富士宗学要集第五巻
新田南条両家之事
新田南条両家之事 (注 本状は罫線使用。紙本参照のこと) 一、日目上人日道上人御由緒の事 御先祖は藤原氏春日大明神を祖神となす、本朝中興天智天皇の御字八年中臣の鎌足内大臣大織冠の官正一位に当る、初て藤原の姓を賜ふ是れ常陸国鎌足所生の在名なり。 編者曰く以下四家系図に至る千余字の文は本編に直接の用なければ此を削れり。 (斯)道長公・末葉 編者曰く武家の後裔、御堂関白公なり。 下野国小野寺太郎道綱 小野寺氏下野国小野寺に住す、故に小野寺と号す後奥州登米郡一の迫新井田に居る故に新田殿という皆在名也。 今日因東鑑五十二巻始終を勘るに斯の人本国下野小野寺在名なり、人王八十一代安徳天皇の治承五年辛丑秋八月、伊豆の流人前右兵衛の佐源頼朝義兵を挙くるの時、頼朝の伯父常州志田三郎先生義広、骨肉の好を忘れ自志を立てんと欲して頼朝に応ぜず、三万余騎の軍士を率ひ常陸の国を出で下総の国に到り小山四郎朝政と登々呂木沢の地獄谷に於て大に戦ふ、時に小野寺太郎道綱一門を引き具し朝政に加はり鎌倉に従ふ、討手の大将蒲の冠者範頼、頼朝に参向するに因り爾より巳来勲功を尽くす、仍つて寿永三甲辰年二月平家を討つの時蒲の冠者に属す、摂州一の谷の戦場に向ひ亦西海に趣き後鎌倉に帰る、伊豆国仁田郡畠郷に於て菜田之れを拝領し而も役随兵たる者なり、文治五年己酉七月十九日頼朝奥州泰衡国衡を征伐する時鎌倉御出て一千騎の内に小野寺在り、同六庚戌二月十二日奥州大河原二郎兼任を征する時、殊に軍功を尽くす、仍て登米郡一の迫新田の庄を拝領す、而して奥州守護葛西三郎清重に加はり番役となる。 是れを以て三男小野寺十郎道房は奥州新田を領する故に小野寺を改めて新田と号する者なり。 嫡男 小野寺太郎左衛門尉秀道入道 東鑑十八廿四又廿二五を又廿四五を廿六十八を 嫡子 同太郎左衛門左近太夫入道光道 文治以来弘長に至るなり 下野国小野寺住人 同八郎左衛門尉 ○ 随兵の役 東鑑卅十三又四十四十三又五十一弘長三廿九 文治二年巳来 次男 同小次郎左衛門尉 随兵の役 東鑑卅十三又卅二八又四十四六又五十一日廿七 文暦二文治二年巳来 乙弘長三年八月に至る供奉なり。三男 同三郎左衛門尉 随兵の役 東鑑四十四廿六 四男 同四郎左衛門尉道時 東鑑卅一十一 嘉禎二丙申年巳来随兵の役 弘長三年癸亥に至るなり。 五男 同新左衛門尉行道 遠江国住人随兵の役 宝治二年巳来 同新兵衛 ○ 建長八年巳来 東鑑 宝治二年建長八年弘長三年八月七 随兵の役 卅九五又四十六二又五十一廿五 △東鑑卅十小野寺小次郎左衛門同四郎左衛門馬一疋両人同役頼朝参内の時御所随兵百九十三騎の内第十一番両人同役なり。 次男 同中務亟 承久三年辛巳六月十四日宇治合戦 東鑑廿五廿二又四十十三建長二年康戌 打死 小野寺中務亟の跡に在るなり。 三男 同十郎左衛門尉道房 此代始て新田と称するなり然とも住所は猶 伊豆の国仁田郡畠郷也 同新田太郎重房 内室尾張次郎兵衛尉公時の妹、重房卒後妙法尼御前と称すなり御書十三 廿九又三十一十一又録外二十二、然に近代南条二郎左エ門平時光の室を 謂うは大に謬るなり、年号知らす五月十日死去。 同新田五郎重綱 内室南条七郎行増息女、南条二郎左衛門時光大行の姉、 然に重網文永元年甲子七月卒而後内室蓮阿尼御前と称す。 同女子二人 嫡男 小野寺五郎太郎重道 小野寺太郎 小野寺虎王麿 又 虎松丸と云う 興師の側に常随給仕の仁。 