富士宗学要集第八巻

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第二、僧俗譲状置文及び官憲文書等

    漫荼羅御影聖教等法宝及び寺蹟等を譲り与へ又此に附帯する訓誡の置文等を各本山の下に成るべく年次に列記す、但し教団本末の異動に関するものは別編に置く。
一、法華総跡附属、日蓮大聖人より日興上人に譲られたるもの。
身延相承、法体附属。
池上相承、寺跡附属。
共に第一、立宗起源の一、二に載する故に茲に略す。

二の一、大石寺本末に在る分。
民部阿日盛へ譲状、祖滅五十一年、肥後房授与の大聖人御本尊を展転して日盛相伝したるの証状なり、此本尊奥州登米郡上新田に在りしを後に日有上人代に本山に迎へしなり、其使者僧園部日経に有師が正慶二年三月の目師本尊を賞与せし事其脇書の如し、後人多く此を謬れる故に此に念記す、証状の正本総本山に在り。
聖人御筆の本尊、本主駿河の国実相寺前住肥後房に与ふなり、日乗之を相伝し日乗より弟子日盛に之を相伝す。但し六人の判形之れ有るべし。
  元徳四年二月十七日          (開山上人の御形判のみあり。)
目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、正本案文共に総本山に厳存す。

08-017 日興跡条々の事。
一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主として日本国乃至一閻浮提の内に於いて山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり右日目十五の歳日興に値ひ法華を信じてより已来た七十三歳の老体に至るまで敢て違失の儀無し、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣り御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二(四)年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って此の如く書き置く所なり、仍て後の為に証状件の如し。
 (元徳四年)十一月十日                  日興在り判。
誡めの状、祖滅五十二年、富士の長老日目日仙日善三師の置文にして正本二通総本山にあり入文は「為失」と「失ならん」との異のみ、但し日善の筆か。

 08-018
日興上人御遺跡の事。
日蓮聖人御影並に御下し文園城寺申状。
上野六人老僧の方巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此の条日興上の仰に依って支配し奉る事此の如し、此の旨に背き異義を成し失たらん輩は永く大謗法たるべきなり、誡めの状件の如し。
  正慶二年癸酉二月十三日     日善在り判。日仙在り判。日目在り判。

日道上人へ譲状、祖滅四十六年、日目上人より弁阿道師へ陸前国伊豆国に在る田畠及び上新田坊及び坊地(本源寺ノ前身)並に住職権を譲られたる三件一紙に認めあり総本山に正本存す。
譲り渡す弁阿闍梨の所。
08-019
奥州三の迫(ハザマ)加賀野村の内に田弐反加賀野太郎三郎殿、日目に永代たび (給)たる間弁阿闍梨日道に永代を限り譲り与ふる所なり。
一、伊豆国南条保武正名(タケマサメウ)の内いまたの畠少々くづれたり(崩)といへども開発私領たる間譲り与ふる所なり、余の弟子ども違乱妨げあるべからず、若し違乱を至さば不孝の人たるべし、仍て譲り状件の如し。
  嘉暦弐年十一月十日                   日目在り判。
又上新田坊並に坊地弁阿闍梨に譲り与へ畢ぬ。又上新田の講師たるべし、此の上新田の事どもは弁阿闍梨一期の後は幸松に譲り与ふべきなり。
  嘉暦弐年十一月十日                   日目在り判。

妙法尼譲状、祖生四十二年、伊豆国の田在家を新田妙法尼より五郎重綱(目師ノ父)に譲る状、妙法の正本総本山に在り。
ゆづり(譲)わたす(渡)仁田郡畠村田在家の事。合せて屋敷三所給田弐丁伍反。
一所、い(居)や(屋)しき(敷)。
一所、すへ(末)次郎がや(屋)しき(敷)。
一所、まとば(的場)のや(屋)しき(敷)。
給田弐丁伍反の内。

三反くり(栗)き(木)、三反河島、四反たて(舘)のうしろ(後)、三反同くをき(沖)、四反しば(柴)さき(崎)、一反小松沢、一反大ゆやさわじり、一反はんのき、一反ねぎし、一反ひけひたし、一反あふきた、一反寺□□
已上弐丁伍反
右件の田在家は子息新田五郎重綱へゆづり(譲)わたす(渡)ところ(所)実なり、きやう(向)こう(後)という(云)ともさら(更)によ(余)の子どもい(違)らん(乱)さまたげ(妨)あるべからず、仍て譲り状件の如し。
  弘長三年六月八日       あま(尼)めう(妙)ほふ(法)在り判。

沙弥道意配分状、祖生四十三年。新田重綱の兄弟たる道意が重綱の卒後代りて其給田の一部を五郎次郎頼綱に配分する状、道意の正本総本山に在り。
配分、新田五郎次郎(頼綱)の所。
伊豆の国仁田郡畠村の田在家の事。
 合
屋敷壱所、まと(的)ば(場)のや(屋)しき(敷)、田壱丁内、三反くりき、四反たてのうしろ、三反をき。
右件の田在家は母儀妙法新田五郎重綱に譲り与へ畢ぬ、而るに重綱未分にて他界の間、妙法の譲状に任せ重綱の子息等に配分せしむる所なり、向後といへども違乱すべからず、仍て配分の状件の如し。
  文永元年九月四日                  沙弥道意在り判。

 新田頼道等連署の譲状。祖滅三十一年、首行破缺して本件地名不明なりといへども将に奥州三迫の内に在る新田家の所有地なるべし、総領五郎次郎新田頼綱卒去して所有田在家の分配無かりし故に其弟登米三郎頼道新田六郎入道行道及び頼綱の子にして分家せる行時出家せる道師四人が連署して総領を孫五郎とし別家を三郎五郎と定めて配当し北条両執権の下知状を得たる文書なり、此の正本総本山に在り。
(首行破缺)□(右)□(件)の田□(在)家□□□□□□(孫)□(五)郎をそう(惣)りやう(領)□(と)□(し)□(て)□(代)□(代)□(の)□(御)□(下)□(文)□(手)□(継)□(の)□(証)□(文)□(相)□(そ)□(え)□(て)□(ゆ)□(づ)り(譲)わたす(渡)ところ(所)じち(実)なり。
つぼ(坪)はつゝみ(堤)のうへ(上)のて(手)つくり(作)□やゝつくり(作)弐段、つゝみ(堤)の下のすわうつくり(作)の田、ちう(忠)た(太)が夏□ (は)□(り)□(兵)□(衛)尉の夏はりこみすみ田、あん(安)とう(藤)又太郎信乃房又太郎まご(孫)□(五)□(郎)まご(孫)三郎、三郎五郎、かれ (彼)□(ち)□(が)夏はりまつたいづくり(作)弐□(丁)兵衛尉の田同ざい(在)け(家)大夫三郎の田一丁八合同ざい(在)け(家)、はわ(伯)き(耆)房の田壱□□□同ざい(在)け(家)、かちの田壱段、小三郎の田九段同ざい(在)け(家)、□□大夫の田六段同ざい(在)け(家)、平五郎の田弐反同ざい(在)け(家)、右馬四郎の田弐段同ざい(在)け(家)、木の宮の田壱段、卿殿(日目)のて(手)□(つ)□(く)□(り)の田壱段、後家分弐丁のうち(内)伍段、同のこる(残)壱丁伍段は当時の後家分、壱丁はまご(孫)三郎知行すべし、あ□ら井の三郎太郎のざい(在)け(家)、いぬつきのさん(散)でん(田)づくり(作)のはたけ(畠)□(し)□(ん)□(で)□(ん)、孫三郎のて(手)づくり(作)しん(新)でん(田)、とも(共)にしん(新)でん(田)二丁はまご(孫)三郎にうけ(受)とら(取)すべし、金(こん)藤次がうち(打)をこし(起)のしん(新)でん(田)、二丁一段と、四郎三郎がて(手)づくり(作)のしん(新)でん(田)、ほん(本)でん(田)のごとく(如)三百かり(苅)づゝ(宛)三段は後家分にそう(添)べし、のこる(残)しん(新)でん(田)は二(ふたつ)□ (に)わけ(分)て三郎五郎まご(孫)五郎二人して知行すべし、但しまご(孫)五郎そう(惣)りやう(領)□(と)してわけ(分)あたふ(与)べしといへどもゑう(幼)せう(少)たるによつ(依)て後家分として(新)でん(田)□(に)をい(於)ては三郎五郎にわけ(分)させてまご(孫)五郎ゑ(得)るべし、後家分は一ご(期)ののち(後)一ぶん(分)ものこ(残)さずまご五郎知行すべし、女子二人の中に子なく(無)ばそう(惣)りやう(領)その(其)ところ(所)を知行すべし、ゆづり(譲)あまし(残)はそう(惣)りやう(領)のぶん(分)なるべし、但し庶子どもの中に御公(くう)事たい(対)かん(桿)の人あらばそう(惣)りやう(領)へ入れてかの(彼)ところ(所)を知行すべし、但し御公事は八段分を沙汰すべし。頼綱殿不分明によって(依)登米三郎殿新田六郎入道殿、並に子□(息)判形を加へ了ぬ、努々此状そむく(背)べからず、仍て譲り状件の如し。
  正和元年十一月十一日 藤原頼道在り判。藤原行道在り判。藤原行時在り判。沙弥日道在り判。
此状に任せて領掌せしむべきの由、仰せに依って下知件の如し。
  元応二年二月十六日           相模守在り判。武蔵守在り判。

  陸奥国宣、  祖滅五十三年、  陸奥鎮守府将軍北畠顕家卿より新田家の惣領孫五郎通章に国宣を下して盛岡の二王郷の沙汰付せしむるの状なり、但し顕家卿の袖判破缺せるか、正本総本山に在り。
後藤佐渡三郎太郎基泰□(申)、岩手郡二王郷三分の二の事。
御下文の旨に□(任せ)沙汰付くべきの旨、左衛門六郎清時に仰せ□(下る)るゝの処、本主と称し支へ□(申し)之を打ち渡さず、結句津軽に下向するの間延引する所なり云々。
早く彼の所に莅(のぞみ)□(基)□(泰)代に沙汰付くべし、綸旨国宣を帯せずんば許□(容)すべからず、使節遅引に及ばゞ其の咎め有るべきもの□(なり)、□(仍て)国宣執達件の如し。
 建武元年九月廿七日             大蔵権少輔□(清)□(高)
     新田孫五郎殿。
 左衛門尉等執達状、祖滅二十六年、蓮阿尼の訴状を左衛門尉等が南条七郎二郎に執達せる同時代の写本総本山に在り富士の上方上野の郷一分の給主新田五郎後家尼蓮阿申す所当米以下公事等の訴状、此の如き子細状に見ゆ早く之を弁へ申さるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。
  徳治二年二月十七日           信□在り判。左衛門尉在り判。
     南条七郎二郎殿。

