国変して無間地獄と成る可し(文)。妙法尼抄に云はく、日蓮御勘気の時申せしが如くどし打始る、其れを恐るゝかの故に又召し返されて候、然れども用る事無し(文)。
保暦間記下に云く、六波羅の代官は時宗の兄なり式部の亟時輔と申す、舎弟に家督を取られ迷心の巧ありけるがあらはれて、二月十五日に鎌倉より早馬六波羅の北の方北条義宗が許に来る、義宗俄に南の方へ押寄せ時輔を討ち亡す(王代一覧と雑へ書く是十七日の合戦也)、鎌倉にも同十一日尾張守公時入道見西(時章男)遠江守教時誅せられぬ畢ぬ(多々良三郎左衛門行政会津六郎左衛門自害す)。
弟子檀那等御中に(佐渡抄と号す)云く、今年二月十一日十七日又合戦あり、外道悪人は如来の正法を破しがたし仏弟子等必ず仏法を破すべし獅子身中の虫の師子を食ふ等云々大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く自界叛逆難是なり(文)。
又云く、去年九月十二日御勘気を蒙りし時、大音声を放ちてよばゝりし事これなるべし、纔六十日(四信抄には百日の内)乃至百五十日に此の事起るか是は華報なるべし、実菓を成せん時いかゞなげかはしからんずらん(文)。
頼基陳状に云く、文永九年二月十一日の鎌倉の折節伊豆国に候しかば、十日の申の時に承りて、只一人箱根を越えて、三時が中に馳せ参りて御前にて自害すべき八人が中にて候き(文)。
日妙抄に云く、今年二月十一日合戦それより今五月の末まで世間安穏ならず(文)、此れにや驚きけん弟子共は免されぬ、下見る可し、問ふ篭舎の弟子檀那何比免許ぞや、答て云く分明の証拠を見ざる故に治定し難し、或抄に云く日朗鎌倉の篭免許状あり其状に云く。
召人筑後房の事御免有る所也仍て執達件の如し。
文永十年後五月二十八日  行兼(判)行平(判)光綱(判巳)上。

是れ亦不審あり其の故は同罪にて弟子檀那多く●舎せり、其の中に日朗一人免許せられて日真●に檀那等は篭中に有りや否や、又文永八年九月十二日に土篭に入れられ三年めの後五月末に免許せらる長々しき篭舎なり、されば光日房抄に云く、此にや驚きけん弟子共は免れぬ然れども日蓮は未た免れず(文)、文の如んば同九年五月以後の様に見えたり日妙抄に五月の末にて世間安穏ならず(巳)上、然れば五月以後世間静まりて免許か、又日真日朗●に檀那等の中日朗一人選んて免許せらるゝは常例に背くが故信し難き事なり、又同時篭舎の者の免許せらるゝに終に免状の出てたる事之れ無し、今を以て昔を見るが故に不審あり、殊更当家の御仕置き多分は東鑑に因る、又註画讃に免状を出たさゞるに不審なり、常に日朗を片贔負に引く人の之を出さゞるは或抄の偽りか。
次に日朗篭に有り乍ら暇を獄吏に請ひ彼の嶋に赴くこと四年に八度とは、此の一段五行皆諸人信せざる所なり、故に其の偽り言下に知る可きなり、又筑後公御免状を申し請けて来ると云ふ事常例に背くが故に之れを信せず。
一佐渡国に於て諸宗と問答。
星下抄に云く、年かへりぬいづくも人の心のはかなさは佐渡の国の持斎念仏者の唯南弥陀仏、生喩房、慈道房等の数百より合ひて●議すと承はる、聞ふる南弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪智識の日蓮房此の国にながされたり、なにとなく此の国へ流されたる人の始終いけらるゝ事なし設ひいけらるゝともかへる事なし、又打ころしたれども御とがめなし、塚原と云ふ所に只一人あり、いかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれど集っていころせかしと云ふものもありけり、又なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿の御だい所の御懐妊なればしばらくきられず終に一定ときく、又云く六郎左衛門尉殿に申しきらずば、はからふべしと云ふ、多の義の中にこれについて守護所に人数百人集りぬ、六郎左衛門殿の云く上より副状下ってあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは法門にてせめよかしと云ふ、念仏者等或は浄土の三部経或は止観、或は真言等を小法師の頸にかけさせ或はわきにはさみ、正月六日にあつまる、佐渡国のみならず越後、越中、出羽、奥州、信濃等の国々より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口々に悪口をなし真言師は面々に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる、在家の者共は聞ふる南弥陀仏のかたきよとのゝしる、さはぎひゞくこと震動雷電の如し、日蓮は暫くさはがせて後、各しづまらせ給へ法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門より初めて諸人然るべしとて悪口せし念仏者をば、そくびをつきいだしぬ、さて止観真言念仏の法門一々にかれが申す様をてつしあげ承せさせて、ちやうとはつめゝゝ一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師、禅宗、念仏者、天台の者よりも、はかなきものなれば只思ひやらせ給へ利劔をもてうりをきり大風の草木をなびかすが如し、仏法のおろかなるのみならず或は自語相違し或は経文を忘れて論と云ひ、釈を忘れて論と云ふ、善導か柳より落ち、弘法大師の三鈷を投けたる大日如来と現れたる処の或は妄語或は物にくるへる処、一々に責めたるに或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりと云ふものもあり、当座に袈裟ひら念珠をすてゝ念仏申すまじきよし誓言を立る者もあり(文)。
佐渡抄に云く、今年正月十六日、十七日に佐渡国の念仏者等数百人、印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く、法然上人は法華経を抛てよとかゝせ給ふて一切衆生に念仏を申させ給て候、此の大功徳に御往生疑なしと書き付けて候を、山僧等の為に流されしいかゞこれを破り給ふと申しき、鎌倉の念仏者よりも、はるかにはかなく候ぞ無慙とも申す計りなし(文)。
印性房と問答に付いて御化導記と画讃と不同あり、化導記には聖人本間に対して不思議を仰らるゝの時、印性来りて難問を挙げたまへり、画讃には日興日向と彼が説法の座にて往いて問答したまふと云々、此の両文ともに佐渡抄に違す、化導記の如んば本間に対して不思議を仰られたる上に印性房難問を挙る故唯一日の問答なり、十六日十七日と云ふ文に違す、又一問答ありし上は御辞退の所に非す、其の上六郎左衛門の前に於て対決なれば書付と云ふ全く有間敷事なり、既に前段の問答に書きたまはず、印性が時なればとて何ぞ之を書きたまはんや、此の故に信し難し、註画讃は日蓮が許に来ると云ふ文に違する故に信せられざる所なり皆偽なり、若し爾らずと云はゞ蓮祖自証の文を引く可し然らずんば偽り決定なり、況や伯耆日興は在島四ヶ年常随給仕なり、其の証文は佐渡にて信者衆供物の菜大根瓜茄子等の請取日記之れ在り此の如きの因み故に日満も後興師の弟子となりたまへるなり、次に尼問答の事密に二人を遺して印性を責めたまふ事両書に終に御書を出さず、知りぬ偽妄一定なり。

一、六郎左衛門に対し不思議仰せ出さる事。
佐渡御勘気抄に云く、皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一つ云はんと思ふて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云ふ、いつか鎌倉へのぼり給ふべき、かれ答へて云く下人共に農をさせて七月比と云云、日蓮が云く弓箭とる者は公の御大事に合つて所領を給り候をこそ田畠造るとは申せ、只今軍のあらんずるに急ぎうちのぼりて高名の所知を給はらぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし田舎にて田つくりて軍にはづれたらんは恥也と申せしかば、いかにやと思ひげにして、あはてゝものも云はず、念仏者持斎在家の者共なにと云ふ事ぞと恠しむ、○二月十八日嶋に船つく、鎌倉に軍あり京にもありそのやう申す許りなし、六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる。日蓮に手を合せ助けさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此の程疑ひ申しつるにいくほどなく三十日の内に合ひ候ぬ、又蒙古の国も一定渡り候なん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん、永く念仏申候まじと申せしかばいかに云ふとも相模守殿等の用ひざらんには日本国の用ひまじ用ひずは国必す亡ぶべし、日蓮は幼若なれども法華経を弘むれば釈迦の御使ぞかし、僅の天照太神正八幡なんど申すは此の国には重けれども、梵釈日月四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどを、あやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道隠岐の法皇等のほろび給ひしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給ふ事なり、法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かゝる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやまはゞ国亡ぶべし、何況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此国の亡ひん事は疑なかるべけれども且らく禁めをなして国を助け給へと、日蓮がひかふれはこそ今までは安穏にありつれども、ほうに過くれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手向ひて日本国亡ほさるべし、たゞ平左衛門尉が好む禍なり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげに立ぬ、さて在家の者共申しけるは此の御房は神通の人あらおそろし々々、今は念仏をもやしなひ持斎をも供養すまじ、念仏者良観が弟子持斎等云々云く此の御房は謀叛の内に入りたりけるか(文)。

