富士宗学要集第六巻

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問答記録

一、日代と妙性と問答同義。
二、日道と日代と一問答。
三、目上人と西脇の道智と問答。
日妙云はく大仏の西脇の道智・先代守の殿の御所にて十宗房道智と云ふか。
四、高寺の伊勢法橋と目上人と問答、武蔵の国池上にて御使として問答なり。
五、目上人と伊豆山玄海と問答。
六、貞憲と日郷上人と問答。
七、宗信と目上人と問答。
八、無智人中の問答。
九、倶楽受持の文の問答。
十、花厳法花勝劣の事。
 日代と妙性との問答記録。
日代云はく、方便品の得益こそ本迹の功徳同き故なり云云。
妙性云はく、本迹の不同は経文より起つて解釈の結判明白なり、教主は久始の替りめ三千五百の塵点なり、三時の弘経の中には像末の前後なり、付属を云はヾ迹化の薬王本化の上行各別なり。然れば大聖人御抄に云はく、爾前と迹門とは相似の辺有りと云へども本門迹門の違目は水火天地なり、本迹の功徳同じと云つは水火を辨へざる物と云云、迹門をば邪教・未得道・覆蔵教・其の機を論ずれば貧窮孤露にして禽獣に同ずとこそあそばされて候に功徳斉しと候は大謗法・無間地獄業極り無し云云。
 日代日はく、迹門を本門に劣りて候事勿論にて候へども開会しては迹門も本門と成り候へば功徳斉等と云云。
 妙姓責めて云はく、法花の肝心は開会を旨とす諸水入海同一鹹味とて諸水の大海に入りぬれば本の名字を失ふなり、本門開会の後は迹門に其の名字無からん上は何なる迹門あつて本門と斉うして、功徳を持つ可けんや、謗法こそ開会の法門を左様に心得て念仏をば申し候へ、或は云はく念仏者の念仏なり念仏開会の無き念仏を南無阿弥陀仏と只今仰せ候は天台の迹門にて迹門開会の無き迹門方便品と仰せ候、何に謗法に違つて候や。
又云はく、上行の読む迹門は本門となるなり然れば伝教大師は寿量品に是法住法位・世間相常住と云云。是れ則ち方便品を寿量品と云ふ証拠なり云云。
 阿闍梨日道責めて云はく、此の伝教大師の釈こそ迹門を所破の為に読むと云ふ心なれば開会しぬれば失本名字なれば方便品に云ふとは云はれざるなり、彼の文を引く事は迹を借りて本を知るの心・還迹教味以顕妙円の心なり、迹門は本門の影なれば世間相常住と云ふも本門の影なり此の義は本門に有るなり、文は他経に在り義は此の経に在りとは此の心なり、法花経は西方法花布一由旬と釈し梵本は多羅樹葉に書いて一由旬有るを羅什三蔵の但八巻に略し給ひたれば同語を二所にのせてこそ有れ、迹門十四品に説いて候は皆本門の影なり。
 又云はく、迹が家の本迹は本迹共にと迹なり本が家の本迹は本迹共に本になり、然れば、方便品則寿量品なれば全く本門の功徳を具するなり此道理を以って迹門を読む可し。
 難じて云はく、法花開会を以つて旨とす尤開会を以って云ふ可き法門なり、但し開会に於いて上人の仰せに謗法天台宗の義と水火天地なり能く能く之れを弁ず可し、謗法の義に云はく未開会の時は爾前は未得道なるべし、法花開会の眼開いて見れば権即是実と開会して念仏則法花なれば念仏を申すに過無しと云云。
 難じて云はく、法花開会とは四河入海同一鹹味失本名字と釈して海へ入りぬれば諸河の名字悉く失せて但塩はゆき味計りなり、然れば権即是実と開会しては権の名字悉皆失せて但法花計りなる可し、之れに依つて天台云はく既に実を識り已れば永く権を用ひざれ云云。
