富士宗学要集第七巻
両山問答附録
恭しく呈す。 本門寺御住職権少教正玉野日志上人閣下。 蓋し聞く西土の世雄独尊は法華を以て本懐となし、而して其の結要独り上行薩●に遺嘱せり、漢土の智者大師は止観を以て極致となし、而して其の秘印独り章安尊者に遺付せり、本朝の伝教大師は其の玄宗を闡揚して而して其の秘決特り義真一人に授く、宗祖亦以つて爾らざるは無し、故に宗祖の本懐其の付属を受くる者は唯興尊一人のみ、而して興尊特り異をなして其の付属の儀式先例に従はざるの理あらんや、是れを以つて吾が興尊も亦遷滅の近きに臨んで数輩の中に特に法器に中る者は日目尊者一人のみ、誠なるかな遺書あることを、夫れ吾が目師は一事百達の才・神悟英勇の智・学は内外に渉り公武の諌訴数十度の勲功誰として知らざるものなし、尤も問答に秀いで法戦の場に当る毎に弁鋒敵なし能く闘ふ者と雖も甲を卸し戈を倒さずと云ふこと莫し、謂つべし法城の孔明なり、甞て蓮祖曰く之れを称歎して問答第一と、興尊曰く奏聞功・他に異り既に三箇の鴻宝を受けて而も秘宝密訳●尽して余りなしと云ふ、是の故に声名当代に●々として遺響今時に靄々たり、●れか謀書を作為し自を欺き亦他を欺かんや、爾るに中古巳来吾か石山の法柄を褊下せんと欲して相排斥詭異する者漸々発起せり、其の論たるや系脉を興目両尊に●り挙げて嫡●付法と称し其の論大率ね街談巷議に近きのみ、何ぞ論ずるにたらん、吾か大石精舎独り三秘を伝えてあるや自他論なし、所謂る其の証なり其の実なり確乎としてあるに於いておや、爾るに今回教正師・駁言の難書数十箇条を以つて吾か石山に投ず、往復贈答交々再三に及べり、其の難条の要たるや但本門戒壇の大曼茶羅と目師の譲状との二箇のみ、其の他枝葉とせずして豈論ずるに足れりとせんや、師日霑数々弁論せり、但し該論の評は愚知らざれば之れを舎く後哲之れを評するものあらんか、然りと雖も根枝たるに拘らず愚之れを視て黙止するに忍びざるあり、故に鄙懐を吐露して聊か弁論し而して聖断の公解を乞はんと欲す、請ふ亳も弁解を惜むなからんことを、抑も亦其の要たるの二箇に至つては師が甞つて千功万舌を極めて筆頭に吐露して疑難を誤ると雖も、嗟夫れ蓮興二師の遺文未だ地に墜ちず、豈ゆ内には四皓が恵帝に侍扶し外には藺氏の秦に使見せるに異らざるを想して、其の侮を禦ぐの念を起して以て応に護法すべきの志を誰か希慕せざるものあらんや、故に設ひ不肖の卑身不知弁識と雖も●も興門の嫡流に浴しながら安んぞ此の二城に退き退き進むを得ざらんや、請ふ書は言を尽さざるの理なれば教正の閣下に詣り高開両尊の本意に基き一味教遵の基本を開かしむるの慈訓を仰ぎ請就して研尋せん、而して先聖開創の時世に回復せん●を、然りと雖智者の一失愚者の一得なきにしもあらざれば、其の節度を忘失せず一座の弁論交々書記して以て啻だ執情の是非疑念を判断せしむるのみ、且つ江湖の識者信徒に之を質せば疑念の氷解転々して其の功徳亦多ならずや、宣しく頑魯が心底を憐み御慈悲を蒙り一度拝顔を垂れ玉はヾ頑魯が万幸何事か之に過ぎん、蓋し将に先聖の示遺に原つき祖門の極致に至らしむる注意を乞はんとす、豈に徒た勝敗を事とするにはあらず、其の是非を糺明して以つて宗意に基くの鄙懐誠のみ、恐謹言頓首再拝。 教導試補日霑徒弟 明治十年二月七日 加藤日普不識 編 一、開山北条の末の制に擬へ未来本門寺の座主に予め所分を遺命し玉ふと思ひがたし、抑賢父が愚子の治を繋念するの理なりや、愚父が賢子の治を妄念するの理に出づるや、予は開山目師に於ての二つを取らざるなり等(云云)。 