富士宗学要集第七巻

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両山問答(大石寺答之部)

(大石寺答之部)
当住日布上人返状
本月五日下条妙蓮寺に於て御認之尊翰有難く拝見仕候、尚寒之砌に御座候得共先づ以て尊躰御恙無く御法護在せられ候段恐悦奉り候、過日御光臨之砌は御麁末申し上け失敬之段恐縮罷り在り候処、却って御丁寧之御挨拶に預り恐れ入り候、其の砌寄せられ候御別冊謹而拝見恐愕に堪えず、其の第一点者大石寺僧衆之中、八山一味同心と申すは本意にあらず官命なれば止を得ざる処なりと虚言を構えて愚民を誘惑する者ある由にて、俄然三春法華寺へ改門願ひ出づる等と云云。
此の条不審極なし、近年弊山より彼の地へ往復之僧絶え而之れ無くば若し三春之該地近傍之寺僧等、彼之地に徘徊し此の虚説を構へ左に挙くる処之暴働を致し候事にても之在るか、深く心痛恐慮之余り取り敢ず彼の地探索申し遣し候得共未だ其の確報を得ず、尊答余りに延引に及ひ候故止むを得ず即今御伺ひ申し上け候、勿論教正之御職掌として妄に寃を鳴らし管下を罪し玉ふ事は毛頭之無き筈、定而確証之有るべく弊山之内何れの寺僧何年何月何日之比何れの地にして此の虚言を構へ誰与と申す愚民を誘惑仕り候哉此事承知仕り度、三春法華寺へ改門願ひ出て候との事は全く今日に芽さし候訳にては之無く今を距る事五十四五年前文政中に江戸目黒之住、永瀬清十郎なる者事故之有り彼の地に遊歴の折、郡山・本宮・二本松・福島等に於て専ら当家之法義を演べ数十名教化に及ひ候処其の子孫今に信仰絶ず、其の中に伊達七箇寺之檀那も之在る由、然るに方今自由信教の盛政を仰ぎ俄に同寺へ改門致し候者も之有る趣きは粗承承知仕り候得共未だ新に誘引せし者あるを聞かず誰の僧誰人を新に誘引改門せしめ候や、是れ亦承知仕り度候。
第二点、従来安置せる興師尊像を破毀するに至と云云。
此の条容易ならざる逆罪実に驚き入候、仰も此の狂暴を働き候者は僧に候哉、俗に候哉、俗に候はば是非に及ず若し弊山の僧侶に候はば屹度制誡仕り度、是又何れの比、何と申す僧侶右様之暴働を仕り候哉、蓋し不審なるは渡り仏眼寺も無住にては之有る間敷く住僧あらば何ぞ此の狼藉を制止せざる、仰も我か父母を人之撃たんを子として拱手傍観せる者あるべからず、苟くも一寺の住職として其の寺之本尊を破毀する者を見て制せざるは父母を撃つ者を見ながら制せざるが如し尤も訝しき事ならずや爾れども専ら道徳を固守したまふ教正の御身にして争か無実を以つて其下を酷し給ふの理あるべき、希くば権利を以て其の確証を示し其逆悪之僧を罪し給はん事を。
蓋し岩代の師檀是非を請ふ事あれ共、爰に猶予せるは摩訶迦葉経の文に聊か耻る処あれば也とは失敬乍ら余り寛に過きて、近頃御説教の度毎に高席にして弊山を強く罵詈呵折したまふとの評判御座候には似合しからぬ御事と不審に存し奉り候。
第三点は仰も会津仙薹等時々催促すれども教院費、資本等上納せざる耳ならず、近頃回答をもせざるは全く此れ等之虚言を根拠とする処ならんと云云。
此の事更に謂れなき御難題なり、仙薹仏眼寺会津実成寺は素より弊山の末寺にあらざる師も知り玉ふなり、其の院費、資本を上納せざる何ぞ弊山の関り知る所ならん、仰も弊山の塔中近末寺之趣きは其の貧乏世に比類なし、然れども院費資本之上納に於ては其れ期を過きる事之無きは偏に平素其の義務を大切に奉戴致させ候故に御座候、実成仏眼の二寺の如きは弊山の塔中近末に対すれば可也と福寺と聞く、而も弊山の末寺にあらず何ぞ詮なき虚言を成し其の上納を拒むの理あらん、爾るを八山の管長教正の重職に居玉ふ御身として猶此の理を察せられず二寺の不躰裁をまで弊山に課ふせ偏悪し玉ふ趣意更にに氷解なしがたき処なり、但し其の確証御座候はば宜敷御教示を仰き奉り候なり。
第四点は右御別冊之中に隠士某文政中に著せられ候冊中に付挙げさせられ候数箇之御不審条々。
旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候。
蓋し戒壇の御本尊・最初仏・生灰二骨の事、別に旧記録も見えず弥四郎国重の事跡も不詳といへども巳に主精寛三師之書記にも載られ候上は古伝記の如く弊山固有の真宝にして後人の俗託・贋造杯申す狂難は更に論ずるに及ざる事と門下一同・確信の外他事なく、此の度には限らず前々より同断の疑難問・往々事旧り候得共争ひ難きは信者一心の眼に感徹し一度拝する輩一も疑点を置候者之無き上は数々の難条駁言も更に詮なきのみにあらず、還つて悪報を感じ謗罪を現し候者も少からず実に憫然の至り是非無き事に御座候、殊に戒壇の御本尊は大聖人都ての御真筆本尊の内に比類なき広大なる板御本尊・御筆勢も格別にして決して後人の贋造杯の及ぶべからざる正真の御本尊なる上は、設ひ戒壇の名義之れ無くとも外に定まれる戒壇の本尊之無くば広布の時是れを戒壇院へ安奉するとも誰か至当にあらずと言ふべき、況や本門戒壇の文字顕然なる上は是れを以て本門戒壇之大本尊と称し宝庫に安奉し師檀の信心を堅固ならしめ、事の広布を待たんに何の不可か之れ有る可き、後世日有師の彫刻にして裏書に云云の文字を彫り附たり杯と申す世評は皆怨嫉家の誣妄更に跡方もなき浮説なり、日有師癩病と云ふ事是亦怨嫉の徒の口碑のみ、家中抄には宿病と在り宿病宿痾何ぞ癩病に限らんや。
亦た宝庫中に舎利塔を安奉し朝暮に法味を供し遠国登山等の信者に拝せしめ信心渇仰の念を倍増せしむる事・仏法の通義其例証なきにあらず、昔は世尊般涅槃の後ち舎利を竜宮人天に分ち、天竺八国の王、亦是を分布し各々七宝塔の中に納め永く是れを供養せし事は菩薩所胎経阿育王経等に明白なり、漢土に於ては呉国松江法門寺の塔中に安ずる所の世尊手指の舎利三十年に一度天下を一周して群生を利益せしむ、日本に在りては蘇我馬子の大臣、塔を大野丘の北に立て司馬達等が斉食の上に感得せし仏舎利を塔の柱頭に蔵して供養を設けし等是れ其の類例なり、何ぞ独り本仏たる吾祖の舎利塔を宝蔵中に安置し信心の四衆に拝しせしむる事を怪んで云云罵詈する事の甚しきや、但し興目御在中より此の真骨を弊山に安置せし文証は日精家中抄に示され候通り目師の御譲状に大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひの文是なり。
次に目師遺状の真跡は弊山宝庫中に其御艸稿反故ともに秘蔵有り、実に八十七歳の御老筆勿論御筆勢は大に老衰至らせられ候様に拝見候得共古代の墨色と申し自然の妙筆中々後人の贋筆に脳はざる処、殊に年号を闕き単に月日耳を遊され候は後よりして是れを見れば個の大事たる書に年号なきは不都合の事に存ぜられ候か、家中抄には七十三歳の老耄に至るの文を考へ元徳四年の号を加へ、明細誌には元徳二年に至の文を取り七十三歳の所に注意せず、直に元徳二年の号を加られ候は還つて本文を読すの至りにて其の当時に泝つて是れを勘へ候はば年号のなき社そ其の後人の手にならざるの確証なり、如何となれば其の当時は実に開闢巳来未曾有の天下大乱なり、而して元徳二年より続いて元亨正慶の改元ありといへども遠国僻陬の山家・其の当時に於て改号の真を聞得る事は限ってあるまじきや故に同年の十一月三日、日目上人へ賜りし御本尊にも年号を省いて月日のみを記し、御名判の上には八十七と遊ばされて必ず其の年なる事を知らしめ給へり、斯る事実明了なる御真書を曲げて偽書と云ひなし取用ひずば一切世間に真として依用すべき書あるべからず、若し爾らば尊冊中に挙げさせられ候条には等しく八箇本山の開祖たる興尊師を直に難駁し玉ひし謗言にて中々末流を汲む愚輩等が彼れ是れと是非し論弁すべきにあらすせ、若し強いて氷解せんとならば地下に興尊に見へ奉り直々詰問の外あるべからず、隠士某師の冊中に興尊の御徳を称せんと聊か虚飾を施せしを師は強く是れを呵責し玉へり、今経法師品の説相を以て今師の冊中に挙ぐる処の悪言を比校せば其罪福熟れがありや、経に云く若し有悪人乃至其罪尚軽若人以一悪言毀砦在家出家読誦法華者其罪甚重等云云、宗祖曰く戯論にも一言継母が継子を讃るが如く志はなくとも末代の法花経の行者を供養せん功徳は彼の三業相応の信心・一劫の間・生身の仏を供養し奉るには百千万倍過くべしと説かれて候云云、設ひ虚飾たりとも一言称賛の功徳是の如し近頃の新聞誌上非道の金を貧らんとして大に自の金を損失せしの話あり、今師が他の徳を奪ひ掠めんとして自の謗罪を顕はし給へるは是れに彷彿たり、蓋し上官の御方へ対し不遜の愚言を発し震怒を醸し候は後患を顧みざるに似たれども、弊衲も亦興尊の末を汲む者・信力微弱にして一言の謗を聞き三百の鉾を以つて心を刺す程の思にはあらず、されども又心中甚だ熱するの余り思はず此の不敬なる麁語を発せしのみ、悪からず御憐察下さるべく候。
其の他数箇の条々逐一御会答申し上ぐ可く候得共、前申し上る通攷証に乏しく、且つ事に望み亦重て不測の過言を発し震怒を層さね候様の事情に立ち至り候ては、過日の尊翰に全論勝敗血で血を洗ふ訳にては之れ無く真に止むを得ざる場合、何卒色心とも一味協和の基本を相開き度と遊ばされ候御趣意に背き、弊衲も亦素望を失ふの基と深く恐慮仕り相黙止し候、尤も右の明細誌は先師の著述にして仙臺仏眼寺先住・寿円院なる者・一宗の大源たる宝冊杯の阿諛の愚跋を属し候得ども、実には言詭怪に亘り牽強附会も少らず候へば悉くは信じがたく其の取捨は看者の意に任すべき候得ども、願くば向後門外不出・再写禁し候様致し度き旨は先々住日霑も兼て申し居られ候上は敢て御細答申す可きにも之れ無く此の段悪らず御洞察百般不都合の義は平に御高免願上げ奉り候、右等参を以て上申仕る可く候所・三五日病床に罷り在り且づ追々月迫に及ひ候に付き止むを得ず失敬乍ら使札を以て申し上げ候、最早年内余日も之無く来陽拝顔の時を期し万縷伺ひ奉る可く候、恐惶謹言。
    十一年十二月十七日

07-093 霑師会答一
拝啓、先般京都小泉両山末徒の代言を兼ね弊山当住職大講義下山日布へ寄せせられ候数十箇の御難条駁言の尊書・老禿も関かり拝することを許され粛読奉り候、大旨は大講義より御会答申すべき趣に候得共・老禿も亦黙視に耐へず聊か鄙懐を吐露し高覧に呈し候、老禿旧と退譲して草弄に逸居するの処、昨今大講義の推挙を以て試補を辱うし漸く僧員に加へられし卑身・高官へ対し頗る越俎の責を脱れざるに似たれとも老禿も亦興目の清流に浴せる事焉に年あり、実に止を得ざるの場合宜く哀憐を垂れ覧観を給はば幸甚の至りなり、併ら文中の不条理なるは素より文字を知らざる醜、不遜の謾言あるは老倔頑固の弊と御見做し御仁怒に預り度、蓋し高官を侵し貴怒に嬰るるの罪は苛●を蒙るも敢て辞せざる所に御座候、恐れ惶謹言。
   明治十二年一月三日         上野大石寺前住職試補鈴木日霑
   北山本門寺御住職
    権少教正玉野日志上人尊前

日目上人譲状に就て会答
一、目師の譲状に云はく日興跡条々の事本門寺建立の時等と云云。
教正師云はく是れ大事とす、当山日浄記に曰はく日有未聞未見の板本尊之れを彫尅し猶己義荘厳の偽書を詰め来る其の偽書とは此の文並に番帳を指すなり言ふ所全く、実跡たらば驚嘆に堪へざる所と云云。
愚謂らく此の遺文を以て案するに興師御在世に本門寺の号なき事顕然なり、故に重須日浄日専等の諸師大に之を患ひ此の偽書をなし、或は其の現罰を蒙り日有癩人となり甲の杉山に蟄す等と無根の悪言を極め戒壇の本尊及び此の遺状をも偽物なりと言掠して後生を誑惑せし者ならん、爾れども開山巳来其の七世国師の代までは本門寺の号なかりし事は永正十二年に今川家より始めて本門寺の号を許可せられしを以て知るべきなり、以何となれば彼の宗祖の御染筆と誇耀せる富士山本門寺根源の額面は是れ何の為なるぞ、額と者必ず其寺門及び本堂等に掲げて其の寺山号を標するにあり、決して宝蔵等に秘蔵し置く品にはあらざるべし、若し爾らば開山御在世巳来・本門寺の号あらば必ず此の額面を本堂に掲示して、公然其の寺山号を標し給ふべきは勿論なり、然らば何ぞ永仁六年より以来た北条足利の数世を経・始めて今川家の此の国に興れるに至り改めて額面標札等の支証を持出して其の寺号の許可を受くるの理あらん、是れ必ず其の前は本門寺の号なきが故なるべし、若し爾らば与へて之れを論ぜば、家中抄に二は富士山本門寺と者・興師の滅後に喚ぶ所の寺号なり、額は大聖人の御筆跡なり、然るに高開両師の御本意国主之帰依を受け富士山に三堂を建立して額を本門寺と打つべし是れ両師の本意なり、故に御在世の時は重須の寺・大石の寺と云つて寺号をば喚ばず古き状に其の趣き見へたり、日澄の遺状等をも見るべし、相伝へて云ふ中頃甲駿不和の時・駿兵甲武に籠めらる、此時の重須の衆僧密に書状を通用して駿兵無事に帰る事を得たり、其の時褒美として今川家より寺号免許の状を日国に賜ふ、其の文に日蓮聖人従り的々相承並に本門寺の寺号証文等何れも支証明鏡の上は領掌相違無き者也仍て状件の如し永正十二乙亥年六月廿六日、本門寺日国上人・修理太夫と云云。
然れば日国巳来本門寺と書けるものか、西山も双論家なる故に日出、日典・以来亦本門寺と云ふ也。
