富士宗学要集第八巻
第一立宗起源
富士大石寺及び本門寺等の開山日興上人は宗祖日蓮大聖人より特に器許せられて弘安五年に富士戒壇建立と身延山久遠寺の遺嘱を受けて入山せられしが、其の地頭及び学頭の違法の為に富士の上野に法幢を移されたる事等は古来他山の評論の如きにあらず進退共に粛々たるものにして敢て他の一言を許さず委くは予が日興上人身延離山史等の如し、古来他門の史伝家大に史実を謬り言ふ所全く正鵠を失したりと●も自門の書史亦認識不足の嫌ひ無きにあらず今下に列記する所の当時の史料及び直後の文書又は次第に記述せられし文献に就いて正断を得んことを祈る、一百年後に発生せし想像説の如きは全く信憑するに足らざるを以て此に載せず宜しく要集宗史部の下にて参校すべし。開山上人富士移転巳来本門戒壇建立の準備の為に大方に呼び懸け公家武家に諫奏して公布の暁に至るまで少しも撓む所無く身命を的にせられたるを以て後代の人々亦其規矩を守る、而して公称する所の宗号の如きは強いて逗る所無く単に法華宗とも亦其堂宇を法華堂とも称せし事あり、叡山の天台法華宗と事有りし後は此に簡別する為に一般に日蓮法華宗と称せり、延山門徒等と反目の後は富士門徒と自他共に称し五老門徒と簡別する為に日興門流とも興門流とも云へり、徳川幕府時代に至りては富士諸山何れも日蓮法華宗勝劣派一本寺として其下に大石寺本門寺等の寺号を公用書に記せり、明治の初年各宗派に各管長を置きて宗務を統理すべく定められたるとき日興門派の旧来一本寺扱ひに置かれし八本山即ち大石寺、重須本門寺、西山本門寺、妙蓮寺、妙本寺、久遠寺、要法寺、実成寺の各本末を合して興門派と称せり、而して其実力あるも讃岐法華寺には本山号を与へざりしなり、此等の八本山の実勢力均等ならず加ふるに特殊に発展したる教義信条は到底緊密の融和性無く遂に七山は本門宗と改称して旧状を継続し大石寺は日蓮宗富士派として開山上人の古に復すべく精進し後更に日蓮正宗と改めて今日に至りしなり。 08-002 一、富士戒壇、日興上人本門弘通唯一人の大導師に任ぜらる。 身延相承書、祖滅の年、上古の写本大石寺等に在り。 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇(原文漢文態にて富士山本門寺戒壇)を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云ふは是れなり、中ん就く我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五壬午九月 日 日蓮在り判 血脈の次第、日蓮日興。 08-002 二、入延山、日興上人身延山久遠寺に主たり。 池上相承書、祖滅の年、上古写本大石寺等に在り。 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。 弘安五年壬午十月十三日 武州池上日蓮在り判 御遷化記録、祖滅の年より二年に亘る、日興上人の正本、西山本門寺に在り。 (前略)定 一、弟子六人の事不次第。 一、蓮華阿闍梨日持 一、伊与公 日頂 一、佐土公 日向 一、白蓮阿闍梨日興一、大国阿闍梨日朗 一、弁阿闍梨 日昭。 右六人は本弟子なり仍て向後の為に定むる所件の如し、 弘安五年十月八日(後略) (前略)一、御所持の仏教の事 御遺言に云く、仏は釈迦の立像、墓所の傍に立て置くべし云云、経は私集最要文注法華経、同く墓所の傍に籠め置き、六人香華当番の時之を披見すべし、自余の聖教は沙汰の限りに非ず云云。 仍て御遺言に任せ記す所件の如し 弘安五年十月十六日 執筆日興在り判。 編者曰く各紙背継目に日持、日興、日朗、日昭四老の裏判在り。 定 次第不同 墓所守るべき番帳の事。 五月、弁阿闍梨(日昭)二月、大国阿闍梨(日朗)三月、越前公(波木井)淡路公四月、伊予公(日頂)五月、蓮花闍梨(日持)六月、越後公(日弁)下野公(日秀)七月、伊賀公、筑前公、八月、和泉公(日法)治部公(日位)九月、白蓮阿闍梨(日興)十月、但馬公、卿公(日目)十一月、佐土公(日向)十二月、丹波公、寂日房(日華) 右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむべきの状件の如し 弘安六年正月 日。 編者曰く四老の裏判前の如し。 