富士宗学要集第五巻

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富士大石寺明細誌

冨士山大石寺、法華宗、冨士郡上方ノ庄上野郷上条村、寺領六十六斛八斗五舛余、七堂伽藍坊舎三十余字。
開山日興上人。
日蓮聖人の上足六老僧の第三白蓮阿闍梨と称し又伯耆公と曰ふ、俗姓は橘氏美濃守善根の裔大井の庄司光重の三男なり、寛元四丙午三月八日甲斐国巨摩郡●河沢に生る、右額に七曜の文在り視る者奇と為す、幼少にして父を喪ひ駿州岩本実相寺に登り播磨律師を師とし事へ甲斐公と名く、叡嶽三井に渉猟し顕密二教を学ぶ、儒書和歌を冷泉中将に問ひ且筆道の秘を習ふ、頴悟博識にして名誉有り、正嘉中蓮祖講を岩本に聞く師聴て得度し忽に持法を乗て蓮祖の弟子と為り因て名を改む、此より鎌倉に往き蓮祖に奉仕し旧寺に還ては在々所々に行化し受法の真俗枚挙し難し、松野氏の男門人と為り日持と名く六老僧蓮華阿鎌倉に提へ蓮祖に侍せしむ、文永辛未蓮祖佐州に謫せらる即従て往く在島四箇年蓮祖に随逐給仕す、阿仏房師の節操に感じ後一子を以て師に奉る如寂坊日満と名く、十一甲戌三月八日日朗赦状以て佐州に著く、日已に暮る喚ぶこと数声師之を聞き炬を把て出で迎ふ同十三日蓮祖に侍し佐渡を発し同二十六日鎌倉に還る、同五月蓮祖身延山に入る師之随ふ、同十一月蓮祖大漫茶羅を書して師に授与す万年救護の本尊と号す後目師に相伝す今房州妙本寺に在り建治中豆州に行化し一弟子を得、蓮蔵坊日目と名く新田卿阿と云ふ大石寺の三代、甲州秋山の男出家す寂日坊日華と名く下条妙蓮寺開山なり、小笠原氏の男弟子と為る百貫坊日仙と名く讃州高瀬法華寺開山、弘安元年戊寅正月駿州富士郡に行化す、改宗帰依の者日に衆し、蓮祖日法日弁に命じて之を扶助す、実相寺主厳誉師の宗化日に隆なるを怨嫉し之を官に讒す、二月師奏して公庭に彼と是非を論ぜんと請ふ実相寺申状と云ふ官果さず、同二己卯再書を以て之を請ふ滝泉寺申状と云ふ、爾りと雖も奉行平頼綱等厳誉を贔負し敢て対決を許さず、剰へ吏を富士下方に遣し寺院を破却し僧侶を打擲し檀越二十四人を捕へ而して之を鎌倉に送り以て地●に下す、其の頭領熱原の神四郎田中の四郎広野の弥太郎三人終に斬罪に行はる、師愁訴を懐て空く年月を過る中厳誉陰謀露顕して逃亡す富士川を去て西の中郷今其所を四十九と云ふ寺因て本化の道場と為る、弘安元年蓮祖妙経の講を延山に開く師其口伝を筆受す世流布の御義口伝と云は是なり、師筆法に善し命を奉する毎に代て本尊を書す仍て其口伝を稟く本尊七箇の口決と云ふなり、同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ、日法材端を以て蓮祖の小影を作る作り初の御影とも最初仏とも号す右二種大石寺宝庫に安ず、蓮祖又日法に命じて等身の像を模刻せしむ生御影と号し重須の寺に安す、此三種を師に付与せらる、同四辛巳蓮祖園城寺の申状を書す師命を奉し日目を相伴ひて帝都に上り上奏を経親く御下文を賜ふ是を薗城寺御下文と云ふ天奏の最初一宗の規模なり、同五年壬午秋蓮祖微疾を感じ其死なん事久しからずと念ひ一大事己証の法門を以て師に完付す乃遺証賜ふ之を身延山相承と云ふ、其文に曰はく
日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之れを付属す本門弘通の大導師為るべきなり、国主此法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ事の戒法と謂は是れなり、就中我門弟等此状を守るべきなり、弘安五年壬午九月日、日蓮在判、血脈次第日蓮日興。

同九月下浣蓮祖安国論を池上に講す、師聴て安国論大意問答を撰す、十月蓮祖六上足を定む師厥の第三と為る乃命を奉じ其列次を書す、同十三日暁補処の遺状を師に賜ふ之を池上相承と云ふ其文に曰はく、
釈尊五十年の説法白蓮阿闍梨日興に相承す身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 日蓮在御判、武州池上に於て。

同十六日師御還化記録を書す四人裏判之れ有り向頂二人他行師遺命に任せ甲州身延山に住持する七箇年なり、地主波木井入道讒者に惑はされ蓮祖の遺誡に違戻し謗法一ならず、師歎て再三之れを諌むと雖も実長聞かず、師乃之れと隙を生ず、正応元年戊子十一月蓮祖遺嘱の霊宝残らず之れを持参し身延を去て大井に致る、波木井一門大に駭き数度還住を請ふ師思ふ所有て帰らず、
同二年己丑春南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州冨士郡上野郷に移る今の下之坊なり、茲の勝地を撰で宏基を大石が原に創め本門戒壇の大本尊を安置す、門弟各僧房を構る十有二舎乃建る所を以て号して大石の寺と曰ふ、維れ時人皇九十一代伏見院御宇正応三年癸寅十月十二日開堂す、蓮祖を推して初祖と為し師第二世位に居る、
化導利生の外他無し、蓮祖の例に任せ六老僧を定む、日目、日華、日秀、日仙、日禅、日乗なり是を本六と云ふ蓮祖値遇の人々なり大石寺に在り本尊御骨の守番為らしむ、
就中嫡弟日目をして大石寺を管領せしむ、
永仁六年戊戌春又一宇を北山郷に創し扁して重須の寺と号す正御影を安置す後に本門寺と曰ふ、
嘉元中日澄に命じ富木常忍の子日頂の舎弟寂仙房と云ひ一切経周覧の学匠なり講莚を開く、
乾元中真間日頂六老僧伊予阿母妙常妹乙御前師を慕て来る北山正林寺を開く四人の墓有り、遂に茲に於て寂す、
延慶三年日朗来り稍本迹の僉議有り遂に屈を受け勝劣一味の誓状を捧げ御影の宝前に於て泣て前非を悔ゆ悲汗像を沾し涙痕今に新なり、
師蓮祖在世の昔より或は帝都に上り公家に奏し又鎌倉に下り武家に訴ふ奏聞を経る都合三十二度なり、
元徳二庚午正月大石寺守番の制を定む、元弘二壬申正月再六上足を撰す日代、日澄、日道、日妙、日郷、日助なり是を新六と云ふ蓮祖滅後の人々なり重須の寺に在て御影守番為らしむ、
正慶元年遺戒二十六箇条を設け特に日目に遺言し葬地を指して桜樹を植え和歌一首を詠ず、明年春偶微恙を感じ自ら死期を知り本尊を床上に懸け奉り誦経唱題の外他無し、安詳に円寂す、葬儀全く蓮祖に同きなり、寿八十八歳実に正慶二年癸酉年二月七日酉尅なり。
諸堂本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸。
右再建の大施主台徳院様御養女阿州守太至鎮の室御法謚敬台院殿妙法日詔大姉。