問ふて曰はく日興御代に本門寺と謂ふ其の証拠御棟札是れ也、其文に云はく法華本門寺根源と何ぞ疑を生せんや、答て云はく此の文重須本門寺の証とせば誤り也其の故は此の棟札と者未来の標札なり、以何となれば国主此の法を建てられば三堂一時に造営すべしと巳上此の文之を思へ、況や澄師遺状並に日代状に本門寺建立の時也と巳上家中抄の趣なり。
巳に乾元三年八月十三日に故寂仙坊日澄師の跡を弔ひ給ふ興師の遺文には法華皆信の将来・本門寺建立の期と云ひ、棟札には国主此法を建てらるる時と云ひ、目師遺状には本門寺建立の時と云ふ、三文符を合せたるが如し、若し爾らば彼の本門寺根源の額面は勿論、棟札迚も皆是れ未来には本門寺を建立すべしと云ふの支証にして興尊の在世に本門寺の号なかりしは論に及ばざるなり、但し是れは与へて論ずるのみ、若し奪って之れを云はば其の額面や棟札や皆是れ本門戒壇の根源たる当山の法威を掠め奪はん為の謀計に彼の身延相承の国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇等とあるに附会し是れを偽造せる事明なり、家中抄に微く其の意を示して云はく永仁六年は日妙十四歳也、延慶三年は日妙廿六歳也、此年の本尊に尚日号を許されず況や十四歳の新発意に上人号を授けらるべけんや年代之を思へ等と云云、如何にも今下条妙蓮寺に蔵する所の妙師廿六歳・延慶三年六月十三日興師より授与し給ひし御本尊の端書には寂日坊弟子式部公に之を授与すと有りて猶日号をだに書し給はずとなり、況や何程の才智発明たりとも僅に十四歳の小沙弥として争で師と肩を並べ棟札の裏書に日号を顕し花押を加へるの理あるべき、何に況や其の時本門寺を以て妙師に譲り給ひし状とて富士山本門寺日妙上人へ之ふを授与す永仁六年二月十五日日興判と遊されし杯申し伝ふるは更に論なく其の偽妄たるの確証なり、且つ富士山本門寺根源の額大に以つて不審なり、宗祖御在世に富士に本門寺と称せし寺あらば此の額あるも道理なれ、未だ其の寺もなきに富士山本門寺根源とは最も怪しき御筆なり、況や根源の二字は余の本門寺に対するの語なり、此の時に当て未だ池上の本門寺もなく西山の本門寺もなし、何れの本門寺に相対して独り本門寺根源の称号を顕し給ひしものなるぞ、亦其の独一根源と称すべき本門寺だにも未だあらざるに、独り此の額あるは如何にも解しがたき事ならずや、但し御遺状に富士山に本門寺の戒壇を建立すべしとある其の本門寺に懸くべき為に兼ねて御認めありし額にして、其の本門寺は則今の重須本門寺是れ則後々に建立すべき一切の本門寺の根源たりと云はば、何が故に興尊永仁六年に根源の本門寺御建立の其の日より此の額を本堂の正面に高掲し其の根源の本門寺たる事を広く一宗に耀かし、遠く末代に顕示し以つて末徒の争論なからしむるに至らずして、漸く足利の末・世乱のときに乗じ僅に一国の主たる今川家の鼻息を伺ひ・竊に是れを持出して纔かに本門寺の称号を始めて許可せらるるには至りしぞ是れ亦怪しむべきの至りなり、若し亦設ひ左なくとも真に宗祖の御正筆ならば更に世間を憚るに及ばず何ぞ其の額面を今しも本堂客殿等に懸くるか、亦は宝庫中に掲るかして参詣の真俗に拝せしめ自他の疑滞を解かざるぞ、折角本門寺の根源たる事を世に耀さんと其の未然に予じめ遊ばし置かれし額面を門にも懸けず堂にも打たず、亦容易に人にも拝せしめずば世に知るもの更にあるべからず、実の宝の持腐れ宗祖開山の御心尽しも空しく泡沫となしぬるにあらずや、爾るに老禿若年の砌り本門寺方丈客殿等猶厳然未焼の時・一老僧に牽かれ彼の所に到り殿宇を一見せるに、客殿正面に当山戒壇堂十分の一の図といへる大ひなる板額の掲げあるは見しかども、富士山本門寺根源の額をば更に拝せず、後両三度虫払に参詣し余の御真筆は拝せしかども、額面に於ては未だ曾て拝せし事なし、或は近傍の村民に問ひ或は本門寺檀家と称する者に尋ねしかども、誰れ有つて其御真跡を拝せしと云ふ者なきは最も不審しく亦遺憾の到りなり、若くは従前は正御影堂に掲げありしとかども、文政某年正月六日の夜の炎上に額面も棟札も正御影と共に鳥有に付し給ひしか、若し左もあらば泣血悲嘆言ふも詮なく焉に贅論を止め畢んぬ。
一、譲状に云く一閻浮提の内半分は日目嫡子分と為て等云云。
教正師云はく今此の文を按ずるに目師一閻浮提の座主にして半分を領すべき理なし、乃至一国の大王にして其の半分を領するの国王ありやと云云
愚謂らく国に封建郡県の制あり支那の昔夏殷周の三代の如き封建にして天子の所轄僅に畿内千里に過ぎず余は皆封じて諸候の国とせり、西伯文王天下を三分して其の二を有つ以て殷に服事する等之を思へ、我が日本国の古代は郡県の制にして四海悉く王有にあらざるはなしと雖も源頼朝覇府を鎌倉に開き武家一たび政権を執りしより巳来た、北条足利織田豊臣徳川に至るまで奕世封建の制と変じ、日本皇帝の管内は僅に畿内数郡に過きず余は皆諸候の封土たり、何れの所にか一国の大王にして其の半分を領せる国王ありやとは纔に十箇年後の形勢にのみ著目して未だ其の前近古の世態を知り給はざるに似たり、就中我が開山の時代は北条氏の末・専ら封建の時なる故に是れに凝らへ、一閻浮提の内・山寺等半分は座主の管内とし其の余は自余の大衆之を知るべきの所分を遺命し給ふのみ何の疑難する所かあるべき。又座主とあれば言足りぬ後に日目を嫡子分と為す六字頗る無益剰長の詞なり、又嫡弟・付弟は仏門の通語なり今珍く嫡子分と云ふ不審しとは更に教正師の一言とも存ぜられず、愚禿素より暗愚・子分の法を知らず而れども宗祖安国論に云く釈迦の巳前の仏教に者其罪を斬ると雖も能仁巳後の経説に者則其の施を止云云、能仁は釈迦の翻名・仏教経説亦同じ、前に釈迦の仏教とあれば言足りぬ後の能仁経説の四字頗る無益剰長の詞なりとて亦宗祖の安国論をも捨て給へるか、嫡子分とは其の所分を遺命し給ふに付いて且らく世主の遺状に擬し父子の字を仮借し給ふのみ、師を父とし資を子に比する事・経釈の文更に珍しからず、今其の一二を出さば今経序品に云はく是文殊師利法王之子と又云く見仏子造諸塔廟と又云く仏子文殊、方便品に云はく仏口所生子・又云我当為長子と・譬喩品に云く其の中衆生悉是吾子と・宝塔品に云く是真仏子住淳善地と其の他具に挙くるに●あらず、嫡子分とは興尊自を国王に比し目師を嫡子太子に擬して其の所分を遺付し給ふ、是則高開両師の法水・目師の心中に流入せる写瓶の仏長子・真仏子なる事を標し給ふのみ、嫡子の語巳に経文に先例あり何と珍とするに足らん、而るを学識有名な教正師に於いて猶此の語ある是れ則鹿を逐ふ猟師は目に大山を見ざるの謂ひか、将た上手の掌より水を漏らし空海の筆の誤りなる者か不審し。
一、日興宛身所給弘安二年の大本尊等と文。
教正師云はく聖武天皇は東大寺を建立し給ひ、桓武天皇は伝教大師の大檀那なり、本門戒壇何ぞ独り姓氏形状も明かならざる弥四郎国重を以て願主とするの理あらん、身延相承・秘法抄等の文並に造立つせらるる願主施主は国王なる事明か也等云云。
具謂らく事の広布の時至り本門の大戒壇を建立せん事、勿論国王の力にあらずんば叶ふべからず誰か弥四郎国重が大願主大檀那たりと云ふべき。
蓋し国重の名を●に標する事、微しく鄙懐あり今試に之れを弁ぜん取捨は衆情に任すべし、謂く本門戒壇の大事は容易にあらず故に宗祖諸抄中に曾て之れを明言し給はず、報恩抄の下巻に等しく三大秘法の形貌を掲問し給ふに、本尊と題目の二箇に於ては問に随ひ其の形貌を明言し給へども、戒壇の一箇に於ては只名義のみを挙げて形貌を欠答し給へり取要抄亦知りぬべし、爾るに弘安二年に至り始めて我が興尊に対し三大秘法の口決ありといへども猶未だ他に漏らし給はず、漸く弘安四年の四月に至り太田禅門に対し具に戒壇の形貌を示して戒壇と者王法仏法に冥じ仏法王法に合し乃至梵帝等来下して蹈み給ふべき戒壇也と始めて之れを明言し給ふなり、然れども其の結文に予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き附けて留め置ずんば遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし、其の後は何と悔ゆとも叶ふまじくと存ずる間貴辺に対して書遺す一見の後は秘して他見すべからず口外も詮無しと是れを厳誡し給へば宗祖の在世に於ては実に吾が興尊及び太田氏の外は、本門戒壇とは其の形貌の何物たるを知れるものは至って稀なるべきなり、爾るに彼の国重なる者・云何なる宿縁の深厚なるに由つてや、将た本仏の加被力に由つてや、衆に先だち弘安二年十月の頃より深く本門戒壇の義理を信解し永く未来の一切の衆生の為に本年戒壇大本尊を遺し給はん事を希望す、是れ則ち本門戒壇の発起対告衆者なり、故に宗祖之れを褒美して本門戒壇之願主弥四郎国重・法華講衆等敬白と表し給ふのみ、而れども此の本尊や全く国重等の一機の為に書図し給ふにあらず、其の実は滅後の一切衆生の為・事の広布の時・大戒壇堂に掛け奉るべき設として顕し給ひ、是れを以て本門弘通の大導師たる我が興尊に附し給ふ也、故に今の遺状に日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大本尊乃至本門寺に掛奉べしと遊ばされし事と確信せるのみ、本門戒壇の四字あればとて文字雖一而義各異なり、決して大日本国の皇帝の受戒し給へる本門事の戒壇の本尊にはあらざるなりとは何を以て確信し給ふや、聖武帝の造らせ給へる大像・桓武帝の立て給へる薬師仏と雖も必ず天皇手づから之れを作り給ふにもあらず、亦良弁伝教の自作にもあらず皆是れ下賤なる鋳物師仏工師の手になれるや必然たり、而れども之れを立てて本尊と崇むるに至っては皇帝自ら王冠を傾け地に伏して其の宝前に受戒し給ふなり、況や宗祖自ら末代の為に図し中老日法に命じ彫尅せしめ師資相承して末世に伝へ給ふ閻浮第一の大本尊たるに於て、其の時来時の尊師之れを指揮して本門戒壇の大本尊と崇めんに、弥四郎国重の文字あればとて爾の時の帝王何ぞ之れを賤み厭ふて受戒せざるの理あるべき、又若し実に上野に事の戒壇の本尊を安ずる由にとてなれば何ぞ更に当山を建立して等と者、此の者前に弁ずるの間・煩しく焉に贅せず。
又正応二年に大石寺に事の戒壇の本尊を安置し本六人巳下守番勤仕すとならば日尊日順日代等の俊傑之を見聞せざるの理あらん、乃至一も指示せざるとは当らぬ難条なり、彼の三師等之れを見聞すといへども別に指示すべき事なき故に黙するのみ、例せば富永仲基の出定後語に大論一百巻の中に一も大般涅槃経を引用せざるを以て此の経は釈迦滅後七八百年竜樹滅後の偽経と決せり、然れども前代の諸師及び宗祖等曾て之を以て偽とせず殊に信用し給へり、是れ他なし大論弘博といへども此の経を引くに用なきが故なり、況や彼の三師等が僅に五紙七紙一巻二巻の筆語中に信用し玉へり、是れを指示する事なしとて何ぞ之れを偽と決せん、況や今現に此の大本尊在すをば如何がすべき。
弥四郎国重は波木井の嫡男なりと乃至永仁六年の記に独り此の大願主を漏らせる理有るべからずと。
其の永仁六年の記とは興師の弟子分帳の事なるや、彼の記に波木井の一門を悉く記し給ひしや覚束なし、亦弥四郎は決して波木井の嫡男にあらざるべしとは何を以て之れを証し給ふや不審し、又其の彫尅は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語って云はくとは死人に口なし能き証人なり、彼の便妙なる者、吾が信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是れ必ず死して其の人の亡きを幸とし期る胡乱なる証人を出し給いひし者か、若し万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ず此の妄言を出せし現報なるべし豈慎まざるべけんや。
有師板本尊を彫尅して癩病を感ぜりとは日興一派の伝説なり一定癩病にして杉山に籠るとは家中劭に見へたり等と云云。
是れ大ひなる誣妄・其の本とは重須日浄日専等の諸師首唱して其の末徒等是れを妄伝喋々するのみ、家中抄には宿病有て甲州下部の湯に入る宿主子息多し一人我に授けよ即ち弟子と為んと、家主云く我は子唯一人のみ之有り余は我子に非す是より巳来代々子息一人の外は之無し之れに依て子息乏きを嘆き昌師に憑み奉り有師の墓所に啓め其れより子息多く生ると中略、是の如き瑞を見るに凡人に非るを知る其後尊崇日日に重し終に血脈を日乗に附し甲州河内杉山に蟄居等とありて癩病にして杉山に籠るの語更に見へず、何ぞ教正の重職にして妄りに讒謗を構へ更に後生を誑惑し給へるや、況や日有実に法罰に依つて癩人とならば誰か此の人を帰依渇仰するものあらん、爾るに其の在世は勿論滅後の今に至るまで其の徳を仰ぎ自他の渇仰日に新にして杉山は九月廿九日には今に遠近の参詣群をなすと云へり、若し爾らば怨嫉家の習ひ古今此説をなす者は当山を嫉妬し戒壇の本尊を妄偽に所せんと謀る貴山の一門のみ、其の余更に此の悪説をなす者あるを聞かざるなり。
蓋し日有の彫尅せる本尊と者宗祖の御真筆紫宸殿の本尊と称する者之れを模写して彫尅せし事あり。