波木井実長入道日円より日興上人への状、祖滅三年、日円の正本西山本門寺に在り。 はる(春)のはじめ(始)の御よろこび(悦)、かたがた(旁)申こめ(籠)候ぬ、さて(扨)はく(久)をん(遠)じ(寺)にほ(法)くえ(華)きょう(経)のひろま(弘)らせ、をはしまし(御座)候よし、うけ給はり候事めでたく(慶賀)よろこび(悦)入て候(中略三百十字)又みん(民)ぶ(部)のあ(阿)ざ(闍)り(梨)の御房の御文給はりて候事よろこび(悦)入て候、それ(其)につき(就)候てもさて(扨)御わたり(渡)候うへはせ(世)けん(間)しゆつ(出)せ(世)の事につけ(附)候ても何事もふ(不)そく(足)にもあい(相)存ぜず候、なを(猶)なを(猶)みん(民)ぶ(部)の阿闍梨の御房の御はか(墓)に御まいり (詣)候べきよし、うけ給もん(問)だう(答)ものび(延)候へども、この(此)ほど(程)ちかく(近)もん(問)だう(答)ばし候ぬとおぼえ(覚)候、御こゝろ(意)にいれ(入)て御きやう(経)あそばし(遊)て給るべく候。 さて(扨)わたら(渡)せ給ひ候ことはひとへ(偏)にしやう(聖)人のわたら (渡)せ給ひ候と思まいらせ候に候、恐々謹言。 (弘安七年)二月十九日 沙弥日円在り判。 進上、白蓮阿闍梨御房。 08-004 三、五一の不和、日興上人と五老僧との間に円滑の交情断絶せり。 日興上人より上総に在る美作公日保への状、祖滅三年、中古の写本要法寺に在り。 (前略)何事よりも身延沢の御墓の荒はて候て鹿かせきの蹄に親り懸らせ給候事目も当られぬ事に候、地頭の不法ならん時は我も住まじき由御遺言とは承り候へども不法の色も見えず候、其上聖人は日本国に我を持つ人無かりつるに此殿ばかりあり、然れば墓をせん(為)にも国主の用ひぬ程は尚難くこそ有らんずれば、いか(如何)にも此人の所領に臥すべき御状候し事日興の賜りでこそあそば(遊)されてこそ候しか、是は後代まで定めさせ給て候を彼には住ませ給候はぬ義を立て候はんは如何が有るべく候らん、所詮地頭不法に候はゞ眤んで候なん争か御墓をば捨進せ候はんとこそ覚え候へ、師を捨つべからずと申す法門を立てながら忽に本師を捨て奉り候はん事大方世間の俗難術無く覚え候、此の如き子細も如何と承り度候。 波木井殿も見参に入り進せたがらせ給ひ候、如何御計ひ渡らせ給ひ候べき、委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ。 若し日興等が心を兼て知し食す事渡らせ給ふべからずば其様誓状を以て真実知者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候、波木井殿も同事にをはしまし候。 さればとて老僧達の御事を愚かに思ひ進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候。 今も御不審免り候はゞ悦び入り候の由地頭も申され候某等も存じ候。 其にもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん聞しめして候へば白地(あからさま)に候様にて御墓へ御入堂候はん事苦しく候はじと覚え候、当時こそ寒気の比にて候へば叶はず候とも明年二月の末三月のあはい(間)にあた(熱)み(海)湯治の次でには如何が有るべく候らん、越後房の私文には苦からず候委細に承り候て先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり、いかにも御文には尽し難く候て併ら省略候ひ畢ぬ。 恐々謹言。 弘安七年甲申十月十八日 僧日興在り判。 進上、美作公御房御返事。 弟子分帳、祖滅十八年、日興上人正本北山本門寺に在り。 白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事 永仁六年戊戌。 一、甲斐の国蓮花寺の住僧寂日房(日華)は日興第一の弟子たるに依て与へ申す所件の如し。 一、新田の卿公日目は日興第一の弟子なり依て与へ申す所件の如し。 一、富士の下方市庭寺の下野公日秀は日興が弟子なり依て与へ申す所件の如し。 一、駿河の国富士上方の河合少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。 