興師御本尊に云く嘉暦三年七月廿七日小野寺虎王麿授与之日興判、虎王麿予弟子なり云云、然に日精上人家中抄云虎王丸トハ目師の事なり云々大に謬るなり、此人目師の後の虎王丸なり云云。 次男 新田五郎次郎頼綱 法号日善、興師御本尊これあり、内室安藤又太郎信之殿息女、豆州仁 田郡畠村的場に住し、正和元年卒す妙法尼の譲状これあり。 三男 同登米三郎頼道 住所 奥州一追登米と云ふ処なり。 四男 同四郎 奥州登米郡一二三迫これあり、又加賀野と云ふ処アリ。加賀野三郎所住の処なり、日行上人御出生の処、寺あり本道寺と称す。今庵室にして上行寺の支配なり。 五男 日目上人 文応元年庚申御誕生なり、在胎十二月、豆州仁田畠郷、十三走湯山円蔵坊に登 り十五興師に値し、十六出家十七身延山に登り祖師の御側に在り、而常随給仕 七箇年、其後興師に随い当山に移るなり。 六男 同六郎行時 嫡男 新田太郎金吾 息男 幸松 興師の御側に常随 給仕の仁なり。 日興上人御本尊に云く正慶元十一月三日一の迫新田金吾に授与之日 興在判の御本尊当山に之あり。 次男 日道上人 弘安六年御誕生、出家の伯耆公有職弁阿闍梨又伯耆阿闍梨という。 当山四代重須行泉坊御開基、当山成蓮坊御隠居所なり。 三男 同河口孫三郎政行 興師御本尊に云く奥州三迫住人平六国守は新田卿公弟子分、平六に之 を授与すと雖相伝すべき仁無き間河口孫三郎政行にこれを授与す延慶 二年三月十五日日興在判。 同三郎五郎行道 興師御本尊に云く奥州御家人新田三郎五郎行道これを授与す 元享四年日興在判巳上此御本尊当山之有り。 五男 同孫五郎 此人出家して大蔵公日運と曰う、重須寺中行泉坊に住し道師御代番となるなり 、建武元甲戌年九月廿七日国宣執達状これあり。 女子二人 △日因私に云く正和元年十一月御譲状明白なり、下に之を引く云云。 一、新田五郎二郎頼綱殿、正和元壬子年十一月御譲状に云く件の田在家、右は新田孫三郎孫五郎二人所領として代々の御下文手続の証文譲り渡す処実なり、○安藤又太郎信乃殿又太郎孫子孫三郎、三郎五郎がれうの夏えり□□卿殿の手作田壱段、後家分弐丁の内五反同残壱町五段は当時の後家分、壱丁は孫三郎知行すべし、○三反は後家分に処す可し、残る新田見分三郎五郎二人して知行すべし、但孫五郎所領として分与すべしと云へども幼少たるに依て後家分として三郎五郎に分けさせて孫五郎得へし、後家分一期の後一分も残らず孫五郎知行すべし、女子二人の中に子なくば惣領知行すべし譲り余りは惣領分たるべし、頼綱殿不分明によりて登米三郎殿、新田六郎入道殿、●に子息判形を加ふ努々此状に背く可らず仍て譲り状件の如し。 正和元年十一月十一日、藤原頼道在判藤原行道在判藤原行時在判沙弥日道在判巳上。 私に云く此の中頼道は登米三郎殿、行道は三郎五郎殿、行時は六郎殿なり、孫五郎幼少なり又後家両人と見へたり。 日道御自筆三師御伝に云はく日目上人は文応元年庚申御誕生なり胎内に処する十二箇月上宮太子の如し、豆州仁田郡畠郷の人なり族姓藤原氏御堂関白道長廟音行下野国小野寺十郎道房の孫なり、奥州新田太郎重房嫡子五郎重綱の五男なり、母方は南条兵衛入道行増の孫子なり、文永九年壬申十三歳にして走湯山円蔵坊に御登山、同十一年甲戌日興上人に値ひ奉り法華経を聴聞し即時に解了し信力強盛なり、十五歳の時なり、建治二年丙子十一月二十四日身延山に詣で大聖人に値ひ奉り常随給仕したまふ十七歳なり云云。 日因私に云はく此の中行増の孫子とは日目上人の事なり、然るに諸人謂らく日目上人の御母は是行増の孫女の子なりと心得たる故に日目上人御母は南条時光の息女なりと思へり是れ大なる謬りなり、又精師云はく走湯山蓮蔵坊十三登山とは大なる謬なり之れを思へ。 