一、佐渡見廻ひの人々。
乙御前抄に云く、法華経を信ずる人々は志あるもなきも知り候はざりしかども、御勘気を蒙り佐渡の嶋まで流されしかば、問ひ訪ふ人もなかりしに、女人の御身としてありし上、我と来り給ひし事うつゝならざる不思議なり、其の上今のまうで又申すばかりなし、定めて神も守らせ給ひ十羅刹もあはれみましますらん(文)。
文の如んば乙御前佐渡並に身延へ身廻ひたまへるなり、最後には御影の御座す所にて死なんとて富士へ参詣して●に於て終焉なり、是の故妙常、真間の日頂、舎弟寂仙房日澄、乙御前四人の墓所重須に之れ有り。四条金吾抄に云く、在俗の宮仕の隙無き身に此の経を信する事こそ希有なるに、蒼海を経て遠々と尋ね来り給ふ志し、香城に骨を摧き雪嶺に身を投けし人々にも争てか劣りたまふ可き(文)。
弟子檀那等見廻ひ多きか故、佐渡国中僧等鎌倉に上り訴訟す、之に依つて御下文度々下る、此の条を以て証拠と為す国中を下知する故に御難とも重るなり、其の状の案に云く。
法華経行者値難抄に云く、而るに文永十年十二月七日武蔵前司殿より佐渡の国へ下す状云く、
相模より佐渡の国へ流人の僧日蓮弟子等を引率して悪行を巧むの由、其の聞へ有り、所行の企て甚た以て奇恠なり、自今以後彼の僧に相従はん輩に於ては炳誡を加へしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を註進せらる可き由しの所に候、仍つて執達件の如し。
文永十年十二月七日                   沙 弥 観 恵
依智六郎左衛門尉殿
等云云。
之の状に云く悪行を巧む等云云、外道が云く瞿曇は大悪人なり等云云、又九横の難一々に之れ在り、所謂瑠璃殺釈、乞食空鉢、寒風索衣、仏世に超過する大難なり(文)。
星下抄に云く、さて且らくありしかば世間静まる、又念仏者集りて僉議す、かうてあらんには我等かつへしぬべし、いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大躰つきぬ、いかんがせん、念仏者の長者唯南弥陀仏、持斎の長者生喩房、良観が弟子道観等鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す、此の御房島に候ものならば堂一宇も候べからず僧一人も候まじ、南弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす、夜もひるも高き山に登て日月に向つて大音声を放つて上を咒咀し奉る、其音声一国に聞ふと申す、武蔵の前司殿是れをきゝ上へ申すまでもあるまじ、先つ国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下し文下たる、かくの如く三度、其の間の国の事申さざるに心をもつて計りぬべし、或は其の前を通れりとて、ろうに入れ、或は其の御房に物進せけりとて云つて国をおひ、或は妻子を取る(文)。頼基陳状に云く、日蓮聖人は外には配流と聞えて内には頭を刎られんとせし事、佐渡の国にして弟子等をせき津を留め市町をせき、食ぜめに責めて結句又頸を切れと申され候し事偏に此の人の訴にて候き、其の訴訟あり、生草をだに切るべからずと説法はしながら正法を弘通する僧の頸を切れと申す自語相違は云何、豈天魔の入り潜れる者に候はずや(文)。

一、佐渡の躰●に阿仏房供養。
阿仏房抄に云く然るに日蓮佐渡国に流されたりしかば彼国の守護等は国主の御計に随つて日蓮を怨む、万民は其命に随つて日蓮を見る、念仏者禅律真言師等は鎌倉よりも如何しても此の国へ還らぬ様の計り事を申し遺はす、極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿に私の御教書を申して弟子に持せて日蓮を怨まんとせしかば何にも命を扶かるべき様はなかりしに天の御計らひとして命存す、地頭の念仏者等は日蓮が庵室に昼夜に立ち副ひて通ふ人を強にまとはせんなんど申せしに、阿仏房に、ひつを持たせて夜々々中に御渡りありし事何の世にか忘れ候べき、只偏に悲母の佐渡の国へ生れ替らせ給ふか(文)。
千日尼抄に云く、されば身命を続くべきやうもなし身を隠すべき藤の衣ももたず北海の嶋に放たれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりも怨をなして野中に捨てられて雪にはだへをまじへ草をつみて命をさゝへたりき、○而るに尼御前○に入道殿は彼れに有りし時は人目ををそれて夜中に食を送り或時は国の責をもはゞからず身にもかはらんとせし人なり、さればつらかりし国なれども常に思ひ出され候なり(文)。阿仏房抄に云く、此れは後世を思食さすば、なにしにかくは御座し候べき、又其の上或は所を追はれ、或は科代を引き、或は家を取られなんどせしに終に志替らでとうらせ給ぬるは、法華経に過去十万億の仏に仕へし人こそ今生には信心たへずと説き候へ、十万億の仏を供養し給へる女人なり(文)。

一、開目抄下に云く、去年十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議をとゞめんと思うて勘へたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬ば家に柱無ければたもたず人に魂無ければ死人なり日蓮は日本国の魂なり、平左衛門尉既に日本国の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれとなく、ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論の委しきが如し、ややうに書き付けて中務の三郎左衛門の尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらきことかなと思へども力及ばざりげにてある(文)。
一、中興次郎入道抄に云く、嶋にてあだむ者は多かりしが中興次郎入道と申せし老人ありき、彼の人は年ふりたる上心賢く身もたのしくて国の人にも人とおもはれし人が此の御房はゆへある人にやと申しけるかの故に子息等もいたうも悪まず、其の巳下の者ども、たいし彼れ等の人々の人にてありしかば内々あやまつ事もなし、唯上の御計のまゝにてありし、○然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にておはするなり御前は又よめなり、いみじく心賢かりし人の子とよめとにおはすればにや故入道殿のあとをつぎ国にも主にも御用ひなき法華経を御用あるのみならず法華経の行者をやしなはせ給ふ(文)。

一、石田郷一谷に御移りの事。
一谷抄に云く文永九年の夏の比、佐渡国石田の郷、一谷と云ふ処に有りしに、預りたる名主等は公けと云ひ私と云ひ父母の敵、宿世の敵よりも悪気に有りしに、宿の入道と云ひ妻と云ひ使ふ者と云ひ始はおぢ恐れしかども先世の事にや有りけん内々不便と思ふ心付きぬ、預りよりあつかる食は少なし付ける弟子は多くありしに僅の飯の二口三口有りしを或はおしきに分け或は手に入れて食ひしに、宅主内々心有りて外には恐るゝ様なれども内には不便気に有りし事何の世にかわすれん、我を生みておはせし父母より時に当つて大事とこそ思ひしか(文)。
合運に云く、蒙古来る(文)、一覧に云く、此の年蒙古の使者趙良弼来朝す都へも鎌倉へも入られず太宰府より追ひ返さる(文)。

一、佐渡国に於いて説己心中所行法門の事。
三沢抄に云く、又法門の事は佐渡の国へ流され候し以前の法門但仏の爾前の経とおぼしめせ、此国の国主世をも持つべくば真言師等にも召し合せられじと思つて各にも申さゞりしなり、而るに去る文永八年九月十二日の夜、竜口にて頸をはねられんせし時より後不便なり我に付きたりし者共に実の事を云はざりけりと思うて佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり、此れは仏より後、迦葉、阿難、竜樹、天親、天台、妙薬、伝教、義真等の大論師、大人師は知つて而も御心の中に秘させ給うて心より外には出たさせ給はず、其の故は仏制して云く我滅度の後末法に入らずは此の法門云ふべからずと有りし故なり、日蓮は其の御使にはあらざれども、其の時尅に当る上、存の外に此の法門を解してあれば聖人の出させ給ふまで先つ序分にあらあら申すなり、而に此の法門出現せば正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出てて後の星光、巧匠の後に拙きを知るなるべし(文)。
三沢殿は淡路国の人なり所領について富士に居住せるなり、此の文に佐渡の国へ流かされ候し以前の法門は但仏の爾前教と思召せ等とは古来より種々の義あり、佐渡巳前に於ては真言天台を破したまはず佐渡巳後之れを破したまふ故に此くの如く遊ばされたりと云云、是れ諸門徒通同の義なり、当家の意は佐渡以来本迹法門を仰せ出さるゝ、故に此くの如く遊ばされたり、其の証拠には開目抄、観心抄、太田、治病抄等、皆佐渡以後の専ら本迹の起尽なり、是れ則己証の法門祖師の本懐なり。

