富士宗学要集第五巻
続家中抄
我か先師日精尊者、当門歴史三巻を編輯し家中抄と号す、上巻は開山師一代の行業、中巻は目聖巳下本六新六の事跡、下巻は其余の賢哲及び正嫡にして第五世より第十七代に至るの伝記なり、実に末世の亀鏡門家の至宝なり、是より来た数世の伝未だ曽て記する者有らざるなり、恐くは先聖の行功を放失せんか、拙愚悲歎の余り闇眛不了を顧みず聊か管見寡聞の一途を述べ以て後賢の補關を俟つと爾か云ふ。 天保丙申五月日四十八世某序 日精伝 釈日精字は了玄未だ生国姓氏を詳にせず、慶長五庚子年の産なり。 始め洛陽要法寺日「の弟子たり、後富士に登り就師に従て当家を習学し上総国宮谷檀林に遊学す、又同州沼田の学室に移り玄義集解等を講す、師天性聡敏にして学を好み頗る大量有り、松平阿波守至鎮公の室敬台院妙法日詔大姉深く当家の法義を信仰し江戸浅草鳥越に大伽藍を創建す、法諡を以て号を立て敬台山法詔寺と曰ふ師を請て寺主とならしむるなり。 寛永九壬申年十一月就師江戸法詔寺に下り金口嫡々の大事を以て師に完付す、盈師病に因湯治の為に会津実成寺に退隠し終に彼地に於て遷化したまふ、之に依て師同く十四丁丑年の春本山に移転し正嫡十八嗣法となる、諸堂塔を修理造営し絶を継き廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か。 師在職数年の後子細有り敬台院日詔尊尼と隙を生じて本山を退き江戸に下り下谷に一宇を建立し霊鷲山常在寺と号す茲に於て大に宗風を振ふ、本庄牛島常泉寺日優屡法義を論じ遂に屈伏して当門に帰す、同時下の総州仲田真光寺末寺と為るなり、加州屋敷藩中の者、師の説法を聴き法を受くる者尤も多し。 師在府の砌り京都本国寺と越後本成寺と本末の諍論久年止まず、時に本国寺の訴訟の文に曰く本末の支証富士大石寺に有り云云、仍て師を公庁に召す(寺社奉行小笠原山城守、加賀爪甲斐守御老中阿部豊後守等なり)、師曰く其の証本山の宝庫第三の筥の中にあり、即使を富士に馳せ興師所制の門徒存知抄を持ち来らしめ以て公覧に備ふ、其書の中に云く摩訶一日印と云ふ者有り予が法義を盗み取て越後国に於て盛に之を弘通せしむ云云、爰に於て両寺元来一致勝劣別派にて本末に非る事治定し裁許忽に落居し畢ぬ、本国寺筋なきの訴訟を起し御式目を違犯するの罪に由り現在日運僧正は退院蟄居を仰せ付けらる。 師当山入院の翌年寛永十五戊寅の春公儀年賀として下関し給ふ、日詔尊尼の御吹挙に由て登城の刻に下乗迄乗輿を免許せらるるなり。 師述作の書高祖御譜上下二巻、富士門徒家中抄上中下三巻、内外御書真偽決十巻同末抄数巻なり、天和三癸亥年の夏常在寺を長然日永師に付属し、同年冬十一月五日病無して安詳にして示寂す行寿八十四才、遺命に任せ荼毘して骨を富士に納む。 本師日「上人 (寛永十六己卯年十二月十八日行年六十才、始会津実成寺に住し後京都要法寺に移る二十代慧光院と号す) 父通達院乗玄 (慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり) 大檀那、敬台院抄法日詔大姉 (寛文六丙午年正月四日、阿州に於て薨す、東照宮御曾孫なり、御養女として伏見城より御入輿、阿州に於て二代目至鎮公の室なり、実は小笠原兵部大輔秀政の息女なり、権現宮未だ秀頼公の御後見五大老職の御時なり) 法詔寺 (江戸浅草鳥越に有り、後阿州徳島城下に引移り名を敬台寺と改む、本堂は当山に引く今の御堂是なり) 乗輿御免の事盈師御返書に曰く。 貴札披見致し候、御下り已後御堅射に勤仕遊ばされ喜入候、当所寺内並に手前事無為に罷り在り候。 一来春公方様へ御礼の砌り乗物にて下乗まで御赦免仰せ付けられ候趣き彼れ是れ敬台院様御影と目度存じ候、愚子有り難く存じ奉り候段御機嫌を伺ひ宜く申上げらるべく候、恐々頓首。 極月二十四日 日盈在御判 日精御上人御返事 日舜伝 釈日舜生国氏姓未だ詳ならず慶長十五庚戌年誕生なり、京都要法寺に於て出家得道す。 寛永六己巳年二十才にして江戸に下り芝上行寺に萬居す上の総州沼田檀林に遊学し小部を講す、当山精師と大檀那日詔尊尼と隙を生して精師富士を撤去し江戸下谷常在寺に移住す、之に依て当山無主なり、時に将軍御代替り御朱印改め有り爾る処当無住に就て将に廃地に及ばんとす、衆檀之を歎し後住の事を日詔尊尼に請ふ、尊尼其の噐を選たまふ法詔寺現住日感云く舜公に如く者なし云云、仍て尊尼、師をして当山に入院せしめ給ふなり、寛永十八年夏御朱印を頂戴せん為に出府し日詔尊尼及御子息阿波侍従忠英公の吹挙に由て事故なく御朱印を賜ひ畢ぬ(又三代家光公の代なり)、師下関の次に下谷常在寺に詣り精師に拝謁し師資の契を結ひ山に還る、其後精師尊尼と和睦有り信敬已前の如し、正保二乙酉初冬精師登山有りて同く十月廿七日暁天仏前に於て精師より、金口嫡々の大事を相承し正的第十九の嗣法なり、在職十年法を典師に付し下条邑下之坊に閑居す、寛文九己酉年十一月十二日を感し寂を示す寿六十才なり。 師創むる所の寺、江戸本所中の郷正栄山妙縁寺当国上井出村信行山本証寺なり。 本証寺後詳師の代享保中に常州牛久に引寺す、其後又日量代に文政中同州筑波郡八丈村に引寺す、願主江戸妙縁寺八丈嶋佐々木定右衛門、法号信行院泰山本寿日証(天保四癸巳年三月廿四日)。舜師自筆の書に云く、 京都要法寺にて出家し江戸上行寺へ出入す、上総沼田談林にて勤学其の節了玄に(十八代精師の事)頼まれ敬台院様御母儀法誉知鸛禅定尼(小笠原秀政室峯高寺殿)十七年忌万事肝煎入り、其の上法詔寺の御建立御法事毎度御用相勤む、然る処、日精本寺大石寺再興ありて日精両寺住寺たり、其の後敬台院様の御意に背かれ両寺之れを退出す。 一其の跡法詔寺には日感住持し大石寺無住にて一両年も相過き候由御朱印改め有り、無住の寺へ御朱印下され間敷の由に付き、大石寺衆檀敬台院様へ相願ひ日舜を指図に依て日感肝入にて当山へ入院し江戸へ下り精師に面謁し其の後御朱印頂戴す。 一精師乙酉十月廿六日登山、同く廿七日の暁御相承並に住物御引渡し之れ有り。 一後住三玄日典儀は先住日就の弟子日詔様御取立て法詔寺の住持に仰付けられ候処、退居して総州談林相勤め申し候。 