富士宗学要集第六巻
辰春問答
条々 一貴公の籌策に依つて去年四月十日・西山重須大石一味と成ると云云、日代日妙日道の法門諍論云何んが之れを和会せらるゝや。 一貴公は三箇寺何の人を祖師とするや。 一御所立如くんば本因の妙法・最初口唱の人は是れ釈迦とやせん是れ日蓮とやせん。 一釈迦多宝上行等の木像造立の人は堕獄と称せらる可きや。 一法華一部読誦の人は堕獄に摂せらる可きや。 一有る人云はく彼の立義は法花一部を依用無しと云云、真実に依用無きや。 一有る人云はく彼の立義は録内百四十八通を叙用なし但本因妙抄百六箇の両通の血脈書を依用せらる云云、此の説贋偽なりや。 去年濃州正興寺下着の砌り御音信に預る事過分に存じ候、先年粗同心せしむるの処・永禄四年(太才辛酉)五月中中旬・一条弘通所寓居の時、有る人の云はく観心の重に於ては仏を捨てゝ苦しからず云云、有人の云はく木仏を河水に投ず可しと云云、同き十五日未の刻に予と貴公と窪近江守の亭に至りし時、惣檀那中より吉治・政宗両使を以て東国下向を抑留せらる、其の辞に云はく若し所望有らば願楽くは聞かんと欲す、貴公云はく要法寺堂内の御仏を除かるゝにて於ては同心せしむべき云云、日辰此の義を聞く故弥よ時日を送る処に同六月五日有る人予が草庵に来つて云はく木仏を河水に投ずべし、去年十月の初め貴公御上洛の後・中村善左衛門尉の木像を庫蔵に入れらる云云、然るに経文御書の明鏡を以て貴公の言行を験るに皆悉く相違せしむ、故に一座の談話を企てんと欲すと雖も猶恨くは玉辞を聴いて之れを墜堕せんことを、爰を以て望むらくは簡編に著在して現当の愚蒙をして慈誨の風月を瞻仰せしめん、旃れに●つて且く七箇の疑問を挙げ以て尊答を待つ者なり、恐々謹言。 永禄六(癸)亥年二月八日 日辰判 上行院日春公参床下 一貴公の籌策に依つて乃至之れを和会せられんや、今謂はく西山重須大石一味の事は日代上人は年久く愚見を以て正嫡に用ひざる人々・近比信力正見に住し興上の御遺状に任せ重須に於て日代を御法灯として崇敬有る可きの由・決定を為す間、西山重須は両寺一味の分なり、元より大石興門の御修行相替らず之れに依て三箇寺一統の題目なり。 一貴公は三箇寺何人を祖師と為すや、今謂はく珍からず興上の後筆跡を以て日代を祖師と為す者なり。 一御書立の如くんば(乃)至是れ釈迦とやせん是れ日蓮とやせん、今謂はく本因最初・下種口唱の人は釈迦日蓮名字不同にして其の時の位・修行の作法と芥爾計りも相変らず一躰と成す可き者か、名称を一偏に定めん事は浅智の覃ぶ所に非ず、幸に御筆跡に任す可き者なり。 一釈迦多宝(乃)至堕獄と称せらる可きや、今謂く木像造立の人を堕獄と云ふ事に非ず但造立の時分之れ有る可きなり。 一法花一部読誦の人・堕獄に摂せらる可きや、今謂く一部読誦の人堕獄と称する事に非ず但時機を鑒み正意不正意有る可きなり。 一有る人云はく彼の立義は(乃)至御信用無きや、今謂く法花一部の依用蓮興の勝劣を立てゝ簡要を用ひたまふが如きなり。 一有る人云はく彼の立義は(乃)至此の説贋偽なりや、今謂はく百四十八通の書是れ又当分跨節を分別して随他随自意を糺明し正義の御抄を以て之れを依用す、元より本因妙抄一百六箇の事は興上へ御付属の抄なり、然れば録内録外の沙汰に及ばず之れを依用する事なり。 仰き願くは世間の苦執・名聞利養を打捨てられ道心の尊容に従ひ慈悲の軟語を以て悪業の群類を集め、正義正見に任せて無上覚門に入らる可き者か、 永禄六年二月十二日 妙円坊 (日春) 判 要法寺殿 尊報 二の問 一貴公(日春)・第一問の七箇条を答へらる辞藻清麗意義端美なり、其の第一条の答に云はく今謂はく西山重須大石一味の事は(乃)至一統の題目なり、此の御答に就て信受有り不肯有り、初に信受を論ぜばせ享禄の昔より永禄(戊)御午年に至るまで余謂らく代公に於いて怪誕無し日任以下の迷乱に実否且く糺決し難し、爰を以て永禄元年十一月七日に余書状を以て西山建上人に進ず云云、日建亦書状を以て日辰に贈る云云、次に不肯を論せば往代を以て根源と為す当代を以て末流と為す、往日に諍論猶水火の如く将に矢石を興さんとす、今其の相を出さば此に就て二有り、一には古人の筆記に従ひ二には各の口伝に拠る、初に古人の筆記に従ふは此に於て三有り、一は日向国定善寺日叡の筆記、二は大石寺の記文三は日尊の実録なり、 初め日叡の筆記とは彼の記文に云はく建武元年(甲)戌正月七日、重須の大衆蔵人の阿闍梨日代、太輔の阿闍梨日善・大進の阿闍梨日助等其の外の大衆・大石寺日仙の坊に来臨せり、大石寺の大衆等多分他行なり、有り合せられたる人数・伊賀阿闍梨師弟・下坊の御同宿宮内卿の阿闍梨其外十余人なり、時に日仙の仰せに云く日興上人入滅の後代々の申状に依るに迹門たる間・方便品読む可からず(文)重須蔵人阿闍梨日代・問答口として鎌倉方に立てらる如く迹門に得益有り(文)日仙は一向迹門方便品読む可からず(文)是亦日弁天目の義に同篇なり、然して当日の法門日仙申し勝たれしなり、日叡其座に在り法門聴聞す、結句重須本門寺の大衆等の義に元より日代五十六品と云ふ法門を立てらるゝ間、高祖聖人并に日興日目等の御本意に非ざる故に本迹迷乱に依り重須の大衆皆同く列山し日代を擯出し奉り畢ぬ、末代存知の為に日叡之れを験し畢ぬ、正本九州日向国日知屋定善寺に日叡自筆之れ有り。 