一、佐渡国より弟子共に内々申す法門とは何等の法門ぞや。
報恩抄に云く、問ふて云く天台伝教の弘通し給ざる正法ありや、答へて云くあり、求めて云く何物ぞや、答へて云く三つあり末法のために仏留め置き給ふ、迦葉、阿難等、馬鳴竜樹等、天台伝教等、の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答へて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の中の釈迦多宝外の諸仏●に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒檀、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべし、此の事いまだひろまらず閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱へず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり(文)、此の文に本門の教主釈尊を本尊とすべし等と云へり常途の本尊に違せり、其の上或抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊と為す可しと此の相違はいかんが心得可きや、答へて云はく此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず、其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其の中に初には本尊に二あり先つは惣躰の本尊、謂く一幅の大曼荼羅なり、次には別躰の本尊なり、別躰に付いて又二つあり人の本尊と法の本尊となり、初に人の本尊とは右の報恩抄の文是なり類文あり。
観心本尊抄に云く、正像二千年の間小乗の釈尊迦葉阿難脇士と為り、権大乗●に湟槃法華経迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す、此れ等の仏をば正像に造画すれども未た寿量品の仏有まさず、末法の初に来入して此の仏像出現せしめたまふ可きか(文)。
又云く、此の時地涌千界出現し本門の釈尊を脇士と為して一閻浮提第一の本尊を此の国に立つ可し(文)。宝軽法重抄に云く、日蓮が弟子と成らん人々は易く之を知る可し、一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形を画き作れる堂未た候はず争か顕れさせ給はざるべき(文)、此れ等は人の本尊の証なりさて法の本尊は。
本尊問答証に云く問ふ末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む可きや、答へて云く法華経の題目を以て本尊とすべき也(文)。
但し三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮華経と名くるが故なり。
妙法曼荼羅供養抄に云く、妙法蓮華経の御本尊供養候、此妙法の曼荼羅は文字は五字七字にて候といへども三世の諸仏の御師、一切の女人成仏の印文なり。
是等は皆法の本尊なり自余之れを略す。
次に戒壇とは御自筆二箇処にあり。
佐渡御国抄に云く、本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮華経の五字之れを残す(文)。文の如んば釈尊の脇士たる四菩薩造立書写する是戒壇の義なり、此れ人に約する戒壇 なり又日興給はる所の遺状に云く。
国王此法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇建立せらる可きなり、時を待つ可きのみ事の戒法と謂ふは是なり(文)。
此文を以て佐渡抄を見れば四菩薩の戒壇は理の戒壇に当るなり、其の故は人々己々に亘るが故に理と云ふなり、さて富士の戒壇は一所に限るが故に事と云ふなり又は足を以て之を踏む故に事と云ふなり。三に蓮祖所弘の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意なり、之に就いて附文元意の二あり、附文とは神力品に於いて寿量の妙法を以て上行等に附属したまふ其の証文は。
観心本尊抄に云はく地涌千界の大菩薩を召し寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ、乃至是好良薬は寿量品の肝要名躰宗用教の南無妙法蓮華経是なり、此の良薬をば仏猶迹化に授与せず何況他方をや(文)。
太田抄に云く、爾時に大覚余尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したまふ、其の所属の法とは○所謂妙法蓮華経の五字(文)。
復至他国遺使還告とは医父と釈迦なり、使は四依と云へる故に上行等なり、良薬は妙法なり、病者は末法今の衆生なり、具に観心本尊抄の如きなり皆是附文なり。次に元意を云はゞ釈尊理即名字の時、妙法蓮華経を修行したまふ其の時弟子あり上行等是なり同く修行したまふ、是より後常に師弟の相を現したまふ故に師弟不二、師弟宛然なり、之に依て四菩薩本果の釈迦の付属を承けたまへり是最初付属なり、されば血脈抄に云く元初の付属と云へるは是なり、又住本顕本の義あり此の故に第二番巳下の付属は但是化儀の一筋のみ、此の義を以ての故に蓮祖所弘の妙法蓮華経は偏に本門の妙法是れ正意と云ふなり、然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此の故に今之れを挙けて以て支証とするなり。
或抄に云く、御書の中の本門の題目と云ふに付て三義を成せり、一には妙法の五字は一部の通号なれば広く該摂せり、しかるに本門の題目と云ふことは久成の釈尊所証の法躰、本地難思の境智なる故なり、玄一に云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり(文)、此の義に約するが故に本門の題目といへり、二には神力品の時塔中にて一部の肝心五重玄の妙法を本化の上首に付属したまへり、神力品、結要付属の義による是の故に本門の題目といへり、三には上行等塔中に於て妙法の付属を受けたまへり、されば当今末法に妙法修行せる衆生は師資の次第を追ひて本化上首の付属を血脈とすべし是故に本門の題目といへり。此の三義を心得て異念を生することなかれ。
本題目とあるを見て寿量品に限ると思はゞ誤の甚しきなるべし(文)、此の文を見るに当家に於て本門寿量品の南無妙法蓮華経と勧進するは誤なるべきかいかん、答へて云く此の三義を出せるは祖師日蓮大聖人を破り奉らんところの謗法の書なり、全く之を信ず可からず、其の故は下山抄(十八紙)云く又地涌の大菩薩末法の初に出現せさせ給ふて本門寿量の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序の為なり(文)。
又(四十四)云く実には釈迦多宝十万の諸仏寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為に出し給ふ広長舌なり(文)。
観心本尊抄(二十一)云く、所詮迹化他方の大菩薩当に我が内証の寿量品を以て授与可からず、末法の初め謗法の国、悪機なるが故に之を止め地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以て閻浮提の衆生に授与せしむるなり(文)。
撰時下(二十三)に云く、上行菩薩の大地より出現した給ひたりしをば弥勒菩薩、文珠師利菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人々も、元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたりとはしらざりしといふ事なり(文)。四文を引く繁きが故に自余之れを略す、此の三義を作ること皆一経三段を正と為る故か、日昭、日朗、日向、日頂、日持此五人鎌倉殿へ上げ奉つる奉状に天台沙門と書ける誤りをたすけん為に種々の義を成す、唯日興一人本化上行菩薩再誕日蓮聖人弟子日興謹んて言上云云、此の中上行菩薩再誕日蓮等の八字は天下通同して之を用ゆ、其の余は天台再興と得心して祖師の御義を破する師敵対の人々なり、されば治病抄に云く、法華経に又二経有り所謂迹門と本門となり本迹の相違は水炎天地の違目なり(文)、既に相違と云ふ何の処にか同致を述せるや、又一々文々皆金色の仏の文によりて一致を説く者あり、此れは是れ一経三段門にして権実相対なり混乱す可からず、当家は久遠の師弟本因抄を修行して咸な真極に至りたまふ、是の故に我か流は本化の門人と為て本門の本尊を拝し本国土を期し本門立行を企つ豈に元祖の本意に違せんや、蓮祖付処の弟子として身延山七年居住したまふ証文、波木井法寂房日円の自筆八通まで之れ有り、往見す可きなり、然るを蓮祖遺言に●き各自為実の思をなすは豈に正道ならんや。
十年(癸)酉、宗尊親王薨、蒙古の使者趙良弼来朝す都へも入れられず太宰府より追ひ返さる(王代一覧)。
十一年(甲)戊、御帰国の前相。
光日房御書に云く、然れども日蓮は未た免されざりしかば、弥よ盛んに天に申せしかば頭の白き烏飛び来りぬ、彼の燕丹太子馬烏の例、日蔵上人の山烏頭も白く成りにけり我が還るべき期や来にけんと吟せしも是なりと申しあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡国に付きぬ、同十三日に国を立て、まうらと云ふ事に下りて十四日は彼の津に留り同き十五日に越後の寺泊の津に付くべかりしが大風に放たれて幸に二日の道を過ぎて、かしはざきに付きぬ、次の日はこうに付きて十二日を経て三月廿六日鎌倉へ入りぬ(文)。
御赦免状出す事、其の状に云はく。
日蓮法師御勘気の事免許候所なり。
行兼
文永十一年二月十四日      清長
行平
藤左衛門入道殿         光綱
武蔵の前司の状
日蓮法師御勘気の事御免許有るの由仰せ下さるる所なり、早く赦免せらるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。
文永十一年二月六日       兵部亟行兼
山城兵衛入道殿
化導記、画讃、両所共に出てたる故に之を書す御免状は預人へ遣はさるゝ事古今相替らざるなり、然るを日朗に遣はさると云ふ事妄説なり、又免状流入の手に渡すと云ふこと古今此の例なし故に免状と号して世に流布するは偽筆一定なり。
画讃に時宗頼綱主従の異夢を出せり赤衣青衣の童子来りて日蓮を赦免すべしと告げたまふと云云。此の告に因つて赦免状を出さる然れども法華経を信せず日蓮を用ひざるは第一の不審、上に此の如く御告ある事を下として誰か之れを知らんや是二の不審、鎌倉一家は仏神信仰の人なり然れども終に信ぜず用ひざる故に是三の不審、例証竜口の下東鑑を引くが如し。
問ふ若し爾らば伊東の化人の示現、佐渡の舟中の化人等も偽なるべきか、是は蓮祖を守護したまふ躰たらくなり、此くの如きの例は伝教大師にも之れ有り是れを以て偽と云ふには非す諸天善神守護勝けて計ふ可からず。
中興抄に云く、水は濁れども又すみ月は雲かくせども又はるゝことはりなれば科なき事既に顕はれて云ひし事もむなしからざるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申しけれども相模守殿の御計ひばかりにて、ついにゆりてのぼりぬ(文)。
相伝して云はく三月八日夜、師の御座の近処にて筑後公高声にて鎌倉より御赦免状を帯びして下れる使者と同道して参りたりと呼ぶ、聖人其の声を聞しめして松明を出さしむ、伯耆公出で向ひ廿町ばかりにて朗公に逢ふと云云、此の段六根清浄位に叶ひたまへるに似たり、上と見合す可きなり不思議。
御帰国の路次●に諸宗の僉議。
二月十四日御赦免の状同く三月八日嶋につきぬ、念仏者僉義して云はく此れ程の南弥陀仏の御敵、善導和尚法然をのるほどの者が、たまたま御勘気を蒙りて此の嶋に放たれたるを、御赦免有りとていけて帰さんは心うき事なりと定め、やうやうの支度ありしかども(星下十四)、同十三日に国を立て、もうらと云ふ津に下りて十四日は彼の津に留り同十五日に(光日房二十)、思はざるに順風吹き来て嶋をば、たちしかば、あはいあしければ百日五十日にもわたらず順風には三時なる処を須●の間に渡りぬ(星下)、越後の寺泊の津に付くべかりしが大風に放たれて幸に二日の道を過ぎてかしはざきに付きぬ、次の日はこうに付く(光日房)越後のこう信濃善光寺の念仏者、持斎、真言師等は雲集して僉義す、嶋の法師原は人かつたいなり今までいけてかへすは我等がいかにも生身の南弥陀仏の御前をば、とをすまじと僉義せしかども、又越後のこうより兵ともあまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず(星下)、十二日を経て三月廿六日鎌倉に入りぬ(光日房)。
後宇多院。
同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく和ぎて威儀たゞしく敬つて見ゆる(佐渡勘気)時、理不尽の御勘気の由委細に申し含めぬ、又恨らくば此の国既に他国に破られん事の浅猿さを歎き申せしかば(下山)、或る入道は念仏をとふ、或る僧俗は真言をとふ、或る人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ、一々経文を引いて申しぬ、平左衛門尉は上の、御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申しぬ、日蓮答へて云く今年は一定なり(星下)経文には分明に年月を指したる事は無れども天の御気色を拝見するに以て此の国を睨ませ給ふか今年は寄せんと覚ゆ、若し寄するならば一人も面を向く可からず是れ又天の責なり、日蓮をば和殿原が用ひぬ者なれば力及ばず、穴賢々々、真言等の調伏行はせ給ふ可からず、若し行ひ給ふ程ならば弥よ悪かる可き由を申し付て、さて帰つて有りしに上下倶に前の如く用ひざり気に有りし(下山)。
註画讃に云く西御門に御房を造り愛染堂の別当に成し奉る可く候、彼の御堂の寄進其地一千町に及べり天下の御祈祷有る可きの由仰せ候と、聖人云く別に御祈祷有る可からず只念仏真言禅律等の邪僧の御帰衣を止めたまふ可し云云、然して即ち座を起ちたまふ(巳)上、此の本末た見ざる故に之れを出たさず。聖人知三世抄に云はく、縦ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざらんは必す此の国の人、壱岐対馬の如くならん、我弟子仰いて之れを見る可し、是れ偏に日蓮が尊貴に非らず法華経の御力の殊勝なるに依つてなり、身を挙れば慢ずと想へとも身を下せば経を蔑る(文)。
下山抄には上下倶に前の如く用ひず(文)、此の文を以て見れば画讃は不審し。
十月五日に蒙古対馬嶋々によせ来る(保暦間記)、家譜に云く、筑紫の早馬六波羅に来り蒙古の賊船対馬の嶋に到つて合戦すと告く、一覧に云く、蒙古の大将二人大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘を率いて日本を攻めんため出陣、○十月蒙古の兵船対馬の島へ寄せ来る武士防戦、蒙古の兵法乱れてとゝのほらず、其の上矢だねつきければ筑紫の海辺処々濫妨して帰る(文)。
頼基陳状に云く、建治三年の比江馬入道殿の御内の伺候の人四条中務の三郎左衛門尉頼基、日蓮聖人の御弟子として法華を信ぜしむ。
江馬は義時を云ふなり(東鑑三、十二丁に出たり)、代々皆江間と云ふなり、同十七(二十丁)江間太郎泰時、又十六(二十三丁)江馬太郎時頼、今時宗入道せる故爾か云ふなり、●に竜象房京都より追却せられて関東に下向す、鎌倉の桑ヶ谷の辺にして法門の不審有らん人は来つて不審を聞く可きの由風聞せしむる間、聖人の御弟子三位公、彼の所に至つて問答するの砌に三位と竜象と問答往復五問答あり具に往見す可し。又仰の状に云く、竜象房極楽寺長老見参の後は釈迦弥陀と仰くと云云、此の条又恐れ入つて候へとも彼の竜象房は京都にて人を食ふ由露顕の間、山門の衆徒末法に臨んで悪鬼国中に入りけり山王の御力を以て対治を加へんとて彼等が住処を焼失し其身を罰せんとする処に、自然とし身命を免れて鎌倉に下り隠れ居候程に、又人の肉を食ふ者多く出来り候、諸人一同に龍象房が所為と申し候、其に付て子細とも候にや愚癡の雑人共誑かされて信し候はん事すら浅猿く候し、仏と仰ぎ給候はん事、所従の身として主君の御誤を知り乍ら争か申し候はざるべき(文)。
南弥陀堂法印祈雨事に云く、さてかへり聞かしば同四月十日より南弥陀仏堂の法印に仰付けられて雨の御祈あり、此の法印は東寺第一の智人御室等の御師、弘法大師、慈覚大師、智証大師、の真言の邪法を鏡にかけ天台華厳等の諸宗皆●に浮べたり、其れに随つて十日よりの祈雨に十一日に大雨下り風ふかず雨しづかにて一日一夜ふりしかば守の殿余りの御感に金三十両馬やうやうの御引出物ありと聞へ、鎌倉中の上下万人手を扣き口をすくめて笑ふ様は日蓮僻法門申して巳に頸切られんとせしが、兎角してゆりたらばさでは無くして念仏禅を●るのみならず、真言の密教なんどを●る故にかゝる法の験しめでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けうさめて是は御あら義と申せし程に、日蓮が申す、しばしまて弘法大師の悪義誠にて国の御祈となるべくば隠岐の法皇こそ軍にかち給はめ御室最愛の児せいたかも頸を切られざるべし、弘法の法華経は華厳経に劣れりと書ける状は十住心論と申す文にあり、寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は秘蔵宝鑰に候、天台大師を盗人とかける状は二教論にあり、法華経をとける仏をば真言宗が履取にも及ばずとかける状は正覚房が舎利講の式にあり、かゝる僻事を申す人の弟子南弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば龍王は法華経の敵なり梵釈四王に責られなん子細ぞ有んずらん、弟子共の云く何なる子細のあるべきぞと、おこづきし程に、日蓮云く善無畏も不空も祈雨の祈には雨はふりたりしかども大風吹きて有りけりと見ゆ、弘法も三七日過きてふらしたり此れはふらさぬが如し、三七廿一日にふらぬ雨や有るべき設ひふりたりとも何の不思議か有るべき、天台の如く千観なんどが如く一座なんどこそたうとけれ、是れは一定やう有るべしと云ひも合せず大風吹き来て大小の宅、堂塔、石木、御所等或は天に吹上ほせ或は地に吹入れ空には大なる光物とび地には棟梁乱れたり、人々をも吹殺し牛馬多く死す、悪風なれども秋は時なれば猶許す方もあり此は夏四月なり、其の上日本国にはふかず但関東八箇国、々々々にも武蔵相模の両国、々々の中には相州に強くふく、相州にも鎌倉、々々にも御所、若宮、建長寺、極楽寺に強くふけり、只事ともみえず偏に此の祈の故にやと覚えて或は笑ひ或は口すくめし人々もけうさめて有りし上、我弟子共あら不思議やと舌をふる、本より期せし事なれば三度国を諫めんに用ひずば国を去るべしと(文)。
報恩抄下に云くさにてあるらん、去る文永十一年四月十二日の大風は南弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨の祈に吹きたりし逆風なり、善無畏、金剛智、不空の悪法を少もたかへず伝へたりけるか心にくし(文)。