愚頑反詰して曰く封建郡県の二制の内・封建に擬し所分を遺命し玉ふに非ざるか如何、誰か賢父が愚子の治を繋念すると云ふべき、誰か開山目師をして賢愚の二つに擬し之れを取ると云ふべき、是れ想像と云はずして何ぞや、抑も父として子孫永世の治安寧息を慈念せざるはなし、子として亦父の愛念訓誡豈固守せざるものあらんや、況や師として弟子末徒に遺訓教誡せざるはなし、君として群臣庶人に顧命せざるはなし、何に況や三徳兼備の高開両師に於て未来未萠知らば争で遺命なきと云はん、爾るに教正智貴師が明言の如く豈に譲位あれば適宜革命するもせざるも新王の権内にあり、既に閻浮座主を命じ玉はヾ其の末寺を時に応じ宣きに随て百般所分すべき権利を付与し玉ふに非ずやとは、頑愚に於ては猶思ひがたし、彼の陣平周勃の劉氏を安ずるは漢帝の顧命に在るならん、恐くは開山の遺命をして教正師の想像たる御明説に属せしめば、諺に云ふ蛇を画いて足を加るの類似せしめざるを得ず、豈に徒だ興尊の遺命のみならず蓮尊の遺命までも諸共焉に附会せざるを脱れず、所以は何となれば付属抄に曰く日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべし、既に夫れ大導師たるの命令あれば新王たるの権利言を俟たずして掌握せり、然れば則ち国主此の法を建てらるゝの時富士山に本門寺を建立せるも・せざるも都鄙に霊地を撰ぶも山野に勝土を設くるも興師の権内に在るは無論なり、然るを冨士山に建立せらるべきかの、或は就中我門弟等此の状を守るべし等と云うて遺命あるは何ぞや、若し教正師の御明説に依つて之れを観れば、其の末徒弟を時に応じ●きに随て百般所分すべき権利を宗祖に於て未だ興師に付与し玉はざると云ふべきか、且つ釈尊五十年の説法乃至身延山久遠寺の別当たるべしの命令あれば、既に夫れ統御たるの権利是れ亦言を俟たずして有備せり、然らば則ち其の遺命をして門弟末徒を賞罰黜陟せしむるは固より論なし、況や子として父に背悖せば不孝の罪臣として君に違命せば不忠の罪弟として師に埀戻するは不順の罪是れ則ち内外の常訓なり、是の如きの三罪をして其の門末に誡罰し復た反して賞するも黜陟せしむるも必ず興師の権内に豈有ずと云はせんや、爾るを背く在家出家共の輩は誹謗の衆たるべきなりと遺命あるは何ぞや、猶是れをも教正師が明言の如くんば適宜革命するも・せざるも新王の権内にあり、其の末徒を時に応じ●きに随つて百般所分すべき権利を蓮師において興師に付与し玉ふの義何れにあるや、頑愚甚だ思ひ解しがたき所なり、乞ふ蓮祖の遺命先に聴了せんことを、果して然らば則ち興師の遺命をも言を俟ずして自ら氷の非に照すが如く解するか解せざるか愚頑知らず。 一、三代の御封建なりと雖も賞罰黜陟の権利を有して全土所有の威徳を示せり、故に云く普天の下・率土の浜・王土王民と何ぞたヾ方幾千里のみを管領すと云はんや等と(云云)、夫れ本文に夏殷周の三代の如き封建にして天子の所轄僅かに幾内千里に過ぎず、余は皆封じて諸候の国とせりと在て尚よく本分に著目せんことを希ふ、全土所有の勿論普天の下・率土の浜・王土に非ざるなきは固より論ずるまでもなし、統御すべき権利あればこそ全土を所有し威徳を示して以て諸候を封じて之を建つるに非ずや、故に本分に皆封じて諸候の国とせりと云ふ誰かたヾ方幾千里のみを管領すと云ふべき豈たヾの字何れにあるや、是れ亦誣言想像か知るべからず、蓋し通別の二義を以つて之れを判ぜん、所謂る余は皆封じて諸候の国とせりと(文)(是則ち君王たるの権利威徳を示して以て諸候を封ずるは豈通じて全土統御するの義に非ずや、然れば則天下に君臨して尺土寸石は皆王君の全土にして統御せずと云ふことなし)又天子の所轄僅かに幾内千里に過ぎずと(文是れ則ち君王たるの権利威徳を示して以て全土を統御すと雖も幾内所轄は豈別て分土管領するを云ふに非ずや例せば(云云))、是れに依つて之れを観れば興師の遺文に於けるや又爾り、謂く本門寺建立の時は日目を座主となしと(文)(是則ち座主となすの命令あれば既に君主たるの権利を有せり、豈に通じて其の門徒を賞罰黜陟して統御せしむるの遺文にあらずや)、次に日本乃至一閻浮提の内・山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべしと(文是れ則ち座主たるの権利統御を有すと雖も豈別て所分を管領するの、遺文にあらずや)、又残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべしと(文是れ則ち大衆たるの所文豈別て領掌すべきの遺文に非ずや例せば諸侯を封ずるに擬するの意か)、是くの如く通別具するの文体・類例豈に惟た興師の遺文のみにあらず、遠くは諸典籍に多しと雖も近くは蓮祖の遺文判然たり、姑く一両の文を援引して以て文例に之れを挙げむ、謂く日蓮一期の弘法乃至本門弘通の大導師たるべしの文、又釈尊五十年の説法乃至身延山久遠寺の別当たるべしの文、(是れ二文則此の言をして君王たるの権威を興師に遺命せるは通じて門徒を統御せしむるの句言なり)、次に国主此の法立てられば冨士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき等と(文是れ則ち此の言をして事の所分興師に別て遺令せしむるの句言なり)、又就中我か門弟等此の状を守るべきなりと(文是れ則ち此の句をして門葉の徒弟に別て所分を遺戒せしむるの句言なり)又背く在家出家の輩は誹謗の衆たるべきなりと(文是れ則ち此の句をして門家の真俗別て遺誡せしむるの句言なり)是くの如く三文に別ちて遺命ありと雖も興尊に於いてや君主たるの権利前文に遺令ある上は其門徒を賞罰黜陟は勿論・百般所分して以て統御せしむるの権利焉んぞなしと云はん、是れに因つて之れを観るに高開両師の遺分恰も符節を合せたるが如し、果して然らば則ち興師目師に遺令せしむるの譲状に於けるや氷解に至らざれば頑愚の知り及ぶ所にあらず、若し一見の識者あらば之れを観熟せよ、蓋し譲位あれば適宜革命するも・せざるも新王の権内にあり等と(云云)に因つて、但文例類文を挙げて而して文異と雖も義は同の辺を略ぼ演ぶるのみ、爾るに頑愚昨夏虫払の折り御真蹟の本書と反古とを拝見して微かに心覚ふるに、自余の大衆等之れを領掌すべしと云ふ御分段の所を、反古には可配分之とありしを、御本書には可領掌之と御改正遊ばされしは如何の御思慮なるか、頑愚如き凡慮の測知せざる所なればなり、啻た其の思召の姿表を挙ぐるのみ、●くば此の御真蹟の反古と共に両通ながら時を得て拝見せしむることを要す猶更元徳正慶年間の御真蹟と対校して以つて今一度熟拝せんと欲するは愚他の為に殊に願ふ所なり、以何ぞ之れを差し拒むの理あらん亦ひけらし阿諛して以て推好をなし妄りに見せしむるものとはよも思はれざるなり、爾るに教正智貴師の言に人必ず云はん拝せしめられざるの書なるが故に大笑拍手の語を以つて斯る遁辞を構ふる者なるべしと、此の貴山の為に切に惜む所なり杯と鳴呼がましく御一言を預るは重職の任たる御任官の御言葉と深く思はざるものあるまじと云ふか知るべからず、弥よ拝せしめざるの以上は右の御一言も亦可なるべしと云ふか云はれざるか愚亦知らざる所なり、況や其の御文段に於いて弥よ氷解に至らば御真蹟を拝するも猶決定あるか、何に況や未だ氷解もなきに於ては解疑決心の次第何を以つて分たんや鳴呼。 一、孟軻氏一夫と称せる失徳の紂を挙げて閻浮の座主に例す乃至本国王統衰弱の世を数へて本門建立の盛世の座主聖主に比する又思ひがたしと(云云)誰か失徳せし殷の紂玉を挙げ且つ衰弱せし本国王統の世を数へて本門寺の戒壇建立盛世の座主に比例すと云ふべき噫・理の通ぜさるか文の解せざるか希ふ尚本文を熟考し玉はんことを、夫れ本文を見るに封建郡県の姿を云はん為め先づ封建たる夏殷周の三代を挙げ、且つ本国の封建たる姿を云はん為め先づ鎌倉より徳川に至るまで奕世封建の一事たる趣意のみを挙ぐることにして、強ちに但失徳の紂や本国王統衰弱の世のみを数へて挙ぐるとは思はれざるなり、亦但だ北条の末の封建のみに擬へたるにも非ざるなり、是くの如く人事の衰盛抔には暫く先づ偏執繋念を忘却して