二には大石寺の記文とは、日鎮上人自筆の書に云はく重須在所等の付弟は上人よりは日代に付け給ふなり然るに迹門得道の法門を藏人阿闍梨立て給ひし程に西山へ退出し給ふなり、此法門は始は我れと必すしも迷ひ給はず讃岐の国の先師・津の阿闍梨百貫坊と召されしとき、日仙云はく我れは大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨堅く聴聞す故に迹門を捨つ可し爾れば方便品をば読たくも無き由云はるゝ時、日代日善助等之れを教訓し法則修行然る可からざる由を強ちに之れを諌め天目にも之れ同じなんど云ひけるなり、此くの如く云ふまゝに後には剰へ迹門を助け(乃)至得道の様に云ひ成して此の義を後には募り給ふまゝに此の法門は出来しけるなり、日代云はく迹門は施迹の分には捨つ可からず云云、かゝる時僧俗共に日代の法門謂け無き由を申し合ふ、其の時石川殿諸芸に達したる人にして又学匠なりしが我れさらば日道上人に参つて承らん、已に彼の御事は聖人の御法門を残る所よもあらじと思召すなり、さて此の由を問ひ申す時・日道上人仰せに云はく施開廃の三共に迹は捨てらる可しとの給ふを聴聞し、之れを感じ彼の仁重須に帰つて云はく、面々皆学文が未練の故に法門に迷ひたまふ所詮、此の後は下の坊へ参つて修学し給へと申す、然る可しとて今の坊主・宰相阿阿闍梨日恩、其時は若僧にて是れも学徒の内にて是れへ通ひ給ふなり、乃至此の如くあるまゝにて日代も出で給ふまじかりけるが、剰へすゝはきの時先師の御坊を焼き給ひし縁に其のまゝ離散し給ふなり、かうて坊主に成るべき人無かりし程に侍従阿闍梨は日興上人の外戚に入り給ふ可き強義の人なり我が計に日妙を坊主に成りし給ふなり(已上)。 三には日尊実録とは、録に云はく日尊上人の仰せに云はく暦応(三五中旬)冨士門流跡一同に云はく、迹門を破して本門を立つ可しと云云、是れ名目一同の義なり、之れに付いて方便品は迹門なり何ぞ之れを読むやと云ふ難之れ有り、之れに依て面々会釈の不同にして法門重々異義水火なり云云、諍論出来して一偏に落居せざる故に法門の浅深相伝の有無量り難し名目の幢を出して義の趣を顕すべし云云。 一河合人々の義に云はく、方便品に読む可き方読む可からざる辺之れ有り、先つ一往は所破の為に之れを読む、次に再往内証実義は読むべきなり、其の故は即本迹而本・即本而迹と天台釈し給へり故に即本迹なるが故迹門とはいへども本なる理ある故に読むなり云云、内証に所破と云ふ事之れ有る可からず云云。 一上野重須一同の義に云はく、方便品は所破の為なり此の品は譬ば敵方の訴状の如し、寿量品は自分の陳状の如し、然れば先つ敵仁の申し上る訴状捨つ可き方此くの如しと読み上つて、次に寿量品は今家所立の元意・当時弘通の至極と存じて読むなり、故に方便品をば読んで即捨るなり、方便品に得道ありと云ふは宛も念仏無間の如し等云云。 一浄蓮阿闍無日仙云はく、此の事諸人の義皆非なり、読んで捨るも直に捨るも同じ事なり、爾ならば一円に方便品をば読むまじきなり、捨ると云ひながら読み加る事非なり処々の御書に會て之れを読む可からずと見へたり云云、余・叡記を観るに日代の云はく施迹の分に迹門を捨つ可からざるの文未だ之れを載せず未た之れを載せざる故に疑らくは余の法門有りて其の中に於て迹本同致の義趣を説くか、唯大石寺の記文を見るに建武の問答は是れ施迹の法門にして別に本迹問答なしと云ふ事・当時の庸常の所見を以て知ることを得べからざるなり、若し大石寺の記文の如くんば日代の云はく迹門は施迹の分に捨つ可からずとは此れは是れ日代の正義なり、其義巳に祖師伝の中に於て之れを評し畢ぬ、次に代公重須を出て西山に迂つる事・日叡の記文に云はく日代本迹迷乱に依て重須の大衆皆同く列山し日代を擯し奉り畢ぬ(已上)、 若し此の文に拠らば日代上人本迹迷乱か、擯斥に就て多種の義あり本六人は日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗なり、新六人は日代・日澄・日道・日妙・日豪・日助なり此の十二人の中に日目日秀日禅日助等を除く外、義能擯の人に当れり、日秀は是興上御在世の入滅か、日目・正慶二(癸)酉年十一月十五日入滅なり、日善は是れ日代の俗兄なり日禅と日善と同味なり日助は是れ日代の甥なり日禅日助志を日代に合するなり、自余の日花・日仙・日乗・日澄・日道・日豪・亦是れ興師上足の弟子なり諸師已に日代法燈の義を知る、南条・石河・由比・高橋・四人并に数千の檀越亦日代の法燈を聞く、諸師諸檀・建武元年正月七日の問答を聞く日代を擯する故に日代の迷乱か諸師の昏昧か、若し諸師代公の自出を見て抑留すべきを稽留せずんば諸師の訛謬なる可し、若し駈除すべからざるを●●せは亦応に諸師の怪謬なるべし若し代公失惑有らば駈遺すと雖も誤謬なかるべし、然るに代公重須を退出して河合に竄謫せられ次に西山の辺境に移り寺を立つ後に片隅に迂 ・を結ぶ・是れ重須西山諸人の口伝紙面に載する所なり、代公の諸師に於ける既に敵讎の間なり、建武元(甲)戌年より永禄五(壬)戌年の春に迄で已に二百二十九年の星霜を経・動もすれば干戈を起し通用の義闕せり、代妙両門互に堕獄と称し石泉の両寺更る●謗罪と説く、惣じて大石重須小泉・日代を以て謗罪に処す、貴公・大妙道門を和睦せしむと雖も小泉に於ては和親を作さずして一山卓絶たり、今は日代既に謫せらる貴公若し忠孝を代師に為さば盍んぞ義威を奮つて日妙門徒の諸人を駈逐して西山の衆僧を還住せしめざる、譬へば敵人我が祖親を●つ仇を報じ難きを以て和親を謂ふが如きなり、寧ろ孝子と称せんや、但し乃ち●ち乃ち夷けんと欲すと雖も得べからざるなり、何となれば諸師其亡しとして苞桑に繋る故に、日華の寺を建つる今の上野妙蓮寺是れなり、日仙讃州に於て寺を立つ云云、日乗の所止未た検べず、日澄是重須学頭日順の師なり、日道大石寺に居し日目の迹を践む。