富士宗学要集第六巻

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邪正弁

去る七月十二日附の書を以て君が曽て吾が門を退転し玉ひたる原由を示され正に了承致し候、然るに君は吾が正法の門に入ながら法義の淵底を探らず・妄りに邪見自推の僻案を以て吾門の相承を軽蔑し・却て不相伝の大僻見たる八品流に転入し玉ひたる事は・例せば伝教大師の相承を軽蔑して弘法に随従し・法然が法華の門を退転して浄土門を建立したるが如し、迷惑も又甚しと謂ふべし・豈に君の為に深く痛惜せざらんや、之に於て小生不肖といへども敢て辞せず・懇篤之を弁明して君の邪見妄執を撹り・再び君をして吾が門流の法水に欲さしめんと欲す、由つて此の書を邪正弁と名付くるなり。
第一節 吾が門所立の要旨を示す。
第二節 経相と文底の異別を示す。
第三節 種脱の分界を示す。
第四節 来書祖判の誤解を弁明す。
第五節 君の邪見妄執を説破す。
第一節 吾門所立の要旨を示す。
吾門の所立は左項の如し。
第一項・種本脱迹。
種本とは吾が祖大聖人・外用は上行菩薩の再誕なれども其の御内証は久遠元初・無作三身・自受用報身如来にして則本因下種の本仏なりと云ふことなり、故に宗祖は今末法時機相応、吾等衆生の有縁深厚の主師親なり。
脱迹とは在世顕本の釈迦仏は教相にては久遠の本仏なれども・其の実応身昇進の自受用報身にして即本果脱迹の迹仏なりと云ふ事なり、故に今末法吾れ等衆生に結縁浅き時機不相応の主師親なり、其の文証を左に示さん・但し脱迹の文証を前にし・種本の文証を後にす。
玄釈七上 迹の本は本に非ず本の迹は迹に非ず、
籤七 経に約すれば是れ本門なりと雖も既に是れ今世の迹の中に本を指して名けて本門となす・故に知ぬ今日は正く迹中の利益に当る乃至・本成己後を倶に中間と名く・中間の顕本に利益を得尚迹益と成る・況んや復今日をや、
私に曰く在世本門の利益当に迹仏の利益なる事此の解釈に判然たり。
玄釈七下 問ふ三世の諸仏皆顕本せば最初の実成若為ぞ顕本ならん・答ふ乃至若し久成の仏は釈迦の例の如く東方を以て譬と為す・若し此より久き者は即四方を以て譬となす・又久き者十方を譬となす・若し此に近き者は則東方を滅して譬となす・若し都て無き者、則譬ふる所なし。
私に云く寿量品顕本の釈迦仏は則東方を以て本成を譬とし玉ひたること経相に判然たり、然るに此の釈に釈迦仏より本成の久き仏は四方又は十方を以て本成の譬にし玉ふことを釈せり、豈に経相本果の釈迦仏より久成の仏なきとせんや、果して久成本果の仏あれば釈迦仏は真の本仏にあらざる事論なし、況んや久遠元初・名字本因下種の本仏に対するをや。
御書他愛用二の巻 高祖遺文録十四の巻 されば釈迦多宝の二仏と云ふも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にて御座候へ、経に曰く如来秘密神通之力是れなり、如来秘密は体の三身にして本仏なり・神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏・仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生の為にはは主師親の三徳を備へ玉ふと思ひしに・さにては候はず返つて仏に三徳をかむらせ奉るは凡夫なり、祖判。
私に云く釈迦多宝の二仏は用の三身にして迹仏なること明かならん。
内廿五 今は既に末法に入り在世結縁の者・漸々に衰微し権実の二機皆悉く尽きぬ。
外廿五 今末法に入り在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり。
私に云く在世の釈迦仏・結縁の衆生今末法に一人もなし、又釈迦仏所説の権実二経の機縁たる者・悉く尽きたること明かにして・則釈迦仏は其の結縁の衆生を皆悉く度脱したまひたる脱仏なる事・論なかるべし。
外廿二 を日蓮が魂を墨に染めながして書いて候ぞ信じさせ玉へ、仏の御心は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし。
私に云く南無妙法蓮華経は宗祖大聖人の御魂たること文証顕然にして・其の御魂の南無妙法蓮華経は即本仏なること上に掲げる遺文録の判然たり、然れば吾祖大聖人は久遠の本仏にて御座ますこと・勿論ならん。
御義下 今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり・二十八品は用なり。
私に云く南無妙法蓮華経は則宗祖の御魂にして体なり・心なり・二十八品は則釈迦仏の御心にして用なり・其れ則宗祖は本仏にして釈迦仏は迹仏なること論なかるべし。
籤七 体を以て本となし用を以て迹となす。
日向記(六ヲ)日蓮が弟子旦那の肝要は本果より本因を宗とす・本因なくして本果あるべからず。
私に云く本因の仏なくして豈に本果の仏あるべきや、又宗祖正義の所立には本因を宗とし玉ふこと判然ならん。
以上掲る金章を拝見し玉へ、吾が門種本脱迹の立義は素より宗祖の御正意にして文証顕然に義最も詳かなり・誰か之に喙を容るべきや、尚宗祖大聖人を以て今末法得益の本因下種の御本尊とすることは・七月十一日付にて呈したる小生が演説筆記に委しければ爰に略す、請ふ往いて見玉ふべし。
第二項・法華経一部は理の法相として迹門に属す、寿量文底秘沈の妙法蓮華経は事の法相にして本門とす。
法華経一部は理の法相として迹門に属すとは・法華経は上に示す如く・迹仏の諸説なるを以て則理の法相なればなり。寿量文底の妙法蓮華経を事の法相本門とするは・則久遠元初・下種本仏の所証得の事の一念三千の大法なるが故なり、其の文証を左に示さん。
籤七 既に四義深浅不同あり、当に知るべし即是本実成の後物の機々に随順し縁不同なれば本より迹を垂れ四因相を示す故に知んぬ不同なるは定て迹に属す。
私に云く釈迦仏所説の本門は迹中の本なるが故に迹門に属する事判然たり、迹門は則理の法相なること論を待たざるべし。
外十五 像法には南岳・天台・亦題目計り南無妙法蓮華経と唱え給ひて自行の為にして広く他の為に説かず・其れ理行の題目なり。
私に云く南岳天台も題目計り現らはに唱へ玉ひたる事判然なれども宗祖は此を理行の題目と判じ玉へり豈に題目口唱の如何のみに由つて事理の行義を分たんや。
内八 像法中末に観音薬王南岳天台等と示現して世に出現し迹門を以て面となし本門を以て裏となし百界千如・一念三千其の義を尽すと雖も・但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字七字并に本門の本尊未だ広く之を行はず。
内廿五 南岳天台等は観音薬王等の化身として大小権実・迹本二門・化導の始終、師弟遠近等悉く之を宣べ。
私に曰く南岳天台は法華経迹本二門を悉く宣べ玉ひたること判然なれども・上の御書には但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字七字・並に本門の本尊未だ広く之を行はずと遊ばされたり、其れ則法華経迹本二門は理の法相にして、文底秘沈の妙法蓮華経は事の法相、本門なる事勿論ならん。
以上掲る文証を見玉へ、法華経一部は理の法相にして迹門に属する事明々たり、況んや迹仏の所説は迹門、本仏の所説は本門にして、迹門は理の法相、本門は事の法相なる事は、最も了解し易かるべし。
第三項・本迹勝劣。
次上に示す本迹において・本門寺を勝正とし・迹門を劣傍とす、又迹門の中に傍正を判ず、然して法華経一部を助行とす、其の文証を示すべし。
内廿八 法華経に又二経あり、所謂迹門と本門となり・本迹の相違は水火天地の違目なり。
外十五 末法の初には一向に本門なり、一向本門の時なればとて迹門を捨つべきにはあらず、法華経一部に於て前十四品を捨つべき経文之れなし乃至・今時は正には本門傍には迹門なり。
私に云く右二章の附文は経相上の事なれ共・経相の本迹既に然り、豈文底所談の本迹に此義なからんや。
御義下 二十八品は助行なり・題目は正行なり、正行に助行を摂すべきなり。
右陳示するものは吾が門において宗祖摘々の相承に因つて立つる処の法義なり、尤吾が門相承の御秘書においては其の文証半頗る豊饒なれども・今は且らく世上普通の祖書並に台家の釈に因つて以つて之を示すのみ。

