富士宗学要集第七巻
両山問答(本門寺問之部)
(本門寺問之部) 恭 白 大石寺住職大講義下山日布上人閣下。 夫れ教院の第壱号達書は八山協和誠実心を以て之れを議定する処なり、然るに大石寺僧衆の中に八山一味同心と申すは本意にあらず、官命なれば止むを得ざる処なりと虚言を構えて愚民を誘惑する者ある由にて、俄然三春法華寺へ改門を願ひ出て従来安置する京都の本尊に至りては、或は墨を塗り或は焼き捨て甚しきは渡り仏眼寺に安置する開山興師の尊像を破毀するに至る長大息の至りなり、摩訶迦葉経に云く仏弥勒に告く当来世後五百才に自ら菩薩と称して狗法を行ず、譬ば狗有り前に他家に至る、後狗の来るを見て瞋恚を生じ、崖柴して之を吠ふ、内心起想して是れ我家と謂ふが如し、比丘亦爾り、先つ他の施家に至り己家の相を生じ既に此の想を貪る後の比丘を見て目を瞋し之を視る、心に嫉恚を生じて互に相誹謗して言く某比丘是の如き過有り汝親近する莫れと、岩代の師檀数々是非を申請すれども爰に猶予するは聊か此の文に恥つる処あればなり、夫れ富八二派に大本山を立て七に二を加し九大本山たらんと欲するは本能大石両寺の協議する処なり、其の議教部省にて泡沫となり今本山と称する者各縁由ありて然り、彼れを抑へ此れを挙れば彼此互に恭順せず終に苦情絶ゆる隙なし、故に国中の諸本山は従前の通り差置かれ各本山の中より、当器を挙げて之を管長たらしめ一宗を統轄せしむべしとの旨に承伏同心せり、爾後遂に七大本山を破り更に勝劣一派の管長職を掌握して興門の権利を回復したるは京都の開山へ尽せる義務なり、然も官威をからず職威を張らず功にほこらず、自ら管長執事を辞して諸本山へ十分の権利を与へ議定せしむる処の第壱号の達書なるを顕に公議の実理に伏し密に官命なれば止を得ざる処と等愚民を欺誑するは道徳を固守する僧侶の道にあらざるべし、抑も会津仙台等時々催促すれども教院費資本等を上納せざる而已ならず、近頃回答だもせざるは全く此れ等の虚言に根拠する処ならん、曾て其の教導や広布の時至らば先つ此の宝冊を以て上聞に達せんと、文政六年に隠士久遠の記せる一大宝冊の旨を出でざる由、故に今重須小泉京都等の末派衆徒に代り、其の宝冊に就いて疑端を述べ実理のある処を得て自ら疑氷を解き復末徒をしても諍論する処なからしめんと欲す、請ふ明に真正の主義を開示して寸も弁解を惜むなからんことをと爾か云ふ。 本門寺住職 明治十一年十二月 権少教正玉野日志 一、宝冊に云く大井の庄司光重三男なりと、精師家中抄之ゆに同じ。 御直筆に云く、大井橘六三男橘三郎光房は日興舎弟なりと、明に知るべし開山は三男にあらざるなり、今何等の文によて三男と定めたるや之れを明示せよ。 一、宝冊に云く叡嶽三井に渉猟し顕密二教を学ぶと、人を称揚するに虚飾を以ってするは史を作るの本意にあらざれば定めて本拠あらん、予いまだ之れを見聞せず開山十三才にして本祖の弟子となりたまへり、其の以前何頃か叡嶽三井に渉猟したまへるや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、後一子を以て師に奉り如寂坊日満と名く、日満は阿仏房の孫、遠藤九郎守綱が子なり、同人記に云く日満幼少にして富士に詣で○既に十余回の星霜を送り幸に御●化に遇ひ奉る、此の文を以って察するに恐くは阿仏房滅後に出生する孫なるべし、今子と云ふ何等の文によるや明示せよ。 一、宝冊に得度の次第日目日華と列ねたり。 開山永仁の直筆には日華を第一に置き次に日目日秀と列ねて、此の六人は日興第一の弟子なりと記し玉へり、今何によって得度の次第を日目日華と定めたるや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、剰へ吏を富士下方に遣し○三人終に斬罪に行はると家中抄之に同じ。 御直筆に云く、一富士下方熱原郷の住人神四郎(兄富)士下方同郷の住人弥五郎(弟富)士下方熱原郷の住人弥次郎此の三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年挙信し始むる処舎兄弥藤次入道の訴に依り鎌倉へ召し上げられ終に頚を切られ畢ぬ平左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官ひきめを以って散々に射て念仏を申すべきの旨再三之を責むと●も廿人更に以て申さざるの間張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと●も終に放ち畢んぬと、又弘安二年十月十二日賜はる御抄を開山直写の本に云く、大進房弥藤次等の狼藉に至っては本源行智の勧に依て殺害刃傷する所なりと、知るべし事実人名人数並に皆御直筆に違す所伝何等を以て証とするや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、同二年弥四郎国重者○蓮祖の小影を作ると。 弥四郎を板の施主と云ふ新説起れり古記に違する者なり。 一、宝冊に云く、門弟各僧坊を構る十有二舎乃ち建る所を以て号を大石寺と云ふ○正応三年(癸寅)十月十二日開堂と又後に十二坊を結する文に右十二坊は草創以来の旧跡なりと。 此の語や漸次に造立せるを今虚飾して云るに似たり、何んとならば十二坊の中に成蓮房の開基高祖直弟越後阿闍梨日弁上人、本境坊の開基興師弟子治部公日延上人といへり、然るに御直筆に云く越後坊は日興弟子なり○、但弘安年中に白蓮に背く、治部坊は蓮華阿闍梨の弟子なり○、但し聖人御滅後に背き畢んぬと、既に迹門不読の邪見を生じて背ける日弁、又背いて日持等に随従する日延、若し夫れ正応年中富士に来りて子坊を構ふ者ならば何ぞ永仁六年の記に弘安年中白蓮に背く、聖人御滅後背き畢る等の筆を残したまふ理あらんや、嗚呼造坊開基の功を圧却して既に背ける邪智謗法の日弁日延に其の名を奪はしめ以って草創以来の旧跡と虚飾する高開両師の冥慮に叶へる理ありや、一を挙げて諸に例するに余も亦た信を置くに足らず、既に建武元年の問答記に日行を下の房同宿と云ふ本住坊亦興目滅後の建立にして正応年中の旧跡にあらざること明なり、何んとならば正応三年は師匠日道猶八才なり況んや、日行をや請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、蓮祖の例に任せ六老僧と定む。 正応三年の後何年何月之れを定むるや若し永仁六年の記に依るとならば日華日目と列すべし、存知抄日代状等に依るとならば移して其の年代に加ふべし、精師開山上野在住中の証に門徒存知抄を引く此の書は正安嘉元の後にありて正応永仁の証となるべからず、或は徳治元年と云ひ又は文保年中と云ひ其の一定の語なきは何ぞや、又本六人大石寺に在り本尊御骨守番為らしむとは何等の文拠あって記せるや、又元弘二(壬申)正月再撰六上足と是れ又何等の文義によるや未審し請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、永仁六(戊戌)春又一字を北山郷に創むと家中抄之に同じ。 永仁六年二月十五日は三堂成就の日なり、何ぞ創一宇と云はんや、当山の所伝は正応四年に丸山に移住したまひ永仁元年に創立し正く六年に三堂を成就したまへりと云へり尤も然るべきか、如寂坊日満記に云く、富士の貴きは興師弘法四十余廻の御旧跡たるに依ると、此の文正く当山を指して記せる語なり何ぞ永仁六年に之を創立すと云はんや、蓋し確証あらば明示を請ふのみ。 一、宝冊に云く、扁して重須の寺と号すと○後本門寺と曰ふと此の語家中抄に基つく処ならん同人日国以来と云ふ、然るに代師伝に自ら引ける建武元年正月七日の問答を聴衆日叡の記録に大石寺大衆重須本門寺大衆とあるはいかん、明に知るべし開山在世より本門寺と称したることを、又云く御在世には重須の寺、大石の寺と云って寺号を呼ばすと大石寺とは寺号なり、上野の寺、重須の寺と云ふは身延池上と云ふが如し、此れ何ぞ寺号を立てざる証とするに足らん、若し夫れ寺号を建つるが非ならば妙法蓮華経王寺、久遠寺等の立号は祖師の謬りとするか、開山四十余年盛に本門を弘宣したまへる戒壇根源の霊場何ぞ寺号を立てざるの理あらん、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、元徳二(庚午)正月大石寺守番の制を定むと。 家中抄に云く、元徳二年正月には大石寺番帳を定め玉ふ是れ永代不易の為なり、日目日郷日時三師の自筆之れ有り。 定め大石寺番帳の事 永仁六年御直筆弟子分目録の列次並に記文(原 本朱書) 大御房 一番蓮蔵房阿闍梨日目二 二番寂日房阿闍梨日華 第一に置き玉ふ 三番理境房阿闍梨日秀三 元徳元(丑巳)年八月十日寂 四番少輔房阿闍梨日禅四 五番上蓮房阿闍梨日仙五 六番蓮仙房阿闍梨日乗六 文保二戊午年三月廿八日寂 此の六人は日興第一の弟子なり聖人御●化後身 命を惜まず、国方に訴へ謗法を責む自今以後と ●も緩怠有るべからざるか。(以上原本朱書) 七番越後公阿闍梨日弁 日興の弟子なり○但し弘安年中白蓮に背く 応長元幸亥●六月廿六日寂(原本朱書) 八番弁の阿闍梨日道 九番治部阿闍梨日延 蓮華阿闍梨弟子なり○但し聖人御滅後に背き畢 ぬ(原本朱書) 十番 大夫阿闍梨日尊 十一番 三河公 日蔵 十二番 伊勢公 日円 右鎮に番の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可きの状件の如し。 元徳二年正月 日 朱書御直筆●に三名帰寂の年月日、今私に記載し照考に備ふるのみ、今始めに大御房と云ふ此れは是れ開山の語にあらざるべし、御本坊、御大坊、御本山等は末徒本坊を推尊して云へる語なり、いかんぞ開山自ら番帳を制したまふに大御房と書したまへる理あらんや(是一)、又正応年中に本六人を定め中ん就く日目をして大石寺を管領せしむといへり、然は則ち日目は大御房の本主にして番衆にはあらず今何ぞ之れを番衆に列する理あらんや(是二)、又今列次嫡弟日華を日目の次に列ねたるは開山直筆に違するのみならず、日目嫡弟開山授学弘教抜群の日尊を日道の次に列ねたるは何等の所以なるや未審し(是三)、又日弁は弘安年中開山に背き既に元徳二年より二十年以前に死せり、既に背き且つ死せる日弁を此の番帳に加ふる理ありや(是四)、又田中熱原等三分の二は日弁の教化にして不惜身命の弘化日秀劣るべからず、故に蓮祖其の功を賞して二人を聖人と書したまへる処なり、若し夫れ正応年中より富士にあって坊を造り守番勤仕すとならば永仁六年本六人を定むるに何ぞ日弁を除いて日乗を加ふる理あらん、必す日秀日弁等と列ね又今の列次も日乗の次におくべからざる道理にあらずや(是五)、日延も亦聖人御滅後背き畢ぬと記したまへり何ぞ元徳二年の番帳に之を加ふる理あらん、蓮祖値遇不惜身命の師なり復何そ其の例次日道の次に置くべき理あらん(是六)、又日秀は前年八月十日、日乗は十三年前三月廿八日に帰寂せり死して居ざる者を勤仕の番帳に加ふる理ありや(是七)、此れ等の不審あるを以て古書に己義荘厳の偽書を作ると云ふ、請ふ之れを明示せよ。 一、宝冊目師の下に云く、文字を走湯山円蔵に学ぶ○興師円蔵と法義を論ず○聖人感悦して曰く是諸天人世間之眼なり宜く蓮蔵坊日目と称すべしと。 家中抄には建治二(丙子)卯月八日受戒す本に従て名を立て蓮蔵坊と号すといへり、立名の先後事情大に古記に反せり、今何等の文を写出して此の新説を唱ふるや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に将に云く、蓮祖と法門を論ぜんとす蓮祖師に命じて対と為す。 家中抄には伊勢法印と問答は挙けたれども其の年月を明にせず、今何等の文を写し出して池上入御の旅次師に命じて対と為すと定めたるや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、六年春豆州に如き一門縁者を教化す甥某弟子と為る日道と名づくと、道師伝に云く、弘安六(辛未)豆州波多郷に生る襁褓の中より目師の弟子と為る。 家中抄には此の説なし弘安六年より回国を志し先つ新田に趣き次に森玉野等に行化する由見へたり、六年八月十二日日尊受法す是れ則ち日目最初の弟子、尤も嫡弟と云ふべし、道師伝に若年自り出家と作んと欲す目師の弟子と為り富士に登り上野に居住すといへり、若年ならば極幼少にあらざるべし他家の記も漏らさゞる精師いかんぞ自家の記をもらして挙けざる理あらん、然るに反して此の新説を唱ふるは嫡弟日尊の名を奪はんと欲する策略に出つる語にあらずや、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、興師蓮祖の例に順じ六老僧を撰ぶ師其の魁と為る正応徳治文保等一定の証ありや、永仁の所定によるとならば日華師を以て其の魁と云ふべきなり、請ふ明示せよ。 一、宝冊に云く、元徳二年興師書を以て大石寺を視篆せんことを命ず師乃ち之れに応ず其の状に曰く日興跡条々の事。 これを大事とす当山日浄記に云く、然るに日有未聞未見の板本尊之れを彫尅し己義荘厳の偽書を作る其の偽書とは、此の文並に番帳を指すなり、所言全く実跡たらば驚歎に堪へざる処、所言実に悪口ならば速に之を削除し復末徒の悪言をも禁ずべし、請ふ明示を惜むなかれ。 