一大石寺衆壇彼の三玄日典を某後住に願ひ候に付き敬台院様へ相伺ひ入院申し候事、日舜在寺出入十箇年なり等と云云。 (右の書付下条下之坊什物長物の中に切々になり之有る処続き立て日量在職の尅御宝蔵長持の中に納め置くものなり) 又精師御書附に云く正保二年九月病中血脈相承相違なく相渡す云云。 又御相承相違なく御渡の証文下谷常在寺並に久米原妙本寺に之れ有り、何れも精師御正筆在御判明鏡なり之れを疑ふべからず。 一舜師当山入院の節、法詔寺日感より檀頭への書状の略云云 然れば日舜未た御若年に候間寺檀定て軽々敷思召候はんかと笑止に存じ候、其の故は抑日蓮一宗御書判の趣を以て一宗を弘め候事、諸寺一同の儀に候得共、別して、大石寺事は金口の相承と申す事候て、是れ相承を受く人は学不学によらず生身の釈迦日蓮と信する信の一途を以て末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座候、天台宗は寺檀ともに智者にて候間、一念三千の観法を弘め知恵を以て仏種を養育せる事にて候、日蓮宗の寺檀は愚者にて候間但信の一字を修して仏種を植え候、経文明白に閉山の御本意之に過きず候、是れを以て日興上人末代を思召し此の相承を残し置き給へり其の意趣を尋候に若し身の能徳を以て主と定めば学者を信し非学者を謗して仏種を植えざるのみならず、謗法の咎出来して無間獄に入り候はんこと不便に思召し其器量の善悪を簡ばす但相承を以て貫主と定められ候、故を以て一山皆貫主の下知に随ひ貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候、○釈迦日蓮代々上人と相承の法水相流れ候へば上代末代其の身の器は替れとも法水の替る事少しも之なく候、此くの如く信する時は末代迄も仏法松柏の如くにて常に寺檀仏種を植え三宝の御威光鎮に於閻浮堤広令流布は疑ひなき事に候、此旨を相知り候上は如何様の僧貫主となるとも相承伝受候上は生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候、袋くさしと、云って金を御捨て候はんや、いらんをにくまばせんだんを得べからず、淤泥をきらはゞ蓮を取るべからず、若しさはなくして世間の貧瞋痴にふけり互に述懐を起し学者非学者を簡み軽漫の志あらば謗法の苦因を御植え候はん事必せり、信解品の文の如くたるべし、富士の法則日有上人の御遺文に御背き候はゞ将来いかゞ候はんや、但(賛字滅す)者法を日昌上人の御仰せのごとく成され候はゝ法灯再ひ富士の峰にかゝやき(此間字磨滅す)八識の田地に仏種を御植え候はんか、愚僧ごとき者の申すはをろかなる事に候ども年来の芳志浅からず存じ候故、微志を呈し以て報恩を存し候故にて御座候、不宣謹言。 八月廿五日 学優判 伊出与五右衛門殿 熊窪三郎右衛門殿 小山藤左衛門殿 同 其兵衛殿 参 日典伝 釈日典、字は三玄生国姓氏未た審ならず、慶長十六辛亥年誕生なり、幼年にして出家し京都要法寺日恩の弟子となるなり富士に登り日就上人に師事。 敬台院日詔尊尼御取立の僧なり、尊尼、師をして法詔寺の主たらしめんと欲するや、師固持して命に応せず上総沼田妙経寺檀林に遊学す、時に寛永十八辛巳年の春、檀林に於て諍論起る師等二十余人彼の地を避け同郡細草村に移り新談所を創立し号けて法雲山遠霑寺と云ふ、師爰に於て名目集解を講するなり。衆檀の慇請に依て当山に入院し舜師の付属を受く正嫡第二十世なり、在位数年法を忍公に譲り閑所摂心、貞享三丙寅年九月廿一日微疾を感して寂を示す春秋七十六才なり。 本師日恩上人(京要法寺十六代権大僧都、寛永六己巳年十一月廿三日示寂 父宗因(寛永六年辛年正月十八日五十二才) 母妙因(寛文十一辛亥年七月八日八十九才) 日忍伝 釈日忍、産国俗未た詳ならざるなり、慶長十七壬子年誕生なり、京要法寺に於て出家得道し富士に登り当家を習学す、上の総州沼田細草両檀に遊学し小部を講す。 典師の付属を稟承し正嫡 第廿一の嗣法なり、在職八箇年法を俊公に付し閑居摂心し、延宝八庚申年九月四日円寂す行寿六十九才なり。 日俊伝 釈日俊字は、松園(初日暁と云ふ)本法院と号す生国氏姓未た詳ならず、寛永14丁丑年なり、父を法寿と曰ふ、幼年にして京要法寺日詮に投して薙髪す富士に登り精師に随侍し当家を学ぶ、師天性聡慧にして学を好み書を善くす上の総州細草檀林に勤学し研習年を積み第八世の化主に昇る(当山細談に於て能化の始なり)。衆檀の請に応し入山し忍師の付属を承く正嫡廿二の嗣法なり、天保元辛酉年四十五才宗祖大聖人第四百回忌興目両師三百五十年忌に相当り秋八月大法会を執行し、翌二壬戌の年仲春、法を啓公に付す、閑処摂心すること十箇年、元禄四辛未年十月廿九日遷化す享年五十六才なり。 本師日詮上人(京要法寺廿三代、延宝六戊午年八月廿五日寂) 父照玄庵法寿(寛文十庚戌年九月二日) 日啓伝 釈日啓、字は慈雲久本院と号す京師の産なり俗姓未た詳ならず、慶安元戊子の誕生なり、幼年にして要法寺日祐に従ひ薙髪し富士に登り精師に奉仕し当家を習ふ。 細草檀林に相詰め行学年を累ぬ三大部満講して十二代の化主に進む、師性たる聡明叡智にして耳目の触るゝ所長く記して忘れず、能く韻鏡に通し禽獣の声を聞き其の意を弁ず、玄文及ひ条集四部の末抄を作述す会上之れを重じ中古と称す(細談開祖日崇を古来と云ひ之れに対して師を中古と云なり) 俊師の付属を稟けて当山第廿三の嗣法なり、在位数年の後元禄五申の年六月七日、法を永公に付し、東都に下り閑居を牛島常泉精舎の子院に卜し化導利生を専とす、晩に山に帰り宝永四丁亥年十一月十四日泊然として化す行寿六十一才。 本師日祐(京要法寺廿二代本地院と号す、寛文二壬寅年十二七日) 父 妙玄日義(元禄八己亥年八月十三日) 日永伝 釈日永、字は長然富士阿遮梨大弐坊と号するなり、俗姓は当国当所上条の邑長、清五郎右衛門の二男なり、慶安三庚寅年の誕生なり、幼にして典師の室に投じ円頂方袍す、性敏にして大度なり、細草談林に往き因学積功名目条箇を講す、天和三癸亥年三十四才の孟冬精師の命に応じ下谷常在寺に主として三祖なり在寺六年なり、元禄元戊辰年三十九才の秋九月三日奥州会津実成寺に移転し住持する五年なり。 