一、又御堂関白の事 王代一覧三(四十四十一)云はく人王六十八代後一条院の外祖藤原道長摂政たり、治安二年七月道長法成寺の金堂を作り供養す、此御堂を作るより道長を御堂関白と号す云云。同四年十二月一日道長薨ず年六十二、三代の間摂政関白にして天下を下知する三十余年云云、寛仁三年歳五十四落飾す世人是れを入道殿と云ふ、他人剃髪する者ははゝかりて入道と云はず云云。 日因私に云はく日目上人俗姓系図奥州より来る一巻有り、此れには日目上人千葉の末孫なり、其の次第は本と桓武天皇第五の王子葛原親王の苗裔平の高見王、高望、良文、致頼、致経、忠常、常将、常長、常兼、常重、常胤、胤正、成胤、胤親、忠胤、次男日目幼にして永成丸と名く云云、然れども日道上人御記録と相違せり故に此説依用し難き者なり、其の上千葉胤親は頼経卿の近侍嘉禎元乙未三月釆地七千余町を奥州桃生、牡鹿二郡に拝領す、而して小野寺は下総国の人頼朝の御代小野寺道房奥州新井田郷に下る、又伊豆国に釆地を拝領す、仁田郡畠郷是れなり。 新田家御譲状の事 一、弘長三年癸亥六月八日妙法尼状に新田五郎重綱に譲る曰く 譲り渡す伊豆国仁田郡畠村、在家の事 合屋敷三ケ所、給田弐町五反、一所は居屋敷、一所はすへ次平が屋敷、一所は的場屋敷、給田弐丁五反、十二口之を略す 右件の田在家は子息新田五郎重綱に譲渡す所実なり○弘長三年六月八日、尼妙法在判。 一、文永元甲子年九月四日配分状に云はく。 新田五郎次郎所に配分する伊豆国仁田郡畠村在家事。 合屋敷壱ケ所、田壱丁。 右件の田在家は母儀妙法新田五郎重綱に譲り与え畢んぬ而るに重綱未分にて他界の間、妙法譲状に任せ重綱の子息等に配分せしむる所なり、向後と雖も違乱有るべからず、仍て配分の状件の如し。 文永元年九月四日、沙弥道意在判。 一、建武元年九月二十七日国戦執達状に云はく。 済藤佐渡三郎太郎基素岩手郡二王郷三郎二書御下下文の旨沙汰付すべきの由仰せらるゝ旨久六郎清国の処、本主と称し支て打渡さす、結句津軽に下向するの間、延引なり、早く彼所に莅ましめ仰付らる可し、其の代倫旨国宣を帯せずば詣るべからず、使節延引に及べば咎有るべき者なり、国宣執達件の如し、建武元年九月二十七日大蔵権少輔請文。 新田孫五郎殿巳上。 此の状は正和元壬子年より二十二年目なり、推するに新田孫五郎殿二十五六才の比成るべし云云。 日因云く此三通粗文明なり、弘長三年癸亥六月妙法尼子息新田五郎重綱に之れを譲り、文永元甲子九月新田五郎二郎に的場の屋敷を配分す、然るに屋敷三ケ処これ有り、一所は居屋敷此れは妙法尼の住処屋敷なり、一所は的場屋敷此れは新田五郎二郎へ之れを譲るなり、一所はすへ平次屋敷なり、故に知りぬ妙法尼居屋敷は小野寺五郎太郎一所に住居したまふと見えたり、然れども譲状之れ無き故に決定し難き者なり。 弘安五年壬午年より廿五年也、文永元甲子より四十二年丁未也、文応元庚申目師御誕生より八十六年也。 一、徳治二年丁未二月十七日執達状に云はく。 富士上方野郷一分の領主新田五郎後家尼蓮阿事、口当米以下公事訴状此の如き子細状にゆ、早く弁へ申さるべきの由に候なり仍て執達件の如し。 徳治二年二月十七日僧在判、左衛門尉在判巳上。 一、目師譲状に云はく。 譲り渡す弁阿闍梨の所、奥州三の迫加賀野村の内に田弐反、加賀の太郎三郎殿日目に永代たびたる間へ弁阿闍梨日道に永代を限り譲り与うる所なり。 