一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し日本国(乃至)一閻浮提内山寺等に於て半分は日目嫡子分と為て管領せしむ可し半分は自余の大衆等之れを領掌すべしと。 今此の文を按ずるに目師閻浮の座主にして半分領すべき理なし、半分領する者にして本門寺の座主たるの理なし、文的然と不通をなす何れの処にか一国の大王にして其の半分を領する国王ありや、血脈書に曰く四大菩薩同心して六万坊を建立せしむ何れの在所たりとも多宝富士本門寺の上行院と号すべきなりと、既に夫れ六万坊は本門寺の管領すべき末寺なり、然るに座主なれば半分領すべしと大道理の容れざる処開山豈に此の不都合の筆を残したまふ理あらんや(是一)、又此の文目師を座主と称揚するに似て却て半知事と褊挫するに当れり(是二)、又為座主とあれば言足んぬ後に日目為嫡子分の六字頗る無益剰長の詞なり、又嫡弟付弟は仏門の通語今珍らしく嫡子分と云ふ未審し(是三)、又此の文日目在世に本門寺建立ありと認めて書したまへる置文なりや、複本門寺建立の時数百年前に●化したまへる日目の像を以て座主たらしめ嫡子分として半分領せしむる義なりや、蓋し又初住得脱の者の劫国名号の記を受け時を待て出世するに類し、日目再生して座主となり嫡子分として半分領する義なりや、初住得記の者に決して半分管領するの義あるなし、浄行菩薩は大導師となりたまへる旨血脈書に見へたり一閻浮提の大導師本門寺貫首亦則ち半領主にはあらざるなり。 一、日興が身に宛て給ふ所の弘安二年の大御本尊日目に之れを授与す本門寺に掛け奉る可きなり。 本尊の文に云く現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日。 弥四郎国重は姓氏明ならず年譜攻異に云く弥四郎は駿州の人なり行状未た攻へず、一に南部実長と曰ひ一に実長の長子と曰ふ皆不審なり。 家中抄に弥四郎国重ことわ日道を大石寺に移して御本尊御骨●に御筆の御書等を守護せしむと云ふを以って見れば実に駿河の人なるべし、聖武天皇は東大寺を建立したまひ桓武天皇は伝教大師の大檀那なり、本門戒壇何ぞ独り姓氏形状も明かならざる弥四郎国重を以て願主とするの理あらん、身延相承秘法抄等の文並に造立せらるゝ願主施主国王なること明なり、知んぬ今の本尊は弥四郎国重等が現当二世の為に既に造立せる法華堂の本尊なりと云ふことを本門戒壇の四字あればとて文字一と雖も而も義各異なり、決して大日本国皇帝の受戒したまへる本門寺事戒壇の本尊にはあらざるなり(是一)、又若し実に上野に事戒壇の本尊を安ずとならば何ぞ更に当山を建立して本門寺根源と称せん、精師之を横計して未来の棟札なりと云へり、然るに永仁六年二月十五日之を造立すとあるはいかん、又未来に造立する三堂の地頭は石河孫三郎なりや事戒壇造立の大施主は石河南条にして合力小泉上野法華講衆等なりや、又則願主弥四郎国重にあらざるを如何せん、其の国主此の法を建てらるゝの時は三堂一時に造営すべきなりとは今此の三堂を勅宣御教書を申し請ふて盛大に造営すべしと云ふ文にして此の文あればとて未来の棟札とは決して云はれざる処なり(是二)、又実に正応二年に大石寺に事戒壇の本尊を安置し本六人以下守番勤仕すとならば、日尊日順日代等の俊傑之を見聞せざる理あらん、然るに此れ等の師・戒壇本門寺の本尊を語るに及んで一も指示せざるは何ぞや(是三)、又願主弥四郎国重は波木井の嫡男なりと南部一門は興師の弟子なり、永仁六年の記に独り此の大願主を漏らせる理あるべからず、然るに富士下方市庭寺弥四郎入道は越後房弟子なり仍て日興之を与へ申すとあるより外に弥四郎の名あるなし、若し此の者国重ならば恐くは市庭寺の本尊なるか未審し(是四)、又其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語って云く大石寺に戒壇の本尊あり惜いかな九代日有師之を彫刻して其の本紙を失すと、有師板本尊を彫刻して癩病を感ぜりとは日興一派の伝説なり、一定癩病にして杉山に籠ることは家中抄に見へたり別して高徳と尊崇する上人此の悪病を感じたる所以なくんばあるべからざるなり、然るに日法彫刻と云ふは精師先師の失を隠さんと欲する筆頭より出たるなるべし、其の説に云く或る時日法御影を造り奉らんと欲し七面大明神を祈念し玉ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以て戒壇院の本尊を造立すと、此れは是れ日法浮木を感得して之れを彫刻するの説なり、宝冊什宝の始に云く末代不朽の為に楠の板に書し○彫刻者中老僧日法に之れを仰せ付らる、これは蓮祖自ら不朽をはかり楠板に書して之を彫刻せしむるの説なり、又云く古伝に云く此の木甲州七面山の池上に浮び出でて夜々光明を放つ南部六郎実長之嫡子弥四郎国重之れを取り上げ以て聖人に献ず云々、これは弥四郎木を得て献ずるの説なり此は是れ巧に放光樟の意を剽●するに似たり、畢竟此の説は弥四郎を事戒壇の願主とするに足らざるを以て新に古説に反して板の施主なりと遁辞を構ふにすぎざるなり、其の一家の三説此の如く齟齬するは何ぞ元と有師の彫刻を隠さんと欲して種々に工夫を廻らす故にあらずや、復則弥四郎は決して波木井の嫡男にはあらざるべし。 一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領す修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つ可きなり御骨を安置する故に墓所と云ふと云云。 今按ずるに波木井入道日円興師へ贈れる状に云く無道に師匠の御墓をすて失なき日円を御不審候はんは争か仏意にかなはせ給べきと門徒存知抄に云く、甲斐国波木郷身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事、彼の御廟の地頭南部六郎入道(法名は日円)日興最初発心の弟子なり(乃至) (已上)四箇条の謗法を教訓する処日向之を許す云云、此の義に依て去る其の年月波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢ぬ仍ち御廟に相通ぜず、所破抄に云く身延の群徒猥に疑難して云く富士の重科は専ら当所の離散に有り縦ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべし既に御墓に参詣せず争か向背の過罪を遁れんや云云、日興云く此の段顛倒の至極なり(乃至)身延一漸の余流未だ法水の清濁を分たず強に御廟の参否を論ず汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや迷闇尤甚しと、日尊実録に云く日興上人仰に云く全身砕身二種の舎利あり彼れは砕骨なり、法門は大聖人の全身なり砕身に依るべからず全身の法門正義ならば先聖必定正直の頭に居すべし云云、又云く大聖人御遺骨身延山に納め奉るの段誰か疑貽有らんやと、四文を以て照すに興目在世には大聖人御骨大石寺にあらざること皎として白日の如し、若夫れあらば日尊日順等何ぞ之を知らざるの理あらん、今其現存する物は後世身延の墓をあばいて盗み出せるか蓋し将た作物して偽説するにすぎざるなり、夫れ砕骨の如き必す墓所に納めて散乱せざらしむるを以て子弟の礼孝とす、曾って霊宝等と称して宝蔵中に置くべき物にあらず、凡そ身躰骸骨を隠し納めし処なれば墓所と云ふ上に石塔を立てゝ永く子孫の孝福を行ふべき目表とす、然るに其の墓所と白骨とを別処に置いて之れを愚民に衒売するは仏祖の意に叶はざるは必然の理なり、身延に後世堀出して、玻璃塔に納め一蔵を構へて中央に置き以って愚に衒売するを羨む心より此の正骨も出来して遺状の一箇に加へられたるものならんか。 (已上)三段共に疑ひあり、請ふ真理を開示せよ。 一、宝冊に云く、乃骨を二瓶に分ち以富士の上野と洛の鳥部山に塔す。目師の御骨は鳥辺山へ納め奉ること一派に於いて異論なく家中抄にも両処に之れを記せり、文政六年に至りて始めて分骨の説起れり後には開山の分骨も出来するも知るべからず。 一、宝冊に云く、目師上洛の時大石寺を付属せらると。 精師処々に留主居と書せり付属あれば留主居にあらず、況んや精師種々付属の会通を設くれども実に会通にして慥の支証に擬するに足らず、宜なるかな郷道三箇年の寺跡論ありたること。 一、宝冊に云く、石之坊当山濫觴の地なり○故に爾か名るなり古来伝て云く阿育大王立る所の石宝塔の基なり此の石有る故に○大石け原と云ふなり。 家中抄に云く、異地に移すべからずとて所を以て寺に名けて大石を以つて号を建つ○古伝に云く阿育王の石塔此の所に有る故に大石原と云なりと、又云く然らば此の所にも石塔之有るか伝記せざるは一の不審なりと云云、此の石を石宝塔の基と定め又説法石と称するは精師後のことゝ見へたり、南条の請に応じて上野に移りたまへるに実に信順の地なり何ぞ石上に座して法を説くの理あらん報恩坊以下廿一坊は後来造立あるべき坊名なりや単に虚名を列ねて飾りとするの義なるか蓋し従来其の坊あつて今に存する処なりや。 一、宝冊什宝の部 一、本門戒壇之板大曼陀羅 壱 幅 前に疑氷を挙くるが故に今之を略す、蓋し全く弥四郎国重に授与之とあり故に親しく拝するを許さずと、或は云く裏に身延山久遠寺とありと、或は云く日有之を彫刻すとありと、此れ等は論ずるに足らざれども親しく表裏を拝せしめて誹謗罪を救はざるべからず。 一、日蓮聖人御影 居長三寸 一躰 日精師の義によらば末代未聞不見の者の為に此の像を造るにあらず、等身の御影を造り奉らんと欲して先づ此の像を造り尊覧に備へて許可を請ふ処なり故に造初とも最初仏とも云ふなり、然るに今却つて此の像を未聞不見の者の為に造ると云ふ事実相違せり(是)一、薄墨素絹白五条袈裟なりと云云、精師は生御影と同彩色にして後世手もつけられざる尊像なりといへり、寛師は此の像を挙けて薄墨染の袈裟衣の証に備ふ、然るに今白五条袈裟なりと書し近来之れを白五条の証に擬す泣血の至りなり、神智云く袈裟とは梵語此には翻じて染と為す色に従つて名を得、五七九の三衣を通して袈裟と名くることは加法色にて染めたる物なるが故なり、其の染めざる白色にして袈裟と云ふ物ありやいかん、然るに今白五条袈裟なりと云ふ白五条は魔物にて決して袈裟と云ものにあらず、何の趣意あつてか聖人の剃髪を焼消して彩色せしめたまへる霊像に変白法滅の相を現ぜしめ奉るや、寛師の義のごとくならば白色は薄墨より一等下位とす、何の趣意あつて自ら薄墨に彩色せしめたまへるを引落して白色に変ぜしめ奉るや(是)二、日法自筆の手形ありと云ひ精師は日法弟子の手形ありといへり、今古説に反す何れか是なりや(是)三。 一、日蓮聖人御肉附の御歯 一 枚 又御生骨と称す蓮祖存日生歯を抜き血脈相承の証明として之れを日興に賜ふ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之れを譲り与へて一代に於いて只一度代替虫払之尅之を開封し奉り拝見に入れしめ常途は之を開かず云云、怪ひかな京都通用の昔は此の説なし、文政年中に至つて此の説起れり、又其し之れを説く、肉年を追て長大すと、家中抄に云く其の頃御牙歯脱落す聖人此の歯を以て日目に授け云く我に似かり問答能くせよとて玉はりける御肉付の御歯と申すは是れなり、(此の御歯当山霊宝の随一也広宣流布之日放光給ふべしと云へり)、今放光したまふべしと云へりと云ふ訝し唯虚実を論せず妄伝を記して愚信を取るの謂ひならん、仏法中に此の道理決してあるべからず(是)一、自然脱落するに肉の付いて抜ける理ありや癩人か蓋し将た口中の腐敗せる者の外に決して肉の付いて脱落する理あるべからざるなり(是)二、精師ぬけたる歯を問答よくせよとて日目にたまはりたりといへり、今古説に反して生歯を抜いて付属の証明として日興に授くと云ふ仏法中に生歯を抜いて付属の証明とする道理ありや、身を傷けて法を伝付する文証ありや、外典身躰髪膚を保護するを以て孝養とす況や五十の功徳を備へ六根備足せる法華の行者自ら身を傷けて付法の証とする理あるべからず(是)三、精師は唯霊宝の随一と云つて其の余を語らず、然るを生歯を日興に授け日興より日目に授くと偽説し代々付法の時之れを譲与し一代一度代替に之れを開封すと云ふは文政年中に事を巧んで愚信を釣るの策略に似たり道徳心の恥つべき所業にあらずや(是)四、肉身終に朽滅するは仏家の常談仮令ひ肉の付いて抜けたりと許すともあらば、其の肉終に巧滅するは一定の理なり、然るに実に其の肉却つて増大することあらば全く天魔破旬の所業か然らずば愚民を惑溺せしむる作物には過ぎざるなり(是)五、又溺信する者の云く流布の日歯の不足なる帝王出現せり此の歯を以て備足せしめ、蓮祖なることを知ると、本化国土なることを顕はさんとて生歯を抜きたまへるや、又追才増大する肉を入歯するに至つて取り捨つるや自然微少になりて合するや何れにせよ増大するは無益なり、入歯前に光明を放ちたまふや、又入歯後面問俄開の類なりや訝し、家中抄を以つてみれば抜けたる歯を問答よくせよと玉はりたる迄に別に深き子細もあるざるなり。 一、日蓮大聖人御身骨(入一五瓶升余)一瓶 前に既に疑氷を挙ぐるが故に今之れを略す。 一、日蓮大聖人画像 一幅 鏡の御影と号す伝に曰く蓮祖の在世土佐大蔵之亟に仰付けられ之れを図画せしむ云云、寛師は鏡御影鷲巣に在りと云へり、精師鏡の御影を写すことを語るに及んで当山にありと云はず之れ云はず之れによつて之れを見れば文政年中に設けたる名なるか、唯伝へて大蔵之亟の筆と云ふ迄にて必定大蔵卿の筆と云ふにはあらざるなり。 