元禄五壬申年四十三才夏六月七日、啓師の付属を承けて当山に入院し正的第廿四世なり、師幹事に克く本堂及ひ諸伽藍を修理し更に天王垂●堂を再建す、同く十年丁丑春新に輪蔵を建て宋本の一切経全部を納む、又目師の旧跡蓮蔵坊中絶して稍三百余才に及ふ、師之れを再建して以って学頭寮と為す、弟子寛公に命し御書判を講せしむるなり、宝永二戊戌年六月十五日造り畢る、職に在る十八年、同六己丑年五十九才の春金口嫡々の大事を宥公に付し学寮に退隠し閑居する七年、正徳五乙未年二月廿四日微疾を咸し安詳として円寂す春秋六十六才、遺命に任せ尊骸を経蔵の後に葬るなり。 父浄信日養(寛文十庚戌年七月二日) 母妙常日浄(元禄十三庚辰年六月廿八日) 日宥伝 釈日宥、字は栄存寿命院と号す生国氏姓未た詳ならず、寛文九己酉年の産なり、幼年に出家す江戸小梅邑常泉寺日顕の弟子なり、同寺大檀那天英院従一位尊尼の猶子なり、細草檀林に勤学し功を累ね年を積み第廿四代の化主なり。 寛永六己丑年四十一才の春永師の付属を稟け正嫡第二十五の嗣法なり、入山の時、従一位尊尼朱網代の輿及ひ諸道具紫紐残らず御認め下し置かる、同く七庚寅年正月六日御年礼の尅独礼席を免許せらるゝなり、正徳二壬辰年の夏三門造営に就て公儀より金子及ひ富士山の材木御寄進下置かるゝなり、同三癸巳年造り畢り供養す、同三月十一日より廿日に至り十箇日の間公命に由って寿量品一万巻を読誦し奉り以て浅野氏忠臣四十七人の追福菩提にし給ふなり(実は幼君家継公将軍宣下の御祈祷なり云云)、御代参として登山は御旗本蒔三郎殿なり、其の節葵御紋付金襴水引一掛(文照院様御装束云云)同く御紋付紫幕一雙同く御紋付大小桃灯高張等御寄進あり、是より来た毎年正五九月御祈祷仰せ付けられ御礼を献上し奉るなり、在位十年享保三戊戌年五十才、春金口嫡々大事を学頭寛公に付属し閑居を東小路に卜し寿命坊と号す、茲に於て静心勤修十二箇年なり、享保十四己酉年季春頃より微感し十二月中旬に至り病患已に愈ゆ、兼て死期を知り没後の事を当職詳師に託し御本尊を掛け奉り香華灯明を捧げ手を洗ひ口を濯き法衣を著し誦経唱題一心に合掌して寂を示す、享保十四己酉年十二月二十八日行寿六十一才、御遷化の瑞相の奇特なる委は祥師御記録如くなり。 師匠日顕贈上人(又日衆と云ひ大本坊と号す、生国京都、天英院一位尊尼御乳母の男なり) (幼少にして出家し一位様関東御入輿の節御護持僧として下向し始め芝上行寺に住す、子細い有り小梅常泉寺に転住す、御養女本乗院様等御尊骸入御に付御朱印三十石余、本堂書院等御造立下置かれ、在住数年の後弟子日義に付属して閑居す元禄十六癸未年十二月晦日寂を示す) 父了哲(元禄十六癸未十一月廿一日) 母妙印(宝永三丙戌年十月四日) 一独礼席御免許の事 冨士大石寺 向後独礼坐迎付けられ候間明六日より独礼坐にて御礼申上ぐべく候。 寅正月五日 毛利讃岐守役人 駿州大石寺 一位様付き堀山城守書状 兼て願上げられ候今六日独礼の席に於て御礼申上度の旨、数年中絶致し寺社奉行衆取り上げ申されず、然れ共貴僧儀は御台様に従ひ若年の時分より御取立ての出家、今又大石寺入院の儀も思し召に依り右の仕合、彼れ是れ御由緒を以て独礼の儀、間部越前守迄仰せ出され御老中へ右の旨申し渡され手柄に存じ候、右の旨御台様にも御気色之御事に思し召され候、御礼の旨宜く御沙汰申し上ぐべく候、恐々謹慎。 正月六日 堀山城守正勝(判) 大石寺日宥上人 天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀(元文六年酉年二月廿八日)父は近衛前関白太政大臣基●公御娘なり(落飾法諱円浄)、母は人皇百九代後水尾院の第一皇女なり(無上法院常子内親王香海浄心尊儀)、寛文六丙午六月八日京都に於て御誕生、征夷大将軍文昭院家宣公の御台所なり、御七十六才東福門院様の曽孫なり。 日寛伝 釈日寛、字は覚真(初日如と云ふ)大弐阿闍梨堅樹院と号するなり、寛文五乙巳年八月八日卯の上刻誕生す、俗姓は上野国舘林前城主酒井雅楽頭の家臣伊藤氏其の男なり、幼名を市之進と云ふ、志学の頃江戸に出で旗本の館に勤仕す、天和三癸亥年十九才の夏納涼の為に門前●む時に六十六部の修行者来る、師彼れに問ふて云く口に弥陀の名号を唱へ心に観音を念し納る所の経典は法華経なり、若し爾らば身口意不相応に非すや等と云云、行者忽閉口して去る(委細の問答別記の如くなり)、門番佐兵衛なる者有り当宗の信檀なり、之れを聞いて師を称歎して翌日佐兵衛同道して下谷常在寺に詣り精師の御説法聴聞し、 同八年癸卯夏養師早世に就いて方丈に再住す在位四年なり、此の間常唱堂及ひ石之坊を建立し、同十年乙巳春当家大事六巻の鈔を著述す、同年の冬は明年の正月の年礼の為に江府に下向し、同十一年丙午春二月緇素の請に応して観心本尊鈔を講す、同く三月に帰山す、同年の孟夏の頃より微疾を感して自ら起たざるを知り、同く五月廿六日晨朝密に学頭詳公を招き金口嫡々の大事を伝付し没後の事を遺托す、同六月在職中授与せしむる所の御本尊冥加料都合金三百両なり、内金二百両を御宝蔵に納め残る所の金百両を月並金と号して方丈に納め以て後の住職の代替の入用に擬す、同八月朔日に君子は死して財を残さず と言ひ所持の衣類資具を取り出し死後の遺物として逐一に札を附け帳に記す、死期一両日已前に暇乞をなし駕籠に乗り御堂、廟所、隠居所、学寮を巡参し寺中を下り市場に往く、門前町通りにて方丈に還る、番匠桶工を呼ひ集め葬式の諸道具を調へ已る、同十八日夜半床に御本尊を掛け奉り香華灯明を捧け誦経唱題の外他なし、同十九日辰の上刻安祥として円寂す行寿六十二才なり、遺命に任せ廟を経蔵の後に築く、書余は別伝の如し。 父静円(宝永四丁亥年三月廿三日伊藤氏) 母妙真(延宝元癸丑年十一月廿一日) 養母妙順(元禄八乙亥年十一月廿一日) 日養伝 釈日養、字は学応本法阿闍梨広宣院と号す生国氏姓未た詳ならず、寛文十庚戌年の誕生なり、幼少にして出家し俊師に師事す細草檀林に勤学し切磋歳を累ね第二十五世の化主となる、江戸下谷常在寺第六代なり、武州稲毛上作村に広宣坊を創草し当山御堂の前に青蓮鉢を寄附す。 享保五庚子の春、五十一才入山し寛師の付属を稟け正嫡第廿七の法位に昇る、客殿を再建す、在位幾ならず疾を感す享保八癸卯年六月四日、宥寛両師に先って方丈に於て遷化す行寿五十四才。 