天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。

鐘楼本堂前東方三間四方、撞鐘長六尺二寸内竜頭一尺三寸指渡口三尺三寸厚四寸。
皷楼本堂西方二間四方。

青蓮鉢本堂前東方にあり、唐銅高五尺口指渡五尺、八箇所より水落下す、池広八尺四寸四方中に八角の石台の上に伏蓮華あり其上に鉢あり銘に曰く。
本門円戒の地 蓮鉢涌く霊泉 源は遠し雪山の下 流は長し湖水の辺。
清香熱悩を除き 盥漱勝縁を結ぶ 願は神竜の力を被り 須臾に大千を沾ん
施主、本法阿闍梨広宣院日養。                          合力、摂州大阪法華本門講衆。
冶工、甲府住人池上源蔵巻次。
維時亨保第四太歳己亥孟冬上旬冨士山大石精舎廿六世日寛之を誌す。
維蔵又論堂と云ふ、本堂の背北東方六間四方檜皮葺、宋本の一切経全部。
十二角堂本堂北東一丁余五間四方、歴代位牌。
位牌堂十二箇所一間半四方塔中一二坊。
五重宝塔西向三間半四面、本堂東三丁余銅瓦葺土台より九輪に至る高十一丈余、文昭院様御台所天英院殿一位尊女御再建なり。
堂唱堂本堂東一丁余四間四方檜皮葺、時の鐘常題目。
常唱堂番長屋奥行三間間口十二間。
中門又二天門と云ふ、本堂五十余南明二間半横二間二尺。
三門中門より二百二十八間余南、明十一間五尺、横五間四尺、二楼、檜皮葺、文昭院様天英院様御二方様御再建なり。
下馬札三門前東方に有り。
惣門明三間横一間半柿葺、三門より二百二十二間本堂依り都合八丁四十間余。
制札惣門前に在り。
定御判
駿州冨士上方大石寺規矩法度并寺内諸役等の免許の事。
右無縁所たるの間旧規の如く有る可らざるの状。
一、当手軍勢甲乙人等濫坊狼籍の事。
一、殺生禁断の事。
一、寺中諸沙汰真俗共速に裁許有るべ事。
一、権門の被官人と雖檀那と号し寺中善悪の義綺い有るべからざる事。
一、寺家郎従以下在家人等に至つて自他非道の儀申しかくべからざる事。       一、門前を馬場と致すべからざる事。
一、門前え荷物を入れ押売狼籍すべからざる事。
一、竹木を截り取る事。
一、大宮の役為りと雖も別無きの儀に就いては其沙汰すべからざる事。
一、門前商売の物諸役有るべからざる事。
一、門前に於て前々市之なき処只今立るの儀停止せしむる事。
右の条々天沢寺殿の袖判の旨に任せ堅く申し付る所なり、若し違乱の輩に於ては早速注進の上糺明あるべき者なり、仍て件の如し。
天正十一年十月五日
大石寺

方丈本堂前一丁余西南の隅。
客殿正南面、向拝造間口十四間奥行十二間。
左方厨子日興上人木像御居長二尺六寸三分御膝両袖三尺九寸五分。
仏壇中央板漫茶羅日興筆の写。
右方厨子日蓮聖人木像御居長二尺六寸七分御膝両袖四尺一寸五分。
御霊屋間口三間奥行二間、将軍御位牌。
玄関唐破風 檜皮葺横三間 明五間。
書院七間九間半。
奥居間十三間五間。
庫裏間口十三間奥行十間。
六壺仏壇厨子の中日蓮聖人木像御居長一尺三寸五分御膝両袖二尺二寸二分。
下台所間口十二間奥行五間。
赤銅●槌壱面又雲板と云ひ又打板と云ふ方丈客殿東縁側にあり長五尺六分横四尺九寸厚二寸二分。
願主二十四代日永、元禄八乙亥正月十三日、鋳物師江戸住宇田川重賢作、功徳主江戸神田住村松七兵衛尉。