一、蓮祖真筆大曼陀羅 三枚続 一幅 弘安三(大)才(●)辰三月日、紫宸殿之本尊と号す、伝に云く広布の時に至り鎮護国家の為に叡覧に入れ奉る可き本尊なり云云。 昔し京都通用の節は此の本尊あるを聞かず若し実に然らば日精日寛等の師此れを挙げざる理なし授与書なきを幸に文政年中に設けたる名なるべし興門所蔵の本尊は皆御尋を待つて叡覧に備ふべき本尊なること門徒存知抄に見えたり何そ此の一幅に限らんや。 一、同本門寺重宝大曼陀羅 一幅 傍書に云く弘安三(●)辰十一月本門寺重宝為るべきなり云云。 此本尊授与書なきか、かゝる本尊は精師挙けて残す所なし然るに之を挙げざるは後世求め得たるものならん、若し実に真書ならば大石寺随一等の霊宝なるべし。 一、同病即消滅之曼陀羅 一幅 傍書に云く建治一(丙)子八月十三日又死活の本尊と号するなり云云。 病即消滅の曼陀羅とは讃文によつて建つる処ならん、死活の本尊とは後巧に設くる名なるべし名は其の区別を知る迄なり何ぞ巧に名を設くるに及ばん。 一、同紺紙金泥曼陀羅 一幅 傍書に云く文永元(甲)子三月十五日 一、同曼陀羅 九幅 二点十幅の本尊中一を別挙して余を合挙するはいかなる趣意ぞや、一は真書なれども余は未決なる故か、蓋し将た年号授与書なき故かいぶかし。 一、一部一巻法華経 (長二寸極細字) 一部 此の真跡ある旨は古来の書に見へたり。 一、日蓮聖人御書 四十五巻 何人の筆ぞや四十五巻の御書ありとは古来見聞せざる処なり、定めて高開目等の筆にあらずして。かに後世の写本なるべし。 一、此の外秘書数多之れ有り。 数多の秘書其の題名を挙げざるべからず挙げざるは唯た語のみなるか。 一、日興上人筆座替大本尊 (堅七尺一寸五分横三尺六寸) 一幅 主題の下に日蓮在御判(左に日興奉書写之右に日目授与之)依つて座替と号す日興従り日目姓々相承手続支証の大曼陀羅なり、此の立号は精師より始まるか然るべからず今其の年号を挙げざるは何意ぞ、精師云く大石寺建立の年の本尊なりと然は則ち正応二年の本尊なるべし、同三年十月十二日大石寺開堂前に既に座替ありしや若し正応三年の本尊ならば何月何日ぞ、座替あれば隠居なり、然るに永仁六年三堂成功の後三十六年の間盛に本門を弘宣し自ら公家に奏し武家に訴へ復弟子衆をしても代官たらしむ、其の間遂に閻浮大導師の職を辞して隠居したまへる事跡をみず、何ぞ此の本尊を以て隠当の座替を証する理あらんや立名当らず。 一、同筆一部八巻法華経 二部 昔は細大両部と云ふ今則大字二部と書せり一本は余人の筆なるべし蓋し後世求め得たるか。 一、同述作の書 八巻 其の書目あらざるか又興師の御自筆なるやいぶかし。 一、富士一跡門徒存知抄 一巻 何人の筆なるや定めて開山の直筆にはあらざるべし。 一、同筆書類 十巻 目師書類十巻ありとは古記に見へざる処なり何等の書なりや。 一、日目画像(三位日順之れを図す) 一幅 確証ありや古記に見へざる処なり、文政年中に名を日順に借るなるべし。 一、日道著述書 五巻 是れ又古記に挙ざる処なり何等の書なりや。 一、摧邪立正抄 (三位日順筆同作) 一巻 一、本因血脈詮要抄(同同) 一巻 右両書何人の筆なるや定めて日順の直筆にはあらざるなり、文政年中に名を日順に借りて虚飾する者ならん。 一、立正安国論以下六通共天子将軍へ奏聞を経る処の訴状の写なるべし、此の中に日道申状は未奏の旨家中抄に見へたり、然しは則ち此の一通は奏聞を経へざる処の訴状案と云ふべき筈なり。 一、道具類始に五点を挙ぐいぶかし。 原殿抄に云く涅槃経の第三第九二巻御所にて談じて候しを愚書に取具して持来つて候聖人の御経にて渡らせ給候間慥に送り参らせ候と云云、離散の節随従せる尊師の云く聖人御所持の道具等決して持出すべからざる旨を厳重に命ぜられし故に弟子中に於ても一も持ち出す者なしと取意、立つ鳥も跡を濁さずと実に然るべし、今其の五点ある物は後世虚飾して名を蓮祖に借るなるべし。 一、歴世中日乗日底は徳行伝失ふ故に見ず聞ず記する能はずとて其の死生の年月をも挙げざるを今共に文明四年に死すとせり、日鎮十六才にして付属を受くるとあるを以て推して両人の死を文明四年に定めたるなるべし。 一、子供杉 伝に曰く云云未曽聞の伝なり曽って謗法を禁ずる興門の口実にすべき事にあらざるなり。 一、牛石 一大蛇窪 右両伝共古記に挙げず口牌に残らず全く文政の虚伝に出てたるなるべし。 前顕細大となく雲霧を払て白日を見んと欲する処なり、文中事に臨て知らず識らず不敬を醸する辺もあらん請ふ寛怒して唯実理を得んと欲するの志を燐まんことを。 敬白 去る二月七日更に投書す、時に使僧の帰ると共に重ねて1月附を以て一書を恵み玉へり、披いて之れを一読するに目師の遺状を●捏して預り支証の手形なりと曲会すると、三俊傑が其の事を論ずるに之れを指示せざるを、涅槃経を引くに用なき大論に例するは却つて当らぬ会答りと難ずるに詰り、本門寺根源を造立の盛挙と二箇の御相承とを三俊傑の筆語中に指示せざるを反難したまへるの書なり、即時之れを弁ずる難きにあらざれども既に再言せずと断言せし上、発途前頗る繁冗なれば先つ其の儘にして漸く当節寸暇を得るに及んで再ひ之れを読むに、其の添文中に云く其つ承り候へば近日御上京の由驚き入り遺憾に堪へずと云云、夫れ霑師の会答の起るや愚が両度の投書を披見したまへるに始まれり、其の再度の末筆に明に一月中には出京の心算と書したるを見ながら何ぞ始めて驚き玉ふ理やあるべき、又言を老後によせて回答を促すの文なるに其一月何日に成れる書かは知らねども徒に七日を経過し之れを贈り玉へるは言行大に相違するにあらずや、此れ必す愚が発途前寸隙なきを察し他日愚夫愚婦に対して云云する処あらんと欲するに策に出てたる語に似たり然らざればいかんぞ不日に出京するを知り玉ひながら既に一月に成れるを二月七日に投書するを待つて之れを贈り玉へる理あらんや其の心を用ひ玉へる至れるや、師に対して再言せざるも聊か末徒の為に之れを弁じて識者の校量に供せんとす。 一、文に云く、昔は貴山の根拠とひけらせし宗祖の御真筆の額面は先に愚が難責に追つて遽かに勝頼の暴動に紛失し其の真偽弁じがたしと云云、真書現存せざれば強いて偽書と暴言する者に対して之れを争ふべき由もなく予亦之に依て云云、せしことなければ答弁せざるなり、今始めて紛失すと云ふにあらず則ち専師自筆の什宝記に云く一本門寺額の写、此の額真書当山にありしと云ふことは京都日辰の書に見へたりと(取)意、既に紛失したるを以て他山の書を挙けて之れを証せり辰師親く拝して筆を書中に残し精師未来の額と称すれども亦信じて疑はざる処なり、其の何れに対して根源と称するやの難に至りては全く身延を大日本富士山本門寺根源と書し玉ひたるならん、二箇の御相承の文之れを思ひ合すべし、宗祖の称揚載せて祖文に明かなれば煩く贅せず。 開山の云く、一閻浮提の内日本国、日本国の内甲斐国、甲斐国の内波木井郷は久遠実成釈迦如来の金網宝座なり、天魔波旬も脳すべからず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり、怨霊悪霊もなだむべし、○法華経此の処より弘らせ給ふべき源なりと、又云く惣じて久遠寺の院主学頭は未来までの御計ひにて候ふべしと云云、此れ等の文を以て之れを案ずるに全く身延を称揚して富士山本門寺戒壇を造立すべき根源の霊揚と云ふ意にて書したまひたる文なること明なり、然るに御滅後謗土と変ずるを以て開山予め遺付に基き之れを当山に移して更に事戒壇根源の霊揚と定め則ち本門寺と祝称したまへたるなり、理既に然り而して御真跡存せざればとて何ぞ強いて之れを偽書と確言せん、其の紙面を額に模写して高揚したまはずして末徒の扮紜を拒ぎたまはざるの難に至りては目師の遺属を明かしたまはずして三年の争論延いて七十年に及びしを難ずると似て一般なり、凡識の得て知る処にあらず、昔は真跡を蔵するが故に之れを称揚す今は紛失して写のみなるが故に之れを高称せずして人の知らざるに至るも亦何ぞ強に之れを咎めん、真跡ありと云はゞとて詰つて口も開けざる石山の番帳の如き拙偽物にはあらざるなり。 一、三堂亡ひて跡なく云云、いまだ再興せずと雖も其の跡現に存するは先に弁ずるが如し、蓋し御影堂鎮守堂に至りては異論あるべからず(鎮師云に富士に帰り伽藍を建立し所謂本堂御堂垂迹堂等と云を以てみれば昔しは貴山にも三堂を建立すと見えたり)、開山在世に事戒壇根源の本堂を建立ありしことは幸に引挙し玉へる●邪立正抄の文を以つて之しを微せん、曰く法華経は諸経中の第一、富士諸山中の第一なり、故に日興上人独彼の山居を卜し爾前迹門の謗法を対治し本門の戒壇を建んと欲し本門寺の大曼陀羅を安置し奉ると(此文若板本尊を指すとならば何ぞ心底抄に安置の仏像は本尊の図の如しと記し玉ふべき理あらんや)、此の文正しく本門戒壇を建てんと欲して先づ根源の道場を開き本門の大曼陀羅を安置し玉へりと云ふ文なること明にして全く開山の一法華本門寺根源永仁六年二月十五日造立と記し玉へる文に的応す、是れ正しく当山の本堂にあらずして何ぞや、其の得手勝手に今の本門の大曼陀羅を安置し奉るとあるを曲けて板本尊に擬せんと欲したまふとも、日興独り彼山居とし、と云ひ重須談所表白の文に急いで此の地に本門寺を建立し給へと云ひ、又日満記の文に富士の貴きは興師弘法既四十余廻の御旧跡為るに依て住居の僧衆猶老若を撰ばず偏に聖人御座を仰ぐ処なりと云ひ、開山嘉暦二年八月の奏状に駿河国富士山住日興と書し玉へる等の文は泛爾に富士此の地との玉ふと雖も、全く当山を指し玉へる処にして決して上野を指し玉へるにあらず、いかに云ひくろめんと欲し玉ふとも識者こゝに惑ふべからず。 一、今残れるは怪しの棟札のみと云云、其の理の塞がるを見ざる怪しの棟札と其理既に塞がれる、怪しの番帳遺状等と証明を立てゝ対校熟拝し一に真偽を決せんことは当山師檀の希望する処にして敢て辞せざる処なり、其の之れに応じ玉はざる限りは人必すあられくるひの誣言なることを知らん、後日之れを微するべし。 一、偖て正慶二年二月十三日の状に戒壇の本尊を載せざるは道理至極せる処なり、此の状は二月十三日日興尊師七日に当り目師重須に会し興尊の遺命に依り其の奉行たるべきの職を奉じ御影御守護の為、暫く上野六人の老僧の方へ預り奉るべしと申す預りの支証手形なり、但し家中抄目師伝を案ずるに云く、去年以来(正慶元年なり)天下大に乱れて何れの年も兵火を見ざるは莫し何れの月も干戈を動ぜざるは莫し、之れに依つて御本尊御影奥州まで下向す、其の後程なく御登山之れに依つて日目本尊を授与す、其の端書に云く奥州新田日盛御本尊御影御登山の時奥州まで下向行躰の者に依り南部阿闍梨日経之を授与す正慶二年の三月日・日目在判と等、乃至且く兵火を避け玉ふこと文義明白なり等云云、鳴呼作者なるかな、中にも目師の置文を預り支証の手形なりとは上出来なるべし、夫れ正慶元年は京都以西に事ありと雖も以東は平穏なり、同二年正月は伊予の星岡に事あれども外にいまだ兵火の声をきかず北条高時の威勢依然として然も閏二月には兵を吉野赤坂に遺はして両城を陥れ護良親王の危急想像せられたり、此の月より京都以西に事ありと雖も以東は亦依然たり、今よりして之れをみれば勤王の兵峰起して鎌倉の危きこと累卵にひとしきも其の当時に在ては夏五月新田義貞義兵を上野に挙ぐるに及ぶまでは更に危急と噪動するの景況を見ず、況んや富士郡重須の郷に於て百里以内にいまだ兵火の声だもきかざる二月十三日に胡乱堪へて御影を上野に預け之れを奥州まで贈り奉べき理決してあるべからざるをや、又今年いまだ京都以東に兵火をきかざる二月十三日に胡乱堪へて御影を預り、板本尊と共に。