 妙楽云はく一乗の家には都て権を用ひず云云、然れば法花開会の後は念仏真言等の名字は失せて但妙法蓮華経斗りなり、本迹の開会是に准じて知る可し南無阿弥陀仏と唱へば未開会の念仏なり、妙法蓮華経と唱へば開会の念仏なり、然れば方便品第二と読めば未開会の迹門なり、邪教○未得道教覆蔵教なり、寿量品と読めば開会の迹門なり本門に至れば迹の名字失ふなり、本迹の六譬是を以つて思ふ可し云云。疑つて云はく、五時に付いて横縦如何、答へて云はく横の五時は花厳一時の内に阿含方等般若法花等の功徳あり、此くの如く一時に五時有る故に五五廿五有有り、縦の五時とは花厳阿含方等般若・法華涅槃なり。 亦問ふて云はく、前番の五味・後番の五味とは相貌如何、前番の五味とは花厳阿含方等般若・法花涅槃なり、後番の五味とは涅槃一会に於て前番の五味の如く次第相即して之れを説く余残の機を救はんが為なり。
 問ふ釈迦一代の化儀に濡れて後仏の出世に得益する物有る可きや、有る可からず、此に付き故善星等は釈迦の化儀に濡れたり如何。
 答へて云はく但し少在属無と云ふの道理に仰せられたり、大旨是くの如し今者已満足の文の心を案ず可し。
 問ふて云はく、法花経に云はく衆中の糟糖・仏・威徳の故に去る云云、然れば法花経の得益に預らず如何、答へて云はく法花一会の内に発起・影嚮・当機・結縁四衆の根性相別れたり、舎利弗等は当機の故に法花に来つて得益す五千等は結縁の故に退いて涅槃に至る、正宗と?拾との差別有りと雖も同醍醐味の利益は遍く一切に及ぼす、遅速有るに似れども得益の辺は虚しからず。
 難じて云はく、涅槃経等の文を見るに五千退座の物全く仏果の直道に入ると見えず、答へて云はく、有闡提の下は更に涅槃を将つて法花経に対する釈を見て意得べし、法花は無心の二乗に仏果の芽茎を授け涅槃は断善の闡提に成仏の法味を与ふ、能入の人は殊なれども所入の理は一なり、然りと雖も勝劣なきにあらず一には法花は醍醐の正主・涅槃は?拾、二に法花には無心の二乗成仏す、涅槃は有心の闡提成仏す、三には法花は一陣已に破す・涅槃は余党を責む・此等の因果を以つて知る可し、断善の一闡提?拾醍醐の甘露を嘗めて悪業無明の重病を愈す、何に況や五千不信我慢は法花経当機の益なき故に授記作仏は無しと雖も結縁の故に十如実相の妙法を聞き五仏開会の儀式を悟る、已に略開三顕一の座に列す、断善の闡提すら成仏の素懐を逐ぐる後分の妙法醍醐にて何ぞ成仏せざらんや、此理を勘ふ可し。
先代・守殿の御所にての番なり、十宗房。
 西脇の道智云はく、念仏無間の業とは何なる経文ぞや。
 仰せに云はく、何宗にて問ふや、彼れ云はく浄土宗々々々と三度云ふなり。
 仰せに云はく、法花を抛つとは何なる経文ぞや、彼暫く案じて云はく法然上人の筆なり。
 仰せに云はく、経文か私言か、私言なり但し機に随ひ時に叶ふか。
 仰せに云はく、機に随ひ時に叶つて法花を抛つか如何、彼れ返答なし・良有りて法然已後の念仏をば謗法無間と難勢来れり、之れに付いて問答しげし暫く之を置く可し、法然以前の念仏の当躰を沙汰仕りて無間の難勢を承らん。
 仰せに云はく、暫く置く可くは法然以前の念仏・忽に問答すべくは法然以後の念仏こそ身に当り時に当れり、其の故は以前の事は機やみ時過ぎたり以後の段は身に当つて時を得たり、法然は如何。
 十宗の道智一言に及ばず云云。
 高寺の伊勢法橋云はく、念仏真言禅律等を無間の業とは何の経文ぞや。