第二節 経相と文底の異別を示す。
第一項・寿量品文上の所談は左の如し。
仏は久遠本果実成の本仏なり。
本成は五百塵点劫の昔なり。
因位は菩薩なり。
修行は歴劫菩薩道なり。
衆生救済の立願は五百塵点劫己来なり。
所化の衆生・下種結縁も五百塵点劫己来なり。
所化の衆生・在世本門の得益は最上入等覚なり。
右文証は、
寿量品に云く我実成仏己来乃至今猶未尽・復倍上数迄見るべし、分別功徳品に云く爾時大会開仏説寿命劫数長遠如是乃至・復有八世界微塵数衆生皆発阿耨多羅三藐三菩提迄見るべし、
以上掲る経文において経相の所談は分明なり。

第二項・文底の義を以て寿量品の釈迦仏を談ずる時は左の如し、仏は久遠元初・無作三身・自受用報身如来の垂迹にして則迹仏なり。
但し此の文証は第一節・第一項にあり。
本成は久遠五百塵点劫の当初なり。
因位は理即凡夫なり。
修行は即座開悟。
衆生救済の立願は五百点塵劫当初よりなり。
所化の衆生・下種結縁も五百塵点劫当初よりなり。
所化の衆生・在世本門の得益最上入妙覚なり。
其の文証は左の如し。
内十四 、釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御座し時・我身地水火風空なりと知しめて即座に悟を開き・後に化他の為に世々番々に出世成道し・在々所々に八相作仏し、王宮に誕生し樹下に成道して始て仏と成る様を衆生に見せ知しめ四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の経教を捨て正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕す。
内廿 釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得し・世々番々に能証所証の本理を唱え給へり今日又中天竺魔訶蛇国に出世して此の蓮華を顕さんと欲すと云云。
内八 本門に至り等妙に登らしむるを脱となす。
以上・掲る文証の如く惣て文底の所談は則宗祖所立第三の御法門にして・天台所立の第三の如き・経相所談とは其の異別天地の如し。
内卅一 日蓮が法門は第三の法門なり乃至第三の法門は天台妙楽伝教も粗之を示せども未だ事畢らず・所詮末法の今に譲り与ふるなりと云云。
故に文底の義を以て之を談せば・則釈迦仏は迹仏にして既に結縁の衆生を度脱し玉ひたれば・本地久遠元初の自受用報身如来の体内に帰入し玉ひたりとす、之を以て。
内十四 、仏は心安く思食し本覚の城に還りたまふと云云。
然るに尚経相所談を固守して久遠・本果実成の仏を真実の本仏なりと妄執し、久遠元初・本因下種の本仏を知らざるものは所謂不職天月・但観池月の者なるのみならず、宗祖の正義に違背し剰へ法華経の実義を誤る僻見者たるべし。

第三節 種脱の分界を示す。
第一項・釈迦仏は本因脱益の仏なり。
吾祖は本因下種得益の仏なり。
右文証は第一節・第一項・及び演説筆記に明記したれば之に略す、請ふ該書を熟覧し玉へ。
外十二 諸仏・諸菩薩・諸天善神等の御力及ばせ給はざらん時・此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難を遁れ乃至・後生の大火災を脱るべし。
私に云く諸仏の中に豈釈迦仏漏れ玉ふべきや、又其の曼荼羅は宗祖の御当体なること演説筆記に明記しあれば往いて見玉へ。
日向記 、今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利正得益有るべきなり、されば此の題目に余事を交へば僻事なるべし此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり。
私に云く日女抄に・全く日蓮が自作にあらず・多宝塔中・大牟尼世尊・分身の諸仏すりかたぎたる本尊なりと・御意遊ばされたるは・此の妙体は自然の法体にして・三世の諸仏の御師と定め玉ふ御本尊なるが故なり、若し宗祖自作し玉ふものなれば所謂耶蘇宗の如くなるべし・請ふ熟慮せよ。