に百四五十里の道程を経て奥州新田迄贈り奉るは何等の故ぞ、只其の兵火を避くるが為ならずや、然るに漸く兵火を聞き弥よ其の熾盛なるの前三月既に富士へ還し奉るとは何等の理ぞ笑止千万なり、鳴呼霑師にしてかゝる小児をも欺き得べからざる言を発したまふは全く勝敗を論ずる意より実に血迷ひたまひしにあらずや、又かゝる噪動の事あらば奥州への上下本六新六共に之れを守護し奉らざるを得ざるべし、何ぞ此の大事の本尊御影を只日経にのみ托する理やあるべき、其の本尊諸共目師の本国たる奥州へ御志御下向有つて且らく兵火を避け玉ふとは今始めて●捏したまふ想像の臆説なるのみ、又目師等開山忌中の報恩も営み得られざる噪動出来して奥州へ下向し玉ふとならば争て往代の書に其の事を記せざる理やあるべき、然るに一も其の事を記せざる上、日満記に幸に御還化に遇ひ奉り恋慕を懐き御葬を遂げ一に一結衆に列り石の妙典を書写して御廊の内院に之れを納め七々の忌影を迎へ微少の供具を捧げ広大の法恩を謝し奉る者なり等と云へるは大衆快く報恩を修行し奉りし景意にして毫も噪動の景況を見ざるは何ぞや、鳴呼精師の文義に熟せざる妄記を信じ国史を曲げて己情に附会し巧に預り支証の一策をこゝに施さんと欲したまふとも豈に得べけんや、且つ日経拝受の本尊の端書を弁ぜば此の文は南部阿闍梨日経は奥州新田日盛の御本尊御影御登山の時御迎に奥州まで下向したる行躰の者に付き其の賞として此の本尊を授与すと云ふ文なること義趣顕然なり、若し然らずと云はゞ新田日盛御本尊御影と書し玉へる文をいかんが消通せん、然るに精師御本尊御影御登山の時とあるに迷惑して言を兵火によせ奥州迄御下向の想像附会を妄記するに根ざし、日盛安置の本尊御影を曲げて当山の御影と板本尊とに擬して遂に預り支証の妙弁を見るに至れり、識者奮復せざるを得るや否や、又三師の置文、文中何等の語意によつて之れを預り支証の手形なりと確認せん、堅からみても横からみても全く置文にして毫も預り支証の語気を見ず、且つ上野六人老僧の方迄守護し奉る可しの文全く当山の御影にあつて御下文薗城寺申状も当山に蔵したる者とせば、(今房州に安じ奉る久遠寺の御影を日時師より度々御還住の懇望状ありときく、御申状御下文は目師へ賜はりしものと云へり、大石寺持仏堂の本尊と共に紛失するを以てみれば、亦或は石山に安奉したる此御影の置文なるも知るべからず)重須の大衆の守護すべきは論に及ばず、上野に住する六人の老僧の御方迄も共に大事に之れを守護奉るべしと云ふ文にして預る故に老僧の方まで守護して来るべしと云ふ文には決してあらざるべし、何んとならば兵火を避くる想像附会して先に弁ずるが如し、其の余何等の事故あつて開山本門寺根源と定めて爰に安置し玉ひたる御影を遽に初七日の忌辰に当りて之れを動し奉るべき理やあるべき亦其の事跡をみず、知んぬ上野に住する老僧も共に大事に之れを守護し奉るべしと云文意なることを若し夫れしからば此の状に板本尊を挙げざるも一往聞ゆれども、かゝる当山の霊宝にまで置文を残し玉へる機会に望んで板本尊等に置文を残し玉はざるは猶以て不審なり強いて之れを難ぜば又地下に目師に質せよと云ふに過ぎざれども理豈然るにあらずや、且つ之方迄の文を僻見し六人老僧互いに守護すべしと私曲せる又鹿を追ふ者か心こゝにあらざる故か知つて態と此の文を曲るかとの駁言に至つては、予が所持の家中抄には上野六人僧之房互とありて房互の傍に異に方迄と書れたれば其の義の通じ易きを取りたるなり、曽つて遽に預り証文なんどゝ●捏したる類にあらざるなり、而して予が本には本文に房互とありし上へ下の成異義為奉失輩者の文も成異義たらん輩者とありて為奉失の三字なし、此れ等は転写の誤りか又は文義の通ぜざるより例の精師の作為して謄写したる者なるかも知るべからず、何ぞ強ちに之れを咎むるに及ばん、且つ預り支証の附会に就て能々此の文を案ずるに又或は番帳遺状等の類なるかも知るべからず、何んとならば文言実に秀群なる目仙師等の御詮議ありし置文とも思ひがたく、又永仁六年に開山六人の高弟を撰定し玉ふと雖も過半師に先つて逝去し玉へるが故に最後に更に六人の高弟を定め玉へり、此れ等は皆並に高撰にあづかりし俊傑にして仏法の大奉行棟梁たり屈して之れを上野の六人重須の六人等と目すべき師にあらず曽つて往代の書に上野六人等の語あるを見ず、此の語や本六人を上野に置いて板本尊を守番せしめ新六人を重須に置いて御影の守番たらしむ等の附会説に出てたる語るべし、順師は過半逝去し玉へるが故に重ねて六人の碩徳を添加すと云へり、若し夫れ守番の為ならば老僧逝去し玉へるに随つて器を撰んで其の欠を補ひ玉はざるの理やあるべき、惟ふに開山高弟選定の意全く法命相続にあつて曽つて重須上野の守番の為にあらざるや必せり、然り而して重須に於て選定し玉へる興師の本六新六なり、何ぞ之れを屈して上野六人老僧等と目すべき理あらんや、又日善師本六にあらず新六にあらず、何人の六老僧にして開山高撰の大機を蔑如し妄に上野六人に加入し加判し之れを支配したるやいぶかし、好し真書に相違なしとも、文中預り手形の語意をみず、又預け預るの理なく又其の事跡をみざれば杜撰●捏せる想像と云はずして何とか云はん、所詮預り支証にあらざる以上は上野の大衆に残し玉へる置文なるべし、かゝる機会に望んで此の状にも載せず、又別に置文をも遺し玉はざるは何等の所以なるぞ識者之れを評量し玉へ。一、蓋し彼の三師等が指示せざるを以つて之れを疑難せば愚も亦貴山に懸り疑難する処多し今一二を挙けて貴答を待ち愚も亦貴難に答ふべしと云云、今挙げ玉へる処の反難は其の事に亘らざるが故に指示せざるなりと云ふも妨げなし、正しく其の事に亘り其の物躰を論ずるに及んで之れを指示せざると天地雲泥なり、泛爾に筆語中に指示せずと云ふにあらず、かゝる反難を以て予が難勢を拒がんと欲し玉ふとも識者許すべからざるや必せり、先にも弁ずるが如く故日興上人独り彼の山居を卜して爾前迹門の謗法を対治し法華本門の戒壇を建てんと欲し本門の大曼陀羅を安置し奉るとは本門寺根源の霊挙造立の盛挙を指示するにあらずして何ぞや、代師当山の末頭を模擬して本妙寺の号を立つ、いかんぞ当山の寺号を模擬して本門寺と称せざるの理あらん、本師未定居所の曲解は先々に弁ずるが如し、蓋し本門寺の号なきが如くなるは祝号私称にして勅立の本門寺にあらざるを以つてなり、多く寺号を呼ばざるは重須と称せば本門寺なることを知るは先に弁ずるが如し、重須本門寺とある文に向かへば曲けて写誤と附会し、御棟礼を鑑定せしめと云へば妄に偽造の悪名を施さんと欲する策を回らすに似たり、鳴呼かゝる大徳と道を論ずべきにあらざれば予は之れに再言するを欲せざるなり、今一歩を譲り仮に無寺号に処して世の識者に質さん、開山更に地を重須に卜しこゝに住し玉ふこと四十余年公家に奏し武家に訴へ盛に本門の大法を弘宣し遂に大導師の職を動し玉はず、嘉暦二年八月の奏状に駿河国富士山住日興と書し玉へる其の住処全く当山なること誰か之れを諍ふべき(日師へ座替ありて重須へ隠居し玉へるの妄其非なること知んぬべし、争で隠居にして日興の名を以て公家に奏し武家に訴へ玉へる理やあるべき、又目師授与の本尊を後世目して座替の本尊と称すれども座替、あれば当職にあらず、開山争で四十五才にして隠居偸安し玉へる理やあるべき妄なること明なり)、順師の摧邪立正抄並に重須談所講師表白の文且つ日満記等の文に泛爾に富士此の地と云ふと雖も意全く重須にあつて上野を指すにあらざるや必せり、然り而して之れを挙けて云云するは本門寺根源の霊場なるが故に寺号を建てずと責め付けたるに相違なるべし、既に夫れ本門寺の号を建つべき時を待ち玉へる根源の霊場なること治定ならば開山何ぞ板本尊を此の地に移して之れを安置し自ら法味を供し玉はざるの理やあるべき、然り而して其の事をみず、又在世の俊傑其の事を論ずるに之れを挙げざるは既に弘安二年に弥四郎等が造立する法華道場の本尊にして全く事戒壇の本尊にあらざる故にあらずして何ぞや、識者宜しく考量し玉へ。 次に二箇の相承を指示せざるは何ぞやとは夫れ引証依拠に文義意あり、其の書名を指し其の文を具挙せざればとて何ぞ之れを指示せずと云はんや、宗祖秘法抄に霊山浄土に似たらん最勝の地を尋てと判じ玉へども地所を明言し玉はず、今正く聖人此の高峯を撰び本門寺を弘めんと欲す閻浮第一の富士山なりと云へるは全く一期弘法抄を依拠とした発したる語にあらずして何ぞや思はざるの基しきなり。 次に追加に云云し玉へるは、原と是し文外理外の想像附会、全く古記に反して新に大に巧み玉へる一大策言なれば、富城氏四条太田氏等は宿福微弱にして独り弥四郎捕処にひとしき大因縁を有したるか否かは併せて共に看者の評を挨つのみ。 本門寺 明治十二年三月十五日 草稿し畢んぬ 玉野日志 一、本門寺寺号の事明詳なる御弁解御尤の至りか愚本より寺号なしと誣るにあらず只古記に依り疑念する処を論ずるのみ等と云云し玉へるを読者此の語を信ずるや否や、蓋し本門寺根源とは事戒壇を造立すべき根源の堂と云ふ意にして此の朽木書の本堂を広高厳飾して事の戒壇とするの義なれば茲に於いて何ぞ事の戒壇を枝葉に属するの疑を容しんや、前住日信の説古記且元禄三年貴山の訴答の文にも違すれば愚は之を取らずと雖も、若し夫れ訴訟に出つるとならば既に三百六十五年前永正十二年に確証と公認せられ其の先師且つ一派の深く信じて疑はざりし棟札に本門寺根源と書し玉へるを、自ら親く鑑定せずして新に拙偽物等の暴言を施し猶対校熟拝を許諾し玉はざるを識者条理と判定すべきか、祝号私称にして古記に多くは寺号のなきが如く見ゆれども、全く本門弘通の大導師地を重須に卜して本門の本尊並に正語御を安置し(日蓮聖人御影堂に於て日興に給所の御筆本尊己下廿鋪御影像一鋪並に日興像一鋪聖人御●化記録以下重宝二箱取られ畢ぬの語あり、順師の本尊紛失の使節を遂げ等の語を以て按ずるに身延より御随身の重宝は残らず当山へ移し玉へるや必せり、其の残るも勝頼の暴挙に散失せる者少しとせず今蔵する処は二度の紛失の余残なるのみ、弥四郎等、が本尊も亦或は住代紛失の内なるを有師之れを感得して彫刻したる者なるやも知るべからず)、三十六年の間日興の御名を以て公家に奏し武家に訴へ盛に本門の大法を弘宣し予め墓地を定めて御遺骨をこゝに留め玉へる霊場なり、之れを本門寺と云はずして何とか称せん且つ遠本寺(貴書に妙本寺とあれども然らず、或は筆者誤れるか幸に妙本寺現、住日霊にあらざるを知り玉はゞ直しよみ玉はんことを是れ希ふ)、現住日霊に談じたるにもあらず、依頼せられたるにも(涌出品にして弥勒衆に代つて発疑する全く依頼せられたるにもあらず、亦談じたるにもあらず師動もすれば代現同穴の原告人等の語を以て駁し玉へども決して衆に依頼せられたるにあらず亦談じたるにあらず喋々語弘通あるを御宝冊に就て自ら疑を散し且つ其の疑いを同ふする者を、して共に信解せしめんと欲するにあり、請ふ彼の衆等を強いて悪み見玉ふことなからんこと)、あらず幸に貴山に蔵する其の先哲主師の写本と辰師の直書に就いて書写校合の本と符合するは更に亦之れを助証に挙げたるなり、他を疑はば必ず自ら反さふずる処ある者なれば其疑団に照応する朱書なる者は蓋先哲日霑上人の手に出でたるも知るべからず、渡井氏の消息に至つては先に明言せしが如く親く鑑定せざる以上は亦論弁すべきにあらず、既に建武元年正月七日の筆記に確と本門寺の御ある以上は万難も憂とするに足らざるなり、且つ手にも入らぬ抵当の御慈論深く之れを謝す、蓋し愚を駁し玉へるは然るべけれども己下朱点は取消候なりとあれば無実の保証は誤聞に消するも、其の誰なるかは知らざれども僅に近傍にある反履の僧が其の非行を詰られんことを怖れ寺の語紙上に残る以上は誤聞よりしてする其の讒言は消すべからず、末代争で真の聖僧あるべき、若非行あらば密に忠告すべきは忠告し其の履ふべきは必ず履ふべき理なるを己が誤聞、よりして之れを公衆に摘発し暗に非の指す処あらしむるは実に人力車社会の業にして残忍讒謗も亦甚しと云はざるべからず、請ふ少しく反省し玉はんことを。 (当山宝庫に蔵する貞和五年己丑卯月十三日日源書写の安国論の奥書に云く嘉暦四年九月七日於富士山本門寺日済の私御点本をうつし奉る不可有外見私点也嘉慶二年二月廿四日矣 是全く日昌師の筆なり、日済の点本御厨の久成寺に蔵すと云ふいまだ実否を質さずと雖も嘉慶二年は永正十二年より百廿八年前なり、先代日昌日浄書写の本尊皆並に本門寺。と書せり、然るに本門寺と称するは日国己来と云ふ誣妄も亦甚しと云はざるべからず。 一、他日両上人を請じて鑑定を請はんと云ひしに、報ずるに拙策中の拙偽物等と強駁し弟子をして代拝せしめんとの玉ふ、其の方外の暴勢全く偽名を施すの策に出でんも知るべからざるを恐慮し、対校熟拝を企望せしに、巧みに弟子穢多非人の類にあらず亦方外の徒(世の条理に放れ暴を以て代拝を請ふ師の御弟子)にもあらず、愚を以つてすれば師弟同等(群に秀で僧網を貧らずして世上を白痴視する大徳也)共に是れ試補のみ且つ蓮興御在世弟子として代官たらしむ、(鑑定を請へるを強駁して代拝を請へるを理一に出つるや)今開明の世裁判皆代言を許るす独り貴山の霊宝にのみ代拝を許さゞるは皆遁辞を虚飾する策言、設ひ此の後弟子の代拝を許可あらんも誰か敢て之れを望まん思はざるの甚しき也(対校の企望遁れんと欲するの言)等と云云し玉へるを読者必ず御条理に感伏せん、蓋し愚の繋念する処は数百年来ひけらせし大拙策に出でたる番帳、且つ王法仏法に冥じ仏法王法に合し共に一統御に帰せざるべからざる未来の座主に命ずるに北条末の封建の制になぞらへ半管領たるを以てし、往代の四文に反せる御墓と云ひ等とある御遺状の新に拙偽物と鑑定せられんことを恐れて構へ出せる遁辞なりと思察する人あらんも知るべからず、御消息は御慈論の如く他の宝なれば確信し難しと雖も御棟札に於ては曽て辞せざる処なり、請ふ強に対校熟拝を遁辞と目して却つて遁辞の名を得玉ふことなからんことを、次に血迷ひ玉ふことなかれと立花に力味玉ひし代師状は御見込違にて候ひしか、さても且つ血迷ひ玉ふことなかれの語全く大聖以下に於寺号を立つべからずと云ふ確証こゝにありと力味玉ひしにあるか誣ゆるに無寺号を以てするに対し処々に寺号を立つるが非ならば等と云々するにあるかは読者之れを知るべければこゝに贅言するに遑あらざるなり。 