富士宗学要集第六巻

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砂村問答

(漢字ニテ書クヲ俗用ニテ之ヲ書写シ奉ル)
 爰に江戸砂村に篠原常八と云ふ者有り家を号して糠屋と名つく、此の仁は本来は権家にあり候処、一致の信心に相成り、其の後八品門流に随身致して佐渡の国に渡り御難所参詣に罷り出で、会津若松の城下に長々一致八品等の法門を談じ候処八品の義は次第に薄く相成り専ら一致を教導いたし候。
然る処江戸目黒の住人永瀬清十郎、彼の奥会若松の城下へ罷り越し、一致等の日蓮宗を破して曰はく今宗門の流れは六流に相成り其六流と申すは一に身延山久遠寺、是れは一致門流の大本山、二に勝劣門流とは叉五流に相分る、先つ冨士山大石寺は本迹勝劣の根本なり、三に越後の本成寺開山は日朗上人、開基日陣上人なり、四に一品二半本山京都妙満寺開基日什上人、五に八品は本山京都本能寺、開山は日隆上人なり、六に日真門流は本山京都本隆寺開山は常不軽院日真大和尚なり以上、是れを日蓮法花宗の六流と云ふなり、されば大聖人の上足の御弟子六老僧以上六人なり、宗流は六流に相分かる不思議の事に候ひき、問ふて云はく此の六流の立て方如何、答へて云はく宗祖大聖人の御流は本迹勝劣唯寿量々々品の肝心南無妙法蓮華経なり、然りと雖も是れは教相の次第上行所伝の法門なり、観心文底の義は法花一部は唯迹にして本門と申すは寿量品の文底本因妙の御題目是れなり、此れ則ち冨士山大石寺直授相伝の正法なり。
 越後本成寺は以前は京都本国寺と両寺一寺を以って本山と定む、歴代は祖師、朗師、印師と立つるなり、然る処本国寺には日伝上人と申す僧留守居たり、越後本成寺には日陣上人留守居たり、此の両人は日静上人の弟子なり、然る処日静上人越後より京都本国寺へ上京の折節途中にて遷化之れ有り、其の後本国寺留守居日伝・本成寺日陣両人本迹一致と申す義と本迹勝劣と申す義と事発り候、されば日陣の義は一部修行本迹勝劣唯寿量々々品の肝心の南無妙法蓮華経と立て候因果の二法には本因妙と立て候なり、次に本国寺日伝の義には本迹一致なり、されば此の一致に種々之れ有り或は教相の一致も有り、教相を捨て題目一致と申す義も有り、或は教相勝劣・観心一致と申す義もあり、以前六老僧の内日興上人を除いて余の五人の義は教相の一致なり、追々に一致と申す法門は勝劣より責め立られ如何様にも立て方六ヶ敷相成り、下総野呂檀林の能化日講が作の啓蒙等より事起り一応勝劣再往一致と立て候、其の後此の啓蒙世に弘まり残らず一往勝劣再往一致と申す事・一致流の宗旨の様に相成り候、然る処近来日導と申す僧、御書綱要と申す書を述作致し京都本国寺日運と申す僧之れを刪略す、此の書の義は巳前より一往復勝劣再往一致と立て候得共、何れが一往か何れが再往か其の義理相分らず、此の綱要には其実義を示す事あり、其の実義とは法花経の教相には本迹勝劣顕然なり是れを一往の勝劣とは云ふなり、再往一致と申すは観心の時は本迹一致と(云云)、当に知るべし経相の辺は二而門にして相待妙なり、観心の辺は不二門にして絶待妙なりと、若し然らば教相勝劣・観心一致と申すが一往勝劣・再往一致の実義なりと申すなり、次に又彼の本成寺日陣上人より本迹勝劣を相募り京都本国寺の代り一寺を建立す是れを本禅寺と云ふ是れも本山なり、越後本成寺と本禅寺と此の両寺を以て本山と定む(巳上)、次に八品宗は日隆上人は京都妙顕寺の僧なり、此の時妙顕寺に月明と云ふ住職あり、此の僧本迹一致を募り日隆は勝劣を立て互に本迹の論相発る、然る処月明は住職の事・日隆は所化の事日隆上人妙顕寺を捨て勝劣を立つる同時に日忠と申す僧あり是れも日隆と同意に宗流を立るなり、扨此の両人の義は本迹は勝劣なり、就中本門十四品の内にも本門八品の内に勝劣を立て寿量品はいみじきといへども在世本果の脱益なり、神力品は滅後末法の本因妙なりと立て、寿量品を在世本果の迹と立て、神力品を末法下種の本門と立て、此の神力品の内にも四句の要法を以て下種の題目とは立て候、故に上行所伝の南無妙法蓮華経と申すなり、此の義は彼の日隆日忠等の所流なり、扨本山は上に云ふが如く京都本能寺摂州尼ケ崎本興寺此の両寺を以て日隆本山とす、亦彼の日忠の本山は京都妙蓮寺を以て本山とす(巳上) 八品の開山是れなり。
次に一品二半日什門流の所立(日什は明徳三年壬申二月廿八日宗祖滅後百十余年に生る)是れも本勝迹劣なり、法花経の本門の正宗一品二半を以て正と為す(一品は寿量、二半は涌出品後半と分別品前半品、以上一品二半と云ふ、本山は京都寺町妙満寺同所北山寂光寺)、此の一品二半は広開近顕遠と申して寿量品なり、此の寿量品の三妙合論の南無妙法蓮華経とも唱へ、従浅至深の南無妙法蓮華経とも唱へ候、上の八品も一部を読誦するなり、此の日什門流も一部修行なり、去れば此の義に云はく本因妙と云ふも非なりとは本因あらば本果あり本果あらば本国土あり故に我が什門流は三妙合論の南無妙法蓮華経なりと云ふなり。
 又彼の日真門流も一部修行本勝迹劣・唯寿量・々々品の肝心南無妙法蓮華経と立つるなり、上に挙ぐる越後本成寺日陣門流の立方に相似て候故に、彼の陣門の本山本禅寺と能く通用するなり、然りと雖も陣流は本因妙なり真流は本果妙なり巳上六流の宗流是くの如し、されば彼の五流の宗々様々に立るといへども習ひそこなひと申すなり、余の門流は一往台当両家に寄る処ありといへども残らず不相伝の宗流なり、所詮日蓮法花宗の御義は相伝なくしては知れ難き事なり、故に権宗の者其の法花経を見乍ら法花経に移らず、今日蓮法花宗に謂はゆる五流の者共祖判を見て当家に至らず是れ皆不相伝の故なり。
 問ふて云はく相伝なくしては当家の大事知れ難き証拠如何、答へて云はく内廿七(三十二丁ウ)顕仏未来記に法花経は相伝なくしては知れ難きことを示し給ふ、其の文に曰はく伝授の人無ければ猶木石の如し(文)、一代大意抄(内十、三十二丁)云く此の経は相伝に非れば知れ難し(文)、亦同(廿二丁)、此の法華経は謂を知らずして習ひ読む者は但爾前経の利益なり(文巳上)、録外十五三大秘法抄に云はく此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥に教主大覚世尊より口決相承せしなり(文巳上)、亦外十六御付属状に云はく日蓮一期の弘法は白蓮の阿闍梨日興に之れを付属す本門弘通の大導師たる可きなり、国主此の法を立てらるれば冨士山に本門寺の戒壇を建立せらる可きなり、時を待つ可きのみ事の戒法と謂ふは是れなり、就中我門弟等此の状を守る可きなり弘安五年(壬)午九月日、日蓮(在御判)、血脈次第日蓮日興と(文巳上)、是くの如く赫々明々として世間流布の御書に顕然たり、当に知るべし冨士門の外は相伝なき宗流なれば木石の如く法華経の謂れを知らず爾前経の如し、主師親の大聖人に背き奉る故に朝敵なり不幸なり不知恩なりされば冨士門の大主に通ぜざれば仏法の謀反なり、故に御書に云はく譬へば承平の将門は関東八ヵ国を討ち平げ、天慶の純友は予州を討ち止めて民の王へ通ぜざりしかば朝敵と成りて終に亡ぼされぬ、是れ等は五逆にも過ぎたる謀反の者なり、今日本国の仏法も亦是くの如し色は替れども謀反なり法花経は大主なり(文巳上)、此の祖判を以て今宗内を見るに彼の五流は日蓮宗の謀反人なり、大主とするは冨士山興門なりとしたゝかに一致八品或いは一品二半時の在家出家を集めて折伏いたし候へば、彼の族を一同に蜂起して清十郎を打ち殺し候とも苦しからざる事に申すもの一同して種々相談いたし候、然れども三ヵ年以前冨士山大石寺日量上人此の地へ御下向の砌り御折伏之れ有る節僧俗とも閉口致せし例も之れ有り候得ば、麁怱に出で難しと評義区々の所に前に記す彼の江戸砂村の住人篠原常八と申す者、幸ひ会津表に罷り在り本迹一致こそ宗祖の正意なり勝劣冨士門は御正意に非ずと折伏致し候間此の仁を永瀬清十郎と一と問答させて然る可しと衆議一決し定日を極め早速問答始り候、爰に奥州会津の人気は余国とは異なり国々浪人充満・理不尽を申し懸け町人百姓の迷惑する事一方ならず、殺害する事犬が猫を噛むよりも安く誠に恐しき国なり然と●も不惜身命の金言なればと両人相心得、清十郎申すには大勢参り候も詮なし、常八某し其の外聞人双方五人宛以上十二人より余人立ち入る事無用なりと約定いたし而る後席に出づ。
 先つ清十郎常八へ問ひ込み候法門は先つ其の方は首に頭陀を懸け手に珠数を持ちて千ケ寺詣でと申して修行者の躰なり此の義如何と問ふ。
 常八云はく頭陀の行と申して法花経の行者なりと答ふ。
清十郎云はく法花経の行者は頭陀を懸け托鉢等の修行を致さヾるが法華経の行者にて候、其の訳は宝塔品に曰はく是名持戒行頭陀者と説いて、法華経を持ち只南無妙法蓮華経と唱ふるが法華経の行者なり、頭陀の行は小乗経の修行にして謂ゆる律宗等の行者なり、是れをば宗祖律国賊と破し給ふ然れば汝は国賊なり、予不肖なりと●も日蓮宗の大主冨士山の門徒なりと云々、汝此の義閉口か如何、又曰はく一致と申す宗流は如何様に立て候と問しかば。
常八云はく六万九千三百八十四字・一々文々是真仏・真仏説法利衆生と有り此の文の如くならば豈本迹は一致にあらずや。
清十郎が云はく汝此の釈は天台の三大部に有りや無きや如何と問ふ。
常八云はく三大部の有無は知らずといへども御書に見へたり。
清十郎云はく御書にありといへども此の文を以て汝一致と云はヾ此文の出所を尋ぬ可し、当に知るべし此文は三大部には之れ無し、若し然らば宗祖は何の文を講釈し給ふや汝等此の文の出所も知らずして会通する故に切り文と申して大僻見となるなり、汝閉口ならば此の文の出所を諭す可し、此の文は天台大師略法華経の文なり、去れば開会の上に立て候御文言なり、然れば一致と申すは大僻見なり、教相をはヾ迹問は一々文々皆是れ爾前に相似たるなり、本門は一々文々唯独と申して天子と云ふ心なり、爾前迹門に似る可くもなき大王の本仏なり、何ぞ一致なるべきか、開会の上に一致と云はヾ一代聖教皆一致成るべし、録内十三一代大意に云はく此の経に二妙あり釈に云はく此経唯論二妙と一に相待妙、二に絶待妙、相待妙の意は前の四時一代の聖教を法華経に対して爾前を嫌ひて当分と云ひ法華を跨節と云ふ、絶待妙の意は一代聖教即法華経なりと開会す、又法華経に二義あり一には所開二には能開、開示悟入の文或は皆巳成仏道等の文なり、一部八巻二十八品・六万九千三百八十四字・一々の字の下に皆妙の文字有る可し是れ能開の妙なり(巳上)、当に知るべし相待妙とは是れ教相の辺なり絶対妙といふは観心の辺なり、当分跨節は勝劣なり所開とは弟子の如し能開とは師匠の如し、所開は臣なり能開は主なり、今此の能開の妙は絶対にして所開の爾前迹門は弟子なり臣下なり、本門能開の大主の胎内に納り候なり、譬へば日本国は絶待妙能開の大主なり、国郡は所開にして臣下なり、日本の二字に皆納まり候なり、其の如く爾前迹門は本門に納まり候是れを開会と云ふなり、されば一々国郡の人には残らず天子と共に六根は一同なれども其の位高下一ならず、一々文々是真仏なれども本門の大主には肩を並ぶ可からず、若し一致と云はヾ朝敵なり不知恩の者と申すべし(云々)。