第二項・法華経一部は脱益なり。
寿量文底の妙法蓮華経は下種なり。
其の文証は左の如し。
内八 在世の本門と末法の初は一同に純円なり但し彼は脱・此は種なり・彼は一品二半・此は但題目の五字なり。
御義下 、彼は迹表本裏、此は本面迹裏・然りと雖も而も当品は末法の要法に非るか、其故は此品は在世の脱益なり・題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益・滅後は下種なり、仍下種を以て末法の詮となす云云。
内三十二 今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし・但南無妙法蓮華経なるべし。第三項・
天竺は脱益の国なり。
日本は下種の国なり。
其の文証は左の如し。
内廿七 天竺国をば月支国と申す、仏の出現し玉ふべき名なり、扶桑国をば日本国と申す豈聖人出で給はざらんや、月は西より東へ向へり月支の仏法の東へ移るべき相なり、日は東より西へ入る日本国の仏法の月支へ還るべき瑞相なり月は光り明かならず在世は但八箇年なり・日は光り明かにして月に勝れたり後五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経誹謗の者をば治し給はず・在世に無かりし故に末法には一乗の強敵充満すべし・不軽菩薩の利益是なり。
内八 一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし月支震旦に未だ此の本尊有らず。
私に云く月支震旦に未だこの本尊ましまさずとは・則ち日本所立本因下種の御本尊なればなり。
以上・掲る明証の如く種脱の分界判然たり、然るに種脱の仏を混合し・又は種脱の法を混合する者は不相伝の大僻見なるのみならず、法華経の大事を誤り宗祖の正義に乖戻する大謗法の者たるべし。
内三十二 南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神ひの如し・是に物を並ぶれば・后の並べて二の王をおとことし乃至后の大臣己下へ内々とつぐが如し・わざわひの根本なり。
内二十一 、譬へば后の大王の種子を妊めるが、又民ととつげば王種と民種と雑つて天の加護と氏神の守護とに捨てられて其の国破るる縁となる、父二人出来れば王にあらず・民にあらず・人非人なり・法華経の大事と申すは是れなり・種熟脱の法門法華経の肝心なり。
私に云く他門流の曼荼羅は不相伝の贋物なれば・原より其の益あるべからずといへども・仮に得益ありとせんに、釈迦多宝・造仏と並べて之を本尊とすれば、則種脱を混合する大謗法者と謂ふべきなり。
第四項・在世本果の題目は脱益なり。
上行所伝は寿量文底秘沈の題目にして下種なり。
其の文証は左の如し。
御義下 さて二仏座を並べ分身の諸仏集て是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し・釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し玉ふ・其の付属とは妙法の首題なり。
私に云く在世に説き顕して四句に結び玉ひたる題目は、則ち本果の題目なり、又上行菩薩に付属し玉ひたる題目は・在世に説き顕し玉はざる文底下種の題目なり、故は如何となれば在世に説き顕し玉ひたる題目は・四句の要法に結び玉ひたれば・其の題目は則四句の要法となりたること文義併ら明なり、然るに上行菩薩に付属し玉ひたるは其の四句の要法にはあらず・題目の五字なること・文義明かにして・本果の題目と本因の題目との区域・頗る明々確々たり・然れども初心の行者或は在世にて本果の題目を説き顕し・四句に結び此の四句の要法を上行菩薩に付属し玉ひたる如く僻見する者なきにあらざるが故に・其の分界を尤も●易からしめん為に宗祖は御懇ろに其の付属とは妙法の首題なりと御示し遊ばされ・在世脱益本果の題目と・末法得益本因の題目との区別を正し玉ひたり、苟も識能あるもの誰か此の分界を見誤るべきや。
内八 伝教云く又神力品に云く要を以て之を言へば如来の一切の所有の法乃至・宣示顕説す(己上経文)、明に知んぬ果分の一切の自在の神力・果分の一切の秘要の蔵・果分の一切の甚深の事・皆法華に於て宣示顕説するなり等云云。
私に云く祖判明文の如く・在世顕説の題目は本果の分域なる事明白なり。
内八 地涌千界の大菩薩を召し寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしむるなり。
内廿六 地涌の大菩薩・末法の初に出現せさせ玉ふて・本門寺寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ玉ふべき先序の為なり。
私に云く此の文証は太多なれども繁ければ之を略し・先づ以上掲げる明文の如く・上行所伝の題目は寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経にして・其の肝心とは則文底の事なるべし、故に知んぬ祖書中巣に法華経の題目・或は南無妙法蓮華経と御意遊ばされたるは・寿量文底下種の題目の義なることを・尚又肝心とは則文底の義なる文証を示さん。
内二 一念三千の法門は但法蓮華経本門寿量品の文の底に秘し沈めたまへり。
御義下 其の一念三千とは所謂南無妙法蓮華経是れなり。
内三十四迹門の大教起れば爾前の大教亡ず・本門の大教起れば迹門爾前亡ず・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず・此れは是れ如来所説の聖教の従浅至深にして次第に迷を転ずるなり。
私に云く観心の大教とは則文上の本迹にあらずして文底秘沈の大正法・本因下種の妙法蓮華経の事なるは論なかるべし、故に宗祖は末法に入つて権実の二機悉く失せりとも、末法に入ぬれば余経も法華経も詮なし・只南無妙法蓮華経とも御意遊ばされたり。
以上・掲ぐる明証を見るべし、上行所伝は在世顕本脱益の法体・且本果妙の題目にあらずして寿量文底下種の法体・本因妙の題目なる事火を見るよりも明かならん、然るに他門流においては在世脱益の仏を本尊として・在世顕説・本果の妙法を上行所伝の題目なりと誤認して・之を上行所伝々々と喋々するは・鸚鵡能く人語を真似るも何の所益もなきが如し。

第四節 来書中祖判の誤解を弁明す。
来書中・主要の論点は左の条旨に過ぎざるものと思考せり。
第一・宗祖は上行菩薩の再誕にして・在世においては釈迦如来の付属を受け玉ひたること経釈祖判に文証赫々明々たり然れば則宗祖は在世顕本・釈迦仏の御弟子にして・釈迦仏に優り玉ふべき本仏にあらずとのこと。
第二・興門流の法門は本因妙抄に由て立つる法義なれば頗る僻見なり、其の故は同抄に一代応仏のいきを・ひかへたる方は理の上の法相なれば・一部共に理の一念三千・迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を・脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行にわたさず・直達正観事行の一念三千・南無妙法蓮華経是れなりとあり、是れ則宗祖並に開山の正意に違背せる立義なり、且該本因妙抄は後人の偽書との事。
第三・本因妙抄に天真独郎の文字あるは・則偽書の証にして既に宗祖は祖書十八円満抄に・天真独郎の法門末法の益にあらざる事を明示し玉ひたりとの事。
第四・八品門流は本門の結要付属を尊重し・上行所伝の妙法を信行するを以て、宗祖の御本意に毫も違背せざる正法正義の門流たるの事。
今弁明して云く。

