富士宗学要集第七巻
大石要法血脈問答
安政六末六月廿七日武内清三郎、要法寺新帰伏の人・建仁寺四条下る木村子剛と申す仁の方へ当門の法義申し入れ候より事始り木村氏追々加藤氏宅へ来臨致され、石門の法義並に血脈相承の筋目聴聞致され同志の人々申し入れられ候処、其の中に要法寺真如院智伝の説に執着仕り候人も之有るに付、双方対決仕り邪正分明に相成り候上・信心極め度きの由申され候に付、大法流布の為め玄妙尊師相手者ゆ御頼み申し上げ、弥よ定日安政六末九月廿二日左の人々打連し其の席へ罷り出て候。 (木村氏より借り置き申候)席(宮川町どん栗辻子下る西側小間物屋)二階座敷 大石門流の僧・玄妙房、 俗・加藤五兵衛・丸本幸介・熊本幸之●・松本丈介・桑原善介・外に一人、 要法寺門流の僧・真如院師、 俗の岡田藤之介・篠塚文三郎・島田伝吉・三好豊次郎・外三四人斗、 其余の者当日他行に付き法義勝れ候方へ信心仕る可く候由申す約束に候也。 右罷り出て候処・要法寺真如院前以て参り居り申し候隣席に休息仕り、玄妙房師法衣御着、其の時真如院・席を立て次席へ挨拶に見へ申し候、其の後木村・五兵衛に向ひ先日後申込の取替せ一札の処・真如院師へ申し入れ候処、夫には及ぶ間敷き由仰せられ候間・其の義者やめ申す可く、併し乍ら万一故障出来仕り候はゞ木村一人に引受け少くも双方様へ後迷惑相懸け申す間敷候間、夫にて御承引下ださる可く候云云、当方承知。 五兵衛云く当日出席の連名相認め真如院師へ差出し申す可きや御伺ひ下ださる可く候、木村氏則ち尋ね申候処夫にも及はずと仰せられ候。 ●夫より席へ出て茶を呑み世間の拙し致居り候、玄妙房師・木村に向ひ大概人数も揃ひ申候はゞ論議相始め申す可くやと御尋ね候、木村氏左様ならば御始め下ださる可しと挨拶有り。 其の時玄妙房師・木村に向ひ先つ仏法中に於いて畏るる処は謗法不謗法これ第一にて候へば、互に謗法の有無を糺し其の上血脈の勝敗を申し候ては如何に候や、尤御血脈の一大事と申すは唯我与我の金口御相承にて、筆端に顕し奉る様も之れ無く下●の拙僧ども中々申す可き筋にても之れ無く実に恐れ入りたる御事なれども論議の上にては拠ろ無く申入れ候も、得道の為の事に候間・随分申し入れ候かなれども、所詮は謗法不謗法と存し候間、先ず謗法の有無を先に論しては如何候や。 木村云く此の義者拙者不承知に候・先日より血脈の一段斗りにて、双方疑惑仕居り候故・今日の御出会も其の義斗り承り度候、併し乍ら如何仕り候て宜敷きや加藤氏御了簡承り度く候。 加藤云く御尤に御座候・併し乍ら只今玄妙房様の御仰も御尤に御座候へば血脈論を義は致す間敷と者仰せられず候間・何れ其の御咄も申し出す可く然ら者貴殿は血脈より謗法糺しは跡と御申し、玄妙房様は謗法しらべ先き・血脈は次と・御両人御心は同断にて、只表裏前後仕るのみなれば何れにても宜かるべしと存し候。 木村云く然らば御仰せの通り先つ謗法有無を御論談下ださる可し。 玄妙房様・真如院師に向ひ御聞申の通り成れば先つ謗法の有無を論談仕り候べし、真如院承知。 跡にて承り候処・真如院義は其の朝木村宅にて、大石寺謗法の箇条数条抜書いたして持参致され、血脈が有つても謗法あらば堕獄なれば先大石寺の謗法にて・たゝき伏すべしと咄し之有り、其の穴へ玄妙房様我と我かでに入りに御出かと心痛いたし右の通り不承知と申し候と云云。 謗法不謗法を論ずる事。 真如院云く寛文年中・折伏自讃毀他・御停止の事は・天下一統の謗法に非ずや。 玄妙房行く富士門流に於いては経釈書の法義に依つて折伏仕り候事は自讃毀他にてはなし。 真云く、其の義は拙山方にも心得罷在候得ども念仏無間等の説法仕り候時は、 公制を犯すがゆへに折伏し難し、然れば大石寺も公制を出でざれば謗法に非ずや 。 玄云く、其の義は天下の謗法にて実に歎き入る事に候間拙僧も此の度は国主を御諫言仕り度き存心に候。 真云く、夫は御自身御一分の御心得と申す者にて大石寺の謗法は脱れ申す間敷候。 