父良円日信(宝永五戊子年六月廿七日) 母妙玄日経(正徳五乙未年六月朔日六十七才) 日詳伝 釈日詳、字は孝明(初め日堅と云ふ)、長遠阿闍梨守真院と号す、天和元辛酉年雲州松江に誕る俗姓未た審ならず、父を恵光浄智と云ひ母を妙融日解と云ふ、幼年に出家して同国神戸妙伝寺(要法寺末)日応に従って得度す、曽て富士の化風を慕ひ江府に出で常在寺日辰に師事す、細草檀林にて覚真日如師の室に依学す、師性たる威有て猛からず、学を好み書を善くす、三大部を満講して遠沾寺第三十二代の化主となるなり、後本山に登り学頭職に進み蓮蔵坊第七世に補任せらるなり、享保十一丙午五月十六日子丑の尅寛師御不例に由て預め金口嫡々大事を稟承し給ふなり、寛師御遷化の後同年九月十九日方丈に入院し第廿八の嗣法なり、同十六辛亥高祖第四百五十回の遠忌に就て八月中旬七箇日大法会を執行す在住七年なり、同十七年壬子九月十九日法を東師に付し石之坊に閑居す、又再ひ学寮に移り当射義抄を講す、同十九甲寅微疾を感し八月廿五日誦経唱題正念にして円寂す寿五十四歳、遺命に任せて経蔵の後に葬る。 師匠常在寺五代本妙阿闍梨長遠坊日辰贈上人(享保三戊戌年二月七日申の上刻、生国加州山田氏某の子なり、精師の弟子初め久米原妙本寺に住す) 父恵光浄智(元禄九丙子年十二月十六日) 母妙融日解(享保三申年十月八日) 日東伝 釈日東、字は文承(初め興長日儀と云ふ)大弐阿闍梨妙汢@と号す、元禄二己巳年三月三日卯刻阿波国徳島城下に生る、父は侍医松岡玄朴常直母は同藩中西尾孫三郎の娘利津女なり、幼年にして父と登山し永師に従ひ剃髪す、細草檀林に出で覚真日如師に依学す、研学年を積み●四代の能化となるなり、退檀の後本山学頭に入寮し祖書を講し蓮蔵坊第八世に補任せらるなり。 四十四才享保十七壬子年五月十九日、詳師の付属を受けて入山す、在位五年元文丙辰年、法を忠師に付し石之坊に閑居す、同年京大阪因州生国阿州に行化し兼て死期を知り御本尊の傍に入寂の月日を書し生家に授て山に帰る、翌元文二丁巳年十二月朔日石之坊に於て正念に示寂す行寿四十九歳、遺言に任せ経蔵の後に塔す、十三年を過て法弟大白房日扇と云ふ者、不思議の霊夢を感し衆評に依て妙覚に改葬す、全身少も損せず猶生るがごとし見る者奇とす。 父寿詮院蓮休(元禄十六年正月二日、其の先紀州藤代の城主久松氏の子孫久松七兵えの二男なり行年五十歳なり) 母寿諦院妙貞(元禄十丁丑年十月八日、阿州家士西尾氏の娘なり俗名利津女) 日忠伝 釈日忠字は、文啓(初め日厳と云ふ)城州奈良村の産、俗姓詳ならず、父を浄源と云ひ母を妙行と云ふ、貞享四丁卯年生なり、初め大阪天満蓮興寺に於て出家し富士の風化を慕ひて本山に登り養師に師事し細草に勤学し上座に昇る、下条寿師の懃請に応し妙蓮寺に入院す(第廿二代日芳と云ふ)後彼の寺を退去して学頭蓮蔵坊に移転す第九代なり。 元文元丙辰年五十歳春、東師の付属を承けて入山す第三十の嗣法なり、在位五年同五庚申年十一月十三日法位を因師に譲り石之坊に隠居す四代なり、京都大阪に行化し帰山の後報恩円因の両坊を造営す、寛保三癸亥年十月十一日疾を感じ正念に示寂す行寿五十七歳なり。 父は浄光院浄源(宝永三丙戌年五月廿六日) 母は聞法院妙行(享保十四年十二月十六日) 弟子 ●師 泰師 円成坊日文(台土阿闍梨寿命寺因州生) 了源坊日了(談林上坐)啓純坊日澄(志含阿理境坊駿州杉原生) 真成坊日普(報恩坊住下摺生) 日因伝 釈日因、字は覚応(初日相と云ふ)経道院と号す、貞享四丁卯年奥州岩城黒須野の産なり、父を法久日遠と云ひ母を妙久日成と云ふ、其の先下総国千葉忠常の後裔なり、幼年にして出家し同村妙法寺日完の弟子なり、師形射甚大にして力量有り学を好み昼夜読書して惓まず、初貧にして後富む、細草檀林に勤学し功を満して第三十七世の化主となる、勤檀中に同州の広瀬村に一宇を創し号して後生山本城寺と云ふ、元文丙辰年学頭蓮蔵坊に進む第十世なり。 同五庚申年五十三歳の春忠師の付属を受け方丈に入院し第三十一の嗣法と為る、時に板倉周防守源の勝澄公、師の化訓を受け深く当門を信す、又加州信者日々に盛なり。 延享三丙寅年の春、五重の宝塔を建立せんと欲し公聴に達し赦免せらる、同四月八日釿立、寛延二己巳年の春に至り造り畢る、同六月十日より十六日に至る十七日開眼供養し自ら法則を作る、三問三答の論講を修む貴賎群集し随喜渇仰す、茲に於て諸伽藍已に全備せり当山の繁栄是の時を降なりとなすなり、在職十一年寛延三庚午年八月廿五日、法を教師に付し東之坊に閑居す、安所摂心二十年、明和六己丑歳六月十四日帰寂す行寿八十三歳。師匠、岩城阿闍梨本因坊日完●上人享保二丁酉年九月十二日 父法久日遠(享保九甲辰年三月十三日) 母妙久日成(元文三戊午年八月四日) 弟子四十一世文師 経順坊日賀(加州産東之坊に久住し後京九条住本寺に移転) 本隆坊日是(塔中住坊、数代方丈納所相勤) 師の造立する坊舎 東之坊(隠宅なり)宗順坊(塔下の北側神座堂の西)清光坊(塔下の南側)東光坊(塔下の南側)西山坊(新小路)神座堂(板倉氏位牌所なり塔下の北側)五重大宝塔(高十二丈、三間半四面西向銅瓦葦)大施主板倉周防守源勝澄公、法諡慈雲院殿嘉誠源承日明大居士と号す(明和六己丑五月三日)。 広瀬本城創草記に云く(詳師御筆) 南閻浮堤大日本国駿州多宝富士大日蓮華山大石寺末流上総州東金領南塚崎富士下之郷後生山本城寺開基(本山二十祖日典上人寺号本尊書写の師なり同二十六祖日寛上人当寺発起の師なり)第二祖(妙本常在両寺歴代)本妙阿遮梨日辰大徳。 ●に遺弟本山二十八世日詳、常在寺七世本行阿遮梨日和比丘、此両人を当山寺号調成の功を以て之を亡師に推す、曁に日詳所持の田地を以て当寺の供料に寄附す師恩に凝し以て日辰を列祖とするのみ。 第三祖上総阿闍梨覚応坊日相学士は当寺最初発起の大願主なり始終現在し江府当地百千の往復其願既に満す此の霊場開闢の功実に此の人に在り後学之に傚へ。 維時享保第十三竜集戊申季冬仏生日、本山大石寺第二十八嗣法日詳(在判)覚応坊日相之を授く。 