一、伊豆国南条佗武正名の内いまたの畠弐反、少々くづれたりといへども開発私領たる間譲り与うる所なり、余の弟子共違乱妨ぐ可からず、若し違乱に於ては不孝の人となるべし、仍て譲状件の如し。 嘉暦弐年十一月十一日、日目在判。 又云く上新田坊●に坊地弁阿闍梨譲り与へ畢、又上新田講所たるべし此の上新田の事どもは弁阿闍梨一期の後者虎王に譲り与うべきなり、仍て状件の如し。 嘉暦弐年十一月十日、日目在判、幸松在判巳上。 興師嘉暦四年七月二十七日御本尊授与小野寺虎王麿は予が弟子なり云云、下野平井信行寺に之れ在り、但精師目師の幼名と引証する恐くは謬なり、又御遷化記に云はく小野寺太郎幸松丸虎松丸云云、此の中虎松は虎王丸なるべし幸松は其名同人なり。 一、上野殿御返事に云く。 故上野殿だにも御座せましかば常に申し承りなんと歎き思ひ候つるに、御かたみに御身をわかくして留めをかれけるか、姿のたがはせ給はぬに御心さま似ける事云ふばかりなし、法華経にて仏に成らせ給て候と承りて御はかにまいりて候なり。 ○文永十一年七月廿六日、日蓮在御判云云。 又上野殿母御前御返事に云く、故上野殿には壮なりし時をくれて歎き浅からざりしに、此の子を壊妊して火にも入り水にも入らんと思ふ、此の子既に平安なりしかば誰にあつらへて身をもなぐべきと思ふて、此れに心をなぐさめて此の十四五年は過ぎぬ、いかに●とすべき、二人のおのこ●にこそ、になはれめと、たのもしく●思ふて候つるに、今年の九月五日、日月を雲にかくされ、花を風にふかせて、夢か夢ならざるか、あはれ久しき夢かなと歎きあかして四十九日等云云、弘安三辰年十月廿四年云云。 又云く、抑御消息を見候へば尼御前の慈父故松野六郎左衛門入道殿忌日云云、十月十五日。 又云、故上野殿の御忌日僧●料一たはら、たしかに御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし、○弘安三年三月八日、日蓮在御判、進上上野殿御返事。 又録内三十五四十云、其の上殿はをさなくおはしき、故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給しかば臨終に正念なりける由承りき、其の親の跡をつがせ給ふて又此経を御信用あり、故聖霊いかに草のかげにても喜び覚すらん。乃至如何なれば五六十までも親と同ししらがなる人もあり、我れわかき身の親にはやくをくれて教訓をも承はざるらんと御心の中をしはかるにこそ涙もとまり候はね云云、文永十一年(太歳甲戌)十月十一日、日蓮在御判、南条七郎次郎殿御返事。 内二十十六、御所労の由承り候、実にて候やらん、○文永元年十二月十三日、日蓮在御判南条兵衛七郎殿。 又二十二巻、南条兵衛七郎殿とは南条兵衛とは南条兵衛七郎次郎時光か事なり、弘安四年九月十一日云云。 南条家の由緒 本国伊豆国南条庄 南条兵衛七郎入道行増 文永二乙丑三月八日卒去 内室松野六郎左衛門息女上野後家尼御前 十八歳早世 男子 八月十日入水法名行忍 一説妙経貞和五丙午二月五日 鬼鶴御前 妙行 応長元辛亥 十月廿七日死 阿原口御前 尼比丘尼 一説 乙鶴御前 妙蓮 正和二癸丑 八月廿三日死 蓮阿尼 新田五郎重綱妻女日目上悲母なり 一説 妙蓮 元享三癸亥 八月十三日死 南条七郎二郎左衛門尉時光入道大行 日因私に云く阿原口御前元弘元年死去と大行譲状見 タリ、鬼乙二人阿原口御前娘ナリ、大行姪ナルコト 譲状アリ、元弘元年ニ存命ナリ、故ニ鬼妙行応長元 年並妙蓮正和二年モ妙経貞和五年モ皆謬ナリ。 