一、身延山入御。
金吾抄に云く、人々の言葉様々なりしかども旁存する旨有りしに依つて当国当山に入。
下山抄に云く、本より存知せり国の恩を報せんが為に三度までは諫暁す可し用ずは山林に身を隠さんと思ひしなり、又上古の本文にも三度諫めて用ひば去れと云ふ本文に任せて且らく山中に●入りぬ(文)。光日房抄に云く、同き五月十二日に鎌倉を出てぬ(文)。
吉伝皆十二日には鎌倉を出でゝ酒匂に宿したまふ、十三日竹の下、十四日車返、十五日には富士の大宮、十六日南部、十七日甲斐国波木井郷入御なり。
別して延山に御入り候事、家々の所伝不同なりと雖も富士の所伝略して之れを書く、東条の景信等の類国々之れ多し然るに甲州は此の如き徒党近隣になきが故に此の地に移りたまふ、其の故は波木井の一家は皆日興の一門なり、南に松野(河合日興、最初の弟子日持の所生)河合は興師外祖の領分なり、北には大井は興師の所生、かちか沢等は皆日興教化の地なり、故に此の処に三箇寺建立したまふ所謂る妙法寺血脈は日興、日華、日伝と列らぬ、蓮華寺は日興、日妙と列ぬる、経王寺は日興、日経と列ぬるなり、証拠は日興自筆の本存●に弟子分の名帳に之れ有り、寺号は大聖人の付けたまふ所なり、上野廿家は興師の弟子寂日坊所生、小室の日伝は寂日房の弟子なり、逸見本門寺は興師弟子越後公日弁の建立也、此の如く甲斐の国は日興御弘通の地なり弟子衆国中に充満する故に此処に入御したまふ。
此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり。南弥陀堂法印祈雨抄に云く、されば故弥四郎殿は設ひ悪人なりとも、うめる母、釈迦仏の御宝前にして昼夜歎き弔らはゞ争てか彼人うかばざるべき、何に況や彼人は法華経を信したりしかば親を導く身とぞなられて候らん、法華経を信ずる人はかまへてかまへて法華経のかたきを恐れさせ給へ、念仏者と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さゞらん者をば何に法華経を読むとも法華経のかたきと知ろし召すべし、敵を知らずは敵にたぼらかされ候ぞ(文)。
此の書を受て波木井の一家法華の敵を許容せざる故に他宗とも一向に出入せず、後に日向の教化によりて謗法とも出来するなり。
地引抄に云く、次郎殿等の御兄弟、親の仰せと申し我心にいれておはします事なれば我と地を引き柱をたて(文)。
実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重、次郎殿、三郎殿其の外原殿を弥六と申す長義なり、其の外、孫次郎、孫三郎、又太郎殿、右馬頭等見聞の及ぶ所此くの如し家の系図知らざる故委細に之れを出たさず。妙法尼抄に云はく六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず巳に五箇年を経たり(文)。一御行法之事。
化導記に云く、毎日早旦に一巻経の読誦之れ有り、次に日天に方便、寿量、宝塔品、勧持品、涌出、神力品等用品誦したまふ、日中談義日夕方便寿量云云。
今謂く富士に蓮祖御在世の時の日記之れ有り略要の行法なり、是れ末代門弟子行法軌則なり尤易行なるべし、既に法然の易行を破して当家の易行を立てたまふ、若し爾らずと云はゞ難行道に落ちて法然の所破とならん、いかでか其の義あらんや、凡そ当家の意は要行を以て正行とすることは末代凡夫の機を勘へて行し易き故、然りと雖も読誦の助行を修することを妨ぐ可からず高開両師此の意なり、先つ正行をいはば本迹両門の不同有りと雖も倶に滅後利物を以て正意と為すなり、故に迹門正宗八品●に涌出寿量の意皆南無妙法蓮華経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり、一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり、所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり、故に四信五品抄に云く檀戒等の五度を制止し一向南無妙法蓮華経と称ぜしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり、是れ則此の経の本意なり、一向の言の顕す所、七字口唱等を以つて正行と為すなり、名字即の凡夫の正行は余行に亘らざる故なり、是れ則此の経の本意なりとは寿量品の意なり此れを以つて法華本意随自意と為ることなり、本門寿量の妙法経力の爾前迹門の経力に勝れたることを顕さんがためなり、前四味の中に於て蔵通別の経力弱くして悪人を助けざる故に師弟共に高位なり是れを弘の六に云く教弥権なれば位弥高しと、前四味の中の円教の経力強盛にして而もも能く下機を摂する故に、観経に云く五逆十悪諸不善を具す(乃)至則極楽世界に往生することを得(文)、是れ則前四味の中の三円相待一往の意なり、再往三五下種の功を奪ひ取つて熟益と号し久遠下種の功と名くるは本門の法然なり、然るに玄義の六に三の下種退転の位を釈して云く名字観行の益は生を隔れば則志す(文)、信解品の記に之を釈して云はく退者多く五品の位の前に在り、不退に対する為に且らく五品を以て退位と為すのみ、此の釈名字即を以て退位と為し観行即を以て不退と為す是れ即迹門の意なり、分別品の本末の釈の意名字即を以て不退と為すなり、況や観行即をや、四信五品抄に此の義を釈して云く四味三教より円教は下機を摂し、爾前の円教より法華経は下機を摂す、迹門より本門は下機を摂するなり教弥実なれば位弥下の六字に意を留て之れを案す可し、又云く直専持此経とは一経を指すに非す専ら題目を持つて余文を雑へずと云ふなり、尚一経の読誦を許さず何況や五度をや、此の文の意唯妙経五字七字の題目を持つて方便寿量の余文を雑へず、なお方便寿量を雑へず況や一部読誦をや況や五波羅密をや、此の義は名字即の正業を顕す釈なり、若し名字初心の凡夫方便寿量の読誦を以って正業正行と為し経力の勝用を顕すとは読誦に摂せざるを人皆成仏す可からざるか、是れは本門寿量但怯弱とするなり、亦難行道となるなり、故に名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず亦一部八巻に非るなり、必す正業正行と名くる事、四信五品抄に云く、初心の者兼ねて五度を行すれば正業の信心を妨くるなり、此の文的く正業と云ふ故なり、日興記に云く題目は正行なり二十八品は助行なり正行に助行を摂す可し。
報恩抄下に云く、有智無智をきらはず一同に他事を捨てゝ南無妙法蓮華経と唱ふべし(文)。取要抄に云く、日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行所伝の南無妙法蓮華経なり(文)。上野殿御返事に云く、今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし但南無妙法蓮華経なるべし、高橋入道殿御返事に云く、法華経は文字あれども衆生の病の薬とは成る可からず(文)、此の如き等の要文録内に甚た多し皆名字即の正業正行を判じたまふ文なり、又取要抄に云く若し逆縁ならば但妙法蓮華経の五字に限るのみ(文)、是れ逆縁に約しての正行なり、助行いたりては或は毎自作是念の文を唱へ或は自我偈或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広して一部読誦をなす、七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり、上に挙くる所の日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む或は是れ法華経の文字は有ども衆生の病の薬と成らず類の御書どもは或は正業正行に約し或は逆縁に約し或は過時の天台宗に約し或は習はざるの謂に約して判じたまへり、順縁の前に至つては然らざるなり。
次に逆縁に約して判ずとは取要抄に云く、若し逆縁ならば但妙法蓮華経の五字に限るのみ、其の例不軽品の如し、我門弟は順縁なり日本国は逆縁なり、○広略を捨て肝要を取る云云、順縁の前に於ては経に云く、若し自ら持ち、若は人を教て持たしめ、若は自ら書き若は人を教へて書かしむ(文)、此の経文羅什の存略にして最初最後を挙げたり故に中略の義知りぬ可し、天台は自行五法、化也五法云云、高祖自ら五種の妙行を修行し又他に教へて五種の妙行を修行せしめたまへり、されば蓮祖我読誦を挙けて云く今日蓮法華経一部読んて候、一句一偈尚受記を蒙れり何に況や一部をやと弥々たのもし(文)是れ若自読なり、真間供養抄に云く法華経一部を仏の御六根に読み入れ進らせて生身の教主釈尊に成し進らせ(文)、此れ伊予房をして一部読誦をなさしむ是若教人読なり、月水抄に女人の一部読誦を許諾して次下に判して云く二十八品の中に殊に勝れて目出度きは方便品と寿量品とに侍り等云云、是れ女人に教へて二品読誦の相なり、又云く余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候と是れ女人に教へて一部読誦の姿なり、法華抄に云く、法華経読誦五部と蓮祖称歎の言を加へたまふ是れ又若教人読なり、若自読若教人読其の義此くの如し、亦高祖法華経一部書写の事多般なり、日興又法華経一部書写したまふ当時霊宝随一なり、若自書若教人書其義斯くの如し。次に過時天台宗に約することをいはゞ、観心本尊得意抄に云はく従ひ天台仏教の如く法の まゝに弘通ありとも今末法に至つては去年の暦の如し(文)、此の文意末法に至つては天台の如く法華三眛に入り一念三千の観念を作すと云ふとも去年の暦の如くなる故に、天台宗の意を以て読誦書写を作すも是れ仏因とは成らざるなり、是れは文字はありて薬と成らざるの義なり、次に不習謂とは一代大意抄に云はく此の法華経を謂れを知らずして習ひ読みと雖も、但爾前経の利益なり(文)是れ亦法華経は文字はあれども衆生の病の薬とは成らざる義なり、高祖●に弟子檀那一部読誦の相斯の如し、然りと雖も、毎日一巻経の証文を見ず日中等には其の行相称記し難し、されば忘持経抄に云く然る後深洞に尋ね入つて一の菴室を見るに法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞こゆ(文)、曽谷抄に云はく、仰も貴辺の去る三月の御仏事に鵝目其の数有しかば今年一百余人の人を山中に養ひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(文)、文の如くんば読誦三時にかぎるにはあらず下山抄の如し、談義は檀那の参詣次第亦門弟子の不審次第に談義あり、亦強仁状御返事には昼は国主に奏し夜は弟子に語る等云云、又要品勘文を誦したまふ事、祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候、日蓮も信し始め候し日より毎日に此等の勘文を誦して候て仏天に祈誓し候によりて種々の大難に遇ふと雖も法華の功力に釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり(文)、此れ等の諸御書を以て当家行学の相を分別したまふべし、或抄に云く、日蓮の流をくめる輩は初中後ともに台教の学を盛にす況や観道に於ては智者大師説己心中の観門を研習し乃伝教大師義真大師までの風を学す、(乃)至此れ順機の衆生に就て事理二行を存すべし観念と信心なり、(乃)至信力の一行に於て広略要の三種を惣せり、○直に約行の観門を修する儀は虧けたれども伝教大師の血脈に法具の一心三観と云ふ伝授あり、法華の題目一心三観の妙行を具足するの伝なり(文)。
此文に台教の学を盛にすとは昔は御書学文を専として後に台家を窺ふ、飯高にて教蔵院日生、文甫日尊時代より玄義文句を講談せしより巳来天台の学を専として当時は御書を周覧せぬ仁甚た多し、是の故に当家の相承習ひ失て一向天台宗となれり、是れ其の謂れ無きに非ず御弟子衆京都鎌倉に状を捧けらるゝに天台沙門日昭、日朗、日向、日頂と書いて奉上したまふ。日興一人上行菩薩の再誕日蓮聖人弟子日興謹言上と書いて上りたまふ是れ一致勝劣の大論の根元なり、此の時の執情を忘れざる故か又は祖師の義を助けんためか旁不審あり、又智者大師説己心中所行法門とは理一念三千とや為ん又事の一念三千とやせん、若し法具の一心三観なりと云はゝ此れは是天台宗所弘の大法なり全く日蓮所弘の事の一念三千にはあらず、若し又妙法の一念三千、依正の一念三千本理の一念三千なりと云はゞ是皆天台妙薬所弘の理の一念三千にして、当家事の一念三千に非ず、伝教大師法具一念三千是亦伝教所弘の法にして高祖所弘には非ざるなり、されば昔より法度を定て云く当門流に於ては御書を心肝に染めて極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事、是日興の遺誡なり。次に事理二行とは是又当家に於て終に聞かざる事なり、従ひ法華三眛に入り一念三千の観念を作すとも去年の暦の如しと云へる故に仏因とは成らざるなり。
八月、日興伊豆の国に於て日目を教化して弟子と為す。
十月筑紫の早馬六波羅に来り蒙古の賊船、対馬の嶋に到て合戦すると告ぐ(文)、(家譜)、一覧に云く蒙古の兵船対馬の嶋へ寄せ来る武士等防き戦ふ、蒙古の兵法乱れてとゝのほらず其の上矢だねつきければ筑紫の海辺処々濫妨して帰る(文)。
十二月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ。
後宇多院。
建治元(乙)亥、家譜に云く、鎮西蒙古●に高麗人等を送る、洛に入らず直に関東に来る(文)、一覧に云く、蒙古の使者杜世忠等日本へ渡る高麗の人も同く来る、太宰府にてこれを改めて杜世忠三人を鎌倉へ遺はす洛中へはいずれ書簡来ると云へども返簡にをよばず(文)。
日興、甲斐国上野二十家に於て村人●に日華を教化す。
八月四日乙御前参詣す、日統抄に云く、鎌倉に兎も角もしたまふ御檀那之れ有り聖人へ御志深き人なり、夫に離れたまひて女一人持ちたまふ其の名を乙御前と云ふなり(文)。
今謂く此の説偽なり中山富木五郎入道日常子息三人之れ有り、嫡子伊予房日頂、中は寂仙坊日澄、富士日興に帰伏して学頭となれり、末は姫なり乙御前是なり、後には三人ともに富士に帰入して重須に於て終焉なり、今に墓所之れ有り、予若年の時、真間日感開山の墓参りとて重須に参詣せり眼前に見る所なり、乙御前佐渡身延参詣の事御書上に之れを引く故に之れを略す。
十月南条七郎次郎平時光に本尊を授与したまふ。
二年(丙)子卯月八日、郷公日目出家して高祖の侍者となるなり、○
真間の日頂に本尊を授与す此の本尊に十二神勧請之れ有り。
四月十五日、大元の使、長門国室津の浦に着く、八月件の新使五人関東に召し下さる、九月七日龍口にて首を刎らる(保暦間記)。
三年(丁)丑。
日興の甲州駿州両国の弘通広大なる故に日法日弁を以て日興に付せらる、之れに依て日法は東方田中大野に弘通あり、日弁日秀は熱原入山瀬に弘通したまふ、日法の弘通所は今の光長寺是なり、日弁の弘通所は滝泉寺是れなり日秀の弘通所市庭寺是なり、何も随力演説のある中法華折伏破権門理諸人に越えたる故熱原賀嶋田中処々多分法華宗となる、其の時実相寺の別当厳誉律師云く近隣多く以て法華宗となる其の根元寺中にあるの風聞の間僉議して速に追出せらる可し彼の日蓮は仏法の外道、邪教を以て正義を改めしむるの間、寛宥の沙汰いたすべからず云云、時に日興云く我師日蓮は当時の聖人なり然るを外道と号する事謂れ無し、亦日蓮法華経を弘通せり是れを以て邪教と称する事何の経論に出たるや其の証文を出す可しとぞ責めたまふ、●に因つて大衆二に分れて外道非外道の論止む時なし、●に於て厳誉訴状を以て鎌倉に捧け日興亦実相寺の申状を奉行所に上けて裁許を請ひたまふ。
弘安元(戊)寅、此の訴状三月に鎌倉の奉行平の左衛門入道の許に上かる(其状日興伝出たり)。
延山蟄居の後御弟子衆の請により法華経の御講釈あり、日興度々聞を集め部帙を成して御義口伝と名つく亦日興記と号するなり。
二年(己)卯。日興三大秘法決を筆記、○