第一項・相承付属を尊崇すべき事は・仏法の通格にして三世の諸仏説法の儀式なればなり、
其の文証左の如し。
内十四 三世の諸仏の説法の儀式仏法には只同じ御言に末を指して末代の譲状なれば・只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと譲状の面にのせたる手継の証文なり。
然れども其の付属相承なるものは先世出現の仏より・後世出現の仏へ転々授与するものなれば・其の相承付属又は現世師弟の資格等に由つて・強ち権仏実仏・本仏迹仏と云ふべきものにあらず、其の故は。
内二 世尊初成道の時はいまだ説教もなかりしに法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩・十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給ふて賢首菩薩・解脱月菩薩の請にをもむひて・十往・十回向・十地等の法門を説き給ひき、此れらの大菩薩の所説の法門は釈尊に習ひたてまつるにあらず、十方世界の諸梵天等も来つて法を説く、又釈尊に習ひたてまつらず、惣じて華厳会座の大菩薩・天龍等は釈尊己前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去因位の御弟子にや有るらん、十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成正覚の仏弟子にはあらず、阿含・方等・般若の時四教を仏の説き給ひし時こそ・やうやく御弟子は出来して候、此も又仏の自説なれども正説にはあらず、所謂は如何・方等般若の別円二教は華厳経の別円二教の義趣をいでず、彼の別円二教は教主釈尊の別円二教にはあらず、法慧等の大菩薩の別円二教なり、此れ大菩薩は人目には仏の御弟子かとは・みゆれども仏の御師ともいひぬべし、世尊彼菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別円を説けり・色もかはらぬ華厳経の別円二教なり、されば此れ等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此れらの大菩薩をかずへて善知識と説かれしは・これなり善知識と申すは一向師にもあらず・一向弟子にもあらずある事なり、蔵通二教は又別円の枝流なり、別円二教をしる人必ず蔵通二教をしるべし、人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり・九十五種まで流派したりしかども、三仙の見をいでず、教主釈尊も彼に習伝へて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさとり出てこそ外道の弟子の名をば離れさせ給ひ無師智とは・なのらせ給ひしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか、されば前四味の間は教主釈尊・法恵菩薩等の御弟子なり、例ば文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。
此の文証の如く釈迦仏・初の師は則仙人也、華厳会上より般若経の時迄・前四味の間は法恵等の大菩薩の御弟子なり、然れども寿量顕本の己後においては・彼菩薩等皆釈迦仏の御弟子となるにあらずや、宗祖亦々斯の如し今世に出現し玉ひて初め権門に入り・中間・天台伝教を師と示し玉ひ・後に自ら上行の再誕と名乗り・終に文永八年九月十二日・竜の口において発迹顕本し玉ひて・御内証・無作三身・自受用報身如来たる事を示し玉ひたり・其の文証左の如し。
但宗祖・清澄山に入り玉ひたること或は吾が師天台と示し玉ひたること、或は上行菩薩の再誕と示し玉ひたること等は、祖書に文証多きのみならず世人皆知る処なれば其の文証は省略す。
内三 日蓮は去る文永八月十二日・子丑の時に頭刎られぬ・此は魂魄佐渡の国にいたりて。
外五 三世の諸仏の成道は子丑の終り寅の刻の成道なり。
外二 若し然らば日蓮が難にあふ処ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中にほ相模国・相模国の中には片瀬・片瀬の中には竜の口に・日蓮が命をとゞめおく事は・法華経の御故なれば寂光土ともいふべきか。
私に云く宗祖の発迹顕本は則諸仏の成道と同時にして・寂光土は則自受用身の所居なり、然れば宗祖は自受用報身如来たること論なかるべし、又宗祖の御魂魄・佐渡国に至るとは御魂則南無妙法蓮華経・即自受用身と顕本し玉ひたる事なり、委くは第一節・第一項・亦た演説筆記等を見玉ふべし。
玄釈七下 若し過去の最初に所証の権実の法名て本となすなり、本証より己後方便して他を化す・開三顕一し発迹顕本するは還つて最初を指し本となす・中間の示現、発迹顕本も亦最初を指て本となす・今日の発迹顕本も亦最初を指して本となす・未来の発迹顕本も亦最初を指て本となす。
私に云く未来の発迹顕本とは則宗祖の発迹顕本を指したるものなり、熟慮し玉へ。
以上・掲ぐる文証の如く・宗祖は外用上行菩薩の再誕にして・御内証は自受用報身如来なり、然れども付属相承を尊重すべきは・仏法の通則なるが故に・之を尊崇し玉ふなり、況んや上行菩薩在世には本果実成の釈迦仏の眷属として出現し玉ふが故に・威儀堂々と神通之力を以て下方より涌出し玉へども、末法には本因下種の本仏として出現し玉ふが故に・下賤の家に退生ましまし・名字凡夫・無作の当体を示し玉ふ、実に一大事の法門なり、何ぞ深く顧みざらんや、此れらの義理を解得せずして・啻・付属師弟の一片に迷惑して・強ひて宗祖は下種の本仏にあらずと言へば・釈迦仏は顕本己後も・尚法恵等の大菩薩の御弟子なりと言はざるを得ざるなり、豈斯の如きの事あらんや、故に宗祖は斯る僻見せん者を戒めての玉はく。
内十五 愚人の正義に違る昔も今も異らず、然れば則迷者の習ひ外相のみを貴み内智を貴まず云云、豈に慎まざらんや、尚又宗祖は本仏にして釈尊は迹仏たる文証は第一節第一項并に演説筆記等に明記せしを以て之に略す。
右弁明する如く・御内証・自受用報身如来にしてすら・付属を尊重し玉ふべきは・仏法の通則なるに・君等は存世の付属のみを尊重して・末法宗祖の付属相承を尊崇せず・八品門流に固着し玉ふは・抑も何の誤解ぞや愚も又甚しと言ふべし。