南条七郎五郎 弘安三九月五日御病死 本妻子本妻曰平氏 正中三年丙寅春卒去 南条左衛門二郎時忠 嫡子 節房丸 妾女ノ子ナルカ 同三郎時綱 此人ハ鎌倉討死ナルカ正慶二酉五月 同乙松女 南条太郎兵衛高光 此人知れ難シ母儀ハ正中三年二月八日大行ノ譲アリ、而レ ハ乙松の子男ナルベキカ、三郎嫡子ナルベキカ、因て推量 スルニ乙松女ノ子男ナルヘシ。 同乙一女 建武元七月廿一日譲状に云く南条二郎左衛門入道大行自筆、正中三年二月八日 譲る所文明鏡の上は者高光母儀に付せらる●所なり云云、此上野左近入道一宇 南条太郎左エ門高光母儀由井四郎入道妻と与に争論せる故なり、正中三年二月 八日乙松女譲状之ある故なり。 外に南条次郎左衛門宗直行蓮正慶二、五月十九日カマクラ討死 興師御遷化時 南条左衛門太郎 高直妙行、正慶二、五月十八日カマクラ討死 南条左衛門三郎 南条左衛門四郎 直重行念、正慶二酉五月廿二日カマクラ討死 南条左衛門五郎 御書外廿四 南条左衛門七郎 御書外廿二 南条七郎若宮 正慶二年二月七日 △私に云く此は是大行殿分ナルヘシ但若宮トハ節丸の事ナルカ。 一、延慶二年己酉二月二十三日南条二郎殿譲状に云、譲り渡す南条左衛門二郎時忠の所。駿河国富士上方上野郷、(但諸子の分面に譲状有り)相模国山内荘前岡郷の内屋敷二所、給田壱町三段かまくら野地の内事、○并御下文案文壱通南条左衛門入道所壱通○右件の所領は、時忠嫡子と為るによつて代々御下文并に手続の文所相添へ譲る処実正なり○又時光死後に此譲の外譲有りとなす者謀書之を知るべし時光産子と三郎が母より外譲之なし略抄左衛門時光判。 又元享元幸酉七月二十五日譲状に云く、同国麻畑五反余大行分を以て譲り状件の如し、元享元年七月二十五日左衛門二郎の分、大行在判。 一、延慶二年乙酉二月二十三日南条三郎殿譲状に云く。 譲り渡す南条左衛門三郎の所。 伊豆国南条の南方たけ正明の内田大所伊豆給田○状件の如し、延慶二年二月二十三日、左衛門尉時光在判。 又正中三年二月八日状に云く。 延慶二年二月二十三日の譲りに任せて相違なく知行すべし、沙弥大行判。 又正和五年丙辰三月十六日状に云く所詮入道の跡譲りは皆々大行が延慶二年二月二十三日、同日書面々にたびて候○延慶五通に自筆状に見るべく件の如し。 正和五年三月十六日沙弥大行判。 又正中三年二月八日状に云く、故二郎が子に譲おと松乙一女譲り渡す所実なり、乃至譲り状件の如し、正中三年二月八日、沙弥大行判。 日因云く左衛門二郎時忠殿大行殿より前に卒去なり、二郎殿の子は即節丸なり。 一、暦応元年十二月四日の下し文に云く、南条節丸申す田畠在家等の事。 申し状此の如し、浅羽三郎入道奉公となり再往の御沙汰を経させらる云云、所詮註文●に本人の訴陳等を取り調べ、来十五日以前沙汰遂げらるべきの節次なり、仍て執達件の如し、暦応元年十二月四日、心玄判宗綱承判。南条太郎兵衛殿巳上又云、南条節丸申す富士上方上野郷内在家田畠等事。 訴人高光申状に就いて両度相触の処、去月十九日節丸請文此の如く候、而当御奉行の許に於て違背の篇を以て御沙汰を逢うせられ知行を高光に付けられべきの由、節丸歎き申し候、御問答を究められず、未だ御成敗を尽されず、こと定て後訴断絶し難く候や、御意を得御披露あるべく候、恐惶謹言。 十月九日、沙弥心玄判、進上伊達蔵人五郎殿。 又貞和二年七月十八日申状に云く。 南条左衛門次郎時忠後家平氏代時直申す。 駿河国富士上方上野郷田在家の事。 