一、甲斐の国西郡小室の摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。 一、鎌倉の住人了性房日乗は日興第一の弟子なり聖人御遷化の後なる間日興書写し与ふる所件の如し此六人は日興第一の弟子なり聖人御遷化の後身命を惜しまず国方に訴へ謗法を責む今より以後と●も緩怠あるべからず、故聖人の御弟子六人の中に五人は一同に聖人の御姓名を改め天台の弟子と号して爰に住坊を破却せられんとするの刻天台宗を行じて御祈祷を致すの由、各々申状を捧ぐるに依て破却の難を免れ了ぬ具に彼の状の文に見えたり。 一、松野の甲斐公日持は日興最初の弟子なり而るに年序を経るの後に阿闍梨号を給ひ六人の内に召し具せらる蓮華阿闍梨是なり、聖人御滅後に白蓮に背き五人と一同に天台門徒なりとな(名)のれ(乗)り。 一、富士の下方市庭寺の越後房(日弁)は日興が弟子なり仍て与へ申す所件の如し、但し弘安年中白蓮に背き了ぬ。 一、武蔵国の住泉出(いづみ)房は越後房(日弁)が弟子なり仍て日興之を与へ申す、越後房逆罪の時同時に背き了ぬ。(中略二人) 一、甲斐の国下山の因幡房(日永)は日興が弟子なり仍て与へ申す所件の如し、但し今は背き了ぬ。 一、甲斐の国大井入道殿の孫肥前房は寂日房(日華)の弟子なり仍て日興之を与へ申す、但し今は背き了ぬ。 一、駿河の国松野郷の住大夫房は蓮華闍梨(日持)の弟子なり仍て日興之を与へ申す、但し聖人御滅後に背き了ぬ。 一、駿河の国四十九院の住治部房(日位)は蓮華闍梨の弟子なり仍て日興之を与へ申す、但し聖人御滅後に背き了ぬ。 一、駿河の国岩本寺の住筑前房豊前公同宿なりは日興が弟子なり仍て与へ申す所件の如し、但し聖人御滅後に背き了ぬ。 (中略二十三人) 一、松野次郎三郎は蓮華阿闍梨の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、但し聖人御滅後背き畢ぬ。(中略一人) 一、甲斐の国下山左衛門四郎は因幡房の弟子なり仍て日興之を与へ申す、但し聖人御滅後背き畢ぬ。(中略二人) 一、松野左衛門次郎の後家尼は日興が弟子なり仍て与へ申す所件の如し、但し聖人御滅後背き了ぬ。 一、甲斐の国曽根五郎の後家尼は寂日房の弟子なり仍て日興之を与へ申す、但し聖人御滅後背き畢ぬ。(己下帳末まで十九人を略す) 富士一跡門徒存知の事、祖滅四十四年の比、日興上人の記、中古の写本大石寺に在り。 (前略百十五字)此の六人の内五人と日興一人と不和合の由緒条々の事。 一、五人一同に云く日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍て公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、又云く先師日蓮聖人は天台の余流を汲むと云云、又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲すと云云。 日興が云く彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり此の旨具に状に載せ畢ぬ、此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢ぬ。 編者云く此の下神詣、勤行、授戒、延山不通、祖影、祖書、本尊、本尊厳持、本門寺在所、王城在所等の各項は要集相伝信条部七二頁以下に出せるのみならず下ノ四離延山の下にも一項を記せり且又長文なるを以て爰に省略す。 五人所破抄、祖滅四十七年、日興上人閲、日順の記、同時代の写本、北山本門寺に在り。 (前略原文百五十一字)五人の武家に捧ぐる状に云く未だ公家に奏せず、天台の沙門日昭謹んで言上す、先師日蓮は忝くも法華の行者として専ら仏果の直道を顕し天台の余流を酌み地慮の研精を尽くすと云云、又云く日昭不肖の身たりと●も兵火永息の為め副将安全の奉為(ため)に法華の道場を構え長日の勤行を致す、已に冥々の志有り豈昭々の感無からんや(詮を取る)。 天台の沙門朗謹んで言上す、先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣き後判の実経を弘通せしむるに、最要未だ上聞に達せず愁欝を懐き空く多年の星霜を送る玉を含み寂に入るが如く逝去せしめ畢ぬ、然して日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る(詮を取る)。 