 常八閉口ならば次に示す可し天台の釈に約教約部と申す事あり此の義は心得候や、是れ則天台の三大部の内に教の説と部の説、此の二義に迷ふ事有り教に約せば爾前の円も法華経の円も一同なり、部に約せば爾前の円と法花経の円とは一ならず、廿八品一々文々妙なれども爰に約せば迹門の部と本門の部と一ならず、妙楽云はく法華経を以て二経と為す御書にも法華経に二経有りと遊ばす、然らば本門の部と迹門の部と一なる事なし、譬へば一万石の大名と百万石の大名と名は同じ大名なれども其の国は一ならざるが如し、迹門は妙なれども麁妙と申して妙の字付く事なし麁と計り申すなり本門を妙と云ふなり、されば迹門は妙法には非ざるなり、故に開目抄上に迹門一向爾前に同ずと有り、又呵責謗法滅罪抄に妙法蓮華経の五字は四十余年に是を秘し給ふのみにあらず、迹門十四品に猶是れを押へさせ給ふを寿量品にして本因本果の蓮華の二字を説き顕し給ふと(文巳上)、是くの如く妙法の五字は唯本門寿量の妙法にして迹門の妙法にあらざるなり、譬へば三種の神器は天子の重宝にして民の所持ならざるが如しと(云云)。常八閉口す。
 又常八が云はく上に申す法門勝劣は利有りといへども冨士門流にて身延無間と申す法門如何候べし、若し身延無間ならば祖師は無間の罪人か、其の故は外の十三本寺参詣抄に云はく我門弟等身延の寺を以て本寺とすべし、我常に此山に住して知恩報恩の人を守護すべし、(乃至)我か末世の門徒等此の経を弘通せん事知恩報恩を心得べし、本寺日蓮が墓へは詣らずして面々に心のはたをさして弘通せん者枝葉の根を忘れ流の源に背かん、(乃至)根源の本寺を忘れん門徒等は何事も徒を事成るべし、逆路伽耶陀の者にして皆悪道に堕つべき故なりと(文巳上)、又或る書に云はく外廿五(四十丁)日蓮が弟子檀那等は此山を本として参る可し、是れ則ち霊山の契りなり(乃至)九箇年の間た心安く法華経を読誦し奉る山なれば墓を身延山に定させ給ひ、未来際迄も心は身延山に住む可く候と文、是くの如く祖判顕然にして延山は一宗の本山なり、其の上祖師大菩薩は延山に未来際迄も心を住し給ふとは仰せらるゝに其の山が無間ならば祖師は無間の山に未来際迄住し給ふか、されば仏には妄語なしと申して疑ひ有るべからず、是くの如く最期の御一言を残し給ふ金言なり、故に言ふ事後に合へばこそ人も信ずれと内十四乙御前抄に遊ばし候、此の義如何と(云云)。
 清十郎答へて云はく延山無間の義は私の言葉を以て云はヾ三世の諸仏の恐あり、其の故は霊山にも過ぎたると大聖人遊ばし候御山なり、去り乍ら例せば念仏無間の如し、大聖人の云はく内三十二に念仏は無間地獄に堕つるぞと申す経文分明なるをば知らずして皆人日蓮が口より出でたりと思へり、文は睫の如しと申すは是れなり、虚空の遠きと睫の近きをば人見る事なしと遊ばされ候、是れを以て愚案候へ延山無間と申すは宗祖の未来記に分明なり、謂ゆる立正安国論に云はく夫二離璧を合せ五緯玉を連ね三宝世に在し百王未た窮らざるに此の世早く衰へ其の法何ぞ廃れたる、是れ何なる禍に依り是れ何かなる誤に由るや、倩ら々微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨て相去り聖人所を辞して還りたまはず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る、言はずんば有る可からず恐れずんば有る可からず(文巳上)汝此の文は肝に銘ずるか正に背き悪に帰する時善神は国を捨て相去り聖人は所を辞して還らずとあり、此の善神とは何人ぞや謂ゆる梵天帝釈日月四天等の諸天善神是れなり、(乃至)日本国守護の天照八幡等なり、又聖人は所を辞して還らずとは宗祖大聖人の御事なり、此の安国論には正に背き悪に帰すとは善神は一同に国を捨て相去り聖人は所を辞して還りたまはずとも遊ばされて候、故に大聖人去り給ふ延山なる故に魔来り鬼来り災起り難起る、されば大聖人去り給ふ時は七難必ず起ると有り、其の七難の内火難あり御書内十七佐渡抄に云はく日蓮は此の関東の御一門の棟●なり日月なり亀鏡なり眼目なり、日蓮去る時は七難必す起る可し、去年九月十二日御勘気を蒙りし時、大音声を放つて呼ばりし事是れ成るべし(巳上)、又三十四王舎城書に云はく大火の事は仁王経の中の第三は火難、法華経の七難の中には第一に火難あり、夫れ虚空をば劔にて切る事なし水をば火焼く事なし、例せば月氏に王舎城と申すは在家九億万家なり、七度迄大火起て焼亡し万民歎きて逃亡せんとせしに、大王歎かせ給ふ事限りなし、其の時賢人有りて云はく七難火災と申す事は聖人の去り王の福尽きたる時起り候なり、○されば大果報の人をば大火焼かざるなり(文巳上)、此の両書に聖人賢人福人をば火焼く事なしと有り、当に知るべし宗祖大聖人こそ聖人賢人福人たる大果報の御方とは申すべき、是くの如き大聖人の住所たる大本山焼け給ふ事偏に宗師に背き候現証なり、正に背き悪に帰する時は去り給ふとのたまふ其の正に背くとは本迹勝劣の正意に背き悪に帰すとは本迹一致の悪法なり、此の義如何と詰めしかば。
 常八閉口す。
 又常八云はく右安国論並に王舎城書佐渡書等の三通是れを引いて延山無間の義道理有りと●も一方は道理とすべし一方は叶ふ可からず、其の訳は上引御書の内、身延山に未来際迄も心を住す可しと遊ばし候、若し此の義妄語とならば祖書は残らず妄語ならんや、此の義如何と云ふ。
 清十郎云はく汝理の通ぜざるか心の及ばざるか、上に挙ぐる所の安国論の文、百王未た窮らざるに此の世早く衰へ其の法何ぞ廃れたるや是れ何の禍に依り是れ何の誤に由るや(文)、此の文は八幡大菩薩、人皇百王守護の御誓なり、然るに百王の内八十一代安徳・八十二後鳥羽院等の代は天子の位を捨て民に世を取られ給ふ事を責め給ふ御文言なり、されば八幡大菩薩は正直の頭に宿り給ふと宣べたまふ、然るに不正直にして百王守護を捨て給ふ事、正直と言ふ可きか不正直と言ふ可きか此の義如何と汝能く聞け、此の八幡大菩薩は其の本地を正さば釈尊なり釈尊は日蓮大聖人なり、爰を以て鑒みるに八幡宮と釈尊と大聖人とは内証御一躰にして一つの妙法蓮華経の御本尊たるべし、爾れば是れを以て推するに妄語ある事なし、然る処に百王守護を捨て給ふは国主の謗法を憎み給ひて天え登り給ふと遊ばして謗法なき法花経の行者を守護し給ふと遊ばす、其の御書は録内十六(六十一丁)四条金吾抄に云はく百王の頂にやどらんと誓ひ給ひしかども、人王八十一代安徳天皇八十二代隠岐の法皇三代阿波四代佐渡五代東一条等の五人の国王の頂にはすみ給はず●曲の頂なる故なり、頼朝と義時とは臣下なれども其の頭には宿り給ふ、○正直の法につき給ふ故に釈迦仏猶是れをまほり給ふ、況や垂迹の八幡大菩薩争か是れを守り給はざるべき(文巳上)明文赫々たり、大聖人の延山を捨て給ふも代々の謗法たる歴代を憎み給ひて捨て給ふ事分明成るべし、されば神仏一躰として謗法の住所謗法の人をば守護の誓を破り捨て給ふ事は第一に安国論是れなり、其の外内外六十五巻の御書等は皆此の御心にして謗法の住所謗法の者を捨て給ふ事顕然成るべし、汝身延無間の事治定か、大聖人捨て給ふひて魔鬼の栖と成りし住所は無間の住所なり、されば鬼を拝せば身を亡し魔を拝せば地獄に入らんと申す事は御書判に顕然たり、其の上謗法の山は地獄の山なり地獄に堕つる根本は謗法こそ無間地獄の大苦を受くると法華経には説き給ひて候恐る可し恐る可し(云云)。

 右問答は二ヶ条相記し候、都合七ヶ条の問答に候得共事長ければ爰に略す。
 而して後常八種々難問いたし候へども夫れ々相答へ此の日は問答終り候、次の日候問答致し度き由再三仲人を以て申し候へども問答仕らず候、一同に一致は負け勝劣は勝ち候と風聞仕り候、爾して清十郎も会津を退身し二本松辺へ罷越し此所に清十郎取立の講中三十四五軒之れ有り。
 常八事は清十郎を相尋ね佐渡越後迄も遊行いたし又候奥州ゑ罷り越し候所、清十郎二本松に逗留の由承り追ひ駈け参り二本松にて両人再び問答を相始め候、其の節の約諾には此の度の問答永く仕らず何れにても負け候者は降参致し宗流を改む可しと約定致し。

常八清十郎ゑ問ふて云はく本迹の勝劣は一往再往ともに之れ有りや。
清十郎答へて云はく本迹勝劣は一往再往ともに之れ有るなり。
常八云はく其の文如何。
清十郎答へて云はく内廿八治病抄に一往再往其の勝劣有り、一往は教相の勝劣是れは三時弘経の次第なり、文に曰はく(廿七丁)法華経に又二経有り謂ゆる迹門と本門となり、本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違有り、爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺もありぬべし謂ゆる八教有り、爾前の円と迹門の円と相似たり、爾前の仏と迹門の仏とは劣応・勝応・報身・法身・異なれども始成の辺は同じぞかし、今本門と迹門とは教主既に久始のかわりめ百歳の翁と十歳の幼子の如し、弟子又水火なり土の前後云ふばかりなし、尚本迹を混合すれば水火を弁へざる者なり、爾るを仏は分明に説き分け給へども仏の御入滅より今に二千余年が間三国並に一閻浮提の内分明に分けたる人なし、只漢土の天台・日本の伝教此の二人計りこそ粗分け給ひて候へども、本門と迹門の大事に円戒未た分明ならず、詮ずる所は天台と伝教とは内に鑒み給ふといへども、一には未た時来らず二には機なし三には譲られ給はざる故なり、今末法に入りて地涌出現して弘通したまふべき事なり(文巳上)、此の文は一往の勝劣にして教相の所談なり、又再往勝劣を云はヾ上の治病抄の次下の文に一念三千の観法に二つあり、一には理・二には事なり、天台伝教等の御時は理なり今の時は事なり、観念既に勝くるゝ故に大難亦色増さる、彼れは迹門の一念三千此れは本門の一念三千なり天地。に異なり(文巳上)是れは観心の勝劣にして再往の勝劣なり汝如何と語る。