特り和漢封建の一事の姿を挙ぐるのみと思へば氷解に至らずと云ふことなきか、目師の譲状に於けるや只管封建の制のみに擬して以て所分を遊されしものと確信せば何を思ひがたしと云はん氷解に至らずや云はん、抑も変疑念するの理あらん、但し先聖師の遺命せる所分におけるや封建の制に擬せずと云はヾ鄙懐の愚論亦無きに非ず風難に随つて応答せるも可ならんか、蓋し本文を見て大意を鄙論せば封建の一事に於けるや大綱に基き、人事の一事に於けるや網目に因らざるを得ず、強ちに人事たる失徳の紂を挙げて閻浮の座主に比例するには非ず、偏へに大綱たる封建の一事を陳述せんとして自然網目たる人事の衰盛のことにのぞむと雖も大綱たる封建の義には尠しも関係せざるか、若し本国王統衰弱の世を数へて盛世たる閻浮の座主に校例すると云ふて人事たる網目の論に著目せば豈に本文の大意を失せざるを得べけんや、只管大綱たる封建の義に漏れず興尊の遺命を謹拝熟判せば必ずとして氷解せざるはなし豈に思ひがたしとや云はん。 一、何を以て事の戒壇の本尊なりと確言せん、現文分明に弥四郎等が現当二世の為の本門戒壇にして又則ち願主弥四郎等が敬白する処の本尊なれば、既に造立する道場の本尊にして未来本門事の戒壇の本尊に非ずと確信するなり、乃至未来流布の日・此の本尊を安置し玉へるか、大導師出現して自ら書写して安置し玉へるか、決し得べからざる処等と(云云)。 一、愚反詰して謂く吾か石山に在す本門戒壇の大曼茶羅を未来本門事の戒壇本尊に非ずと確信なさば何を以つて未来本門事の戒壇の本尊と定むや其の確証以何不審し、将た当山に在す本門戒壇の文・大曼茶羅を以つて未来本門事の戒壇の本尊と定むべき確証あらば如何、此の義・時を期して確証を仰ぎ其の上応ぜん、抑も智貴師が疑難の文へ符を合せて反詰せん、謂く弥勒菩薩等が現当二世の為の寿量品にして、経に曰く弥勒為首合掌白仏言世尊唯願説之我等当信受仏語如是三白巳復言唯願説之と、是くの如くの願主たる弥勒菩薩等敬白する所の寿量品なれば、既に嘱累品に惣付属を受けたる寿量にして未来末法流布の寿量品に非ずと、此れをも確信すと云ふか如何、請ふ先に解示せんことを、夫れ本尊におけるや人あり法あり、人とは本因妙の教主宗祖日蓮大聖人なり、法とは事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊たること我か興門内に於いてや論なし、爾るに流布の日・帝王信伏して本門寺の戒壇御建立の時は、本堂に納め奉るべきとの興師より遺命ある大事大切たる宗祖の正御影・蓮祖御在世に於いて既に彫刻を日法師に命ぜられし末法相応の人の本尊を造立在りながら特り何んぞ流布の日・本門寺の戒壇既に掛け奉るべき法の本尊を造立せざるの義あるべき造立せるや必せり、若しも他山に何をか花壇の本尊と称して在すや未だ曽て之れを開かざる所なり、爾るに愚甞て聞く智貴師は維新巳来西京要法寺管長の代理たる任官をして派出を東京に促かし興門内を総轄せしめ、然り而して従来固弊の執を開き以て八山一味協和の基本を結び、而して宗家教学の学則を設け各門の諸生孜々として勉励せしむるや未だ其の有無を聞ずといへども、巳に春秋ある殆んど十年に垂んとするに及ぶや、一山を掌握するに至る御身として、宗祖の本懐の中の本懐たる未来事の広布の砌其の戒壇院に掛け奉るべき第一の本尊に於いて今以て決し得べからざるとは八山を総轄したる教正智貴師の御一言は甚だ思ひ解し難き所なり、是れ必ず決し得べからざると云ふ素意に非ざるか、果して両端を構ふる語ならんか未だ得て知るべからざれども若し左も云はざれば宗祖出世の本懐成仏一大事の本尊を知し召し教正師の御言葉とは思はれざるなり、抑も戒壇建立に至つては帝王たること論なし、若し其の戒壇の本尊の願主も帝王ならでは不可なりとせば宗祖の在世に当つて帝王未だ信伏せざるの時なり、奚んぞ不信の帝王に対して戒壇の本尊を書するを得んや若し爾らざれば智貴師の御明言の如く未来広布の日・時の帝王戒壇の本尊の願主となり時の大導師自ら戒壇の本尊を認め之れを戒壇院に安置せるとは是れ愚の甚た解せざる所なり、異日時を期して拝聴せんことを争でか本門戒壇の大本尊に於て其の義あるべき、所謂る本尊抄等の文に違●する所なればなり、蓋し此の言の出づるや吾か花壇の大本尊を虚にせんとする妬親の念より出づると云はざれば何んとや云はん噫長大息せざるべけんや。 