伝へ言ふ其の時乱離の世に乗じ身延の群徒来りて戒壇の本尊及ひそ其の他の諸霊宝を鹵掠せんとするの説あるに仍つて、日有計つて真の本尊及諸霊宝をば駿東郡東井出村井出某氏の窖に蔵し(此家子孫今に連綿し村内一之旧家今の家主弥平治と号す、此窖今に存し御穴と称し常に香花の供すと云云)日有彫尅の本尊を仮立して且らく戒壇の本尊に擬せしとなり、事鎮静の後・日有自判を加へ是れを鳥窪の住僧日伝に授与するの文字あり、是れ則方今天王堂に安置せる板本尊是なり、惟ふに後世之れを訛伝して日有真の戒壇の本尊を彫尅するの説あるか知るべからず、爾れども其の彫尅の手際彼と是と日を同ふして論ずべきにあらず、実に戒壇之本尊の如きは上代質朴の世に於ては尤も細工に有名なる日法師の外にはあるべからざるの手際なり、旧く伝聞す岡の宮、光長寺に戒壇の本尊の尅屑を蔵し彼の徒常に誇り言ふ、宗祖曰はく日蓮が魂を墨に染め流すと大石寺に戒壇の本尊を蔵すと雖も法魂は我れにあり、彼は蝉蛻のみと、此の言伝説にして未だ其の実を正されば徴するに足らざれども取る所有るが如し。
其の七面に祈念する等の説に至りては頗る奇怪載せて先師の書にありといへども老禿は取らざるなり。
一、文に云く大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ等云云。
教正師云はく今案ずるに波木井入道日円・興師へ贈れる状に云はく無道に師匠の御墓をすて失なき日円を等と云云、門徒存知抄に云く甲斐の国波木井の郷身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興御廟に通ぜざる子細条々等云云、所破抄に云はく身延山の群徒猥に疑難して云く富士の重科は専ら当所離散に在り乃至身延一沢の余流未た法水の清濁を分たず強に御廟の参否を論ぜば等云云、日尊実録に云く云云、此の四文を以て之を照すに興目の在世には大聖人の御骨大石寺にあらざる事皎として白日の如し、若し夫れあらば日尊日順等何ぞ是を知らざるの理あらん、今現存する者は後世身延の墓をあばいて盗み出せる者か、蓋し将たに作物にして偽説するにすぎざる也と云云。
愚謂らく甚ひかな此の言や、興門一派の明鏡たる教正師にして此の暴言ある怪むべし、興尊一たび延嶽を去り給ひし後我が徒の微力争か巍々たる延嶽に嚮ひ此の暴働をなす事を得べけん、況や円頂方袍の徒の行ふべき業にはあらざるべし、凡そ人心あるもの凡夫臭穢の枯骨を納め大聖の仏骨と称し宝瓶高臺に安奉し自ら拝礼供養をなし以つて他を欺き自を欺くに忍びんや、設ひ一人此の謀計をなす事あらんも他人争か此の邪謀に与する者あるべき、仮ひ一人二人与みする者あらんも一山与みすべからず、一山与みすとも衆徒檀越争で之を許すべけん、若し一僧一信檀越之を許さずんば決して此の邪計を当時及ひ末世に施す事は叶ふべからず、蓋し教正師の如きは若し其の時にあらば依然として是に与みし給ふ意なるか決して与し給ふまじ、師若し与みするの意なくんば他人も亦爾るべし、嗚呼是れ羅漢に似たる一闡提の徒にあらざれば行ひがたきの謀計・我か興目の末流にして誰か是れに与みする者あるべき、若し爾らば此の事決して後世の偽計にあらざるや明けし、蓋し宗祖の正墓延山に在つて未来際迄も法魂を爰に止むべしとは宗祖の遺命祖文に在つて顕然なり、故に日円及び群徒等是れを以て頻りに難を焉になす、故に且らく仏者の正意は生法二身に於ては専ら法身の舎利に在つて生身の全砕に依るべからざるの義を示し、其の勝劣を明了にせんが為、切に此の理を述べて生身偏執の見を破責し御墓不通の競難を強遮し給ふのみ、此のときに臨んで何ぞ砕身の有無を論ずるに及ばん、故を以つて且らく之れを黙し給ふのみ、爾りと雖も何ぞ必ずしも御骨を取収して当山に移し給はずと確言せんや、仰も興尊の身延を離散し給ふは何故ぞ是れ偏に地頭の謗法を悪み終には末代までも大謗法の魔境とならん事を恐慮し給ひし故にあらずや、興尊自身をすら永く謗地に居せん事を厭はせ給ひながら争で本師の御正骨を永く謗法魔境の土中に埋め置かん事を快とし給ふべき、凡俗といへども父母の身骨を悪土に置く事を厭ひ勝地を選んで改葬する者あり、彼の土木氏の如き其の身法華の持者として領地も亦多し其の領内の墓地に埋葬し朝暮自手に香花を供し追孝を尽さんに何の不足かあるべき、然れども後世領地替等に由り永世謗法の土とならん事を慮りてや母骨を首に懸け。々延嶽に詣られし事載せて祖文にあり、是れ孝子の情なり故に宗祖深く之れを賞し給ふ、況や興尊に於て今や身延一山謗法の地となり永世無間の土とならん事を慮り御身すら爰を去らんとし給ひ、余の霊宝・御本尊及び聖教重器に至るまで牛馬に駄し離散し給ふに臨み、僅に一瓶に満たざる本師の遺骨を砕身取るに足らずと永く謗土に捨てて顧みざるの理あるべからず、西伯文王は野に枯骨あるを見て厚く之れを葬り華氏城の波羅門は髑髏の耳の孔達る者を買ひ是れに塔して礼拝供養せり、仁人信士は他人の枯骨すら捨てず況や本師の遺骨を捨て顧みざるの仏弟子はあるべからず、何に況や吾か興尊に於てをや、故に愚輩に於ては設ひ教正師百口を極めて疑難を設け之れを破らんと欲し給ふとも此の一箇に於ては確乎たる信心決して退すべきにあらざる也、蓋し当山瓶中に盛る処の者は全骨にはあらず僅に胸部より頭脳にいたるまでの御骨にして其の余は身延に残し給へるか其の情知るべからず。
一、教正師云はく仰も聖賢の砕骨を玻璃塔に納めて宝庫に安置し衆人に礼拝せしむるとは何等の経論釈抄に候ぞやと云云。愚反詰して謂く仰も仏祖の砕骨を玻璃塔に納めて其信心の四衆に拝せしめ弥断生信せしむべからずとは何れの経論釈抄に候ぞや、宗祖曰く又身軽法重・死身弘法と申して候は身は軽ければ人打はり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね返って重かるべし、かばね重くなるならば此かばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩といははるやうに、いはうべしと云云、此の死かばねと者生身の砕身にあらずして何ぞや、所詮不信の人の前には金剛不壊の仏舎利も猶是れ瓦礫の如し、所謂傅奕の悪言・韓愈の罵詈等是れなり、況や末法下種の機の吾輩に於ては設ひ七宝塔に奉じ供養を延ぶとも古暦昨食何の利益かあるべき、若し吾が信者の前には示同凡夫の宗祖の砕骨猶是れ久遠本仏の御舎利にして彼の金剛不壊の仏舎利に勝るる事は百千万倍なり、何ぞ是れに塔して礼拝供養をなさざるべけんや、爾るを宗祖大聖人の砕身に於て猶通途賢聖の臭骨に同視して此の難をなせるは更に宗祖の内徳を尊信覚知せる教正明師の一言とは思はれざるなり嗚呼。
一、教正師又云く一疑去って一疑来る草稿の反故と本紙ともに付与し給へる理なし、元徳四年は師当山に在り然れば則其の草稿は当山に蔵すべし等と云云。
此の言至れり尽せり愚も此の言を拝し思はず顰蹙し●頭を掻き喟然として歎じて云く大講義の答書に贅言して乍ら此の難義を醸せり、古人言はずや駟も舌に及ばずと況や筆跡に於いてをや嗚呼と、而して退き稍沈吟し掌を拍ち大に笑って曰はく奇なる哉妙なる哉、大講義の一筆や反つて我が胸中を豁然たらしむ、云何となれば興尊当山を目師へ内付し給ふ事は果して其の前にあるべしといへども表然たる遺付は全く此の時を正とす、爾らば興尊永仁中に一たび重須に退去し給ふといへども猶元徳四年に至るまでは両山兼住の姿なり、今改めて大石寺を目師に付し其の遺跡を定め給はんに興尊争か重須に居ながらにして是れを扱ひ給ふの理あるべき、必ず駕を当山に促かし是書にして此の遺状を認め衆檀に疲労して公然其の式を行ひ給ふ事当然なり、爾して其の艸稿也や粗々たる半裂の紙に禿筆を以て僅かに三四行を艸して余白尽きぬ、当時質素の状僻陬乱雑の世・紙筆に乏しきの様自ら見るべきに足れり・惟ふに師此の草を成し畢り若くは自ら手丸め机上に置き給ふか、若しくは座側に捨て給ひしを後、之れを拾ひ全く師の御真跡なるを以つて本書に添へ同く筺中に納めて今に当山に蔵せるや必然たり、若し然らば此の艸稿の当山に蔵せる反って是れ御遺状の真跡に紛れなきの確証なり、是に於いて教正師、猶氷解ぜず重ねて疑難を設けば吾輩の及ぶべきにあらず、其れは実に吾が大講義の明言の如く興尊に地下に見へ自ら疑を決し給ふの外は設ひ真跡を拝する事あらんも猶断疑の期あるべからず、故に焉に筆を絶し篳ぬ。
    明治十二年一月            沙門日霑謹誌

07-106
霑師会答二
一、本門寺寺号の事。
尊書に曰く此の語精師嫉妬の念より文を勘へざるに根拠せる処なり、乃至其の国主糾明するに及んで支証分明なる故に原の如く領掌すべしと云ふ文なり、何を以て始めて許されたりと云ふや、又今川家に限るにあらず其の前になきは管領主之を糺聞せざる故也と云云。
今謂く素より其の寺号あらば何ぞ其の支証を糺聞に及ばん、況や領主より必す寺号の支証を糺聞する事あらば是は貴山のみには限らざるべし領内一統此の事なくんばあるべからず、然るに他山は知らず当山本末の中に於て其の寺号支証の糺聞に預りし例しを伝へず、且つ其の状の文面たるや寺号支証明鏡なる上は領掌相違無しと如何にも寺号を始めて許可せられし如くなる故を以つて是れ必ず其の前は本門寺の号なく此の時始めて自ら支証を持出して其の寺号の許可を受領せられし者か、将た伝説の如く駿兵に功ありしを以て其の恩賞に是の如く諸山に特別なる許状に預りしかと想像せられしも全く其の理なきにはあらざるべし、況や澄師の状には法華皆信の将来・本門寺建立の時と云、正慶二年二月十三日の状には本門寺建立の時と云、代師状には仏像建立の造立の人は本門寺建立の時也、未だ勅裁無し等と有つていかにも本門寺の寺号は其の当時にはあらざりしが如くなる明文数々ありし故に精師之れを挙げて云云せられしのみ、謂ふ強ちに本門寺の号を妬視せるとのみ憤り給ふ勿れ。
曾て其れ自ら代師伝に引く今猶本書存せる建武元年正月七日の問答を当坐聴衆の記録に判然と大石寺重須本門寺の語あるを顧ずと、実に以つて然なり是れ精師の麁忽と謂つべし蓋し此の記録と者日向の国日知屋定善寺日叡の自筆にして正筆は九州にありと云云、若し爾らば家中抄に載する所は必伝写の本門寺にして正筆にはあらざるべし、而して其の引く所の文を熟視するに初文には重須の大衆蔵人阿闍梨日代等と云ひ、次の文には大衆を畧し重須蔵人阿闍梨等と云ふ是れ文法の常なり、而して第三の末文に到り突然重須本門寺大衆等とあるは不審し、何んとなれば凡て事を記するや初めは住所姓名等を具載し後之を略するは文法の常なり、然るに此の文や初文には本門寺の号なく次の文亦然り、第三の末文に到り始て本門寺の三字を剰せるは常途の文法に反する所、若くは原本の伝写に誤筆ある者か、随つて今代師伝に引く所を按するに是則当山に蔵する所の十四代主師伝写の本門寺たるや必せり、此の文には如何にも今引く所の如く第三に本門寺の号あり但し先哲是れに朱書して云く我聞く本書には本門寺の三字なしと是必ず主師伝写の時不慮に之を加るか、将た伝写の原本に謬れる者かと云云、文理を以て之れを考ふるに是必ず其の理なきにしもあらざるなり、蓋し精師の前に自ら言ふ所を顧みず其の源本の謬伝を糺さず其の侭引かれしは平素の正直一事欺かざる生質のなす所是非すべきにあらざるか、然れども若し必ず九州に在る所の本書にありと言はば思束なき事ながら敢て強ゆべきにあらず、況や現に本門寺日興と遊ばせる御消息を所持せる者あるに於て那ぞ之を争はん、但し頃日近村の農家に秘蔵せる由にて興尊の御消息と称し三通を一と巻に合装せる仮名文を持参して改訂を乞ふ者あり、之を閲するに字形更に訳らず一行をだに読み下す事能はず、尤当山に蔵せる数十通の御真跡の中に一も是れに類せるものなし、況や日号判形混一して更に分析しがたく勿論興尊の判形あらず、三通共に肩に本門寺の号あり上封も亦爾なり、僅三通の消息に合して六箇の本門寺あるも興尊常の御簡畧の消息には御念が過ぎて類しがたき所なり、今の給ふ御消息と者必ず此の類にはあらざるべけれども、若し万一此の一類にもあらば甚だ信じがたき所なり、併し尊書に棟札●に此の消息の真跡を他日吾輩を御招き拝見せしむべしとの御沙汰あり、是れ大悦希望する所なれども恨らくは愚禿は老衰眼精蒙昧設ひ給ひ真跡を拝する事あらんも決して其の真偽を頒つ事難し、幸ひ愚弟子の中に微しく古今の墨色を視分けて兼ねて古書を閲する事を好む者あり頻に愚に代わり其真跡を参拝せん事を望めり、若し貴山此の代拝を許し給はば御沙汰の日限尅限を以つて必ず参堂致させべく、而して其の御真跡たるに決せば愚禿を重ねて参拝を願ひ、僥幸正御影も御炎上とは怨嫉家の謗言妄伝にして実には御恙なく御在山、殊に方今教正師の御釐正御行届に付ては、積年の謗法を厭ひ一旦去らせ給ひし宗祖の御魂も、再び尊躰に帰せさせ給ふべきとの御明言、実の其の理あらば御影の御宝前に身を投じ過言の罪を深く懺謝仕るべしと誓願せり、其れは兎も角も後の事先づは特別の大慈を垂れ右の代拝を不日に御許容相成度、切に其の御沙汰を待ち奉る也。