第二項・吾が門秘書の本因妙抄は決して偽書にあらざるべし、又本因妙抄の意義と・宗祖開山の正意と毫も抵触する事なかるべし、然るに之を反対せると見、之を偽書と見られしは・君が未だ宗祖開山の正意を相承する吾が門の立義を知り玉はざる大僻見なるべきのみ、今之を左に弁ぜん、但し法華経一部は理の法相・迹門脱益なる事と・文底下種は事の法相・本門得益なる事は、第一節・第二項に明示したるを以て之に略す、抑々吾門において久遠名字の妙法を余行に渡さず直達正観すると云ふは、所信の御本尊が則久遠元初・一迷先達・不渡余行・直達正観・本地難思・境智冥合・本因本果本国土三妙合論同時証得・常住事の一念三千・人法一箇・独一本門戒旦の大御本尊なるが故なり、此の御本尊の妙法を直達正観し事行に南無妙法蓮華経と唱るが故に、余行に渡さず直達正観すると云ふなり、今其の文証を示すべし。
内十四 、釈迦如来、五百塵点劫の当初・凡夫にて御座し時・我が身地水火風空なりと即座開悟と云云。
私に云く・五百塵点劫の当初とは・則久遠元初にして・凡夫にて御座し時とは・未だ四聖の果顕はれず・止だ六道輪回の衆生ばかり・一同迷惑しをりたる時にして・則一迷なり、我が身地水火風空とは則妙法蓮華経なり、即座開悟とは余の修行に渡り玉はず、一切衆生に先き達ち独り内薫自悟して自受用身と顕れ玉ひたれば・則ち先達不渡余行・直達正観・本因本果本国土・三妙合論・同時証得なり・此の妙法は本地甚深の奥蔵にして思慮し難き境智冥合なるが故に・則本地難思境智冥合と云ふなり。
内三十八 本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況んや菩薩凡夫をや。
上に示す御本尊を信じ余行をなさず、只南無妙法蓮華経と唱ふるを則不渡余行・直達正観・事行の南無妙法蓮華経と云ふなり。
内三十二 、此の南無妙法蓮華経に余事をまじゆれば・ゆゝしき僻事なり。
内七 日本乃至・一同に他事を捨て南無妙法蓮華経と唱ふべし。
内十六 答て云く壇戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念三千信解随喜の気分となすなり、是れ則此の本意なり。
同  直に専ら此の経を持つと云ふ者は・一経に亘るにあらず専ら題目を持て余文を雑えず・尚一経の読誦を許さず何に況んや五土をや。
外廿三 南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべきこと尤大切なり。
是れ則今末法は在世及び正像の如き余行を隔歴するに非ず、直に本因下種・名字の妙法を信行すべき事・祖書明々赫々たり・之を不渡余行直達と云ふ。
外二十三 此の御本尊も但信心の二字に納れり・以信得入・非己智分とは是れなり。
日蓮が弟子旦那等は正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故により・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。
是れ則末法は信を以て観にかゆる故に正観と云ふなり、事の一念三千の南無妙法蓮華経を自行化他に亘つて唱ふるが故に・事行の一念三千の南無妙法蓮華経と云ふなり。
内八 事行の南無妙法蓮華経の五字七字・並に本門の本尊未だ之を行はず。
外十五 末法に入り今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異り自行化他に亘つて南無妙法蓮華経なり・名体宗用教の五重玄義是れなり。
是れ則我が門の立義は宗祖開山の御正意の如く、久遠名字の妙法を余行に渡さず直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経と信行するなり、然るに君は邪推を以て釈尊の余行にわたさずとは如何とか・法華経一部を理の法相・迹門脱益と云ひながら引用するは如何とか・喋々し玉ふは実に蒙昧の至りならずや慎むべし々々々々、尚又法華経一部の助行借文として引用する事は・第一節第三項に明示したるが如く何の妨か之あらんや、況んや本因妙抄に法華経一部は理の法相・迹門脱益なるが故に捨つべしという文義曽てある事なし、よしや仮に之れありとするも之れは是れ法体正行上の所談なれば聊も差支る事なかるべし、故は如何となれば法華経には不受余経一偈とあるも・宗祖は立正安国論に爾前の四教の明文を引用し、当体義抄に大強精進経の文を引証して、宗祖弘通の所詮たる当体蓮華の証文とし玉ふ、天台は華厳経の心如工画師の文を引用して・一念三千の証文とし玉ふ、又祖書には末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし・只南無妙法蓮華経なるべしとも・又は此の妙法蓮華経に余事を雑ゆるは・ゆゝしき僻事なりともあるに・宗祖は自ら助行に方便寿量を読誦し玉ふ・これ則其の所談は法体正体正行上の科談にして其の所用は或は助行或は借文の為なるが故に毫も妨ある事なし、然るに本因妙抄には事理本迹・下種・脱益等の浅深勝劣を判じ玉ひたるものにして・法華経一部は素より爾前の経々をも用ゆべからず捨つべしと言ふ文義曽てある事なし、君の見解頗る迷乱の至りならずや、鳴呼気の毒千万と言ふべし。