一、日有彫刻の本尊(云云)は有師精師も記せざる如く従来目に触れる書にも見へず、今日始めて承はる伝聞なれば全く訛伝たりとも確信しがたし、却つて浄師の其の当世にあつて親聞実見し未聞未見の坂本尊を彫刻すと云へるは信あるに似たり、何となれば全く嫉謗の語なりといへども従来公然たる坂本尊あらば仮令末徒たりとも未聞未彫刻の語を許さざるの道理なればなり等(云云)、厥れ雲なきに雨ふらず風なきに樹焉んぞ動ぜん、有精両師の時に当つて日浄が未聞未見の語を記述し梓さに刺して以つて世上に流布せるか、又は写記して以つて当山に贈るか、若くは其の語専ら世上に風評あらば必ず弁駁して以つて破斥を記遺あるは必然なれど是れぞと纏まる確言なきに何とて記筆して以つて後世の触目を得せしむるの理あらん、今回智貴師の御疑難と彼の日蓮禁断義と云ふに類似せる題号の大石寺誑惑顕本抄と(此抄未だ当山に贈れる書にも非ざれば敢て弁ぜず時を得て応ぜん)、云へる書に之れを顕し之れを顕し載せてあるを、近頃始めて見しまでにて是れも井中の蛙なるかなれど、先輩の師に於てよも一見せるとは覚へず、是れこそ今日始めて承る伝聞なれば全く訛伝の語なりとも確信し難し、智貴師が如く今回誰あつて贈りもせざる書を取り挙げ他家の記を妄りに拾ひ集めて末葉の代言となり御疑難を寄せられば実に黙止を得ず、亦師が所謂る許さるゝの道理に因んで焉に至る辺もあるか、何とて末徒たりとも日浄が未聞未見の語を此の方に於ては猶未聞未見なれば許すも許さヾるも何の目当として日浄が語を許さざるの道理あるべき、況や発空無対の取纏めのなき代言人になる有精両師には非ざるなり、蓋し其の当世に有つて親聞実見し未聞未見の坂本尊を彫刻すと云へる訛言は、嚮きに霑師が云ひし如く身延群徒が暴働の微顕を観察し、真の本尊を井出某氏の岩穴に蔵し以て一事の危難を脱れんとせし時・止むを得ず真の本尊に擬し彫刻せし之れを誤り視訛言を伝て未聞未見と云ふものならん、況や今顕然と其の穴蔵も、夏の本尊に擬せし有師彫刻せる本尊も現在其の事蹟あるに於いておや、是れ皆此の言の出つるや嫉妬譏謗の念より戒壇の本尊を虚にせんとせるよりの元素にして訛伝するや必然なり、況や日法師彫刻の本尊今に顕然として甲州小梅村妙本寺に在り、安んぞ未聞未見彫刻の語を云ふや鳴呼誣言と云はざれば何とや云はん。 一、本門の本尊を安置し奉る道場は皆並に本門の戒壇なる事を証すべき大事の霊宝と確信するより全く事の戒壇の本尊と称して興目御在世より貴山にあるにあらざるの理を云ふ迄なりと(云云)、蓋し本門の本尊を安置し奉る道場は皆並に本門の戒壇の戒壇なることを証すべきの句言に至ては鄙懐の一論なきに非ず、是れは時を期して●訓を仰ぎ応談すべし、夫れ戒壇の本尊に至つては前に愚弁してあれば煩しく焉に贅せずといへども、本門戒壇の本尊と称して興目御在世より貴山にあるにあらざるの理を云ふ迄なりとは鳴呼何の言ぞや、蓋し此の言の出るや側かに其の意を推し測るに智貴師が所謂る尊順代の三師等を俊傑と称せる人々に於いて未来広布の日戒壇建立の時・爾前の戒壇の本尊を論ずるに当つてや造仏等を主張して尠しも本門戒壇の本尊と称し当山に在すを云はず、若し在すならば何ぞ彼の三師等之れを示さヾるの理あるべきと想像せるより起る所の元素ならん、此の義鄙懐の愚弁亦なきに非ず、是れは時を期して応ずべし、爾れども是れに就いて先つ教正師に問はん、厥順師のことは且く之れを舎き彼の尊