不明門客殿前明一間半。
裏門五間二間。
表門唐破風四ツ足檜皮葺、二間一尺二間二尺。
門番所二間九尺。

宝蔵間口四間奥行五間、客殿後二十間石垣六尺の上に立つ。
同門明一間半横一間。

学頭寮蓮蔵坊と号す。
講堂間口七間奥行六間、仏壇中央十界勧請大本尊、右日蓮聖人木像左日興上人木像。
脇仏壇日目上人等身木像を安置す居長二尺四寸五分御膝両袖三尺六寸五分、奥居間三間五間、長屋所化勤学所十二間三間、表門二間一間。
開基日目上人。
宗祖の直弟新田卿阿闍梨と号す、俗姓藤原氏御堂関白道長公の後裔、奥州登米郡新田郷領主小野寺五郎重綱の五男なり、母平氏豆州南条二郎入道行増の女なり、父鎌倉に仕へ南条の家に寓居す、師胎に在ること十二箇月文応元年庚申四月廿八日伊豆波多の郷に生る、少名虎王丸甫十三歳文字を走湯山円蔵坊に学ぶ、文永十一年甲戌秋興師円蔵と法議を論ず蔵屈を受く師側に在り之を聴き当家を慕ふ蔵喜ぶ即師を以て興師に奉ず時十五歳、建治二丙子四月八日剃髪受戒して改て卿公と名く、同十二月二十四日興師に随ひ甲州身延山に登り蓮祖に謁し奉る、聖人感悦して曰はく是諸天人世間の眼なり宜しく蓮蔵坊日目と称すべきなり時十七歳此れより蓮祖に随侍し法華を習学す多聞広学の誉有り、弘安五年壬午九月蓮祖に従ひ武州池上に如く、旅次叡山徒伊勢法印と云ふ者有り将に蓮祖と法門を論ぜんとす、蓮祖師に命じて対と為す師進で忽に之を折く伊勢緘黙す、同十月蓮祖葬式先陣の列なり、身延に還て守塔の番は十月の詰衆なり、六年春豆州に如き一門縁者を教化す甥某弟子と為る日道と名く大石寺第四代、又奥州登米郡に下り新田森加賀野玉野颯佐氏等を教化し寺を所弘の地に建つ、所謂本源、上行、妙円、妙教の四箇寺是れなり、台徒其門人と為る日尊と名く京都要法寺開山、越後に往き太田郷某の子を弟子と為す日郷と名く小泉久遠寺、房州妙本寺開山、身延山に帰り弟子をして興師に給仕せしむ、又在々所々に行化し寺を所弘の地に建つ所謂駿州安居山、同州蒲原駅、甲州谷村三所の大法山東漸寺是なり、正応元年戊子冬興師に従ひ身延山を退き富士の上野に移る、興師宏基を大石ケ原に開く法弟各子院に造る、師の構る所蓮蔵坊と呼ぶ、命を奉じて講莚を開き以て門人を励す、興師蓮祖の例に順じ六老僧を撰む、師其の魁為り、正安元年己亥師十宗房と云ふ者と宗教を論ず利有り、師宗祖在世より已来或は代官と為りて華洛に上り奏状を天子に捧ぐ、又自己の為に柳営に下り訴状を将軍に奉る、奏聞を経る都合四十二度なり、元徳二年興師書を以て大石寺の視篆を命ず師乃ち之に応ず其の状に云はく。

日興跡条々之事
一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主となし日本国乃至一閻浮提の内山寺等に於て半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之領掌すべし。一、日興が身に宛て給る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す、本門寺に掛け奉るべきなり。
一、大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領す、修理を加え勤行を致し広宣流布を持つべきなり。
右日目十五の歳日興に値い法華を信じて以来七十三才の老体に至るまで違失の儀なし、十七才日蓮聖人の所に詣り甲州身延山御在生七年の間常随給仕す、御還化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異るに依つて此の如く書きおく所なり仍て後証の為に状件の如し。
元徳二年十一月十日 日興在御判

正慶元年壬申十月十三日興師又本尊を書して師に与ふ其端書に云はく、最前上奏の仁新田卿阿闍梨日目之を授与す一か中、一弟子なり。
正慶二年興師の滅後再び将に帝都に観光せんとす濃州垂井駅に抵りて疾を感じて乃寂す実に十一月十五日なり、春秋七十四、従ふ所の日尊日郷泣々喪事す、乃骨を二瓶に分ち以て富士上野と洛の鳥辺山とに塔す、代々当院より本坊に進む当山補処の跡なり。
表西側房中

理境坊 客殿間口六間奥行五間、庫裏五間三間、門一間半一間。
開基宗祖の直弟下野阿闍梨日秀上人。
俗姓ならず富士加島の人天台の徒なり、興師の教化に依つて衣を更めて身延に登り蓮祖に仕ふ、弘安中熱原市庭寺に住す日弁と倶に折伏弘教し杖木瓦石を蒙る、宗祖之れを感じて二人直に上人と召さる、宗祖滅後興師に随ひ身延に有り、正応元年興師延山を去る師従つて当山に移り僧坊を造り理境坊と号す、老後小泉村に草庵を結び閑居す、興師に先て元徳元年己巳八月十日示寂。

百貫坊 客殿間口六間奥行五間、庫厨六間四間、門一間半五尺。
開基高祖の直弟摂津阿闍梨日仙上人。
俗姓甲州小笠原の邑主某の子、秋山信綱の一族なり、興華両師に随ひ得道す、身延に登り蓮祖に仕ふ、弘安5年蓮祖御葬式は後陣の列なり、正応元年冬興師に従ひ身延を去り富士に移り坊舎を建て上蓮坊と曰ふ、興師老後側を離れず杖と履とを手元に置き起居動静孝思を竭くす給仕第一なり、甲州鰍沢の領主秋山氏所領を讃州高瀬に代ふ師彼の地に住て法華寺を開く、茲に於て延元二丁丑年正月七日円寂。

寂日坊 客殿間口八間奥行六間、書院四間三間、門一間半四ツ足。
開山高祖の直弟二十家阿闍梨日華上人。
俗姓甲州鰍沢秋山与一源信綱の子なり、同郷二十家に生る、本七覚山の山臥なり、興師の説法を聴き得道して衣を更め弟子と為り延山に登り蓮祖に給仕す、鰍沢に於て法を説き日仙日伝日妙等を教化して弟子と為す、又寺を所弘の地に建つ小室妙法寺、鰍沢蓮華寺、経王寺なり、蓮祖滅後身延に在り守塔番は十二月の結衆なり、正応元年興師に従て冨士に移り子院を構へ寂日坊と号す、元亨中甲州秋山信綱所領を土佐国幡田庄に替ふ、師往て法華堂を造る、興師の御遷化に就て富士に帰り南条時光の旧宅を転じて妙法寺を開く、茲に於て建武元年甲戌八月十六日安祥として円寂す。

観行坊 客殿間口六間奥行六間、庫厨六間四間、門一間半一間。
開基興師弟子伊勢公日円上人。
俗姓は詳ならず奥州栗原郡の人なり、初め目師に従て出家得道して富士に登り開山師に給仕し坊舎を構へて観行坊と呼ぶ、後命を奉じ奥州栗原郡宮野妙円寺に住持する年有り、茲に於て延元二丁丑十月廿八日示寂。