日妙重須本門寺に住して貫主と為る、日豪爾時重須に止まり其の苗裔別に寺を立つ今の大窪是れなり。 次に日尊乃実録に依れば日辰去る永禄二(己)未年の夏或は聖教を観・或は反故を見る時・数書を采●して録して一冊と為す名けて祖師伝と日ふ、是則作者・已知未知・有罪無判の書にして未だ是れ証拠と為さずと雖も且く愚見に備えん為めなり、余祖師伝の中に於て冨山の諸師・方便読誦の異議を記して云く、一河合人々の義云云、一上野重須一同の義云云、一浄蓮阿闍梨日仙云云、此れは是れ略して日尊実録の文を挙くるなり、此の文に河合人々の義と云ふ日善日代日助三公の御説なり、方便品の読不読(乃)至内証所破の義之れ有る可からずとの説・日辰此の義趣を知らざる故に別に紙面に記して勝劣門流の智者に示す、智者云はく是れ本迹一致の意なり、亦人をして一致門徒の哲人に呈せしむ、哲人云はく是本迹一の義なり、一致勝劣此の文を異見すと雖も人或く本迹一致の文と称する●合せざるなし云云、日尊生を奥州に受け師を南方に求む乃至十二年の中に三十六箇所を建立す、興師賜うに三十六鋪の本尊を以てす此くの如き道心者・豈恣僧嫉を生じ妄りに謀書を作って諸師を詆悖せんや、去る弘治(丁)巳八月八日貴公と余と倶に泉州に下着し調御寺堂供養を作す時日尊の実録を書写す、時に同九月十二日なり、余新に●極を以て冨山の諸賢を歴詆するに非ざるなり、あゝ穆かな貴公御存知なり。 次に古今の口伝に依れば永禄二年(太才己未)秋・冨山真俗類聚抄作る、享禄已来乃至永禄己未季春・日辰見聞する所の事跡以て此中に係く、爾時貴公并に御同明の一覧に備ふ、彼の抄に云はく弘治二(丙)辰年七月十一日・重須本門寺日耀上人・日優・日誉・宗純・寂円・幸次・久通・日辰に対して云はく日代上人本迹一致心寄せと仰せらる故に重須大石両寺僧衆・同心し南条石河由比高橋同心し日代の謗罪を勘ふ(文)、永禄二年正月廿七日午刻日辰重須大坊に至る、日出云はく日叡案文之れを見る可し、日辰之れを披見し日代に於て始めて疑滞を生ずるなり、若し日耀日出両師の辞に依る則は日代是れ謗罪なり、若し日代を以て正師と為る則は日国日耀日出等は日代の怨●なり、 復次に享禄年中・日辰西山本門寺に在りし時・小泉久遠寺日是上人書状を日心上人に贈つて西山重須両寺和談を請ふ、日心返牒を小泉に贈る、其書の略に云はく彼日妙門徒は是れ盗賊大謗法なり云云、日是の書状今に西山に在る可し日心の御状小泉に在る可し、日辰爾時眼前に見る所なり若し日心上人の持言并に上来の簡牘に拠る則は日妙門徒是れ日代門徒のの怨仇なり貴公何ぞ日心に反戻し日妙門徒の大謗法と倶に和談を作すや、豈師敵対に非ずや、復次に貴公殿答に云はく近比信力正見に住し興上の御遺状に任せ重須に於て日代を御法燈と為て崇敬有る可きの由決定たる間、西山重須は両寺一味の分なりと、今問ふ重須日出、日妙乃至日耀を捐捨して西山門徒に帰伏するや、若伏膺せずんば日代を以て法燈と為すと雖も日妙乃至日耀の罵詈誹謗の罪業遁避す可からず、若し免脱すと言はヾ義末弟の和親を以て往日の祖師の過罪を消滅せつむるに当るなり、此の義を許さヾるの事・仏家通同の軌則なり、況復去年四月の和談は日代を以て法燈と為さヾるなり、何となれば彼の輯穆の地を尋れば粟原口の東の河原に在り、地形里数若し西山に近き則は西山の恥辱と成り若し重須に近き則は重須の卑下と成る故に其の中間を測量し両寺の衆一度に此所に参着せしめ同時に各巵を操り同時に始めて醪を漱ひ須臾も先後有らしめず我執突兀たることを此くの如し、爭か重須衆檀、日建を以て日出の上座に着せしめんや、縦ひ日建を以て日出の上座に著せしむと雖も日建重須の堂内に入る時・初めて磬を鳴らさヾる者は日代を以て法灯とためさざるなり、復次に御答に云はく元より大石興門の御修行相替らず之れに依て三箇寺一統の題目なり(已上)今問ふ大石寺の記文に云はく後に剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひ成す(文)、若し此の句に拠らば日代は是れ本迹迷乱に似たるなり、若し日代に迷乱無きを以て迷乱と称する則は日代を誹謗すること深重の大罪なり、若し日代・本迹迷乱の義決定為らば法燈と雖も法燈と為る可からず日興御遺誡に云はく時の貫首為りと雖も仏法に相違し己義を構へば用ゆ可からざる事、本迹迷乱の実否姑く置いて論せず、何んとなれば建武擯出已来已に二百余年を経験知の亀鑑なし敢て●情を募るに非ず、竊に代公重須を出るの濫觴を尋れば、重須本門寺大施主石河・日代を信ぜざる故なり、石河云はく面面皆学文未練の故に法門に迷ふ(文)、面々とは意日代を指すなり、代公を指して学文未練と称することは是れ日道の辞に依るなり、日道の云はく施開廃の三共に迹は捨