天台法華宗の沙門日向日頂謹んで言上す、桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんと請ふの状、右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通し玉ふと云云、又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶することなし(詮を取る)。 日興公家に奏し武家に訴へて云はく、日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕本門弘経の大権なり、所謂る大覚世尊未来の時機を鑒みたまひ世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内(中略原文八十五字)、正像已に過ぎぬ何ぞ爾前迹門に強に御帰依あるべけんや、中ん就く天台伝教は像法の時に当って演説し日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉たるものなり(原文中略七十九字)、本迹既に水火を隔て時機亦天地の如し何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。 次に祈国の段亦以て不審なり所以は何ん文永免許の古(いにしへ)先師素意の分既に以て顕れ畢ぬ何ぞ座を●聖道門の怨敵に交へ鎮に天長地久の御願を祈らん、況や三災弥起りて一分の徴も無し啻に祖師の本懐に違ふのみにあらず還って己身の面目を失ふ謂ひか。 編者云く此の下和漢両字の是非、本迹二門の適否、立像仏の批判、神社問題、写経問題、戒の持破、延山不詣、方便品読誦等の諸項は要集宗義部の二の七頁以下に具文あるが故に此を省略す、但し門徒存知と本抄の文義に於て互に繁簡あるが故に対照せられんことを望む。 御伝土代、又三師御伝草案とも云ふ、祖滅五十一年、日道上人の記、正本大石寺に在り。 (前略大聖人御伝)日興上人御伝草案(原文七百余字省略)而るに大聖御滅後六人の上足そう(奏)状をさゝげ(捧)給ふに五人は天台の沙門と云云、興上は日蓮聖人弟子某と申状かき(書)畢ぬ、これ(是)によっ(依)て五人は一同して興上一人正義をたつ(立)うつ(鬱)ふん(憤)してふ(不)わ(和)の間波木井殿も五人のかた(方)に心よせ(寄)なるによっ(依)て、興上は身延山を出で給ひて南条次郎ざ(左)へ(衛)もん(門)とき(時)みつ(光)がりやう(領)駿州ふ (富)じ(士)上野のがう(郷)へこえ(越)給ふ、大聖人よりとき(時)みつ (光)が給はる御しょ(書)に云く賢人殿と云云、これ(此)により(依)てこの(此)地をしめ(占)寺をたて(立)給ふ。 日朗上人の御申状に云く、天台の沙門日朗謹んで言上す、法華の道場を構え長日の勤行を致すと云云。富山仰に云く、大聖は法光寺禅門、西御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふに、諸宗のくび(頸)をきり(切)諸堂を焼払へ、念仏者等と相祈せんとて山中え入り給ふぞかし、長日の勤行何事ぞや(中略原文四十七字)。 日昭上人の御申状に云く(中略原文四十八字)日頂日向一紙の申状に云く(中略原文五十二字)、以来日本一州の山寺叡山の末寺たる条、世以て隠れなし人亦之を知る、而るに近年諸宗賞せらると●も此の宗沈没せり云云。 富山云く、此の申状は山の三千人が申状なり全く当宗にはあらず、所以は何ん叡山の廃れたるを興せんと云云。 日持蓮華阿闍梨は本興上の御弟子、六人に入らる、しかり(然)といへども師匠の興上にそむき(背)かま(鎌)くら(倉)方に同ず所立さき(前)のごとし(如)。 日興上人の御申状に云く、日蓮聖人の弟子日興謹んで言上す(中略原文七十三字)。 日興上人御遺告元徳四年正月十二日、日道之を記す。 一、大聖人の御書和字たるべき事。 一、鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事。 一、一部五種の行、時を過ぐる事。 一、一体仏の事。 