富士宗学要集第七巻

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蓮興寺森村往復書

不知恩の者を畜生と云ふ事。
一、日興上人の門流に寺ありても住持となるべき僧なきときは拠ろ無く他門の僧にても入れて寺を相続するが故に自然と他門の流を門内に流す也、京都要法寺は少しも他山の僧を以て相続せず日蓮・日興・日目・日尊の師資相伝の本家也、抑大石寺十四代日主上人より要法寺へ納められ候証文を知るや、大石寺と要法寺とは今自り以後両寺一寺・末代不易の証拠に大石寺重宝の内の日目上人の真筆の漫茶羅・要法寺宝蔵に授与之とある、則日目上人の本尊の裏書也、疑あらば虫払の時登山して見るべし、且亦大石寺に貫主となる人なき故に願に任せ要法寺より大石寺貫主に遺し候人数左の通。
大石寺十五代日昌上人 同十六代日就上人 同十七代日盈上人
同 十八代日精上人 同十九代日舜上人 同二十代日典上人
大石寺廿一代日忍上人 同廿二代日俊上人 同廿三代日啓上人 以上九代。
ぶた●疋流行の時・金五十円として五九・四百五十円にあらずや、まして人間也、殊に要法寺日尊上人の学徒日辰上人の座下の人々の弟子達一人前になりたるを以て大石寺より願に任せ、彼の大石寺の相続人に要法寺より送りて大石寺の立つように仕立て候事を忘却して、要法寺の事を大石寺より彼れ是れと悪口するは恩を不知らざる畜生也、今日世間の恩を知らざる者が仏法の恩を知るべきや。
十月廿二日 蓮興寺
住本寺留主居智豊僧へ
一、貴諭の御書唇く拝見仕り候、僕此度冨士大石寺末本伝寺へ改派致し度き子細は、一には冨士大石寺は宗祖開山の本懐本門戒壇の柱礎・嫡々相承の正統なる故也、所謂宗祖より開山への遺文に冨士山に本門寺の戒壇等と云ひ、開山より三祖目師への遺状に日興が身に宛てゝ賜へる所の本尊日目に附属、(乃)至大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひと等云云、本門戒壇の霊場一閻浮提の内冨士山大石寺に限る事論なし、而して目師終焉に臨み此の轍を転じ大石寺の補処日道を除いて他師に大事を付属すと云はゞ是れ則目師は高開二師の正意に違背するの人、何ぞ其の義あるべき、故に若し冨山の外に相承ありと云はゞ皆是れ後人の偽託敢て信ずるに足らずとする也(是)一。
一、現今末代相応・宗祖開山正意の本尊式と者、脱益たる色相荘厳の造仏を斥ひ唯本因下種の大漫茶羅に限る事は、祖書内の九・本尊問答抄開山・門徒存知及ひ五人所破抄の如し、亦末法相応・宗祖開山正意の勤行式と者、一部読誦等を制止し正行には本因下種の要名を唱へ助行には方便寿量是の二品限る事、祖書十六・四信抄・同外十八授職灌頂抄・開山五人破抄の如し、爾るに現今此の正意を固守し六百年来其の轍を改めざる門派は唯冨士大石寺に限れり、其の余興門の正嫡と僣称する者猶此の迷乱を脱れざる者あり(是)二。
一、法衣と者釈門の標●・一宗の目的なり、外典の孝興に曰く先王の法服にあらざれば敢て服せずと、吾が先王たる宗祖開山の法衣は薄墨の祖絹衣・同色の五条袈裟に限る事文証現証あり、爾るに現今宗門の諸派多しといへども冨士門を除いて外に此の正意を守る者を聞かず、貴山猶能はず黒衣及ひ諸の色衣を着するにあらずや(是)三。
右の外数箇条ありといへども具に挙ぐるに遑あらず、仍て粗此の三箇条を挙けて教示を希ふのみ、蓋し先の示訓に大石寺にて旧恩ある要法寺を悪口せる不知恩の畜生と云云、僕未だ大石寺にて別して要法寺を悪口せるを承はらず、併し旧恩ありとも法の迷乱を呵責せるは仏法の通例なり、伝へ聞く伝教大師は素と三論宗の人・南都の行表を師として其の恩を荷へり、然れども後是れを破責し名して六虫となし給へり、宗祖は元と古義真言清澄の道善坊を師とし給へり、後旧宗を罵つて亡国とし道善坊の堕獄を悲み給へり、旧恩ある者の謗罪を呵責せるを以て不知恩の畜生と云はゞ伝教宗祖は不知恩の畜生なるべきか、且知ろし召さずや日本国三百余の大小名其の昔を討ぬれば一家も徳川家康公の恩沢に依らざるはなし、爾れども末裔紀網を乱し天朝を蔑視し、就中慶喜公に至り天威を犯す事ありし故に終に逆賊の汚名を蒙るに至つては天下挙ぐて是れを討伐せり、是れ等も亦天下一統不知恩の畜生と云ふべきか、猶要法寺より大石寺九代の世代を継き給ふ事、正嫡の大本山へ対し御奉公の一分・蓮祖及び興目尊の三師への御報恩と申すべし、何ぞ是れ等を以て宗山へ対し恩義とするの理あらん、豚の御譬殊に感心致し候、是れ則ち尊聖を以て豚飼として要法精舎を以て豚屋とし宗山紹継の九師を以て豚に対し、今此の九匹の価を乞はんとの肺肝の才覚・尊聖の霊焉に在さば如何計りか御満足たるべきと実に痛哭仕り候以上。
明治八年十一月 森村平治
黒川宗十郎
蓮興寺様
住本寺様