 仰せに云はく、花厳宗の心には法花経をば末教と云ひ法相宗の心には有空中の三時を立て自宗をば中道の教了義経と云へり天台宗をば不了義と立つ、三論宗は八不中道を立て帰つて法花円宗の三諦即是中道をば虚言と云う、善導和尚の千中無一・法然上人の捨閇閣抛・禅宗の教外別伝・弘法大師の法花第三・教理は無明の辺域乃至戯論・慈覚智証等の顕密一致・然れども真言に比する時に法花は第三戯論乃至云云、然れば何なる宗の心にて難問成るぞや委く宗義を承つて一々に難勢を散ず可し、但仏教は謗法と正法と愛染と毀?と加様の差別あり、所詮自宗他の宗親疎を捨て如来説教の元意を尋ねらる可し。
 法橋云はく、所詮念仏無間等・耳を驚かし心を迷す処を散ぜんが為なり。
 仰せに云はく然れば善導法然が流か。
 彼れ終に以つて定めず条々の事等・一々に心肝に染め候ひ畢りぬ、謗法無間の条古より存知仕り候、今と雖も仰せ心肝に染みて覚え候、問答に及ばず再三褒美して退き畢りぬ。伊豆山玄海云はく、四教五時の惣別・一心三観の相即・自宗他宗を見・権実偏円を探るにぞ教は妙法の始・権法は実法の便りなり、其の執をば一往破ると云へども実相の理躰を開会して玄宗彼れ是れ得意て偏執を以つて永く無間と定む、円大の外に仏法なしと云ふ事・三国に尋ね難し一心迷ひ易しと、此くの如く巨多の難勢を至す。
 仰せに云はく、凡釈尊一代五時の説教・天台四教五時の配立・時替り世異れども五時の時には前四時を破して第五時を讃歎し、四教の時には前三教を嫌つて円教を妙宗と定むる事、教主の本意・大師の素意なり、然れば善導・法然・百文・弘法等の法花誹謗の罪業有りや無しや、彼の漢土の十宗は天台の為に責められ本朝の六宗は伝教の為に破らる、此れ皆約部の時には前四味に著し約教の時には前三教を讃む、加様の謗法多き故に舌口中に爛れ或は苦長劫に流る・或は牛跡に大海を入るなんどと両朝の先徳・一乗の導師として謗を責め正を立てられしは、四教五時を弁ぜず・一心三観を伝へず、開会の眼闇く覚了の心拙かりけるか如何。
 玄海云はく、凡法門は僧衆和合して相互に隔心なく談話を至す迄の事なり、是は事をびたヾしく候とて止めぬ。
 貞憲云はく、当家天台宗は如来秘密神通之力の文に付いて本有無作の三身の妙用を事とし・一心三観の眼開き一念三千の心を知る、此の外に修行とて無く所修学問とて学する辺も無しとて余事は留む。
 仰せに云はく、惣じて法花経の説相本迹二門に相別れて事理一円ならず、此れに付いて自宗の心は如来秘密の誠諦を仰ぎ神通之力の秘用を探る処に、一念三千等の理具は学広く智深く習修功積んで一心の根源を見・衆生の化導をも存ずべきか。
 当家高祖聖人の御本意、如来結要の付属・妙法の実義・題目の五字を事として余義を雑えず、仮令ば良医来りて病人に薬を与ふるが如し、薬の妙なる事を知らざれども其の病愈る物多し、但爾前迹門等の広博の流通を捨て法花本門の結要に付属留つて候、但あらくかみ候へども如来秘密の元意無作の三身の秘用此の事にあり。
 貞憲云はく、古より執心多くして暗じ難き処に、無作三身の事相・法花一乗の躰用・御談話の段にすがつて思ひ知つて候、釈尊の出世今様に存ずと、門訊する事三度あり但し是れを略す。
 大仏陸奥殿子息に宗信の上総殿の時・奏聞問答の事。
 仰せに云はく仏法に付いて国家を諌曉申す事度々に及ぶ、然りと雖も許容無し、謗法は国を破り正法は国を治る事、尤御尋ね有るべし。