実相寺厳誉行敏状に習うて強仁上人の状を日蓮に附く、即御返事下されしかば此の返状を以て鎌倉に訴訟す、然りと雖前々強言とも符号するが故に取り上げず、之れに依て最明寺極楽寺の後家尼御前達に取り繕ひて讒言せしかば即平左衛門尉に仰付けらるゝ故、頼綱数百人の兵士熱原田中にさし遺はし寺二箇寺を破却し檀那の頭領二十四人を召しとり鎌倉の土の篭にぞ入れたりける。此の時越後公日弁と下野公日秀と二人は杖木瓦石の大難を忍辱の膚にうけたまふ、同十一月朔日亦日興滝泉寺の申状を捧けて訴訟したまふ(其の状とも別帋に在り)、大聖人は両人の衆褒美として大曼荼羅を下され称歎の言を加へたまふ、亦篭中の人々には御書を下さる(聖人御難抄と号するは是也)其使も日興なり、篭舎の人々は熱原郷住人神四郎、田中四郎、広野弥太郎なり残りは或は所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取りたまふ。三年(庚)辰正月十一日、血脈抄上下日庚に賜ふ亦本尊の相伝之れ有り、○二月元の使も杜世忠を殺す家譜、一覧に云く、此の事伝へ聞けるにや蒙古の大将等大軍を率ひて日本を滅さんとはかるよし、きこへければ公家より伊勢へ勅使をつかはさる、諸寺諸社へ祈念せらる、北条時宗鎌倉に居ながら筑紫の武士等に命じて防戦の備をなさしめ、関東より軍兵あまたのぼせて主上東宮を守護し奉り本院(後深草)新院(亀山)をば関東へ御幸なし申すべしと評定す、又筑紫の左右によりて両六波羅の兵鎮西へ下向すべしと下知せらる(文)。
聖人御難抄に云く、各獅子王の心取り出たしていかに人おどすとも落る事なかれ、師子王は百獣におぢず師子の子も亦此の如し、彼は野干のほゆるなり日蓮が一門は師子のほゆるなり、故最明寺入道殿の日蓮をゆるしゝと此の殿のゆるしゝは失なかりけるを人々の讒言としりて許るしゝなり、今いかに人申すとも聞ほどかずして人の讒言用ひ給ふべからず、○一定として平等も城等もいかりて此の一門を散々となす事も出て来らば眼をふさいで観念せよ、当時の人々の鎮西へか指されんずらん、又行く人も彼しこに向へる人々も我か身に引きあてよ、当時までは此の一門に此の歎きなし、彼れ等は現には此の如し死しては又地獄へ行くべし、我れ等は現には大難にあふとも後生には仏になりなん、譬へは灸治の如し当時はいたけれども後の薬となればいたくていたからず、彼のやつはらの愚癡の者等いひはげまして、おどす事なかれ、彼れ等には只一同に思ひ切れ、よからん事は不思議わるからん事は一定と思へ、ひだるしと思はゞ餓鬼道をおしへよ、さむしと思はゞ八寒地獄を教へよ、おそろしと云はゞ鷹にあへる雉、猫にあへる鼠を他人と思ふことなかれ、此れ等こまごまとかき候事はかく年々月々日々にて申し候へども、名越の尼、少輔房、能登房、三位房なんどの様に臆病、物おぼへず欲ふかく、つたなき者共は、ぬれる膝に水をかけ空をきるやうに候ぞ(文)。此書を下ださるゝ各我不愛身命但惜無上の志を発す、其の中に熱原郷住人神四郎、田中四郎、広野弥太郎是の三人は法華宗の張本とて平の左衛門尉が為に頸を切らる其の外の人々は追払はるゝなり、大聖人も其の志を感して御弔ひ之れ有り、又上野抄云くあつはらの者共のかくおしませ給へる事承平の将門、天慶の純友の様に此の国の者共は思ふて候ぞ、是れは偏に法華経に命を捨る故なり全く主君に背く人とは天は御覧あらじ(文)。
高橋抄に云く、今に至るまで不便に思も進らせ候返事も申さず候き(文)、日興亦彼の菩提を弔ひたまふ其の中に本尊を書写したまふ、其の端書に云く、駿河国富士下方熱原の郷住人神四郎法華宗と号して平の左衛門尉が為に頸を切らる三人の内なり、平の左衛門入道法華衆の頸を切るの後十四年を経て謀叛を企つる間誅せられ畢ぬ、其の子孫跡無く滅亡し畢ぬ、徳治三(戊)申卯月八日、日興(在判、此の本尊重須に在り)、平左衛門入道果円●に飯沼安房守等一家の滅亡永仁元年にあり次下見る可し。
妙一女御書に云く、法華経を信ずる人は冬の如し冬は必す春となる、いまだ昔よりきかずみず冬の秋にかへる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文に若有聞法者無一不成仏と説かれて候、故聖霊は法華経に命をすてゝおわしき、わづかの身命をさゝへし処を法華経のゆへにめされし命を捨つるに非ずや、彼の雪山童子は半偈の為に身をすて、薬王菩薩は臂を焼き給ふ、彼れは聖人なり火を水に入るゝが如し、此れは凡夫なり紙を火に入るゝが如し、是れを以て案するに聖霊は此の功徳あり(文)。大聖人山居の後、近隣の真俗聴聞の為に多く以て参詣す、其の中遠州より新池左衛門参詣三百里に余る道を、とをしとせずして参りたまふ志を感じて御書を下さる、又甲州下山若嶋の内に一宇の御堂建立して南弥陀仏を安置す寺をば平泉寺と号するなり、下山兵庫五郎光基の所領なり、住僧有り因幡房と名つく聖人に帰伏す後日永と名く、此の時地頭光基、難状を因幡房に遣はす、其の返事を大聖人遊ばされて遺したまふ、之れに依て光基も亦受法す此の時の御書を所の名に寄せて下山抄と云ふなり。
四年(辛巳)正月蒙古の大将阿勅●、范文虎、忻都、洪茶丘四人、十万人をひきい六万艘の兵船にて海に浮ぶ、阿勅●は路次にて病にかゝれり范文虎等軍評定まちまちなりし故一定しがたし(一覧)。年代記に云く、五月廿一日蒙古来船四千艘二十四万人(文)、家譜に云く、大元の大将阿勅●、范文虎及ひ忻都、洪茶丘十万人を率ひ来り日本を攻む九州の人防き戦ふ(文)。
太平記三十九に云く鼓を打ち兵刃既に交る時、鉄鉋を二三千一度に打ち出しければ日本兵皆打殺さる、閧櫓に火燃え付いて打消す可き隙もなし、此の軍を見叶はじと思ければ筑紫り者も四国中国へぞ落ちたり、日本国の貴賎上下如何がせんと周章て騒く事斜ならず、内裏には諸社へ行幸、御幸、諸寺大法秘法の宸襟を傾け胆を砕かる、大小の神祇霊験ある仏閣に勅使を下さる奉幣を捧げらる、御祈念満じける日、諏訪の湖上より五色の雲西に聳き大蛇の形見ゆ、八幡の宝殿の扉の啓らけ馬馳せちる音、轡の鳴る音虚空に充満す、日吉社廿一社の錦帳の鏡動き神宝の刃とがれ御沓皆西に向ふ、住吉四所の神馬鞍の下に汗流れ、小守勝手の鉄の楯己れと立つて敵の方へつき雙べたり、凡そ上中下の廿二社の震動奇瑞は申すに及はず、神名帳に載る所の三千七百五十余社其の外の小神までも御戸の開けぬは無りけり、弘安四念七月七日皇太神宮の禰宣連署して起請を捧げて上奏しけるは二宮の末社、風の社の宝殿鳴動する事良久し、六日の暁天に及んで神殿より赤雲一村立ち出で天地を耀し山川を照す、其の光の中より夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神顕れ出で土嚢の結目をとく、火風其の口より出で砂漠を掲げ大木を吹き抜く、測り知りぬ九州の夷狄等此の日即滅ぶ可しと云ふ事を(文、取)意。
保暦間記に云く、四年閏七月一日蒙古数千艘の舟に乗つて寄せ来る五龍山に至りて大風ふいて舟ことごとく破損す、本朝の諸神あらはれて御合戦有りけるとかや(文)。
一覧に云く七月蒙古の兵船のこらず日本の平壷に着く其れより五龍山へうつる。筑紫の武士とも待かけて合戦せんとするところに八月一日大風吹きて蒙古の船悉く破損す、范文虎等の諸大将はよき船に取り乗つて行方しらず逃げて行く、十万の軍勢は五龍山の下に漂ひありしかば兵粮なくして飲食せざること三日に及ぶ、されども諸人相談して帳百戸と云ふものを物頭とし船を造りかへんとするところに、同七日日本の兵ども押し寄せて攻むれば蒙古戦ひまけて討るる者多し、打残されたる三万人をば日本の兵ども皆これを生捕りて八角嶋にて、ことごとく斬り殺す、其の内干閭莫青呉万五と云へる三人ばかりをゆるして此の趣をかたれとて国へ帰らしむ(文)。