尊諸に云はく若し夫れ寺号を立つるが非ならば妙法蓮華経王寺・久遠寺等は頗る蓮祖の謬誤に属すべきか、乃至事の戒壇建立以前に本門寺と称すべからず寺号を呼ぶべからずと云ふ明文を出して是に対向すべきなりと云云。
今謂くあら可笑、吾が輩何れの所にか寺号を立るを非と申せしぞ、蓋し精師の其の前本門の号なしと募りしは永正十二年の今川家の指令余山に其の類例を聞かざるを以つて只管寺号許可の状と想像し亦棟札の文及び澄代二師の状等より発りし事にて何ぞ精師・私の妬視と云ふべけん、殊に大聖人巳下に於ては寺号を立つべからず、若し立るは全く蓮興二師の御本意にあらずと云ふ事は代師より六角上行院日印師へ贈る返書に出てたり、所謂六角の当院謂れ無し(是上行院の号を非難せるか)大聖巳後は遺弟等仏法の訴人也、本師(興尊か)未だ居所を定めず末学の寺院●に昇進僧綱の事(日尊師を非するか)両聖人の御本意に非る也と云云、此の文の如くならば大聖人の立て給ふ久遠寺等の号は格別の事、吾開山日興上人の大石の寺に九箇年の御住居も重須寺に三十六箇年の御永住も、実には年々朝家へ奏し武家へ訴へ給ふ訴詔中の客舎にして、全く定れる御住所とはし給はず寺号をも立て給はざりしが如くなり、況や末学の寺院●に昇進僧綱の事・両上人の御本意に非ず云云、若し爾らば大聖巳後に於て寺号を立てるは非なりとは愚禿は言ひし覚え更になけれども、是の如く一旦興尊の付属を承け貴山を掌握し給ひし代師の確言なれば、若し是を糺聞せんとならば例の如く地下に代師に問ふか亦其の門へ質して可なるべし、何ぞ愚禿等が関り知る所ならん・請ふ教正師血迷ひ給ふ事なかれ。

一、御棟札の事。
尊書に云く次に与へて云はば未来の棟札なりと、乃至奪って云はば謀計偽造と乃至大徳に始れりと云云。
今謂はく此の呵責切に慚謝する所なり、容易ならざる貴山根拠の御重宝を仮染にも附会の偽造杯とは、実に年甲斐もなき麁忽の暴言頓て御許可を得ば、前言の如く必ず正御影の御宝前にして深く其の謗罪を懺謝し奉るべし、蓋し尊示の如く此の棟札を以つて必ず、其の当時に造立し給へる三堂の棟札なりとせば甚だ愚解しがたき所あり、仰も棟札と者其の用何たる物ぞ世上の棟札は置いて論ぜず宗祖御在世に吾が御使として南条氏へ贈り給ふ棟札の御消息載せて録外にあり、其要只た家の棟に守護として火災等を防ぐに過ぎざるか、彼の有名なる豆州韮山江川氏の棟札亦以つて爾り、彼の家・宗祖滅後六百年の今に至るまで一も祝融の災なきは実に此の棟札の故なりと・遠近之れを尊信し常に拝礼を請ふ者絶へざるを以つて・中古巳来棟上より卸し柱の中心に高掲して之れを拝せしむと伝聞す・是れ棟札の棟札たる所以也、貴山の棟札是に替れりや、若し其の当時に建立し給へる三堂の棟上にあるにあらずんば何ぞ其の棟札と称するの理あらん、然るに貴山の状を伺ふに其の三堂は共に跡形もなく、殊に其の中に最たる正御影堂は近く文政中に焼亡し、御影も共に炎上と聞きしかども、猶其の棟札の今に残り有るとは必ず其の棟上に在せしとも思はれず、若し其の棟上に在るにあらざれば更に其の棟札の用なきが如く、必ず其の当時に建立し給へる三堂の御棟札とは確信しがたき所なり、然らばとて古伝の如く是れを未来広布の時建立し給ふべき三堂の棟札なりと云はんとすれば、実に尊示の如く文に永仁六年二月十五造立願主等の文有つて、其の当時に建立せし三堂の棟札たる事顕然なり、然らば此の棟札たるや限って其の当時の棟札なりと云はんとすれば其の堂棟にあらざるか、堂及び其の主仏の焼亡をも守らず今に厳然として宝庫中に在と云云、亦是れを以て未来の棟札かと云はんとすれば実に尊示の如きの疑難あり、若し爾らば此の棟札は全くの現の為にもあらず当の為にもあらず二途不摂・現未中有の御棟札と申すべきか、実に是れ古今未曾有の珍らしき御棟札、貴山に深く珍重し給ふも誰か理りにあらずと云ふべき呵々。
亦其の国主云云の語は帝王信伏の時・勅宣御教書を申し請けて此の雛形の三堂を盛大に造営すべしと云ふ文なりと云云。
今謂はく此の御会通の如くならば亦未来の為に遣し給へるかとも想像せるなり、蓋し其の雛形と者何ぞ其の当時に石川氏等が施主として建立し給へる三堂なるか、然るに其の三堂は熟れの代にか亡ひて今は跡形もなし広布の時何を以つて雛形とせん、況や文には国主此の法を建てられば三堂一時に造営すべき也と有りて此の雛形の如く盛大に造営すべき語はなかりしと思へり、若し爾らば是れも亦師が所謂想像説・誰か之れを信ぜん、且つ事の戒壇建立の時は必ず地涌出現し或は大導師或は国主国母となりて大法を宣揚し給ふべしとは、載せて血脈抄にあり一門誰か之れを争ふべき、爾るに師が目師の遺状を難ずるや・又譲位あれば適宜に革命せるもせざるも新王の権内にありと、然り今之れを以つて之れを会せば未来広布の時・此の三堂を盛大に造営せるもせざるも其の時の国主●に大導師の権内にある事にして何ぞ必しも興尊の命を待つに及ぶべき、況や我が興尊にして今日在世に建立ありとも明日滅後幾程もなく焼亡するをも慮り給はず、煩しく此の非常物たる三堂を建立し・以つて幾世とも量りがたき遠き未来に建立すべき三堂の雛形にすべし杯と、小児の戯の如きの指揮をなし嘲りを末世に遣し給ふ事は万々あるべからざる事と想像せり、且つ其の未来三堂の雛形の為め石川氏等の建立せられし三堂は其の広●は何程なりしぞ、よも六万坊の大衆拳属等を入るる大堂にはあらざりしと思へり、然らば興尊今より煩く此の雛形の如く三堂共に盛大に作り替ふべしなどの命なくとも、其の時に至り何ぞ空手徒視して適宜の処置をなさざる空気の大導師・国王のあるべき、実に是れ無益の論なり、随つて三位日順心底抄に云く戒壇の方面は地形に随ふ可し国主信伏し造立時至らば智臣大徳宜く群議を成すべし兼日治定後難を招くに在り寸尺高下注記する能はず等云云、若し興尊永仁六年に自ら重須へ三堂を建立し之れを以つて本門寺の根源と称し未来広布の雛形とし給はば、三位日順其の世に在りて争で之れを知らざる事あるべき、知りて是言をなさば是れ師を蔑視するの蝗蟲、如何ぞ順公にして其の義あるべき、但し愚は一たび懺謝の上は口を箝んで再び偽物と云はざらんも、若し他の識者をして師の弁を聞かしめば必ず抱腹大笑し是れ大白癡の児戯論・拙策中の拙・偽物と云はざるを得べけんや。
又云はく妙師貞和四年に自ら名判を加へ給ひたるは法灯相続の証を残し給はん為か等と云云。
今謂はく是れ決定して言ふにあらざれば敢て論するに及ばざれども、先師の許可もなきに滅後其棟札へ自ら恣に名判を加へ之れを以つて法灯総則の証とし給ふとは前代に例しあらざる珍証、若し爾らば是れは棟札にあらで法灯相続の証札なるべし。又云く師は順師の次に一乗の大機を撰量し乃至法灯相続し給ひたる事相違なかるべし等と云云。
今謂く何れの末徒たりとも吾が開山吾が先師を称賛せざるや事は替れども是の如く言はざるはなし、然れども其の理なくば所謂想像の説・他は信ずべからず、若し西山の説に依らば妙師は簒奪の賊・彼の民部阿闍梨の流と云へり、蓋し両山の争ひ其是非曲直に至っては我関り知る所に非ず。
又云はく次に正御影と共に鳥有に付し給ひしか乃至全く怨嫉家の謗言なり等と云云。
今謂く是れに付いて一話あり回顧すれば今を距る事・三十余年の昔・愚細草の檀林にありし時貴山の僧衆に同学あり(此僧今猶存するや否や知らず尤も此事を証するにあらざれば態と其の名を顕はさざるなり)会ま談正御影の事に及べり其の師の云く伝へ聞く文政中正御影炎上の時一山周●して其の状を江戸役寺へ届けたり、本妙寺云はく彼の御影は世に隠れなき所・若し之れを焼失せりと明言せば其の山の瑕瑾耳ならず一宗の名義に拘はるべし、是れは公届に及ばず急ぎ模像を造り是れに代ゆべしと内意せられしと云云。
愚今此の事を回想し歎ずらく彼は巳に吾か門を敵視するの徒なり然れども時に臨んで猶此の好言あり、況や愚同門一派の兄弟にして猶此の言を吐く那ぞ慨歎せざるべき、蓋し事の●に及べるや其の原とは教正師・外には一味協和を口実とし内には怨嫉妬毒を逞ふし徒に其の欲する所を成んと三山の末徒を皷動し、自ら党首代言となりて我れに投ずるに数十箇の難条駁言の書を以つてし、加之虚喝を其の寺檀の間に鳴らし給ふか、世間に淘々の浮説起り亦此の言を吐くに至らしむ是れ実に師が自ら醸せる所なり、況や先の尊書中に明言し給ふ彼の岩代暴動の事件の如き、此の頃聞く該地の講頭等よりの報書に云はく京都の本尊へ墨をぬり或は焼き捨て或は尊像を破毀せし等の事・当地同行中に於ては更に其事之れ無し、改宗改寺の事は去る明治七八年の頃より自由信教の御布告に付き旧来内得の信者共其の檀那寺へ示談の処・相拒み候に付止むを得ず県庁の御沙汰を願ひ速に離檀に及びし上は、先方より御本山へ難題申し出つ可き理は更に之れ無き筈、殊に斯る暴挙あらば当地にも県庁警察あり寺僧等争で捨置の理あるべき等と云云。
若し爾らば右暴動の申懸も全く該地の寺僧衆・自の教導不行届なるを庇はん為に言を巧に斬る讒訴に及びしか、将た師の自ら私憤を果さん為謗言し給へるか何れ此の二を出つべからず、吁師は是れ容易ならざる奏任官を辱し給ふ教正の御身たり、何ぞ其の管下を撫するに公平を以てせずして私憤を専にし給ふや、師先に自ら言ずや前に妬視なかりしも一たび道郷の寺跡論・又仙代の読不読論起りて各寺に紛擾を生ずる等と、巳に上代賢哲の人猶爾り況や末代の下愚互に彼を非し是れを駁し、而して後に一味協和の基本を開かんと欲し給ふとも焉んぞ其れ得べけんや、是れ只だ私憤を醸積するの基本たるのみ、若し今教正師の為す所を以て之を江湖に質さば、識者師を以つて能く其の職掌に協へりと云はんか将た戻れりと云はんか得て知るべからず、是れ愚が教正師の為に切に惜む所なり、蓋し老禿至愚といへども等しく人面あり実に止むを得ずして言の是れに及び、墻に●くといへども焉んぞ外其の悔を禦ぐの情なからん、正御影の御事に於ては素より他に向つて之れを説きし事なし亦説くべきの謂れもなし向後亦以つて爾るべし、謂ふらくば教正師必ず是を以つて念とし給ふ事かならんを是れ祈る。

一、戒壇大御本尊の再論
尊書に云はく又則弥四郎国重等が希望によって遣し給へるが故に之れを褒美して願主の名を標し給へりと、皆並に後世の想像説のみ、先に巳に熟せる太田氏は宿福・弥四郎等が一機に及ばざるも本仏加被して本門弘通の大導師に希望せしめ給はざるは何故なるか、又開山師之を希望し給はざるは却つて弥四郎等が宿福に及び給はざりか、思ひがたし、若し開山希望し給へるは無論なりと云はば又何ぞ其の名を標し給はざる理あらん事と云云。
今謂はく愚が鄙懐を以つ無味に想像説と強ひ取らざるは、素より師が欲する所に害ある故にして我れに於ては妨げなし、但し開山の希望し給はざる開山の名を標し給はざるの難に至りては亦一鄙懐あり、師は必ず想像説として取らざらんも、闇者其の文を守り明者其の理を貴むの格言に任せ余の識者の為・試に是れを一弁せずんばあるべからず、謂く昔は教主大覚世尊・寿量品を演説して本化上行等に付属し給ふや、十方分身来集し本化迹化・旧住他方の諸菩薩・人天八部等・十方四百万億那由陀阿僧祗の国土に充塞すといへども、其の中に於て独り弥勒菩薩に加被して発起対告せしめ給ふなり、経に云く唯願説之・唯願説之と云云・是則寿量の願主也、而るに此の弥勒の宿福文殊に及ばざる事は、内証は知らず外用に於ては序品六瑞の問答に其の相顕然なり、況や本化上行等に劣るるや論なし、而して上行等巳に前品に涌出し文殊等亦其の座にあり、然れども世尊此大事を宿福彼に勝れたる上行及び文殊に発起せしめずして、独り弥勒に加被して対告たらしめしは何ぞや、寿量品に云はく是時菩薩大衆弥勒為首合掌白仏言と云く弥勒菩薩等倶白仏言等と云云。当に知るべし品中是の如く弥勒の名を称すといへども、之れを説く事・実には弥勒等の為にはあらず、是れ只た本化の上首上行菩薩に之れを付属せんが為のみ、然れども寿量一品中に一つも本化上行等の名を称せず、漸く神力品に至り将に之を付属せんとするに臨み、爾時仏告上行等と始て其名を表し給へり、今彼を以つて是に例するに其の義顕然たり、彼の弥四郎国重等の宿福・太田氏に及ぶか及ばざるかは知らざれど、本門弘通の大導師に如かざるは論なし、而して、本仏・太田氏及び興尊に託せず独り国重等に加被し給ふは、世尊・文殊上行に発願せしめずして独り弥勒に加被し対告せしめ給ひしが如し、而して此の本尊也や本門戒壇之願主弥四郎等法華講衆等敬白の文を標し其の願主たる事を示し給ふといへども、其の実は彼等一機の為にあらず是れ只た本門弘通の大導師日興に之れを付属し事の戒壇之本尊たらしめしは、則世尊寿量品中に唯願説之唯願説之乃至是時大衆弥勒為首合掌白仏言等と其の願主対告衆たる事を標し給ふといへども、其の実は弥勒等の為にあらずして本化上行に之れを付属し末法の依用たらしめ給ひしが如し、而して本尊中に日興の名を表せず、漸く弘安五年九月に至り之れを付属せんとして日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと始めて興尊の名を標し、此の本尊を付属し給ひしは正く寿量一品中に一も上行の名を称せず、残く神力品の付属にいたり始めて爾時仏告上行等と其の名を標し之れを付属し給ひしが如し、当に知るべし釈迦仏所説の本門寿量品は本仏所図の本門戒壇之大本尊、昔の神力品は今の遺状にして実に是れ凾蓋相応宛も符を合せたるが如し、釈に云はく与修多羅と合せば録め之を用ゆ文無義無き信受すべからず巳に是れ与修多羅と符合す豈に録して之れを用ひざらんや、巳に是れ文あり義あり誰か之れを信受せざらん、但し遺憾とする所は弥四郎国重の事跡判然たらざるのみ、然れども家中抄に弥四郎国重事・日道を大石寺に住せしむるの語あるは是れ必ず精師攷る所有つて記せられし者ならむ、惟ふに無二の大信者たるを以つて興尊延山御離散の砌り法の為め一門を離れ妻子を捨て随逐供奉して爰に来り興目の世を終へ猶日道を扶翼せし者なるか、彼の四条氏の如きは素と鎌倉の人江馬氏の近臣なり、後興師の化を慕ひ富士に来り住し其の子孫今にありと伝聞す、真間日頂師の母子兄弟亦爾り、弥四郎国重爰に在りとて何ぞ必しも駿河の人と決せむ。