加藤云く、自讃毀御制禁は公制迄も之無し法華経安楽行品並に天台伝経等の釈に分明に候間、元より我宗自讃毀他は之無く候、又寛分の公令は大石寺のみにあらず天下一統の義なれば要法寺なりとも免れまじ五十歩百歩迄も之無き論なり。 木村云く、其の義は寛文御制禁は大石寺様斗りにては之れ無し要法寺に其の外十六本山諸国一統の義に御座候也。 加藤云く、左様にて候。 木村云く、其の義成らば今の所論にあらず。 真云く、然らば永禄七年法理一統は天下の謗法に非ずや。 玄云く、大石寺斗は法理一統仕らず候。 真云く、何が故に大石寺斗り法理一統の中を漏れ候や。 玄云く、先年大石寺と三島の境導院と出入に及び江府寺社御奉行所に於て御吟味相済み候。 真云く、如何んが相済み候や。 玄云く、境導院へ諸寺方人致し大石寺斗り法理一統仕らず候故に、此の如く御公儀様の御苦労に相成る義に候間、巳来は大石寺も法理一統仕る可き様願ひ出で候、其の時は拙僧本山役僧に罷り出で御返答申し上げ候、法理一統恐れ乍ら拙山よりも願ひ奉り候併し乍ら只今日蓮宗五派六派と相分れ未だ法の邪正も分明ならず候、何卒五派六派とも召し出され法理勝れたる方へ一統仰付けられ下され候はゞ有り難と存じ奉り候と申上候、是れにて大石寺斗り法理一統の中漏れたる証拠にて候。 木村云く、左様の謗法は天下よりの謗法にて法義の逆ひより出る謗法にもあらず夫にては果し付き申さず、依て改めて双方様へ御尋ね申す一条の在り先つ大石寺様は謗法の地の禄を御朱印にて戴き給ふは如何の子細に候や、又要法寺は今現に三宝堂之有り十六山廻り抔・殊更参詣す是れは謗法にて之無く候や。 玄云く、大石寺の御朱印は御当代より頂戴にあらず大石寺建立の大檀那南条殿より寄附せらるる所を今に伝来するなり。時に真如院自山へ尋られたる三宝堂の難は答へず。 真云く、たとへ南条殿の御寄附にせよ今当代より改め受けたる御朱印なれば当代より給はる禄なり、是れ謗法の禄にあらずや。 玄云く、南条殿の信施なれば敢て謗法の施にあらず又要法寺には御朱印之無く候。 真云く、要法寺に者御朱印之無く候。 玄云く、当時の地面は御代替りに御改め又要法寺より書き上け等之無く候や。 真云く、一向左様の事は之無く候、大石寺は天下太平の祈願並に御信仰に依て下ださる趣き承知せり。 玄云く、いや一向左様の御朱印にては之無く只先規に任すと斗りにて候。 真云く、何にもせよ謗法に相違之無く候。 加藤云く、今日御両師御苦労下だされ御出会の義は天下の謗法糺明の為にても之無く要法寺より御尋ねも必●は無益と存し候、只今日は両家の謗法有るか無きかを論ずる事・肝要にして一統の御聴聞も其のために之有るべく存候、依つて先つ其論は且く御止り下だされ、要法寺に謗法有るか大石寺に謗法有るか此の段斗り御論談下さるべし。 木村云く、実に一統の存心夫に相違之無く候。 加藤云く、然らば真如院師へ御尋ね申す、日尊上人像仏御建立之有り此の謗法は如何候や。 真云く、日尊上人・像仏造仏の事曽て之無し何んと申す書に見へ候や。 加藤云く、日辰上人の筆記に之有り。 真云く、左様の義曽て之無し。 加藤云く、若し辰師の筆記に之有り候はゞ謗法御治定に候や。 真云く、辰師の記に之有り候はゞ謗法は治定に候。 加藤云く、辰師日尊上人の伝を書く(十八代日陽祖師記)、其中を見れば日尊上人或る檀那より小乗の立像の釈迦・羅漢の十大弟子の木像を寄附有るに依つて本尊に安置し候を、弟子の日●付弟の座に居して是れを弁へがたく冨士の日代上人へ尋ねの書状を差遣し候事御争ひはあるまじ、其文に日辰上人の詞の段に云く日尊後日十大弟子を除いて二尊四大菩薩を造仏すと見へたり。 真云く、日辰の記録は用ひ難し彼の人は造仏好きな人なればなり、況や日尊之実録に背く、実録には予が門弟等相構て上行等の四菩薩相副給へる久成の釈迦略本尊は資縁の出来・檀那の堪否に随て、之を造仏し奉るとあるに相違する故なり。 