蓮成坊 客殿間口七間奥行五間、庫厨六間四間、門一間半一間。
開基高祖の直弟越後阿闍梨日弁上人。
俗姓は詳ならず延応元年甲州東郡に生る、興師に従ひ得道し後蓮祖の弟子と為る、又一説に云く熱原神四郎の子なりと云ふ実否詳ならず、弘安中熱原滝泉寺に住し大に折伏弘通し謗者の為に寺を破却せられ躬に杖木瓦石を蒙る、蓮祖之を感じて直に上人と召さる、蓮祖滅後身延山に在り守塔の番六月の結衆なり、正応元年興師に従ひ冨士に移り子院を構へ乗観坊と号す後蓮成坊と改む、又上総国に行化し鷲巣鷲山寺を開く、行年七十三歳応長元辛亥年閏六月廿六日常州赤浜に於て示寂。

南之坊 客殿間口六間奥行四間、庫厨五間三間、門一間半一間。
開基高祖の直弟少輔阿闍梨日禅上人。
俗姓は甲州西郡川村の邑主某の子なり、興師の母方由井氏の族なり、興師に従ひ出家し延山に登り蓮祖に給仕す、正応元年十月十八日興師の養父川合に於て逝去す、興師師をして蓮光の墓を衛護せしむ即小庵を結び妙光寺と号す、又上野に坊舎を造り南之坊と曰ふ、元徳二庚申二月廿四日興師の母妙福川合に於て逝く、命を奉じ両親の墓を上野下条に移し東光寺を開く、元徳辛未三月十二日師に先て南之坊に於て入寂す。
表東側坊中

浄蓮坊 客殿五間四間、庫厨三間半五間、門一間半一間。
開基興師弟子伯耆阿闍梨日道上人。
俗姓は藤原氏新田重綱の孫なり、母南条時光の女、弘安六年癸未年豆州波多郷に生る、襁褓の中より目師の弟子と為り富士に登り上野に住す、草坊を建て浄蓮坊と号す、後興師の座下に詣り法華の行学を修す、弁阿闍梨と称し後伯耆阿闍梨と改む、重須に行泉坊を造る、正慶二年冬目師上洛の時大石寺を付属せられ即的受第四の嗣法なり、行年五十九歳、暦応四辛巳二月廿六日示寂。

久成坊 客殿間口七間奥行六間、庫厨八間五間、門一間半一間四足こけら。
開基興師弟子玉野太夫阿闍梨日尊上人。
俗姓は詳ならず奥州登米郡玉野の人なり、元天台学徒なり、目師に値て得道し衣を更て弟子と為る、目師に随て身延に登り興師に謁して法華を習学す、正応元年興師に従て富士に移り上野に子院を建て久成坊と名く、正安二年の秋興師重須の寺に於て説法を為す時祖堂の乾に丁り梨樹有り其黄葉秋風に散乱するを見て莞爾として意を移すに似たり、興師師を呵して擯出せしむ、師忽に勇猛の信を発し東西に行化する十二年寺を所弘の地に建る凡三十六宇、年々に還来して赦を請ふ、応長元年興師之に感じて師を免許せしめ剰へ三十六幅の本尊を賜ふ、正慶二年冬目師濃州垂井駅に於て遷化す、侍者は師と日郷となり、泣々尊骸を茶毘し舎利を二瓶に分ち日郷は富士に帰り之を上野に支徴す、師洛の鳥辺山に塔して法を帝都に弘め要法寺を開く、茲に於て寿八十一、康永四年乙酉年五月八日示寂。

蓮東坊 客殿六間半四間半、庫厨四間六間、門一間半一間。
開基興師弟子三河公日蔵上人。
俗姓は詳ならず下野国小野寺の一族なり、目師に従て得道す、後興師に給仕し上野に坊舎を構へ蓮東坊と呼ぶ、後下の野州平井に行化して信行寺を開く、爰に於て康永元年壬午八月十二日示寂。

本住坊 客殿間口六間奥行四間半、庫厨六間四間、門一間半一間。
開基興師弟子宮内卿阿闍梨日行上人。
俗姓は奥州三の迫、森の邑主加賀野氏某の子なり、母は南条時光の女なり、父鎌倉に仕へ師を下野国に生む、道師に従て出家す、後興目両師に給仕し下之坊に住す、又当坊を建て下の野州小金井に如き蓮行寺を開く、高氏将軍より寺領を寄附する黒印を賜ふ、道師師を招て大石寺を付属す即的受第五嗣法なり、暦応五年春申状を高氏将軍に捧ぐ、在住二十九年応安二年己酉八月十三日示寂。

本境坊 客殿間口六間奥行四間、庫厨四間五間、門一間半一間。
開基興師弟子治部公日延上人。
俗姓は審ならず駿州加島の人なり、元天台徒なり、興師の教化に因つて衣を更め久しく実相寺に在り、興師上野の洪基を開く師来て僧坊を構へ治部坊と呼ぶ、後本境坊に改む、文和元壬辰年二月七日示寂。

了性坊 客殿間口六間奥行四間半、庫厨四間六間、門一間半一間。
開基興師弟子尾張阿闍梨日乗上人。                        俗姓は詳ならず奥州登米郡新田の人本儒者なり、名を大学と呼ぶ手跡を善くす、目師の教化を受け高年にして出家し身延に登り興師に給仕す、正応元年興師に従つて富士上野に移り僧坊を構へて藤の木坊と呼び又蓮仙坊と云ふ、老後小泉村に草堂を建て閑居す、師に先て文保二戌午三月二十八日示寂。

右十二坊草創以来旧跡なり。
裏坊中本堂より東南

石之坊間口六間奥行八間、門一間半一間。
当山濫觴の地なり、庭に霊石有り説法石と号す、開山興師当山草創の始め此石を高座と為て説法し真俗男女を教化す故に爾か名るなり。
説法石高地上五尺余囲二丈斗石上に松一株を生ず。
古来伝に云はく阿育大王所立の石宝塔の基ひなり、此石有る故に此所の地名を往昔より大石が原と云ふなり、私に云はく往昔此所は甲斐の国えの駅場か、東鑑一卅三云はく治承四年庚子十月十三日壬辰甲斐国源氏並に北条殿父子駿河国に赴く、今日暮大石駅に止宿す云云、前後文見合て考ふべきなり、伝に云はく唐土大石寺三ケ処あり皆阿育王石宝塔の旧地なり云云。