開山弟子分本尊申与る目録には南部波木井十余名を挙げ給へども弥四郎国重の名なしと。
今謂はく国重は、巳に宗祖の御在世に衆に先だち本門戒壇之大本尊の願主たり、何ぞ其の前に宗祖より私の本尊を授与し給はざる事あるべき、然らば重ねて興師より改めて本尊を授与に及ばず、故を以つて本尊申与の弟子分帳に載せざるも道理なり。
但し富士下方市庭寺弥四郎入道に申与するの文あり、乃至此の弥四郎願主にして等と者。
是れは師が得て勝手の想像説・愚は取らざるなり、蓋し国重の其の伝を詳にせざるは往昔荒唐乱離の末・此の一事には限らず百般皆爾からざるはなし、那んぞ之れを以つて道理文義顕然たる本門戒壇之大本尊を妨げんや、若し教正師是に於いて猶疑難し前の如く云云せば、何ぞ寿量の説に於いて先に巳に熟せる文殊は宿福弥勒等の一機に及ばざるも、釈迦仏加被して本化の上首上行菩薩等に希望せしめ給はざるは何故なるか、又上行等是れを希望し給はざるは却って弥勒等の一機の宿福に及び給はざるか思ひがたし、若し上行等の希望し給へるは無論なりと云はば又何ぞ寿量中に其の名を標し給はざるの理あらん等と疑難し給はざるや、但し彼は世尊の仏智・仏力の所作何ぞ凡智の測量を以つて疑難を加ふべき、若し之れを疑って信ぜずんば生疑不信者則当堕悪道豈に畏れざるべけんやと云はば是れも亦本仏の所作何ぞ凡慮を以つて測量すべき所ならんや仰いで信ずべし、蓋し教正師は必ず信ずまじ所以いかんとなれば師は決して則当堕悪道を畏るるにあらず、徒に彼の本門寺根源の棟札の腐敗に属せんを怖れ給ふのみ、自余の細論は皆枝葉再論するに及ばず故に贅沢せざる也。


07-116 霑師会答三
一、拝啓奉り候、余寒猶厳敷く御座候処、聖躰御平安在らせられ御化導候由賀シ奉リ候、然れば過日の尊論書に他日必ず愚輩を御招き御棟札並に本門字日興と遊され候御真跡等を拝見仰付けらるべき御旨に付、自由乍ら一応代拝の義願ひ奉り日々屈指期限を待ち奉り候得共今に御沙汰之無し、且承り候得ば近日御上京の由驚き入り遺憾に堪えず、就ては御多忙の折柄恐縮奉り候得共愚も巳に六十三歳に及び今明も期し難く願くは迅速悔悟謝罪仕り度、別紙の通一二の疑氷を呈し候、広大の御慈悲を垂れ御出立前にも御示論成し下され候はヾ欣然之に過ぎず尤も其の他数々の不審も御座候得共、余は芽出度御帰山の砌伺ひ奉るべしと残し置き候、先は右懇願奉り度愚札を呈し候恐惶謹言。
明治十二年二月七日  日霑
権少教正玉野日志上人尊前

一、先に枝葉として再論を止めしも春の日の稍長からむとせる手持なさに之れを拾ひ聊か愚懐を註し高覧に呈し候。
尊書に云はく実に事の戒壇の本尊にして興目の御在世より貴山に安置あれば更に当山を建立し本門寺根源と称し給へる理なし、又目師正慶二年二月十三日御影並に御下し文薗城寺申状を上野六人の老僧互に守護す可し但し本門寺建立の時は本堂に納め奉る可しと遺命し給へるに及んで、猶此の大事の本尊を挙け給はざるの理あらん等と(云云)。
今謂はく昔は貴山の根拠とひけらせし宗祖御真筆の額面は先に予が難責に迫り遽に武田勝●の暴動に紛失し、其の真偽弁じがたく(蓋し教正の言に本門寺根源の額面は勝頼の暴動に紛失し今はなしと、按ずるに要法寺十八世日陽冨士本山詣り記に云く元和三年四月廿五日重須に至る○本門寺の額紺紙金泥の法華経一部曼陀羅十七幅安国論皆御正筆也、一々残らず頂拝す興師御遺骨等頂拝すと云云、天正十年勝頼滅亡より●に至て三十六年而して額面猶存在し日陽親り頂拝すと、知ぬ前に教正師の云う只是遁辞の謀言那ぞ正義を論ずるに足らん)、雛形の三堂は亡ひて跡なく今残れる物は怪しの棟札のみ、是れは先に呈せし愚書の如く疑網多くは其の真偽未だ決せず何を以つて本門寺根源の的証とせん、故に此の論は過日希望し奉りし如く弥よ棟札及び本門寺日興と遊ばせし御真跡の御消息を熟拝し断疑生信の上にて謝罪降伏すべし、先づ夫れ迄は且く舎いて論ずまじ、●て正慶二年二月十三日の状に戒壇の本尊を載せざるは道理至極せる所なり、此の状は二月十三日興尊御初七日に当り目師重須に会し興尊の遺命に依り其の奉行たるの職を奉じ御影等守護の為暫く上野六人の老僧之方迄預り奉るべしと申す預の支証手形也、但し家中抄目師伝を按ずるに云く去年巳来(正慶元年)天下大に乱れて何れの年も兵火を見ざる事なく何れの月も干戈を動ざる事なし、之れに依つて御本尊正御影奥州まで下向す、其の後程なく御登山之に依テ日目本尊を授与し其の端書に云はく奥州新田日盛御本尊御影御登山之時奥州迄下向候行躰者に依て薗部阿闍梨日経に之を授与す・正慶二年三月日・日目在判と(云云)、堕つて国史を按ずるに正慶元年春三月には北条高時・後醍醐帝を隠岐の国に迂し奉り藤原資朝等の近臣を殺し藤原の師賢・房季・公敏を遠迂し兵部卿親王独り吉野に逃る、四月には楠正成・金剛山を出で赤坂城を攻め之を抜き河内和泉を徇へて悉く之れを下し四天王寺に陣す、北条高時兵を遣して是れを討つに克たず、六月には護良親王兵を吉野に挙げ赤松円心兵を播磨に挙げ官軍に応ず、是れより勤王の士四方に蜂起し鎌倉の危急なる累卵に等しき国中の大兵乱、就中当地頭南条氏の如きは北条家の旧臣殊に平家の同族たり、故を以つて止むを得ず一家賊軍に加はり終に翌正慶二年の五月一門悉く戦死し北条氏と共に滅亡に及びし程の事なれば、其の年の二月興尊の御迂化御初七日の頃の当地の躁動は言を待たず想像すべし、是れに於いて目師法の為め深慮を回らされ二月十三日御初七日の御法事の終るを待ち直に重須の大衆等に計議し老僧三名連署して御影等を預り上野六人の老僧之方迄守護奉り、而して当山安置の戒壇の大本尊諸共に目師の御本国たる奥州へ御志し御下向有りて暫く兵災を避け給ふ事、文義明白なり、若し然らば此の状は上野日目日仙日善の三師より重須安置の尊像並に御下文等を慥に預り上野六人の老僧之方迄守護す可し、但し本門寺建立の時には興尊の御遺命の如く相違なく本堂に納め奉るべしと由す預り支証の一札也、戒壇の本尊は元とより目師の伝承し給ひし処・上野大衆等の守護すべきは論なし、何ぞ重須の大衆へ出す所の支証に之れを加るの理あらん然るを師・上野六人の老僧之方迄の正文を僻見し六人老僧互に守護すべしと私曲(云云)給ひしは是亦鹿を逐ふ者の山を見ざるの謂ひか、心焉にあらざる故に見損じ給ひしか、将た知て態と文を曲けて此の非難をなし給へるか知るべからず、幸ひ愚弟の中に去年虫払の砌り親く此の文を拝し不審しき御文躰とや思ひけん一字を誤ふず其の侭を模写し持てる者あり、今爰に書謄して貴覧に呈すべし、文に曰く日興上人御遺跡の事、日蓮大聖人御影並に御下文(薗城寺申状)上野六人の老僧の方巡に守護し奉る可し、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉る可し、此の条日興上人の仰に依て支配し奉る事此の如し、此の旨に背き異議を成し失ひ奉りたらん輩は永く大謗法タルベシ仍て誡の状件の如し(但し無点なり)、正慶二年(癸酉)二月十三日日善(判)日仙(判)日目(判)、是れ正く目師の御蹟なり教正師亦是れをも疑つて想像説とし給ふ事勿れ、而して文中に但し本門寺建立の時と(云云)、若し此の時より重須を本門寺の根源と称せば何ぞ此の語あるべき、且つ師の黠智なる亦必ず疑難して此の状若し重須の大衆へ出されし預り証書とならば其の真跡重須にあるべし何ぞ石山に蔵するの理あらんと曰給はんか、今謂はく然らず御影猶当山に守護し奉らば此状重須にあるべし、後幾程なく奥州より御還り本の如く貴山へ奉還せし上は何ぞ其の支証を貴山に留るの理あらん、故を以つて当山に蔵し末代の龜鑑とせるのみ、若し爾らば此の文中に当山固有の大本尊及び最初仏御真骨等の大事を載せざるは尤も至極せる道理ならずや、請ふ教正師此の正文を曲げて再び非難し給ふ事なかれ。
尊書に云はく実に正応二年に大石寺に事の戒壇之本尊を安置するとならば(乃至)日尊日順日代等の俊傑之を見聞せざるの理あらん、然るに是等の師・事の戒壇之本尊を語るに及んで一も是れを指示せざるは何ぞや等と(云云)。
今謂はく先に此の難を会するに大論一百巻の中に一も涅槃経を引かざるに例して大掴みに云云せしは愚が荒量当らざる会答との御呵責御尤なり、蓋し彼の三師等が指示せざるを以つて之れを疑難せば愚も亦貴山へ係り疑難する所多し、今一二を挙げ詳明なる貴答を待つて愚も亦貴難に答ふべし、謂はく永仁中に興尊重須寺を建立し宗祖の御真筆冨士山本門寺根源の額を根拠とし雛形の三堂を建立し直に本門寺根源の祝号を立て給ひしとならば、彼の三師等其の世にあり殊に代師は重須寺の補処たり争で此の盛挙を知らざるの理あらん、然れども彼の三師の筆語中に一も重須を本門寺根源と称すべきの指示なきは何ぞや、加之代師状には本門寺建立の時と云ひ、亦本師居所を定めずと云ひ、順師文保二年十一月廿四日重須談所に於て大師講を修せられし時の表白の文には、殊には今日法楽し奉る天台大師擁護を垂れ此の地に本門寺を建立し給等と有つて、未だ更に本門寺の号なきが如くなりしは何ぞや、且つ先に師が日妙師の徳を称讃せんが為に引き給ふ一乗の大機を撰量して等と云へる順師血脈の文の次下に興尊の化導の終りを記せられし文には、化導年旧り機縁の薪尽て元亨三年太歳(癸酉)二月七日八十八旬、駿州冨士重須の郷に座して臨終正念説法時を移し面貌端厳にして終に以て迂化すと云ひ、日澄師の終焉を記するにも延慶三年太歳(戊戌)暮春十四日、四十九、駿州冨士重須郷に在て定寿満たず師に先立ち没す等と有つて、一も本門寺の号を載せざるは何ぞや、亦古来より貴山に蔵せりと聞く所の二箇の御相承の如きは興門一派の規模尤も依憑する所八箇の本山誰か之れを疑擬すべき、去れば天正の昔には洛陽の日辰師重須に登山し親しく、此の真文を拝し模写して形木摺となし広く江湖に施行し今に蔵する者多し、亦慶長の末には貴山の先師其の真書を駿府城に持参し後藤少三郎を以つて前の源大将軍徳川家康公の台覧に備へし事は駿府政事録に載する所明白にして是れ私ならざる公然たる御真蹟自他共に争ひなき所なり、若し然らば吾か興門の徒にして仮染にも之れを疑難せる者は所謂城者破城の逆賊・獅子身中の蝗虫なり而して彼の三師等の筆語中に一も此の事を言ふ者なきは何ぞや、就れ中順師摧邪立正抄に冨士の最勝の地たる事を言はんとして何に況や中古の唐僧称美讃歎して閻浮無双の冨士山言ふ●莫れ扶桑第一峰と(云云)、法華諸経中第一、冨士と者諸山中第一也、故に日興上人独り彼の山に居を卜し爾前迹門の謗法を対治し法華本門の戒壇を建てんと欲し本門之大漫茶羅を安置し奉る(私に云是れ今吾石山に奉にる安置し戒壇の大本尊を指すにあらずして何ぞや)等と云ひ、所破抄には五人一同に云ふ所の拙ひ哉尊高之台嶺を褊し辺鄙之富士を崇む等の雑言を破責せんとして、次に日本と者惣名亦本朝扶桑国と云ふ富士と者郡の名即大日蓮華山と称す、爰に知ぬ先師自然の名号と妙法蓮華経題と山州共に相応し弘通此地に在り、遠く異朝の天台山を訪ふに台星の所居也大師此の深洞を卜し而迹門を建立す、近く和国之大日山を尋れば日天ノ能住也聖人此高峰を撰て本門を弘めんと欲す、閻浮第一の冨士山也五人争か辺鄙と下すや等と云つて、共に彼の御遺状の冨士山に本門寺の戒壇等と曰給へる聖語の明文を載せて之れを証せざるは何ぞや、師今彼の尊順代の三傑等が一も指示せざるを以つて吾か山の本門戒壇之大本尊を疑難し給はヾ、先づ差当り一に貴山の関係たる此の二件の反詰を明了に弁解し給ふべし、今師が難ずる所を弁ぜんは予に於いて難しとするにあらざれども先づ此の二つの明弁を拝承心伏し而して後に愚懐を吐露せんと欲す、願くは師一も惜む事なく具に是が弁をなし給はん事を是れ祈る。
 明治十二年二月七日 大石寺前々住 日霑

07-120 霑師会答四