代両師の如きは興師の御代に当つて若し石山に在す本門戒壇の大曼茶羅を拝し視知せるか・せざるか知らざれども一も指示せざると云はヾ未だ必ずしも本尊抄及び所破抄等を拝し視知せるか・せざるか知らざれども一も其の元意を指示せざるは何ぞや、其の所以何となれば興師の延嶽御離散の事跡たる御素意は何の為なるぞ、既に釈迦造立のことに至つて暫く機の熟するを待ち造像を子孫によせ不造を諌暁し玉ひしかども終に納れられざるを以つて止むを得ず御離散たること只管此の一挙にあるのみ、爾るに師が俊傑と称せる尊代二師とても此の事知らざるはなかるべし、しかのみならず本尊抄・所破抄等に至つても造仏せること許さヾるや文意明けし、爾るを彼の尊師は上行院を建立して有る仁寄附と称号し釈迦仏及び迹化の菩薩よりも下劣たる十大弟子等を造立するに方つて本尊抄所破抄の元意を一も指示せずして造像を止めざるは何ぞや、造像家の糠粕を甞むる者の曰く是れは止住の最初なるが故に随他善巧を以つて且らく之れを許し玉ふ、例せば本祖の立像の如し暫用還廃なることを知らず等と云はヾ鳴呼尊師の失を宗祖に寄せて覆蔽の語ならん、夫れ暦応四年有る仁寄附より、康永三年迄四箇年なり、尊師此の立像十大弟子を安置してあること四箇年なり、日印附弟となれる其の月兼ねて不審にや思ひし、其の趣を書記して以つて代師へ尋問す、其の心底大聖人御存生の時巳に日眼女及び富木氏等の造像御開眼ある上は造仏御正意に決定なれども、立像十大弟子は如何あるべきやとの不審なり、要法字開山日尊此の浅義に迷惑して小乗の釈迦を立てられたり、日印又附弟として此の浅々たる疑網を破らず、百余里の遠隔たる道をして態々日代師迄問状の体たらくなること、又寄附主はいかなる人や、若し他宗の人ならば日尊日印固く相断り退ぞくべきことなり、若し檀那より寄附とならば何なる法義を教化せられたるや、法義を聴聞して信を発して日尊に帰伏いたせしや、是れ又不審至極なり、代師返事に立像は墓所の傍に立つべしとの御遺言を以つて尊師を闇に破し玉へり、是れに依つて尊師の伝に曰く日尊後日十大弟子を除て二尊四菩薩を造立すと尊師の造仏あるや益々明白なり、識者一見あらば之れを想像せよ、又所破抄等では具に読不読論を挙げて天目等を広く破斥遊ばせしこと文に在つて詳なり、然るを日代師が日仙坊に於いて仙師と読不読の論を起せるに方つて所破抄の文意を一も指示せざるは何ぞや、是れに依つて之れを視るに彼の尊代両師に於けるや宗祖出世の本懐を顕はしたる本尊抄及び開山の真意を示したる所破抄等云ふも更なり、身延御離山のことをも未だ視知せざると云ふか雖近而不見の類か其の事に臨んで一も其の意を指示せざるは何故なる不審し、請ふ先に明詳に弁解し玉はんことを、蓋し聊か愚弁の鄙懐を云はヾ吾か石山在す大曼茶羅に本門戒壇の五字あるを眼前に拝し視知せるといへども、高開両尊の御本尊を知らざる故か、何となれば若し未来宣布の日に至らば今の曼茶羅は爾時の雛形を図したるもの位に思つて軽賤し奉り、或は御本尊の如く造像たるもののみと己れ慢心に乗じ宗祖の御本懐を探らざる方より其の事に臨むと雖も一も指示せざるものか、(其意を微しく当時の形勢を挙げて存知抄に示せり、曰く五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし乃至而る間盛んに掌舎を造り或は一体を安置し或は普賢文殊等を脇士とす、仍て聖人の御筆本尊に於て彼の仏像の後面へ懸け奉り、又は掌舎の廊に捨置くと、乃至上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間或は曼茶羅なりと云て死人を覆葬する輩もあり、滅却する族もあり、かくの如く軽賤するの間多分以て失ひ畢ぬと云云、既に厥れ宗祖値遇の五老僧すら本意を採らず況や仮令興師に属すといへども目道両師の外覚束なし、其の当時を想像して熟考すべし、此の時に当て未来戒壇の本尊と広くひけしものならば豈造像好の俊傑等といへども耳目驚働して、信を失はずとは覚束なし、但本門戒壇之五字を標してありといへども猶本尊抄所破抄等を視るが如し、実に其義を深く秘したるものか識者想像すべし。)