日教伝 釈日教、字は文孔本久院と号す寛永元甲申年甲斐国一之宮に生る、工匠石川氏某の男なり、父は随本と云ひ母を妙本と云ふ、十二歳にして父に後れ養師に従て剃髪受教す,細草檀林に勤学し満講して第四十三代の能化となる、下谷常在寺に住し第八世なり、学頭(十二代)蓮倉坊に移り祖書を講す。 四十七歳寛延三庚午年九月十一日進山の式を調ひ因師の付属を受け第三十二世なり、在位七年法を元師に付す宝暦六丙子年八月報恩坊に閑居す、享年五十四歳同七丁丑年八月十二日寂を示す。 父随本(甲州一の宮大工棟梁石川伊兵え正徳五乙未年十二月二十五日) 母妙本(宝暦二壬申年六月八日当山尼部屋に於て死) 弟子隆明院日念●上人(精進川山本生、始め孔学と云う奥州柳目妙教寺に於て寂す)速成坊日修大徳(中田真光寺久住同所小泉生)究●坊日等大徳(因州日香寺久住) 日元伝 釈日元、字は文貞(初め日芳と云ふ)横山阿闍梨持宝院と号す、俗姓は宇多天皇の末孫横山河内守頼信十三代の後胤横山七兵エ尉源武備の男なり正徳元辛卯年八月十五日武州江戸に誕生す、幼年にして出家し寛師に師事す細草檀林に勤学し累功積年第四十八世の能化となる、本所中の郷妙縁寺に住し十二代なり、寛延三庚午年の冬本山学頭十三代蓮蔵坊に移転し祖書を講す。四十六歳宝暦六丙子年九月十九日教師の付属を受け進山祝●す第三十三世なり、在位九年明和元甲申年九月廿七日法位を真師に付し石之坊に隠居し閑処摂心十五年、安永七戊戌年二月廿六日偶微疾を感し正念に終焉す行寿六十八歳なり。 京都大阪堺に行化し受法の者之れ多し、大阪天満蓮興寺の現住生蓮院日命、師の化訓を受け深く富山に帰依す、北野村に仏生山蓮華寺を創め師を以て開祖となし当山の末寺に付くなり。 父円妙院法受日持(寛保二壬戌年十月二日横山七兵衛) 母本受院妙運日宝(明和二己酉年九月十三日登山法射石之坊に於て寂) 日真伝 釈日真、字は完孝(初日賢と云ふ)江戸阿闍梨守要院と号す、正徳四丙午年の生、江戸の住医師荒川氏の男なり、父を蓮心日実と云ひ母を妙成日就と云ふ、●く詳師に随ひ出家教す、師天性博識宏才、文を好み書を善す、細草檀林に勤学し研学累年第五十代の能化となる、四十三才宝暦六丙子十一月学頭(十五代)蓮蔵坊に入寮し祖書を講す。 五十一歳、明和元甲申年九月廿七日入山坐替の式を調へ元師の付属を承く第三十四代なり、翌二乙酉年廿六日疾を感し因元両師に先ち示寂す行寿五十二歳。 父本修院蓮心日実(元文三戊午八月九日、荒川氏) 母栄照院妙成日就(明和二乙酉年九月十七日当山尼部屋に於て病死) 弟子四十世任師 四十二世厳師 頂受坊日如(覚林と云ふ壮年の頃仙台に於て法難長渡島に流罪、二十年、赦免の後登山す生国岩城妙法寺住仙台洞口にて寂)因幡阿完賢坊日 ●(明和八卯四月五日死)上総阿久成坊日解(細草名地生享和元酉五月八日)完慈坊日曦(安永二癸巳三月朔賊の為に害せ柳目妙教寺住大阪生) 日隠伝 釈日隠字は慧活遠妙院と号す享保元丙申年の生なり、或は椎名氏と云ふ生国姓氏詳ならず(或下妻産と云ふ)、江戸常在寺日和の弟子なり、同寺玉円坊日彭の肉弟なり云云、享保十六辛亥年三月細草檀林に新来す、二十二歳元文二丁巳年夏新説す、四十三歳宝暦八戊寅年勤学二十八年満学して五十二代の化主となる、翌九己卯年退檀して仲田真光寺に寓居し有明堂を建立す、爾しより已来、明和元甲申年に至る七箇年の間、江戸常泉寺塔中に居住して説法弘通退慢なし受法者日々多し、四十九歳明和元年十一月十三日学頭(十六代)蓮蔵坊に入院す。大坊真師御早世翌二己酉年十月八日進山の式を調へ一大事を元師より相承す第三十五嗣なり、在位七箇年、明和七庚寅年四月六日、法を堅師に付し東之坊に閑居す、後仲田真光寺に移り、盆彼岸江戸に往復し説法教化す、五十九歳安永三甲午年七月三日、仲田の草庵に於て遷化す茶毘して遺骨を当山に納む。 父要善(寛保三癸亥年十月二十八日) 母妙要日善(寛保三年十二月六日) 師匠本行阿日和●上人(下谷常在寺七代円妙房寛延元戊辰年八月二十九日) 弟子三十九世純師(活了と云ふ) 四十一世文師(活音と云ふ) 日堅伝 釈日堅、字は覚隆、駿河阿闍梨、樹真院と号す、享保二丁酉年誕生なり、当国当郷市場村の邑長清弥一兵衛定賢の男なり、幼名熊之助と号す同九甲辰年八歳にして出家の契約あり、同十一年丙午十歳の春寛師に従ひ剃髪し名を覚隆と賜ふ、同年仲秋寛師御遷化に就て詳師に随侍す、同十六年辛亥十五歳の春細草檀林に新来す。 元文二丁巳年六月新説す(仲間二十三人)、四十三歳宝暦九己卯年四月十八日満学して第五十三代の化主となる、同年十一年廿八日退院して江戸本所妙遠寺に住す、五十歳明和三丙戌年仲冬学頭(十七代)蓮蔵坊に移転す。 五十四歳同七庚寅年の夏穏師の付属を承けて入山す第三十六世なり、安永壬辰年の春より書院を再建す、在職七年六十歳安永五丙申年の春退院して富士見庵に隠居す(遠信坊とも云ふなり)、閑居摂心十六年、細に没後の用事を記して以て●師に託す、寛政三辛亥年十月三日少疾を感し安然として円寂す享寿七十五歳。 父浄円日隆(元文四己未四月廿八日、清弥一兵衛定賢) 母妙隆日円(宝暦九己卯年六月廿四日七十歳) 弟子四十四代宣師(隆順と云ふ)、四十五代礼師(初穏師の弟子後堅師に給仕し活陳と云ふ)樹真阿隆善坊日正(隆延と云ふ久成坊住寛政元七月)隆碩坊日貞(天明五四月廿二日不二見庵に於て死)、隆真日解(江戸生稲屋幼年死) 日ホウ(★王+奉)伝 釈の日ホウ(★王+奉)字は覚浄(初日円と云ふ)本極阿闍梨久成院と号す、享保十六辛亥年正月廿三日辰の刻の産、加州金沢藩中某の男なり、幼少にして他家の養子となる、寛保二壬戌年春養父病死す、時に師十二歳なり、出家と為らんと欲し同年四月八日実父と本国を立って同月廿日富山に着し忠師に従ひ剃髪受教し名を覚浄日円と賜ふ、翌寛保三癸亥年の春細草檀林に新来し完道日理師の室に依学す、同年冬忠師御遷化、之に依って江戸下谷常在寺に寓居し檀林に往復する廿六年、●八歳明和五戊子年夏四月十八日満学して六十代の能化となるなり、同年冬退檀して同庚寅学頭(十八代)蓮蔵坊に移り祖判を講す。 