加藤云く、貴僧巳に辰師の記にあらば謗法は治定と仰せられ候、今又用ひ難しとは前言に背き候、其の上尊師実録は要法御門流にも或は偽と云ひ或は真と云ひ或は未決と云ひ種々異論のある書にて候。 真云く、拙僧の不しらべの次第に候、尊師・像仏造仏の事は只今迄心付かず、立像十大弟子の義は日●冨士日代へ尋ねに遣し候事相違之無く候、猶後日篤と相調べ申し送る可く候。 玄云く、今日の出会は衆の疑を晴すべき為の御出会に候間た此の席にて仰せあるべし、其の上五百年来しらべても分明成らざるに今更しらべても急急返答成る間敷候。 真云く、誠にふしらべの至り恥ち入り候、いかにも要法寺謗法治定に候と頭を下げらる。 加藤聴聞の衆に向ひ御一統先つ謗法有無は御聞の通り要法寺は負け大石寺は勝にて候と披露す、何れも承伏の頭を下ぐる。 木村云く、誠に始めて承りたる尊師造仏建立の謗法実に驚き入り候、此の如き謗法の有り候ては其の余の法門・聞くにも及ばず候得ども、先条御約束の血脈の筋目今一応御論談下たさるべし。 加藤云く尊師・二尊四菩薩造仏はまだしもの事なり初は立像の釈迦十大弟子を安置し給ふ、是れ小乗三蔵教の教主にて権大乗の本尊にも及ばず、況や迹門の本尊をや、何に況や本門文上の本尊をや、況や文底の本尊をや、若し是れ弟子の立る所と申さるとも日尊存命中成らば早々取除き申す可き筈、若し許し置く時は与同罪に当る罪・師匠に帰すべし進退きはまるべし、たとへ日辰の云ふが如く後二尊四菩薩を造つて小乗の本尊を除くとも未だ尊師の謗法はまぬがれ申す間敷と存する也。 一統承伏有り難く謗法相分り候といふ。 血脈相承不相承論ずる事。 木村云く、何卒冨士山大石寺血脈次第・日蓮・日興・日目・日道と有るが正嫡か、又要法寺の次第・日蓮・日興・日目・日尊と続くが正血脈か、此の段御聞かし下され度く候。 但し要法寺に右の血脈之有り候時は・いずれも一統・大石寺も要法寺も信し申す間敷候、其故は血脈は要法寺に在ても謗法有るゆへ信じ難し、又冨士大石寺は謗法なくても血脈なし、しかれば我れ等宿福薄きものと明らめいづれも信じ申す間敷候間、此の段前以て御断り申し置き候。 加藤云く、只今分けて御覧に入れ候御安心下さるべし。 玄云く、承れば要法寺様は目師の御相承に異論有る由聞き取り候、今日の論談は目師は御立成され候や、又御除き成され候や。 木村云く、加藤氏より此れ迄承り候処・真如院師の師匠・三妙院師は目師御除きの由に候へ共、此の真如院師は目師血脈相承の歴祖と御立て成され候故目師を歴祖として論談下さるべし。 玄云く、先つ冨士山大石寺の次第と云ふは日蓮大聖人・弘安五年(壬)午九月・一期弘法抄の如く血脈次第日蓮日興の御相承を受けましまし、同十月十三日・池上御相承状の御遺状を以て身延山久遠寺の別当たるべき補処御譲り状有り、しかるゆへに日興上人・大聖人仰置のごとく身延山の貫主として七箇年ましましたる所、地頭波木井入道・謗法あまたなるゆへ日興上人・驚き給ひ頻りに御諫言あれども・日向上人が是をゆるすゆへと云ふて改めず、之に依て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊山本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿の御本尊・御肉附の御歯・御焼骨其の外あらゆる霊宝等長持廿七駄片荷に納め給ひ、正応元十一月・身延山を立のかせ給ひければ波木井の一門大に驚き度々還住を請ひ奉れども思召し有り帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫平時光殿の請招によつて駿州冨士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を撰んで大石の原に御建立あつて本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ、御弟子各々塔中の坊を構へ給ふ是れ則人皇九十一代伏見院御宇・正応三年(癸)寅十月十二日開堂の御儀式あり、宗祖大聖様を第初之祖とし日興上人自ら第二祖とならせ給ふ、又蓮祖の例にならひて六老僧を御定あり、御本尊御骨等の重宝の守番とす、其の後永仁六(戌)年春大石の寺を日目上人にゆづらせ給ひ、御自身は北山に一寺御建立ましまし重須之寺と号して御隠居あり、又蓮祖身延相承の如く日目師へ跡条々をのこし給ふ。 