てらるべし、(文)、然れば則・日仙日道は是れ日代怨讎の大将・石河・日妙等は先駆なり、況復日道佐渡に入り日代の御自筆本尊三十六鋪を焼却す、其の煙日道の面貌に当つて癩人と成り大石寺に還帰し之れを将理すと雖も●ること能はず河内杉山に隠居し此に於て入滅す、大石寺衆檀竜口等の蓮祖難所参詣に代へて杉山に登り日道の墓所を礼拝し以て師恩報謝に擬し二百年に胤いて追思足らず日有上人亦癩人と成る、巳上両師の事跡東光寺僧大輔阿闍梨・重須本門寺本寿坊に来至し日辰に告ること此くの如し、時に永禄元(戊)午年十一月五日なり、日道日代を摧破するの事既に炳焉なり、況日心上人常に二三子并に予に告けて云く大石寺は是れ日代の怨仇なりと貴公大石に報ぜざる、還つて敵人と倶に一所に在り一統の題目を唱ふ可きや。 一、貴公・第二箇条の問を答へらるゝの辞に云はく今謂はく珍しからざる興上の御筆跡を以て日代を祖師と為す者なり、(巳上)、 今重ねて問ふて云はく日任・日盛・日琳・日顕・日眼・日出・日典・日心・日建・各祖師とせらるるや、余享禄三年(太歳庚寅)八月廿日冨士・下方賀志摩・蓮心日興の所に至て止宿すること三日、其の後久く日興に堕つて西山の御法流并に祖師の迷不迷を聴聞す、其の教化に云はく日任上人は誤り無し日盛に誤り有るなり、永禄二年正月廿六日・重須の日出・日辰に語つて言はく先年西山と当寺と論皷を撃ちし時・当寺の日国書状を以て西山日代の謗罪を難ず、西山の返報に云はく日代に於ては本迹一致の謗罪なし日代嫡弟日任児たりし時・身延山の帰伏僧・本迹一致の説を作り畢ぬ(已上日出之直説)、日盛上人は西山の第三祖なり、日興余に告げて云く日盛に二の誤謬有り一には造仏・二には読誦なり、 初め造仏の差謬とは小泉に観音堂有り堂内に弥陀の木像有り、此の像を買得し宍原の観音の木像を買ひ取り弥陀の印契を改めて釈迦と成し、観音の印相を易へて多宝と作す、仰いで西山本堂の二尊と為るなり、次に読誦の差謬とは万野五郎左衛門の仏事の時・初めて観音品乃至勧発品を読む、是れより已来一部読誦を勤修す、然るに日盛後に二尊を山洞に入れ一部読誦を停廃す、復次に日興・予に語りて云はく日琳上人は西山第四祖也、日琳・日顕・日眼・日出・日典已上五代錯謬なしと雖も日盛を以て祖師と為る故に与同罪なり。与同罪を以ての故に日盛・日琳・日顕・日眼・日出・日典已上六代を断破せられ畢ぬ、当住日心上人・日盛断破の状を書き已りて重須に贈られ畢ぬ西山大如坊等・檀那鳥波の蓮種等・各同心共轍なり、然るに蓮興坊・本因坊等・清惣左衛門尉の一党・中野一門等・六代を断破す可からざるの義・堅固に之れを立てらるゝ際、汝(日辰)清党を教化して六代を断破せしむ可し(已上日興の直説)、 余・後日此の旨を以て本興本因に告げて云はく願くば六代を断破せらる可し云云本因余に告けて云はく一往は日盛迷妄・再往は日盛二仏を山窟に入れ一部読誦を禁遏し本尊御影の宝前に於て改悔を作す、一代にして誤り一代にして改む故に過ち有る可からず、然るを初めて六代断破を説くの人を号して万養坊日春と曰ふ、次に蓮心坊日興・佐渡国妙宣寺今現在之れを説く、是の故に三人各現罪を蒙り日春舌口中に爛れて死し、日興鼻根缺壊して一根を具せず・妙宣寺盲目と作つて両曜を瞻ず華報既に爾なり後生の生所准例して知る可し、爾時余云はく六代の読断一寺の中に於て決定せず・況檀越の交に於てをや、黒白混糅し淫渭を釀ず云云、永禄二年春王正月十八日同廿六日・重須日出上人予に告げて云はく当寺日浄・日国・日耀代々申し伝へて云はく西山日琳・当時正御影の宝前に参詣して先師日盛の謗罪を改悔す、永禄二年春・余西山の本因坊に問ふて云はく西山小泉何の時通用し何の時通ぜざるや、本因坊答へて云はく昔時通用なり然るに万養坊日春・西山を出て草庵を富士方下に結び彼に於て逝去す、西山の僧衆葬送を作す故に小泉久遠寺衆の云はく六代断破の大将日春は是れ大謗罪なり謗罪の骸骨を葬ふ是れ与同罪なり与同罪の僧衆と倶に題目を唱へ難し故に云はく通用す可からずとして義絶を作すなり(已上本因坊の直接)、永禄二年正月廿八二・日出上人・重須霊宝の笈の中より一札を取り余に示して云はく此れ日心の直筆なり宜しく之れを披見すべし、余之れを披閲する則西山日心上人の直筆なり、其の状の略に云はく当時造仏の事は日盛と申す人・開山上人の御法度に背かるゝ条・列祖に非ず乃至日心(判)、重須御寺の御返報余之れを写して将来す、同年二月三日・余西山日建上人の所に参着し年始の礼を迷ぶ、同八日、西山の代僧本因坊・大善坊、粟原口右京阿闍日叶・重須新造の坊に来聘し甫年の返礼を作す、時に余日心直筆の旨を以て三人に告ぐ云云、日春日興存命の時・日心の義を以て日盛等六の五輪を取て地上に下げ置き祖師堂の中に安置せざるなり、若し日心の一礼を以て正と為る則は日盛を以て列祖と為さず、若し五輪の出入を以て本と為す則は六代断破の義昭然たり貴公六代断破を以て正と為らるゝや、亦六代不断を以て正と為らるゝや。 