 南条時光譲状、 祖滅二十八年、時光より上野の惣領二郎時忠に上野郷及び相模国舞岡の一部を譲り与ふる文書の正本富士下之坊に在り。
□(ゆ)づり(譲)わたす(渡)南条左衛門二郎時忠のところ(所)
駿河の国富士の上方上野郷、但し諸子分有り、めん(面)めん(面)に譲り状に見ゆ。
さが(相)み(模)の国山の内の庄まい(舞)おか(岡)のがう(郷)の内や(屋)しき(敷)弐所、給田壱町三反少、はたけ(畠)●のはか(墓)の事、かま(鎌)くら(倉)のや(谷)ち(地)の事、口元とおく(奥)へとりゑ(絵)づ(図)にみ(見)へたり、●に御下文のあん(案)壱つう(通)、南条左衛門□□□入だう(道)のせう(消)そく(息)いつ(一)つう(通)、この(此)状にくはしく (委)見ゆ、御くだし(下)ぶみ(文)の正もん(文)はこの(此)入道のもと (許)に有り。
右件の所領は時忠ちやく(嫡)し(子)たるによ(依)つて代々の御下文●にて (手)つぎ(継)のもん(文)そ(書)あい(相)そえ(添)てゆづる(譲)ところ(所)まこと(実)なり、御くう(公)じ(事)ねん(年)ぐ(貢)はせん(先)れい(例)にまかせ(任)てさ(沙)た(汰)すべし、但し諸子にうへ(上)の (野)のがう(郷)のうち(内)をめん(面)めん(面)にゆづり(譲)候をば、かれ(彼)ら(等)がゆづり(譲)状にまかせ(任)てうち(打)わた(渡)さるべし、ぶん(分)ぶん(分)の御くう(公)じ(事)ねん(年)ぐ(貢)もかれ (彼)ら(等)がゆづり(譲)にさだめ(定)おわんぬ、又時光がじ(自)ひち (筆)のゆづり(譲)よりほか(外)ゆづり(譲)ありとがう(号)せんもの(者)はぼう(謀)そ(書)とし(知)らるべし、時光がうみ(産)の子と三郎が母よりほか(外)ゆづり(譲)なし(無)、し(知)らせたてまつ(奉)らんがため(為)に申し候、よつ(依)てゆづり状件の如し。
  延慶弐年二月廿三日               左衛門尉時光在り判。
(後日の追記なり)一、同国あさはたの五たん(反)あまり(余)の大行がぶん (分)、よつ(依)てゆづる(譲)状件の如し。
元かう(亨)元年七月廿五日、左衛門次郎がぶん(分)、大行在り判。(大行は時光の入道号なり、始めて正和五年の文書に見ゆ)南時光譲状、祖滅二十八年、時光より三郎に譲る伊豆の給田の状、正本総本山に在り。
(端裏書)「南条左衛門三郎がところ(所)。」
ゆづり(譲)わたす(渡)南条左衛門三郎が所。
い(伊)づ(豆)の国なん(南)でう(条)の南方たけ(武)正みやう(名)の内、田大卅いち(壱)い(伊)づ(豆)お(御)きう(給)でん(田)なり、みなみ (南)かた(方)のたん(段)ふう(歩)にて、わたくし(私)とく(得)ぶん (分)六入の入れもの(物)にて米伍斗とり(取)候なり。
一、とく(徳)ぢ(治)ねん(年)中の御くだし(下)文をまほつ(守)ていそぎ(急)いそぎ(急)あん(安)ど(堵)を申さるべき状件の如し。
  延慶弐年弐月廿三日               左衛門尉時光在り判。
えん(延)きやう(慶)二年二月廿三日のゆづり(譲)にまかせ(任)てさう(相)い(違)なく(無)ち(知)行すべし。
  正中三年二月八日                  沙弥大行在り判。
南条大行置文、 祖滅三十五年、時光入道大行が一家の為に譲りに付いて念記したる置文(をきぶみ)正本総本山に在り。
□□□ものさた(沙汰)にゆい(由比)の四郎のもと(許)に、ゆい(由比)の五郎入道のもと(許)、又だい(代)くわん(官)そ(曾)ね(根)のすけ(亮)はゝ(母)のもと(許)へ申して候やうは、いなか(用舎)にては、きよ(挙)状と御けう(教)そ(書)の御うけ(請)なんど(等)かき(書)て候わわろく(悪)候、かま(鎌)くら(倉)にて人に□かゝ(書)せてぶ(奉)ぎやう(行)所へあげ(上)給へとて、しら(白)かみ(紙)のおく(奥)に大行がはん(判)をしてたび(度)たび(度)のぼせ(上)て候ひしが心もと(元)なく(無)候せん(詮)じ候ところ(所)入だう(道)があと(跡)のゆづり(譲)は、みな(皆)みな (皆)大行がえん(延)きやう(慶)二ねん(年)二月廿三日どう(同)日にかき(書)てめん(面)めん(面)にたび(給)て候へば、いか(何)なる人ゆづり (譲)候と申すとも、けん(顕)ぜん(然)のぼう(謀)そ(書)と二郎もし(知)りよ(余)の子どもにもゆい(言)し(知)らせ給ふべく候、大行が自ひち(筆)にてゆづり(譲)候はんうへ(上)は、又もし(若)かの(彼)ゆづり(譲)ら (等)を入道がて(手)でなし(無)と申す仁候はん時のれう(料)に、入だう (道)かかき(書)あげ(上)て候けん(券)け(契)さうに□し御うしろ(後)み(見)ならび(並)にしよ(諸)かんぶ(奉)ぎやう(行)ふ(不)かん(堪)ぶ(奉)ぎやう(行)のはん(判)どものぞか(除)ず候、けん(券)け(契)さう五つう(通)に自ひち(筆)しよけん(券)はみ(見)えて候状件の如し。
  正和五ねん(年)三月十六日             沙弥大行在り判。

 南条大行文書証判人の記録、祖滅三十五年、 大行の文書に証判を加へし諸役人の名を記して後年の為に供へしもの正本総本山に在り。
□(せ)き(関)がしま(島)のけん(券)け(契)さうは入だう(道)が自ひち(筆)永□(仁)□年のぶん(分)。
                                     □(う)しろ(後)み(見)三人のはん(判)。
□(ひ)とつ(一)はなが(長)さき(崎)のしもつ(下)け(野)入道どの(殿)のはん(判)。
□(ひ)とつ(一)はく(工)とう(藤)う(右)え(衛)もん(門)入道どの(殿)のはん(判)。
□(ひ)とつ(一)はくり(栗)はら(原)さ(左)へ(衛)もん(門)どの(殿)のはん(判)やらん。
□はん(判)□□ぬま(沼)の太郎四郎入道どの(殿)のはん(判)。
□よかんはぬい(縫)どの(殿)三郎左衛門入道どの(殿)のはん(判)。
  □(正)和五ねん(年)三月十六日       大行在り判。

  南条大行譲状、祖滅四十年、大行より惣領の時忠に丹波国の小椋庄内の一部を譲れる状、正本富士下之坊に在り。
(端裏書)南条左衛門二郎のゆづり状なりあん(安)ど(堵)申□□。
ゆづり(譲)わたす(渡)なん(南)でう(条)のさ(左)へ(衛)もん(門)二郎が所。
たん(丹)ば(波)の国お(小)ぐら(椋)の庄もりとしみやう(名)のざい(在)け(家)一宇、田さん(参)町、この(此)うち(内)きう(給)でん(田)五たん(段)、畠いつ(壱)ちやう(町)五たん(段)、在給畠弐たん(段)、在家一宇たりくり(栗)林参所、ゆづる(譲)所まこと(実)なり。
文永八年の御くだし(下)ぶみ(文)、永仁三年の故尼上のゆづり(譲)状、又とく(徳)ぢ(治)ねん(年)中の御くだし(下)ぶみ(文)あい(相)そえ(添)てづる(譲)所まこと(実)なり。
一、つい(築)ぢ(地)よう(用)どう(途)とてきん(近)ねん(年)まつ(松)の(野)の二郎のめあて(充)候、かん(蒲)原ゆねらきくあわせ(合)てせうふんいつふく給つて候、又五六箇年に一ど(度)の中にて候なり、きん(近)ねん(年)はじめ(初)てあけゝ(充)候、よつて(仍)ゆづり(譲)状件の如し。
元かう(亨)元年七月廿五日                大行在り判。

 南条大行売券案、 祖滅四十三年、案文と見るべき無判形の売り券にして目的地を書かれたる初の行が破失せるもの総本山に在り。
(首文破缺)おなじ(同)や(屋)しき(敷)つき(附)の田せんすいくうはたけ(畠)のはた(端)にいたる(至)まで(迄)右件の(田)や(屋)しき(敷)は大ぎやう(行)ち(知)ぎやう(行)うへ(上)の(野)のがう(郷)のうち(内)なり、しかる(然)あいだ(間)あたい(価)のぜに(銭)三十五貫文にゑい(永)たい(代)かぎり(限)てうり(売)わたす(渡)ところ(所)じち(実)なり、もし(若)いか(何)なる御とく(徳)せい(政)候てとり(取)かへす(返)べきほう(法)ありといふ(云)とも、この(此)ところ(所)におき(於)てはべち(別)ぎ(儀)をもち(以)てうり(売)わたす(渡)あいだ(間)まつたく(全)とり(取)かへす(返)べからず候、もし(若)この(此)やく(約)そく(束)を一ぶん(分)もたがへて(違)てい(違)らん(乱)わづらい(煩)を申すものならば日ほん(本)六十よ(余)こく(国)の大せう(小)のほとけ(仏)かみ(神)とり(取)わき(別)ほ(法)け(華)きやう(経)十ら(羅)せち(刹)の御ばち(罰)を大ぎやう(行)が身にあつく(厚)ふかく(深)かぶり(被)候て、こん(今)じやう(生)にては人にまじはら(交)ぬやまひ(病)をうけ(受)、らい(来)しやう(生)にはむ(無)けん(間)ぢ(地)ごく(獄)をすみ(住)か(家)として、ながく(長)うかぶ(浮)よ(世)なく(無)してはて(果)候べく候、よつ(仍)てのち(後)のせう(証)もん(文)のため(為)にうり(売)けん(券)のじやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
げん(元)かう(亨)四年きのえ(甲)ね(子)二月十三日  大ぎやう。

 南条大行譲状、祖滅四十五年、同時代の写本首行及び原本七行の頭部破缺なり総本山に在り副本無し。
(首行く破缺)□□□□□□弐けん(軒)壱宇は□□□とう□壱宇以上弐宇。
□□□□□けさ(今朝)のゆづり(譲)に故次郎が子にゆ□□□□□りかへ(返)してとり(取)かへ(返)して、おと(乙)□□□□□□□(づる御前に渡)す所まこと(実)なり。□□□□□□くらんどのばかりにて紬と□□□□□□□まいらせ(進)せて、けつ(結)げ(解)をとげ(遂)べし、□□□□□ほか(外)まん(万)さう(雑)くう(公)じ(事)まつたく(全)あるべからず、又ふてのみしも御さう□い●にふ(富)し(士)かわ(河)のいほり(庵)河よけ(除)ら(等)はぶん(分)げん(限)にしたがって(随)つてす(為)べし、又せん(先)れい(例)なき(無)御くう(公)じ(事)いで(出)きた(来)らも、大行があと(跡)みな(皆)より(寄)あい(合)てぶん(分)げん(限)にしたが(随)つてす(為)べし、よつ(仍)てゆづり(譲)候ぬ、兼て又さこの入道のざい(在)け(家)にはのち(後)なし(無)又どう(堂)だいら(平)□(よ)りにはにし(西)のくね(堺)そい(添)にいも(芋)十石がへ(替)のち(地)あり、まめ(豆)にせ(為)ばまめ(豆)九斗まき(蒔)なり、のち(後)のため(為)にゆづり(譲)状件の如し。
正中三年二月八日         沙弥大行。