一、天目房が方便品を読むべからずと立るは大謗法の事。 編者云く此下道師の細論及び日朗日澄和合帰伏等の事委く要集宗史部の一、二一頁以下に在り。 08-010 四、離延山、日興上人自門徒を率いて身延山久遠寺を出で富士の上野に移る。 波木井清長の誓状、祖滅七年、清長の正本、西山本門寺に在り。 もし(若)み(身)のぶ(延)さわ(沢)を御いで(出)候へばとて心がはり(変)をもつかまつり(らず)候、おろ(おろか疎略)にもおもひ(思)まいらせ(進らせず)候、又おほせ(仰)の候御ほう(法)もん(門)を一ぶんもたがへ(違)まいらせ(進)候はゞ、ほん(本)ぞん(尊)ならび(並)に御しやう(聖)人の御(み)ゑ(影)のにくまれ(憎)を清長が身にあつく(厚)ふかく(深)かぶる (被)べく候。 しやう(正)をう(応)ぐわん(元)ねん(年)十二月五日 源の清長在り判。 原殿書、祖滅七年、日興上人より原弥六郎への返状、中古の写本要法寺に在り。 御札委細拝見仕り候ひ畢ぬ、抑此の事の根源は去る十一月の比、南部孫三郎殿此の御経聴聞の為に入堂候の処、此の殿入道殿の仰と候て念仏無間地獄の由聴聞し給はしめ奉るべく候、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の外の次第に覚え候へ入道殿の御心替らせ給ひ候かとはつと推せられ候(中略原文六百七十余字)、いかに(如何)謗法の国を捨てゝ還らずとあそば(遊)して候守護神の御弟子民部阿闍梨の参詣する毎に来会すべく候は師敵対七逆罪に候はずや、加様にだに候はゞ彼の阿闍梨を日興が帰依し奉り候はゞ其科日興遁れ難く覚え候、自今以後かゝる不法の学頭をば擯出すべく候と申す。 やがて其次に富士の(南部郷の内)塔供養の奉加に入らせをはしまし候、以の外の僻事に候、惣じて此の廿余年の間持斎法師影をだに指さゞりつるに御信心何様にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ひぬれ(中略原文三十字)聖人の御法門を立るまでは思ひも寄らず大に破らんずる仁よと此の二三年見つめ候てさりながら折々は法門説法の曲りける事を謂れ無き由を申し候つれども敢て用ひず候。 今年の大師講にも敬白の祈願に天長地久御願円満、左右大臣文武壱百官各願成就とし給ひ候しも、此の祈は当時至すべからずと再三申し候しに争か国恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間日興は今年問答講仕らず候き。 此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を御用途も候はず大国阿闍梨の奪ひ取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給ひて固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は責めて故聖人安置の仏にて候はゞさも候ひなんそれ(其)も其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬなに(何)のほし(慾)さに第二転の始成無常の仏のほし(慾)く渡らせ給ひ候べき、御力契ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁の出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし(中略原文百五十余字)。 惣じて此の事は三つの子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠実成の如来の木像最前に破れ候、三には謗法の施始めて施され候ぬ、此事共に入道殿の御失にては渡らせたまひ候はず偏に●曲したる法師の過にて候へば思食しなをさせ給ひ候て、今より己後安国論の如く聖人の御存知在世廿年の様に信じ進せ候べしと改心の御状をあそば(遊)して御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上軽しめたりとや思し食し候つらん我は民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間(中略原文百廿余字)。 