寿命房 客殿間口七間奥行六間、庫厨六間八間、門一間半一間。
建立の大施主は文昭院様御台所一位様御法謚天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀元文二辛酉年二月二十八日御宝算七十有六歳。
願主一位様御猶子 二十五世日宥。

遠信坊間口八間奥行五間、門一間半一間。
又富士見庵と云ふ此庭より富士の正面を見る絶景なり。
報恩坊 堅樹坊 円因坊 宗順坊 慈雲坊 清光坊 東光坊 随本坊 行信坊 信解坊 順行坊 完川坊 実成坊 玄明坊 浄性坊 善立坊 本如坊 勇本坊 西山坊 本行坊 宗智坊。
已上塔中三十六坊。

門前町方丈裏門前に在り十六軒。
上川村新田百姓本堂北十余町に在り。

什宝
一、本門戒壇の板大漫茶羅 一幅
日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、
現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、
弘安二年十月十二日
と、末代不朽の為に楠の板に書く厚さ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分なり、彫刻は中老僧日法に之れを仰せ付けらる、地黒塗文字金色なり、広宣流布の時に至り勅宣御教書を申請け冨士山に本門寺戒壇を築く可き用意と為て兼て之を造り置かる、此御本尊は宗門の肝心蓮祖出世の本懐日興所属の簡要当山霊宝の随一なり、此御本尊を将て日興に付属する時の遺状に曰く、
日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者冨士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也等云云、
又日興より日目に付属するの状に曰はく、
一日興か身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与し本門寺に掛け奉るべきなり等云云、
又三大秘法鈔に曰はく、戒壇とは王法仏法に冥し仏法王法に合し王臣一同に三秘密の法を持ん時、勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立すべき者か、時を持つべきのみ事の戒法と申は是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪戒法なるのみならず、大梵天王帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり等云云、
古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云。
一、日蓮聖人御影居長三寸 一体
作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、薄墨素絹白五帖袈裟なり、則聖人の剃髪を焼消し以て之を彩色す云云、日法右板本尊並に此の像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之れ有り。

一、日蓮聖人肉附の御歯一枚
又御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之れを日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之れを譲り与ふ、一代に於て只一度代替蟲払の尅之を開封し奉り拝見に入れしむ常途之れを開かず。

一、日蓮聖人御身骨玉瓶に入る升余一瓶
武州池上に於て茶毘し奉る所の頭面の御舎利なり、粲として円珠の如し。
右御本尊並に御骨等当山に安置する故に日興より日目への遺状に曰はく、大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり云云。

一、日蓮聖人画像三枚続       一幅
鏡の御影と号す、伝に云はく蓮祖在世土佐大蔵之亟に仰せ付けられ之を図画せしむ。

一、蓮祖真筆大漫茶羅三枚続     一幅
弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく、広布の時至りて鎮護国家の為に禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云云。

一、同本門寺重宝大漫茶羅      一幅
傍書に云はく弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり。

一、同 病即消滅の漫茶羅      一幅
傍書に云はく建治二年丙子八月十三日、又死活の本尊と号するなり。

一、同 紺紙金泥の漫茶羅      一幅
傍書に云はく文永元甲子二月十五日。

一、同 漫茶羅           九幅

一、一部一巻の法華経長二寸極細字  一部

一、日蓮聖人御書          四拾五巻
此外秘書数多之れ有り。

一、日興上人筆座替大本尊竪七尺一寸五分横三尺六寸 一幅
首題の下日蓮在御判左日興奉書写之右日目授与之依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大漫茶羅なり。

一、同筆 正慶元年十一月三日 本尊 一幅
傍書に云はく最初上奏の仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す一が中の一弟子なり云云。
一、同 筆漫茶羅          二十五幅
一、同 筆一部一巻法華経      一部
一、同 筆一部八巻法華経      二部
一、同 筆安国論          一巻
右は日蓮聖人弘安五年十月武州池上に於て安国論講談の節の聞書安国論大意問答と号す。一、同 筆本門取要抄        一巻
一、同 筆本門四信五品抄      一巻
一、同 述作の書          八巻
一、富士一跡門徒存知抄       一巻
右の外開山筆書類多之れ有り。
一、日興画像            一幅
興師在世弟子三位日順之を図す。
一、日目筆漫茶羅          八幅
一、同筆書類            十巻
一、日目画書像三位日順図之     一幅
一、日朗筆仰書南条殿へ遣はさるゝ状なり一巻
一、日道已下代々漫茶羅       数幅
一、日道著述書           五巻
一、蓮興目三師の伝日時筆      一巻
一、五人所破抄日時筆        一巻
一、本門心底抄日時筆        一巻
一、摧邪立正抄三位日順作同筆    一巻
一、本因血脈詮要抄●断       一巻
一、日行已下代々書記        数巻
一、立正安国論           一巻
一、文永八年申状          一通
一、日興上人申状元徳二年三月    一通
一、日目申状元弘三年十一月     一通
一、日道申状延元元年二月      一通
一、日行申状●応五年三月      一通
一、日有申状永享四年月日      一通
右は天子将軍奏聞を経る所の訴状なり
一、後陽成院御宸翰         一幅
一、紺紙金泥一部八巻法華経     一部
小書織田信長公御筆
一、色紙短冊集張宮公卿方古筆    二巻
一、百花鳥画古筆          二巻
一、二十四節画古筆         一巻
道具類
一、太刀三条小鍛冶宗近作二尺一寸  一腰
蓮祖の所持諸国弘通の節之れを帯す、北条弥源太殿より之れを献ず。
一、劔久国作九寸五分        一口
蓮祖弘通の節笈中に入る。
一、唐銅三つ具足          一対
蓮祖常々仏前に居え置き香華燈明を捧げ給ふなり、伝に云はく唐の作日本只二対の道具なり、三各竜を鋳透せり此竜の口に水をじ●雨を降すなり、依つて祈雨の三具足と云ふ云云。
一、聖教葛籠大朽破         一筥
蓮祖弘通の砌自ら之を脊負ふなり。
一、大茶釜             一
宗祖已来毎朝丑寅勤行の刻之を用ゆ。
一、行者の太刀宗近作三尺八寸九分  一腰
一、珠数判装束           一連
右二品は日興所持。
一、仏舎利三粒宝塔入        一筥
一、鵜飼石我の字          一石
一、珊瑚珠の珠数          一連
一、伽羅珠数小枝と云阿州家重宝   一連
右四品阿州先祖敬台院殿之を納む。
一、劔山内越前守藤原道光大永六年二月 一口
一、鎧通月山法印作九寸五分     一口
一、鎧通宗近作九寸五分       一口
一、長刀越前住人武蔵守藤原下見ず  一振
右四品天英院一位尊儀御納。
一、軍用椀三つ           一組
伝に云はく武田信玄所持云云。
一、堆朱大焼香筥指渡一尺一寸三分  一
一、堆黒香筥指渡七寸        一
一、大宋国硯長七寸横四寸      一
一、咸陽宮硯長一尺横六寸二分銘に東閣瓦と云云 一
一、唐芦莨盆指渡一尺二寸厚二寸   一面
一、沈香莨盆一尺五分        一面
一、伽羅の枕            一
一、鶏冠石             一石
一、鴛鴦の衾            一枚
一、綾織打敷            八枚
敬台院殿本堂造営の砌之を納む。
一、葵御紋付水引          一張
文昭院様天英院一位様三門開眼供養の節御納、此時御紋付大挑燈高張挑燈等数帳御奉納之れ有り。