常八閉口す。
又常八云はく此の観心の妙法の内に勝劣有りや無しや。
答へて云はく有り、天台曰はく妙とは妙は不可思議と名く法とは十界十如権実の法なり、当に知るべし此の法の一字に権実の勝劣ありと(云云)。
又常八云はく妙法の内に勝劣の有る無き如何。
答へて曰はく妙法の二字に勝劣有り妙は勝れ法は劣るなり。
常八云はく其の証如何。
答へて云はく御義口伝に云はく権教は酒、法華経は醒めたり、本迹に相対する時は迹門は酒なり始覚の故なり本門は醒めたり本覚の故なり、又本迹二門は酒なり南無妙法蓮華経は醒めたり、酒と醒と相離れざるなり酒は無明なり醒は法性なり法は酒なり妙は醒たり妙法と唱ふれば無明法性躰一なり(文巳上)、此の御書は四重の浅深の上に又一重の勝劣有り謂ゆる五重の勝劣なり、云はく上の文に酒は権にして劣り醒は実にして勝くる、其の如く迹門は権なり本門は実なり、又本迹二門は権にして劣、妙法蓮華経は本にして勝くる、又妙は醒にして勝くれ法は酒にして劣る、是れ妙法不二たりといへども権実勝劣なり、通論(三十八丁ウ)本迹只是権実(文)、権実とは本迹なり天台玄義に云はく七(三十八丁)又迹の故に権と称す(文)権実は法に約し本迹は位に約し身に約する事なり、若し然らば本迹の勝劣は一往再往再々応迄立て候事知る可しと(云云)。
 常八云はく上の文に妙法を唱ふれば無明法性躰一なりと(云云)、是れ又一致に結帰したまふなり如何。
 答へて云はく一躰の内勝劣有る事を知る可し是れは三歳の幼子も知る事なり、天地一躰たりといへども天は勝れ地は劣るべし、礼記に云はく君臣一躰と有りといへども孝経には父子は君臣の義なりと有り是れ等は一躰の内に勝劣なり、されば人の一身の内に勝劣あり、天台の云はく身は所従なり神は主君なり、若し然らば六根の内にも五根は臣なり心は主君なり、是れ皆一躰の内の勝劣なり、されば汝が門下は只一致の言に迷ひやゝもすれば本迹を混合して一致と申し誤る恐る可き事なり、●讃法華経還死法華心と伝教大師の遺誡なり恐る可し恐るべしと(云云)。
 常八此の言を聞いて一致流を捨て法に勝劣有る事を知り当家に帰入せん事を願ひ、常八云はく上の重々の一大事の御法門を聴聞すと●も、唯法の一方を知りて未た御本尊の儀式並に法衣等の事を弁せず此の事如何候べし。先つ予が門流の本尊式を申さば御答へ下さる可く候、内十一唱法華題目抄(四十三丁)云はく問ふて曰はく法華経を信ぜん人は本尊並に行儀常の所行は如何候べき、答へて云はく第一に本尊は法華経八巻一品或は云はく題目を書いて本尊と之れを定む可し、法師品並に神力品に見へたり又堪えたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造りても法華経の左右に之を立て奉る可し、又堪えたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をも造り書き奉る可し(文巳上)此の義如何造仏を立て本尊と為る事を示し給ふ、夫れ冨士門流には造仏堕獄と申して釈迦多宝の像を建つる事を戒むる如何。
 清十郎云はく予此の文を愚案するに先つ三義あり、一には佐渡以前の御書ならば未顕真実と捨つ可し、其の故は内の十九三沢抄(二十三丁)に云はく法門の事は佐渡の国へ流され候ひし以前の法門は但仏の爾前の経とをぼしめせと(文巳上)、然れば佐渡前の御書に至つて本尊の儀式を定る事有る可からざるなり是れ一つ、二には入文の御文を鑒みるに造仏を建つる事を停し給ふ御書なり、其の故は十方の諸仏普賢菩薩等も書ても造ても造立と有り、汝知る可し十方の諸仏を造立して建る事能ふべからず、例せば内の十一(十七丁ウ)法華題目抄に南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱へて後に隙あらば、時々弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみのやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にては有べきと遊ばされしは、是れは念仏を申せとの事にはあらず念仏をば堅く戒め給ふ御文躰なり、其の如く諸仏菩薩の像を造れとは造る可からずと申す事なり是二つ、又三つには一幅の大漫陀羅たる十界本有の御本尊様こそ輪円具足の御本尊と申して十界具足して欠けざる所の大御本尊なり、此の内にこそ釈迦多宝十方の諸仏菩薩豈に洩る可きや、故に上の御文の内に書いても造りてもと有り、然れども造る事能はず書く事は自在成るべし、法華経の文字は盲目の人是れを見ず、肉眼は文字と見る仏は生身の釈迦仏と見奉ると御書判に見え候、されば御本尊の内に書き顕はし候文字こそ生身の釈迦多宝にして三十二相を備へたる御仏なり、故に御書には内十八(十四丁)御経の文字は六万九千三百八十四字一々の文字は金色の仏なりと有り、其上仏の尊像を造る事は堅きの中の堅きなりと、其の事も御書には三十二相の内三十一相を造り梵音声の一相をば造る可からず書く可からずと有り、如何として末代には三十一相も造る事能はず、梵音声は又造る可からず書く可からずと遊ばされ候、是れを以て鑒みるに一幅の御本尊は生身の仏にして造仏は死仏成る可し、此の義如何と詰めしかば。
 常八閉口す。
 拝して云く誠に一を聞いて万を知るとは口伝と御書に見へたり、始めに御法門の内・法に勝劣の有る事を知りしかば愚案にて候・本尊問答抄に釈迦多宝の造仏を建て本尊とする事は法華宗の御本尊にはあらず、法花経の行者の御本尊には法華経一部或は題目を以て末代の凡夫の本尊とは定め給ふ、又結文には大漫陀羅の御本尊を御本尊として他事を捨よと遊ばし候へば、予め一致の念慮を去るといへども、帰国の上私の同行にも申し示し度き故に本尊問答抄の大意を先生より伺い度く存し候、本尊問答抄に曰はく問ふて云はく末代悪世の凡夫は何者を以て本尊と定む可きや、答へて曰はく法華経の題目を以て本尊とすべきなりと、此の題目を以つて本尊とすべしと遊ばし候は一幅の大漫陀羅の事か如何。
 清十郎答へて云はく勿論なり、此の妙法蓮華経の御本尊の内には此の中に既に如来の全身ましますと法師品の経文を引き給ふ。若し然らば造仏は建てずとも仏の尊像をはしますなり、故に次下に天台の釈を引き給ひて法華経一部を安置す、又未だ必す須く形像舎利並に余の経典を安くべからず等の文を引き給ひて造仏を停止し給ふ事明なり、又次下に天台大師の弥陀を本尊に立て給ふ事を真言宗の師、不空三蔵の釈迦多宝の像を本尊と慕ひ給ふ事を破し給ひて、法華経の行者の正意の本尊には非ざる由を示したまふ、其の文に曰はく此れは法華経の教主を本尊と為す法華経の行者の正意には非ず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり(文巳上)、当に知るべし此の御文言巳に法華経の教主に釈迦仏を以つて本尊と為る事は法花経の行者の正意には非ずと、上に挙くる所の本尊とは大漫陀羅の御本尊を指すなり、是れは釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり、されば余門流には法花経の行者の正意に非る本尊を正意と為て法華経の行者の正意たる本尊を破するなり、是れ等は残らず魔事なり、当門流計り法華経の行者の正意たる御本尊を守り奉るに成る可し、爰に知りぬ法花経をば仏立宗と申して釈迦多宝十方の諸仏の宗旨なるが故に仏を本尊とせず、仏の主師親たる南無妙法蓮華経の大漫陀羅たる御本尊を本尊と為るなり、是れは仏立宗なるが故なり、されば余門流は仏立宗に非ず彼れ等が僻見して立つる所の宗なるべし、僻見とは外道の事なり外道宗とも言ふ可きか。
問ふて云はく法華経を仏立宗と云ふ事如何。
答へて云はく内二十二成仏抄に曰はく法華経第一と説き給ふ是れ釈迦仏の立て給ふ所の御語なり、此の故に法花を仏立宗と云ふ(文巳上)。
問ふて云はく御書の中に釈迦仏を開眼し給ふ事あり此の義如何。
答へて云はく大聖人釈迦仏を開眼し給ふ事は佐渡巳前の事にして是れ皆方便なるべし、法門に於ても佐前佐後は天地の如し、其の分けは佐渡以前は天台宗等を讃め給ひて天台宗を再び造立のやうに遊ばしたり、佐渡後に至りては台宗を去年の暦の如しと破す、又念仏真言禅等の内に合して大謗法なりと遊ばす、其の訳は時機不相応なるが故なり、此れを以て鑒みるに釈迦仏を以て本尊とする事は御正意に非ず。
常八又云はく京都本国寺立像の釈迦を本尊にし給ふ事有り此の義如何。
答へて曰はく此の仏は巳前大聖人伊豆え御流罪の時に地頭より得給ふ所の仏なり、此の義に付ていわれあり大聖人御最期の御時御遺言に予が墓の側に立て置くべしと遊ばされ候、此の義を鑒みるに実には本尊に非ず大聖人奴婢の為に連れ給ふか。
問ふて云はく釈迦を大聖人の奴婢とは如何。