一、御棟札に付き喋々の小言も師が難責に答する迄なり、師弟同等共に試補のみ等との玉ふとも自ら住せる大本山の歴世を粉で日本第一の名誉を得、僧網を貧らずして世上を白癡視し、法の為に身をも顧みざる順代尊郷等の師を強欲無道天理に闇く人道をしらず等と摧責し玉ふ古に秀で後世亦得がたき大徳にてましませば歯係に足らざるは素より論をまたざるべし、然れども初度より以来漸次闕答せらるゝを見る者、亦疑を容れざるを得ざるべし、蓋し三箇の反難は難ぜられざるを難ずる理の等しき処に出でたるか、小児戯難に窮する遁辞なるかは識者看て之れを領せん、且つ初心の為に聊か弁じ玉へる其の初に宗祖滅後幾程もなく大謗法の魔境となるを慮り玉はず未来までも此に臥すべしと小児戯の指揮をなして嘲りを万世に残し玉へりと云ふべしと反難するに、巧に形容を策言し、爾るに身延の地頭波木井氏の如きは彼の地の大身として慇懃に宗祖を請じ奉り九箇年まで保護供養し奉る、如何ぞ今はの際に至り(人の将に死せんとする其の言や善しと争で大聖死期に望み告るに本心を以てせずして、僅に彼れが懇情に諂諛阿順し玉ふべき理やあらん全く国主の用ひざる限りは尚を御墓をあばく等の難こそあらんずれば此の人の所領に臥すべしと開山へ別して遺命し玉へること明なり)忽ち此の懇情に戻り墓を余処に求むるの語をなし玉ふべき、故に且らく此の一語を残して彼れが年来の懇志に報ひ玉ふ(しかれば彼に告くるに未来迄も此の山に臥すべきの語を以てせずして別して開山に之れを遺命し玉へるは何ぞや)亦宣ならずやと云云、開山の云ふ其の上聖人は日本国中に我れを持つ人一人も無かりつるに此の殿ばかりあり、然らば墓をせんにも国主の用ん程は尚難くこそ有んずれば、いかにも此の人の所領に臥すべき御状候し事、日興に之れを賜いてあそばされてこそ候しか是れは後代まで定させ給ひ候と云云、此の別して開山へ遺命し玉へる文義と今はの際に至り且く此の一語を残して彼れが懇志に報ずとの玉へる策言と取捨宜く識者の評に任さん、蓋し身延山久遠寺の別当為るべし惣じて久遠寺の院主学頭は未来までの御計ひにて候可し、法華経此の処より弘らせ給ふべき源なり、身延山を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽し難し等の文を以て之れを按ずるに何ぞ只彼れが懇情に阿順し玉へる一語を別して開山に遺命し玉へる義ならんや、全く本門戒壇造立の日までは身延を根基として弘通すべきの遺命なるや必せり、斯く定めて遺骨を茲に留むと雖も地頭不法ならん時は我が魂はこゝに住すべからずと遺命し玉へるが故に、之れを挙げて老惣達の御墓へ詣でざるを切に歎責し玉ひし文なること明なり、且つ、地頭不法ならん時は住すべからずとは衆の拝聴せし遺命なり、其の上聖人より去つては別して開山へ命じ玉へる文なり、夫れ神聖去辞は蓮候の主義遺骨を身延に留むと雖も地頭不法ならば魂ひ住すべからずと衆に遺命し玉ふとも何ぞ之れを訝るに足らん、是れ却つて衆をして不法を予防せしむる大慈に出つる遺命なりと云ふべし、開山鄙怯にも其の聞を憚り玉はゞ公然之れを挙けて老僧達を歎責し玉へる理も亦あるべからず、何ぞ言を巧に謗法の随顕によせ我が興尊を除くの外に争で此大事を遺言し玉ふ人あるべきとの玉へるを信ぜん、四条抄の如きは未だ信心微弱の始めの事なるべし、日本国中に我れを待つ人一人もなかりつるに此の殿ばかりありとは後に信順の深きを喜び永く此の山に臥すべしと遺命し玉ひたるなるべし、蓋し予め謗土となるを知り玉ふも濁らば魂ひすむべからず清まば復還り済むべき目途を定めて当時難なき信順の地を卜し御遺骨を納めしめ玉ひたるや必せり、何ぞ今はの際に本心を告げず拙なくも彼れが懇情に阿諛して別して開山へ告げ玉へる遺命ならんや、且つ言を湯治によせて身延を出で玉ふは永く聖屍を謗地に埋葬せられんことを恐れ玉ふ深慮に出づとは其の埋葬するとせざるとは御遺命にあるべし、身延に滅を取り玉ふと茶●すべきの命あらば弟子衆何ぞ之れに随はざるべき、争で此の寺を憂慮して老病の御身を以て死期に望んで、身延を出で玉ふ理やあるべき、仏霊山を出で抜提河の辺り沙羅雙樹の下にして滅を取り玉へば、此の佳例に準じ玉ひたるならん其の之れを告げずして言を常陸の湯治に寄せ玉ひたるは衆の哀哭して留むるを慮らせ玉ふ故なるべし何の訝ることかあらん、大聖示同凡夫の日は内に鑑知し玉ふとも外に知らざる相を示し玉ふことなきにしもあらず示同凡恩との事跡なきにしもあらず、後世理会しがたき事跡あらばとて何ぞ凡識を以て妄りに之れを擬義することを得べけん、既に夫れ知つて知らざるの相を示し玉へりと信得せば騒人大俗の宿縁薫じて僅に死期を知るも亦以て妨げとするに足らざるなり、蓋し外史氏の説によらば重盛は死を求めて医を避けたるなり、知つて之れを避けたるにあらず何ぞ一例なるべけんや、師が難ぜられざるを難ずるが故に之に反難すれども実に信心微弱なる者に本尊を授与し玉はざる聖意祖文に明かなれども、其の信心微弱にして滅後幾程もなく退転し逆道に趣き法理を乱すを予知して之れに御本尊を授与し玉へる等は聖意恐あり仏意測りがたし、鳴呼後を以て初を難ずべからず末師の非を挙げて先師を辱しむべからずと愚は深く之れを信ずるなり、師、騒人大俗の事跡を挙げて更に之れを辱めんと浴し玉ふか、惟ふに大厦高堂は素より一切の事物一として非常物にあらざるはなし、廃事存理不須為我復起塔寺及作僧坊の今日、開山先師等滅後の焼亡荒廃をも慮らず無益に常住物の観をなし大厦高堂を造立し玉へるは並に皆小児戯大白痴者流と云はんか、開山何ぞ常住物の観をなし玉はん、荒廃すれば修理を加へ焼亡すれば再興を期し以て遠く未来の朽木書となし玉へるに何の不可かあらん、愚哢も亦甚しと云はざるべけんや、石山今時小児戯に汲々たる者の如し顧みざるの甚しきなり、且つ蓋し興尊独り此の真意を了するを以つて御入滅の際衆論を廃し(荼羅は御遺命にし何の衆論か之あるべからん)等と云々し玉へるは新に巧める師が策言、開山自ら御墓を●ち御骨を移し玉ひたるにあらざるは国主の用ひん程は尚難くこそ有らんずれば未来迄も此の山に臥すべきの御遺命、且つ往代の四文顕然なる上は愚は其の策言を信ぜず、識者文外に巧める理屈を信ずると否とは愚が保証し得べからざる処なり、蓋し全く反難に窮せる師が策言の如く遺命によつて予め覚悟し玉ふとならば争かで御全骨を移したまはざるの理やあるべき、開山寸も謗土の枯骨となすに忍び玉はざるや必せり、然るに大に巧んで喋々弁じ来り終に御遺骨を分け納めてと白状し玉へるは首尾不都合にして亦おかしからずや、其何れか窮せる白痴の児戯論なるかは識者看て領すべければ茲に贅するに遑あらざるなり。 次に開山重須に御影を安じ玉へるは小児戯かと反難するを至愚の狂難とし、彼の御影は始めて之れを造り玉へるにあらず身延以来之れを守護して三十六年安置の尊像設ひ予め事を鑑定し玉ふことあらんも、今更争で溝●に捨て芝川に流し玉ふに忍び玉はんや、(狂難と愚哢するに溝●にて捨て芝川へ流すの御言を用ひ玉ふは実に感服設ひ私造無開眼の尊像たりとも誰か之に忍ぶ者あらん頗る贅言なり)とならば亦何ぞ鳥有に付するに忍びたまふ理あらんや思はざるの甚しきなり、且つ蓋し興尊代師の迷乱、妙師の纂奪延いて謗法の魔境と変じ御影も失ひ奉る勢あらんことを予め遠鑑深慮し玉はざるにあらず、茲を以て興尊竊に(前は砌に興尊へ遺命し玉へる義なり、後は目師竊に道師へ付属し玉ふ義なり、其の窮するに至ては竊にの一字至極よきぬけ穴と見込まれた者ならんあゝ笑止、目師に遺命し御●化の後は速に尊像を上野に移し奉らんことを計らせ玉ふ、所謂正慶二年二月十三日御初七日に当つて重須へ差出し玉ふ預り支証の一札是し其の明証なり乃至此の文明白なり、然れども地頭石川氏を首め大衆興尊の遺命に背き之を肯けがはず後強いて奪ひ還し異義をなして永く重須に安置し奉りし故に等と目師の置文に(預り支証の珍説は先に弁ずるが故にこゝに贅せず)途轍もなき預り支証の妄弁を附会し、鉄面にも予が之房互と書したるを強く咎め深く辱しむる師にして、遽に迄の一字をにてに取り直して其の主義を一転し、地頭石山氏を首として大衆之れを肯はず後強いて奪ひ還す等と文義の証すべきなく事跡の微すべきなく伝説の聞くべき由もなき誣妄空言を書き列ねて愚民(識者は惑はず)を蠱惑せんと欲し玉ふは、所謂言詭怪に亘り牽強附会少なからざる書を著して世に流布せしめたる先師の跡を招継したまふ故か、蓋し世上流行の自由を得玉へる故か訝し、且つ開山予め代師の迷乱妙師の纂奪延いて謗土と変じ御影を鳥有に付するを遠く鑑み深く慮らせ玉ふとならば、又何ぞ竊に命ずるのみにて確たる支証を遺し置かざれば地頭を首め大衆之を肯はざるは必然の理なるを予知し玉はざるの理やあるべき、然り而して師の身延を離山し玉へる節操を以つて何の憚る処あつてか公然之を上野にも移さず、亦公然衆にも告げず確証をも残さずして大衆に之れを肯はざらしめ知つても而も之れを鳥有に付せしめ玉ひしや訝し、茲に窮して猶ひそかにの遁辞を構ふとも人それ之れを容れんや、又既に代師の迷乱を予知し玉はゞ代へて当器を挙て之れを伝承せしめ玉ふや必せり、争で四十余年弘法の霊場加ふるに予め指示して御骨を茲に留め玉ふべき遺跡の忽に乱るゝを予知して之れに伝灯し玉へる理やあるべき、鳴呼後を以つて初を非すべからず末師の非を挙げて先師を辱むべからず、三堂の朽木書焼亡すればとて誰か師の如く愚哢する者あらん、今師が茲に代師等の事跡を云々するは添へて開山に恥を与ふるなり、其の窮して竊に遺命し玉ふの遁辞を構ふるも猶大衆の肯はざるを知り玉はざるの辱めを与ふるなり亦おかしからずや。 次に目師三年の論延いて七十余年に及ぶを慮り玉はずして確たる遺状を残し玉はざるは小児戯の業なりと云ふべしと、反難するに口あけば腸見ゆるあけびかな(左にあらざれども師是れと鑑定し玉はゞ自ら恥を先師にひかざるの用心亦辞せざる処なり)等と云々し、蓋し目師此の時に当つて寺跡を導師に付属せざるは大道理のある処なりと巧に形容を述べ、然れども今や必至出陣の際何ぞ伝灯附法の遺属なかるべき法を付したまはゞ寺跡は其の内にあり、等と云々し玉へり、道理然り豈に夫れ然らんや、法を公付し玉はゞ支証に及ばずと雖も一死を期して上洛の際竊に法を付し目する留守居の名を以つてし玉ふとならば猶殊更に確たる遺状を渡して予め後日の紛擾を拒き置き玉はざるの理やあるべき、既に付法の証なし亦何ぞ寺跡は其の内にありと云ふを信ぜん、且つ王道復古の際尤も諌むべき時なれば旅中に●るゝをも省みず、老耄を以つて上洛し玉ふ是則勇将の戦場に赴くが如く志を果さゞれば只一死あるのみ焉ぞ其の他を顧るに暇あらん、例せば楠公が死を湊川の役に決し嫡男正行に訣別せる一も家事に及ばず唯だ王事に死すべきの遺訓せしが如しと、然り尊師の奏状に云く今日尊師命を稟けと、目師も弟子に命ずるに死身弘法を以てし玉へるや必せり、道師若し学解秀発勲功抜群にして実に付法の上人たらば彼の楠公が正行に遺訓し目師の尊師に命じ玉へるが如く、命ずるに公家に奏し武家に訴へ身をころして法を弘めよの一語を以てし玉はざる理やあるべき、然り而して其の寺跡を論ずるには頗る力を尽すと雖も師の革命に際し七十有四の老躰を途中に死するをも顧慮せず塞威を侵して上洛し玉へ節操を紹継するに心なく徒に居を安じて目死滅後九箇年間貴重の日月を空過し去れるは何ぞや、以て無道念(尊代妙郷等の師各上奏し玉へども独り師跡を襲ふて居を安んじ去)を微せんか、以つて学解(師跡を襲ふて命を奏ぜざるは其顧慮する処あるに似たり)の足らざるを微せんか、以つて無相承(血脈書に云設ひ正付法の聖人為りと雖も信弘通所建立の忠節之無き者には全く之を授与すべからざる者なりと前に目して勲功と称すべきなく後に師跡を争ひ得ると雖も其節操を継に志なく徒に居を安じ貴重の日月を空過し去)を微せんか、今確言し難しと雖も家中抄に挙げざるを以て惟ふに猶興目の御本尊をも感得し玉はざるの師なるか、尤も俗縁なれば留守居には至極の師なるべけれども其の法脈を伝承し玉ふべき大法器とは渇仰し得られざるの師なり、争で此の師に法を付し玉ふと云ふ策言を信ぜん、亦焉んぞ其の它を顧るに暇あらずと巧に楠公が湊川の役に玉ふとも革命復古は五月にあり、目師争で此の時より上奏を志し玉ざる理やあるべき、而して十一月に至る迄其の中間五箇月百五十日の間に争で一通の遺状を書し玉へる暇なしと云はん、是れ只其の遁辞を形容し虚飾する策言なるのみ、蓋し況んや師興尊の遺命(封建の制になぞらへし)を承けて(中略)今是れに於いて寺跡を道師に公布せば即ち隠居にして座主大導師の権利なし、如何ぞ隠居を以つて朝延を諌むるの理あらん、且つ朝延若し其の諌を容れ勅宣御教書を賜はり本門寺の戒壇を御建立あらば目師隠居を以て座主大導師の職務を掌り玉ふべきか決して其の理あるべからず、(今師が明言し玉ふ此段当山師壇謹で諦聴す、時勢変●し盛衰地を代ると雖も正く本門弘通の大導師更に地を重須に卜して本門寺根源と定め本尊御影重宝等残る処なくこゝに移し、四十余回此の地に住して日興の御名を以て公家に奏し武家に訴へ盛に本門の大法を弘宣し玉へる最後鶴林の霊場なり、貴山豈に当山を建立し玉へる迄の足代にあらずや、然るに後世開山正応三年漸く四十五才の盛年にして目師へ授与し玉へる本尊を巧に目して座替りの本尊と称し目師へ座替ありて重須へ隠居し玉へりと喋々する者あり座替あれば即隠居にして座主大導師の権利なし、如何ぞ隠居の御名を以つて公家に奏し武家に訴へ玉ふ理やあるべき実に誣妄なること知んぬべし、此の誣妄や当山を圧倒して自権を立てんと欲するに出たるも、全く道師の如く盛年より遺命を軽んじ逸居偸安し玉へる師なりと吾か開山を誹謗する外ならざるなり、請ふ老尊師更に此の語を発するを聞き玉はゞ為に之れを忠告し玉はんことを)故を以つて寺跡を導師に付せず唯だ留守居を以つて是れに目し玉ふ耳と巧に遁辞を文飾し玉へども、目師当職にして天奏し玉ふに争で是れ等の顧慮に及ぶべき、公然子が滅後大石寺を管領して閻浮の大導師たるべしと遺状を書し玉はゞ死に至るまで当職にして師資の道完し、目師豈かゝる才覚なくして竊に法を付し目するに留守居を以つてして滅後の紛擾を引起し玉へる師なりと師は信じ玉ふや、宗祖と雖も示堂凡夫の上の御所作は猶後世思ひがたきことなきにしも非ず況んや、其己下をや、徳に譲るに心なく三年寺跡を争論すればとて何ぞ目師の支証