一貴公・第三箇条の問を答へらるゝの辞に云はく、今謂く本因乃至者なり(已上)、今重ねて問ふ御答の如くんば釈迦日蓮同躰異名なり、此れに就て久遠本因の名字証得の法躰是れ妙法蓮華経なり能証の人是れ名字童形の釈迦なり、天台云はく此の妙法蓮華経は本地甚深の奥藏なり、妙楽云はく初本証に由る故能く之れを証す迹中説くと雖も功を推すに在ること有り故に本地と云ふと(文)、御書に云はく久遠名字の正法は本種子・名字童形の位の釈迦は迹と(文)、今何ぞ此等の文義を乖戻し釈迦日蓮を成せらる是に●つて爾か云ふや、抑上行再誕日蓮とは本因妙の時節に約するや、将本果妙の時節に約するや、復今日本門八品の意に約する復釈迦上行一躰の異名なりや亦釈迦上行是れ父子なりや、若し父子たらば本因本果の中何の時節なりや、或る時は釈迦上行是れ父子或る時は釈迦上行是師弟なりや、師弟に約し両義何等の意趣ぞや、復次に名称を一偏に定むる事は浅智の覃ぶ所に非ずと(已上)、若し爾らば深智は一偏釈迦日蓮の別名を定む可きか、復次に幸に御筆跡に任す可き者なり(已上)、経文釈義・両巻血脈書等は是一文と雖も所見各別の故に請ふ初に経文釈義・蓮祖興上・先賢の簡編を引き、次に貴公の註解を引証せらるれば現当の疑雲退散せしむ可き者か。 一貴公・第四箇条の問を答へらるるの辞に云はく、今謂はく木像造立の人堕獄と云ふ事には非ず、但造立の時分之れ有る可きなり(已上)、然れば則ち仏像造立の法門一箇条の御詰りなり、何となれば西山日心余に告げて云はく造仏読誦堕獄なり、大隈長昌に告げて云はく造仏読誦堕獄なり、弘治丙辰七月八日・余と日誉・日優・宗純・寂円・幸次等と倶に西山に詣る時・日心・余・日誉等に告げて云はく諸人当寺に来至し造仏読誦の法門を難ず是れ我が難義なり、永禄丁未正月八日・重須・中将と日辰・日住・日玉と倶に上野妙蓮寺に趣く、昿野中路に二義を論ず、中将云はく造仏読誦堕獄なり(中将是重須日出の弟子)、顕応坊日教初め大石寺に止住し後重須に帰人す此の人盛に造仏読誦謗罪の相を記す云云、西山・重須・小泉一統の義に云はく造仏読誦堕獄なり、次に証拠を論ぜば二あり一には日心断破日盛の書状・二には六代の五輪を以て祖師堂内を出だす是れなり、貴公の云はく木像造立の人堕獄と云ふ事に非ず然らば則ち貴公の御法門・冨士山一統の義に違背し亦日心の法門に違背す故に冨士門徒に非ず亦西山門徒に非るなり、復次に貴公の会通に云はく但造立の時分之れ有る可きなり(已上)、 今問ふ仏滅度後、後五百歳の中に若し蓮祖の門弟として釈尊等を造立せば時節に先だつ故に堕獄す可きや、法花経に云はく若人仏の為の故に諸の形像を建立す是くの如き諸人等皆已に仏道を成ず、天台云はく衆善の小行を会して広大の一乗に帰す妙楽云はく今経は小善尚仏因と為る○今経は無始の微善を収めて咸く菩提に趣かしめんと欲す、若し已に発心せば亳善有るに随つて縁因に非ること莫し、蓮祖云はく一切の女人・釈迦仏を造り奉れば現在に日々月々の大小の難を攘ひ後生には必す成仏す可しと云ふ文なり、釈尊・天台・妙楽・蓮祖一同に脱言すらく造仏の人必ず成仏すべし、然れば重須の諸師日心上人並に造仏堕獄と称す是れ金口の経巻を滅裂し祖師の評判を殄夷す、余・今経釈御書を引て已に造仏の証と為す貴公末法当時不造の一流を建立せらるれば早速経釈を引て証す可し、若し文証無くば皆是邪謂なり、天台云はく文証無き者は悉是邪謂なり彼の外道に同ずと(文)、熟ら此の釈に於て御思惟を加へらる可きなり。 一貴公・第五箇条の問を答へらるゝの辞に云はく、今謂はく一部読誦の人堕獄と称するに非ず但時機を鑒るに正意不正意有る可きなり(已上)、然れば則ち一部読誦の法門一箇条御詰りなり、何となれば貴公の法門・日心并に諸師の説に違逆する故なり、今問ふ若し仏滅度後・々五百歳中・法花一部を読誦するの人・不正意と称して堕獄と名づく可けんや。 一貴公・第六箇条の問を答へらゝの辞に云はく、今謂はく法花一部の依用は蓮興の勝劣を立るが如く簡要を用ゆるなり(已上)、重ねて問ふ云く分別品に云はく若し是の経を聞いて毀●せずして随喜の心を起さん当に知るべし已に為れ深信解の相なり、何況や之れを読誦し受持せん者をや、陀羅尼品に云はく法花の名を受持するを擁護せん者の福量る可からず、何況や経文を具足して受持するを擁護せんとの意は一念随喜の外に受持・読・誦・解説・書写を許すなり、但貴公の御流は一念随喜の外、受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行を許さざるや。 一貴公・第七箇条の問を答へらるゝの辞に云はく、今謂はく百四十八通書(乃)至依用の事なり、今重ねて問て云く、報恩抄・観心抄・骨目抄・唱法花題目抄等、皆当分随他意に属して御会通を加へらるゝや、貴公亦云はく元より本因妙抄(乃)至依用の事なり(已上)、他流当流倶に之れを依用する勿論の義なり、興上本因妙抄百六箇両巻の血脈書を以て日尊に付属すと云ふ事西山重須大石諍ひ無し、然るに冨山諸師の会通と当流の会釈と其の義参差す故に今略して貴公に対して試に之れを問ふ、御書に云はく下種今此三界の主の本迹・久遠元始の天上天下唯我独尊日蓮是れなり、久遠は本・今日は迹なり、三世帯住日蓮は名字の利生なり(文)、久遠元始とは本因名字即を指すや将た本果の在世滅後に約するや、今此三界とは迹門の文天上天下とは爾前経の文なり、然るに下種の時・手指を揚げて十方を遊歩するや、三世とは過去現在未来に各三世有り、何の三世を指すや、何の三世と雖も仏の在世に約するや仏滅後に約するや、名字の利生とは多種の名字有り何の名字即を指すや。 