四十六歳安永五丙申年四月十八日請を受て方丈に入院す、五月三日堅師より金口嫡々の相承あり第●七の嗣法なり、同八己亥年大納言家基公御他界に就て納経拝礼の為に下向す、天明元辛丑年高祖第五百遠忌の秋に就いて八月十七日大法会を修し遠近郡参す、之れに依って入山已来諸堂塔を修理造営す(五十三歳在位八年)、同三癸卯年四月廿八日退院して法を泰師に付して寿命坊に閑居す。 同五乙巳年二月廿日泰師早世に就いて同六月法を純師に付す、同六丙午年純師納経拝礼の為に下向し病身に就いて退院を願ふ。 之れに依って師又方丈に再住す、翌七丁未年秋七月家斉公御朱印改に就いて下関し八月に帰山す寛政元己酉春より御宝蔵を再建す地形四尺石垣六尺合一丈築き立て其の上に蔵を建つ、翌二庚戌年春造り畢ぬ、同三月中旬二夜三日開眼供養す六年目六十一歳同三辛亥年の秋、法を任師に付し寿命坊に退去す。 六十七歳同九丁巳年七月厳師早世に就て亦復方丈に再住す、三年目同十一己未年の春、法を相師に付し寿命坊に退居し誦経唱題の外他なし、行寿七十三歳享和三癸亥年五月廿六日申の刻安祥として円寂す。 初住八年、再住六年、再々住三年都合十七年なり、御年礼四度、安永八年大納言家基公孝恭院殿納経拝礼の為に下向し、天明七丁未年家斉公御朱印御改の為に下向す。 父浄蓮坊日久比丘(明和二乙酉年十一月廿日) 母妙久日遠(宝暦九己卯年八月廿二日) 弟子四十七世珠師 四十八代日量 本量院日扇●上人(文化十一年甲戌年五月廿六日)、恕運坊、寿円院日倚●上人(天保八丁酉年十月十九日)清音坊日清(天保三辰年四月十五日、泉州堺本伝寺)久成阿浄弁坊日虞(天明六丙午年九月七日) 本多阿成誓坊日銀(文政九丙戌年六月廿四日) 日泰伝 釈日泰字は活賢又云く(文淳日軌)堅樹院と号す、享保十六辛亥年当国根方東井出村の産村長小泉甚右衛門の男なり、襁褓の内より東師に上り弟子と契約す、七歳の時東師御遷化に就いて忠師に随ひて出家受戒す、十四歳延保元甲子年の春入談、研学廿八年なり、四十一歳明和八辛卯年の春満学第六十一代の化主となる、同年冬退談して在府六年説法弘通す、安永五丙申年の秋本山学頭(十九代)蓮蔵坊に移るなり、在寮八年。 五十三歳天明三癸卯五月方丈に入院し●師より金口嫡々大事を相承す第三十八の嗣法なり、在位三年天明五乙巳年二月廿日疾を感し正念に円寂す。 父融賢日周(宝暦十庚辰年六月五日)、母妙賢日和(安永四乙未年十月二日)、弟子四十六世調師、四十九世荘師、淳成日実(天明六丙午年六月廿日古谷戸生檀林に於て死)、持善阿蓮東坊日長(享和元辛酉十二月古谷戸淳成舎弟淳亮と云ふ) 日純伝 釈日純字は活了(初め日明と云ふ)遠妙阿闍梨専光院と号す、元文元丙辰年武州青梅に生る俗姓詳ならず、父を了遠と云ひ母を妙了と云ふ、初江戸常泉寺日喜に従ひ剃度し、後穏師に随侍して教を受く、細草檀林に出で覚浄師に依学す、切磋累年第六十三世の化主となる、退檀の後四十一歳安永五丙申年十一月廿三江戸常泉寺に住す第十四代なり在住八箇年、四十八歳天明三癸卯五月学頭寮に移転し祖判を講す、同五乙巳年の春蓮蔵坊第廿世に補任せらるなり。 五十歳同年六月朔日、本坊に入院し●師に従て金口嫡々の一大事を相承す第●九の嗣法なり、同六丙午年秋浚明院殿家治公御他界に就て上野に下向し納経拝礼す宿院常泉寺なり、病身にして当職勤め難きに就いて本山に再三退院の事を請ふ、衆檀評議して之れを許諾し●師御再住有るなり、翌七丁未年二月、山に帰り寿命坊に寄宿し下之坊を修覆す、翌八戊申年春下条邑に移徒る閑居すること十五年、享和元辛酉年七月晦日疾を感じて正念に円寂す享寿六十六歳なり。 始め師中村阿専了坊日喜贈上人(常泉寺十一代六十歳、明和三丙戌七月廿五日) 父了遠日松(天明七丁未年九月廿三日) 母妙了日脱(天明五乙巳年四月八日) 日任伝 釈日任字は完嶽(初日良と云ふ)長好阿遮梨要行院と号す、延享四丁卯年奥州に誕る、岩瀬郡邑長松塚七兵衛の男なり。 父秀岸と云ひ母を妙岸と云ふ、初め同郡●守屋満願寺日達に従ひ(後蓮行寺に移転す)出家し後真師に随侍す、細草檀林に出で活賢師に依学す(泰師の事なり)、切磋累年天明四丁卯年の春満学して六十九代の化主となる、退院して下谷常在寺に住す十一代在寺三年なり、天明六丙午年九月七日学頭寮に入り祖判を講説す、蓮蔵坊第廿一代に補任せらる。 四十五歳寛政三辛亥年七月朔旦、本坊に入院し同月十一日丑の刻●師より金口嫡々の一大事を稟承し第四十の嗣法となるなり、在位五年寛政七乙卯年六月廿八日法を文師に付し石之坊に閑居す、同年八月廿五日疾を感じ寂を示す行算四十九歳なり。 初師大遠阿長好坊日達贈上人(満願寺に住す後下州小金井蓮行寺に移転、、安永五丙申年十一月四日)父秀岸日荘(安永六丁酉八月十二日奥州岩瀬郡松塚七兵衛)母妙岸日厳(安永四乙未年六月廿四日) 弟子良賢日岳(享和元辛酉年七月十四日、純師に仕へ下之坊に於て死す江戸生)正賢日福(文化十一甲戌三月廿八日、根方生上州大胡本応寺看主、小梅に於て死) 日文伝 釈日文、字は活音(初め日善と名く)孝善院と号す、宝暦元辛未年武州江戸に生る、佐藤氏某の男なり、父を順孝と云ひ母を妙孝と云ふ、幼少にして因師に投し薙髪し名を三智と賜ふ、師没して後穏師に随侍し名を改む、細草檀林に詰め覚浄師に依止し研学歳を重ぬ天明六丙午年の春満学して第七十代の能化となる、同年の秋退檀下谷常在寺に住す十二代なり、在住八年寛政五癸丑年春三月学頭信領日良上人早世に依り同九月朔日学頭(二十三代)蓮蔵坊に入る。 四十七歳同七乙卯年七月三日方丈に入院し任師より一大事を相承す第四十一の嗣法なり、入山の後疾を感じ翌丙辰年八月十四日不幸短世にして●純両師に先って示寂す行年四十九なり。 父順孝日善 母妙孝日順 弟子道円坊日久(三春法華寺住孝造と云云文頂坊)、覚邦日記(江戸生阿州敬台寺死)、善行阿孝善坊日在(蓮仙坊住天保八酉三月江戸常在寺に移り同年十月十四日死す狩宿生) 日厳伝 釈の日厳、字は完礼、山川阿要順院と号す、寛延元戊辰年奥州仙台城下に産る、山川平兵衛の三男なり父法順日慧と云ひ母妙慧日解と云ひ大信者なり、宝暦九己卯年の春学頭真師奥州末巡行の砌に真師に投して薙髪す時十二歳なり、檀林に出で師覚浄師に依止するなり、懃学積年四十歳天明七丁未年の春満学七十一代の化主となる、同年の秋退檀、同冬十二月江戸小梅常泉寺に住す第十六代なり在住九年、寛政七丁卯年十月学頭廿四代蓮蔵坊に移転す。 