 南条大行譲状、  祖滅五十年、同時代写し総本山に在り。
(端裏書)「おに(鬼)づる(鶴)ご(御)ぜん(前)のゆづり(譲)び(比)く(丘)に(尼)。
ゆづり(譲)わたす(渡)おに(鬼)づる(鶴)御ぜん(前)の所、駿河の国蒲原関島の内、大行が知行分半分の事。
右の所は故尼うゑ(上)の手より大行一々ゆづり(譲)得て後は阿原口の御ぜん(前)にとら(取)せよと仰せられ候しかども、大行にさき(先)だつ(立)によつ(依)て、其女子たるあいだ(間)御下文をあい(相)そへ(添)て鬼つる(鶴)御ぜん(前)にゆづる(譲)所なり、若し此の所にい(違)らん(乱)をな(為)さんものは大行がため不孝たるべし、又注し文別に有り、御公事等出で来る時はおと(乙)づる(鶴)御ぜん(前)とより(寄)合つて半分づつ(宛)さ(沙)た(汰)たるべし、又や(八)わた(幡)まい(米)一斗五升の内、一斗二升は鬼づる(鶴)御ぜん(前)、三升はおと(乙)づる(鶴)御ぜん(前)のさ(沙)た(汰)たるべし。
一、大行さし(差)あい(合)のあいだ(間)、まへ(前)をばそ(曾)ね(根)どの(殿)にかゝ(書)せて候、よつ(仍)ゆづり(譲)状件の如し。
 元徳三年十一月十八日    沙弥大行。

 南条尼鬼鶴御前譲状、 祖滅五十一年、鬼鶴御前法躰となりし後に養父たる導師へ譲りたる状の同時代写本総本山に在り。
(端裏書)「日道へ譲状案」
ゆづり(譲)わたす(渡)する(駿)が(河)のくに(国)かん(蒲)ばら(原)のし□(や)□(う)(庄)せき(関)がしま(島)のた(田)ざい(在)け(家)の事。
みぎ(右)くだん(件)のところ(所)はおおぢ(祖父)にて候しなん(南)でう(条)の二郎ざ(左)ゑ(衛)もん(門)入だう(道)大ぎやう(行)だい(代)だい(代)さう(相)でん(伝)のしよ(所)りやう(領)なり、しか(然)るあいだ(間)て(手)つき(継)さう(相)でん(伝)のゆづり(譲)じやう(状)御くだし(下)ぶみ(文)をあい(相)そへ(添)て元徳三年十一月十八日ゆづり(譲)ゑ(得)てち(知)ぎやう(行)さほ(相)い(違)な(無)きあいだ(間)、おさなく(幼少)よりやう(養)せられまいら(進)せ候て、あさ(浅)からぬ御心ざし御おん(恩)おくり(送)がたく(難)思ひまいらせ(進)せ候あいだ(間)かの(彼)て(手)つぎ(継)のゆづり(譲)状くだし(下)ぶみ(文)あい(相)そへ(添)候てやう(養)ふ(父)にい(新)だ(田)のはわ(伯)き(耆)のあ(阿)ざ(闍)り(梨)(日道上人なり)の御ばう(房)にゑい(永)たい(代)たい(代)をかぎり(限)てゆづり(譲)わたし(渡)まいらせ(進)せ候ところ(所)じちなり、ざい(在)け(家)のみやう(名)じ(字)でん(田)す(数)つぼ(坪)つけ(附)はほん(本)ゆづり(譲)じやう(状)にみ(見)ゑて候なり、あま(尼)は一人のこ(子)も候はぬようゑ(上)はもし(若)しん(親)るい(類)こ(子)ども(供)とがう(号)してい(違)らん(乱)さまたげ(妨)申す事あるまじく候、より(仍)てゆづり(譲)じやう(状)くだん(件)のごとし(如)。
げん(元)とく(徳)四年卯月廿八日        あま(尼)

 南条時綱譲状、 祖滅五十一年、時の南条の惣領四郎左衛門尉時綱が兄(先代の惣領)次郎時忠の子なる節房丸に譲りたる状にして近古の写本総本山に在り。
譲り渡す甥節房丸の所、駿河国富士の上方上野郷の内新居外行(誤写か)大夫の在家壱宇の事。
右件の在家は甥節房丸に譲り渡す処実なり、若し此の所に於て違乱を為さん者は時綱が子等は不老の者として跡を一向知行すべからず□□□□、仍て譲り状件の如し。
正慶元年十二月廿六日     平時□(綱)

 藤原某奉裁許状、  祖滅五十三年、親族間の争論を時の奉行が裁決したる状なり近古の写本総本山に在り。
南条太郎兵衛尉高光母儀、由井の四郎入道妻女と相論する、駿河の国富士の上方、上野の郷の内左近入道在家一宇の事。
右南条二郎左衛門入道大行自筆を以て正中三年二月八日譲り与ふる所、明鏡の上は高光母儀に付せらるゝ所なり、者れば仰に依つて下知件の如し。
建武元年七月廿一日     藤原判。

 沙弥心玄状、祖滅五十六年頃か、南条惣領高光と分家節丸との間の争論に付いて奉行所より駿河の国主今川家の河東(富士河東)の代官たる伊達蔵人五郎に事件の精査を達したるの状、近古の写本総本山に在り。
南条節丸申す、富士の上方上野の郷の内在家田畠等の事。
訴人高光申状に就いて両度相触るゝの処、去月十九日節丸請文此の如くに候、而るに当御奉行の手に於て違背の篇を以て御無沙汰に逢はれ知行を彼の高光に付せらるべきの由節丸歎き申し候、御沙汰を究められず未だ御成敗を尽さず候はゞ定めて後訴断絶し難く候なり、御意を得て、御披露あるべく候、恐悍謹言。
(建武四年頃か)十月九日     沙弥心玄
進上、伊達蔵人五郎殿。

 家綱心玄連署の召文、 祖滅五十七年、上の状と下の四通と一連の事件にして南条本支両家の係争によるもの、此亦道師郷師の蓮蔵坊東坊地の紛争に間接の関係を持つもの、当時鎌倉末期と建武中興との世相の反映とも云つべきなり、此の文書は前と同筆にて其時代の写本総本山に在り。
(端裏書)「書下案文」
南条節丸申す田在家の事、申し状此の如し、浅羽三郎入道奉行として再往の御沙汰を経らると云々、所詮証文●に先々の訴陳等を調べられ来る十五日以前に沙汰を遂げらるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。
暦応元年十二月四日     心玄在判  家綱在判。
南条太郎兵衛尉殿
菅原義成請文、 祖滅六十五年、富士の南条家相伝の領地なる丹波国小椋圧(前に在り)内を建武中興の軍に参加せし彼地の久下仙阿に従前の領主を無視して闕所に擬して下附せられたる起りし争ひにて関係の人々多きも南条の味方少く却って押領悪名を附せられたるか、現存の古文書に依りて考ふれば足利将軍に威圧せられて全く此の地及び鎌倉、伊豆各方面の領地を失ひて南条本支共に家運の衰替を来せるものか、此の文書は下の二通と同筆にして其時代の写し共に総本山に在り。
南条太郎兵衛尉高光掠め申す、丹波の国小椋(をぐら)の庄(氷上郡に在り)の内田畠在家●に山林等押領の事。
去る四月廿三日守護の御方の御書下げ、同五月廿二日御催促の状謹んで拝見仕り候ひ畢ぬ、抑当庄の地頭職は關所の注文に任せ去る建武五年仙阿勲功の賞として拝領せしめ候なり、仍て正員仙阿奉公の為に鎌倉に在るの上は飛脚を以て関東に申さしめ巨細の陳状を進上すべく候、上下向ふ日限卅日の御免を蒙るべく候、此の旨を以て御披露有るべく候、恐惶々謹言。
 貞和二年六月三日     所務代菅原義成裏判在り。
進上 御奉行所。
丹波の守護山名時氏の請文、祖滅六十五年、高光の訴状に依りて目的地丹波国の山名守護を経て対手方久下仙阿の代官の請文を鎌倉奉行所に進覧したる状の写本等前文書と同じ。
南条太郎兵衛高光申す、久下次郎入道仙阿、丹波国小椋の庄田畠在家山野等押領の事、封下せらるゝ申状の旨に任せ明に申すべきの旨催促せしめ候の処、守護代国範●に仙阿代義成の請文此の如くに候、謹んで之を進覧す、此の旨を以て御披露有るべく候。
 貞和二年七月三日     前伊豆守時氏請文、在り判。

 南条高光申状、祖滅六十五年、事件は紛糾し分家の忠時が本家の御下文を抑留して本家を差し置いて本件の訴人となり、又小椋庄の一分の地頭たる苧川次郎は其庄地に就て久下と相論を始めたるを以て一庄内に三事件起りたり、此の結末の古文書無しと雖も南条家は本支共に守利名田等を失ひしものと見るべし、他は前に記す。
南条太郎兵衛高光謹んで言上す。
早く南条左衛門次郎忠時の高光得る所の御下文等を抑留せしめて久下次郎入道仙阿に対し当奉行所に於て奸訴を致す上は、傍例に任せ先日の訴訟に就き諏方大進房円忠奉行の一所に寄せられ御沙汰を経られ御成敗を蒙むらんと欲する、丹波国小椋の庄の内田畠在家山野等の事。
右田畠在家山野等に於ては高光重代の相伝当知行相違無きの処、久下次郎入道仙阿非分の押領を致すの間、去る康永元年以来布施弾正忠資連奉行として訴へ申すの処、同庄一分の領主苧川次郎蔵人実名不知件の仙阿と武州□(御)□(手)諏方大進房円忠奉行に於いて相論を致すの間、一庄一具の訴訟たるに依って円忠奉行の一所に渡さるゝ者なり、而るに忠時は高光得る所の御下文等抑留せしむに依つて故無き奸訴を致すの上は、所詮円忠奉行の一所に渡され御沙汰を経られ相伝の道理に任せて御成敗を蒙むり知行を全うせんが為に、恐々言上件の如し。
 貞和弐年十一月 日

 沙汰道恵請文、祖滅六十五年、曽つて南条の惣領たりし時忠正中三年卒の後家より其義妹両人の田、在家の件に就いて上洛すべきの請け文を地方官の道恵より奉行所に提出したる状の写し前の心玄等文書と同筆総本山に在り。南条左衛門時忠の後家平氏の代時直申す、駿河の国富士の上方上野の郷、田、在家の事。
去る五月四日御施行の旨に任せ参洛せしむべきの由、南条次郎左衛門入道大行の女子乙松乙一女等に相触れ候の処、請文此の如くに候、謹んで此を進覧す此の旨を以て御披露有るべく候、恐惶謹言。
 貞和二年七月十八日    沙弥道恵請文裏判有り。
足利尊氏将軍伴物、祖滅七十五年、蓮行寺伝に依れば日行上人住持時代に尊氏此寺の尊像に祈願して願成就の為に二拾石を寄進したりしが、爾後其判物紛失せるを総本山四十八世日量上人仙台より発見して此等に納めたりと云ふ、此即左の文書なれども文躰判形紙質全部疑問多きもの恐らくは当時の正文書は紛失の儘なるべしと云へども本間季綱巳下の文書は正確のものにして敢て尊氏の縁故を記せず、且らく蓮行寺の尊氏判物なる物を挙ぐ。
朱領として此の法花寺へ村高の外に廿石之を領すべし其ため巳上。
延文元年二月三日              尊氏在り判。
小金村法花坊へ。

 本間遠江守判物、祖滅百四十九年、寺伝に依るに足利義教の奉行なる遠江守季綱の糺明を受けたる時の証状とあれども、二十石と云ふ文字は更に無く天文二年同三年、享禄三年、寛永十四年同十八年の文書(其年代の下に引く)にも無く万治三年の検地に始めて弐拾石を明記せられしなり、左の文書正本野州小金井蓮行寺に在り。金井法花寺へ諸役宥免の儀実なり、惣別公方人指入り之有るべからず候、後日の為め一筆指置き申し候、仍て件の如し。
永享二年十一月五日              本間遠江守季綱在り判。
法花御坊エ。