後序(法門箇条の後序長篇なる則は省覧の妨●と成る故に別紙を以て之ら酬ふ) 貴公の後序答話なりと雖も亦楽欲を述べらる故に聊か之れに報ひんと欲す、其の文に云はく仰ぎ願くば(之)至無上の覚門に入らる可き者か、日辰云はく、経に云はく一たび人身を失へば万劫復らず(文)、是れを以て●刻も窺はざれば続ぐに蛍雪を以てす・歩を千里に運ぶことは偏に求法の為なり何ぞ名聞利養を●つて一生空く過さんや。去る永禄己未三月六日・重須日出上人・東陽坊本行坊を以て重須本門寺を日辰に付属す可きの由・三請有りと雖も遂に領納を作さず、諸檀那・両日温座・住山を請はるゝと雖も甘心を致さず、又西山日建上人内義を以て請待有りと雖も亦許諾せず、何となれば一息続かざる則は穹壤判る、盍ぞ塵埃に耽湎せんことを欣慕して法身を治●せざらんや、又正見等に住するの文は釈氏沙門の通法の故に該挙に能はざるか、又云く庶幾(乃)至談合申し上げ度候(已上)、 貴公と余と密談せしむと雖も傍人高声為らば頗る喧嘩に似たるか、又云く起請を以て口論無き等此くの如き御心諸比類無き故に理非懸隔に及ぶ迄書状の往来庶幾せしむる所なり、又云はく仏法正意御筆跡等の如く風説に云はく彼の所立は仏法に非るなり何となれば釈迦の尊像を堂内に退けて法華一部の読誦を亡す誰かと仏法と号す可けんや(已上)、然りと雖も御所立は興師の化儀を以て先と為し蓮祖の御書を以て次と為し釈尊の金言を以て後と為すか、諸人の所見既に此くの如し若し然らずんば経釈・御書・興上御筆・御依用の次第記し賜る可き者なり、又云はく然る処・今風説に云はく(乃)至之れを棄捨せんが為なり(已上)、 人間一旦の約諾は季札に本つ可し後世の出難は宜く四聖に倣ふべし、語に云く信をば義に近けよ言復す可きなり、柳子云はく凡そ王者の徳のれを行ふ何若んと云ふに在り、設ひ未だ其の当を得ず十たび之れを易ふと雖も病ましと為さず要其の当に於て易へしむ可らざるなり、舎利弗云はく是れ我等が咎なり五百羅漢云はく過を悔ひて自ら責むと五百塵点劫の間だ若し三途に沈淪せば仰て歎くと雖も伏して悔ゆと雖も猶臍を噬むに及ばざる故に、今世の恥辱を以て後世の羞恥に比校する則は芥を以て山に比する未だ喩と為すに足らず、然るに疑問を貴公に進する事は法門の同異を研覈するが為なり、縦ひ釐正すと雖も猶恐くは愚人の真偽を雑糅せんことを・況考訂なけんをや、抑も投河捨仏の両義頗る仏家希有の法門なり、料り知ぬ自余の法門皆此の比類ならんことを、故に発向を遅延せしむる処に、有る人・三世日蓮の法門を説いて洛陽独歩の相を示す、庸人小童・西海侵逼の文を引いて造仏制止の説を為す、其の他文義の会通尨茸囂然・耳目を驚動す云云、所以に諸人知らざる者を詭つて物知りの顔色を作し無道心にして外道心を現ずと云ふと雖も軽毀悪声猶舟車に満つといふ、聊か寸心の如く経釈に宣説せしむ可し、貴公幸に西山に登り凌雲を撫し至●を探る願くば当日垂声し真濫を考正し余が訛戻を導け、又云はく兼ねて又乃至之れ有る可し、享禄(之)至永禄の間に再三冨山を処撫すと雖も未だ誰人か是智者なることを聞かず、於戯三五年の間だ智者湧出し美誉数車に余り穏々轟々たる惜いかな知らずして仕へず徒に白駒隙を過ぐ、願くは貴公の御許状を賜ひ其の智者の傍に侍り応さに益を請ふべし、又云はく此の砌若し浅智の誤等之れ有りと雖も興門の疵に有る可からず者か(已上)、 貴公既に智道兼備なり何の失誤有らん、縦ひ万一之れ有りと雖も聊か興師の●謬と成る可からず、但諸門一同に若し経釈御書に違反せられば過無き日興還つて罪を負はせらる可きか、又云はく重ねて乞ふ乃至如何が分別し難く候(已上)、若しは百問百答若しは三五往来・綴輯の中に軽疑釈然たらば誰か帰仰せざらんや、一旦の見返しは亜聖の顔氏尚之れを免れず補処の弥勒暫く廃忘有り況や其の巳下矧や凡夫をや、計略難字のこと計略を以て謀書を作る是世俗利欲の諍訟なり難字を記して病ましむるは是才士の所作なり、余是疽疸数は升斗を過べる忘失の野人なり、貴公富岳の智者に髣髴たり那ぞ難字有らんや、余童丱より釈典を聞き剰へ剃髪染衣の身たり陳事を胸襟に挿みて猥りに経釈を註解せば寧ろ得べけんや将く能はざらんや。 永禄六年二月廿三日 日辰 上行院日春公床下に参る。(内義本の故に点を加へ畢ぬ) 二答 尊公(日辰)●刻の猶予なく日代上人迷乱と押し掠めらるゝに就て玉札重ねて到来し則拝閲せしめ畢ぬ、第一難問の語に云はく古人の筆記各口伝に拠るものを以て書記せらるとの長篇、然りと雖も辞多き品少し故に其の枢●を取て答話を加ふ、此の疑難に就て大綱網目の二筋之れ有り、初め大綱に亦三有りて挙げらる、一には日向国定善寺日叡の筆記、二には大石寺の記文、三には日尊の実録なり、二に網目是れ又古人の物語を以て本拠と致すか、大綱の義を以て之れを答ふる則は網目の味自然に兼備たる可きなり、 疑端の最初日叡筆記のこと乃至定善寺日叡自筆之れ有り(已上)、 