第三項・本因妙抄に天真独郎の文字あるに附会して・天台所立の天真独郎の法門と同一なる如く・喋々し玉ふといへども是れ亦君の僻見邪推なり、彼の天台所立の天真独郎の法門・今末法に無益なる事は、苟も日蓮宗門の流を汲む者誰か之を弁知せざるものあらんや、然るに吾が本因妙抄に示し玉ふ天真独郎の義は天台所立の天真独郎の義にあらず、故は如何となれば君刮目して本因妙抄を拝見すべし、釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮名字即の身に移せり・理非造作故天真・証智円明故之独郎の行義・本門立行の血脈之を●す秘すべし々々々々と云云、是れ即本門事上の天真独郎なり、又天台の所立は則君が引証する。
十八円満抄 問て云く天真独郎の止観の時一念三千一心三観の義を立るや、答て云く両師の相不同なり、座主天真独郎とは一念三千の観教なり・山家の一念三千指南と為る一念三千とは一心より三千を生ずるにも非ず一心に三千を具するにも非ず並にも非ず次第にも非ず故に理非造作と名く・和尚云く天真独郎に於て亦多種あり乃至・迹の中に明す所の不変真如も亦天真なり、但大師本意の天真独郎とは三千の観相を亡ずるなり一心一念の義を絶す・此時は行なし教行証の三千次第を経るの時・行門に於て一念三千の観を建立する故に十章第七の処に於て始て観法を明すは是れ因果段級の意なり、大師内証伝の中に第三の止観は伝の義なし云云、是れ則迹門理上の天真独郎にして其の義分・宵壌も啻ならざるは一目瞭然たるべきなり、蓋し天真独郎と言ふ文字の同じきを以て其の義も亦均一なるものと誤解せられたるものならんか、実に笑止の至と謂ふべし、君の如きは天台の所立・迹門の一念三千も・吾が祖所立の本門の一念三千も同義の如く誤解し玉ふも計るべからず、如何となれば一念三千の名目は・天台の所立にして其の文字の同一なればなり、夫れ天真独郎の文字は一なるも・其の義分は多く異る事は・既に掲ぐる十八円満抄の明文にも・天真独郎に於て多種ありと明文ありて判然たり、況んや仏法を学する者は先づ同名異体・借文義別と云ふ事を了得せざれば得て斯の如き僻見誤解を生ずべし、請ふ左の金言を仰いで開悟せよ。
内三十 爾前の経々を引きのせ外典を用て候も爾前外道の意にはあらず、文をば借れども義をば削り捨てたるなり。
内十九 明者は其理を貴み暗者は其の文を守る。
右弁明する如くにして本因妙抄は後人の偽書にあらず、又宗祖の立義に毫も違背せざる事謹んで信じ玉ふべし。

第四項・八品門流においては上行所伝の妙法を信行すると喋々せらるれども、只其の名のみを信じて其の実体を信ぜざれば・所謂有名無実にして例せば澄観弘法等が法華経の一念三千の実義を盗み取つて各自宗の肝心とせしが如し・誑惑も又甚し、如何となれば八品門流所信の本尊は久遠本果実成の脱仏にして・久遠名字・本因の下種仏にあらず、又口唱の題目も文上顕脱の本果の題目にして・文底秘沈・本因下種の題目にあらず、然るに上行所伝の正法は文上顕説・脱益本果の妙法にあらずして・寿量文底秘沈・本因下種の妙法なる事第一節・第三項に委く弁明する如くにして其の上行所伝の法体を信行するは独り吾が門のみなるべし、八品門流においては此の文底秘沈、本因下種の妙法を信行せざれば則有名無実ならずや、豈に之を宗祖の御正意に適したる門流と言ふべきや。

第五節 君が御邪見妄執を脱破す。
第一項・君は釈尊の付属相承を尊重して・宗祖の付属相承を軽蔑するは如何。
外十六 日蓮一期の弘法・白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり・国主此の法を立てられば富士山本門寺に戒旦を建立せらるべきなり・時を待つべきのみ事の戒法といふは是なり・中んずく我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日蓮
血脈次第日蓮日興。

第二項・君は上行所伝の名を尊崇して・其の実体を軽蔑するは如何。

第二節・第四項・第四節第四項を見玉ふべし。

第三項・君は天竺国所立の仏法を尊崇して・吾が日本国所立の仏法を軽蔑するは如何。
内廿七 答て曰く仏記に順じて之を勘るに既に後五百歳の始に相当り仏法必ず東土日本より出づべし。
尚第二節・第三項を照見し玉ふべし。

第四項・君は脱益助縁の主師親たる釈迦仏を尊重し・得益有縁深厚の主師親たる宗祖大聖人を軽蔑するは如何。
内三五 日蓮は日本国の諸人にしたしき父母なり。
外十三 過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは吾等衆生の事なり・法華経の一念三千の法門常住此説法のふるまひなりかゝるたうとき法華経と釈尊にて・をはせども凡夫は知る事なし、寿量品に云く・令顛倒衆生・雖近而不見とは是れなり。
私に云く宗祖を久遠元初・独一本門の教主釈尊なりと知らざるものは・豈に顛倒迷惑の者ならずや。
尚第一節・第一項・並に演説筆記を見玉ふべし。

第五項・君が妄執僻見を攪る要文。
内十三 答ふ此の経は相伝に非んば知り難し。
私に云く経理既に然り・況んや妙法の深義をや。
内二十三 、円智房は清澄の大堂にして三ヵ年が間・一字三礼の法華経を我と書き奉りて十巻をそらに覚え・五十年が間一日一夜に二部づゝ読れしぞかし・彼をば皆人は仏に成るべしと云云、日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房は無間地獄の底に堕つべしと申したり。
私に云く不相伝にして法華経を信行するは却つて其の罪斯の如く重し、況んや不相伝の立義を信行するのみならず、宗祖の相承ある吾門を誹謗する罪においておや・恐るべし々々々々。
内三十二 日蓮が弟子等の中に法門知りたりげに候人々はあしく候けるか。
内二十五 肝要の秘法は法華経の文赫々たり、論釈等に載せざること明々たり、生智は自ら知るべし賢人は明師に値遇して之を信ぜよ・罪根深重の輩は邪推を以て人を軽しめて之を信ぜず。
以上掲ぐる祖判を拝見し玉へ、宗祖御弘通の三大秘法は実に相承相伝にあらざれば了知し得べきものにあらず、故に宗祖は明師に値遇して之を信ぜよと御教戒遊されたり、然るに君は宗祖摘々相承の吾が門を軽蔑し・妄りに我慢を増長し邪推僻見して不相伝の八品門流に執着し・宗祖所立の三大秘法を信行し玉はざるは・則罪根深重の輩と言はざるを得ざるなり、然る間・君が言はるゝ八品門流の法義は・一つとして宗祖の御正意に適せず或いは名目に迷惑し・或は名を知つて其の体を知らず、或は法門の科段を失ひ所対を紊乱する等・上数節に示すが如く其の誤り挙げて数へ難し、何ぞ深く省慮せざらんや、夫れ我慢偏執は仏道の大敵・僻見邪推は罪業の根元・不信謗法は堕獄の因なり、明鏡に向はざれば面の穢れたるを知らず、明師に由らざれば吾が僻見を悟らず、君平心に此の書と演説筆記を熟読思し早く開悟の念を発し・不相伝の大僻見たる八品門流を脱却し・再び吾が正法の門に帰入し玉へば・啻に君の大幸のみならず・宗祖大聖人の御歓びいかばかりぞ、請ふ君猶己義妄執を主張して未来の永苦を受るなかれ。
附して謝す・文中或は失敬の言なきにあらざれども・勢ひ止むを得ざるに出づれば須く寛怒すべし。
日蓮宗正嫡・大本山大石寺信徒
明治十六年八月十一日 荒木清勇
八品門流大講長
武内寿山君
机下に呈す。
追て申す演説筆記の御答弁相成りたるに由り・再び弁駁致すべきの処・其の要旨は君が退転弁書に大同小異なるを以て之に対し弁駁書をを呈せざるも・此の書の説明及び弁駁等に由つて事明瞭すべきを信認す、故に別段該弁駁書は呈せざるなり、尚此の書は小林今井両君へも御披露あらんことを希望す頓首。