 井出惣左御門判物、祖滅二百四十二年、日鎮上人の時今川家の被官より公事免除の証状正本総本山に在り。
大石寺門前の山公事の儀、余り御陀(わび)事に就き永く指置き申す処実なり、何様の子細候とも後日に於いて違乱申す間敷候、仍て後日の為に件の如し。
大永三年癸末九月九日            井出惣左衛門尉盛重在り判。
大石寺江。

 日鎮上人附弟状、祖滅二百四十六年、鎮師晩年(七十歳)に良王童を附弟として大石寺の後董とする置文なり、家中抄下には此より六年前に土佐吉奈図書助の子を以て附弟とするの状を載せて此を次の日院上人に充てあるも、今其文書存在せず却て本状の有るは或は精師の誤りか、何れにしても後判の方を確実とすべし、正本総山に在り。
態と一筆留め申し候、仍て良王殿の事幼少の御方に御座候、然りと雖も信心御志候て勢仁(成人か)致され候はゞ当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍て後日の為め件の如し。
大永六年九月五日                   日鎮在り判。
大石寺惣衆檀那御中。
今川寿桂尼諸役棟別等免除の朱印状、祖滅二百四十八年、日院上人代に国主氏親の後室、氏輝少年なるより一時国政を執りし時の朱印なり、但し此を始として朱印黒印判物と称する土地の免状に付いては徳川将軍代々のと共に返上して古新共に写本を残せるか。総本山に在り。
駿河の国富士郡うへ(上)野郷の内大石寺門前しよ(諸)やく(役)ならび(並)にむね(棟)べち(別)とう(等)の事。
右先年喬山(氏親)めん(免)きよ(許)のはん(判)ぎやう(形)をな(為)しをか(置)るゝところ(所)に他所にあづけ(預)しつ(失)きやく(却)と云云、し(子)さい(細)長池九郎左衛門尉親能しよ(書)状にまぎれ(紛)な(無)きゆへ(故)、つぎ(継)め(目)として申うけ(請)らるゝ間せん(先)れい(例)にまか(任)せて、もん(門)ぜん(前)むね(棟)べち(別)か(駕)ご(籠)ふ(普)しん(請)ざい(材)もく(木)とう(等)をもた(持)する人足、諸てん(天)やく(役)めん(免)きよ(許)をはん(畢)ぬ、竹木をきり(切)とり(採)或はせつ(殺)生或はらう(狼)ぜき(藉)い(違)らん(乱)のやから(族)あらば、はや(早)くちう(注)しん(進)のうへ(上)きう(糺)めい(明)あるべきものなり、仍て件の如し。
享禄弐年三月十九日(亨祿の二字にかけて角朱印あり)
大石寺