今重ねて謂はく建武元年(甲)戌正月七日・大石寺日仙の坊に於て日代・日仙等の諍論何事ぞや、其の意趣を探るに彼の迹門方便一品・読不読の相論を筆記するなり、然る処、日代は方便一品之れを読む可し日仙は一向に迹門方便品は読む可からず云云、是れ又日弁天目の義同篇なり、而るに日叡其の座に在つて之れを聴聞す当日の法門は日仙申し勝たるるなりと人の許さヾる会通を加へる事第一の曲事なり、何となれば蓮祖の御代・日弁天目・方便品読む可からずと申し上げらる処に蓮祖既に彼の天目の義を破失す、然るに日仙又日弁天目等の義に同じて邪論を企てらるゝ事・聖意の御内証を知らず、叡公傍に居て僻耳を以て邪を正に聴く事二箇の謬なり、又時分学功浅ふして深智奥義を知らず忽に末代存知の為に雇はれざる批判を加へること三箇条の誤なり加様の僻人の筆記邪筆を以て先と為し古人の謬語を以て次と為す、興上の御筆跡一通二通ならず八通の御遺状を以て後と為し叡記の愚筆を崇敬せらるる事興門の嘲哢・諸人皆以て悲哀を懐く者なり、縦ひ愚人恒沙の如く相集り叡記を帰仰すと雖も聖意恐れ有り、殊更一代反覆の智見の上人に於ては御遠慮を加へられ聊か叙用に及ぶ可からざる者なり、若し叡記を以て末代の本拠と致し興上八通の御真筆を徒設と作さば仏教を信じて無益なる可きなり、何となれば諸経中王たる法華経を達磨・円覚経の修多羅の数は月を標す指の如しと云ふを教外別伝不立文字と云ひ仏経の正意を用ひざる祖師の以心伝心・達磨の義を以て仏説を誹謗して爾か云つて法華経を捨つ可けんや、又真言宗祖師弘法の秘藏宝鑰に十住心を立つ一に異生●羊住心・凡夫悪人なり、乃至八に如実一道住心・法花宗なり、乃至十秘密荘厳心・真言宗と書記す、或は又弘法、弘仁十四年正月より法花経第三戯論と書き下す弘法の筆跡を以て第三戯論の法花経と成す可けんや、復浄土宗祖師・曇鸞難行易行を立て道綽聖道浄土を立て善導正雑二行を立て法然選択集を作り法華を誹謗す、剰へ捨閇閣抛の四字を置き散々に法花を毀謗す爾りと云つて法花経を捨閇閣抛に為す可けんや、諸宗法花を誹謗するの事繁多の故に且く之れを闕如す、尊意の如くんば達磨・弘法・曇鸞・道綽・善導・法然の筆記に寄せ懸け釈尊の金言に違背し経王を依用無き者か、今以て此くの如し巍々明々たる興上の御真筆を棄捨し迷々闇々たる僻人の叡筆を依用して尊公・今紙面に書記する事哀れなるかな痛しきかな、叡筆の類を駟馬の車に積み満つること無量無辺なりと雖も興上御筆跡の一字に如かず・算数譬喩を以て比校猶以て及ばざる者なり、此の義に依て冨士の麓に於て叡記を依用する仁一人も之れなし、何況や爰許に於て叡筆を崇重せらるゝ事・鳴呼聾駭の至極なり。 二には大石寺記文の事・乃至日妙坊主に成り給ふなり(已上)、今重ねて謂はく余大石寺の記文を観るに是れ又日代と日仙と方便一品・捨不捨・読不読の義を載す更に別事無し、然るに邪路の諸人・日代の非分の本拠を出さんとして日代云はく施迹の分には捨つ可からず云云、是れ各専一の証拠と為し僧俗倶に日代の法門謂り無き由・申し合ふ、其の時石河殿諸芸に達したる人・又学匠なりしが我れさらば日道上人へ参詣して承らん、已に彼の御事は聖人の御法門をば残る所よもあらじと思食すなり、さて此の由を問ひ申す時・日道上人仰せに云はく施開廃の三共に迹は捨てらる可しとの給ふを聴聞して之れを感ず、彼の仁・重須に帰りて云はく面々皆学文が未練の故に法門に迷ひたまふ、所詮此の後は下の坊へ参て修学し給へと申す云云、此の記文則日代の邪言を出さんが為に怨仇の諸人に於ての結句・日代の正義を出す者なり、能く此くの如き記文御披見有る可し何を以て日代を迷乱に属す可けんや疑難の如くんば日道・施開廃の三共に迹は捨てらるる可しと会通を成せらるゝ事是随一今思惟有らんや、并に石河等横計批判を加へらるゝ事・明鏡の本拠帰仰せられば豈聖意の御内証を失ふ物怪非ずや、所詮施開廃の相論前々の如く依用有る可き者なり。 三には日尊実録の事、録に云はく日尊上人仰せに云はく(乃)至御抄に曽て之れを読む可からずと見へたり云云(已上)、今重ねて謂はく余此の録を観るに是れ又紙面の如く河合上野重須の三処に相分かれて方便一品の読不読・捨不捨の諍論なり、尊公此の三の中・方便品を読む可しと成せらる内心か、将た又日仙の云はく此の事諸人の義皆非なり読んで捨つるも直に捨つるも同事なり、爾らば一円に方便品読むまじきなり捨ると云ひながら読み加る事非なりと成せらるゝ日仙の一義に応同せらるゝか日仙の法立邪義たるに依て其の後日代へ日仙の改悔の書状を進敵せる其の本文東光寺に在り、尊公今疑難の中に押取し施迹の分捨つ可からずと此れは是れ日代の正義なり之れを評し畢ぬ云云、此の時日代に応じ乍ら叡記に寄せらるる則は日仙一同の様に聞ゆる者なり、次に代公重須を出で乃至今の大窪是れなり(已上)、今重ねて謂はく本六新六人の由来形の如く知る所なり、然るに興師上足の弟子・同く南条・石河・由比・高橋并に数子の檀越悉く以て日代の御法燈を了知す、然りと雖も世事の遺恨強盛にして殊更俗縁を以て事を建武正月の問答に寄せて檀越押掠して日代を擯出し奉り畢ぬ、邪敵は多勢・正衆は無勢・理非の勝負に及ばず離山を成さるゝ者なり、然る処・日代迷はずして諸師の昏昧なり、諸師昏昧の証拠既に興上八十歳の時節より兼て重宝二箱等盗み取られ畢ぬ是れ一箇の謬なり、次に建武元年正月七日の問答是れ又邪義を以て押伏せらるる事二箇の誤なり、此くの如く之れ有るに依て西山に移り寺を立つ、既に建武元(甲)戌の年より永禄五(壬)午年の春迄・二百二十九年の星霜を経・義絶紛れなき者なり誰か之れを諍はんや、元より僻人の族ら古今に於て数多は大石・重須・小泉・一列不通せしむ、日花・日仙・日乗・日澄・日道・日妙・日豪・面々寺を立つ、然りと雖も法王運を啓き嘉会至る時は各々悔過を以て自ら道理を責め正義正見の極位に任せ冨山一統の義分なり、往日の諍論之れ無く爭てか冨門をして中絶せしめんや、 