去る五月四日御施行の旨に任せ参洛せしむべく南条次郎左エ門入道大行女子乙松乙一女に相触れ候の処、請文此の如くに候、謹て之を進覧す此の旨を以て御披露あるべく候、恐惶謹言。 貞和二年七月十八日、沙弥道恵請文裏判。 又平時□、正慶元年十二月二十六日の状に云く。 譲渡甥節房丸の所。 駿河国富士上方上野郷の内新居外行太夫の在家壱宇の事。 右件在家は甥節房丸に譲り渡す処実なり、若し此の所に於て違乱をなす者は時綱の子等不幸の者として跡を一向知行すべからず、○仍つて譲状件の如し。正慶元年十二月二十六日平時□巳上。 日因私に云く此は南状左衛門三郎時綱、南条二郎時忠の子節房丸に譲る状なり、大行殿正慶元年五月一日卒去す、二郎時忠は正中三年御死去と見へたり、正中三丙寅と正慶元壬申と七年なり、又平時とは具に平の時綱と云ふか、大行時光次男左衛門三郎時綱の事なるべし、又平氏代時直か。 一、南条兵衛高光申状に云く。 南条太郎兵衛尉高光謹て言上。 早く南条左エ門次郎忠時高光、御下文等を得る者抑留せしめ、久下次郎入道仙阿に対し当奉行に於て奸訴を致す上は傍例に任せ先日の訴訟に就て諏方大進房円忠奉行一所に寄せられ御沙汰を経られ御成敗を蒙らんと欲す、丹波国小椋庄の内田畠在家山野等の事。 右田畠在家山野等に於ては、高光重代の相伝当知行相違なきの処、久下次郎入道仙阿非分の押領を致すの間、去る康永元年以来布施弾正忠資連奉行に之を訴え申す処、同庄一分の領主苧川次郎蔵人(実名を知らず)件の仙阿と与に武州に於て諏方大進房円忠奉行に行きて而して相論を致す間、一庄一具の訴訟となるに依つて円忠奉行の一所に渡さるゝ者なり、而るに忠時者高光得たる所の御下文等抑留せしめるに依つて故なく奸訴を致すの上は、所詮円忠奉行一所に渡され御沙汰を経られ相伝の道理に任せ御成敗を蒙り知行を全うする為に恐々言上件の如し。 貞和二年十一月日。 日因云く此の中南条左衛門次郎忠時と云ふは大行嫡子次郎時忠に非る者か、又南条太郎兵衛高光是れ南条左衛門三郎時綱の嫡子なるべし、但し左衛門二郎時忠後家等之を抑留する争論する者か、仍て南条次郎左衛門忠時等と云ふ分明後家等の事なるべし。 又、南条太郎兵衛尉高光掠め申す丹波国小椋の庄内田畠在家●に山林等押領の事。 去る四月二十三日守護御方御書下、同五月二十二日御催促状謹て拝見仕り候い畢んぬ、抑当庄の地頭職は闕所の注文に任せ去る建武五年仙阿勲巧の賞として拝領せしめられ候なり、仍て正円仙阿奉公の為に東かまくらの上は飛脚を以て関東に申せしめ巨細の陳状を進上すべく候上下向日限三十日の御免を蒙るべく候、此の旨を以て御披露あるべく候、恐惶謹言。 貞和二年六月三日、所務代菅原義成裏判。 進上御奉公所。 又、南条太郎兵衛尉高光申す、久下次郎入道仙阿、丹波国小椋庄田畠在家山野等押領之由の事。 封下さるゝ申状の旨に任せ明に申すべきの旨催促せしめ候の処、守護代国範●に仙阿代義成請文此の如くに候、謹てこれを進覧す、此の旨を以て御披露あるべく候、恐惶謹言。 貞和二年七月三日、前伊豆守時氏請文裏判。 一、又云く、南条太郎兵衛尉高光母儀由井の四郎人道妻女と相論、駿河国富士上方上野郷内左近入道在家一宇の事。 右南条左エ門入道大行自筆を以て正中三年二月八日譲り与る所明鏡の上者高光母儀に付せらるゝなり、者れば仰に依つて下知件の如し。 建武元年七月二十一日、藤原判。 