を残し玉はざるを咎めん、鳴呼後を以つて初を難ずべからず、末師の非を挙げて先師を辱むべからず、滅後に三堂焼失すればとて何ぞ恥を開山に及ぼさん、且つ謂れなき遁辞を文飾して然るとき日郷是れを慮らず寺後の遺付なきを口実とし無謀の言を以つて道師を退け自ら其の法位を奪ひ寺後を押領せんと欲し、贅論三年に及びしは彼れが強欲無道亦た天理に闇く人道を知らざるの致す所何ぞ目師に関らんと、抑も此の語何等の理に出るや白痴の得て知る処にずと雖も目して勲巧と称すべきなき身を顧みず縁故を頼んで師跡を掠奪し得たるを少欲知足にして天理に明なりと云はんか、縁故を頼んで争ひ勝ち漸く其の職を襲ふと雖も師の節操を継ぐに志なく逸居偸安して永く尸位の嘲を顧みざるは有道にして人道を知る故にと云はんか、其の是非孰れにありとも争で此の論目師の支証を遺し玉はざるに起ると云はざるべけんや、師目するに強欲無道亦た天理に闇く人道を知らざるを以つてし玉へる郷師は房州に弘化して数箇の新弘通所を建立し、目師より抑も安房国は聖人の御生国其の上二親の御墓候間我か身も有り度く候へ共老躰の間其の義鳴く、御辺居住候へば喜悦極り無く候、相構へ々々法門強く之を立てらるべし国人皆以て聖人の御法門廃し候由法念を継がるべく候との御状を拝受し師の上洛には選まれて供奉を命ぜられ、後久遠寺妙本寺を建立し康永四年貞和五年上奏両度(家中抄に云く武家に訴へ亦度々也)に及べり、全く師の法念を継ぐべきの命を奉じ玉へる節操茲に明なり、争て此の師を無功無道念の道師に対して天理に闇く人道を知らずと暴言するを無謀の誣妄と云はざるべけんや、夫れ死身弘法の師を撰んで法脈を伝承するは高開両師の本意なり目師争で独り茲に悖り玉へる理あらん、今よりして之を見れば其の法脈を伝承する器の当否、選まれて供奉し死期にあへると、俗縁なれば留守番のすれども、死期にあはざると師の死身弘法の節操を紹継するとせざると、識者孰れにか之を判定せん、其の重須京都の中世の濁乱を挙げて流れ清きは目道の伝承の正きよると立花に云々し玉へるも、猶今に血脈を俗に付したることもなく他山の造仏読誦の義を存ずる師を迎えて歴世を継がれたることもなく、人を化するに言詭怪に亘り牽強附会少からざる書をも用ひざる郷師の門葉には及ばざるべし且つ況んや導師自若として動かず彼の法敵を退け所属の大法を全ふし玉ふをやと立花に自慢し玉へども、曽て法理を論ぜしにあらず只其の寺跡を論じ縁故を頼んで掠奪し得たるなり、既に付属の証なく亦其の理なし争で私敵を退けたりとて巧に法敵を退く等との玉へるを信ぜん。 因に家中抄を弁ぜば云く、日道是れ次第の法将なり勲功重る可し学解又勝るが故にと、遂に一度の奏聞をもせず漸く目師化縁の地に経行し宮野の妙円寺を建立せるの外何等を目して勲功とせん、学解又勝るゝが故にと何を以て当時の俊傑に超出するを微せん、其の師の節操を継がざるは学解の足らざるを顧慮する故か、爾らずば道念なきに外ならざるなり何ぞ法を付する器とするに足らん、又云く日道は目師の甥南条時光の養子性相近し最付属たるに堪ゆ況や日道は直弟子郷は孫弟子を寺跡云云、相続するは法脈を相続するにあり法脈を伝授するは其器を選ぶにあり何ぞ俗縁の有無にあづからんや、昭朗ありと雖も第三興尊に付し玉へり、嫡弟直弟たりと雖も若し夫れ非器たらば何ぞ之れに付すべき孫弟たりと雖も若し夫れ器たらば挙げて付弟とせざるを得ん、孫弟日持挙げられて六人の中に加へらるれば宗祖の高弟なり、日道新六に加へらるれば開山の弟子なり、いがの中よりほり出して得玉へる目師の弟子は郷師にあらずや、何ぞ之れを以て付属するの理なしと判定すべけんや、又云く日道は時光の後室妙法尼の養子なり上野皆南条の領内なり何ぞ有縁の日道を閣き無縁の日郷に付属せらるべき云云、目師豈に縁故に倫し地頭の鼻息を伺つて法を附するの師ならんや、全く宗祖開山の如く設ひ付弟にして学解ありとも死身弘法の行功なき者に法を付せざるや必せり、今法を付し玉ふべき条理なきを以つて按ずるに全く俗縁なるを以つて留守番せしめられたるに相違なかるべし、而して其の死跡を掠奪し得たるは目師の甥にして南条氏に縁故あるを以つての故にあらずして何ぞや、故に云ふ縁故を頼んで寺跡を掠奪し得たる者と、其の喋々せる三の道理一も聞へざる上付属状なしと云ふに苦み、嘉暦二年十一月十日の譲状を担き出し新田房地とは下房の事、上新田講所たるべしとは大石寺の講所たるべし等と云々すれども、いまだ下房を新田房大石寺を上新田房と名称したるを見聞せす、恐くは道師此の譲状を得て奥州新田の本源寺へ下向せられたるなるべし、若し爾らずと云はゞ文中に弁阿闍梨一期の後は幸松に譲り与ふべしとありて幸松なる者、目師に肩を並て加判せり、然るに既に正中二年に宮内卿日行の語あり、開山御葬の列に幸松丸の御あれば幸松日行一人の異名にもあらず、之れを以つて大石寺付属の状とせば幸松何人にして、道師に続いて大石寺を領せしや、道師又譲状に背き下房を幸松に譲らずして之を日行に付属したるや、実に謂れなき附会説にして決して下房大石寺を譲られし状にあらざるや必せり、又云く況又御上洛の刻付属す法於日道所謂る形名種脱の相承判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口知識なり別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈其器に非れば伝へず、此の如く当家の大事の法門既に日道に付属す爰に知ぬ、大石寺を日道に付属す、後来の衆疑滞を残す莫れと云云、上洛の際法を公付し玉はゞ大衆之れを知る郷師何ぞ之れに争ふ事を得べけん、目するに留守居を以てし密に法を付し玉ふとならば大衆の信ぜざるを察して争で確たる支証を与え玉はざるの理やあるべき、既に付法の証なく又勲功学解の以つて感微すべきなくして後世師が自儘に筆頭より出せる語に誰か疑端を開かざるべき、又高開両師より相承の切神等目録を以て日道に示すと云ひ、十宗判名を日道に付属し玉ふと云ふも、師が筆談にて目師正く之れを付属す之れを示す等と筆を残し玉へるにあらず、右等幾箇ありとも全く付せられたるか将た横領し得樽か後世何を以つて之を判定せん、又道師の建武四年の書籍奥書を挙げて此の文の如くんば日目御付属あり又御遺言あること疑無きかと云云、歟とは猶自ら決せざる語なり、蓋し道師の仍而遺言に任せ云云、の語ある彼の三年論して漸く大石寺を領すれども猶嫌疑を避けんと人に遺言のありし様に思はしむるの策に出でたる筆跡なるも知るべからず、又或は郷師にありし遺言を伝聞して計ひしものなるも知るべからず、何ぞ之れを以て付属の了りし証とするに足らん、前に精師のかゝる無理且つ無躰の小言を喋々とするあり、今亦遁辞を文飾して師の法念を相続し始終其の徳を全ふせる郷師を目して強欲無道天理に闇く人道を知らずと暴言するを、他も又目して無功無道念の日道縁故を頼んで遂に寺跡を掠奪せる無相承の横領家と称せるも全く其の理なきにあらざるなり、妙師も亦寺跡を興尊に稟けずと雖も勲功著しく既に高撰にあづかし法将なり争で伝承し玉へる処なしと云はん、其の始終徳を全ふし玉へる彼の無功無道念の道師の類にはあらざるなり。且つ三国の大厦高堂の焼亡する者を数へ挙げて興尊にして此の無常物を建立して常住物の観をなし幾世とも予め量り知りがたき未来に建立すべき三堂の雛形に遺し玉まふとは豈に是れ大白痴の児戯論と云はざるべけんやと、誰か常住物の観をなす者あらん、前にも弁ずるが如く荒廃すれば修理を加へ焼亡すれば再興を期して以つて未来の朽木書となし玉へるに何の不可あらん、且つ三国の大厦高堂焼亡するが故に非常物を造立するが非ならば朽木書の三堂に限るべからず、開山先師の永く末世流伝を期して創立し玉へる大厦高堂並に皆非常物にあらざるはなし、是れを目して児戯論者流の大白痴と云はんか、貴山何ぞ常住物の観をなし諸堂を造立し且つ慶応の焼亡跡を再興するに汲々たるや実に無理無躰の附会難人亦之れを目して大白痴の児戯論者流と云はざるを得ざるべし、蓋し前の三事に例難するに窮して遽に巧ん遁るに砌にの一字を以つてする無味の策言と、其れ孰れか大白痴の児戯論なるかは唯世の識者の評を俟のみ且つ鳴呼師先に愚を目するに死物狂の手負●の原野に荒れ出でたるに比し等より、去つて反復丁寧の御●言誠に恐縮に堪へざる処、曽つて抗弁するに遑あらざれば黙して看官の前に発露懺悔するのみ、実に世に法師の皮を着たる景時あり自謂行真道軽賤人間者あり、羅漢に似たる一闡提あり看者必ず油断したまふことなかれ。蓋し尊門末葉蓮興寺住職等云云御報告さることもありつるか、日陽日住切に貴山を称揚するは両寺一寺の契約あるを以つて彼を挙げれば亦自ら挙がるの心に出たるなり、故に云ふ興門八箇寺の中にも大石寺と当山は閻浮第一の霊場蓮祖の嫡流血脈の正統なる○二なりと云へども法水一なり故に両寺一寺と云ふなり、此れ等は御座替りの妄弁に惑はされて当山を隠居所と誤認したる者なり、(後日云く日湯元和三年の伝は廉三舎弟志伝逃亡の砌り盗み去りて今門下に伝はらずと、百囲論中所引の文なし、一日石門より伝写せる本を閲するに其の巻末に之れを附言せり、此の文や住師逝去数十年の後文政六年に著せる明細誌によつて記す処なり、時家の附言を挙て百囲論に云くと云へる何意ぞ、之れを以つて引証確明と称するも亦訝し)。 開山大導師の命を受けて僅に九箇年を経過し四十五才の盛年にして隠居し玉へる理なく、隠居の御名を以つて公家に奏し武家に訴へ玉へる理なきを以つて今は却つて石山は居を当山に卜し玉へる迄の足代なりと覚知するのみ、開山命を重んじ死に至る迄職を奉じて精心毫も披倦したまはざるに、御座替りの誣妄を施し四十三年逸居偸安の名を追はしむるを不義不忠と悔悟する者なり、請も強に之を咎め玉ふことなからんことを、且つ貴山往代の状態を案ずるに日影師は法を付するに器なく血脈を俗士に伝へ、有師の秀発なるも其の血脈を誰より受けたるや詳かならず、日底師亦爾なり、鎮師は十六才にして付属を受け、院師は十三才にして付弟となり十九才にして師にわかる、主師廿三才の時院師は円寂し玉へり、主師嗣法の器なきを以て京都に議し世出世申し合せ、天正十五年三月八日目師の本尊を京都へ奉納して両寺一寺の契約をなし玉ひしより以来連綿九代行学の師をして貴山の伝灯を相続せしめたり、中に精師の如きは造仏読誦の義を存ずと雖も又貴山に功●からざるべし、日俊日啓以来法脈を一新し寛師に至つて大成し玉ひ今日の盛大に至るも京都の興目両師に尽す功ならずや、然り而して京都も亦日全以来法脈を一新し慈良住立等の師盛に之れを弘宣するが故に、寛政九年京都十五本山より孤立新義の訴を得て主伴官所に召し捕られ、其の同脈を糾問するに至つて興門八箇本山あり中にも貴山とは両寺一寺の契約ありて殊に親く通用する旨を答弁せしかば、寺社奉行より京都の師資門山数箇条貴山へ尋ねられしに、遽に旧来の情義に悖り同年五月旧気を調ぶるに正慶二年日尊上京後のことは一切相分らざる旨を以つて上申せられたり、之れに依つて其の方申し分け相立ち難き旨理解にあづかり大に面目を失ひ一層困難にかゝれり、是れ全く京都を貴山より突き倒して自ら其の通触の道を拒絶せられたるなり、実に従来の情義に戻り同門の困難を救ふに心無く却つて彼れ等に縛せしめ孤立新義の城を出つることを得ざらしめたるは添加に隠れなき貴山の高名なるべし、然るを押し隠し動もすれば造物黒衣謗法等と詈らるゝ人のあるは人情能く堪ゆべき処とするか識者以つていかんとなす素より当山は開山四十余回の弘法最後鶴林の霊場、貴山亦師跡なれば軽視すべからざるは弁を俟たずと雖も又敬せられざるは弁を俟たずと雖も又敬せられざる理由あれば人情止むを得ざるに出つる者か、京都も亦目師命じて遺骨を葬らしめ玉ひし霊場なり、貴山師徒傍視すべきにあらず、然るを孤立の●へ突落し自ら参詣の道をたてる目師の心に於てこゝろよしとし玉へるか訝し、蓋し先師の言は必ず用ゆべしとならば貴山に係り一言する処あらんとす、日昌日就日盈師の如きは造仏読誦の法脈にして日精師の如きは全く其の義を存すること一派に隠れなき処なり、云く但し三大秘法の時は久成釈尊を以て本尊とするなりと、又云く此の或る抄を見るに一偏にかぎれる故に諸御書一貫せず、其上三箇の秘法の時は唯だ二箇となる失ありと、又云く然りと雖も読誦の助行を修することを防ぐべからずと、又云く尚を広しては一部読誦をなすと、又云く順縁の前に至ては然らざるなり、広文の故に略して引く、元禄三年午二月十八日日俊師寺社奉行所へ差出されし答書に云はく、造立堕獄と申す事は無実の申し懸け終に此の方より堕獄と申さず仍つて京都要法寺は造仏読誦仕り候へ共大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住迄九代の住持要法寺より罷り越し候今に通用絶へ申さず候と、其の先師の語先師の書上は必ず要ひざるべからずとならば老尊師能く之れを身に反省し先づ其の一門に之れを教へて後に他を咎め玉ふべき条理なるべし、先師の書を言詭怪に亘り牽強附会少からずと謗ずるも誤りなるべく、七面明神を祈るの説頗る奇怪老禿は取らずとの玉ふも亦非なるべし、蓋し別に条理のあるものかは痴児の得て知る処にあらざるなり。 一、板本尊に付いて九箇の理を論ずるに。 