此の時加藤大音声にて読み上ぐる(尤玄妙房様の仰を蒙りてなり)。 日興跡条々之事 一、本門寺建立之時は新田卿阿闍梨日目を為座主、於日本国之至一閻浮提内山寺等半分日目を為嫡子分可管領之、所残半分は自余之大衆等可領掌之。 一、日興が宛身所給弘安二年之大御本尊日目に授与之可奉掛本門寺なり。 一、大石の寺は云御堂墓所日目管領之、加修理致勤行可待広宣流布也。 右日目十五之歳値日興信法華巳来至七十三歳老躰敢無異失儀、十七歳詣日蓮聖人所甲州身延山御在世七年間常随給仕御遷化後自弘安八年至元徳二年五十年間奏聞之功依異他此所書置也、仍而為後証状如件。 元徳四年十一月十日 日興在御判 右御跡条々大音にて披露仕り候事。 玄云く、又正慶元壬申十月十三日・興師本尊を書写し給ひて日目上人に授与し給ふ、其の端書に最前上奏之仁・新田卿阿闍梨日目に授与之一が中の一の弟子なりと、又御座替りの御本尊を御授与有りて大導師職御譲りまします、又一が中の一の弟子なりとある御本尊之又左へ並べ日目上人御筆を染めさせられ日道に相伝す之をと有り、目師正慶二年天奏之為に上洛し給ふ処・美濃垂井宿にて御遷化なり、然ども富士には日道上人ましまして六老僧御本尊を守番して違変なし、猶正慶元年に日目上人より御相承有り●三箇条の御相承御自筆今大石寺の御宝蔵に赫々としてまします、先つ是が大石寺の相承蓮興目道之次第にて候。 真云く、目師美濃国垂井に於いて御遷化遊ばされ候上は大石寺は大導師なき寺となり候、猶興師身延御離山の後は謗法の地となるがごとし。 玄云く、身延離山の例難甚た以て然るべからず、其の故は興師延山御退去ありといへども宗祖の一大事の御霊宝は残らず持参して御退去あり、目師延山の例を思し召さば何ぞ一大事之戒壇之御本尊・御肉附之御齒・御焼骨・紫宸殿之御本尊・御座替の御本尊・其他の霊宝等は一品も御所持ましまさず皆大石寺に残し置き給ふは如何。 真云く、興師より目師へ御授与之一が中の一の弟子なりとある御本尊の御脇に日道に相伝之とある斗にては信じ難し、房州日郷師へ御授与にも相伝之とある御本尊ありと覚へたり、是を以て証拠とはしがたし。 玄云く、●三箇条御相伝御直筆ある上・大石の寺は云御堂云墓所と大石寺の寺号をさして加修理致勤行と教を残し給ふ、其の寺の修理も加へず勤行も致さず候要法寺に血脈有るべき筈之れ無く候。 加藤云く、目師御自筆の御本尊御脇書なる日道に相伝之と有る分にては保田にも例有るゆへ信じ難しとは御尤之御仰せに候、併せ乍ら右日道相伝之とある五字を以て外の証拠を出さゞるにもあらず、右玄妙房様仰せられたる日興跡条々の状並に目師御自筆の日道相承●三箇条等に符合仕候共御用ひ之れ無く候や。 真云く、明白に符合仕り候はゞ尤も用ひ申候。 加藤云く、大聖人身延山を興師に御相承ある事・池上相承に分明也、興師大石寺を日目師へ相承ある事又跡条々に分明なり、目師道師へ大石寺之指図を残し給ふ事●三箇条に見へたり、三師皆跡式の御譲りあり、是にて御本尊の御脇書なる日道相伝之とあるも、あふぎて信じ奉らるゝなり、日尊上人に此の如き明証之有り候や。 真如院無言。 玄云く、要法寺歴代の中にも道心之れ有る人は大石寺信仰いたされ候、●一代日住興門百囲論をかく其の終りに分明なり。