例せば恰も尊代二師に於いて延嶽御離山の事蹟及び蓮興両尊御本懐たる遺示を眼前に拝して視知せるといへども、尚像法残機にして宿習やら殊に造像好みの俊傑なる故に其の事に臨んで一も指示せざるが如しと云ふか未だ得て知るべからず、此の一段一二度の書通往復にては決すべからざるか何れ風難に応ずべし、近くは名を祖門と称せる真俗に本因妙抄等は後世の著述と欺侮を鳴せし者有り、遠くは篤●等の如きに至つては法華経は釈迦入滅五百年後の経説と誣妄を唱ふるといへども識者誰か之れを道として論ぜんや、教正師が本門の戒壇の本尊を興目在世に無かりしものと云ふは豈に此の二つの類に均しからざるを脱れずとや云はん又近からずとや云はん、恐らくは遠からざるか知るべからず、爾るに教正師が欲せざる所は喋々しく片押しに想像々々とけなし論を蒙れと、教正師の御明説に至らば想像ならざるや頑愚能く知るべからず、初め本門戒壇の本尊を論ずるに当つて怨嫉家の日浄が誣妄を負んで而して有師が彫刻の故に一定癩病を感せりと誣言を吐きしか、霑師の弁解を紹受して今復何を明言と思へば遁辞を構へ愚何れの処に偽と云ふべしや、其の彫刻は在世にもせよ乃至大事の霊宝と又極句のつまり何を明言し玉ふと思へば、本門戒壇の本尊と称して興目在世にあるにあらざるに□云ふ迄なりと(云云)す、何ぞ此の言に及ぶや鳴呼果して然らば則ち愚反詰して云はん、謂く全く事の戒壇の本尊と称して興目御在世より石山にあるにあらざる確証ありや以何、若し全く事の戒壇之本尊と称して興目御在世より当山に確然と在す証あらば如何、他日日を期して以つて教証を仰ぎ応答せん、而して白日の論を結すべし。 本文の書中に事に臨んで知らず料らず麁言を吐露し御尊意は煩はし不敬多々の処は若きの至りと高官の仁恕を垂れ御憐免の程懇願奉り候し、御尊前に御目通りの御許容を蒙むり候はヾ頑愚の本懐之れに過ぎず、去りながら御尊体に御うるさく思し召し在らせられ候はヾ拠なき次第、若し御許容を蒙り書記者をして忘失せざるやうに致すべく事に候得共、潜心熟視して勘考の上・事々事書を往復し以つて其の実否を糺明するにしかざるか、此の義は全く愚の素意にして宗祖開山の御真口に尚基くに復遠からざるかなんど、何れ両様の辺御指揮を仰ぎ決着仕り度候、御尊前の座下に於いて万一互の念着より知らず意はず麁言出来粉擾亦無きにあらざるもはかり難く、終に期旨に悖り宗家協和の基本を失ふに立ち至らば実に愕然の至りにも候えば、事長く書通を以つて蓮興両師の真義を開拓し候えば亦之れに過ざるか、蓋し大綱の辺は師日霑より往々書通の事に之れ有り網目の辺は師は舎いて論ぜざるも、愚生筆耕の序是れを拾ひ失敬を省みず終に御尊意を煩はし不敬を醸する辺も料り難し、其の義は惟り宗家教学の研究進歩の事と思召し若輩の固陋頑愚と御見做し請ふ宜く此の後とも寛大の御仁恕を以つて憐愍を蒙らん事を恐惶謹言。 教職試補日霑徒弟 明治十二年二月七日 加藤日普判 呈 本 門 寺 教正玉野日志上人聖師 獅子座下 拝啓、時分余寒堪へ難く候処、先つ以て尊聖師弥よ御平安御法座在らせられ候事と恐賀奉り候、先般来両御上人の御慈論を蒙むり、初冊前文中確証もなくして福島県下等の事情を云云する不都合、且つ有師一定癩病家中抄に見へたりとの誣妄、又冊中協和を忘れたる数多麁暴の悪言等漸次悔悟の廉々参を以つて御詫び申し上ぐ可きの処、去冬申し上げ候通り新暦一月中には是非とも出京の心算是れも元来十二月初旬に出京の約定に候処、寺務繁く追々延滞に相成り頻りに院務差支へ候筋も之れ有る趣きを以つて出京を促がし来り候間、両三日の内には是非とも発足仕りたく、之れに依つて不本意乍ら這般は心底に任せず失義多罪御海容是れ祈る、何れ帰山の上は早速参を以つて御詫び申し上ぐ可く候えども、先つは書中を以つて右御断り申し上げたき迄此くの如く百事悪からず御宥恕の程只管希ひ上げ候なり、恐惶謹言。 