薗城寺の申状を以て奏聞したまふ御使日興日目なり天奏の最初也。
五年(壬)午二月御書を日興に下ださる死活抄とするなり(御筆西山に之れ有り)、本尊七箇決、教化弘教七箇決、日興に伝授したまふ又、補処遺状日興に下ださる。
九月八日午の尅身延沢を出御す、其の日は下山兵庫五郎の所に宿し九日には大井の庄司入道の所に(即日興親父の所なり)、十日曽禰次郎(日興弟子の所棲也)、十一日は黒駒、十二日は河口、十三日呉地、十四日竹の下、十五日は関本、十六日平塚、十七日瀬谷、十八日五尅に武蔵国荏原郡千束郷池上村右衛文太夫宗仲が家に着きたまふ即此の所の地頭なり(池上は代々大裏の御大工也宮の御供して下向し此の所を下され領知せるなり)。
同九月二十五日より安国論の御講釈あり之れ安国論に付て疑難を加る者あるが故なり(日興亦安国論問答大意一巻筆記したまふ)、鎌倉●に安房上総下総の弟子檀那群参して種々の御法門之れ有り、此の時聖人仰に云く三七日の内に死すべし云云、其の時地神悲啼して身を震ふ可し(諸伝皆同)此の語兼知死期の証拠なり、されば佐渡抄には日蓮去る時七難必起るべしと(巳)上、此の中には一難を挙げたまへり身延を出で此処に到りたまふ。又十月八日本弟子六人を定めたまふ此れは是れ滅後当宗仏法の大奉行なり、年来兼知末萠虚からず争ひて此の一事虚ならんや。
波木井に遺はさるゝ御書に云はく。
畏みて申し候、道の程別の事候はで池上まで付いて候、道の間山と申し河と申しそこばく大事に候けるを君達に守護せられ進らせて難も無く、是れまで付いて候事恐れ入り候ながら悦び存し候、さてはやがて帰り参り候はんずる道にて候へども所労の身にて候へば不定なる事も候はんずらん、さりながら日本国に、そこばくもちあつかひて候身を九年まで御帰衣候ぬる御志申す計りなく候へば、いづくにて死し候とも墓をば身延の沢に立てさせ候べく候、又くりげの御馬はあまりおもしろく覚へ候程にいつまでも、うしなうまじく候(明恵上人の犬愛例あり)、常陸の湯へひかせ候はんと思。候が若し人にもとられ候はん、又そのほかいたはしく覚へ候へば湯よりかへり候はん程、上総のもはらの殿の本にあつけをきたてまつるべく候に、しらぬとねりをつけて候はばおぼつかなくおぼへ候、まかり帰り候はんまで此のとねりをつけをき候はんと存じ候、其やうを御存知のために申し候恐々謹言。
弘安五年九月十九日     日蓮(在御判)
進上波木井殿