一、本門寺寺号の事、明詳なる御弁解御尤の至りか、愚本より寺号なしと誣ゆるにあらず只だ古記に依り疑念する処を論ずるのみ、貴山の寺号あるなき何ぞ吾が関り知る所ならん、但し興尊御在世巳来貴山を本門寺の根源と称せば未来広布の時建立し給へる本門寺は枝葉に属するものか不審かし、且つ先年貴山の先住日信師より讃岐法華寺へ御投与なりし御書とて大石寺誑惑顕本抄と題せるいと珍らしき御名文の書を此の頃始めて拝見する事を得たり、則ち其の書に曰給へる趣には又第七祖日国上人の時、大石寺の邪徒の云はく広宣流布の時・本門戒壇建立の日・本門寺と号すべき道理なる間、今より本門寺と名のりては興師の本意にあらずと旁た法義の異論に及び、終に今川家の公所にて両寺対決の時二箇の相承棟札等を持出つる間・これに依つて公義の断判あり等と(云云)、当山の記には斯る事更に見へず亦伝聞もなければ其の事実は判然たらざれども、開山巳来必定本門寺と称し来りしものならば何ぞ当山より之れを拒み彼れ是れの論に及ばん、知りぬ是れ往代には本門寺の号なかりしを中古突然之れを称せし故に当山の衆徒之れを訝かり疑難せしならむ、然れども実に広布巳前より本門寺の号を立つべきの理なく巳義徹しがたきを以て、幸に駿兵に功あるを憑み御遺状棟札等を担ぎ出し其の許可を受け、此の助力を以つて是より漸く本門寺の号を公然称し始めし事、信師の記文・今川家許状の文面宛も符を合せたるが如く盲者にあらざれば誰か是れを見紛らふべき。
次に日向の国・日知屋定善寺日叡記のこと京都辰師直写の本は兎も角も、房州妙本寺現住日霊同寺在職中書写校合の本(云云)は是れは師と同穴の原告人・師は巳に其の代言たり味方の保証は信ずるに足らず、但し愚が先に(云云)せしは文の相違を訝しみ亦先哲の朱書に照応せるを以つてなり、然れども必ず本書にあらば敢て誣ゆべきにあらざる旨は素より明言せる所・地下に日叡に問ふべしの御世話には及ばざる事なり、次に洗濯親なる渡井氏の蔵せる御消息の事、実に師之れを目的として先に確命ありしと夢にだも之れをを悟らば何ぞ予言して貴怒を醸すべき、是れ老禿が●忽悔ゆとも詮なし、但し彼の渡井氏なる者は吾が檀越にもあらず愚は素より未聞不見の人、是れを持参せしは余人にして更に其の実を言はざれば知る事なし、今始めて其の状実を拝承せしのみ、実に尊論の如く三通合して六箇の本門寺あればとて何ぞ之れを怪むに足るべき、然れども名判を判然たらず形も亦興尊の御判に似ず且つ興尊には石川南条等其の他遠近に歴々の御檀那あつて御衣食等に事闕き給ふ事はあるべからず、設ひ余に命ずる事あらんも数輩の御弟子衆・常堕給仕して是を主宰し給ふべし、然るに文中に紙子仕立の御頼み蒔物の種そ御無心の様も見へたるは、今よりして想像すれば興尊の御大徳にして是れ等の細事卑事にまで御自ら御作配ありしとは亦其の不審なきにもあらざる也、況や貴山及び当山に藏する所の数十通の御消息の中に一も寺号を記し給ひしものなきに(但し貴山御蔵中にはあるか知らざれども若しあらば未だ御手にも入らぬ他の宝を目的として云云し給ふの理あるべき、知りぬ是れなきなり)、彼の僅かなる種蒔の翁洗濯媼の御消息のみに限りて内外事毎に寺号を記し殊に興尊の時より設ひ貴山に本門寺の号あらんも未だ西山の本門寺はあるべからざりしに、何れの本門寺に対せん為に煩はしく重須本門寺と記し給ひしや是亦不審なきにあらず、●を以つて若くは西山本門寺の号ありし後の御貫主の消息にて彼に簡異せん為に煩しく重須の二字を加へられしか、将た彼の永正中に今川家より始めて寺号を許可せられし頃の御先代方の消息にして(日号花押混じて頒ちがたしといへども判形の中に艸書の国の字の形微しく見へたるは若くは日国師の消息にもあるかと想像せるのみ)、如何にも寺号珍しさの余りに闇雲に是れを書きたてひけらせしものならんと思ひ聊か之れが弁駁を加へしのみ、蓋しよもやよもや教正師に於て世の懶惰横道なるものが貧窮に迫り心太くも隣家の宝を其の主も諾せざるに私かに是れを抵当に書き入れ金を借らんと謀計をなすが如く、未だ御手にも入らず其持主も諾せず亦其真偽をも鑑定せず僅に反覆の僧が其の非行を詰られん事を怖れ師に諛阿附して之が保証なせしを信じ(是は尊書中に明言し給ふ信師を指にはあらず吾近傍に此僧あつて彼の消息を指示し之が保証をせし事は其僧の口より聞し者あり)、是れを引当として一書中に三箇所まで是をひけらし幸に本門寺日興と遊ばされし御消息を所持せる者あり、他日必す両上人を招請して拝見せしめん杯の詭謀をなし給ひし事とは夢にだも知らざりしかども、若しや万一彼の洗濯媼の消息に類せるものにあらば詮なしと暗に之れを予言せしは如何にも其の詭策を察しながら之れを明言し師の御鼻をあかせしが如くにて何共御気の毒・平に御海容是れ祈る。
一、尊書に云はく次に前書に(云云)したるを弟子をして代拝せしめん事を望むとあらば又速に之れを衆にはかるに云はく当山の霊宝を弟子をして鑑定せしめんとは奇怪なり、(乃至)願くは目師御遺状并に御草稿且つ番帳と棟札并に御消息とを一処に安じ諸本山の上人を請じて之れが証明を願ひ等と(云云)。
今謂はく弟子をして代拝せしめん事を願ひしは愚は老衰眼精矇なるを以つてなり、弟子といへども旧の穢多非人の類にはあらず・亦方外の徒にもあらず同門一派の兄弟にして、教正師に対すれば階位高下●の違ありといへども、愚を以つてすれば師弟同等共に是れ試補たるのみ、且つ師知らずや昔し蓮興の御在世中・仏法の一大事を挙けて公家に奏し武家に訴ふるすら猶御弟子をして之れが代官たらしめ給ふ、且つ方今開明の盛政・百般の公事・裁判皆代言を以つて之れを許可し給はざるはなし、独り貴山の霊宝のみ同輩の弟子を以つて師に代らしむるを●怪とし之れを退け給ふは、頗る仏祖の慈悲と云ふべきか是れ皆遁辞を虚飾するの策言のみ、蓋し御棟札の状・実は去る一月廿八日師親しく本多成清なる者に明示し給ひし趣を以つて粗其の大概を会得せり・何ぞ強いて拝を望むに足らん、況や彼の洗濯媼の消息の如くなる胡乱物に於いて諸山の上人を証明たらしむるの事杯は置いて、設ひ此の後弟子の代拝を許可あらんも誰か敢て之れを望まん思はざるの甚しき也、次に代師状を挙げて(云云)の事是れ全く愚が誤解たらば切に之れを謝すべし、蓋しあらおかし血迷ひ給ふ事勿れの語を発せしは惟ふに愚が是れ迄の呈書中に興師御時代より貴山に限つて本門寺の号なかりし事は古記に依つて之れを論ぜしかども、極めて寺号を立るは非なり戒壇建立巳前に本門寺と称すべからず寺号を立つべからずと明言せし事は一度もなかりしに、師頻りに之れを詰り一度ならず両三度迄若し夫れ寺号を立るが非ならば妙法蓮華経王寺・久遠寺等は頗る蓮粗の謬誤に属すべきか、(乃至)戒壇建立巳前に本門寺と称すべからず寺号を呼ぶべからずと云ふ明文を出して之れに対向すべき等と繰返し●催し力味給ふは、宛も狂人も相手もなきに独言して罵るが如く余りおかしく若くは血迷ひしにもあるかと思はず此の●言を発せしのみ、全く血迷給ひしにあらずは愚も亦祝着す、請ふ狂正師強く憤り給ふ事勿れ。
一、尊書に云はく御棟札を当時の三堂造立の棟札とせば甚だ解し難しとて南条江川氏の棟札を挙けて当山の棟札に其の功用なきを難折し給へり、(乃至)師難じて云ふべし宗祖滅後幾程もなく大謗法の魔境となるを慮り給はず未来までも此の山に臥すべしと小児戯の指揮をなして嘲りを万世に遺し給へり、開山滅後幾程もなく焼亡を慮り給はず重須に大事の御影を安置し給へるは小児戯の業、目師三年の遺跡論・延ひて七十二年に及ふ慮り給はず確と遺跡を定め置かせ給はざるの小児戯の業、並べて嘲を後世に遺し給へり等と、鳴呼後を以つて初を非難すべからず末師の失を挙けて先師を辱しむべからず、滅後に三堂焼失すればとて何ぞ耻を開山に及ぼさん頗る狂難と云つべし等と(云云)。
今謂はく以上喋々の小言・御尤かは存ぜざれど都て歯係に足らざれば舎いて論ぜず、蓋し師難じて云ふべし巳下の反詰難の如きは予が弁を待たず識者は看て必ず其の窮する処の遁辞なるを知るべけれども、猶初心の為に聊か之れを弁ぜん、抑も吾か祖身延に住し給ふ事・素と是れ御身より求め給ふにはあらず、文永免許の後巳に三諌の化導も畢へ且つ勧持廿行偈の大難一も余さず具に是れを身に触れ給ふを以つて今は何れにか隠遁せんと欲すといへども、如何にせん国中皆謗土立錐の地も恐嫉家の居住ならざるはなし、巳に予め戒壇策立の勝地と視認給ひし当国当所猶是れ北条一家の後家尼等が家人の領地にして謗者の●窟たるを以つて寸歩も御足を爰に入れ給ふ事能はず、巳に御弟子衆・海道の往復にも必ず富士加嶋の信者を訪ふべからず、若し彼れ等に聞附けられなば信者必ず法難の憂ひあるべしと命誡し給ひし程の事なり、爾るに身延の地頭波木井の如きは彼の地の大身として慇懃に宗祖を請じ奉り九箇年まで保護供養し奉る、如何ぞ今はの際に至り忽ち此の懇情に戻り墓を余処に求むるの語をなし給ふべき、故に且く此の一語を遺して彼が年来の懇志に報ひ給ふ亦宣ならずや、然れども大聖・波木井の人と為り信心寡薄にして決断なく悍強頑固にして諌むべからざるの質を以て後必ず謗法に堕せん事を予め慮り給はざるにあらず、(按ずるに外十四、四条書に云大学殿右エ門の大夫殿の事は申まゝにて候間いのり叶たるやうにみえて候、波木井殿の事は法門は御信用あるやうに候へども此訴訟は申まゝには御用ひなかりしかばいかがと存じて候と云云、此文は建治三年四月の書にして宗祖身延入山四箇年後なり、猶法門は信用ある様なれども等と云云、信心未決悍強頑固諌むべからざるの状此の文に顕然なり)、故に曽つて我興尊い遺言して曰給はく地頭不法ならん時は我も亦此の山に住すまじと(云云)、(按ずるに弘安七年十月十八日、興尊美作公に与る文云く、地頭の不法ならん時は我も住すまじき由御遺言とは承り候得共、不法の色も見へず候、其上日本国中に我をたもつ人無りつるに此殿ばかりあり、然らば墓をせんにも国主の用ぬ程は尚難くこそ有んずれば、いかにも此人の所領に●す可し御状候事日興に之を賜らこそあそばされて候と云云、文の如くならば興師へ直の御遺言にはあらず、只だ是れ伝聞の如く聞ゆれども此時未だ波木井の謗法顕露ならざる故に聞を憚り斯くは遊ばされしか、宗祖我が興尊を除て外に争で此大事を遺言し結ふ人あるべき)、況や御入滅の期近きに臨み其の九月八日に常陸の温泉御湯治に託し遽かに身延を立ち出て給ふ事、是れ必ず波木井の迷乱を予め鑑知し給ひ永く聖屍を此の謗地に埋葬し魔境の枯骨となさん事を厭はせ給ふの深慮に出つる者か、若し爾らずと云はば大に疑念する所あり今●に一語せん、吾れ聞く昔し後白川帝の衛士に佐藤憲清なる者あり文武の名ありといへども、平族の為に圧せられ、時に遇ざるを憤り遁世出家して名を西行と攻め倭歌を以つて世に顕るといへども、只だ是れ斗●の騒人・道徳を以つて称すべきなし、然れども予め其の死期を知り其の前建久八年に東山雙林寺の過去帳に逆修入りせん事を望み、一首の倭歌を以つて其の死日を指示せり、謂はく、同しくは花の下にて今日死なん其の如月の望月の朝と、果して翌九年二月二十五日世尊涅槃の日を以つて寂せしと此れは是れ一個の道人といへども薄地破戒の凡僧たり、然れども猶能く死期を覚知せり、況や大権の宗祖何ぞ之れを知らざるの理あらん、漢史に聞く高帝年五十にして疾む、其の病なるに●んで皇后太子百官之れを患ひ奏進するに天下の名医を以つてす、帝其の起たざるを知り医を叱して退け終に崩ずと、亦和史に伝ふ小松内府重盛四十二才にして病す、父平相国入道之れを悲み進むるに異邦の大医を以つてす、重盛予め天命を察し辞するに皇国の大臣として私事を以つて異域の人に見ゆるは我が君主に対し礼なきを以つてし終に見せず翌年四十三にして●ずと、是れ等亦倭漢の賢主名臣たりといへども猶是れ一惑未断の荒凡夫、而も大俗たり、然れども猶能く病の治すべからず命の生くべからざるを予知せり、況や吾大聖にして病の治しがたきをも察せず死の期をも覚知し給はず、六十一の老病を治せんが為め弘安五年九月八日を以つて。かなる常陸の温泉に俗し給はんと九箇年旧栖の延山を立ち出で給ひ猶其の行をも果さず、途中武蔵の池上にして其の十月十三日に終らせ給ひしとは、此の事若し宗祖の真意に出つるとならば吾か大聖は彼の騒人大俗の覚悟にも及ばざる凡庸不覚の人・何ぞ尊信するに足るべき、彼の真迢の邪難も亦宣ならずや、若し此の辺を以つてせば師が彼の児戯論に類例して遁辞を荘厳せるも亦謂れなきにあらざるか(宗祖実に治病の為にし給ふとならば、近く甲州に下部あり伊豆相模の所々に名湯数箇所あり、何ぞ之を余所に見なし遠く名もなき常陸の温泉へ志し給ふの理あらん、知ぬ是れ入湯は名のみにして外に深意在すや論なし)、去れば此の事は只是れ権りの方便に設け給ふの業にして必ず外に真意なくんばあるべからず請ふ識者切に之れを思量せらるべし、蓋し吾興尊独り能く此の真意を了するを以つて池上御入滅の際・衆論を廃し御遺命を奉じ輪王世尊の葬儀を執し尊骸を火し奉り一たび之を延嶽に納むといへども、其の鑑み遠からず第七年にして地頭不法をなす、興尊本祖の遺命に違はず戒壇之本尊・御影を奉じ御遺骨をも分け納めて安々是れを吾が冨山の麓に移し奉るを得たるは是れ偏に大聖の遠鑑深慮に出つる所、何ぞ之れを以つて彼の白癡の児戯論に例し其の窮を遁れんとはし給ふぞ、次に開山幾程もなく焼亡するを慮り給はず重須に正御影を遺す等と者・是れ亦謂れなき至愚の狂難なり、彼の御影の如きは興尊始めて之れを造り給ふにあらず身延巳来是れを守護し御還化の際に至るまで三十六年重須に安置せる尊像・設ひ予め其の事を鑑知し給ふ事あらんも今更争で溝壑に捨て芝川へ流し給ふに忍びやんや、蓋し興尊滅後幾程もなく必ず代師の迷乱・妙師の●奪延ひて中世に至り大謗法の魔境と変じ、遂に正御影をも謗火に失ひ奉るの勢あらん事を予め遠鑑深慮し給はざるにあらず、●を以つて興尊●に目師に遺命し御還化の後は速に尊像を上野に移し奉らん事を計らせ給ふ、所謂正慶二年二月十三日・興尊の御初七日に当つて御影を上野に移さんと重須へ出し給ふ預り支証の一札是れ其の明証なり、蓋し前には家中抄目師伝の本尊御影・奥州下向の(云云)の説に照らし其の為に且く上野六人の老僧之方迄守護し奉る可く預り支証と会得せしかども、退て文の相違を考るに是れ全く其の当座の事のみにあらず永く広宣流布本門寺建立の時まで上野六人の老僧之方にて是を支配し守護し奉るべしと云ふ支証誓文也、即ち其の文に但し本門地建立時本堂に納め奉る可し此の条日興上人の仰に依り支配し奉る事此の如し此の旨に背き異議を成し失ひ奉りたらん輩は永く大謗法たる可し仍て誡の状件の如しとある此の文明白なり、然れども地頭石川氏を首め大衆等興尊の遺命に背き之れを肯なはず、後強いて奪ひ還し異義をなして永く重須に安置奉りし故・終に大謗法に陥り亦謗火の為に尊像を焼失し奉りし事・豈遺憾の限りにあらずや吁惜むべし。