答へて云はく是れ私の義に非ず宗祖の金言を守る計りなり、其の文に云はく教行証の御書に曰はく日蓮が弟子等は臆病にては叶ふ可からず彼れの々の経々と法華経と勝劣浅深成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず、何に況や其の巳下等覚の菩薩をや、まして権宗の者共をや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんど下しても其の咎あらんやと心得て宗論す可しと(文巳上)、当に知るべし此の御書に爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならずと遊す此の文如何、物数ならずんば此の仏の軽重如何、夫れ仏の勝劣は凡智を以て知り難し脇士を以て之れを知る、観心本尊抄に曰はく小乗の釈迦は迦葉阿難を以つて脇士と為す権大乗並に涅槃経法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢を以つて脇士と為す、是れ則ち爾前迹門の仏の勝劣なり、然るに彼の立像仏は一躰の仏なり小乗の釈迦に及ばず物の数ならざる事論に及ぶ可からず、本門の釈尊とは脇士を以て之れを知る其の事言語に堪え難し、観心本尊抄に曰はく其の本尊の躰たらく本時の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏、釈尊の脇士に上行等の四菩薩・文殊弥勒等の四菩薩の●属は末座に居し迹化地方大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如し(文巳上)、又外十七(三十七丁)曰はく此の四大菩薩仏前に湧出す文殊弥勒仏前を去る千里、舎利弗日蓮等座を万里に避け此れ等の大聖に肩を並べず其の外の諸菩薩等は面を向けず(文巳上)、此の両文本門久成の釈迦・久成の御弟子上行等の四菩薩を以つて脇士とするなり文殊弥勒は爾前迹門には釈迦と肩を並べたる脇士なれども上行等の大菩薩出現し給ふ時、釈迦の御側を去り給ふ事一千里、小乗の時は迦葉阿難は釈尊の脇士たり、然れども此の本門の時は釈尊の御側をたつて一万里去り給ふ、されば天子の紫宸殿にまします時月卿雲閣連り給ふ時、卑賤の者の出たるやうにこそ爾前迹門の仏菩薩見へさせ給ふこそはんべれ、此れ等の事を以て鑒みるに彼本国寺にて第一の什宝とする尊像一躰の立像仏は小乗の釈尊にも及ばず、月卿雲閣と山賤と相対するに異なる可からず、是れを以て見るに祖師大聖人全く本尊とし給ふに非ず奴婢の為なる事正説成るべし、其の上教相にては上行菩薩に候得共観心文底の説は釈尊に主師親を備へたる御仏にて久遠の本仏にてぞ御在す、故に下山抄に曰はく教主釈尊よりも大事なる行者の日蓮と遊ばす、御義口伝に曰はく今日蓮等の類ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は三世の諸仏の父母にして其祖転輪聖王なり(文巳上)、当に知るべし此の文は三世の諸仏の父母にて御在す事なり、故に釈尊よりも大事なる御仏ならば釈尊に勝れ御在す事理然たり、然るに何ぞ立像一躰仏を本尊に用ゆ可きや、彼の本国寺に於ては是れを本尊とす本国寺と越後陣流の本山本禅寺と之れを争ふ、本禅寺にも立像の釈迦仏ありと云ふ本国寺にもありと云ふ、何が正仏か偽仏か計り難し、去れば冨士門にては御正意たる大漫陀羅を御本尊とあがめ奉り像仏を立てざる事此くの如し、本尊問答抄の結文に他事を捨て此の御本尊の御前にて一向後世を祈らせ給ひ候へと遊ばす。
 常八云はく誠に大聖人の御正意たる御本尊を得意する事肝に銘じて有り難き御事なり、併しながら御書に彼の立像仏を日朗上人へゆづり給ふ事有り此の義如何。
 答へて云はく大石寺の記に大聖人御墓の側の立て置けと遊ばし候を日朗上人盗みたる由之れ有り、此の義正説たる道理を云はヾ斯る拙き仏を第二の御弟子日朗上人へゆづり給ふ事謂れ無し、若し亦強て彼の門流にて譲られ給ふと云はヾ朗師は扨も●墓なき方にて候べし、爾前迹門の釈尊すら物の数ならず、(乃至)民とも下せ鬼畜なんどゝ下しても其の咎なしと権迹の仏すら是くの如し、如何に況や小乗にも及ばざる仏をや哀はれ●情なき門流成るべし。
 常八又問ふて云はく日蓮宗六流に相分れ候内五流の能化は色衣所化は黒衣等と定りて余門流一同色衣黒衣なり、冨士門流計りは薄墨の法衣に白袈裟を懸け給ふ事如何。
 清十郎答へて云はく私に会通を加へば本文を●すが如しと遊ばされて大聖人すら此くの如き御意之れ有り況や以下の者をや、されば外典に云はく先王の法服に非すれば敢て服せず、先王の法言に非れば敢て言はず先王の徳行に非れば敢て行はず、是の故に法に非れば言はず道に非れば行はず(文)、予が門下は先王日蓮大聖人の服に非れば服せずと申す事にして古く宗祖聖人召し給ふ服より外用ゆること無しと(云云)。
常八云はく若し然れば先王大聖人の召し給ふ有りの侭の服如何。
答へて云はく内外六十五巻の内宗祖の法衣の色を示し給ふ御書唯一通有り、其の御書とは録外十五巻四菩薩造立抄に有り文に云はく薄墨衣同色の袈裟是れなり、此の御書に薄墨の衣とあり袈裟は同色なり、故に薄墨の衣、同色の袈裟を着すれば我か宗流なり。
常八云はく白袈裟の事は如何。
答へて云はく冨士大石寺に最初仏と申して一躰三寸の大聖人在す、是れは中老僧の内日法上人の御細工にして宗祖御在世に御造立し給ふ御尊像なり、此の御尊像今に御本山に安置し奉る、此の尊像は御衣薄墨にして御袈裟は白き五条の御袈裟の故に、先王大聖人の御服成るが故に、白袈裟と薄墨と両様を用るなりと答へしかば。
 常八落涙三拝して又云はく余門流には法華経一部を読誦し候に冨士門には方便寿量の二品のみにて余品を読誦せず此の義如何。
 清十郎答へて云はく御書に法華経一部修行することを戒しめて只方便寿量の二品を読むべしと定め給ふ、是れ宗祖の金言なり其の御書に云はく内十八(二十九丁)月水抄に云はく二十八品の中に勝れて目出度きは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ、又別に書き出しても遊ばし候べく候、余の廿六品は身に陰の随ひ玉に財の備はるが如く、寿量品と方便品とを読誦候得ば自然に余品は読み候はねども備はり候なり(文巳上)、又内十六(六十八丁)四信五品抄に云はく直専持此経と云ふは一経に亘るに非ず専ら題目を持て余文を雑へず尚一経の読誦を許さず(文巳上)、汝此の御書は如何、是くの如く一経の読誦を許し給はず、唯方便寿量の二品を末法の要品とは定め給ふなり、当に知るべし法華経の修行に三義あり広略要の三なり、一部八巻二十八品を受持読誦するは広の修行にして是れは天台宗の修行なり、故に天台の時は読誦多聞の時と申して専ら法華経一部を修行する時なり是れをば大聖人は天台過時去年の暦の如しと破し給ふ、若し然らば冨士門を除きて余門流は名は日蓮宗にして行は天台宗なり、又略の修行とは方便寿量の二品を読誦するなり是れを略の修行と云ふ、要の修行とは題目の五字計りを唱へ護持するを云ふなり、此の要の修行たる題目の助行として方便寿量の二品を読誦し、正行の南無妙法蓮華経の修行を専らとして即身成仏する事宗祖大聖人の宗法なり、四信五品抄は広略を判じて要の修行を示し給ひ、法華題目抄は広略要の意を示し給ひて其の内に要の修行たる題目の五字を詮とし給ふ、其の文に云はく一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持するは広なり、方便寿量品等を受持(乃至)護持するは略なり、唯一四句偈(乃至)題目計り唱へ護持するは要なり広略要の中には要が中の要なりと遊し候と申せしかば。
 常八三拝して感涙を拭ひ信心をとる。
 又曰はく日興上人は大聖人の一大事の付法の上人とは承り候得共如何の証拠之れ有りや。                                        答へて云はく釈尊の御弟子に本化六万恒河沙の●属有りといへども上行菩薩を以て第一と定め給ふ、又天台大師に三千人の弟子有りといへども爾も章安大師一人へ一大事を伝へ給ふ、謂ゆる文句玄義の二部は章安大師が天台の法華経の講釈の聞書なり、是れは末代に二部の文と成し給ふ、又止観と申すは天台大師別段に章安一人に示し給ふ一大事の悟りの御文なり、又伝教大師に多くの弟子ありといへども是れ亦義真和尚一人え一大事を伝へ給ふ、謂ゆる迹門の円頓の戒壇を義真修禅大師是れを建て本師伝教大師の本懐をとげ給ふ、其の如く日蓮大聖人の一大事の御法門白蓮阿闍梨日興上人御一人本懐を遂げ給ふ、其の御書とは外十六に曰はく日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之れを付属す本門弘通の大導師たる可きなり、国主此法を立てらるれば冨士山に本門寺の戒壇を建立せらる可きなり、時を待つ可きのみ事の戒法と謂ふは是れなり、中んづく我か門弟等此の状を守る可きなり、弘安五年(壬午)九月日、日蓮(在)御判、血脈次第日蓮日興と(文巳上)、汝知る可し斯くの如き道理文証現証とも●に之れ有り、されば日興上人こそ宗祖の御本意を遂ぐるぞと(云云)。
 常八有り難く三拝し又云はく冨門には冨士山の裾に本山を定め給ふ事如何成る謂れ有り候や。
 答へて云はく多の子細あり此の冨士は日蓮宗の本国土妙の所なり、其の故は冨士山と申すは郡の名なり実名は大日蓮花山と申して大聖人の御名に符合し候、されば大日蓮花山は一人の日蓮が花の山と書き候、一人は唯我一人なり、花は因に候当宗は因を以て宗旨とする此因によつて仏果を得るなり、されば本因本果本国土三つとも具足するなり、故に他受用本門宗要抄に云はく日本無雙の名山冨士山に隠籠せんと欲すと●も檀那の請ひに依つて今此の山に籠居す、我門弟の内に若し本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建てんと欲せば須らく冨士山に築くべし(文巳上)、明に知る可し是くの如き御書現然として冨士山は三大秘法常住の霊場なり。
 常八云はく大日蓮華山と申すは御書に有りや何れの文に出でたるやと疑ふ。
 答へて云はく伝教大師神道深秘抄に駿河国に大日蓮華山有りと遊ばす是れ冨士山の御事なり、又内十三(四十四丁ウ)云はく身延山の躰たらく東西南北の四方の山を誉め給ふ内に冨士山の事を冨士の御山なりと遊し候、されば山に御の字を付け給ふ事御文底に三大秘法を含ませ給ふと見へたり。
 常八瞻に銘じて有り難く聴聞し先つ是れにて当家の御法式粗相分り申し候、此の巳後は一致の邪宗を捨て冨門の奴婢と成り帰国の上正法を弘通すべしと申して帰国す。

 去れば彼の常八帰郷して再び清十郎に逢ふ、常八云はく一切経を始め経々多しといへども法華経に過きたるはなし、此の経の中にも本門・本門の中にも八品・々々の中にも一品二半・此の中にも寿量品・寿量品の中にも文上より文底の一大事を上行菩薩に付属し給ふ、其の如くに大聖人の御弟子六老僧一同に大事の法門を付属し給ふ中にも日興上人御一人成るべし、されば先にも貴君より種々御示しに預るといへども未た奥意を尽し給はずと思へり。