今川氏輝諸役棟別等免許の判物、祖滅二百五十一年、日院上人代新国主よりの判物にして前例を襲ふもの総本山に在り。
(折封上書)「大石寺  氏輝」
駿河の国富士郡上野郷の内大石寺門前諸役●に棟別等の事。
右、先年喬山免許判形成し置かるゝ処、他所に預け置き失却と云云、子細長池九郎左衛門尉親能の書状に紛れ無き故に領掌訖んぬ、者れば先例に任せ門前、棟別、加籠普請材木等人足以下天役免許畢んぬ、竹木切り取り或は殺生或は狼藉違乱の族有るに於いては、早く注進の上糺明有るべきものなり、仍て件の如し。
享禄五壬辰年六月廿日 氏輝在り判。
大石寺
稲葉右京進安堵状、祖滅二百四十九年、稲葉右京進より法華寺境域一円安堵の証状を下附す、右京進は或は結城党にして当時此地を進退せし人或は高朝なるか、正本蓮行寺に在り、但し法華堂又は法華寺と云ふは法華主義の古寺の通称にして蓮行寺の名称も天正比より始まりたるか。
金井宿屋敷法花寺の廟塔寺中の在所の事長く御計ひたるべし、別状無く存じ候へども以後の為の証文の状仍て件の如し。
享禄三庚寅二月五日 稲葉右京進在り判。
田はた御坊様へ。(田はた御坊未だ校へず)
了的諸公事免許状、祖滅二百五十二年、宇都宮に在りて此地を領せし塩谷(しほのや)氏の了的より寺主日通に附与したる状なり、正本蓮行寺にあり、但し寺記には「元」的とも訓みあれども文書は「了」に近し、系譜等に其名無し又寺帖には日通を明応三年寂とせり時代四十余の相違あり多分帖の誤りなるべし。
右、当寺の公事の事、了的さし(指)置き申し候、少しも届り申すべからず候、以後の為に自筆を以て申し候、恐々謹言。
天文二年十一月十二日 了的在り判。
形(刑)部阿闍梨御坊へ。
蓮行寺主日通置状、祖滅二百五十三年、領主塩谷殿より免除の安堵を得たるを機として後世安定の為に置文して寺家衆を誡めたるものなり、正本蓮行寺にあり、此状にも更に尊氏の延文の判物を云はず。
此の坊式の事は末代まで塩谷殿様の御舘より下され候間、諸同宿□□(等競か)望あるべからず候、之に就ついて信心強盛に当寺の庭香花懇にそな(供)へ申し行躰御はげみ(励)申すべく候、朝夜大切に御本尊守護申すべく候、仍て後日の為に一筆置き候。
霜月十一日    形(刑)部阿闍梨日通在り判。
第二僧俗譲状置文及び官憲文書等 形(刑)部阿闍梨日通在り判。
天文三年十二月十一日
今川氏輝薪取るべき判物、祖滅二百五十三年、今川家に属する大石寺附近の給士の持山に入りて薪を取る事を寄進するの状。
富士上方大石寺朝夕薪取るべき事。
右、諸給主の山において違乱無く之を取らすべし、無縁所たるに依つて新寄進として領掌せしめ訖ぬ者れば此旨を守り執行すべき所なり、仍て件の如し。
天文三甲午年二月廿七日 氏輝在り判。
大石寺
今川義元諸役棟別等免許判物、祖滅二百五十五年、義元の状、同前。
駿河の国富士郡上野郷の内大石寺門前諸役並に棟別等の事。
右、臨済寺殿(氏輝)判形の旨に任せ相違有るべからず、並に朝夕薪取るべき事、諸給主の山に於いて前々の如く違乱無く之を取るべし、篠頼敷津料の木山々諸役等之を停止す、無縁所たるに依て新寄進として自余に準ずべからざる者なり仍て件の如し。
天文五丙申年九月十一日 義元在り判。
大石寺
北条氏綱制札、以下解説を畧す。
大石寺
制礼。
右、当手軍勢甲乙人等濫妨狼籍の事、堅く之を停止せしめ了ぬ、若し違犯の族に於ては罪料に処すべき者なり、仍て件の如し。
天文六年二月廿一日 (氏綱の判)。
同上、同文、二月廿三日。
今川義元制礼
定(義元の判)
一、殺生禁断の事。
一、当寺門前に於て甲乙人等狼籍すべからざる事。
一、寺中の諸沙汰真俗共に速に裁許あるべき事。
一、権門の被官人と雖も檀那と号して寺中善悪の儀之を綺(いら)ふ事。
一、寺の郎従以下在家人等に至つては他より非道の儀申し懸くべからざる事。
一、門前を馬場と致すべからざる事。
一、門前え荷物を入れ押売り狼籍すべからざる事。
一、竹木切り取る事。
右、条々違犯の輩に於ては速に厳料に処すべき者なり、仍て件の如し。
天文拾壱壬寅年六月十二日
大石寺。
今川義元諸役棟別等免許の判物。
駿河の国富士上野郷の内大石寺門前諸役並に棟別拾壱間の事。
右、免許の旨先判に顕す所なり、但棟別の員数只今之を載す、岩本加籠普請の四分の一の事、訴訟を遂けらるゝ間領掌し了ぬ、雇と号し申付くべき儀之を停止せしめ、並に諸給主山の事、前々の如く無縁所たるの条其役に及ばず薪草之を取るべし、葺萱の事、是又同前免除せしむる者なり、仍て件の如し。
天文廿四、六月七日 治部大輔(義元の判)
今川義元大宮の役等免除の朱印状。
定(義元の如律令の円形朱印あり)
一、大宮の役たりとも雖も前無きの儀に就いては其沙汰に及ぶべからざるの事。
一、門前商置の物、諸役有るべからざる事。
一、門前に於いて前々に市之無き処、只今立つるの儀之を停止せしむる事。
右条々、新儀たるの儀堅く申し付くる所なり、若し違犯の輩に於ては注進に依り下知を加ふる者なり仍て件の如し。
天文廿四、六月七日
大石寺。
今川氏真棟別等諸役免除の判物。
駿河の国富士郡上野郷大石寺諸役免許の事。
一、門前の内棟別拾壱間、然りと雖も他所に於て役仕来る者引き越しの事之を停止すべし、並に四分の一押立等、当座雇と号する事、縦ひ自余の不入の者一返雇の儀有りと雖も、彼寺の事は無縁所たるの間永く之を免除する事。
一、諸給主山に於て薪秣並に葺萱等前々の如く篠頼敷津料諸役を停止し苅取るべき事。
一、寺家坊中屋敷の事、先例に任せ地頭代官の綺ひ有るべからざる事、竹木所望と号し濫りに截り取る事、縦ひ急用たりと雖も新寄進たるの上は一切伐り取るべからざる事。
一、諸勧進の者入るべからざる事。
右条々、林際寺殿(臨済寺氏輝)天沢寺殿(義元)判形の旨に任せ領掌の間永く相違有るべからず、若し違背の輩有るに於ては糺明の上重ねて下知を如ふべし、無縁所たるの間諸役を停止せしむる所なり、此の旨を守り修勤怠慢有るべからざるの状、件の如し。
永禄参庚甲年八月十七日 氏真在り判。
大石寺。
日院上人御聖筆授与の証状、祖滅二百八十三年、時の山主院師理鏡坊日典の功を賞して大聖人の御消息在御判もの一通を下与せるを法宝厳護の精神より後証を遺し給ふ正筆総本山にあり。
久成坊日悦御祗候の時子細候て愚僧一人して御前において御つゞら(葛籠)の内をおがみ(拝)申し御消息の御判御座候を一通理鏡坊日典え与へしむる者なり、御中居は二位阿(或は了性坊住日広か)御祗候の時、御判形十五通の内を一通与へ候へば十四通御座候、後日の為に此の如く一筆件の如し。
永録(禄)七年甲子七月廿四日 日院在り判。
北条氏政状、祖滅二百八十余年比。
(折封ウハ書)「大石寺  氏政。」
改年の祝儀として海苔到来珍重に候 恐々謹言。
正月廿四日 氏政在り判。
大石寺。
同上、 同文 (元亀三年)閏正月八日。
北条家臣石巻下野守状。
仰の如く新年の御慶賀申し旧り候と雖も尽くる期あるべからず候、仍て恒例の海苔百帖並に御書中何も届き申し候、則御報に及ばしめ候、然れば私へ御札海苔五帖御意に懸られ候、珍重の至に候万賀永日を期し候、恐々謹言。
二月六日 石巻下野守康保在り判。
大石寺尊報
北条家臣半田越前守状。
尊札の如く改年の御祝儀として河苔十帖芳名(茗)十袋参着、御芳情の至り目出度珍重一入此の一事に候、何事も当日御用等仰を蒙むるに至らば本望たるべく候、万端来音の時を期せしめ候条、恐惶敬白。
二月十二日 半田越前守政勝在り判。
大石寺参尊答。
此の両状は前の氏政代に添ふべきものにして半田状の当日云々の文句は氏政出駿の時なるべければ元亀二年なるべきか、戦国時代の大寺の経営思ふべし。
日主上人霊宝虫払の日記、祖滅二百九十二年、此等の記録数十有るべきも無意に散逸せしめしと見え今総本山に僅に数通在るのみ、又此分年代順に依らず此に一結しをく。
御筆(大聖人)数十二通、御筆の大本尊一包同く三包。
元亀四年癸八月十九日、御つゞら(葛籠)のうち(内)むし(虫)かい(干の義か)の人数の事。
当貫僧日主在り判、陰日院在り判、久成坊日悦在り判、寂日坊日誉在り判、御代(官)理鏡(坊)日順在り判、御中居積善坊日出在り判。
同上
天正八年七月七日
御直筆(大聖人)御判十五通、御正筆の本尊四包。
御つゞら(葛籠)のむしかい(虫払)人数。
当貫日主在り判、陰居日院在り判、寂日坊日誉在り判、久成坊日盛在り判、方寿坊日精在り判、真如坊日賢在り判、積善坊日出在り判、中居当(番)成円坊日慶在り判。
代々御判とも先日記の如し。
同上、一紙の内に連記あり。
御直判十五通、日主在り判。
但我等拝見の時は御直判九通なり、日宥(昌師の前名なり)在り判。
御直判合せて十七二、但し弐舗外に在り。
元和壬戌暦七月吉日 日就在り判。
武田家臣跡部勝資安堵状、祖滅二百九十三年か、日主上人御代なり。
駿州富士郡上野の郷大石寺中の事、住古の規矩に任せ四至勝(榜)爾境等、自今以後聊違乱有るべからず候、畢●寺家の修造仏法の興隆怠慢無き様御肝煎簡要に候、造営等の儀は上人の御作意を得て涯分馳走せしむべく候、恐々敬白。
(天正二年か)九月四日 跡部大炊勝資在り判。
大石寺玉床下。
武田勝頼安堵の判物、祖滅二百九十三年。
定、寺中の規矩並に法度以下、今河(川)義元同氏真の時の如く、自今巳後も聊相違有るべからず候、畢●寺家の修造仏法の興隆怠慢有るべからざる者なり、仍て件の如し。
天正二年甲戌九月十二日 勝頼在り判。
大石寺
清彦三郎井出甚之助連署の状、祖滅三百三年、日主上人時代に徳川家康の被官として駿河の政務を扱ひし両人よりのなり、殊に清彦三郎は河原口(富士那富丘村)の住人にして大石寺と要法寺の通用を謀りし人なり。
大石寺諸役の儀、並に普請以下、今度浜松に於て御披露申し上げ候処に何事も前々の如く御相違あるまじき旨、仰せ出され候条、自然是非の儀申す方御座候はゞ此方へ申さるべく候、恐々謹言。
(天正十二年)申三月十三日 井出甚之助正次在り判、清彦三郎徳長在り判。
大石寺同宿中。
小栗二右衛門手形、祖滅三百六年。
大石寺御門前。
与三郎、明善、坊善、彦左衛門、明久、清左衛門、三郎右衛門、勘六、孫右衛門、妙行、孫兵衛、以上拾壱人。
                                     右の拾壱間、御朱印の旨に候の間、引き申し候以上。
(天正十五年)丁亥三月廿三日             小二右(黒印在り)
大石寺参。
中村家臣木済手形、 祖滅三百九年比。
尚以て山林共に肝煎中少もあひ(相)かまひ(構)申し候間敷候、其の為め一筆此の如くに候、以上。
上野大石寺中其外門前の儀、公事の義と号し役儀申し付くる事一切無用にて候、若し又相替わる儀候の者は此方へ申し遣すべく候、巳上。
(天正十八年頃か)五月廿八日                木済在り判。
上野村縫殿助どの、善二郎どの、庄左衛門どの。
日昌上人、御相承受授の証状、祖滅三百十五年、天正十五年清彦三郎の仲介を以て日主上人と要山日●上人と世出同盟の約を結びて後、主師は小金井蓮行寺に行きて病みたる時、要山より招かれたる日昌上人は文禄五年に其約を果して大石寺の後董となるべき血脈相承を小金井にて受けられたる時の証文にして主師状は総本山に昌師状は蓮行寺に在り何れも正本なり。
今度直受(授)師弟の契約有るに就いて日興日目日道嫡々付法遺跡の事、日院よりの金口相承一字も残さず付属仕り候、残すに於ては釈迦多宝代々の罰を蒙むる者なり、依て件の如し。
(文禄五年か)八月卅日             宮内卿阿闍梨日主在り判。
伯耆阿闍梨日昌上人。
金井蓮行寺の仏前に於て嫡々の御相承、日主上人より請取り申す処実正明白なり、後日の為の証状件の如し。
文禄第五丙申天九月朔日                大石寺日昌在り判。
黒須野東光坊(今の磐城妙法寺)日敬寄進状、祖滅三百二十年、開山日興上人御筆の一部一巻の小経(法華経)を日敬感得して本山に納めたる状、総本山に在り。
彼の御経ふ(不)し(思)ぎ(議)を以て某尋ね申して衆檀那と談合申し候て御寺様の御住物に上げて候、彼の御経のすへ(末)に某上げ申し候と末代のためにあそばし給はるべく候、あらあらをそれをそれ(恐々)敬白。
慶長六年辛丑三月十三日           岩城黒須野東光坊日敬在り判。
同上、本山日昌上人の証判。
一部一巻の小経開山日興上人の御筆等と云云、不思議の義を以つて奥州岩城の内黒子(す)禰(ね)の東光坊日敬より納めらるるものなり、後日の為に記する所件の如し。
慶長七年壬寅七月廿八日                   日昌在り判。
日昌上人惣檀方へ状、祖滅三百二十年、主師の要山盟約殊に僧分輸入は在来寺衆の悦ぶ所とならず種々の紛情をも生じたりしが如し左の文書は其一半の史実なるべきを以て且らく此に列す、総本山に在り。