日因云はく大行自筆に云く、時光が産る子と三郎が母より外に譲り無し延慶二年二月廿三日云云、此文に依れば左衛門三郎殿を太郎兵衛尉高光と云ふか、又大行自筆に云く、兼て又左近入道在家には後無し○後の為に譲状件の如し、正中三年二月八日、沙弥大行判云云、又譲り渡す甥節房丸の所時綱等云云、正慶元年十二月廿六日なり、但又時光息女乙松乙一女の内一人高光の母なるか所詮知れ難き者なり、又南条時忠後家と南条高光と不和にして知行を争論する者なり。 一、阿原口御前の事。 鬼鶴御前の譲り比丘尼。 譲渡鬼鶴御前の所、駿河国蒲原の庄関島の内大行が知行分半分事。 右所は故尼上の手より大行一々譲り得、後阿原口の御前に取りよせよ仰せられ候いしかども、大行に先達つに依り其の女子たる間御下し文を相添えて鬼鶴御前へ譲る所なり、若し此所に違乱をなさん者は大行が為に不幸たるべし、又注文別に有り、御公事等出来時は、乙鶴御前と寄り合つて半分づゝさたゝるべし、又八幡米壱斗五舛の内壱斗弐舛は鬼鶴御前、三舛乙鶴御前の沙汰たるべし。 元徳三年十一月十八日、沙弥大行判。 日因云く此の中故尼上と云ふは上野尼御前即大行母儀阿原口御前にも母儀なるべし、然れば鬼鶴乙鶴二人阿原口御前の息女なり大行の姪なり、上野尼御前即妙蓮尼なるべし、又鬼鶴を妙蓮と曰ひ乙鶴を妙経と曰ひ倶に時光の息女と云ふ事謬なり、又一説には鬼鶴御前、応長元辛亥十月廿七日死去、妙蓮乙鶴御前正和二癸丑八月廿三日死去、又妙経貞治五年丙午二月五日死去、阿原口御前の事なり云云何れも未た可ならざるなり、此の譲状を以て之を見るに阿原口御前は大行より先に死去す元徳の比の死去か、故尼上とは上野尼御前なるべし、鬼乙二人は時光の姪なるべし、又大行殿より後死去なり、又大行殿先妻後妻ありと見へたり、二郎殿の母三郎殿の母譲状に見へたり、但し妙蓮とは乙鶴をも云ふか、既に正和二癸丑八月廿三日元享三癸亥八月十三日忌日異なるが故なり、但し上野尼御前は弘安三年六十余と見へたり、元享三年までは四十四年何ぞ百余の命有んや。 一、元徳四年壬申卯月二十八日日道上人え譲状に云く。 譲渡す駿河国神原庄関け島の田在家の事。 右件の処は伯父にて候、南条二郎左衛門入道大行代々相伝の所領なり、然る間手続相伝の譲得御公事文等を相添て元徳三年十一月十八日譲得知行相違之無き間幼少より養せられ進らせ候て浅からぬ御心ざし御恩送りがたく思ひ候間彼の手続の譲状下し文相添て養父新田の伯耆の阿闍梨の御房に永代を限りて譲渡し進らせ候処実正なり、在家名田すつほつ遺す本譲状に見へて候なり、尼は一人の子は候はぬ上は、若親類子共と号して違乱障●ある間敷候、仍譲状件の如し。 元徳(二二)卯月二八日尼在判巳上。 日因私に云く此譲状は神原尼御前なり、阿原口鬼乙譲状と一所、元徳三年十一月十八日大行殿より譲り与るなり、然るに此の尼より伯耆阿闍梨日道上人へ御譲りなり、恐くば鬼つる乙つる御両人の内なるべきか、若し南条殿譲状に依れば鬼鶴御譲前より日道上人へ御譲りなり、道師は鬼鶴御譲前の為に則養父なり。 又房州妙本寺日要伝に云く日目上人伊豆国の住人新田四郎源の信綱舎弟新田五郎源重綱と申す人の御子なり、新田足利一筋なり御前の御一家なり、文応元年辛申御誕生木性、始め虎王殿と申し十三にして走湯山に御登り円蔵坊を小師となす、聡敏にして天台真言を修学す、爰に興上湯浴の序に円蔵坊に立寄り彼の児を御覧して文を送る、其の時虎王丸障子の内よりなげ出す御歌に云く、通ふらん方ぞゆかしきはまちとり、ふみ捨てゝ行くあとを見るにも、興上御返しに云く、わかの浦やはね打かへし浜千鳥、浪にかきをくあとや残らん、児虎王丸重ねて云くよりくへき方もなきさのもしを草かきつくしてんわかの浦浪云云、御酒宴ありき、時に伊豆山一番の学