昨十一日送達せられし邪正弁と題して墨付き三十六紙・披見仕る、其の初発には君は頗る大慈の底意を顕はし給ふに似せて以て予をして再度興門派へ帰入せしめんなぞ虚言を構へ・慈覚法然の誤解に譬へられて懇篤に弁明せんの妄談は、是れは此れ世俗に所謂る凡そ人の苦にのぞみ遁れんとするは情の常なり、然りと雖も今此の一大事件は出離生死の大要なり曲げて虚談を構へる事なかれ、然れば君若し予をして懇得に教喩せんと欲せば前に送進せし三巻及び退転弁●に演説筆記反詰の其の義味を一々に会答し了つて、而る後に該門派の所立要旨の操り言も復た予が邪見妄執の失あれば其れを説破せらるゝとも・又復予が祖判を誤解せしなれば・其れを弁明せらるゝも此れは之れ真実の大慈ならんか、然るに然らずして君が誤解は難責を蒙りながら一言半句の会通もせず知らず顔して。
日興・勧持二万の勅答・前三後三の六釈を挙げて上行要付を崇重し玉ふこと是一。
久遠実成・妙覚極果の仏の境界と迹門当分の仏と区別半然是れ一。
右の区別には僧道損生・皆是迹中の益のみ玄竹の釈を以て談じられしなれど・久遠実成妙覚極果の仏の境界を尽さず是れ一。
本時娑婆世界離三災出四劫常住の浄土乃至末法に来入し此の仏像出現せしむべきか云云、是れ一。
昔説かざる所の名を秘と為す・在世に説顕したれば本因下種の法と云はず・亦た三大秘法とは云はず云云せられたるを当初の指南により顕はれたる事・是れ一。
血脉相承本尊七ヶの口伝・明星池の本尊と、君が自語とは同一に承り難き故に一方に取定め玉ふべしの事・是れ一。以上・五ヶ条。

此の五ヶ条を知らず顔して・今又予が正義を曲げて邪見妄執を脱破す抔と、失敬ながら君の面皮あつきこと三寸の漢今此の邪正弁は君が独り物語りか、但し退転弁・演説筆記・反詰の対語には非ざるか、所間如何的らざるを以ての故なり之に依つて君の宅へ小林・今井・下拙三人推参して対面の上にて書取を以て一つ一つ明に双方の誤解を糺明仕り度候、御都合不や尋問し奉り候。
明治十六年八月十三日 武内寿山花押
荒木清勇主

昨十三日附の郵書正に拝見致し候処、本月十一日附を以て呈したる邪正弁を未だ御熟読なされざるか、将又其の意味を誤解せられたるか、頗る途轍を失ひたる御照会なるを以て無論御答に及ばざる儀と思慮せしかども・此の侭指し置き候も不本意の至りに付き敢て一言を呈すべし。
偖て来書中に前三巻並び退転弁・●に演説筆記の反詰書等の義味を・一々会答すべしと云云(趣意)と今示して云く、前三巻の書中には往々誤りの廉之れあるを以て曽て御面会の際・予が之を説明かしたるに君又之を予知せられ・該書に換へて更に退転弁を寄送せられたるものならずや、故に退転弁に君自書して云く。
過日・御面会の際・仁者の玉ふやうには寿量品文底の大事一段は後人の執筆なり、其の余産湯相承も後人の執筆なれば其の旨承知有りたしと年号月日を分けて御物語により承知仕候、故に寿量品文底大事の一段傍に閣き・論じて無益の事と信受仕り候と云云。
是れ則前三巻の書は君自ら取消し之に換るに退転弁を以てせられたるを見認る証に足れりとす、又退転弁の弁駁は邪正弁に余りあり、尚又演説筆記の反詰書は君の論弁頗る荒量にして・予が演説筆記の弁駁に足らず、況んや其の意味退転弁に大同小異たり、君も又之を反詰書に自書せしならずや、之に依て予が邪正弁の附言にも此の事も記載したり、夫れ斯の如く予は正当の答弁をなし真実の説明なしたる事は邪正弁に赫々たり、邪眼の者・盲目の者に非るよりは・誰れか之を見ざらんや、然るに君は尚会答を請求せらるゝは愚も又甚しと言はざる得ざるなり、彼の西哲すら言へる事あり・凡世に物を見て其の実を弁知せざる程盲目にあらず、事を開いて其の義理を了解せざる程聾はあらずと宜なるかな此の言や誰か其の盲目に強いて物を見せんとせんや・其の聾に強いて物理を説き聞かせんとすべけんや・予は是れ君が吾が門の流義・種脱の分界・経相文底の差異等熟知せられざるより種々と僻見推して彼の暗夜の礫を打たるゝは甚だ気の毒千万に堪えざる故に初めに此の三箇の法義を懇篤弁明し・次に君が所難の大綱を取つて以て是れが説明したれば・其の綱目は自然に了解せらるべきを信じたるに・爰に又同義の難問・五箇を掲げ之に説明を乞はれたるは未だ邪正弁を熟読沈思し玉はざるの罪なりと思考せり、故に予は更に贅弁を非ざるべし、又討論の義は素より予が企望する処なれども・君においては予が既に呈したる邪正弁の説明すら了解する事能はざる因て見れば・所詮君の執著は未来の永苦に臨まずんば解釈するの期あるべからざるか、予は徒に貴重の時日を費す快しとせざるなり、故に尊重に応じがたし、請ふ君必ず精神に成仏を祈図すとならば早く妄執の念を去り・邪正弁を反復熟読沈思せよ、然れば則君の所難は素より宗祖大聖尊の御正義吾が門の摘々相承・八品門流の無得道なる事等都て明らかに了得せらるべし、然れども君強いて予が失答せりと言ひ、又邪正弁に其の答義を尽ざるものとせば・予はと曽ての口約に基き君が寄送する処の退転弁并に演説筆記の反詰書・及び昨十三日附の書面、又予が呈したる演説筆記并に邪正弁及び此の書面等逐一に活版に附して以て之を世に公にし・其の邪正勝敗・何れにあるか江潮識者の高評を仰がんのみ、君之を如何とす・頓首。
明治十六年八月十四日 荒木清勇拝
武内寿山君
証 但し活版入費は当方に於ては一切差出申さず候なり。
墨附 三紙 落手し畢ぬ。
但し活版に附して以ての云云は君興門の異流を世に流布せんと思はれなば勝手たるべし、当門流に於ては経釈祖判に依る故に何をか恐るゝ処あらん。
武内寿山花拝
荒木清勇氏に題して
孤となりて・はかなき草の露。