一、元禄二年(巳)七月五日・駿州冨士北山本門寺日要より神社奉行所へ訴訟書き上け候に付き、同州同郡上野大石寺より翌年三月十八日返答書を寺社御奉行書へ御指し出し候文中に云く。
一、造仏堕獄と申す事無実の申し懸け終に此の方より堕獄と申さず候、仍つて京都要法寺造仏読誦仕候得共・大石寺より堕獄と申さぬ候証拠に当住迄九代の住持要法寺より罵り越し候、今に通用絶え申さず事。
右之通り寺社御奉行所へ書き上げに成り候事は設ひ一時の方便にもせよ、開山日尊上人より造仏之れ有る要法寺へ大石寺什宝の内日目上人自筆の御本尊の裏に大石寺十四代日主上人御染筆遊ばされ候、大石寺と要法寺と万代不易両寺一寺の御認に相成保証書は如何御会通に成り候や御尋申し度存し居り候処、御引取に相成り残念に候成り。
 十一月十六日 (住本寺にて)蓮興寺
黒川屋殿並に御同行参る
一、元禄中大石寺より奉行所差し出し候返答書は敢て造仏不堕獄・読誦不無間と申す義には之れ無し、是れは日俊日啓の両師・元来造仏読誦の要法寺より大石寺へ住職成され候御身ながら、大石寺の御堂に於いて説法の砌り毎度造仏堕獄・読誦無間の法門を鳴らし北山本門寺を破責し給ふ処より同寺憤怒に堪えず、爾らば迚て自力の法門を以て敵する事は叶はず卑怯にも権門に伝手あるを頼み奉行所へ訴へ造仏読誦を無間地獄と申す御制禁の自讃毀他を犯し候旨を申し立て候に付、両師にも元来大石寺素生の御方に候はゞ●りなく経釈祖書開山の遺文を以て全く自讃毀他にあらず法相の爾る処と十分の破責成さる可きの処、悲ひ哉御身元来要法寺より御出で候事故、祖書遺文の如く明白に是を弁ずる時は自ら旧寺の悪を顕し御身に取りても甚た御不都合の場合も之れ有る間、曲げて造仏堕獄等と高座にて自讃毀他の説法仕り候とは本門寺無実の申し懸にて中々左様の事高座にて申す筋は之れ無し、其の証拠は箇様々々に候と余儀無く公辺へ対し且らく遁辞陳謝し給ふ迄にて、全く造仏読誦堕獄にあらずと申す返答書の文面とは存せず候。
一、大石寺十四代日主上人より要法寺へ目師御自筆の御本尊を授与せしめ両寺一寺の称号を御免許御裏書成され候事も、要法寺且らく十五代山法理一統の旧規に縛られ余儀無く造仏等を相始むといへども、其の当時の御貫首方御内心には冨士を大本寺と御崇敬成され大石寺の正流を欣慕渇仰巳に御登山迄成され候御貫主方も在らされ候由、大衆檀方も之に准し何れも恭順正法の信力深く造仏読誦の泥中に在りといへども心元の清潔・蓮華の如くなるを好み、若し時節到来し汚染の旧幣弊を捨て化儀化法共全く大本山大石寺の法式之如く本末内外共相改め候砌は、万代不易両寺一寺たるべしと申す御染筆にて全く造読汚濁の其の当時の事には之れ有る間敷と存じ候、例せば宗祖御在世の砌は勿論・方今に至ても冨士山は浅間菩薩の山とて大謗法の地に候得共、広布の時節来らば本門戒壇を建立すべしと予め未来を示し給ふ如く、一閻浮提は悉く謗法の国・立錐の地も本化の所領とては之れ無く候得共、一閻浮提の内半分は日目嫡子分として等と遊ばされ候、是亦其の当時の事にはあらず遠く未来広布の時をさし給ふ、要法寺両寺一寺の称号も文に改悔の時とは之れ無く候得共、主師の思召を推し奉るに是亦要法寺本末一同表裏内外共旧弊の謗法を改め大本寺へ恭順の砌は両寺一寺万代不易たるべしと申す事にて、全く造仏読誦を御許容成され候事とは存せず候、若し爾らざれば暫時の予義、継子一旦の寵愛にて必す主師の本意にはあらざるべし、所詮右等の事は大石寺歴世たりとも末師の書類、造読不正意は本師たる祖師開山の御掟本師を捨て末師の言に附くの理更に之れ無く、仍て此の上何か程右様の御書類を以て法義御難問之れ有り候共、本師の明文に之れ無んば御取合申間敷此段堅く御断申し入れ候以上。
十一月 森村平治
黒川宗十郎
蓮興寺様
住本寺様

編者曰く巳上の四通は雪山文庫蔵慈雲(後の学頭法乗院日照)写本の侭此を転記す。蓮興寺とは時の住職八木日融、住本寺とは堺市にあり要山末なり、森村平治とは時の蓮華寺の講頭なり(故荒木清勇。の師なり)
猶重版の時に漢文態の所を多少延べ書となし易読に供したり。

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