歴代正統
蓮祖日蓮大聖人弘安五年壬午十月十三日六十一歳御入滅
開山日興上人正慶二癸酉年二月七日齡算八十八
第三祖日目上人正慶二癸酉年十一月十五日寿七十四
四代日道暦応二辛巳年二月廿六日五十九才
五代日行応安二己酉年八月十三日
六代日時応永十三丙戌年六月四日
七代日阿応永十四丁亥年三月十日
八代日影応永廿六亥年八月四日
九代日有文明十四壬寅年九月廿九日
十代日乗文明四壬辰年十一月廿日
十一代日底文明四壬辰年四月七日
十二代日鎮大永七丁亥年六月廿四日五十九才又は七十一才
十三代日院天正十一癸未年七月七日七十二才
十四代日主元和三丁巳年八月十七日六十三才
十五代日昌元和八壬戌年四月七日六十一才
十六代日就寛永九壬申年二月廿一日六十六才
十七代日盈寛永十五戊寅年三月七日四十五才
十八代日精天和三癸亥年十一月五日八十四才
十九代日舜寛文九己酉年十一月十二日六十才
二十代日典貞享三丙寅年九月廿一日七十六才
廿一代日忍延宝八庚申年九月四日
廿二代日俊元祿四辛未年十月廿九日五十六才
廿三代日啓宝永四丁亥年十一月十四日五十九才
廿四代日永正徳五乙未年二月廿四日六十六才
廿五代日宥亨保十四己酉年十二月廿八日六十才
廿六代日寛亨保十一丙午年八月十九日六十一才
廿七代日養亨保八癸卯年六月四日五十四才
廿八代日詳亨保十九甲寅年八月廿五日五十四才
廿九代日東元文二丁巳年十二月朔日四十九才
卅代日忠寛保三癸亥年十一月十五日五十七才
卅一代日因明和六己丑年六月十四日八十三才
卅二代日教宝暦七丁丑年八月十二日五十四才
卅三代日元安永七戊戌年二月廿六日六十六才
卅四代日真明和二乙酉年七月廿六日五十二才
卅五代日穏安永三甲午年七月三日五十九才
卅六代日堅寛政四壬午年十月三日七十五才
卅七代日●亨和三癸亥年五月廿六日七十三才
卅八代日泰天明五乙巳年二月廿日五十五才
卅九代日純亨和元辛酉年七月晦日六十六才
四十代日任寛政七乙卯年八月廿五日四十九才
四十一代日文寛政八丙辰年八月十四日四十九才
四十二代日厳寛政丁巳年七月十一日五十才
四十三代日相文化二乙丑年十二月二日四十七才
四十四代日宣文政五壬午年正月七日六十三才
四十五代日礼文化五戊辰年五月八日
四十六代日調文化十四丁丑年正月廿七日五十二才
四十七代日珠文化十三丙子年九月廿二日四十八才
四十八代日量
四十九代日荘
山内旧跡
御閼伽又御華水と云本堂より十丁余北なり。
毎朝此池の水を汲て以て仏前に供す閼伽とは水の梵名なり、仏へ備る水を閼伽と云ふ今訛転して上川と云ふは大に謬也、谷●より涌出する清泉なり旱魃にも霖雨にも曽て増滅無し、開山已来寺中番衆五日交代に之を勤む。
子持杉方丈客殿前東方にあり。
当山草創の時開山師植る所の古木なり、根元に壱株にして中間より末真木数本に分る故爾か名るなり、伝に云はく子無き婦此木の本を巡り祈誓を懸くれば則子を設るなり云云。
枝低桜方丈玄関前にあり。
開山上人植る所の古木なり、春時正の頃花盛美麗なり。
千子の原本堂より北十五丁余にあり。
実には勢子の原なり今訛転して千子が原と云ふなり、建長四年五月源頼朝公富士野巻狩の時勢子を此所に集む故に名と為す、此所より頼朝公御狩宿の旧跡へ十五六町北なり、今に子孫あり狩宿村井出伝右衛門と云ふなり。
牛石千子の原北地境にあり。
黒牛の屈居に似たり大車牛の如し、伝に云はく往昔富士野より夜々悪牛出で田畑を荒す、里人之を歎く爾るに開山師之を祈て即化して石と成る云云。
藤巻石千子の原北西地境にあり。
大蛇窪五重塔裏冨士山街道東谷隘なり。
伝に云はく往昔此所に大蛇住む里人久く之を怖る、開山師説法の日毎に尺ばかりの小蛇と変じて堂の階下に来りて之を聴く、師云はく憐むべし是彼の大蛇なり業苦を脱れんが為に来る、乃指を以て其頂を摩つ敢て動かず為に説て法要を示す、蛇忽然として本形に復し故栖に帰る云云、一夜夢に天人来て礼拝合掌して師に白して言はく我は此大蛇なり師の慈恵に因り速に蛇身を転じて今生を都率天に受く恩を謝せん為に来ると云ひ已て去ると、翌日人を彼所に遣はして之を見せしむるに大蛇既に死す、則其谷隘に埋む処より大蛇久保と云ふなり。
石滝山門より東二丁半にあり。
高さ五丈余一枚磐石の上より落つ冨士山の大谷より続く大沢なり。
馬口穴同所にあり。
霧ケ峯黒門前西南の山なり山海共に見る絶景の所なり。
熱原二十四人の塚本堂の後にあり。
弘安二年興師富士の下方に御弘通の時、法の為に土の●に入れられ頭を刎ねられし熱原神四郎等十三回忌菩提の為に塚を築き率都娑を造立す追福を修するなり、後年又大漫茶羅を書写し以て彼等の追善を擬す其端書に云はく、駿河国冨士下方熱原神四郎法華宗と号し平左ヱ門尉の為に頚を切らる三人の内なり、平左衛門入道法華宗の頚を切る後十四年経て謀反を企るの間誅せらる其子孫跡方なく滅亡し畢んぬ、徳治三戊申年卯月八日、日興在判。大石寺目薬又上野目医師と云ふ調合所市場村清三郎兵衛。
右薬方は当山十七代日盈上人奥州会津実成寺に在る時に老母眼病を憂ひ衆医の手を尽すと雖更に寸効無し、師歎じて七昼夜御影の宝前に籠り丹誠を抽て之を祈る、即願満の夜新に霊夢を蒙り直に其薬方を制して以て之を療す、老母眼疾忽に平兪すと、師当山入院の後救民の為に且つは結縁の為に弟子本実坊日伝と云ふ者に相伝し寺中に於て衆人に施す兪せざる無し、老若群集市の如し、然るに寺中児女子の出入を厭ひ且つは法務の坊げ為るに依つて之を俗甥清三郎と云ふ者に伝授す、此より彼家一子相伝数代眼科を以て業と為す、蓮祖夢想の霊方為るに依つて療を受る者自他宗に限らず日夜題目修行を励ましむ、至誠深信の輩縦使ひ難治の症為りと雖往々感応を蒙り効験著明なる者なり。
百富士四の巻十四丁大石寺見山中富士。
時雨ては生るゝ富士や寿量品 活羽
境内地間数。
竪北牛石より南黒門前に至る南北二十一町余。
横北方地頭にて二丁余中程にて七丁余南地尻にて壱丁余此平均三町余。
惣坪数弐拾弐万六千八百余坪。
此内弐万七千余坪の所諸堂大坊寺中家作の地所なり。
平時光伝。
当山草創大檀那南条又上野と云ふ七郎次郎修理太夫時光初左衛門尉と云ふ姓平氏北条時政の裔南条新左衛門尉頼員の子家名東鑑四十七に出す同兵衛七郎入道行僧の嫡男なり、母松野六郎左衛門尉某の女なり、
本国は豆州仁田郡南条なり、因て南条を以て之をを呼ぶ、鎌倉副元師北条時頼の烏帽子子一時の望重しと、駿州富士郡上野郷に館す因て亦上野を以て之を称す、又其先久く上野国に住する故に上野氏と云ふなりと、