拝呈・昨日は御名吟を辱ふす君は中々発句をも御嗜と見えて天晴わからぬ御詠吟之をも・該書冊の末に掲げ江湖の君子の高覧に供すべし、尚又活判入費御弁償なさらずとの事、了承仕り候、何れ該書冊出来の上は進呈仕るべく候、然るに予も君に●つて・一句を口ずさみ請ふ、御高点あらん事を・頓首。
聾はすました顔や虫の声。
白蓮の清きも富士の高けきも
見へぬ盲目はいかが信ぜん。
八月十五日 荒木清勇
武内寿山翁
足下

追加註解
予が演説筆記に引証したる三大秘法抄の昔所不説名為秘唯仏自知名為密の文は・彼の反詰書に引証する・外十六の巻内廿八の巻の祖判と同義にあらず、故は如何となれば三大秘法抄の初に云く、夫れ法華経第七・神力品に云く要を以て之を言ば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す等云云、釈に云く経中の要説要に四事あり等云云、問ふ所説の要言の法とは何物ぞ・答て云く夫れ釈尊成道の初より四味三教乃至・法華経の広開三顕一の席を立て・略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし所の実成当初証得し給ひし・寿量品の本尊と戒旦と題目の五字なり、教主釈尊此の秘法をば三世に隠れなし普賢文殊等にも譲り給はず、況んや其の以下をや、此の秘法を説き給ひし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居の土は寂光本有の国土なり、教主は本有無作の三身なり、所化以て同体なりと、此の文は是れ則彼の十六巻・内二十八の巻と同義にして在世顕本法体の所談なり、又同抄に然りと雖も・三大秘法の其対如何・答て曰く予が己心の大事之に如かず汝志無二なれば少し之を言はん・寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初以来た此の土有緑深厚・本有無作の三身・教主釈尊なり、寿量品に云く如来秘密神通之力等云云、疏の九に曰く一身即三身なるを名て秘となし三身即一身なるを名て密となす・又昔より説かざる所を名て秘となし唯仏のみ自知するを名て密となす・仏三世に於て等く三身あり諸教の中に於て之を秘して伝へず等云云、此の文は則寿量品並に疏記の文を借らせ玉へども其の義分は宗祖御所立・第三の法門・文底の所談にして彼の義とは天地水火の違目あり、故に知んぬ前段の文には在世寿量顕本の本有無作三身を容易に示させ玉へども、後段の文に寿量文底の法体・末法顕本の本有無作三身を示させ玉ふときは、予が己心の大事之に如かず汝志無二なれば少しく之を言はんと・尤鄭重にして之を示させ玉ふ・何ぞ前後の本有無作三身同一なれば斯の如く差別あらんや、之れ則三大秘法抄前段の文並に彼の外十六の巻・内二十八の巻の祖判は在世寿量顕本の法対の事にして、予が引証したる三大秘法抄・後段の文は・寿量文底の法体所談なること日月を見るよりも明かならん、故に予は該文を引証するに・疏記の文と言はずして・故らに三大秘法抄に云くとして該文を引証したる所以なり、請ふ迷惑する勿れ、猶演説筆記並に邪正弁を熟読沈思して其の別なることを明らむべし。邪正対比終り。

附言
此の邪正対比の所論は詮ずる所・種脱相対にして則在世顕本・本果実成の釈迦仏と・末法顕本・本因下種の教主・吾が祖大聖尊と孰れか今時の一切衆生に有縁深厚の主師親にして大利益を得さしめ玉ふかの要点にあり、之に於て失敬を顧みず読者に対して敢て一言を呈すべし。
祖書内七 日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流布すべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教天台にもこえ、龍樹迦葉にも勝れたりと云云。
同内十五 是程に貴き仏を一時二時ならず・一月二月ならず・一年二年ならず・百千万億乃至一劫が間・仏前にして掌を合せ両眼を仏の御胸に当て頭を低て他事を思はず渇して水を思ひ飢えて食を思ふが如く・間もなく供養し奉る功徳よりも戯論にも一言継母が継子を讃るが如く志はなくとも・末代の法華経の行者を供養せん功徳は・彼の三業相応の信心・一劫が間・生身の仏を供養し奉るには百千万億倍過ぐべしと説かれて候、是を妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり、十号と申すは仏の十の御名なり、十号を供養せるよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝れて候と書かれたり、妙楽大師は法華経の一切経に勝れて御座す事を二十集めて挙げらるる其の一なり(己上)、上の二の法門は仏説にては候へども心得られぬ事なり、何ぞ仏を供養し奉るに凡夫を供養せんが勝るべき、而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ多宝仏の証明を軽んじて十方諸仏の舌相を破るに成りぬべし、若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕ぬべき事巌石の悪きに馬を走するが如し・心肝しづかならず、又之を信ぜば妙覚の仏にも成りぬべしと云云。
是れ則吾が祖大聖人は今末法・時機相応の御本尊にして其の御利益・本果実成の釈迦仏より百千万億倍勝れて広大なること明白なり、然るに之を信ぜざる人々は宗祖の御正意に違背し・釈迦多宝の金言を疑ひ十方の諸仏の舌相を破るものにして・現身より阿鼻獄に堕すべき事判然たり、又吾が門流の如く之を信ずる人々は則身妙覚の仏と成るべき事赫々たり、之れ併しながら宗祖大聖人の金言なり誰か之を左右せんや、請ふ読者注意を加へよ。清勇謹白。

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