十月八日弟子六人定めたまふ。
御祈祷経副状に云はく惣六老僧の中へ進じ候(巳)上、此の書は延山居住の内の御書なり御遷化記録亦御遺言なりともに棄て置く可からず和会して心得たまふべし。
宗要抄に云く、日蓮上行付属の法門を弘めんが為に六万恒河沙の眷属を司つて六人の付弟を定む所謂日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持(巳)上、此の六人の遺弟の外日蓮が弟子と称し法華の法門を弘通すと号して邪義を弘め師匠の悪名を高くす可きの大僻見謬迷の者有らん(文)。
此の書偽書なり其の証此等の文を見たまふべし此の書は弘長元年の書なり、此の節日朗十八歳日興十七歳日向九歳日頂五六歳の小児なり之れを以つて之れを知れ偽書歴然なり、此の書は引用す可からずとも雖も好んて録外を用る者のために之れを引いて偽書と知らしむるのみ。
御入滅。
御伝に云く、十月十二日酉の尅、北面に座したまふ御自筆の大曼荼羅をかけ奉り前に机を立て香華燈明を供したまふ御遺告之有り、十三日、辰の刻臨終の御勤め方便品、寿量品、異口同音に之れを誦したまふ寿量品の中間に本湟槃妙に入りたまふ(文)。
諸伝に云く御遺言に全身を瓶に納れ奉り身延山に送り置け云云。
此の段分明の証拠なし但御化導記に下総本土寺の開山日典の記録抄に之れ有り日朝之を見て註し署くなり、御臨終の刻日典有り合せらる可からず其の故は日朗の御弟子衆日印二十歳、日像十四歳、日輪は永仁二誕生、高祖十三年忌の年の生なり、其次の日伝年推量せらるべし此の日伝は高祖の滅六十年存生する也、故に日伝諸人の伝説を記するか、日朗之を記する年序勘へざる誤案なり。
亦立像釈迦仏を安置せんと申しければ師面を振る云云、是亦不可なり御遺言あり聞く人誰か仏の事を申し出てしや曼荼羅を掛奉ること治定なり。