清十郎云はく法華経の極理といつぱ奥州にて貴殿に是を示す其の外に極理有る事なし。 常八云はく左様に候得共何卒今一往是非に極理を御示し下され度くとて再三之れを請ふて止まず。
清十郎云ふ程に再三仕切りに尋らるゝに付いて黙止し難ければ法華経の極理之れを示さん無二の信心を以て聴聞あるべし、夫れ法華経の極理とは南無妙法蓮華経なり此題目の外に法華経の極理之無し御構聞書に曰はく法華経の極理の事、仰に曰はく迹門には二乗成仏、本門には久遠実成是れを極理と云ふなり、但し是れも未た極理にたらず迹門にして極理の文は諸仏智恵甚深無量の文是れなり、(乃至)本門の極理と云ふは如来秘密神通之力の文なり、所詮日蓮が意に曰はく法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、(乃至)題目の外に法華経の極理之れ無きなり(文巳上)、当に知るべし此の御書に五重の極理之れ有り、上の四重の極理は教相の極理なり、第五の極理は観心文底の極理なり、第五の極理は人法躰一の本尊と申す大事の法門有り、此の法門を法華経の文底三大秘法の御本尊とは申し奉るなり、此の大法を信じ持ち奉る者計り即身成仏するなり。
 常八云はく人法躰一の御法門如何。
 清十郎云はく南無妙法蓮華経は日蓮大聖人の御魂なり即御身の当躰なり、其の証拠は外廿二経王書に曰はく日蓮守護する所の御本尊を認め参せ候、(乃至)日蓮が魂を墨に染めながして書て候ぞ信じさせ給へ仏の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし(文巳上)、此の文則ち大聖人の御魂魄・南無妙法蓮華経の御本尊たる事現然たり、御義口伝に云はく本有無作三身とは末法の法華経の行者なり、無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり、寿量品の事の三大事とは是れなり(文巳上)、此の文既に南無妙法蓮華経は大聖人の御宝号なり、若し爾らば大聖人の御身の当躰を以て法華経の極理とは言ふべきか、故に外十六法華経肝心抄に云はく妙法蓮華経の躰のいみじくをはしますとは如何様成る躰にておはしますぞと尋ね出して見れば、我か身性の八葉の白蓮華にて有りける事なり、されば我身の躰性をば妙法蓮華経と申しける事なれば経の名にてはあらずして我が身の躰にて有けりと知りぬれば、我か身軈て法華経にて法華経は我身の躰を呼び顕はし給ひける(文巳上)、此御文既に南無妙法蓮華経の名にては非ず大聖人の躰性にして御身の当躰なり疑ふべきにあらず、当に知るべし余門は我身とあれば我等文凡夫の事に計り取り用るなり、是れは不相伝の故なり、当門の相伝は我身とあらば我等凡夫の事には非ず久遠の本仏日蓮大聖人の御事なりと心得るが第一の相伝成るべし、此の法門能く々々観ず可し。
 常八云はく人法躰一成る事顕然たり、大聖人の御魂即題目・々々即日蓮大聖人の御宝号是れは人法躰一の義なり、大聖人の御躰性を妙法蓮華経と申す事なれば疑ふべきに非ず、人即法・法即人成る事顕然たり然れども独一本門の依文如何。
 答へて云はく御義口伝に曰はく自受用身とは一念三千なり、伝教曰はく一念三千即自受用身とは出尊形仏といへり、出尊形仏とは無作の三身と云ふ事なり(文巳上)、当に知るべし人即法・々即人の依文は此の御書なり独一本門と云ふも人即法と云ふも人法躰一と云ふも唯一の法門なり是れを三大秘法と云ふ。
 問ふて云はく大聖人の御身の当躰以て三大秘法の御本尊たる事其の文如何。
 答へて云はく御義口伝に曰はく建立の御本尊等の事、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定恵の三学・寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於いて面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当躰なりと(文)、寿量品の事の三大秘法の大本尊にて御在すなり、有り難き法門之れに過ぐ可からず是れを法華経の極理とは申し奉るなり、されば余門流には此の如き祖判顕然として三大秘法の御本尊を大聖人の御一身の御事なる義をば知らずして、種々に法門を申せども、あわれ●不相伝なれば知る能はず、文は睫の如しとは是なり伝授の人なければ木石の如し憐む可し憐む可し。
 常八云はく内廿七法重抄に曰はく妙法蓮華経第七に云はく若し復人有りて七宝を以て三千大千世界に満てゝ仏乃至大菩薩●支仏、阿羅漢に供養せん、是の人の所得の功徳は此の法華経(乃至)一四句偈を受持する其の福最多きには如かず(云云)、文句第十に云はく七宝を四聖に奉るは一句を持つには如かず、法は是れ聖の師・能生・能養・能成・能栄・法に過きたるは莫し故に人は軽く法は重きなり、記十に云はく父母の必す四護を以て子を護るが如し今発心は法に由るを生と為し、始終随逐するを養と為し、極果を満たしむるを成と為し、能く法界に応ずるを栄と為す、四不同と●も法を以つて本と為す(文)、経並に天大妙楽の心は一切衆生を供養せんと阿羅漢を供養せんと、(乃至)一切の仏を七宝を三千大千界に尽して盛り満てて供養せんよりは、法華経を一偈或は受持し或は護持せんは勝れたり(云云)と、経に云はく此の法華経(乃至)一四句偈を受持せん其の福最多きに如かず(文)、天台云はく人は軽し法は重し、妙楽の云はく四不同と●も法を以つて本と為す(文)、九界の一切衆生を仏に相対して此れを計るに一切衆生の福は一毛の軽きが如し、仏の福は大山の重きが如し、一切の仏の御福は梵天三珠の衣の軽きが如し、法華経の一字の福の重きは大地の重きが如し、人は軽しと申すは仏を人と申す、重きと申すは法華経なり、夫れ法華経巳前の諸経並に諸論は仏の功徳を讃めて候事・仏の如し、此の法花経は経の功徳をほめたり仏の父母の如し(文巳上)、此の文の如くならば法は重し人は軽し、然るに三大秘法の御本尊は人法躰一なる事如何。
 答へて云はく此の義にをいて第一の法門あり、是れ則文底文上の法門是れ成るべし、在世脱益の応身釈迦仏に対すれば法は重し人は軽し、久遠の人法に対すれば人法は同時に証得して候、其の訳は本因本果同時に証得す本因は法なり本果は成仏にして人なり、御講聞書に云はく蓮華とは本因本果なり、此の本因本果とは一念三千なり、本有の因・本有の果なり今始めたる因果には非ざるなり、五百塵点却の法門とは此事を説れたり、本因の因とは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因とは信心領納の事なり、此の経を持ち奉る時を本因と云ひ、其の本因の侭成仏なりと云ふを本果とは云ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくして本果有る可からず(文巳上)、此の文は人法同時に証得したる事を示したまふ、久遠下種無作三身の成仏は同時に証得する故に人法躰一独一本門と云ふなり、此の事を御義口伝・勘文抄等に久遠無作の成仏・人法同事一躰なる事を示したまふ、其の御文に曰はく久遠とははたらかさず、つくろわず本の儘と云ふ義なり、無作の三身なれば初めてならず是れはたらかざるなり三十二相八十種好を具足せず・つくろはざるなり、本有常住の仏なれば本の儘なり是れを久遠と云ふなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり(文巳上)、内十四勘文抄に曰はく釈迦如来五百塵点却の当初・凡夫にて在せし時・我身は地水火風空なりと知めして即座に開悟と(文巳上)、是れ一大事の御事なり秘す可し(云云)、無二の心を以て得意すべし、上の文に其の本因の儘成仏なりと云ふを本果と云ふなりとあり、此の文は本因は法なり本果は人なり人法躰一の成仏なり、勘文抄即座開悟と遊ばす是れ則人法躰一の義なり、其の故は即座開悟是れ成るべし、妙楽日はく即とは躰不二なるを即と云ふなりと遊す、然りといへども人法躰一・或は人法不二等と申せども人法の勝劣無きに非ず、当家御大事の御書には日蓮は迹・南無妙法蓮華経は本なりと遊ばす、箇様に本有の本迹にも勝劣を立て給ふ、されば大聖人の御魂は勝れ御身は劣る可し謂ゆる魂は主君・身は所従なるが故なり、然れども久遠元初の成仏は人法共に同事に証得する故に人法躰一・独一の本門とは称し奉るなり。
 此の御本尊は釈尊に勝れをはします事・言語に尽し難し、荒々其の文を示す可し、内廿三如説修行抄に曰はく法華経の行者三国に四人有る事を示す、天竺にては釈尊・中華にては天台大師・日本国にては法華経の行者とは伝教大師宗祖大聖人なり、此の四人を三国四師の法華経の行者とは称し奉るなり、されば此の四人の行者にをいても勝劣有り在世の釈尊は純円一実の法華経の行者、天台伝教は法華経迹門の行者、大聖人は法華経本門の行者なり、三国に於て大聖人に肩を並ぶる人なき法華経の行者にてをはします事・御書赫々明々たり、撰時抄に曰はく日蓮は日本第一の法華経の行者成る事敢てうたがいなし、此れを以てすいせよ漢土月氏にも一閻浮提の内にも肩を並ぶる者は有るべからず(文巳上)、内廿七顕仏未来記に曰はく但五天竺並に漢土等に法華経の行者之れ有るか如何、答へて云はく四天下に全く二つの日無く四海の内に豈両主有らんや(文巳上)、又内廿七八幡抄に曰はく天竺国をば月氏国と申すは仏の出現したまふべき名なり、扶桑国をば日本国と申す豈聖人出で給はざらんや、月は西より東へ向へり月支の仏法の東へ移るべき相なり、日は東より西へ入る日本国の仏法の月支へ還るべき瑞相なり、月は光り明ならず在世は但八ヶ年なり、日は光り明にして月に勝れたり、後五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経誹謗の者をば治し給はず在世にはなかりし故に、未法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益是れなり、各我弟子等はげませ給へ(文巳上)、当に知るべし此れ等の御書は当家の明鏡なり、習ひ覚ゆべきは人法躰一の御本尊・大聖人の勝れをはします事を知る可し、日本漢土月氏並に一閻浮提の内に肩を並る者なしと、若し爾らば釈迦仏・天台伝教等・蓮祖に劣る事顕然なり、又次下に四海の内に法花経の行者は宗祖一人と遊ばす、又次下に仏は月氏国の仏・是れは迹仏と示し給ふ、豈聖人出で給はざらんやとは宗祖大聖人の御事なり、されば釈尊は在世八ヶ年の御利益なり、大聖人は末法万年未来迄の御利益広大成る事を示し給ふ、当さに知るべし彼の三師に勝れ給ふ事百千万億なり、大聖人は上一人より下万民・日本国の一切衆生の主師親の三徳にして釈尊にも非ずして主師親の三徳を備へ給ふ御本尊にてはをはしますなり。