駿州の由井四郎光家、川合又二郎光次、大内三郎安清、松野六郎左衛門某、三沢小次郎入道法性、石川孫三郎実忠、高橋六郎入道妙常、甲州の大井庄司光重、小笠原二郎某、秋山与一信綱、波木井六郎実長野州の小野寺十郎道房、奥州の新田五郎重綱等親戚甚た広し、所領豆州仁田郡南条邑相州山内庄前岡郷丹波小椋の庄内上野地名分明ならず駿州富士郡上野郷蒲原の庄関島等在り蓮祖書中時光自筆譲状に見ゆ、
興師と旧好在り父と倶に初興師の教化に憑り受法し篤く蓮祖に帰依す戴髪の弟子と称す、士官の躬恣封を出るを得ず毎月使を差して資糧を身延山に贈る、審問怠らざる故に蓮祖書中録内録外数十通あり贈答の消息多し、
文永八年九月十二日の夜蓮祖相州竜口の危難に罹る、其夜執権の第中数奇怪有り之に因て蓮祖を誅すべからざるの旨南条兵衛七郎命を奉じて急使を以て之を竜口に達す、其下知状に云く一守殿御館に於て大物怪共之有り、日蓮法師誅すべからずの由南条七郎を以て仰せ出さる所件の如し、九月十二日平左衛門殿、信濃判官入道観正判、此本書南都常徳寺重宝の由本化記年録に出す之有り
弘安四年辛巳年五月蒙古賊船四千余艘、人数二十四万騎壱岐対馬を襲ふ、西海諸将兵力を進むと雖も戦終に支ふ能はず、天下怖畏せざる者莫し、之に因て異敵退治を籠め諸寺社に勅願すと雖も更に験無し、
執権時宗蓮師先言屡差はざるを以て南条七郎時光に命し使して救護を蓮祖に請ふ、蓮祖乃旗に漫茶羅を書して以て之に与ふ、
同五壬午年初冬蓮祖武州池上に赴く時光鎌倉に在り之を聞き則往て蓮祖の滅度に値ふ、葬式の供奉散華の役を勤む、又浄室を富士上野に構へ今の下之坊以て御骨の一宿を待つ十月廿四日、正応元年興師身延離山の後領地を割き興師に布施し以て宏基を創む、
鎌倉相模入道高時奢侈日に募る時光再三之を諌むと雖も用ひず滅亡遠からざるを念し致仕して所領を嫡男太郎左衛門尉高直二男次郎左衛門尉宗直三男三郎兵衛尉時忠四男四郎右衛尉直重女子鬼鶴乙鶴御前等に配与す自筆譲状数通之有り、
薙髪法号を大行と称し世事を捨て一向唱題の外他無し、正慶元壬申念五月朔日寿を以て逝く館の南高土と云ふ所に葬る、
去る正中元甲子年五月後醍醐天皇連年鎌倉を滅せんと欲る由し其の密謀隠れ無し,二男南条次郎左衛門尉宗直長崎四郎左衛門尉泰元と関東の使者と為て上洛謀叛の帳本権中納言資朝右少弁俊基両人を捕へ鎌倉に帰る。資朝佐渡に流されて京に帰る、
元徳二年文観僧正等の白状に因つて俊基再び召捕へられ関東に下る、嫡男南条太郎左衛門尉高直侍大将なり之を請け取り諏訪左衛門尉に預く、
元弘三癸酉五月新田義貞義兵を上野国に起し同十七日軍を三手に分て鎌倉に攻め入る。嫡男南条太郎左衛門尉高直侍大将と為て赤橋前相模守平盛時の手に属し武蔵相模出羽奥州勢六万騎を率て洲崎の敵に向ふ、此陣の軍剛にして一日一夜の間打合六十五度、御方大に疲れ或は討死又は落失残兵僅三百余騎に打成され、同十八日晩程戦未だ半ならざるに大将盛時と供に帷幕の中に入り物具脱ぎ捨て同志侍九十余人枕を同して自害す法謚妙行霊と号す已上北条九代記十二太平記一同十取意往見、
二男次郎左衛門尉宗直大仏陸奥守貞直の手に属し極楽寺切通口の寄手に向ふ、同十九日防戦討死す法号行蓮霊と謚す、
四男南条四郎右衛門尉直重同二十二日東勝寺に於て北条高時入道及び一族三十四人と共に切腹す法謚行念霊と称す、
烏呼惜かな南条一門茲に多く忠死し畢り残族僅に壱両人、後足利家に仕へ功あり今に至るまで子孫江府御旗本の中に在り定紋五三の桐と云ふなり。
太平記首巻六丁或記に曰はく理尽抄五月十七日相模守高時南条左衛門尉以下各武州に向ひ山内離山に於て合戦す云云、十八日高時以下自害し畢ぬ云云、此等の文を以て南条氏の軽からざるを知るべきなり。
末寺
大日蓮華山、下之坊
上野郷下条村当山惣門より二十余丁南西にあり、客殿間口六間奥行五間、玄関四間三間、庫厨七間六間、門一間一間半。
開基日興上人正応二年の春甲州より初めて此所に移り給ふ、乃ち南条時光の持仏堂なり、又蓮祖御骨一宿の旧跡なり、祖師伝記九廿二ウ云く弘安五年十月十三日、蓮祖武州池上に於て入滅、二十一日御骨を身延山に送る。乃至二十四日南条七郎二郎館入御云云、即此所なり。
日目上人正墓当寺に在り。
児塚 寺前田の中にあり、時光舎兄南条太郎文永十癸酉三月十日行年十六歳井戸に落て逝く、則以て塚と為す法号行忍尊霊。
甲州八代郡大杉山        有明寺  駿州富士郡上野下条村     大乗寺
同          上条村  妙喜寺  同        上井出村  寿命寺
同          淀師村  要行寺  同         半野村  妙経寺
同          抽野村  蓮成寺  同       根方石川村  本広寺
同         根方井村  蓮興寺  同          境村  妙光寺
武州江戸下谷竹町        常在寺  同    葛飾郡牛島小梅村  常泉寺
同    江戸本庄中之郷元町  妙縁寺  同     埼玉郡久米原村  妙本寺
下総猿島郡新和田村      富久成寺  同        国猿島郡  大乗寺
下総千葉郡中田村        真光寺  武州稲毛領上作延村延村    広宣院
相州          獺郷  浄久寺  下野国郡賀郡小金井町     蓮行寺
同       都賀郡小薬村  浄円寺  同      都賀郡平井村  信行寺
奥州白河郡中野村        上行寺  同      白河郡滑津村  本法寺
同      岩瀬郡里守屋村  満願寺  同     岩瀬郡仁井田村  願成寺
同      田村郡三春城下  法華寺  同      栗原郡柳目村  妙教寺
同      栗原郡下宮野村  妙円寺  同       登米郡森村  上行寺
同      登米郡新井田村  本源寺  同     登米郡加賀野村  本道寺
同       岩城黒須野村  妙法寺  同   岩城菊田郡深山田村  蓮浄寺
常州筑波郡八丈村        本証寺  上野国        大胡  本応寺
上総山辺塚崎村         本城寺  摂州大阪北野村        蓮華寺
摂州大阪薬師堂村        源立寺  京都         九条  住本寺
阿州名東郡徳島寺村       敬台寺  同      名東郡冨田蒲  本玄寺
因州          鳥取  日香寺  同          鳥取  正行寺
同           鳥取  宗林寺  泉州         境町  本伝寺
奥州八之戸           玄中寺  同         二本松  堪園寺
文政六癸未年仲夏之を述作す。
法嫡第四十八世久遠阿闍梨本寿院日量五十三才在御判