尊公再三・歩を冨門に運び興門の和睦を乞請ふと雖も時機未熟の故に本意を遂げず之れを弃捨せしむ、而るに今通用を難ぜらる事聾耄の至りか、何となれば興上を尊敬せらるる御内証・尊公歓喜の笑を含み踊躍の行を藏し既に一字御指南の睦みは現身に小志の程を以て尤も之れを賞ぜらる可き処・還つて不快の横難に預る事・偏に師敵対の謗罪を愁ふる者なり、次に日尊実録の其の中一に河合云云・一に上野重須云云・一に浄蓮日仙云云、此の三説中に日善・日代・日助・方便品読不読(乃)至内証所破の義之れ有る可からざるの説・不審千万の故に別に、紙面に記して勝劣門流の智者に示す智者云はく是本迹一致の意なり、亦人をして一致門徒の哲人に呈せしむ哲人の云はく是本迹一致の義なり云云、然る則は尊意□他宗一致の教化を信じ他門勝劣の指南を受け宗旨を建立せらるゝや耳目を驚動し畢ぬ、其の上人一致勝劣の真俗の所見各別・経文釈義御書等を一致と観・勝劣と見る娑羅の四見の如し、一致と見なすと云つて経釈御抄一致なる可きや、或は又一致勝劣の人々・二箇の御相承等を慥に謀書と称せられる則は他門の口を以て謀書と成す可きか、尊意の如くんば他門の口言の会通を以て正意とせらるゝ者なり上意の御内証を知らず底下より押し計らるゝ事歎か敷き次第なり、次に日尊生を奥州に受け(乃)至存知なり(已上)、今重ねて謂はく建武元年の問答・其の座に在る諸人之れを聴くと雖も聞き様に邪正・之れ有り、況復建武より暦応の六七年に至る以後伝説にして日代会釈の自筆之れ無し、然りと雖も一往実録の則迹而本・即本而迹の文を以て本迹一致とせらるゝは日尊先づ本迹一致の修行なり、何となれば実録の中に仰せに云はく(法印日尊)乃至今方便品寿量首題を唱る事三法妙の行躰なり之れに依て三法妙の図之れ有り大聖人自筆を以て之れを図す云云、(已上)、 尊仰せに云はく三妙法と云ふ事は玄二巻に南岳大師の御釈を引きたまへり、乃至此の心法妙所具の三法妙とは方便品寿量品首題是れなり、方便品は心法所具の衆生法妙を説いて開示悟入す等云云、十如実相等云云、寿量品は心法所具の仏法妙を説いて我実成仏等と云云、然我実成仏等と云云、題目は心法妙の直躰なり此れを迹妙・本妙・観心妙と名付たり、此くの如き深意を知らず所破の為に読むと之れを云ふ可からず所破となる事何様の教祖と能く●得意可し云云、難じて云はく破迹立本とは方便品は迹門十四品の内なり故に迹門所破と為る云ふ可きなり如何、答ふ反詰して云はく(乃)至其の故は本門十四品の内にある故なる如何、予云はく(尊仰)方便品は迹門の内と雖も迹に即する本なり、薬王普門等本門の内にありと雖も本に即して迹なり、一往前十四品後十四品を分け給ふ事爾なりと云へども再往迹本互に通ずる事之れ有り、此れ即本有具徳の迹妙・本妙・観心妙なり、此の迹本観心は衆生・仏法・心法に交合して天台釈したまへり、乃至因みに尋ね申して云はく像法弘通の事相の行は四要法を取りたまへり、之れに依て記の一に云はく方便安楽寿量普門並に是本迹の根源・斯経の枢●等し釈したまへり、何ぞ今の弘通必しも方便寿量の両品を取り給ふや、答へて云はく乃至今大聖は忝くも上行菩薩の再誕として一経の行業を取り給ふに、又迹門十四品の内に方便品一品を取り本門十四品の内寿量の一品を取りたまへり、此の両品又事を面と説く、此れも又迹本各一品づゝ取りたまへども此れをば本門行者の所得と申すなり、迹門に事なきに非ず、本門に理無きに非ず、唯行業の面を立る時・本門は事を面として行じ、迹門は理を面として行ずと云ふ計りなり、乃至此れ等の深意は大聖の本意なり云云、能く●実録の始終を御思惟有る可き者なり、若し又即迹而本・即本而迹の文を以て難ぜらる時、日尊の師敵対と為るなり、毛を吹いて疵求む豈之れに如かざらんや、 次に古今口伝の難に至りては是れ又日耀等の口言に寄せらるゝ事甚以て謂れ無き者なり、何となれば日代御自筆の迷証を出さず末弟の口伝に依用せらるゝ事、終窮究竟の邪説にして信受するに足らざる者なり、次に日是の書状拝見の事・元より彼の諸人日代の怨仇なり怨仇たるに依て年久く義絶なり、一度日代怨敵の謬り祖師にして中絶の処末弟の払露涕泣たりと雖も和親す可からずと云ふ義・経釈に之れ有りや、其の上他宗の真俗・過を悔て自宗に帰伏すと雖も過去の謬錯の例証を引いて現在正信の群徒に応同せらるる尤か、然ば則ち。 私に云く日辰上人御筆を以て写し畢ぬ、但正本朽ち旧りたるに依て文字分明ならず難問未だ終らず答文も闕失す、謂ふ学者に当に是の答文書き加え給ふべし。 時に維れ寛永八年(辛)未霜月廿三日武州江戸法詔寺了玄。 編者曰く本山蔵了玄(本山十八代日精上人所化名)写本を以て校訂を加へ延べ書きとす、本書尾缺にて此の上幾何の問答ありしや知るべからず、京都上行院日春は後の西山本門寺主彼の天正九年の大事件の主将なり、両雄の論爭何れに止まりしや知るべからずと雖も三七対見記に長文を引ける辰師の問条は本抄の中に無きを以つて辰春問答は此の上の猶数回の往復を見たるや明なり、但し更に此等の記録を見ず、又本抄の転写本も他山に見ず、唯僅に初問の一二丁が要山末に写本の存在を見たるのみ、此の貴重の論文跡を失せる惜みても余りある事かな。 |