日蓮聖人御遷化記録。
一弘長元年(辛)酉五月十二日伊東へ流さる(御年四十)預り伊東八郎左衛門尉(立正安国論一巻造る最明寺入道殿奉る故也)。一同三年二月廿二日赦免。
一文永八年(辛)末九月十二日佐渡の島に流さる(御年五十)預り武蔵前司(極楽寺長老良観房の訴状に依也)訴状別紙に有り。一同十一年(申)戊二月十四日赦免。
同五月十六日甲斐国波木井身延山に隠居す 地頭南部六郎入道。
一弘安五年(壬)午九月十八日武州池上入御(地頭右衛門太夫宗仲)。
一十月八日本弟子六人定め置かる(此状六人面々に帯す可し云云)日興に一筆なり。
定弟子六人事(不次第)。
蓮華阿闍梨日持、伊予公日頂、佐渡公日向、白蓮阿日興、大国阿日朗、弁阿日昭。
右六人者本弟子なり仍つて向後のために定る所件の如し。
弘安五年十月八日
同十四日戊の刻御入棺(日昭日朗)子の時御葬ひなり。
一御葬送次第。
先火      二郎三郎(鎌倉住人)
次に大宝花   四郎二郎(駿河国富士上野住人)
次に幡     左、四条左衛門尉 右、右衛門太夫
次香      富木五郎入道
次鐘      太田左衛門入道
次散華     南条七郎二郎
次御経     大覚介
次文机     富田四郎太郎
次仏      大覚三郎
次御はきもの  源内三郎(御所御中聞)
次に御棺御輿也
         左
          侍従公
          治部公
          下野公
          蓮華阿闍梨
先陣大国阿闍梨
         右
          出羽公
          和泉公
          但馬公
          卿公
         左
          信濃公
          伊賀公
          摂津公
          白蓮阿闍梨
後陣弁阿闍梨
         右
          丹波公
          太夫公
          筑前公
          帥公
次天蓋     太田三郎衛門尉
次御太刀    兵衛亟
次御腹巻    椎地四郎
次御馬     亀王童 滝王童
一御所持仏教の事 御遺言に云く。
仏は釈迦の立像、墓所の傍に立て置く可し云云。
経は(私集最要文註法華経と名く)。
同く墓所の傍に篭め置き六人香華当番の時之を見らる可し、自余の聖教は沙汰の限りに非らず云云。仍て御遺言に任せ記する所件の如し。
弘安五年十月十六日 執筆日興(巳上全文)

裏の次日に四人の裏判之れ有り二人他行云云(日向日頂二人他行也)


墓所守る可き番帳の事(次第不同)
正月      弁阿闍梨
二月      大国阿闍梨
三月      越前公 淡路公
四月      伊予公
五月      蓮華阿闍梨
六月      越後公 下野公
七月      伊賀公 筑前公
八月      和泉公 治部公
九月      白蓮阿闍梨
十月      但馬公 郷公
十一月     佐渡公
十二月     丹波公 寂日房
右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可きの状件の如し。
弘安六年正月日

御葬送の後御骨を収め取りて御遺言に任せて身延山に送りたまふ、同十一月廿一日に池上を御出てあって飯田に宿し廿二日湯本、廿三日車返、廿四日上野南条七郎二郎が家、廿五日身延山に入りたまふ、四十九日に御影を御堂に移し奉り一百箇日に御骨を御廟の内院に納めたまふ。
諸伝云く同く廿九日ミソ木を取りて御影像を建立之れ有り四十九日の時御影堂に遷し奉る云云、此の説亦非なり、其の故は弘安二年に坂本尊彫刻し此の次てを以て末代未聞不見の者の為に御影を造立申し度きの望みありて先つ一躰三寸の御影を造立して袖裏にいれて大聖人に奉り免許を請ひたまふ、聖人此の像を掌上に置き之れを視、笑みを含み許諾、●に因て日法等身の御影を造立したまふ、滅後に造立と思ふべからず其の証拠日法の弟子日朝の自筆今大石寺に在り拝見すべきなり、其の上御衣の色平生の御そり髪をけして彩色の故に修理し奉る事もならざる也。

御書目録の事
註画讃に一周忌の時池上長栄本門寺にて日昭受筆して百四十余軸としたまふ云云、一周忌の御仏事身延山において修めたまふ事勿論なり証文出すに及ばず、而るを池上にて修すと云ふ事妄説なり、次に長栄山本門寺と云ふ事此の節寺号のある寺之れ無し、但甲州かちか沢に妙法寺、蓮華寺、経王寺、此の三箇寺は日興建立にして大聖人の付けたまふ寺号なり、此の外には寺号のある寺之れ無し、池上に法花堂はあり寺号はなし是れ宗仲が内の庵寺なり、元弘三年五月以後次第に広大になる故に寺号山寺号出来する也、次に合せて百四十余軸と為すは此の中に高祖御入滅の後十一年目、正応五年九月真間日頂の状あり是れも一周忌に筆記せられたるや、日澄は中山の目録なりとは知らざるか、富士の目録とは相違なり、六老僧御判形の事是れ又妄説なり、大概を挙ぐ委細に之を記せば際限ある可からず故に之れを略す。

編者曰く本山蔵御正本に依つて此を写す、但漢文熊の所は延べ書にす、引文の誤り等は止むを得ざる所の外は訂正を加へず、又本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ほ批判を加ふれども、或は細密に及ばざる所あり、読者此れを諒せられよ。

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