 問ふて云はく其の証如何。
 答へて云はく内三十五高橋抄に曰はく日蓮は日本国の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし是れに背かん事よ(巳上)、撰時抄に曰はく日蓮は当帝の父母なり、念仏者禅宗真言宗等の師範なり主君なり(文巳上)、他受用実相抄に曰はくされば釈迦多宝の二仏と云ふも用の仏なり妙法蓮華経こそ本仏にてはをはしまし候へ、経に云はく如来秘密神通之力の文是れなり、如来秘密は躰の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は躰の三身にして本仏、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我等衆生の為には主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに、左にては候はず返つて仏に三徳をかぼらせ奉るは凡夫なり(文巳上)、当に知るべし上に釈迦多宝二仏を云ふも用の仏なり、南無妙法蓮華経こそ本仏にてをはしますと遊ばしたる大漫陀羅の御本尊の中央・南無妙法蓮華経日蓮と書き給ひし人法躰一の御本尊たる日蓮本仏の御事なり、左右の釈迦多宝の脇士は用の迹仏にて候故に大聖人と釈迦多宝とは本迹の勝劣有り、次に又凡夫は本仏・仏は迹仏と遊ばしたる此の本仏は上の妙法蓮華経の本仏大聖人の御事なり、故に釈迦多宝に主師親の三徳を備へ奉るは凡夫なりと遊ばす、是れ等の御書を鑒みて大聖人の三大秘法の御本尊たる事を知るべし、爰を以て下山抄に曰はく教主釈尊よりも大事成る行者の日蓮と遊ばす、三世抄には日蓮は一閻浮提第一の聖人なりと遊ばす、皆此の心にて候穴賢々々秘す可し秘す可し他言すること勿れ。

 常八此の事を聞いて益々信心をはげみ江戸砂村に於て一致を折伏して当流を弘通せしに、彼の外道宗一同に蜂起して常八を疎みしかども、正法終に弘まり巳上十一軒冨士門流の講中出来し此の内に種々の有り難き御利益繁多なれば爰に略す打続き日々正法を弘め候処、一致の門流の曰はく御書判は我等講中は未熟の事なれば一通も分り申さず候へば、今一致宗の学者と足下と問答して何れが勝負を決し候上、其の邪宗を捨て正法に帰す可きと誓ふ。
 常八云はく汝等偽りなく負け候時は当流に帰伏するや否やと云ふ、彼の輩勿論なりと約束して定日を極め候。
 然る処一致門流にては江戸中五十日余・手分を致し冨士門と問答せんと云ふ人を尋ね種々頼み候得共僧俗ともに冨士門に向つて勝負せんと云ふ人なし、爰に漸く一人出来れり其の名を成瀬玄益と云ふ馬鹿者なり、外の人は所詮冨士門流の者と数度問答して一度も勝利を得たる事なく却て宗流の恥辱と為る可しとて出る者なし、此の玄益は巳前も三度冨門の行者に閉口致せし事有りといへども、幼童の角力を取るが如く負けても恥とも思はず謂ゆる馬鹿者なり、故に常八と問答せんとて大言を放つ、砂村一致の者玄益の大言に恐れ冨門に負け候事は知らず此の人こそ宗師の再誕なるべしと尊信し弥よ江戸両国柏屋と申す茶屋にて問答せんと約定す、されば其の時一致門流の曰はく常八の師匠は永瀬清十郎なりと承はる、希くば清十郎と問答に及び度き由再三強いて申込み候故是非無く清十郎罷れ出る。 されば一致方も二三百人打集り勝劣の者同断、雙方聞人六七百人群集して其の日八つ時より問答始る。

 成瀬玄益(此の人偽つて御旗本衆の隠居と号し下に白綾二つ三つ上に浅黄綾十徳を着し金作りの大小を帯ぶ其の形立派也)は上座して南に向き、清十郎は下座にして北に向ふ、雙方世話人五人宛控へ執筆一人宛左右に有り、爾して約定には今日の問答は正法と邪法と勝負を決する事なれば返答之れ無き方は其の宗を捨てて勝つて候家に帰す可し、此の義違ふ可からずと約諾して問答始る。
 先つ清十郎玄益に問ふて曰はく身延山の歴代に於て衆人に念仏を勧めたる人有り此の義如何、宗祖は念仏無間と破し給ふに其の源たる歴代として念仏を勧むる事に候やと責しかば。
 玄益云はく汝虚言を言ふ可からず日は西より出るとも大地は反覆すとも延山に於て念仏を勧めたる事有る可からず、何れの証拠を以つて斯くの如く悪言を●る如何々々と詰り候。
 清十郎態と暫く答へざりしかば証拠なき空言を申し出す杯迚も自他面ともに不審無極に候、玄益は倍々勢に乗じて何の証拠有りや其の証拠を出すべしと大音声に●つたり。
 爰に清十郎暫くして曰はく私に難勢を加ふれば衆人用る事なし、予が門流には証拠なき事は言はず当に知るべし汝が家より出たる書籍の内に之れ有り其の証あらば如何。
 玄益曰はく証拠あれば閉口すべし(云云)。
 清十郎云はく啓蒙二十八(百二十丁)曰はく延山の日乾先年京都本法寺に於て談義興行の時題目抄を引いて、念仏も苦しからず世人念仏を申せば口もたヾれ舌も抜け出つる様に思ふは愚痴の至りなりと破せしを、直聞せし人或る僧に語りし趣き其の僧書留たるを予親見せり、又日乾京都新在家佐藤久兵衛(后ち元生と号す)に対し仏法相続の為なれば若し国主の御意なれば念仏をも申すべしと語られしを、久兵衛聞持して物語ありき(文巳上)、是れ啓蒙に顕然たる所なり汝如何と詰めしかば。
 玄益舌を巻き口を閉ちて鼻の如くして言葉なし、双方一致勝劣の信者も延山謗法たる事を知り大に興をさます。
 清十郎又曰はく宗祖大聖人は譬へ親の首は切らるゝ共念仏は申す可からず、設ひ民を以て天子の位に付けるとも弥陀三部経の内観経には移る可からずと尊示し給ふに、日乾は天魔の入り給ふ人成るべし念仏を勧め候こそ恐ろ敷き事成るべし、夫れと申すも大聖人の去り給ふ山なれば魔鬼出生して僧となり代々延山の歴代とは成り候か、謂ゆる安国論に委きが如く身延謗法は恐ろしき事にて宗師聖人を信仰し奉る事薄くして山門に金剛神と申して二王を信仰する事宗祖大聖人よりも重く致し、其の外野狐杯を文殊菩薩杯と祭り天狗をば妙法神と祭り或は悪蛇を七面神杯と祭り、其の上釈尊の像を造り拝する事すら戒め給ふに、千躰仏と申して仏の像を千躰造り候事杯之れ有り、其の外謗法限りもなし、七面神は火防の神なりと申し候といへども五六年巳前に七面神の堂は焼亡す、亦汝等が宗派にて作りし金山抄と申すに七面明神の利益にて身延は火難なき山杯とて自慢せし書あり、其の金山抄に曰はく七面明神蓮祖に対し滅後に至る迄迦藍を守護して火災を治めんと神約あり、故に滅後四百年に及んで迦藍坊舎一字も焼けず、適ま々災火出でんとすれば火滅し、賊徒山を焼かんとすれば火却賊の方へ向つて自滅する事、古今諸人の知る所なり(文巳上)、此の書は真迢と云ふ僧七面は祖師の御書には之れ無し後人の自作なりと申して延山を破せし事有り、其の返答に金山抄を出し会通して候なり、此の真迢は七面計りに限らず一宗を難じ候なり、今若し彼の真迢存命ならば七面焼亡は如何候べし、其の延山の三堂を焼払ひ或は祖師御墓八角堂を焼き或は客殿経蔵迄焼き払ひ坊中も覚林坊杯も焼く、以上近年の内に四五度焼亡に及び候事扨々恐ろしき事なり、其の上延山参詣人冨士川にて水死する者数多なり、生きながら火に焼け水に溺れ地獄の有さま思ひやるべしと責めしかば。
 暫くして一致宗の世話人其れ一同に申すには貴君の仰せ然るに可しといへども夫れは末代の事なれば是非もなき次第にて候、請ひ願くば御書に於て本迹勝劣の趣きを伺ひ度と云ふ。
 清十郎曰はく然らば宗祖大聖人・日興上人の御離山の後は大謗法地獄の山なる事治定して候か、其の事治定ならば本迹勝劣の現文を出して一致勝劣の勝負を決すべしと云ふ。
 一致方の者一同に先つ念仏無間治定なれば身延無間の治定に候、其の故は日乾念仏を勧め候得ば念仏の山成るべし念仏勧る罪の軽重如何候べしと(云云)。
 清十郎曰はく開目抄に念仏を戒め給ふ事善につけ悪につけ法華経を捨つる地獄の業成るべし、大願を立てんに日本国の位を譲らん、法華経を捨て観経等に付いて後生を期せよ、父母の頚を刎ねん念仏を申さずなんどの種々の大難出来すとも智者に我か義破られずば用ひじとなりと遊ばし候、斯くの如く民を以て天子の位に付くるとも父母の首を刎るとも善悪に付いて念仏を申す可からずと戒め給ふに、勧むるに宗流ならば豈に無間に非ずや、雙方治定して延山無間決定ならば次に本迹の義論ずべし。
内二十四(十五丁)曰はく迹門は表者の位・本門は法皇の位(文巳上)此の義如何。
玄益が曰はく其の御文何れの御書に之れ有りや。
清十郎曰はく汝此の御書を知らざるや如何、若し知らずんば閉口の上治定して問ふ可し。玄益云はく知らざるにはあらざれども其の有無決し難き故に問ふ。

清十郎曰はく汝俗に云ふ負け惜みとは是れなり、弥よ此の御文言知らずんば此の法門も汝負け成る事治定成るべし、如何々々と詰めしかば。
 雙方世話人ども一同の申すやう玄益老には先つ永瀬氏より問ひ返し候本門は法皇の位迹門は表者の位と申す御書を開読いたし其の上にて会通然るべし、左なくては上の約定に相背き候と申せしかば、玄益も元より知らざる御書なるが故に閉口して其は座を退く。
 而る後世話人一同の申すは此の法門勝劣の子細如何なる義にて候や、御教解に預り度と申すに付き。
 清十郎曰はく成瀬氏弥よ負に治定候へば爾る可し、如何々々と云ふ。
 世話人一同に云はく玄益の負には疑ひなし、御問の御書の返答之れ無く候へば負には治定に候と申す、之れに依つて勝劣は勝ち一致は負けと相極まり候。