愚僧当山の堪忍成り難く候条々の事。
一、三箇年以前より衆中の心意悪口とも迷惑に御座候条退出致すべき覚悟に候事。右、別して悪僧等やゝも(動)すれば野心をかまへ(構)僧檀をふれ(触)まわり(廻)我等を擯出いたし先上(主師)を招くべき存念顕然に候、其の外何事を申し付け候とも一返二返にてはきゝ(聞)申されず候、然りと●も且は小事を大事に及ぼし当寺退転の儀迷惑なり、且は細(再)々貫首退転外聞如何に存じ候故、今迄は堪忍仕り候へども事かさな(重)れば是非に及ばず候。
一、然るべき御代官御中居御座無く候はゞ何時も世出共に調ひ難く候はん事。
右、衆中の口は過ぎ意は及ばざる故なり、口の過ぎと申すは惣じて万事の油断退転を貫首一人にかけて悪口するが故なり、意の及ばずとは万事闕如の事どもたすけ
(助)すゝめ(勧)て精を入るゝ人一人もなき(無)が故なり。
一、衆中毒心の事
一、諸番油断の事
一、不信懈怠の事
以上
慶長第六辛丑六月二日                    日昌在り判。
大石寺惣檀方衆中参。
日主上人遺物送り日記、祖滅三百三十六年、昌師も●後平穏に法務を●られ主師も小金井に老病を養はれしが、遂に其御入寂十三日前に数々の法具世具一切を昌師に送られたる日記、総本山に在り。
一、御しやう(消)そく(息)三色、 一、御本尊、三ふく(幅)、
一、御経 壱部、 一、御聖教 あり(有)のまゝ(儘)
御小袖の事。
一、小は(羽)ぶたい(二重) 二つ、 一、くち(朽)ば(葉) 一つ、
一、しら(白)あや(綾) 一つ、 一、かたびら(帷子) 一つ、
一、頭きん(巾) 一つ、 一、わた(綿)ぼう(帽)し(子) 一つ、
一、おび(帯) 一つ、 一、よる(夜)の物 一つ、 一、たび(足袋) 一つ一、ゆ(湯)かけ(掛) 一つ、 一、幡折敷二色づゝ、 一、そ(素)
けん(絹) 一具、一、りん(綸)す(子)のけ(袈)さ(裟) 一帖、
一、皆すい(水)しやう(晶) 一蓮(連)、 一、ねり(練)のけ(袈)   さ(裟) 一帖、
一、きん(金)のあふぎ(扇)
御金の事。
一、江戸判 拾両、 一、小きれ(切) 同三十壱文め、 一、甲州判 下金共に五文目。
以上
御道具の事。
一、とめ(留)こう(香)ろ(炉) 一つ、 一、香はし(箸) 一、硯箱筆すみ(墨)入れて、一つ、 一、茶べん(弁)とう(当) 一、廿四こう(孝)の
会(絵)何にもあり(有)のまゝ(儘)、 一、御定ぎ(規) 一具、一、小刀一つ。
以上七色
元和三年丁巳八月五日                    日主在り判。
日昌上人御中。
日盈上人の記文、祖滅三百五十二年、盈師の理境坊日義が御相承預りの功を以て上人号を贈る等の記文、及び此に附
帯する精師の記文等、総本山に在り。
此の御消息は大石寺一院理境坊式部阿闍梨日義、寛永十癸酉年九月十九日亥の刻病に臥し之を予に授けられ畢んぬ、               日盈在り判。
寺僧檀那孰れも見畢んぬ。                         同月廿一日巳の刻遷化、当三代の間劫(功)行不退殊に血脈相承等を預つて相伝せらるゝの条、他人に異るに依つて上人を贈り畢んぬ。
理境坊日義贈上人、日盈付属のご消息一幅御奉納の間筆を染むる者なり。
(寛永十三年)子の十月十四日                日精在り判。
日盈御消息一幅を以て日精預り候なり、仍て件の如し。月日前に同じ、
                            (精師の判あり)
岡田次郎右衛門等の諸役免除の状、祖滅三百五十六年、正本蓮行寺に在り。
金井村法花寺諸役宥免の儀、想(惣)別寺中へ公方人指し入り候義之有るべからず候、先々の如く別条無く候へども、以後の証文の為の状仍て件の如し。
寛永拾四年丁丑霜月十三日
           岡田次郎右衛門(黒印在り)、鈴木権兵衛(黒印在り)
金井村蓮行寺へ。
滝野四郎左衛門等の諸役免除の状、祖滅三百六十年、同前。
金井村法花寺諸役宥免の義、惣じて寺内え公界人指し入り候義之有るべからず候、先例の如く異儀無く候、後日の証文の為の状仍て件の如し。
寛永十八年巳五月三日
          滝野四郎左衛門(黒印在り)、今村杢右衛門(黒印在り)
蓮行寺え。
三浦志摩守より弐拾石寄附の状、祖滅三百七十九年、三浦志摩守新入国に付いて寺領の古証文判然たらざれども有り来りに任せて係りの役人より検地の上に寄附せられたる証文、蓮行寺にあり思ふに尊氏の判物は此より出発したるものにあらずや、此分年紀を越へたれども一連の状なるが故に茲に掲ぐ。
蓮行寺領
び(毘)しや(沙)もん(門)堂下田九畝三歩、 よまた(余又)下田壱反壱畑廿二歩、 ぬか(糠)丸下田壱反歩寺中上畠壱町壱畝二歩、 ふる(古)や(屋)
しき(敷)上畠弐反四畝廿二歩、 北うら(浦)下畠六畝十五歩、 北うら下畠壱反壱畝廿七歩、あか(赤)み(御)だう(堂)上畠壱反三畝廿二歩、 よまた上畠弐反六歩。
よまた上畠壱畝十八歩、 寺中山林〆
下田合弐反廿五歩、盛七つ此石高壱石四斗五升八合。
下々田合壱反歩 盛四つ此石高四斗。
上畠合壱町四反三畝四歩 盛八つ此石高壱石四斗五升一合。
下畠合壱反八畝拾弐歩 盛四つ此石高七斗三升六合。
寺中山林  此石高五石九斗五升五合。
五口高弐拾石。
右の寺領有り来りと●も古証文無きに就て分明ならざる処、今度検地の刻、村高の外打ち分け別帋目録相調べ之を寄附し申さるゝ所なり、仍て状件の如し。
                  三浦志摩守内
万治三年庚子九月廿日            井狩半左衛門(丸印有り)
                     九津美吉左衛門(丸印在り)
蓮行寺
日精上人の送荷の日記、 祖滅三百五十六年、寛永十三年盈師宮谷檀林より富士に帰ると●も病癒へず故に同十四年の春、精師江戸より晋山する時の手荷物の送り日記なり、総本山に在り、年月の記入無しと●も此を推定す。
物の本ども越し申し候覚。
一、三駄但一駄に付き三こり(合利)合九こり(合利)なり使可真宰相。
一、壱こり(合利)是は畳の表参り候時遣し候、 一、壱こり(合利)只今越し申し候。
以上惣合十一こりなり。
一、此帷子箱の内木香(瓜)宮殿の金物あり木香(瓜)宮殿ぬり(塗)出来申し候や此便に御申越し候事。
                         (精師の判あり)
経(敬又鏡)台院朱印下附依頼状、 祖滅三百五十六年、徳島藩祖夫人蜂須賀敬台院は入信以来大石本末の為に尽●せられしが、帰依する日精上人を本山に送り又朱印地と為さんの運動を三奉行に始められ猶大評定を利用して別して幕府の重役伊丹康勝に頼むの状なり、播磨守康勝の返書と共に総本山に在り。弐通同筆のやうなれば事件の当時蜂須賀家より写しこせしものか、但し状に年月の記入なきも史実に依つて茲に掲ぐ。
なほ(尚)なほ(尚)久しく文通も申し候はでか(斯)やう(様)なる御むつかしき(煩瑣)事どもたのみ(頼)申し候事ちか(近)比めん(面)ぼく(目)もなく(無)候へどもぜ(是)ひ(非)々々たのみ(頼)ぞん(存)じ候なをなを□□。其後は久しく申し入れず候てぶ(無)さ(沙)た(汰)申し候、御そく(息)
さい(災)の事うけ給り候てめ(目)で(出)度ぞん(存)じ候、さ(然)
やう(様)に候へば御むつかしき(煩)事申しかね(難)候へども、御存じ候ごとく(如)ぢ(寺)しや(社)かた(方)へ御代がわり(替)の御しゆ(朱)
ゐん(印)出で申し候につき、ふ(富)じ(士)の大石寺の事此人ぞん(存)じのごとく(如)勝(せう)五郎勝(せう)三郎はゝ(母)のはか(墓)所の事、つぎ(次)には我身ぼ(菩)だい(提)所の事に候まゝ(儘)ひとへ(偏)にそ(其)もじさまを頼み申し候、やがて大寄相(合)御ざ(座)候由うけ給りおよび(及)まいらせ候、その(其)時分そもじ(其方)さまも御ことば(言語)をそへ(添)られ候てくださるべく候、ふ(富)じ(士)五箇寺のしよ(諸)ぢ(寺)へもかまい(構)申さず候。
此てら(寺)の御しゆ(朱)ゐん(印)の事は勝五郎かた(方)よりぢ(寺)
しや(社)ぶ(奉)ぎやう(行)の三ぶ(奉)ぎやう(行)衆へもあら(荒)
お(尾)し(志)ま(摩)のかみ(守)をもつて(以)御ことはり(理由)を申し入れ候、此たび(度)の御しゆ(朱)ゐん(印)の事は勝五郎勝三郎御そ(訴)
せう(訟)申しあげ候御事に候まゝ(儘)庵寺の引べつには成り申さず候、
御ろう(老)中の御取なし(成)をもつ(以)てちやう(頂)だい(戴)申したき御しゆ(朱)ゐん(印)の事に候まゝ、この(此)すぢ(筋)め(目)の事
よく(能)御きゝ(聞)わけ(別)候て大より(寄)相(合)の所にて
そもじ(其方)さま御ことば(言語)をそへ(添)られ御きも(肝)入り候て給はるべく候、ひとへ(偏)にたのみ(頼)申し候、くわしき(委)事は此の人ゑ
こう(口)じやう(上)にて申し候まゝよく(能)御きゝ(聞)わけ(別)候て
かど(条理)のつき(付)候やうにたのみ(頼)申し候。
こと(殊)に来年(寛永十五年)は勝五郎(光仲)のはゝ(母)(芳春院)の
七年き(忌)に御ざ候まゝぜ(是)ひ(非)々々たのみ(頼)申し候、此の御
しゆ(朱)ゐん(印)の事大石寺に下され候御しゆ(朱)ゐん(印)にては候はまじ、勝五郎御そ(訴)せう(訟)申しあげ(上)候て勝五郎ちやう(頂)だい
(戴)申し候御しゆ(朱)ゐん(印)の事にて候まゝしよ(諸)ぢ(寺)には構ひ申さず、さ(然)やう(様)に御心得候てくだ(下)されべく候、め(目)でたくかしく(畏)
とめ□□□九日                          □
い(伊)たみ(丹)はり(播)ま(磨)様            経台院。
     □□□□□
伊丹播磨守の返状
なほ(猶)々々大石寺御朱ゐん(印)の事寺よりはよ(世)のなみ(並)も候まゝ仰られず候、勝五さま勝三さまより御訴訟仰あられ御ちやう(頂)だい(戴)なされたきよし御尤に候、こと(殊)に来正月日かう(香)さま七ねん(年)き(忌)にて御座候へば其の御心ざし(志)にも御ちやう(頂)だい(戴)なされたきよし御よ(余)ぎ(儀)な(無)く候、ぢ(寺)しや(社)奉行衆三人もぢよ(如)
さい(才)にぞん(存)ぜられまじく候へども、今ほど上様御心も御むつかしき
(煩悩)時分にて候へば、さしあたる(緊急)御用の事もとゝのひ(調)かね
(難)申し候、御き(機)げん(嫌)次第御とし(年)寄衆御意を得らるべく候、勝五さま勝三さま御そ(訴)しやう(訟)にて候まゝさだめ(定)てすぐ(直)に申すべく候、御ふみ(文)御おぼへ(覚)書御口上にも仰くだ(下)され候おもむき(趣)すこし(少)もすこしもしつ(失)ねん(念)なく大寄合の時分おのおの(各)へこまごま(細)と申すべく候、めでたくかしく。
さまざま(様々)と御ふみ(文)くだ(下)され、かたじけなく(忝)はい(拝)けん(見)いたし候、仰のごとく(如)その(其)のち(後)は久々御見まい
(廻)申さず、めい(迷)わく(惑)つかまつり(仕)候、さ(然)やう(様)候へば御代がわり(替)の御朱印出で申し候につき、ふ(富)じ(士)大石寺御朱ゐん(印)の事勝五様庄(勝)三様御袋(母)さまの御はか(墓)所つぎ(次)にはそもじ(其方)さま御ぼ(菩)だい(提)所の事に候まゝ御きも(肝)入せられ候由御尤に候。
大石寺の事権現様(家康)も御ぞん(存)じなされ候御やう(様)す(子)御一つ書にてくわしく(委曲)仰こさ(越)れ候、内々右のやう(様)す(子)うけたまはり(承)および(及)候、御とし(年)より(寄)衆ぢ(寺)しや(社)かた
(方)三人の奉行衆へも仰られ候へば大寄合ば(場)にて御だん(談)がう(合)有るべきよし其折ふし(節)わが(我)身などもきも(肝)いり(煎)申し候やうにと仰くださ(下)れ候、すこしも(少)すこしも御ぶ(不)さ(沙)た(汰)にぞん
(存)ぜず候、松平右衛門(右衛門佐正綱)かた(方)へもだん(談)がう(合)いたしよき(宜)やう(様)におのおの(各)へずい(随)ぶん(分)申すべく候くわしく(委曲)はかさね(重)て申すべく候、かしく。
経台院さま         い(伊)たみ(丹)はり(播)ま(磨)守。
御返事□□□御中。
敬台院妙法日詔より大石寺衆檀へ状、祖滅三百五十七年、法詔寺より精師を晋山せしめ永代総本山の後見せんとの意にて、大石寺衆檀より後住は法詔寺より迎ふるの請書を出さしめ、其返礼に七百余両を提供して総本山方丈の維持を謀られし文書なり、共に正本総本山に存す、又一万余金を以て今の大御堂等を新築せられたるは後年の事なり。

