富士宗学要集第六巻

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日仙日代問答

建武元年(甲)戌正月七日重須の蔵人阿闍梨日代・大輔阿闍梨日善・大進阿闍梨日助其外の大衆・大石寺日仙の坊に来臨せり、大石寺大衆等多分他行なり居合せらるゝ人数・伊賀阿闍梨・下之坊御同宿宮内卿阿闍梨其外十余人なり、時に日仙仰せに云はく日興聖人・入滅の後代々の申状に依つて方便品は迹門たる間た読む可からずと云云。
重須蔵人阿闍梨日代問答口となり鎌倉方の如く迹門に得益ありと立てらる云云、日仙は一向に迹門方便品読む可からずと云云、是れ亦天目日弁の義と同辺なり、然して当日の法門は日仙勝たれ申すなり、日睿其座に有りて訪問聴聞せり、結句重須本門寺大衆等の義には元より日代は五十六品と云ふ法門立てらるゝ間た高祖聖人并に日興日目等の御本意に非ざる故に、日代は本迹迷乱たるに依り重須大衆皆同列して山より日代を擯出し奉り畢りぬ、末代存知の為め日睿之を験るし畢りぬ。
正本は九州日向国日知屋定善寺に之れ有り日代迷乱の筆記末代の為に書き出す処なり。永禄八年乙丑三月二十五日之を書し畢りぬ、歓義坊。
 編者云はく房衆妙本寺蔵歓義坊の写本に依り更に他の新写本を以て校正を加へ延べ書きにす。

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