翌八丙辰年の秋文師早世に就いて方丈に入院し●師の付属を受く正嫡第四十二世なり、翌九丁巳年閏七月十一日疾を感して●純両師に先ち不幸短世にして寂を示す行年五十歳なり。 父法順日慧(明和四丁亥年十一月廿六日山川平兵衛) 母妙慧日解(寛政十一未年六月十三日) 弟子順教坊(幸島富久成寺に住す後根方本広寺柳目妙教寺にて死去完元と云ふ江戸生)井上阿善領坊日受(寿円と云ふ根方本広寺に住す江戸の産、天保八酉年六月二十九日)、宜見日順(寛政八辰年八月廿七日常泉寺に於て死す江戸藤井佐介の子) 日相伝 釈日相、字は活如(初め日衣と云ふ)忍行阿闍梨尚道院と号す、宝暦九己卯年奥州仙台宮城郡南宮村に生る、父賀川権八と云ふ二男法号浄性坊日顕比丘彼地弘通の大信者なり、法難に依って所を追はる後赦免あり、母を妙性日浄と云ふ、宝暦九己卯年の春学頭真師奥州仙台下向の砌り懐胎の子を以て弟子に契約す、真師の早世に依り十二歳明和七庚寅年父と登山し穏師に師事す、十四歳安永元壬辰年の春細草檀林に往き活了日純師の室に依学す、研学年を累ぬ寛政七乙卯年の春満学して第七十六代の化主となる、同年の秋退檀す。 翌八丙辰年三月奥仙に下向し同年夏江戸常泉寺に入院す十七代なり、翌九丁巳年文庫土蔵を再建す翌十戊午年の春本堂を修理し地形四尺築き上ぐ同年冬開眼供養四十歳寛政十一己未年春学頭(二十五代)蓮蔵坊に移る。 同年十一月七日方丈に入院し●師の付属を承く正嫡第四十二の嗣法なり、享和元辛巳年の春台所を再建し又五重の宝塔を修理す、在位五年同三癸亥年十月法を宣師に付し寿命坊に閑居す、翌文化元甲子年春同坊客殿を東向の所に引直し南向に修覆す、同年秋生国奥仙に下り同冬帰山す、翌二乙丑の春江戸に下り再常泉寺に移り、同秋病を感じ同年十二月三日午刻小梅に於て示寂す、茶毘して骨を本山に葬る寿四十七歳。 父浄性坊日顕比丘(天明八戊申年九月廿三日、賀川権八本山方丈奥に於て●。師再住の刻南宮賀川の聟に入り改宗す、生家仙台蔵元氏) 母妙性日浄(文化七庚午年七月廿六日南宮賀川家女大信者なり) 弟子五十世誠師 日宣伝 釈日宣字は隆順真成院と号す、宝暦十庚辰年武州江戸に産る、父を真慶と云ひ母を妙全と云ふ、幼年にして出家し堅師の弟子となる、細草檀林に勤学し寛政八丙辰年の夏談林新小路より出火して三小路を焼失す、師伴頭寮を再建す、同十戊午年満学して七十七代の化主となる、同秋退談して江戸妙縁寺に住す、四十四歳享和三癸亥年四月学頭(二十六代)蓮蔵坊に移る。 同年十一月方丈に入院し相師の付属を承く第四十四代なり、在山五年文化四丁卯年八月法を礼師に付し不二見庵に隠居す(又遠信坊と云ふ)、同十一甲戌六月小梅常泉寺に住す、在府八年病を感し文政四辛巳年秋、山に帰り翌五壬午年正月七日巳の刻示寂す行算六十三歳。 父真慶日視(明和六己丑年四月三日)、母妙全日慶(享和元酉年九月五日)、弟子久成坊日○(江戸生) 日礼伝 釈日礼字は活陳、鶴岡阿闍梨樹香院と号す又玄成坊と云ふ、宝暦十三癸未年武州江戸に生る、父は石倉善六、不惜身命の大信者なり、法名源寿日量、母を園林妙堂と云ふ幼少にして母を離れ養母に依って憮育せられ成長す、七歳明和六乙丑年春出家して穏師の弟子となる、十二歳安永二壬巳年秋師に離れ堅師に随侍し教を受け鐘愛を蒙る、勤檀して活音師の室に依学す、既に上座に及ぶ、三十一歳寛政五癸丑年秋下谷常在寺の命を蒙るに就いて退檀して入院す霊鷲山十三代なり、在寺十四年文化三丙寅四月学頭(二十七代)蓮蔵坊に移る。 四十五歳文化四丁卯年八月十九日進山座替の式を調へ宣師より金口嫡々の大事を相承す正統第四十五世なり、翌五戊辰年春病を感じ同五月八日宣師に先んじ方丈に於いて遷化す行年四十六歳。 父源寿日量(安永二癸巳六月六日、俗名石倉善六異流堅樹日好の徒なり、法難に依て入●す不惜身命の信者なり) 母園林妙堂、養母妙寿日如(文化元甲子六月九日) 弟子新井阿玄好坊日友(文政八乙酉年七月二日、江戸生、好全、奥州森上行に住す) 日調伝 釈日調、字は淳明(初め賢存と云ふ)後藤阿遮梨持勝印と号す、明和三丙戌年駿州に生る、富士郡下中里村邑長後藤孫兵衛の五男なり、父は法号養淳日明母は妙養日淳なり、師の襁褓中大阪阿日善能化に弟子に契約し、三歳同五戊子年冬日善師奥仙に於て没す仍て泰師に師事し、細草檀林活如師の室に依学す、寛政八丙辰年夏三小路焼失、中小路紅葉寮を再建し切磋年を積む、三十八歳享和二壬戌年満学して七十八代の化主となる、同年退檀して本山に登り久成坊に住す在坊五年、文化三丙寅年の夏江戸常在寺に移転す十四代なり、在寺三年目同五戊辰年秋学頭(二十八代)蓮蔵坊に入る。 四十三歳同年九月廿四日方丈に入院し宣師の付属を承く正嫡第四十六世なり、諸堂の修理を加ふ、在位六年同十癸酉年夏法を珠師に付属し石之坊に閑居す同十二乙亥珠師病痾にて退院す。 之に依て方丈に再住す、同十四丁丑年正月廿七日病を感じ方丈に於て宣師に先って寂を示す行寿五十二歳。 始師契 大阪阿孝真院日善贈上人(孝察檀林能化五十八代、奥州仙台覚林法難配流一件に付き下向、彼地に於て病死し北山日浄寺に葬る) 父養淳日明(寛政十二庚申十二月二十五日) 母妙養日淳 日珠伝 釈日珠字は覚英(初め日珍と云ふ)覚授阿闍梨浄明院と号す、明和六己丑年加賀国に産る、金沢藩中小幡式武家臣小川弥右衛門の三男なり、父は法号貞性日浄母は妙貞日亮なり、師九歳の安永六丁酉年の春河崎寿清同道して登山し●師に師事し薙髪受教す十六歳天明四甲辰春檀林に新来し活如師の室に依学す、寛政八丙辰夏三小路焼失、中小路文貞寮を再建す、窓前蛍雪二十七年、文化元甲子年春満学して七十九代の化主となる、同年退檀して小梅塔中本行坊に寓居、文化三丙寅年十一月常泉寺に移転す十九代なり、在寺四年、同六己巳夏学頭蓮蔵坊に入寮す二十九代なり。 四十六歳同十一甲戌年四月十一日方丈に入院し調師の付属を受く第四十七嗣なり、在職幾くならず疾を感じ自ら起たざるを知り、調師に御再住を請ひ同十二乙亥年八月十日寿命坊に閑居す、同十三丙子年九月廿二日卯の下刻宣調両師に先って寂を示す年四十八歳。 