右謹で之を拝閲し奉り且つ尊命に随て手当甲申六十五歳より老眼を以つて之を書写し奉り寺宝に備ふ、追日再写して再冊と成すべし、其所以如何喰虫磨滅を恐る、又其餘は書写を堅く之を禁ず他門に散在するを怖る敢て悋惜に非ず、即尊命に云はく深信の者に於て之を拝見せしむべしと、是即秘して之を伝ふべきの垂迹にして遠く散在を制する誠言なり、後哲深く之を思考せよ、若し深信来至して聴聞を願ふに於ては日々夜々と雖も聴聞に備ふべし、是即教論の最要一宗顕本の基源なり励て之を務むべし、然りと雖も書写を許すべからず終に軽卒散在を成さん、既に今当門秘書世上に散在す、爾るに亦解せず信せず還て謗の助と成る此意深く之を思量せよ、夫今此冊や御本伝広博なりと雖も然も畧して要を取り御大事を文底に含め開祖御離山の元由著明高顕なり、五百有余歳の往昔今眼前にして御宝物旧跡掌中に観るが如し、一宗大本山本門戒壇の霊場文に在て分明顕然なり、若し文上者為りと雖も正信を以て之を拝せば忽に前非を悔ひ文底に帰入すべき宝冊なり、若し又広布の時に到りて一宗の本源御糺明在るに於ては先つ此の宝冊を以て上聞に達すべき者か、而して後問に任せ答ふべし是併ら諸末寺に於ても得意最要なり、既に今権経名字過て迹門題目盛なり、若し爾らば本門の広布近に在ること之を疑はん、務めよや専ら修理を加へ勤行を致し待ち奉るべき者なり爾か云ふ。
文政第七甲申歳正月十八日、法竜仏眼に於て謹で之を書す。

編者曰く量師の正本を見ず一二の転写本に依る誤字多けれども強いては改めず、少しく訂正を加へ全文延べ書と為す、又此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要あるより、全然誤謬に属する所には傍に○○点を附し、疑義に属する分には△△点を施して、読者の注意を惹かんとす、後跋の文は仙台仏眼寺の住寿円院日倚の筆にして純信の文字なり。

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