本門寺 明治十二年二月七日 玉野日志判 大石寺御住職 大講義下山日布上人尊前。 再啓、去る八日夕刻封書一通前の如く日普殿より投与之れ有り候えども、一向見知りも之れ無き方故一先つ返却に及ぶ処、又候翌九日上封相改め寂日坊師より投与に相成り候何等の義に候や斗り難く候、定めて此の度明解を相願ひ候事件に関係の書と愚察仕り候、若しさも候はば両御上人の御書に候はば謹んで拝誦奉る可く候えども、余師に解示を相願ひ候訳にては決して之れ無く、元より会得致されたき筋も之れ有り候はヾ両御上人へ相伺はれ各御上人より御示諭の通り信解領収致され候て然る義と存ぜられ候、且つ却つて両御上人を軽蔑の筋にも相当り大方の聞へも宜しからざるやに存ぜられ候上、弊山檀家事情不弁の者ども如何様の謗言を吐き出し候やも斗り難き辺も之れ有り、旁た開封も致しかね申し候間各師へ宜しく御申し聞けの程只管希ひ上げ申し候、尤も披見申さず候ては相叶はざる条理之れ有る書に候はヾ披見も致すべく候えども、本文に申し上げ候通り登途前殊の外繁問に付き先つ兎も角も帰山の節迄封の儘更に愚子認め三印を相加へ候て尊上人え御預け申上置候なり、 敬 白 一、昨十一日尊書有り難く拝見仕り候、仰の如く余寒堪え難きの際教正尊師益御勇壮に御教導候御事と恐悦奉り弥よ近日御発駕の由、寒気の砌り御道中折角御自愛是れ祈る、就いては先般御投書爾来の事件御懇の仰を蒙り恐縮痛み入り存じ奉り候、陳れば御再書中去る八日夕刻加藤日普呈書の事状始めて承り驚き入り早速同人相招き尊書の次第申し聞け趣意糺聞候処、決して両師を蔑如仕り候訳には之れ無く尤も化儀化弘宗学要等の義に候はば素より師に出問仕る可きは愚闇といへども心得罷り在り候、是れは別事にも之無く去る頃、教正師御投書巳来・師に従事し往復の御書等筆記仕り故を以つて其の趣意は荒々得意仕つり候えども、中には日霑闕答の候目も間々御座候に付き相尋ね候処、論に足らざる故に是れを答へずと申し聞けられ候えども愚意晴れ難く、之れに依つて其の条目に付き聊か愚懐を注し教正師の御明断御教示を相願ひたく平に教正師の御披見に相成り候様取り計らひ相願ひたしと達て申し、若し是れを圧制致し候はば自身直に御膝下に迫り強願申す可きの形勢、若し其の義にも立ち至り候はヾ設ひ御取上げに相成らざるまで一層世間の風評を重ね候はヾ無論と切に心痛仕り候間、兎も角も一度は取り上げ下されたく尤も近日御発駕御繁問の際直に御開封にも及ぶまじく、御上京御出先に於いて寛々御披見の上幸ひ同人義も近日上京の手筈も之れ有り候えば何れ御伺ひに罷り出づ可く候か、其の砌り御慈悲を以つて御教示成しくだされ候か、御取上げに相成り難き筋に候はヾ其の筋御直に御諭し御投却に相成り候とも是非に及ばざる次第、如何にも御封印の儘・愚禿方に相預り置き候事は迷惑の至り不本意斗ら御返上申し候、畢●御投書の件に就ては愚禿等に於ては朝旨にも相●らざる様何分にも協和の素意を失はざる様と随分穏便を専守仕り候えども、如何にせん貴山御檀家中より種々の浮説を鳴らし又御衆徒の中にも仏事等の席に於いて随分虚喝を唱へ百般の駁言も有る之れ由しを伝聞し、多くもあらざる弊山の衆徒等甚だ沸騰の躰、殊に若輩等は自の微力をも省みず、彼れ是れの激論を発し若し終に此の挙に立ち至り候仕合、実に是非無き次第悪しからず御賢察願ひ上げ奉り候、先つは右御願ひ旁た尊答まで愚札を呈し候。恐惶謹言。 明治十二年二月十二日 下山日布判 本門寺御住職 権少教正玉野日志尊前 編者云く、巳上加藤日普の問条巳下は、其の当時に近き慈謙日恭(後の日恭上人の写本に依り、間々ある漢文態のものも延べ書にす、其の中に本多成清の問条も れども且らく此を省く。 |