次に目師三年の遺跡論延ひて七十二年に及ぶを慮り給はずと者。
古き俳句に口をあけば腸見ゆるあけびかなと、師動ともすれば道師大石寺留守居の語及び寺跡論の事を挙けて喋々せるものは、惟ふに是れを以つて予め妙師興尊の直授相承にあらざるの難を防ぐの策に出つるや其の肺肝を観るが如し、豈きたなき用心にあらずや、蓋し目師此の時に当つて寺跡を道師に付せざるは大道理のある所也、抑も目師の此の行あるは何の為めなるぞ是れ則天地革命・王道復古の際尤も諌むべき時なるを以つて旅中に斃るゝをも省みず、七十四才の老耄を以つて。々の上洛を志し給ふ是れ則勇将の戦場に赴くが如く、若し其の志を果さずんば只一死あるのみ焉ぞ其の他を願るに暇あらん、例せば延元の昔し楠公死を湊川の役に決し桜井の駅にして嫡男正行に訣別せる一も家事に及ばず唯王事に死すべきを遺訓せしが如し、況や師は興尊の遺命を承け巳に本門寺の座主・閻浮の大導師たるべきの任なり、今此の挙あるも偏に此の故を以つてなり、然るを今是に於いて寺跡を道師に公付せば師即隠居にして座主大導師の権利なし、如何ぞ隠居を以つて朝廷を諌るの理あらん、且つ朝廷若し其の諌を納れ勅宣御教書を賜はり本門寺の戒壇御建立あらば目師隠居を以つて座主大導師の職務を掌り給ふべきか決して其の理あるべからず、故を以つて寺跡を道師に付せず唯留守居を以つて是れに目し給ふのみ、然れども今也や必死出陣の際何ぞ伝灯附法の遺属なかるべき、法を付し給はヾ寺跡は自ら其の内にあり、然るを日郷是れを慮らず寺跡の遺付なきを口実とし無謀の言を以つて道師を退け自ら其の法位を奪ひ寺跡を押領せんと欲し賛論三年に及びしは、彼が強欲無道亦天理に闇く人道を知らざるの致す所、何ぞ目師に関らん、況や道師自若として動かず彼の法敵を退け所属の大法を全ふし給ふをや、実なる哉其の本乱れて末治らず源濁れば流清からずとは内外の垂訓・貴山及び尊師門徒の如き中世巳来法水濁乱すといへども・独り吾石山は五百数十年の今に至るまで一も謗法の濁稀なく堅く・高開両師の正意を伝へ遺属の大法をして富嶽の安に等しからしめしは偏に目道二師の伝承其の本正しく其の源濁らざるを以つての故なり、如何ぞ之れを以つて彼の三堂雛形の児戯論・妙師不相伝に類すべき、惟ふに昔より月漢日の三国を経・名山雪崛に於いて厳広の仏図・大厦高堂を造立せし者挙げて員ふべからず、然れども後世一として祝融の災を脱れざる者ある事なし、世尊の祇薗精舎も百年にして焼亡し、梁武九層の浮図は落成の其夜にして烏有に属す、聖武の東大寺、桓武の延暦寺亦●回禄す、如何ぞ雛形の三堂焼亡せざる事を得べけん、是れ等は三尺の童子も猶慮らざるべき、況や興尊にして此の無常物を造立し永世焼亡せざる常住物の観をなし、幾世とも予め量り知るべからざる広布の時に建立すべき三堂の雛形に遺し給ふとは豈是れ大白癡の児戯論と云はざるべけんや、況や霄壌の異とも謂つべき前の三事を挙げて是れに例難し(云云)遁辞せる者は亦是一層の大白癡・天下第一等の児戯論者流と謂つべし鳴呼・師先に愚を駁し目するに死物狂の手負猪の原野に荒れ出たるに比し衆の恐怖する亦宣ならずやと言ひ給ふ、今師が未だ手にも入らず自ら真偽をも鑑定せざる他有の胡乱物を目的として、幸に本門寺日興と遊ばせる御消息を所持せる者あり他日必ず招請して等と詭策(云云)し、弟子の代拝を拒むに謂れなき虚飾を並べ遁辞を構へ、信用に足らざる棟札を亦も虚飾して諸山の上人を請じて証明を願はん杯と妄言し、亦更に似もつかざる此の三事を並べ挙げ途轍もなき彼の児戯論に比例反詰して百方遁辞をなせども、終に遁るゝ事能はず反つて籔をつゝき亦一層の巨蛇を出せしが如くなりしは、宛も手を負ひたる猪の原野に狂ひ出で荒れ廻れども遁るゝに路径なく、終に己れと巨石に鼻端を打ち自ら斃れて猟者の獲物となりしが如し亦おかしからずや、吾聞く昔は朗門徒の日学なる者吾興尊を悪口して白蓮白癩を感ぜりと、中世重須の一門・日浄巳下・日有師を駁して癩病にして杉山に入ると永禄中に東光寺大輔阿閣梨なる者・本寿坊に至り日辰に讒して云はく日道佐州に入り日代正筆の本尊十六鋪を焼失す、其の煙日道の面に当り癩人となり大石寺に帰り之れを療治平愈に能はず、河内杉山に隠居す大石寺の檀那竜口等御難所参りに代へ杉山に登り日道の墓を礼拝すと(云云)、日有も亦癩人となる・日鎮は狂気し・当住日院は中風を患て痴人の如く也と(云云)、師亦其の粕を食らひ其の説を倡へ給ふ怨嫉家の謗言・古今大●同口に出つるものゝ如し、今愚を目して狂猪とせる者は未だ死せざる故か、死せば必ず白癩黒癩の名を得ん亦快ならずや、亦聞く昔し梶原景時なる者八嶋の役・逆櫓の論の大将義経を目して猪武者とせり、愚が暗弱なる焉んぞ義経の智勇を望まん、然れども師が智弁雄才決して景時の下にあらず、若し頼朝あらば舌頭幾莫の生命を誘殺せん衆の恐怖亦宣ならずや、仏曰く菩薩於悪象等無怖畏於悪智識生怖畏心(云云)、死物狂の猪は更に恐怖に足らず怖るべきは法師の皮を着たる景時なり、回頭すれば五箇年前愚浪花に在りて病を養ふの時・一寄書を閲する事を得たり、尊門末葉蓮興寺住職中講義某師の(今は大講義にもあるか)御書と云へり、其の文に云く不知恩の者を畜生と云ふ事(前文あれども之を略す)、且又大石寺に貫主となる人がなき故に願に任せ要法寺より大石寺貫主に遣はし候人数・左の通り、大石寺十五代日昌上人(中略)二十三代日啓上人以上九代、ぶた一疋流行の時・金五十円として五九・四百五十両にあらずや、まして人間也・殊には要法寺日尊上人の学徒日辰上人の座下の人々の弟子達一人前に成りたるを以つて大石寺より願に任せ、彼の大石寺の相続人に要法寺より送りて大石寺の立つ様に仕立候事を忘却して要法寺の事を大石寺より彼れ是れと悪口するは恩を知らざる畜生也、今日世間の恩を知らざるものが仏法の恩を知る可きや、十月廿二日・蓮興寺・住本寺留守居智豊僧へとあり、(余り珍書なるを以て或僧其御新真筆を甲乙今に大切に秘蔵せりと云云)、右の尊書を以て智豊師より堺の信者黒川宗十郎に示され速に返書すべし、若し返答ならずば急ぎ大石寺を信ずる事を止め要法寺に帰すべきの由頻りに之れを催す、之れに依つて当人及び大阪講頭森村某より答書を進ず、其の文に云はく先の示訓に大石寺にて旧恩ある要法寺を悪口せるは不知恩の畜生と(云云)、僕等未だ大石寺にて要法寺を悪口せるを承ふず、併し旧恩ありとも法の迷乱を呵責せるは仏法の通例なり、伝へ聞く伝教大師は元・三論宗の人・南都の行表を師として其の恩を荷へり、然れども後是れを破責し名して六虫と云へり、宗祖は素と古義真言清澄の道善坊を師とし給へり、後旧宗を罵つて亡国とし道善坊の堕獄を悲み給へり、旧恩ある者の謗罪を呵責せるを以つて不知恩の畜生と云はヾ伝教宗祖は不知恩の畜生なるべきか、且つ知し召さずや日本国・三百有余の大小名・其の昔を討ぬすれば一家も徳川家康公の恩沢に依らざるはなし、然れども末裔紀綱を乱し天朝を蔑視し就中慶喜公に至り天威を犯す事ありし故に、終に逆賊の汚名を蒙るに至つては天下挙りて是れを討伐せり、是れ等も亦天下一統不知恩の畜生と云ふべきか、猶要法寺より大石寺九代の世代を継き給ふ事・大本山へ対し御奉公の一分・蓮祖及び興目尊の三師への御報恩と申すべし、何ぞ是れ等を以つて宗山へ対し恩義とするの理あらん、豚の御譬殊に感心致し候是れ則開山尊師を以つて豚飼とし、要法寺を以つて豚屋とし、宗山紹継の九師を以つて豚に比し今此の九匹の価を乞はんとの胸算用なるか、若し尊師の霊是れに在さば如何計りか御満足たるべしと痛哭仕り候以上、明治八年十一月黒川宗十郎等・蓮興寺様・住本寺様御返事とあり、師是を見給へ先には蓮興寺講議師弊山紹継の九師を以つて豚に比し還りて自の開山及び本山を辱しめたり、師今日霑を狂猪に比し反つて其の実を御身に負ひ給へり、爾に出たる者は爾に反ると其れ之れを言ふか、因みに云ふ京師の講頭故廉三加藤氏なる者此の豚講義の説を聞き浪花堺の信者に一言を寄せて曰はく、要法寺十八代日陽・元和三年の伝に云く駿州冨士大石寺は興師御開闢の地也門徒の本寺たるに依て此地に詣でんと志し(乃至)日本第一の坂本尊○高祖聖人の眉間の骨舎利水精の瓶塔に入れて親く拝見すと(云云)、然るに浪花蓮興寺は要法寺根元と(云云)、爰んぞ先師に違するや、要法寺より旧政府へ書き上げに曰く一法衣の事・右法衣は薄墨之衣、同色之袈裟或は白袈裟、上下之僧共着用仕候書・冨士以来之山法にて御座候事(云云)、巳に冨士以来と云ふ本末遠近皎然として明けし、大石豈根元に非ずや、要法より九代本寺の獅子座に南面するは最も要法の美目として忻仰すべき所なるを陋劣の譬喩を設け蓄豚の代償に類するは何ぞ其れ羞ぢざらんや、抑も大石寺を以つて根本の本寺とする事は啻だ日陽特り之れを言ふのみに非ず要法満山の闔衆数代異義無し、故に卅一代日住・百囲論に云はく月漢日の総本山之御正統と者実に今の冨士山大石寺は而も一天広布の大本山、(乃至)若爾ら者今大石寺を以て大本寺と為す(云云)等と云へり、是れ俗士の言といへども引証確明・其の理皎然云何ぞ誣ゆべけん、然るに要法末徒の衆今亦先師に背き新たに教正師を代言として是の大本山を駁難圧倒せんと企つるは何等の意なるや、請ふ教正師・実に彼の徒の代言を兼ね給はば●く之れを明解し亦此の言をして具に彼れに伝へ給ふべし。
次に請ふ老尊師・予は再言せずといへども無謀の憤念を紙上に遺し嘲りを後世に求め給ふ事勿らん事をと。
此の御慈論殊に心肝に銘じ有りがたく恪んで謝し奉る、蓋し老禿は素より名もなき草莽の一蕊蒭・維新巳来・僧都に公認せられず寺職を許されざれば衣食に窮するを以つて近頃口を糊するまでに教導試補を拝命するを得るといへども、菲力を反省し敢あて昇級聞達を求むるにあらず、況や半身葬穴に臨める老物・生前百般の嘲を禀けんも敢て厭ふべきにあらず何ぞ死後を患ふるに遑あらんや、聞く師は寿未だ五十に満たずと而して身教正の顕位にあり晩年必ず大教正の尊位を極め明徳を一宗に耀かし、威光を管下に震ひ給ふべき重大の尊躰也、請ふ重ねて未だ御手にも入らぬ胡乱物を抵当に云云し給ふ如き詐謀及び二月十日の詫状に載せ給ふ如き失策を遺し現後に嘲りを求め給ふ事なからん事を。
尊書中間之を略す、其の末文に云く一には身延に弘安二年に既に事の戒壇之本尊を造立し給はヾ同く四年に太田氏に対して予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き附けて留め置ずんば遺弟等定めて無慈悲、讒言を加ふ可し等と確言し給ふ理あるべからずと(云云)。