日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は二代三代の末は知らず未だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ、身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども打ち還し案じ候へばいづく(何処)にても聖人の御義を相継ぎ進せて世に立て候はん事こそ詮にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子悉く師敵対せられ候ぬ日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当りて覚え候へば本意忘るゝこと無く候、又君達は何れも正義を御存知候へば悦入り候殊更御渡り候へば入道殿不宜に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候(中略原文五百九十字)、何よりも御影の此の程の御照覧如何見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 (正応元)十二月十六日 日興在り判。 進上原殿御報(下略原文百四十八字) 編者云く長文の故に中畧下畧にして要文のみを掲げたるは要集宗史部の一、一九六頁以下、同問答宗史雑部一七四頁以下に具文を出したれば重複を厭ひたるなり。 08-012 波木井入道日円より日興上人の弟子にして波木井に在る越前公への返状、祖滅八年、日円の正本西山本門寺に在り。 御札の旨謹んで拝見候ひ了ぬ、いまだ(未)み(身)のぶ(延)さわ(沢)にわたら(渡)せをはしまし候御事畏悦無極に候、仏法はん(繁)じやう(昌)の御事うたがい(疑)なく(無)候はん事しやう(生)がい(涯)のよろこび(悦)たるべく候、今は万事たのみ(頼)まいらせ(進)候なり、此の趣を以て御披露あるべく候、恐惶謹言。 (正応二)正月二十一日 沙弥日円在り判。 進上、越前公御房。 波木井入道日円状、祖滅八年、近古の写本保田妙本寺に在り尾缺なり。 08-013 正月廿四日の御文畏て承り候ぬ、御迎に藤兵衛入道を進らせ候て入り給ふべき由仰を蒙むるの条々、悪名を越後殿御披露候らん事歎き入て候、全く以て仰せ候と申して候事候はず何事こそ悪名立つ程の事仕り候とも覚えず候身の事にて不覚候やらん。 一、九品の念仏の供養したりと候なる全くさる(然)事候はず、親しき者適ま鎌倉より下って候に馬一疋たび(賜)て候事候き、其れは何にせよ彼にせよとはいか (何)で申すべく候、入道の材木を取って買候しも何様の人の家御堂をや作り候らむ、其の定にこそ候へ、馬賜び候事は五月にて候、仏事は七月かの事にて候ひけると承り候へ、全く仏事の合助に賜びて候事候はず。 一、持斎僧供養したりと候の事、御立ち候し事は十月十六日かと覚え候も廿七日に後生の事には値遇せず候、年来承る者にて候が馬を乞ひ候間馬一疋賜びて候、且は知し食され候様にゑせ(似非)馬など持ち敢へ候を人乞ひ候には惜まぬ物にて候、全く供養して候事は候はず候、受けぬと申す文の候御入りの時御見参に入るべく候、全く供養せよとは仰を蒙りたる事も候はぬにさ(然)様に御覧の事歎き入り候、御立は前馬賜び候事は後にて候、違目御きやう(景)しやく(迹)之あるべし云云。 編者云く出処不明なれども文態に疑無きか尾缺云々の下に何かあるべきが如し、事体に依れば正応二年の始に繋くべし、写本の意には日我が写して妙本寺に納めたるを弟子日侃が更に写しかへたるを宝暦七年に自宣が写したるものを諸の古状と共に合本せられたるなり。 波木井入道日円より大隅殿への状、祖滅八年、中古の写本身延山に在り首中共に缺なり。 一、聖人の御本尊の入らせ給ひて候御厨子に仏造って入れ進らせ候はんと申して候て白蓮阿闍梨の御房に聞かせ給ひ候しに尤も能かるべしと仰せ候しなり、聖人の御仏は始成の仏にて候と和泉殿仰せられなど聖人は秘蔵し進らせて我より後には墓の上に置けとは仰せ候と問答申して候へば、宣べやらせ給ひ候はで御立ち候き。 (正応二)二月十二日 日円在り判。 進上、大隅殿 08-014 波木井入道日円より日興上人への返状、祖滅八年、日円の正本西山本門寺に在り。 