 清十郎曰はく上に申す所の御書此の座にては申し述べ難く候へども当家の御信者中計りに御得道の為に申し述ぶ可し。此の迹門は表者の位とは臣下なり本門は法皇の位とは主君たるの大王なり是れ主従の勝劣なり、併しながら此の表者と申す義粗吟味仕るに如何成る事ぞと申す義未た微細ならず、其の故は啓蒙に云はく和語式を引いて御本書には長者の位と有り後人書写の誤り成るべし此の義他書に出たりとも然る可しと(云云)、其の故は法華経に観音の三十三身・妙音菩薩の三十四身等の次第を見るに大王小王長者と有り、此の大王とは四天下を一躰に領する転輪聖王の御事なり、又小王と申すは其の国々の王の事なり、されば王に大王有り小王あり、其の小王に仕へられ候第一の臣を長者と云ふ可きか、例せば当将軍家を源氏の長者とは申し奉る是れなり何にも長者は臣の位成るべし、故に外七(一丁ウ)七重勝劣抄に曰はく法華経第一涅槃経第二本門第一迹門第二(文巳上)、此の御書現然に本迹勝劣分明なりと(云云)、斯くの如く本迹勝劣の次第申し聞かせ候へば当流の信者衆も倍々信心倍増して各席を去りぬ、其の外種々の法門有りといへども事繁ければ略して書かず。

 右の始末に候処逐日江戸中勝劣冨士門流は勝ち一致門流は負けに相成り候と専ら風聞甚敷く、爰に砂村一致流の者ども此の風評を聞き如何にしても残念に思ひ、今一度法門いたし清十郎には及ばずとせめて常八なりとも閉口させ以前の意趣を晴さんと種々と工みしかども誰れ一人出でんと云ふ人なし、爰に梶柔之助と申す者有り、此の人は一致門流にて高名なる人にて武家町家も処々講談して一致を弘通する人なり、此の事を聞き出し砂村一致の者共柔之助方へ再三参り其の意趣を告けて相頼み、此の節清十郎事は本山大石寺え参詣致し留守中の事なり、常八は如何成る法門申す共彼の清十郎が末弟の事なれば何卒常八と一問答成し下され巳前の恥辱を御雪ぎ下され候様に相願ひ候、之れ依て柔之助砂村え罷り越し大勢呼び集め勝劣を破するのみにあらず、中にも冨士門流を折伏す、此の時砂村の者共申すには誠に梶先生こそ只人にあらず往昔の仏菩薩の再来成るべし、譬へ清十郎成りとも彼の門流の智者聖人にても梶先生には及ぶべからず杯と自慢して云ひふらすを、同村当門流の講中一同に之れを聞き甚だ憤るといへども、此の節永瀬氏は登山の留守中の由如何せんと示談せし処、常八云はく設ひ永瀬氏在り合せられずとも我れ三大秘法を頭に戴き不惜身命の信力を発さば信の一字を以て邪法を挫かん事は掌にありと申し合ひ居りける所に、彼の一致中より来りて申けるは我等が講中は残らず不学にして御書一通心得候者も之れ無く柔之助殿講談之れ有り、何卒常八御出て有れ伴して柔之助が講席へ罷り越す。

 然る処に柔之助方逸に勝劣を破す、其の言葉に先つ勝劣方にては傍正の勝劣を立て候、傍正と勝劣とは大に異なり、傍正を勝劣と云はヾ傍正勝劣の明文を出す可し、又宗祖は本迹一致なり、其の故は本門本化の導師ならば迹を読むとも本と成る是れ本迹一致なり、故に祖師在世に迹門を読まざる者あり夫れを誡め給ふ事御書に見へたり、其の御書内廿九本尊得意抄に云はく教信の御房・観心本尊抄の未得道教等の文章に就いて迹門をよまじと云ふ疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候か、去る文永年中に此の書の相伝は整束して貴辺にたてまつり候しかば其のとをりを以て御教訓有る可く候、所詮在々処々に迹門を捨てよと書いて候事は今我等が読む所の迹門にて候はず、叡山天台宗の過時の迹を破して候なり、縦ひ天台伝教の如く法の侭に弘通ありとも今末法に至りては去年の暦の如し、何に況や慈覚より巳来大小権実に迷ひ大謗法に同ずる間、像法の利益も之れ無し増して末法に於てをや(文巳上)、又四菩薩造立抄に曰はく一つ御状に曰はく太田方の人々一向に迹門に得道有る可からずと申され候由し其の聞へ候、是れは以ての外の謬なり、御得意候へ本迹二門の浅深勝劣与奪傍正は時と機とに依る可し、一代聖教を弘め給ふべき時に三あり機以て爾なり、仏滅後正法の始めの五百年は一向に小乗、後の五百年は権大乗、像法一千年は法華経の迹門等なり、末法の始めには一向本門なり、一向本門の時なればとて迹門を捨つ可きに非ず、法華経一部に於て前十四品を捨つ可き経文之れ無し、本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時爾前迹門は正法像法或は末法は本門の弘らせ給ふべき時なり、今の時は正に本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨て一向本門に心を入れさせ給ふ人は、未た日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり(文巳上)、此くの如く迹門無得道と申して迹門を捨て本門計りを読誦し本門へ一向に心を入れ候人々は未た祖師の本意を知らざる人々と見へて候、故に一往は勝劣再往は一致なる事、此の御書等に顕然なり、然るに傍正勝劣を立る事誤りなりと勝劣流を数々罵る。

常八此の時巳上十箇条の難問を申し懸け是れを一々書記して。
常八曰はく不審多く之れ有り候、爰答へらる可きやと申す。
柔之助曰はく不審あらば退いて記録にして出す可しと申す。
 雙方退身いたし爾して三日を経て砂村冨士門講中一同に申すは、今日こそ約定の通り常八を先きに立て彼の邪宗を挫かんと談合極りし所へ永瀬清十郎常八が宅え訪ふ、衆人一同顔見合せ不思議成る事に候、永瀬公には御本寺へ登山し給ひし由承り候に如何して此の所え来り給ひしと云ふ、清十郎曰はく御山の義は外の用事にて拠ろ無く先きへ延べ申し候、今日は常八母堂遠行の由し承はり之れに付て参り候と申す、常八云はく是こそ三宝様の御使ひなり、又候冨士門流の勝利を得る前兆なるべしと一同に喜悦の躰なり、
清十郎は柔之助の始末を知らざれば合点行かず如何なる事と其の分けを問ふ、一同に曰はく此の間中より梶柔之助と申す者所え罷越し身柄は御旗本衆と申す事なり、八才より仏学して当時四十計りの年齢にて専ら一致を立て勝劣を破し候、今日は彼の仁が常八と議論致す可き約定に候処有り難くも来り給ひしと申す、清十郎云はく夫れは能き所へ計らず参り合せ候、身不肖ながら同伴いたし彼の邪人を挫き申すべしと悦び進み、清十郎常八其の外四人(巳上)六人にて彼の柔之助が講席へ罷り越し候所、講席は言ふに及ばず其の外集る人数四五百人一同に凱の声を揚げて申すには勝劣方斯く遅刻に及び候は恐れて出でずと見へたり、所詮梶先生には及ばざる事杯と口々に罵る所へ、冨士門講中より人を遣し只今永瀬清十郎糠屋常八(家姓篠原と申す)等同道して出席致す可しと申し遣せしかば、彼の方にては案に相違して常八計りと意得候に思ひの外清十郎同道と聞いて一同興をさまして居る所え、冨士門講中巳上六人相越し早速席へ通り。
 清十郎先つ柔之助に申す様私儀は目黒の住人永瀬清十郎と申す冨士門講中なり、今日は先生の御講談伺ひに罷り出て候と申し述ぶる、梶氏礼を返して申す様今日は常八公と一致勝劣の法門邪正を論ぜんと申す事に候、貴公は先つ御扣えあるべしと申して常八え法門を申し懸る。
 常八云はく今日は十箇条の法門一々承り度く候、先つ前に本尊得意抄を引いて一致を御立て成され候義は不可なる事に候、其の故は此の得意抄に一致と申す事は之れなく、教信の御房・観心本尊抄の未得道教等の文章に就て迹門を読まじと申す事を破し給ふ御文言なり、一致と申す義には有るべからず、当に知るべし迹門を読まざる人破し給ふ御文言なり、冨士門流にては迹門の肝心方便品と本門の肝心寿量品等の二品を読誦し候なり、是れ宗祖大聖人の御意なり、此の二品を読誦せば余の廿六品は読まずとも自然に備り候なり、故に月水抄に云はく廿八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給へ、又別に書き出してもあそばし候べく候、余の廿六品は身に影の随ひ玉に財の備はるが如く、寿量品と方便品をよみ候へば自然に余品は読み候はねども備わり候なり(文巳上)、
四菩薩造立抄に三時弘教の次第に約して三重の勝劣を明かし、次に本迹勝劣の義は傍正を立て分ち給ふ、其の三重の勝劣とは正法の初の五百年は一向に小乗・後の五百年は権大乗・像法の一千年は法華経の迹門等なり、末法の始には一向に本門なりとあり、是れ権迹本の三重の勝劣なり、又次に本迹勝劣を分ち給ふ事本門は正なり迹門は傍なりと有る是れ則本迹勝劣なり、汝当に知るべし、此の迹門を無得道と申して読まざる人も大聖人の御在世にも之れ有り、今時は迹門を読まざる宗流と申すは之れ無く勝劣五流とも残らず読誦するなり、如何々々と責しかば梶大に閉口し赤面す、爾して梶が云はく併し乍ら勝劣と申す事と傍正と申す事と異なる事なりと申せしかば。清十郎曰はく互いに言語にて申す事は間違等之れ有り候記録して其の上にて承り度く候と申して雙方の申す口言を書き留め候。其の文に云はく梶の云はく傍正は勝劣に非ず(云云)。
 篠原云はく傍正は勝劣なりと書き留めて雙方え是れを見せ爾かして。清十郎高声に申すやう傍正は勝劣なる事内外の書籍に見へて候、貴君は如何やう成る証拠を以て傍正は勝劣に非ずと申され候やと詰めしかば。梶云はく何れの御書中にありやと問ふ。
清十郎内外の中に無き事は申さず先つ傍正の字訓は如何様に訓ずるやと詰めしかば。
梶云はく傍正の事は迹門は傍意・本門は正意と云ふ事なり。
永瀬云はく是れは訓にては候はず訓と申すは其の文字の義理を申すなり、夫れ訓には和訓字訓あり、先つ此の正の字如何成る字訓ぞと云ふに正は君と訓ず又長なりとも訓ず、正は君なり君は正を以て国の政事を治めて万民を治むる故に、君は正なり正は君なり人の長たるべきは正なり君なり、又傍の字訓如何が心得られ候やと詰めしかば。
梶赤面して云はく傍は傍なりとより外は答へず。
傍は側と申す事は三才の幼童も之れを知る所なり少しの訓も忘失して傍は傍なりと計り申し口を閉づ。
永瀬云はく既に汝に正の字訓を申し聞かせ候、傍の一時毒皷の為に是れを言ふ、夫れ傍は側と訓じて左右なりと云ふ事なり、いか成る左右ぞと云ふに君の左右なるべし、故に傍の字は人の●と書く是れ則ち正は君なり傍は君の側たる臣なり君臣の勝劣是れなり、されば大聖人は本門は主君・迹門は臣下なりと定め給ふ、傍正は勝劣に非ずと云ふ事僻言成るべし、故に本門は正なり迹門は傍なりと定め給ふ此の御金言に背く事豈に謗法にあらずや、其の上内外の中に正は勝なり傍は劣なりとの明文現然たり。