 宗信云はく、神事仏事の事に矢野掃部等に仰付けられたり、宗信は逐訴の事に付いて是非承らんとの御定にて、全く神社仏寺の事は綺はぬ身にて有るなり、惣じて訴訟は其の手其の方を知りて奏聞を経る物なりとて忽に弃て置きぬ。
 仰せに云はく、刹那に計略の故実を廻らして幻談の理を案じて云はく。
 先師日蓮・念仏無間等の諌忠を致すと雖も上聞に定らず、紹継の弟子日目彼の訴の由を重ねて申し宣ぶ、是に付いて越訴の御無沙糺明と承る、然れば忽に載許致す可し、弃て置く段公家宣義・武家の評定共に以つて心得難し。
 宗信大に瞋(哇の下に心という字)を生じて云はく具躰の事向後は聞き入る可からず等云云。
  或人云はく、法花経に云はく無智の人の中に此の経を説くことなかれ云云、然れば我等一亳未断凡夫なり、諸法実相の妙旨に於いては難解・難入なり。示して云はく、汝利根の者なり鈍根の者の牛羊の眼の如く片隅解せざる類に簡別するなり、諸経と一乗とを相比べて彼れは機に叶ひ是れは機に叶はずと云ふ、爰を以つて知りぬ利根明了の人なり、知つてをかす科甚重し故に阿鼻地獄疑ひ無し、中ん就く若有聞法者・無一不成仏と汝具に是非を入れ賤にも在れ卑下慢を起す可からず、止観に云はく、弘決に云はく倶楽受持○典の文を引く。
 或人云はく、或る釈に専ら三蔵を指して余経と為すと釈し給へり、然れば彼の三大乗をば用ゆ可し三藏教斗りをば持つ可からずと釈し給へり、答へて云はくさては此の釈を深く御用ひ候かと牒を取る可し、然れば御分無智無極との故如何、経文には唯一仏乗と説き或は無二亦無三と説きたり、此文に三乗に背くを用ゆ可しとは心得ざる義なり、亦専三蔵を指すの釈を引くならはせ答へて云はく無智無極か、其故は妙楽の云はく一往三蔵名けて小乗と為す再往三教名けて小乗と為すと釈して、一往は三蔵教を小乗と云ひ再往は彼の三大乗共に押し房ねて小乗と釈したまへり、経文には無二亦無三と説きたり、経文と云ひ釈と云ひ旁々以つて謗法ほ責むるなり。

 花厳法花勝劣の事
 天台釈して云はく花厳兼・三藏但し・方等対・般若帯・○兼但対帯と、私に云はく教主は久始○教は純兼・機は女人・成不成二乗成不成・開不開・顕本不顕本・可説不可説・乳味・醍醐味、時に於いては如日初出と云云、法花は正中偏照、土を申せば穢土の中に浄土を立て仮立と云ふなり、花厳は菩薩請・法花は仏請多宝請なり。
花厳宗云はく、教主は報未・所化地住已上・菩薩百六十人・土は実報土・花厳の時は仏は八万四千の相好・報身の当躰、三七日思惟し臺上盧遮那仏、地住位上の菩薩は森羅万像を則報身と説きたまふなり、法花の教主は応身・所化は舎利弗等の者なりと云へり、○花厳の仏は始成・法は兼対の法・亦菩薩互為主伴として説く、法花は仏請、久成の仏の久成の菩薩の為に説けり。

 御本に云はく貞和四年二月十日書写し畢りぬ、慶俊判
 右此の慶俊後は日慶と号す日向国日睿の舎弟なり日郷の弟子なり八度の登山なり。
 此の本は永禄六年(癸)亥迄二百廿八年になりなり云云、永禄七(甲)子迄二百廿九年。
 私云永禄十一(戊)辰九月六日書写し畢りぬ(本要坊)日泱V。(久遠寺)常住
 編者日く私藏なる右日沁ハ本を臺本とし更に要法寺蔵日暁写本(天明六年)に依て校正し更に多少の校訂を加へて延べ書となしたり。

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