此の時加藤又大音声にて百囲論の終りの文を読み上げ申し候、其の文に云く謹んで密に之れを認む右百囲の内、月漢日の惣本山の御正統と者実に今の富士大石寺にて、一天広布の大本山霊山浄土に似たらん最勝の地と者多宝富士大日蓮華山・本門寺上行院にて在し給ふ御事は本因妙抄・百六箇御譲り状の面に顕然なり、其の証とは本門戒壇の御本尊紫宸殿之大漫茶羅・本門寺重宝の御本尊・死活の漫茶羅・紺紙金泥の御本尊・又所以有つて今他山に在りと雖も万年救護の御本尊・乃至又次に唯授一人極秘の御大事とは大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて●三箇の御相承と聞く、其の証は御生骨御舎利今眼前也、御影の初まり最初仏・正御影・鏡の御影●て其の次に日興上人御座替り御本尊を初めと為て都合廿七鋪、御書写の御経・御相伝の秘書等大石寺御譲りの御遺状其の外数多の御聖教・御持ち道具・日目上人の御本尊八幅御書物数多、興師目師の御影・御三師の御伝・御代々継目の御本尊・御申状等具に明細に認る如く興門八箇の大本山を糺明し諸門一統・自他彼此の逆執無く(乃)至若し爾らば今大石を以て大本山と為し要法寺を以て花洛本山と為さば豈に両寺一寺の名義唐捐ならざらん、尚又一天広布の日は大石寺を以て当職と為し要法寺を以て隠居と為す、是れ又極真の両寺一寺にして最極無上の大願成就ならんと爾云ふ。 右恐れ多しと雖も罪障消滅且つは者後世の為に認め置くのみと云云。 加藤云く、要法寺歴代の中にても別けて下種法門の達者と唱ふる日住此の如く大石寺を敬ひ、猶日尊上人は新所弘通の大功あるゆへ本因妙抄御相承はあれども、是れを以て大導師の相承とは申されず、日目・日代・日順・日尊と四人の相承あり、其の内要法寺日尊相承には奥書相承あるゆへ別付属と仰せられ候得ども、是れ又年代の不都合も之有る上・日尊上人より日●・日頼・日大と●通の奥書に三人の名前を入れて御相承有る時は要法寺派に於ても又大導師三人となるべし、旁々此の抄を以て大導師血脈とは申され間敷と存し候。 真云く、仰誠に御尤に存し候、いかにも血脈相承は大石寺様に局り申す可く恐れ入り候とて頭を畳にすり付けての挨拶にて候。木村進み出で御両師段々御苦労に預り御陰を以て私始め一統是にて疑朦を晴らし誠に有り難き仕合せ此の上無く存し奉り候、併し乍ら真如院様にも平生より御学文が勝れさせ給へばこそ理に伏しては此の如く偏執なく御屈伏下され候段、俗に不学者論に負けずの風情にては実に困り入り候、恐れ乍ら只今迄とは又々見上げ候御僧にして有り難き御事に御座候と真如院へも挨拶あり。 玄妙師加藤伍兵衛摩訶同しく似寄の口上を以て真如院へ挨拶いたし候。 一統聴聞も双方へ在り難しと挨拶之有り候。 夫より双方打解け八品門流のはなしは又御本山へ一統より御本尊願等の相談にて日暮時迄咄しいたし居り候。 真如院は跡へ残り一統も跡へ残り当方より参り候者七人は帰り申し候事。 其日の懸合荒ら増し此の如し。 安政六末年九月廿二日之を書す。 加藤象門誌す。 同月廿八日丸本幸祐の宅に於て御講勤む当日新皈伏の人々参詣、玄妙房師御説法。 十月朔日篠塚文三郎宅に於て玄妙尊師を請じ奉り新皈伏の人親並に女房何れも参詣。 翌二日玄師京都御出立・丸本・加藤・清水三人湖水舟乗り場迄送別。 九月六日木むら氏よりふみ来りて要法寺真如院只今私宅へ来り法論いたし度由にて待いられ候間、直様同道にて来臨たのむ由の返事に、節季前はさりがたき事ある上・心を落居ず、いづれ十二日比には出会して迷惑人のねむりをさまさせなん大丈夫に思し給へなんど申し送り侍る、文の奥に腰折一首よみて遣はしける。 おゝいしにつたはる法は諸人の ほめそしるにも動かさりけり 象門 かへし うごかざるかたき心や大石の 苔のむすまで師とやたのまむ 木邨為教 編者曰く雪山文庫蔵加藤象門筆本に依りて其侭此を写したり、猶加藤氏本の中で此書と同本文は写の数本幣蔵に帰す。 猶々重版の時多少の和訳を施したる箇所あり全く易読の為なり。 |