一には弘安二年に身延に既に戒壇の本尊を造立し玉はゞ同四年に大田氏に対して予年己心に秘すと雖も此の法門を書き附けて留め置かずんば等と確言したまふ理あるべからずと云へるを会して、此の文は戒壇の本尊を指すにあらず三秘の中に本尊と題目とは諸抄に予め明言したまへば茲に改めて厳誡したまふの理あらん、故に知りぬ是れは只上の文に挙げたまふ広大無比の戒壇きの躰相を明言し玉へるを指すなり、其の之れを称し之れを誡め玉ふ所以は本機未熟の者は必す惑耳驚心し宗祖に於て疑を生じ信心を破る等と余処に明言し玉はざるを幸に言を巧に遁辞しを構へ玉へり、余処に明言し玉へるも前代未聞の本尊と題目とは其の理深遠本機未熟の者は惑耳驚心せざるを得ず何ぞ茲に之れを秘し之れを誡め玉ふ理なしと称せん、広大無比の戒壇の躰相の如きは之れを明言し玉ふとも争で蓮候に於て疑いを容るべき、愚夫も斯る盛挙のあるべきを聞かば喜んで公布を企望するの念を生ずるや必せり、何ぞ只此一事にのみ此の遺誡をなし玉へる理あらんや、上の文に云く然りと雖も三大秘法の其の躰如何答えて云く予が己心の大事之に如かず汝志無二なれば少く之れを言はん又云く此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥に教主大覚世尊自り口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥子の相違もなき色も替らぬ寿量品の事の三大事なりと結して云く予年来己心に秘すと雖も此法門を書附け留め置かずんば遺弟等定めて可し加ふ無慈悲の讒言を、其の後に何と悔ゆとも叶ふまじきと存ずる間貴辺に対して書き遺はす一見の後秘して他見有るべからず口外も詮無し法花経を諸仏出世の一大事と説かれて候は此三大秘法を含みたる経にて渡らせ給へば秘すべし秘すべしと、文義明白也、争で只戒壇の躰相を明言し玉へる一箇にあるの遁辞を容れんや、且つ夫れ身延に既に戒壇の本尊を造立し玉はゞ何ぞ大田氏に対して弘安二年に造立する処の本尊等と明言し玉はずして寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作の三身教主釈尊是なりと書し玉へる理やあるべき、亦本尊と題目とは予め諸少に明言し玉ふとならば何の処にか三秘を語らせ玉ふに板本尊を造立して安置すべしと明言し玉へる文ありや、蓋し大田氏に対して此の語を残し玉へるも畢竟勧誡二門を以て其信を強盛ならしめ亦読者をしても出世一大事の法門なるを知らしむる為の善巧なるのみ、何とならば既に師の報恩に三大秘法を明言して浄顕坊義浄坊等へ贈り玉へり、亦何ぞ高弟深信者に対して之れを言し玉はざるの理あらん、聞いて然も聾唖の如くなるは彼が宿習なるのみ、佐渡国人々に之れを明言して各々我弟子為る者は深く此の由を存して設ひ身命に及ぶとも退転することなかれと示し、文永十一年には富木氏に対して、是の如く国土乱る後は上行等の聖人出現して本門寺三の法門之れを建立し一天四海一同に妙法蓮華強の広宣流布疑ひ無き者かと之れを明言し玉へり、其の文の略なるは予め信聴する処なるが故に之れを委悉にし玉はざるなるべし、既に其の題名を指示し玉はゞ争で其の義を顕示し玉はざるの理あらん、畢竟大田氏の信心堅固ならしむる為の語なりと雖も亦以て身延に其の以前に戒壇の本尊を造立し玉はざる確証なること明白なり、識者惑ふべからず且つ師の語の如くならば二年に既に本門戒壇の義理を信解して補処の大菩薩に等しき大因縁を有せる企望発起対告衆たる弥四郎等を置いて四年に突然大田氏を対告衆として此の語を残し玉へるも亦妙ならずや、且つ師動ともすれば文字一と雖も而義各異既に弥四郎入道等が弘安二年に造立せる市庭寺の本尊なるを移して事戒壇の本尊なりと喋々すと曰ひ玉ふ、若し爾らば何ぞ市庭寺安置或は日弁に授与する等の御筆を標し玉はざるの理あるべきと、市庭寺安置授与日弁等の語あらば誰か之れを云々する者あらん、凡そ本門の本尊を安置し文底本因の妙戒を受持し奉る道場一として本門の戒壇にあらざるはなし、只其の勅立の戒壇と事理の異あるのみなり宗祖富木氏が建立せる一小堂を称するに一閻浮提第一の大堂(堂小なりと雖も閻浮第一の本尊を安置するが故に)を以つてし玉ひし例あるを以て弥四郎等が造立せる道場の本尊に本門戒壇の文字を下し玉ふも亦此の類ならんと信じ、以つて此の文なしとも本門の本尊を安奉する道場は皆並に本門の戒壇と確信すべき支証の本尊と信認する処なり、争で文字雖一而義各異と云はざるを得ん、蓋し市庭寺は今の下房とは古老の伝説による、其の建立は日弁日秀同心協力して之れを建立したる者か開山永仁六年の記には滝泉寺(順師の記に下山抄は住僧因幡房日永追出の時の御述作なる由見へたり、恐くは甲州地方の立泉寺なべし)の語あるを見ず、日弁之れを建立すとならば何ぞ開山滝泉寺越後房と書し玉はざる理やあるべき、然り而して共に市庭寺越後房下野房と記したまひ曽て信者に市庭寺の語を冠するは皆並に越後房弟子也と記したまへり、之れを以つて之れを惟ふに市庭寺は全く日弁教化の功に成れる寺なりや必せり、精師の記は先に事情人名人数並に開山の記に違するを以て所伝何等に根するやを伺ひしに攷証に供すべきなきを以つて答し玉へり、開山の云く熱原郷神四郎兄同郷人住人弥五郎(弟)同郷住人弥次郎と、世師云く熱原住人神四郎田中四郎広野弥太郎と人名大に相違せり、開山の云く此の三人は越後房下野房弟子廿人の内なりと、又云く張本三人は斬罪せしむる所なり枝葉十七人は放ち畢ると、宗祖此の廿人を指して熱原の愚痴の者共言ひ励ましておどすことなかれとの玉へり、精師云く数百人の軍兵を熱原田中にさし遺はし○頭領檀那廿四人を召捕り鎌倉の土籠に入れたりけると、又云く三人は法華宗の統領なりとて、頚をきられ残り廿一人と、人数も相違し亦熱原の者共を田中熱原と云ふも相違し、枝葉十七人とあるに頭領廿四人の語も亦違へり、開山の云く、弘安元年挙信し始る処舎兄弥藤次入道の訴に依り鎌倉に召し挙げられ念仏を申すべきの旨再三之を責むと雖も廿人更に以て之を申さずと、是れは舎兄の訴によつて鎌倉へ召し上され再三責らるゝと雖も念仏申さゞりしに依つて禁獄等に及びしなり、精師の意は他宗の僧俗寄り合ひ詮議して寺を破却し坊主を禁獄流罪せんと衆議一決して鎌倉に下り地頭に訴へしかば数百人の軍兵を遺はして寺を破却し坊主を打擲し頭領檀那廿四人を召し取って土籠に入れ三人は法花宗の統領なりとて斬罪せられたるなり、事情大に相違せり、精師の語の如く之れが為に数百人の軍兵を差向たるならば争で先つ其の本源たる日秀日弁を召し捕らざるの理やあるべき、開山も亦此時の事を記し玉へるに及んで争で寺を破却せられ日秀日弁の法難にあへるを記し玉はざる理やあるべき、又精師は同三年に法華宗の檀那三人の頚を切つて捨てたりと云へり、宗祖弘安二年の御状には殺害刃傷する所なりと又云く彼れ等御勘気を蒙むるの時南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云、此の文を以つて案ずるに既に弘安二年に殺害せられたりと見へたり、斯る相違少からざる精師の妄記に依つて云何ぞ市庭寺は弘安以前の建立にして二年に既に破却せられたりと之れを判定することを得ん、其の廃跡になりし事跡をみざるのみならず永仁六年に至つて依然市庭寺越後房と記し玉ひ市庭寺弥四郎入道に申与する等の文ある上、弥四郎国重日道を大石寺に移すと云ひ南部の家系に攷して実に駿河の人なりと決する等を弘安二年に造立如件願主弥四郎国重等とある文に考微して、全く市庭寺は弘安二年に弥四郎等が建立したる者ならんと想像する処なり、市庭寺弥四郎入道の文ある上、道師奥州より帰山の後は下房に居せる由古記に見へたり弥四郎国重日道を大石寺に移すと云ふを以つてみれば市庭寺は今の下房なりと云ふ古老の説も亦誣ゆべきにあらざるべ、一閻浮提第一の大堂を以て称し玉へるも亦外に類あるを聴かず、弥四郎等が建立せる市庭寺なればとて本門の本尊を安奉し本門の妙戒を受持し奉るべき道場なり、何ぞ本門戒壇の語を以つて称し玉へる理なしと確言せん、身延に安奉する本尊にあらざるは秘法少の文に明かなり、師動もすれば当地の噪動想像せらるべしの乱千若騒の廃跡(身延より市庭寺へ贈るは二月御影と共に奥州へ贈り三月還し奉るよりは容易なるべし)のと巧み出し玉ふとも、其の事実を以つて証すべきなき精市の妄記に依れる説なれば愚は之れを取らざるなり、且つ惟ふに宗祖の御真筆の本尊天下に布在する等より、去つては以つて之れを微すべきなく以つて之れを証すべきなき師が想像の理屈責なれば愚亦之れを取らず、仰いで秘法抄を信ずる者なり、又本尊端書の文は一連互顕の文にして明に弥四郎等が造立如件と敬白したる道場の本尊なりと云ふを餓鬼の水を火と見盗跖が飴を盗具と見るに比し、文に所謂る右とは勿論上に図し玉ふ大曼荼羅なり、現とは宗祖在世の一類を云ふなり、当とは滅後末代広布の時に蒙るなり、是れ等現当二世の弟子檀那惣じて法華講衆の懺悔滅罪を祈るべき為に造立せること仍つて件の如し、故に之れ本門戒壇の本尊と称す此の本門戒壇の本尊を造立せんことを、希望せし願主は誰れぞ曰く弥四郎国重を首め法華講衆等の敬て白す処なりと云ふことを右為現当二世造立仍如件本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白と遊ばされし事にして決して但だ弥四郎国重等が現当二世の為に造立し玉ふ本門戒壇ぞと申す義にあらざるや一目暸然生盲邪眼各謂自師偏執家の者の外は決して見まがふことあるべからざるなりと、宝冊に云く御判の下に横並に為現当二世造立如件本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白弘安二年十月十二日と、曽つて右仍之の三字を見ず講衆等の常に漫言するを聞くも又爾なり、怪ひかな今突然右の字を見る全く諸氏の誤脱なるか且つ転写の誤りか、蓋し己議を虚飾せんと巧に右の字を加へて設けたる者ならんか其の実躰に就いて之れを決せざる以上は論じがたく亦信じがたき処なり、且つ現とは弥四郎等の一類に蒙り余の深信者にあづからざるか何んとならば南条大田富木四条氏等にも之れを明言したまはざる本尊なるが故に、当とは遠く広布の時に蒙り開山在世にあづからざるか、何とならば之れに対して懺悔罪の法式を行ずるは大導師の職にあるべし、然るに四十余年弟子衆に任せて上野に置き自ら之を主宰し玉はず、順代尊の俊傑親く目撃すれども猶魯人の如く富木の僧俗尊師を難ずるに亦之れを挙て駁するを知らざるが故に、鳴呼一連互顕の文を離し大に巧んで此の現当を弁ずる理当れりとするか識者以つていかんとなす、畢竟日法彫尅とは七面明神を祈るに始まるの説、此の師は弥四郎を以つて戒壇の願主とす、板の施主とは文政の虚飾者が巧に放光樟の意を剽砌するに始まり、姓氏も詳かならざる弥四郎等を以つて事戒壇の願主とするに足らずと云ふに詰り、遽に古記に反して此本尊を希望せし領主と云ふ新説起れり、然り而して現文分明に戒壇願主とあつて本尊願主と書し玉はず、是れ全く一連互顕の文にして弥四郎が現当二世の為に造立する道場の本尊にあらずして何ぞや、若し爾らずして現在或は滅後の衆の懺悔滅罪の為に身延に既に事戒壇の本尊を造立し玉ふとならば、争で弘安四年四月太田氏に対して三秘を顕示し玉へるに及んで閻浮第一の本尊既に之れを造立す懺悔滅罪の為急々参詣すべし々と明言し玉はずして、却つて此の法門を書き附け留め置ずんば等と誡示したまふの理やあるべき、又争で弘安四年九月南条氏に滅罪参詣を促し玉ふに一大事の秘法閻浮第一本門戒壇の大本尊既に之れを造立す急々参詣して懺悔滅罪すべしと明言し玉はずして、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(是れ身延にいまだ事戒壇の本尊を造立し玉はざる明証なり)乃至かゝる法華経の行者の住処なれば争か霊山浄土に劣るべき、乃至此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん等と確示し玉へる理やあるべき、又争で富木四条由此高橋石川等の大信者に之れを明告し玉はざるの理やあるべき、請ふ実に謂れなき想像を附会して妄に他を生盲邪眼各謂自師偏執家視し玉ふことなからんことを。 二には此大事を成し玉はゞ内外の御書又血脈書等に筆を残し玉はざる理あるべからずと云ふを、筆に残し玉ふことなからんも現に身延に安置せば誰か之れを信ぜざるべきと会して、血脈書御遺状二文を挙げて此の文明白也と曰玉へり、現に身延に安置あらば争で南条氏に滅罪参詣を促するに一大事の秘法を肉団の胸中に秘して隠し持てりとの玉ひ、太田氏に対して之れを明言せずして却つて予年来己心に秘すと雖も等との玉へる理やあるべき、是れ其れ現に安穏なかりし確正なり、且つ血脈書の文は迫切ならずと雖も五人以下の諸僧等日本乃至一閻浮提の外万国に大法を流布せしめ幾億万箇の寺を建立すとも日興嫡々相承の曼荼羅を以つて基本堂の正本堂とすべしと云文の義勢にして、決して弥四郎等が造立する一箇の板本尊を指すにあらざること皎然たり、愚者も茲に惑ふべからず却つて師にして之れを引挙し玉へるを訝るべし、又御遺状は北条末の封建の制に擬らへ未来の座主に処分を遺命したまふとの御弁解に一層疑網にかゝるを諭示せず却つて之を挙げて明白なりとの玉ふとも白痴の得て信ずべき処にあらざるなり、之れ等は窮し玉へるにあらざるか。 