父貞性日浄(天明元辛丑九月十三日、小川弥右衛門)母妙貞日亮兄貞本日達(弥右衛門嫡男)兄賀国阿貞浄坊日性(文政七甲申年二月九日●師弟子貞亮、常泉寺代、久成坊住、因州日香寺に移り病死)弟了建日貞(寛政八申正月十八日活是、純師弟子俗名) 弟子五十一世英師、詮明坊日清(奥柳目妙教寺看主) 日量伝(自記) 釈日量字は一要、久遠阿闍梨本寿院と号す、明和八辛卯年二月十八日未の尅駿河国に出生す、富士郡上野郷上条市場村眼科清一覚良政の三男なり、父は法号勇本日信、母は妙射日喜(俗名岩女)幼名弁吉良直三十三世元師之を賜ふ)、十二歳天明二壬寅年二月十六日御誕生会に付き父勇本と同伴方丈に参上し●師に謁し奉る、師曰く予弟子数多有りと雖も或は病身或は貧弱に依り出家せしむる共なり、 同四月八日仏生吉辰に付き薙髪して●師に師事す、十九歳寛政元己酉年の春細草檀林に新来し活如日相師の室に依学す二十五歳同七乙卯年夏新説す(説頭なり仲間十八人)、翌八丙辰年春三月師尚道院日相師に依止す、去年御満学に付き御生国奥州仙台御下向あり供奉を申付けられ同夏帰山す。 近年京都要法寺と外十五山と異論之れ有るに依りて同年秋当山より見舞として命を受け観行坊日陳同伴上京す用向滞なく相達し同冬帰山す。 翌九丁巳年の秋京九条住本寺無住に依り師命を蒙り宗和(加州産)同道上京して五箇年在住す、其の間細草檀林往復勤学す、困学年を累ぬ文化五戊辰年春満学して遠沾寺八十代なり、同夏退檀し本山に登り命に依て同八月下谷常在寺に住す十五代なり、文化十癸酉年八月命を受け因州日香寺に下向し住持快応坊同道帰山す、十一月寺に帰り在住する八年、同十二年乙亥春登山し八月学頭(二十八代)蓮蔵坊に移る。 調師御再住方丈に於て御遷化に付き同十四丁丑年二月十六日方丈に入院す、宣師より金口嫡々の一大事を相承し正嫡第四十八の嗣法なり、五十歳文政三庚辰年八月法を荘師に付し寿命坊に閑居す。 文政十丁亥年春諸堂修覆の勧化の為め江戸に下関し上総下総常州下州奥州等諸末寺残らず順廻し翌十一己子年の秋帰山す。 天保元戊寅年五月荘師江戸に於て遷化あり、之れに依って六月二十四日方丈に再住す、諸堂舎残らず修覆す、翌二辛卯年八月中旬先例に任せ十七日宗祖第五百五十御遠忌大法会執行す、江戸諸講中より寄進物勝て計ふべからず、仏前の荘厳心目を光耀し遠近の男女貴賤郡参す、諸商集会し其の賑々敷き事古今未曾有なり。 同年九月法を誠師に付し寿命坊に還居す、翌三壬辰年二月拠なき用向頼まれ出府す用事相調ひ六月に帰山す、同年十一月因州日香寺後住一件に付き頼まれ下向、同月十四日美濃垂井に止宿す目師御正当五百御遠忌逮夜なり大塔婆造立して御墓所拝参して上京下阪す、同月晦日因州鳥取に下着す、深雪に付き越年翌四癸巳年二月中旬出立ち美作津山通り備前岡山に出で讃岐丸亀に渡海す、高瀬法華寺に半月逗留し高松矢島通り阿波徳島に着く、敬台本玄両寺に半月滞留す、四月初旬紀州加田に渡海し若山、和歌浦、紀三井寺、粉川寺、根来、高野山を一見し、泉州堺本伝寺に止宿す、大阪蓮華寺に半月逗留し、五月初旬に出て立ち志貴山、竜田川、法隆寺、片岡山、当麻寺、多富の峰、長谷寺、三輪、郡山奈良七大寺を一見して城州宇治に出で上京し、住本寺に逗留す、東山、西山、金閣、銀閣等名所跡残らず見物し、五月上旬出て立ち尾州名古屋に立寄り同月下旬帰山す。 同七丙申年五月方丈に於いて誠師遷化法を英師に付属す、同年冬江戸常泉寺永々無住御代替り御朱印御改の事に付き拠なく頼まれ十二月二十日出て立ち常泉寺に下向す、同九戊戌年六月五日牧野備前守殿の御宅に於いて御朱印御改め滞りなく相済む同十己亥年五月下旬に登山し六月十五日の御虫払に御霊宝残らず引渡し相済むなり、江戸檀中今に両三年永住相願ふに付き同七月上旬帰府、同く十一月庚子二月天英院一位尊尼第百回御忌に付彼岸中二夜三日大法事執行し同年秋本堂家根葺替へ。 日荘伝 釈日荘、字は淳道、玉川阿闍梨真就院と号す、安永二癸巳年武州江戸に産る玉川氏某の三男なり、父啓善日淳と云ひ母妙善日浄と云ふ、襁褓の中より泰師に投し師資の契を結ぶ、九歳天明元辛丑年秋八月宗祖五百遠忌に就き登山学頭泰師に奉事す天明五乙巳年二月泰師没して後堅師に随侍す、寛政三辛亥年十九歳の春檀林に新来し隆順日宣師の室に依学す、同乙卯年新説す、困学累年文化九壬申年の春満学して八十二代の化主となる、同年の冬命を蒙り寂日坊日掌同道して因州鳥取に往き日香寺に住す在寺八年、文政二己卯年の夏学頭(二十八代)蓮蔵坊に移転す。 四十八同三庚辰九月三日進山の式を調へ日量の付属を相承く第四十九世なり、天保元庚寅年春御年礼に就き去冬病中治療旁出府三月頃より病重り終に同年五月八日未の刻常在寺に於て示寂す行年五十八歳。 父啓善日淳(安永三甲午年三月十五日) 母妙善日浄(文化九壬申三月十五日武州岩槻に於て死) 弟子智謙坊日譲(江戸生) 淳厚坊日恵(江戸永岡七兵衛養子) 日誠伝 釈日誠字は慈存、武蔵阿闍梨本勝院と号す、寛政七乙卯年武州江戸に生る、誠諦講町田吉兵衛の三男なり、法号を啓瑞日慈と云ひ母を妙瑞日存と云ふ、六歳寛政十二庚申年六月父没す菩提の為に相師の弟子に投する契約す、八歳享和二壬戌の春御年礼に就き相師御下向あり同四月御帰山の刻供奉して登山す、十歳文化元甲子の年秋相師に随従して奥州仙台に下る同二乙丑年の冬相師御遷化に就いて調師に随侍し、十四歳文化五戊辰年春談林に新来し教好日扇師の室に依学す同十二乙亥年夏新説す勤談三十歳文政七己未の年春満学して八十三代の化主となる、同六月登山し命に由り下谷常在寺に住す、同十丁亥年二月小梅常泉寺に移転し、天保元戊寅年五月荘師下谷に於て遷化なり、同六月御骨を守護して登山す、同秋学頭二十九代蓮蔵坊に補任せらる、同冬帰府し、翌同二辛卯年三月小梅常泉寺に於て御遠忌取越し修行す。 同八月登山し同九月方丈に入院し日量より金口嫡々一大事を相稟し第五十の嗣法となるなり、同五甲午年春御年礼と就て旧冬出府癰腫に依て暫く滞留し七月帰山し病患治せず、同七丙申年五月朔日巳刻方丈に於て寂を示す行寿四十二歳。 父啓瑞日存(寛政十二寅申年六月十九日)母妙瑞日慈(文化十四丁丑年八月二日)兄栄存日唱(天保二辛卯年七月二十八日、町田三代目吉兵衛丁子屋と云ふ) 編者曰く量師の正本散佚して数葉のみあり、布師写本等に依て間々校訂を加へ且つ原文を延べ書にしたり。 |