今謂はく此の抄の意全く戒壇の本尊を言ふにあらず、三大秘法の中に於いて本尊題目の二箇に於いては諸抄の中に予め之れを明言し給へば何ぞ今改めて●に厳戒し給ふの理あらん、故に知りぬ是れは只上文に挙げ給ふ戒壇と者王法仏法に冥じ仏法王法に合し(乃至)三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も蹈み給ふべき戒壇也と曰給ふ、前代の爾前迹門の戒壇に異なる広大無比の本門戒壇之躰たらくを明言し給ふを指す也、蓋し宗祖斯く之れを秘し之れを誡め給ふ所以は在世の御弟子檀那等、吾が興尊を除くのは外は五老僧と雖も宗祖の本懐を了せる者なく、皆天台ずりにして宗祖を本化の別頭と信ぜし者すらなかりし也、(所破抄に云云聞天台大師者三千余之弟子章安朗然として独り達之、伝教大師安三千侶之衆徒義真巳後者如無、今日蓮聖人又為万年救護定六人上首、雖然法門既分二途門徒亦不一准、宿習之至雖遇正師伝持之人自他難弁、能聴是法者斯人亦復難と云云、百六箇に云今以如是日蓮亦雖有数輩弟子日興巳後其如無云々)、故に宗祖の滅後正安中に至り五人の老僧等武家に奏する諌分に猶天台沙門を以つて標呼せり、加之吾が興尊の本化の別頭を称揚し祖書を挙げて衆を化し給ふを誹謗せしには凡そ和漢両朝之章疏を披き本迹二門の元意を探るに判教玄文に尽き弘通残る所無し何そ天台一宗之外に胸臆の異義を構えんや、拙い哉、尊高之の台嶺を褊し辺鄙の冨士山を崇む、明静の止観を閣き仮名字の消息を執す誠に是れ愚癡を一身に招き恥辱を先師に及す、僻案の至り甚た以て然る可らず若し聖人の制作と号し後代に伝えんと欲せは●く卑賊の倭言を改め漢字を用べし等と(云云)せり、(興師門徒存知に云彼の五人一同の義に云く聖人制作の御書は之無者也縦令少分之有リト雖モ在家の人の為めにに仮名字を以て仏法の因縁粗之を示す若は俗男俗女の一亳の供養を棒くる消息の返礼に施主の分を書て愚癡の者を引接し給へり、而るを日興・聖人ノ御書と号し之を読み之を談す是れ先師の恥辱を顕すと、故に諸方に散在する分の御書を或はすきかへしになし、或は火に焼き畢ぬ是の如く先師の跡を破滅す故に具に之を註して後代の亀鏡と為す也(云云))、巳に五人老僧猶是の如し況や其れ巳下の御弟子をや、何に況や在家愚癡の俗男俗女をヤ、若し此の時に当つて斯る前代未聞広大無比の本門戒壇の躰相を明言し給はば、本機未熟の御弟子檀那等は必す或耳驚心し反て宗祖に於いて疑を懐き信心を破り堕獄の因を招くべき事を慮らせ給ひて深く之れを秘し明言し給はざるのみ、然りと雖も時来り機熟せば之れを明言せずんばあるべからず、若し其の時に当り一言を遺し置かずんば遺弟定めて無慈悲の讒を構へ之れを説く導師を悩まし破る事あらんを鑑み給ひ之れが助証として太田氏に対し此の一言を残し給ふ事是れ只事の戒壇建築の一事を明言し給ふにあるのみ、巳下の文●く之れを検ふべし。
師動ともすれば文字一と雖も義各異・既に弥四郎入道等が弘安二年に造立せる市庭寺の本尊なるを移して事の戒壇之本尊なりと喋々すと曰給ふ。
若し然らば何ぞ市庭寺安置・或は日弁に授与する等の御筆を標し給はざるの理あるべき、且つ師は市庭寺は日弁の建立にして今の下之坊と曰給ふ何を以つて徴せるや、精師の説に準ずれば日弁は熱原に滝泉寺を開き、下野公日秀は熱原と入山瀬の間に法華堂を建て市庭寺と云と(云云)、何れか是ならん、殊に戒壇の本尊は弘安二年十月十二日の造立也、彼の二箇寺破却法難の最中たる事は貴山に蔵せる宗祖より興師へ賜はりし弘安二年十月十七日の御書是れ其の証なり、文に云はく今月十五日酉の時の御文同十七日酉の剋に到来す、彼れ等御勘気を蒙むるの時南無妙法蓮華経と唱へ奉ると(云云)、偏に只だ事に非す定て平金吾が身に十羅刹入替り法華経の行者を試むるか等と(云云)、亦其の前十月一日の人々御中御書(内廿二三十三)云く彼の熱原の愚痴の者共言ひ励ましておどす事勿れ、彼等には只一遍に思ひきれ、よからんは不思議・わるからんは一定と思へ、ひだるしと思はヾ餓鬼道を教へよ、寒しと云はヾ八寒地獄を教へよ、怖しと思はヾ鷹にあへる雉・猫にあへる鼠を他人と思ふ事なかれ等と(云云)、此の二文を以つて照し見るに廿四人の信者等・入●やら拷問やら寺跡破却やら乱千苦大騒ぎの際也、争で此の時に当り新に此の大本尊を造立し。々身延より遠き駿河なる市庭寺の廃跡へ送つて本尊と立て給ふの理あるべき、亦此の巳前に於いては市庭寺常住の本尊なしと云ふべきか、是れ実に無稽の想像説誣妄と云ふも余りあり、惟ふに宗祖御真筆の本尊天下に布在するもの挙げて数ふべからず、然れども未だ一も本門戒壇の文字を標せるものあるを聞かず、本門の本尊を安置せる所を以つて皆本門の戒壇と称すべくば何ぞ此の本尊に限るべき皆本門戒壇之文字を標し給ふべきなり、況や其の当時宗祖の御所栖たる根本の身延にすら猶本門戒壇之号を立て給はざるに云何ぞ日弁等が新に建立せし些細なる法華堂の本尊に限り特に本門戒壇之号を立て給ふの理あるべき、是れ則枝葉を先にし根本を後にし水影を執して天月を忘るゝの謂ひ豈其の理あらん、若し然らば此の本尊は設ひ市庭寺の弥四郎入道が願主たらんも、決して彼の枝葉たる法華堂の本尊にはあらで必ず弘安二年より根本たる身延の本堂に安置し給ひたる本門戒壇之大本尊にして御入滅の際に臨み遺状を以つて未来広布の為に吾か興尊に是れを付属し給ひし事・其の理明白誰か之れを争はん、且つ師此の本尊の端書に右為現当二世等と遊ばせしを会して明に一連互顕の文にして弥四郎等が現当二世の為に本門戒壇を造立せる件の如しと敬白する処の本尊にして等と曰給ふ、是れ亦更に謂れなき想像説・例せば餓鬼の水を火と見・盗跖が養老飴を盗具と見るに等しき僻案なり、今之れを正解せば文に所謂右と者勿論上に図し給ふ大漫陀羅也、現と者・宗祖在世の一類を云ふ也、当と者滅後末代広布の時に蒙る也是等現当二世の弟子檀那惣じて法華講衆等の懺悔滅罪を祈るべき為に造立せる事仍て件の如し故に是れを本門戒壇之本尊と称す此の本門戒壇之本尊を造立せん事を希望せし願主は誰ぞ曰はく弥四郎国重の首め法華講衆等の敬て白す処也と云う事を右現当二世の為メ造立仍件の如シ本門戒壇之願主弥四郎国重・法華講衆等敬白と遊ばされし事にして決して弥四郎国重等が現当二世の為に造立し給ふ本門戒壇ぞと申す義にあらざるや一目瞭然・生盲邪眼各謂自師・偏執家の者の外は決して見まがふ事あるべからざる也。
二には此の大事を成し給はヾ内外の御書又血脈書等に筆を残し給はざる理あるべからずと。
是れ頗る賛論と謂つべし、設ひ内外の書に筆を残し給ふ事なからんも此の本尊現に身延に安置せば誰か之れを信ぜざるべき、但し百六箇の云く又五人並に巳下の諸僧等日本乃至一閻浮提之外万国に之を流布セシムト雖モ日興嫡々相承之漫茶羅を以テ本堂之正本尊と為す可き也(云云)、日興嫡々相承之漫茶羅と者則此戒壇之本尊也、故に御遺状に云く日興が身に宛て賜ふ所の弘安二年の大本尊日目に之を相伝す本門寺に掛け奉る可しと(云云)、此文明白也。
三には興師へ付し給ふとも六人同心に之れを守護し奉るべきの遺言し給はざる理あるべからずと。
其の遺言明白也、所謂御遺状に云く日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す乃至我門弟此の状を守る可し(云云)、日蓮一期の弘法豈是れ本門戒壇之本尊にあらずや、就中我門弟等可守此状と豈是れ六老巳下同心に守護すべきの遺命ならずや、設ひ宗祖より此の遺命なからんも眼前身延の本堂に安置せば六老巳下争で守護せざるべき、況や此の遺命あるをや然れども宗祖滅後幾くならざるに老僧各本国に帰り七年まで省せざる者は自ら遺命に背ける也、巳に三年の喪は天下の通喪とは外典猶爾り、況や知恩報恩を旨とせる、仏弟子にして何ぞ之れを忽緒すべけんや、然るに彼の五老僧のごとき宗祖滅後未だ墓地も乾かざるに、各々香華の番を廃し自ら恣に本国に帰り三回忌にも省せず、七回忌にも弔ふべきの兆なかりしが、漸く興尊の廻文に驚き始めて登山し給ひしとなり、此の事若し実ならば斯る薄情不信の老僧達・設ひ宗祖親く本門戒壇之事相を明言し給ふ事あらんも争で之れを信ずべき(百六箇の日蓮亦雖有数輩の弟子日興巳後は其れ如無金言豈誣ゆべけんや)故に是れを顕露には遺命し給はざるか況や其の巳下の御弟子等をや。
四には一期弘法相承の時・此の本尊を付属し給ふとならば開山亦添へて上野に相承を残し置せ給ふべきに爾らずして当山に残し置き給ふの理あるべからず。
是れ頗る賛論愚難・彼の遺状の草稿の当山に残れるを疑難せられしと一徹なり、彼の一期相承は宗祖より正しく此の本尊を興師へ相伝し亦本門弘通の大導師の職分を遺命し給ふの証文なり、故に興師生涯御身に帯し他へ与へざるは是れ至当なり、興師此の本尊を目師に遺り其の職を命じ給ふには亦別に自らの証書を添へ給へり、所謂正慶元年十一月十日の遺状是れなり、是れ則師資相承の次第を明にし給ふ故に御身に賜はりし御遺状は御身を離さず御終焉の後重須に残し給ひしは是れ理の当然奚んぞ之れを怪まん。
五には上野に事の戒壇の本尊を安じ給はヾ更に当山を建立して等と(云云)。
六には目師正慶二年三月十日(当山の本書は二月十三日也)御影並に等の疑難は先に往々弁解せり故に重ねて贅せず。
七に興目在世の俊傑其の事を論ずるに及んで等と者。
愚先きに二箇の反詰を挙げて師之れを明解の上・愚も亦是を明答せん事を謂ふ、然れども師は再言せざるの遁辞を出し給へば今は力に及ばず、矧や愚弟加藤日普なる者先に之が弁を作し竊に之を呈覧せしとの事なれば●に贅するに及ばざれども一言之れを呈せん、彼の日代日尊両師の如きは頗る造仏偏執の迷乱家(尊師の如きは興師の身延御離山の元由を知らざるにあらざれども、猶立像仏十大弟子を造立せしの迷乱あり、源濁れば流清からず後代日辰の造読論及び近年或僧の発明尊門義てう邪書を著し之を主張せる者あるを見る是皆尊師の迷乱を嚆矢とせるか、因に云ふ或俗土発明者を駁して云く仏法は古来より先進有て既に基法を弘る則は縦令ひ後進之同義を発明する者有れども皆竊喩に属するを以て規則とす、而して今彼が発明する所の者、従来一致八品等の諸門徒に悉く以て焉を安置せり奚ぞ発明と謂はんや、諸門徒の本尊を竊喩する事最も明けし豈尊門別頭の奇特ならんや、●口に興門と称し興師に憑らず而して一致八品等の謗徒に左祖す、噫両頭の七歩蛇、人を傷る事誠に碩痛すべき也奚、一致等六百年前巳に其本尊を立つ、汝興門相承の家と云て六百年来の後漸く之を発明する者は一致等の門流に劣れる事抑も爰ぞ●●かなる、著し、汝の臆度私立の本尊たるや明也と云云、俗士の語といへども何ぞ忽緒すべけん請ふ教正師其作者の誰なるを知り給はヾ亦之を、彼に明告し給はん事を亦代師も尊師の邪義を駁するに仏像造立は本門寺建立の時の癡言あり、是唯百歩ならざるのみ、知りぬ両師共に造仏偏執の睫に蔽はれ真の本尊を見れども見へずと云ふ事を)、当山に戒壇之本尊を安置せるを親く目撃すといへども猶魯人の如し、故に其の事を論ずるに及んで是れを指示せざる亦●ならずや、但し順師特り之を明言す所謂立正抄に日興上人卜彼山居を対治爾前迹門謗法欲建法華本門、戒壇奉安置本門大漫陀羅と言ふ是れ也。
八には一門諸山は無論往代の書に記伝を残さヾるの理あるべからずと。
今謂はく遺状い云く日興か宛身所賜弘安二年大本尊日目相伝之可奉掛本門寺、日順云欲建法華本門戒壇奉安置本門之大漫茶羅(云云)、房州日我本尊抄の記に云はく久遠寺の坂本尊今大石寺にあり大聖御存日の時造立也(云云)、(日我師の此抄を艸するヤ永禄四年なり日有師を去る事不遠寺跡論家の末吾山を敵視する者なり、而れども日有師の彫剋癩病を不云知ぬ此事只彼の簒奪家一門の悪説なるのみ)、要法寺日陽云く日本第一の坂本尊と(云云)、同寺三妙院日生(教正師の本師とく聞)京師講頭加藤五兵衛に答る書に云(此書予京師に於て親しく寓目せる所也)大石寺宝蔵に安じ奉る戒壇の大本尊は最も大切にして高祖より興師・興師より目師へ御伝へ給ふ御本尊にして大切なり、則ち遺状の如く本門寺建立の時には奉懸本堂大本尊なる事異論無し之れ宗門一派の重宝にして今の大石寺は預り主なりと(云云)、自門諸山の記是の如し師は巳に尊門の足を洗ひ妙師門徒の貫頂たれば目師及ひ尊門先師の書記は設ひ剃度の本師たらんも宗祖の道善坊に於けるの例を以つて破斥し給はんも、師を代言に依頼せし彼の小泉・京都の末徒等は未だ其の門を脱せず云何ぞ先師違背の失を脱るべき、請ふ教正師実に彼れ等が代言を兼ね給はヾ亦此の言を以つて彼の徒に明告し給はん事を、況や興師御真跡の遺状明白たる上は彼の簒奪門の粕を食せる偏執家の外は興門一派の徒誰か之れを争ふべき、若し然らば何ぞ外に一宗往代の書記なきを憂んや、師先に妙師の徳を称せんと開山の本尊を感得せる総て七幅、武家へ四度公家へ一度の奏聞且つ奇才にして開山の御感を蒙り給ひ、又卅一年の弘法講談(乃至)順師新六称賛の文等を挙げて頻りに誇耀し給ふ、其の功は功なり徳は徳なりと雖も簒奪にあらずと云はざるべけんや、吾聞く馬子の大臣・聖徳太子と力をあわせ推古帝を輔佐し仏法を無窮に伝ふ其の功其の徳莫大ならずとせず、然れども弑逆の罪なしと云ふべからず、西郷隆盛維新の天下に大功ある木戸大久保二公の上にあり、故に二氏に先き立つて早く正三位に叙せられ陸軍の大将たり、然れども逆賊は逆賊・醜名を万世に伝ふるのみ、妙師進んでは興師に禀承せず退いては代師に紹継せず、徒に地頭石川氏等と謀り代師の其の論鎌倉方に同ずるを名とし終に之れを擯出し自ら其の寺跡を奪ひ其の職を襲ふ、設ひ妙師の功・須弥より高く徳・海より広しと云ども争かで簒奪と云はざるべけんや、故に予之れを目して簒奪門と云ふのみ、蓋し予の好んで之を訐くにあらず只偏い師が自山の非を省せず独り●高し我れを駁するに誣妄暴言を以てするに報ゆるのみ、是亦師が自ら招ける処の禍・請ふ予を咎むる事勿れ。
九には為現当二世等と。
此の難前条に弁解し畢りぬ、故に重ねて贅せず、蓋し教正師は巳に二月七日の報書に意も尽き語も絶ぬれば復た再言し給はざるの旨を以つて断言し給ふ吾れ豈敢て弁を好み此の唖者然たるに対し復た再び独語せんや、故に焉に筆を絶する事爾かり。
  編者曰く雪山文庫蔵・慈雲日普の写本に霑師の書入あるもの(写真の如し此外に霑師 の正本無し)に依つて此を謄写す、亦曰く重版の時に文中少許の漢文態の所を粗 延べ書きにして易読に供せり

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