惣名代として善立坊与五右衛門(狩宿井出)一郎右衛門下らるゝに付いて最前忠右衛門(家臣斎藤)に申し登せ候、大石寺後住の所法詔寺(浅草鳥越の邸内に在り)より永代継ぎ申し候すぢ(筋)め(目)に相定められ候書付此の度右両三人持参致し慥に請取申し候、其に付いて此の方よりも重物の金子弐色の通り書付け越し申候此の書付の通り具に披見致され候て則此の書付をば檀那中の手前に指置かるべく候当年迄五百両の金子の所、四月より借(貸)し□置き申し候、来年三月の返弁の所にて候間其時本利共に寺家檀那中へ相渡し申すべく候間、利分の所は大石寺く
(厨)り(裡)の賄の方に当主の上人へ相渡され本分の所は来年より寺檀那中の才覚を以て借(貸)し候て、此の書付のとをり(通)年々永代代々の上人達へ相渡されく(厨)り(裡)の続く様に才覚専一に候、此の度大石寺の後住の相定の筋目の通り書付給ひ候其の祝儀計りに惣中へ樽代として其元に御入り候寺家檀那中に銀子弐枚参らせ候、態と祝儀計りに候、委くは両三人申さるべく候、恐々謹言。
(寛永十五年)六月廿四日            日詔(黒丸印在り)。
大石寺寺家檀那中。
大石寺重物に渡す金子の事。
一金子五百両、 是は大石寺代々の上人達の賄方本金に相渡し申し候、此の金子寺家檀那中の才覚として借(貸)し置き利足分を毎年取り立て当主の上人え指上げられくり(厨裡)の続き候様に致さるべきなり。
一金子弐百四拾壱両、 是は大石寺かや(萱)ふき(葺)替へのために檀那中に預け借(貸)し米に成申し候だん(檀)な(那)中の預り手形の儀は此の度与五右衛門、一郎右衛門持参いたし手前へ請取り置き候者なり。
右の通り金子米の所檀那中とゞこをり(滞)な(無)く取立てらるべき者なり、後日の為に件の如し。
寛永拾五年つちのへ(戊)とら(寅)六月廿四日  鏡台院、日詔(黒丸印あり)大石寺、 寺家檀那中。
敬台院日詔状  祖滅三百五十九年比 敬台院は精師の山持ぶりに慊たらず此が排斥に出でたれども寺檀の動揺を案じて遂に精師の本尊を本山衆檀に返却して公然改易を謀るのみならず、晋山当時兼務の儘の法詔寺にも一命に●けて精師を拒絶し其寺什宝を目録に依て受渡しすべしと主張せり、尚大石寺々格昇進の願が叶へる悦びを述べあり。
今度忠右衛門遣し申し候書付の趣き衆檀中具に拝見にて其に付き惣代としてかくげん越され候に状委く給り満足申し候、付いては今度の儀に付き其地衆檀中以来迄も我等事大石寺檀那相違有るまじくいな(否)や各々の心中をあやぶみ(危)候て忠右衛門に越し申し候書付の内にも相のせ(載)口上にも委く申し越し候処に、寺檀那中の申され候様委く承り誠にこ(古)らひ(来)よりの檀那衆中にて御入候故に仏法をたい(大)せつ(切)に存ぜらるゝに付き寺そう(相)ぞく(続)のため存ぜられ候て、我等事も今迄別儀なき心中のとをり(通)委く承り一入(ひとしほ)しゆ(殊)せう(勝)さあり(有)がたく(難)思ひ申し候、其に随ひ候てはゑい(永)たい(代)大石寺の上人の儀法詔寺よりすゑ(据)申し候はずの筋目に相定められ衆檀中共に此の趣き少も相違無き通り此の度かくげんに給り候状に仰せ越し候、一入一入ありがたさ申す計り無く候、其元埓明次第に衆中の内壱人檀那中のそう (惣)名代として弐三人程も下られ候て右の後住の定めの書付のとをり(通)我等方へ給り候はんの由満足申し候、先づそれ(其)まで(迄)の手じるし(印)には此度かくげんに給り候状を手形と思ひ置き候様にと承り候心得申し候、何時にても其元埓明次第下らるべく候、それ(其)迄は此度の御状を手じるし(印)に持ち候て居候事に候の間其元指切りたる埓人の事も自然こゝ(此所)少しの間おそく(遅)候てもくるし(苦)からず候。
一、此度登せ申し候まん(漫)だ(荼)ら(羅)一ふく(幅)是は日情(精)筆にて御入候最前ちうんばうに帰し度候つれども其元衆檀中の返事の通もしら(知)ず我等方より此のまん(漫)だ(荼)ら(羅)帰し申し候はゞ何ものさげずみ
(測定)には日かう(興)もん(門)と(徒)ら(等)のさ(作)ほう(法)くはん(貫)じゆ(首)のさ(作)ほう(法)にて法を見かぎり(限)我等いつ(一)ち(致)にも成りかはり(替)申すか、また(又)はあく(悪)がう(業)にひか(引)れに(●)ぜん(前)しう(宗)にもたち(立)かへり(帰)申し候かとうたがわ(疑)れ候はんはひつ(必)じやう(定)にて候はんと思ひ、忠右衛門帰り候て其元よりの返事の様子にて帰し候はんと思ひ今一度はち(智)うんばう(房)に延引申し候へども、今度忠右衛門に名々申され候通りの口上、又かくげんに給り候状中にて我等心中も名々の心中もうたがは(疑)敷も思はず候に付き、弥々あく(悪)ま(魔)げ(外)だう(道)のま(魔)わう(王)を仏の御はからひ(計)にてことごとく(悉)打はらひ、是さき(先)ゑは内外とも一筋にしん(信)ぢん(心)はげま(励)しだう(道)しん(心)もふかく(深)く成り申し候様にとをもひ(思)候て、我等ぢ(持)ぶつ(仏)だう(堂)にはかい(開)さん(山)様のまん(漫)だ(荼)ら(羅)をかけ(掛)置申し候、此(精師筆)まん(漫)だ(荼)ら(羅)は見申す度毎にあく(悪)しん(心)もまし(増)候まゝ衆中の内に帰し候、何とめされ候とも其方達次第に候、其御心へ(得)有るべく候。
一、かくげんにも口上にて申し候通り法詔寺の寺につき(附)申し候諸道具其外後住の寺に付けられ候小遣の金銀の通りの書付、衆檀中此度くだられ(下)候刻彼仁より請取候て持参致さるべく候、尤世見(間)の寺のいん(隠)きよ(居)のさ
(作)ほう(法)のごとく(如)後じう(住)の刻、檀那とも物言ひ事もなく
(無)世見(間)なみ(並)にありあり□□けつ(結)こう(構)のさ(作)ほう(法)にて渡され候寺の事にて候はゞ檀那よりか(斯)やう(様)のさばくり
(計)もかまひ(構)申すはずにてはな(無)く候へども、此度法詔寺のいん
(隠)きよ(居)の事は世見(間)なみ(並)とはかく(格)別成る事に候故、其時か(斯)やう(様)に申し候、左(然)様に付いては法詔寺後住の方へいん
(隠)きよ(居)より渡され候書付にては候はず候、後住は何時くだら(下)れ候はんも知らず候まゝ寺へつき(附)申し候諸道具の書付のとをり(通)は法詔寺の住寺(持)は日詔にて候まゝ寺につき(附)申し候諸道具の書付の通りは日詔請取申し候はんまゝ、其方達くだられ候刻其書付を持参致さるべく候恐々謹言。
(寛永十七年か)六月十二日             日詔(丸印在り)
大石寺衆檀中へ
一、また申し候忠右衛門に口上にて申し越され候とをり(通)は(の)つゞき
(続)にて候、ともあれ一たん(旦)法詔寺後じう(住)成の刻かの(彼)仁(精師か)此寺にくだられ(下)候ては世見(間)の外聞もよく(能)候はん□□、成る成らず何ものそ(訴)せう(訟)の通り仰せ越し候、そこ(其処)の処は我等心中のとをり(通)をなに□の□たうたうちうん(房)ぢき(直)と見きゝ(聞)の事に候間、我等生□(涯)の内の事は申すに及ばず我等はて(果)申し候以後も我等一もん(門)ども生き残り候てい(居)申し候内は、彼仁生□(涯)の間我等の寺に足ぶみ(踏)させ申す事はたとへ(仮令)ば御こう(公)ぎ(儀)より一もん(門)のものども御手打に成され候とも覚悟に及ばさる事に候、五月二日に物にくらいいてに候てこれ(此)が今生のいとま(暇)ごひ(乞)にて候間重ねては申され候事無用に候、御こう(公)ぎ(儀)のことを書添へ申し候上は日本にては此あつかい(扱)に入り申す物は無く候以上。
又々其寺々かく(格)等ねがい(願)の通り成じゆ(就)いたし悦び入り候、き
(寄)しん(進)のはこ(箱)あじろ(網代駕籠)まつ(末)代の寺かく(格)にも相成り候、念を入れられ忠右衛門への口上悦び入り候、以上。
蜂須賀家臣斎藤忠右衛門等状、 粗滅三百五十九年比、敬台院の命を受けて斎藤武知の両臣が細密懇切に大石寺を護持するの件々此の状に溢れたり、宝物厳護の為に宝蔵番の僧員を増すべき事宝物の出納を大事にする事、什物の法衣の扱を大事にして缺損無きやう注意する事、惣て什物は永遠に寺附き常住物、住職は交代のものなれば什物宝物を大事に扱ふ事、住職によりては缺損の什物を補充して不都合なからしむる仁もあるが、多くは什宝を売却して私慾にふけるもあり、宝物は当番交代の彼岸盆、会式前と三度に改めて受渡を為すべく虫払の日は七月の初に定めて準備を怠らぬやう等数々の注意が為されてある其文の底には暗に精師の住職として物質的扱ひぶりの不満が洩らされてるやうで、能所の性格の相違や周囲の人々の感情も加はつて居るものと見ゆる。
学優(日感)様法詔寺へ後住に御なをり(直)候為め御祝儀各々何も衆檀中より御使僧遣はされ候に付き、日詔様へも右の御手作の茶遣はされ候別して御満足の由に御座候、●元法詔寺後住はなをり(移)候て弥々さん(参)けい(詣)も多く寺中にぎやか(賑)に御座候間御心安かるべきの由仰せられ候。
一、ちうんばう(房)此の地へ御下り候様にと最前仰せ遣はされ候へば京都より御きやう(経)つくゑ(机)参らず候由にて、此の度も御下り之無く候、三門の儀に御用も御座候別成る儀にも是無く候、たう(塔)ひきく(低)候て三もん(門)たか(高)く候へば見なり(形)もあしく(悪)候はん、左(然)様の儀に御よび候間此の状届き次第ちうんばう(房)御下り候て此の方よりちうんばう(房)其御地へ御帰りまでは三門のき板も御触れ成さるべく候。
当地法詔寺檀那衆の名書御下候様にとちうんばう(房)まで度々仰せ遣はされ候へば拾人計りならで之無き由にて書付参らず候、主膳がい(射)手のには(庭)
こ(子)檀那はいく(幾)たり(人)にても法詔寺の檀那に候、御はつし□候へども其外しん(信)じん(心)の檀那百人も御座有るべく候、此の由彼方へ御申し候て書付取られ候てちうんばう(房)に御越成さるべくの旨仰られ候。
一、其御地御重物に成し置かれ候そ(素)けん(絹)け(袈)さ(裟)白小袖帯なども各々御あらため(改)候て何色の物何ほど(程)不足御座候由御申し越し成さるべく候、そ(素)けん(絹)け(袈)さ(裟)などは此の方ご(呉)ふく(服)や(屋)にて仰せ付けられ候間たとへ(仮令)御わきまゑ(弁)候とも其ごとく
(如)の地色にてなく(無)候へばつい(対)致さず候、其ことの地いろ(色)に此の方にて仰せ付けられ候はん間代物の所は日情(精)重物の内御取り候事に候間御出し候様に成さるべく御仰せ候。一、御ほう(宝)ざう(蔵)の御番の御出家衆は五人にて御座候由御聞成され候がむし(虫)ぼし(干)など御座候とてもいつ(一)かど(廉)の儀に御座候に、今五人も御くわゑ(加)成されたく御思召し候へば御出家衆も之無き様に御座候へば其儀なく(無)候、各々打より(集)候て万事御取出し成され候や様子重ねて御申越成さるべく候、かく(斯)か様に仰せられ候もこれ(是)さき
(先)にたう(当)しゆ(主)のまゝ(儘)に重物ものは成されまじく候、重物は寺につき(附)申し候物にて候、住寺(持)は替り物にて候そう(惣)じて住寺の心により重物ものなどの不足の所は一色もたし(足)候て置き候も御入候、たう
(当)しゆ(主)の様に重物ものの内ぬすみ(盗)こ(沽)きやく(却)するも御入候間かならず代々のたう(当)しゆ(主)のまゝ(儘)に御させ(為)有るまじき由かたく(堅)仰せられ候間、左(然)様に御心得成さるべく候、是先へは御番の出家衆替りの時よく(能)御あらため(改)候様に成さるべく候、二月ひ(彼)がん(岸)前に一度ぼん(盆)前に一度絵(会)式前に一度年に三度苑御ほう