三には興師へ付し玉ふとも六人同心に之れを守護し奉るべきの遺命し玉はざるの理あるべからずと云ふを、其の遺言明白なりとて身延相承を挙げて之れを証し玉へり、一期弘法の要三秘にあり何ぞ只本尊のみに限らんや、蓋し身延に現に安置し玉へる確証あらば又其の理なしとするかにあらざれども既に其の確証なし、何ぞ我が門弟等に別して法を付して滅後本門弘通の大導師たるべしと定めし此の状を堅く守るべしと遺命し玉へる文を以つて、六人己下同心に板本尊を守護すべきの遺命なりと曲会し玉ふを信ぜん、且つ次下に五老の非を責めて故に顕露には遺命し玉はざるかと云々し玉へるも亦訝し、三秘は別付属にして独り開山のみ之れに達し玉ひ五老以下は之に熟せざるもすでに儼然たる大本尊を造立し玉はゞ其の薄信の弟子等には破法堕悪を恐れて猶殊更厳重に奉仕守護を命じ玉ふべき理なるに然らずして之れに一大事の本尊を軽視せしめて何の益かあるべき、蓋し前には遺言明白なりと云ひ後には顕露には遺命し玉はざるかとの玉ふ自相違目立廃亡にあらずして何ぞや。 四には一期弘法相承の時此の本尊を付属し玉ふとならば開山亦添なへて上野に相承を残し置せ玉ふべきに、爾らずして之れを当山に残し置き玉ふ理あるべからずと云ふを、亦彼の巧に拍手大笑し玉へる云ひぬけと一轍に出つる策言を設けて是れ理の当然との玉へり、豈に夫れ然らんや開山此の付属を受けて身延に住し彼の謗法によつて離山の初暫く居を上野に移して住し玉ふと雖も、更に地を撰んで当山を建立し弘法四十余年の間遂に大導師の職を動し玉はず、嘉暦二年八月日順日代をして代官たらしめ玉ふ時の奏状に云く日蓮聖人弟子駿河国富士山住日興誡惶誠恐庭中言上と、若し夫れ職を動し玉はゞ争で公家に奏し武家に訴ふるに日興の御名を以つてし玉へる理やあるべき(興目等の弘化事戒壇を建てんと欲し玉へる実に倒れて而して後にやむの節操争で今時の隠居して安逸を貪る大徳等と同一の看をなすべき)、然り而して生涯此の状を御身に帯し切に本門戒壇を建立せんと欲し玉へる精心にしていかんぞ其戒壇に安置すべき一大事の本尊を四十余年の間弟子衆に任せて上野に放置し之れを傍観坐視し玉へる理やあるべき必ず御影と共に之を移し自ら大導師の職を奉じ首として昼夜に之れに法味を供し其主宰たる職を尽し玉ふべきは理の最も然るべきにあらずや、曽つて其の事跡の然らざるは全く開山在世に貴山に安置なかりし本尊なる故にして此状も亦一期弘法の大事を付属し玉ひたる遺証にして全く弥四郎等が感得せる本尊の添書にあらざること明白なり偏執家にあらざる以上は誰か此の理に惑ふ者あらんや、且つ此の状若し本尊の添書なりせば共に之を渡して師資伝承の手続を明かにし玉はざるの理やあるべき、争で之れを他処に残し玉へる理あらん、蓋し他の疑氷を解ずして得たり顔に、正慶元年十一月十日の状を挙げて云々し玉へる義の如く師資相承の次第を明にし玉ふ故に御身に賜はりしは御身を離さず御終焉の後重須に残し置かせ玉ひしは是れ理の当然とならば、目師亦何ぞ其の当器を挙て之に証文を渡し公然師資の道を明にして御身に賜はりしは御身を離さず朝廷師資相承を御尋もあらん時の用意に之れを身に帯して上洛し玉はざりしや訝し、若くは此の時いまだあらざる遺状なるか、若し帯して上洛し玉ふとならば目師の奏状等と共に又貴山にあるべからざるや必せり。 五には上野に事の戒壇の本尊を安置し玉はゞ更に当山を建立して本門寺根源と称し玉ふ理あるべからず。 六には目師正慶二年三月十日(当山の本書は二十三日なり)御影並に等の疑難は先に往々弁解せり故に重ねて贅せずと、三堂児戯論の誣妄を以つて之れを奪却し去らんとすとも、四十余年大導師の住処にして上野は当山を建立する迄の足大なるを知らば此の理動くべからず且つ当山を本門寺根源と称し玉へるも亦何ぞ訝るに足らん、目師遺状の月日臨時の筆誤を謝す其の預り支証の珍談等は予も往々之れを弁じたれば茲に贅せず。 七には在世の俊傑其の事を弁ずるに及んで之れを指示せざるの理あるべからずと云ふに、二箇の反難は前書に弁ずるが如し蓋し彼の日代日尊両師の如きは頗る造仏偏執の迷乱家当山に戒壇之大本尊を安置せるを親しく目撃すと雖も猶魯人の如し、故に其事を論ずるに及んで之れを指示せざる亦宜ならずやと、鳴呼普天第一の大徳の明言識者謹んで之れを諦聴せん、蓋し他派日学に答する立正抄の文は却つて当山の本堂を微すべき文にして全く板本尊を指せる文にあらざることは先に弁ずるが如し、正しく順師心底を吐露して云く経釈符契の如し本人行者己に出現し久成の定恵広宣流布せば本門の戒壇其豈立たざらん安置の仏像は本尊の図の如し本人御判眼有らば拝見し奉るべし、順師も亦帝王信伏の日は図の如く本尊を造立し奉る心底なること弁を俟たず、其れ此れ等の師は逸居倫安して天下を愚哢する大漫荼羅門にもあらず、袈裟を著せる猟師にもあらず、並に皆身命を捨てゝ戒壇建立を促すの師なり開山何ぞ之れに対して切に其の本尊を指示し玉はざる理やあるべき、然り而して設ひ迷乱にして像仏に偏執するにもせよ正く師の指示に依て親く其の本尊を目撃し奉れば亦何ぞ其の物躰を論ずるに之れを指示せずして並に皆図の如く戒壇の本尊を造立し奉るの筆を遺し玉へる理やあるべき、是れ全く興目御在世には貴山に安置なかりし確証なり、其の是れを一言に魯人の如しと打払はんと欲したまふとも人其れ之れを容れんや、且つ尊師の如きは興師身延御離山の元由を知らざるにあらざれども猶立像十大弟子を造立せしの迷乱ありと云云、尊師王城居住の始め宗意も弁ぜざる新檀那の暫く密附の志を養つて之れを脇檀に置けるは猶し宗祖の立像に於けるが如し遂に之れを化して廃せしめざる理あらず、貴山に蔵せる目師御自筆の目録に云く一日興上人御作元釈迦一そんと、、開山久成の釈尊を造立する本志を廃して立像一躰仏を転造せんと欲するをいかに聖人出世の本懐南無妙法蓮華経の教主久遠実成の釈尊の木像を●前には破らせ給ふぞと切に之れを歎責し其の之れを用ひざるを以て身延離山の元由と玉へるも亦自ら一躰仏を御作ありしと見へたり、之れを目して造仏偏執迷乱尤甚しと云はんか宜しく識者の高評を俟つのみ、蓋し愚が十六七年前尊門義を書して之れを門下に試みたるは尊師は素より順代等の俊傑を非に処するに忍びざるの心に出でたりと雖も亦之れに偏執すべきにあらず、殊に未再治の書にして其の理の違へるなきにあらず、俗土之れを駁して云々したる由信心肝に銘ぜり、菩薩は多く俗にありと信なるかな、麁暴論場に於ては事物の理猶之を決する能はず況んや深遠なる法理に於いてをや、久く謗法の声を聞きし京都の法衣も断然●正の運を開けり像仏亦改むるに難からず、況んや当山●正の運を啓けば只管八山の再会議を促し我慢偏執を捨てゝ平心に公議を尽さんと欲す、是れ素より愚が志願なれば茲に贅言せぶ、次に亦代師も尊師の邪義を駁するに仏像造立は本門寺建立の時の痴言あり是れ只百歩ならざるのみ知ぬ両師共に造仏偏執の睫に蔽われ真の本尊を見れども見へずと云ことをと云云、開山本門の戒壇を造立せんと欲して嘉暦二年八月日代日順をして朝廷奏聴の代官たらしむ、然り而して其戒壇に安置すべき本尊を親く目撃し猶魯人の如くなる者を以つて之れが代官たらしめ玉ひしや、既に夫れ代官たり争で見て之れを弁ぜざる愚盲の師なる理あるべけん、然り而して共に安置の仏像は本尊の図の如し等と明言し玉へり、以つて之れを微せば全く興目在世に安置なかりし本尊なること明白なり誰か誣妄の遁辞を容れんや。 八には一門諸山は無論一宗往代の書に記伝を残さゞる理あるべからずと云ふに、御遺状立正抄並に我師陽師住師生師等の記を挙げて自門諸山の記是の如し等と云々し玉へり、原と此の御遺状より起りし粉擾なるを明かに其の疑氷を解かずして幾度となく之を引挙し玉へる心底いかにぞや立正抄の文は既に心底を吐露して安置之仏像如本尊図と明言し玉へる上は全く弥四郎等が本尊を指すにあらざること明白なり、我師は争論家なるが故に親聞実見し玉はずして貴山の口実によつて記せられたるなるべし、尤も有師浄師の後にあれば是れ以て往代の記文とするに足らず、日陽日住日生等の師は往代三師の記文を義味せずして妄りに貴山の口実を信ずる者なり亦以つて往代の記文とするに足らず、智者も千慮すれば一失あり愚者も千慮すれば一得あり悉く書を信ぜば書なきに如かずと、先師の記と雖も思考せざるべからざるは論を俟たず、之れを其の門に明告するも亦何の妨とするに足らん、且つ其の氷解しがたき遺状あればとて興門一派之れを信ずると否とは愚が保証し得ざる処なり、蓋し妙師を馬子西郷に比例し進んでは興師に稟継せず退いては代師に紹継せず徒に地頭石川氏等と謀りて其の論鎌倉方に同ずるを名として遂に来れを擯出し自ら其の寺跡を奪ひ其職を襲ふ、設ひ妙師の功須弥より高く徳大海より広しと雖も争で纂奪と云はざるべけんやと讒謗も亦甚ひかな、五門徒上首帰伏の上は其門徒を改むべからずとは有師の確言、是れ其の宗祖の法流に帰して門徒に帰するにあらざるが故なり、富士の六箇寺何れが発向して本門寺を建立するや知れ難し何れも軽賤すべからず六箇寺一味同心に大法を興行すべしとは精師(猶偏見あれども)の明言、是れ其の時に当り何れに徳大導師たるべき人ありて発向するや予め知り難きを以つての故なり唯授一人と誇耀するも其の徳を●し法理に熟せざる人なしとも明言しがたく門閥なりと誇耀するも法理正しからざれば誰か之れに帰向すべき、法理一に帰せば八山一なり、其の徳を挙けて其の法理を統轄せしめ以て管長と敬ひ以て大導師と仰くべきは理の尤然るべき処なり、故に教院に資本を積んで八山の俊傑を招集し議して法理を一に帰せしめ力めて従来虚飾を以て誇耀し兄弟墻に●ぐの幣風を一洗し一味の大法を東西に弘むべきの約なれば砌に先づ従来の事は互いに捨てゝ之れを問はず、自今両山一宇の約を結び人法通用して一味同心に令法久住を期せんと之れを末徒に諭示し之れを西山に計る豈に図らんや此の坊●を来たさんとは、今之れを答弁せんと欲せば協和を計りし情義に戻る、黙止せんと欲せば永く先師の名を涜すを以つて末徒の憤怒諭示するに道なし進退こゝに谷る、切に請ふ西山一門の大衆実に勢の止むべからざるを諒察し暫く傍観して茲に一言するを許したまはんことを妙師寺跡を興師に稟けずと雖も徒に地頭と謀り其の論鎌倉方に同ずるを名として遂に之れを擯出し自ら其の寺跡を奪ひ其の職を襲ふとは何等の確証あつて之れを明言するや、師が筆力能人を刺殺すと雖も若し夫れ確証なくんば愚夫はしらず平心公論者は全く勝敗を論ずる鄙野の剛復心より出たる無顧の誣妄無法の暴言なりと看過し去るや必せり蓋し実に迷乱するを以て大衆同心に之れを擯出したるか且つ其の論鎌倉方に同ずる名として之れを擯出したるかは自家の私伝を以つて之れを決すべきにあらず、日叡日万日大等の記文道師状(日叡問答の跡は本迹の法理を導師に伝へ之が代として重須へ往き難破すること数度に及びし旨同人自筆の記ある由文安六年日州妙円寺日穏の記に見へたり)、等に明白なれば師が法脈を承し導師の言を信ぜざるも識者こゝに惑ふべからず、開山の云く時の貫首たりと雖も仏法に相違し己義を構へば用ゆべからず又云く一致の修行を致者は師子身中の虫と意得べし、迹門に得益ありと立つるを大衆之れに諍つて用ひ玉はずは躬々として之れに随て堕獄すべしとは何等の経論釈抄ぞ、駆遺挙処の文頗る仏祖の謬誤に俗すべきか、俗猶諌めて用ひざれば其の位を易ふと云へり、況や将来救護の導師に於いてをや、其の後世成し得がたき盛挙のありしは開山在世に近く時の衆信心強盛なるに出でたる者なり、実に感称すべき挙なるを却つて策言して之れを公衆に讒謗せんと欲する心底想像せらるべし、夫れ法脈相続は高開両師の節操を続で法の正理を伝ふるにあり、何ぞ世の血統世襲嫡子相続等と同一視すべけん、湯王夏を亡し武王紂を討つ君臣の上より之れを云はゞ●逆の名を脱れずと雖も正く天下の民を救ふ其功莫大なり、故に盂軻氏之を目して武王一夫紂を殺すいまだ君を●するを聞かずと云ひ高開両師も其徳を称するに聖賢の名を以て玉へどもいまだ目して逆賊との玉へるを聞かず、世法猶爾り況んや出世の法脈に於いて師資の道を異にして大に公衆に害あるを確認せば之れを擯斥して衆生の永苦を救はざるの理あらざるをや、且つ夫れ擯出せば又高撰の大機を建てゝ其資を継がしめざるを得ず、故に挙けて(妙師寺跡を開山にうけずと雖も既に夫れ高撰の大機にして始終徳を全ふせる仏法の大奉行大棟梁たり祖で法脈を開山に承る処なかざるべき)之れが導師たらしめたるや必せり、何ぞ之れを目して簒奪と称せん、馬子推古帝を補佐し仏法に功あるも私憤を以つて君を●せり、西郷隆盛元勲の臣なるも政躰を誤り国憲を犯すの賊共に其の徳を全ふせざる者なり、之れに比例して遂に理に背かず始終其の徳を全ふしたまへる妙師を同類に奪却し去らんと欲するも識者必ず其の邪毒心より出でたる無味の誣妄言なるを領知せんのみ、実に彼の何等の目して勲功と称すべきもなき身を以つて論三年に及び終に縁故をかつて寺跡を掠奪し得ると雖も師の節操を継ぐに心なく●々として九箇年間貴重の日月を空過し去れる無勲功無道念の道師の類にあらざるなり、請ふ反省して言を発し玉はんことを。 九には為現当二世等と此の難前条に弁解し畢りぬ故に重ねて贅せずと予も前に弁じたれば茲に贅せず。 且つ師に対して語も尽き意も絶しぬれば唖者然たらと欲するも亦末徒の為に之れを書して識者の校量に供せんと欲すれば止むを得ざる処なり、請ふ幸に諒察し玉はんことを爾か云ふ。 本門寺 明治十二年五月十五日草稿し畢りぬ 玉野日志 編者曰く大石寺蔵玉野志師筆(当時間答の正本)に依り之れを転写す文中誤字借字らしきものも猥りに改めず、唯送り仮名等を加添したると長文の●註を一処に移して割註としたるのみ。 |