一日のびん(便)ぎ(宜)の御文くわしく(委)うけ給り候ひ了ぬ、さて(扨)は何事にて候とも御辺のおほせ(仰)をばたがへ(違)まいらせ(進)候はじと存じて候が、この(此)事にをき候てはかない(叶)がたく(難)候、いか(何)よう(様)にもたい(怠)じやう(状)申すべく候へども、かねて(兼)よりうらみ (怨)まいらするし(仔)さい(細)の候あいだ(間)おほせ(仰)にしたがひ (従)て、さ(然)うけ給はりぬと申す御事恐れ入り候。 まこと(実)に仏道なり(成)候とき(時)は、しやう(障)げ(碍)の候なれども、これ(此)はしやう(障)げ(碍)にはなる(成)べからず候、日円は故しやう(聖)人の御で(弟)し(子)にて候なり申せば老僧たち(達)もおなじ(同)どう(同)ぼう(胞)にてこそわたらせ(渡)給ひ候に、無道に師匠の御はか(墓)をすて(棄)まいらせてとが(咎)なき(無)日円を御ふ(不)しん(審)候はんはいか(何)で仏ち(意)にもあひ(相)かなは(叶)せ給ひ候べき、御経にこう(功)をいれ(入)まいらせ候、師匠の御あはれみ(愍)をかぶ(被)り候し事おそらく(恐)はおとり(劣)まいらせず候、ぜん(前)ご(後)のしや(差)べち(別)ばかり(計)こそ候へ、さ(然)れば仏道のさはり(障)になる(成)べしともおぼへ(覚)ず候なり、こまか(細)にはげ(見)ざん(参)にも申して候き、又ゑち(越)ぜん(前)殿くはしく(委)申さるべく候なり、恐々謹言。 (正応二)六月五日 日円在り判。 伯耆阿闍梨御房。 08-015 門徒存知の事、祖滅四十四年比、日興上人の記、中古の写本大石寺に在り。 (已上全略)一、甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり此の因縁に依って聖人御在所九箇年の間帰依し奉り、滅後其の年月義絶する条々の事。 釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一、次に聖人御在生九箇年の間停止せらるゝ神社参詣其年に之を始め二所(伊豆山権現、箱根権現)三島に参詣を致せり是二、次に一門の勧進と号し南部郷の内ふくし(福士又富士)の塔供養の奉加之あり是三、次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立荘厳せり甲斐の国其の処に是四。 已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依て去る其の年月彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢ぬ、依って御廟に通ぜざるなり(已下全略) 五人所破抄、祖滅四十七年、日興上人閲、日順の記、同時代写本北山本門寺に在り。 (已上全略)身延の群徒猥に疑難して云く、富山の重科は専ら当所の離散にあり縦ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべし既に御墓に参詣せず争でか向背の過罪を遁れんや云云。 日興が云く、此の段顛倒の至極なり言語に及ばずといへども未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん、夫れ身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り地頭発心の根源は日興教化の力用にあらずや、然るを今下種結縁の最初を忘れ劣謂勝見の僻案を起し師弟有無の新義を構へ理非顕然の諍論を致す、誠に是れ葉を取って其根を乾かし流を酌んで未だ其の源を知らざる故か(中略原文百十一字)、抑も身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強ひて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや(已下全略) 編者云く中畧は宗義部の二、一二頁に具文あり。 御伝土代、 文は前に二、五一不和の下に出せる故に再掲せず。 大内安浄の状、祖滅六十三年、写本西山本門寺に在り。 寄進し奉る筆記、一、富士西山本門寺の事、開山日興上人は昔日向と波木井との謗法を誡め身延沢より古聖人の御墓等を重須に引き取り給ふ(已下全略) |