匠三位阿闍梨後式部僧都と云ふ人興上に対して云く云云、興上仰に云く無間地獄の主し式部僧都とは御房の事か云云、若人不信の文を以て云ひ詰めたり、虎王丸之を聞き自解発得して法華に帰す、仍つて興上御帰路のあとを追とて夜中歩行にて近付き身延へ御同道、落髪して後宮内卿と申す新田の卿公と申す是なり、高山深雪の朝には嵐に向つて薪をこり深谷氷厚き夕には寒を凌いて水を汲む、菜を摘んては飛花落葉の無常を知り菓を拾ふては阿耨菩提の仏果を願ふ、年々修行の誠は求法の肝に銘し日々学問の功は利生の眼を洗ふ、昼は頭に水木を戴き頂の上既にくぼくなり、夜は身を以て床座と為す膝文につかれたり、然りと雖も勤行学問をこたりたまはず御かうべの凹き事御行躰の謂れなり、大聖開山自身の御天奏として上洛だにも四十二度なり、加之開山へ五十八年の間の奉公影の如し、御形の御忠勤凡慮の及ぶ所に非ず、其の上高祖にも七箇年の間御奉公常随給仕なり、其の外高祖の御代官と為て両度の御天奉に又留難等新所建立の御行躰中々書き尽くしがたし、さればこそ直弟にだにも御相承なき三大秘法を目上に御相伝なり、之に依つて付法は日興学法は高祖にてまします、平生の学問に非ず三大秘法末法万年救護の血脈の御学問なり、知らざる人は当家の学者も只玄文上等の学法と思へり浅智なり不信なり、当家の慈父悲母の沙汰日目と申す御子なくんば何を以て下種の本門と云ふ可けんや、さてこそ本尊にも日目上人遺弟と日要も堅くつのり、日目上人申状にも三大秘法遊はさるゝ事大切の事なり、日郎の耳引法門とは此三大秘要なり、開山の本六新六十二の中に第一の御弟子日目なり、之れに依つて御存日の最中に身延再興の久遠寺たる大石寺を目上に御相続なり蓮蔵坊と申すなり、此の上両帖の御大事血脈の相承は目上への御付属なり、然に開山重須に御住の時日々大石より御出仕云云、御年七十四歳にて御円寂、興上は八十八、二月七日、目上は同霜月十五日なり、日目の二文肉と云ふ字に切るなり、爰に浄法房と云ふ者日目と云ふ名をのぞむ、高祖卿公へ相続の間之を許さず、仍て日と天と一物なりとて天目と付くるなり、後正安年中一門徒を立て本門十四品を取て依経と為す興上の法門を盗み入て沙汰するなり云云。 日因云く此は是れ房州妙本寺歴代日要の私記なり一々実義なし皆是れ謗罪の書なり、今且く其の難を拳れば目上御先祖道師の記の如く藤氏明白なり何ぞ源氏と云ふや、又新田とは奥州新田庄御父の領所なり祖父新田太郎重房始めて之れを領す故に新田殿と号す何ぞ上州新田と云んや、又走湯山円蔵坊にて興上対面の事詠歌通用未た詳ならざるなり、又夜中山を出で追ひ来る事未詳なり、又剃髪宮内卿と曰ふ妄説なり、又新田郷公とは上州新田に非ず即奥州の新田なり、郷公とは伊豆国仁田郡畠郷の人故郷公と云ふなり、又身延山七箇年難行苦行の躰誠に以て殊勝なり、若爾らば大聖人は仙人に似たり目上の難苦を称美して還つて大聖人を謗る者なり、但七箇年常随給仕他に異るの相を申すべきなり、其の外之れを略す具に例難せよ例難せよ。 宝暦十三年癸未三月四日 三十一代日因在判勘之 編者曰く大石寺蔵因師の正本に依つて此を写し故に修訂を加へず、但し引文の古文書等今此を各本書に照らすに悉く誤写ならざるは無く又系図に誤り多し予が南条時光伝を見よ、但し一々此を訂正するは却つて本文(因師)を破壊する恐れあるを以て忍んで本師に依準す、但し此等の古文書は富士史料類聚に出す故に対照せらるべし、又本書中に因師の解説妥当ならざるものあり、委悉には評し尽さず不本意ながら併せ記しをく。 |