 梶が云はく何れの御文に之れ有り哉。
 清十郎曰はく物を習ふは弟子なり教ゆるは師匠なり、汝席を去つて閉口の上予に降参して問へ、爾らずして汝上席張臂して礼を失ふ可らず、師弟の不同は天地に分つ予を上座に請じ汝下座に付いて聴く可しと詰めしかば、一致方の者五六百人一同に汗を流して又候富門勝劣は勝ち一致は負けに成る席中家外の者動揺して口々に●る。
 殊に彼の柔之助は武士の事なり常八清十郎は百姓町人なり、士として字義等の事・百姓町人に詰められ、文武両道ともに立たず杯と●る者もありしかば、彼の一致方の者たまり兼ねて清十郎が顔に一魂斗りも之れ有る泥土を投げ付くる、其の土席中に散乱し、是れ喧嘩の基なりとて宿の主大に騒ぐ、其の内に大勢の中より申すやう此の土を投げ候は他宗には之れ無く一致講中の者なりと申す、或は念仏宗の者なりと申すも有り、其の論募り候て家の内外・他宗と一致宗と喧嘩出来して同士打ち始まる、五六百人上を下へと組みつ・ほぐれつ駆け廻り大騒動と相成る、然るに冨士門講中六人は少しも騒がず持参致す所の書物並に雙方問答の記録等懐中して同士打を余所に見なし、六人共何の障りもなく講中の宅え引き取り申し候て、誠に今日の問答は大勝利を得る有り難き事、又右の通り梶を詰めしかば彼の者も士人は恥を忍び難く刃傷に及ばんも計り難し、然る処に土を投くる夫れより同士打と成り騒ぎ合い候事は、遍に諸天善神の御計ひと見へたりと申して一同有り難がり早速三宝様へ御報恩を申し上げ御酒を備へ、又講中内より酒等を携へ来り悦び合ふ事限りなし。
 其の内に講中申す様先刻彼の席にて傍正勝劣と申す事御書に之れ有る由承る何れの御書に出でたるやと問ふ、清十郎曰はく此の文は予年来秘文にいたし置き、いつぞ問答の時は申しいだし一致の邪義を挫かんと心得置き候文なり、録外七巻(四十丁)大黒●頂口決に云はく口伝に曰はく一念三千は宝珠にして正なり勝つなり、五字は袋にして傍なり劣なり如何、答へて云はく相伝に云はく此の文弥よ五字は勝にして正なり一念三千は劣にして傍なり(文巳上)、此の文既に傍正は勝劣なりと之れ有り、殊に此の文は彼の一致門下の相伝にして日意・日実・日得・日証に示授する代々の相伝と見へたり、彼れ等が家にて傍正は勝劣なりと云ふ相伝をいだしながら四菩薩造立抄の御文末法には正には本門・傍には迹門と申す御文言を曲げて傍正は勝劣に非ず杯と申す邪義を申すなり、既に一致の門流京都本国寺の歴代に日達と申す僧有り、其の人の著述に本迹雪謗と申す書有り、此の書に傍正は勝劣に非ずと曲会して候、扨々恐る可き悪流なりと(云云)。
 常八云はく此の日達臨終にのぞみ悪相を現じ惣身墨の如くになりて死にたり、是れより代々の住職皆日達の如しと僧語り候ひしが此れ等は如何の罪にてか候べき、此の日達生涯の内金銭を集る事と六万両と聞く此の信施を貧り科と(云云)。
 清十郎云はく左様の事も有る可きかは候へども出家として在家より施しを受くるは仏法の定めなり、既に釈尊日毎に●婆沙羅王より五百両づゝ黄金を供養し是を受け給ふ事あり仏は信施の科を受く可きか、又大聖人も大漫陀羅の御供養或は御開眼の御供養過分に受け給ふ是等も科と云ふ可きか、大聖人御本尊書与の御供養は五貫七貫或は拾貫等の御供養之れ有り、御開眼にも又五貫三貫等の御供養有り、されば大聖人御在世の節の銭相場当世の相場にくらべなば如何程成るか、知りがたかりしが本居と申す人の作りたまふ玉かつまと申す書に鎌倉時代の世渡りを書けり、才美布一反銭二文にて買ひ求むと有り、是れを以て考へ合するに一文は金壹銭位のも当る成るべし、然れば百文の御供養は金二十五両、壹貫は二百五十両、余は推して知るべし、さすれば大聖人御生涯の御供養は莫大成る事なり、其の節の書籍を能く見るに旅行いたす宿屋杯も之れ無く中食迚もなす事能はず、身重き人も野宿いたし中食には道中の日限を計り其の飯をたくはへて旅行す、故に御書の内に大聖人御旅宿に泊り給ふ事も御中食をなし給ふ事も之れ無し、佐渡国より阿仏房干飯を身延山に参らせ給ふは御弟子方諸国え往還の節の食物に御供養ありし事と見へたり、此の義は国学の人に習ひ聞くべしされば当時の御代は上一人より下万民にいたる迄天人の如くの暮し成るべし、夫れ誠に不具にして種々に●侈をなす事誠に欲の私し、末にいたる程・貧瞋痴の煩悩盛ん成るべし、扨て日達の義は信施の罪にては有るべからず、是れ宗祖の御正流・本迹勝劣の実義を謗りたる大罪成るべし、巳前より本国寺は一致流なれば大謗法なれども日達程に勝劣流をそしりたる者之れなし、故に日達より代々の住寺臨終には阿鼻の相を現ずる事・仏の金言符契の如し、彼の日達かゝる重科有る事を尋ぬれば日達と申す僧は奥州福嶋に本法寺と申す寺あり、是れは京都冨門要法寺の末寺なり、日達は此の寺の所化にて我か発心の宗旨を捨て一致の僧となり、爾して本国寺の主職と成る誠に獅子身中の悪僧なり、故に現証として斯く無間の相を現じたる事と見へたりと(云云)。
 常八等此の事を聞て謗法の重罪たる事・肝に染みて恐るゝ事限りなし。
 又常八云はくされば本迹は勝劣成る事現然たる日達等本迹一致を立つる事如何の事に候ひし、誠に凡智を以つて計りがたし、是れに付ては今生計りに限らず前世よりの宿習成るべきか此の義に付き尚亦御大事の法門も有るべし何卒御示しに預り度く候と(云云)。
 清十郎云はく貴公の尋ね至極せり、此の義に付て大聖人の未来記我れ等が心根に徹する事感涙をさへがたし、誠に三世未萠の御明書一大事の法門を示す可し必す他言するなかれ、謂ゆる法華本門血脈抄に曰はく天台章安妙楽伝教等の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり、其の故は教相も観心も相似・観行解了の人師・時機又像法なり、付属即妄授与人・其の身又迹化の衆なり、観音・妙音・文殊・薬王の化身なり、今末法は本化の薩●上行出現の境・本門流布の時刻なり、何ぞ理観を用いて事行を修めざらんや、予が所存は内証外用共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失ふ物怪なり、本迹の不同は所々に之れを書く然りと●も宿習の拙き者本迹に迷倒するか、若し本迹勝劣を知らずんば,未来の悪道最も不便なり、宿業を恥ぢず還りて予を恨む可きか、我か弟子等の中に天台伝教・解了の理観をいでず本迹に就いて一往勝劣・再往一致の謬義を存し自他を迷惑せしむる条・宿習の然らしむる所か、閻浮提第一の秘事たりと●万年教護の為に之れを記し留る者なり、我か未来に於て予が仏法を破らんが為に一切衆生の元品の無明・第六天の魔王・師子身中の蝗蟲と成り名を日蓮に仮り本迹一致と云ふ邪義を申しいだして多く衆生を当に悪道に入るべし、若し道心あらば彼れ等の邪師を捨て宜しく予が正義に随ふべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具に本種に騰がる実理なり(文巳上)。
 常八此御大事の御書を聴聞し奉り感涙を流し誠に一致流のやから悪鬼入其身成る事を得意して益当門の信心を倍増して退いて三拝す。
 清十郎曰はく此の本因妙抄に付いて大事の法門予年来此の義を存ずと●も同行にも語らず、臨終の時仏法の定例一大事を悟り臨終する事先例之れ有り、然れ共予は罪障深重なり殊に凡夫なれば前世の悪因計り難し、六即の中・相似即の修行をこらす者・隔生するとも前生を知るあり、然るに今日の事すら弁へざる愚人成るべし、臨終に及び只一遍の題目を唱へ奉らば至極の事に候、故に此の度貴公の信心を感ずるの余り一大事の御法門を示すなり、夫れ内廿八聖人知三世抄に曰はく聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云ふ、儒家には三皇五帝並に三聖は但現在を知つて過未を知らず(乃至)法華の迹門は過去三千塵点却を演説する一代超過是れなり、本門は五百塵却・過去遠々却をも之れを演説し又未来無数却をも之れを宣伝す、之れに依て之れを案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり、教主釈尊は既に近くは却後三月之れを知り、遠くは後五百歳広宣流布疑ひ無き者か、(乃至)日蓮は一閻浮提第一の聖人なり(文巳上)、当に知るべし聖人は三世を知るを聖人と云ふ、釈尊既に過去未来を知り給ふ事現然なり、却後三月の文と現在未萠を知り給ふ事なり、以上儒家の聖人は現在計りの未萠を知つて過去を知らず是れは聖人には非ざるなり、過未を知らざること愚人の如し、宗祖大聖人は如何成る証拠を以て三世を知り給ふか、現証なくんば聖人と云ふべからず、然るに蓮祖自ら自讃して日蓮は一閻浮提第一の聖人なりと御意遊ばすなり、末抄等多しといへども大聖人三世を知り給ふ証を明し給ふ事を見聞せず、倩ら予愚案するに蓮祖三世を知り給ふ事御書中にあり明に知んぬべし、大聖人既に上行菩薩の化身なりと遊ばす是れ過去を知り給ふ御筆なり、又現在未萠を知り給ふは所謂立正安国論是れなり、此の書に他国侵逼難と申して中華の軍兵此の国を侵す事を十五年巳前に知ろしめして、委細に安国論を御成作有つて時の執権最明寺時頼公に之れを捧げ給ふ、謂ゆる蒙古の責め是れ成るべし、是れ則現在未萠を知り給ふ現証なり、又未来を知り給ふ事は本因妙抄是れなり、蓮祖御滅後に一往勝劣歳往一致と申す悪義を申しいだし本迹一致の悪流を弘むる事此の御書に現然なり、是れ未来を知り給ふ現証なり(巳上)。
 三世を知り給ふ事此くの如し若し本因妙抄なくんば蓮祖聖人とは称し奉る可からず、誠に以て此の御書こそ本仏の未来記・末法の明鏡成るべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
天保六年未十月

 編者曰はく此書原本及び当時の写本を見ず、名古屋平松増吉所蔵明治十三年三月小出勘三郎(尾北在青山新田)の写本に依て校正を加へ句逗をも正したり、又此書に作者の記名無けれども清十郎の自記なるべし、但し巻首に「漢字にて書を」云々と記せるは或は勘三郎が写せる時に註せるか。

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