(宝)ざう(蔵)の内諸道具迄もあらため(改)七月は七か日より内に日を定め候てむし(虫)ぼし(干)をいたし申し候様にかならず物ごと(事)手置専一に候、是さき(先)大石寺能き檀那もいで(出)き(来)仏前の道具もき(寄)しん
(進)致され候程の檀那いで(出)き(来)申すまでははた(幡)打敷なども色もかわ(変)らず候様に御申し付け成さるべく候、たゞ(唯)入物の中にばかり
(計)御置き候ては御用に立たず候、去年其元へ遣はされ候御はた(幡)のむし
(虫)ぼし(干)も当年成され候や。
一、此方より遣はされ候蒔絵の道具などもほごれ(解)候時はいづれ(何)も打より(集)候て日記と御引合せ候て大事に御かけ成さるべく候、重物ものは御ほとけ(仏)の物に御座候間、大事に成さるべく候由御定に御座候。
委く申したく候へども御屋敷作事半にて御座候間ちうんぼう(房)にくはし(委)く仰せ遣はさるべく候、恐惶謹言
(寛永十七年比)八月二日                         大石寺衆檀中御返事。
              斎藤忠右衛門在り判。武知又左衛門在り判。
法詔寺日感状、 祖滅三百六十一年、舜師晋山の翌年敬台院の懇志を取り次げる添へ状なり、猶舜師晋山について学優日感より檀方井出与五右衛門等へ送りし状は続家中抄舜師伝の下にあり此は総本山に在り、本状は下之坊に在り。富士山大石寺永代相続として松平阿波守殿(忠英)御母儀敬台院日詔尼より金子百両御寄附の所実正なり、衆徒惣檀心肝を砕かれ百金損亡無く田畠等の開闢を催し永代断絶無く仏法興立の励を謀らん事希ふ者なり、縦ひ何等の事出来に於ても此面より壱紙半銭取り返す儀曽て以て有るまじく候、歳々々々広宣流布の資糧たるべき者なり、仍て件の如し。
寛永十九壬午八月十五日              法詔寺日感在り判。
当貫主日舜上人閣下
時の代官蓮東坊日□□□、時の納所慈雲坊日□□□、其外衆徒中。
井出与五右衛門殿、同長吉殿、佐野三郎右衛門殿、同文十郎殿、石川藤左衛門殿、同彦兵衛殿。
堀山城守状、祖滅四百廿九年、天英院殿附用人堀正勝より将軍家独礼席式了の賀状なり、新写本雪山文庫に在り。
一、兼て願上られ候今六日独礼の席に於て御礼申し上たしとの旨、併ら数年中絶に及び寺社奉行衆取り上げ申されず、然れども貴僧儀は御台所
(六代将軍御台所常姫)より若年の時分より御取立の出家、今又大石寺上人に入院の儀も思召に依り右の仕合せ、彼是御由諸独礼の儀間部越前守迄仰せ出され御老中へ右の旨申し渡され候、之に依つて独礼の席に於て御礼相済み候事一寺の規模一宗の手柄に存じ候、右の旨御台所にも御気色の御事にて思召上候、御礼の旨宜く御沙汰申し上ぐべく候、恐々謹言。
(宝永七年)正月六日              堀山城守正勝在り判。
大石寺日宥上人
石川摂津守状、 祖滅四百廿九年、幕臣にして常泉寺の信徒たりし石川盛行が境内足し地、新朱印三十石下附の報知旁の返状なり、新写本雪山文庫に在り。
(上封書)「常泉寺様御報  石川摂津守盛行」貴礼拝見致し候、仰の如く寒気甚しく候弥御別事無く御勤成され珍重の御事に存じ奉り候、然れば兼日御願ひの通り境内御足し地御寺領共に御拝領の段重畳の御事に存じ候、御念を入れられ御知らせ候、委細貴面の時を期し候、恐々謹言。
(宝永七年)十一月廿八日                盛行在り判。
日宥上人和泉阿日義の上号免状、 祖滅四百三十五年、学頭貫首の外に上人号なし特例なるが故に掲ぐ、新写本雪山文庫に在り。
補任、南無妙法蓮華経、 末流常泉寺九世和泉阿闍梨比丘
上の祈願怠り無く(六代家宣将軍)殊に先々に越え堂建立並に寺領境内等の働き之在(有)り、右の勳功に依り褒美の為に上号を授与し。宜く日義上人に補任すべき者なり。
正徳六丙申年三月日              本山廿五代日宥在り判。
日寛上人より日養上人請待状、 祖滅四百三十九年、先約三年交代に依つて晋山を請はれしなり此例も少し、正本総本山に在り。
尚々常在寺後住の儀は寺檀一同の御望み次第にて評議を遂ぐべく候、少しも御気遣ひ成さるまじく候、以上。
我等事老後病身寺役務め難く候条、今度退院せしめ候、然れば則去々年の春の比、段々御約諾の通り疾くに御入院成され候て法灯相続の儀頼み入り存じ候、委細久成坊申し展ぶべく候条多筆に能はず候、恐々謹言。
(享保五年)正月晦日             学頭蓮蔵坊日寛在り判。
常在院広宣院師(日養上人)御同宿中。
本山塔中行本坊等連名状、祖滅四百五十七年、経道院(因師)を学頭職に任命願の状中田真光寺に写本在り。恐れ乍ら願書を以て申し上げ候事。
一、御隠居日東師御遷化遊ばされ候、御書御講談廃退に及び衆徒の歎き之に過ぎずと存じ奉り候、之に依て経道院師塚崎(本城寺)建立御止め遊ばされ学頭職仰せ付けさせられ候はゞ有り難く存じ奉るべく候、仍て惣名代行本坊を以て斯の如く申し上げ候、以上。
(元文三年)午正月十一日                                     行本坊、要行坊、観行坊、久成坊、寂日坊隠居。
日忠御上人師。
日寛上人御遣書状、祖滅四百四十五年、日寛上人の業功数ふべからず、左の三通は別して永遠の文書なるが故に茲に掲ぐ、塔供養の分は正本総本山に在り、戒壇基金及び貫主月並金の分は写本雪山文庫に在り。
覚。
一、金五拾両、 塔供養、 塔御普請始り候年より御約束の通り五年の間に米にて清五郎左衛門方より差上げ申すべく候、以上。
享保十一丙午年六月                   日寛在り判。
覚。
一、金子二百両、 但八百粒なり、 右は日寛が筆のさき(先)よりふり(降)候御本尊の文字なり、今度是を三宝に供養し奉り永く寺附の金子と相定め候畢んぬ、され(然)ば御本尊の文字変じてこ(黄)がね(金)とならせ給へば此のこがね
(黄金)変じて御本尊とならせたまふ時此の金を遣ふべし、さ(然)なき(無)時堅く遣ふべからず、後代の弟子檀那此の旨相守らるべきなり。         享保十一丙午年六月十八日                   日寛。
老僧中、檀頭中。
覚。
一、金子百両、 但古金なり。 右の金子は日寛至極丹情(精)の金子なり、朝夕麁食麁衣にして万事倹約を加へ古金百両となし、此の金子を後代の住職入院の砌り請取りて用達せしめ在住の内月々五両三両づゝ用蔵に入れ置けるを退院の砌り相渡し、此の如く永々住職の仁繰廻し用達せしめんため丹情(精)を以て残し置き候処なり。
享保十一丙午年六月十八日                日寛在り判。
後々住職中。
天英院御用人の状、 祖滅四百六十年、天英院薨去に付き遺言を以て常泉寺に数々の下賜品あり其内法宝に関する文書二通を掲ぐ、何れも東京大震災に焼失せる文書の内にて日喜筆の由緒書翰控の中に在り、其係り役人と寺と日附とを畧しあるが、時の御用人は酒井安芸守、堀因幡守、岡部五郎兵衞の三人にて或は岡部五郎丘衛より出せるものか、其転写本雪山文庫に在り。
一、天英院様御持仏之有り候御本尊仏(大聖人木像)且亦応円満院殿無上法院
(級宮常子内親王)予楽院殿(近衛基●)妙教殿(妙敬日信豊姫)本乗院殿(斎宮御方)如是観院殿御位牌常泉寺え遣はさるべき由、天英院様思召に付き遣はされ候之に依て御金百両下され候、公儀より一切御構は之無く候間其以後之を存ずべく候以上。                       (寛保元年)三月
一、天英院様御所持遊ばされ候、日蓮真筆の曼陀羅(仙師授与)一幅此度遣はされ候間、随分大切に仕り寺の什物に仕り毎年二月十五日十六日廿八日、七月十六日
十七日、十月十三日十四日十五日、右の通掛け置き参詣の者ども拝ませ申すべく候(寛保元年)四月
日東上人写、 祖滅四百五十六年比、写本真光寺に在り、原書何人の記なりやを知らざれども且らく茲に掲げて参校に供す。
西山本門寺書き物の写し清戸右衛門より写し置く者なり、上野大坊廿九世閑居石之坊日東在り判。
御当家権現様の御朱印と大内安浄の証文と元禄十六癸末十一月大地震の時西山日意住職の時山論出入の砌り出府の折節相州小田原にて焼失せしむるの趣承知、然る処今川義忠寺内寄進証文のみ一通残る子細疑はしき事と評判するなり是一、文言微細領主の証文には其例全之無き事是二、又日心上人様参当主是又大名に多分之無き事是三、併ら真偽末決か惣じて西山は之に限らず多く疑はしき事ども余多之有り偏に誑惑の僻見多端なるか。
一、朱印三通、大内安浄寄附証文の写し本書小田原にて焼失に及ぶの旨他処に之無きや、疑はしき事なり云云。
寄進し奉る筆記、 富士山本門寺の事、開山日興上人は(中略)未来永々大内願力以て件の如し。
康永三甲甲年十月十三日               大内安浄在り判。
日代上人参。
右の本は小田原にて焼失仕り候なり。
き(寄)しん(進)申候、駿河国富士上方西山本門寺に付置く山の事、合壱所
(中略)尺地をのこさ(残)ず義忠ながく(永)き(寄)しん(進)したてまつる所なり、仍てき(寄)しん(進)状件の如し。義忠判
日心上人参。
定、 一、駿州富士郡(中略)仍て件の如し。
天正元年癸酉十二月廿六日                   勝頼判
富士郡本門寺。
右古記の通写し置く処なり。
板倉勝澄志願書、 祖滅四百六十七年、板倉の宗家周坊守源承日明は鏡台院天英院以来の強信者(大名として)なり、左の願文本所妙縁寺什日有上人御筆御本尊の裏書に在りと同寺の記録にあり。
寅(延享三年)の五月廿九日三種勤行し一大願成就言上の折誓し奉る、所謂今板倉本家に大法安住し奉れば門葉の欲人●曲の臣人必ず敵となる、然りと●も妙法誹謗の愚人滅亡せずと云ふ事無し、故に大願成就の時自行首題の数是一、大杉山(有明寺)御田地金三百両を以て求め納め奉る是二、大杉山石体銘塔を建立し永代正法への忠を残し奉らん為め是三、辰(延享五年)三月まで追々成就し奉る者なり。
又御本尊感得し奉る御表具奉仕毎年九月廿九日日明一世の内妙円(縁)寺に於て御説法修行し畢んぬ。
時に延享五戊辰三月十五日                板倉氏日明。
                                     (#07・068)

板倉勝澄奉納目録、祖滅四百八十四年、源承日明の特志が大に与りて五重塔成る塔下に神座堂等を設く、此目録に又大杉山へ三百金あり前の延享のを距る十七年なれば更に又懇志を運ばれしと見ゆ、然るに今大杉山には一人を支ふるの田畠なし護持の難なつかしき事言語の外なり、此文書総本山に在り。
覚。
本門宝塔、千金、資縁惣衆、二百金、大杉山へ、三百金、正五九月祈料、三百金、都合千八百両。
右目録御宝蔵に納め奉り置く者なり。
明和二乙酉太歳六月八日  周防守事板倉源承(黒角印在り)。
取次遠妙院殿(穏師学頭時代)。
日純上人血脈相承賀詞、祖滅五百十五年、総本山に在り。
謹み敬つて之を賀し奉る、 日純。
問うて曰く当山に相伝する処に於て唯受(授)一人の大秘法は開祖巳来惣じて丑寅の夜半にのみ之を相承せしむる其の謂れ如何、答ふ云云、重ねて請ふ、示して曰く。
よろず(づ)(万)よ(代)の、やみ(闇)をてらせ(照)る、み(御)のり(法)とて、そもうし(丑)とら(寅)に、つたえ(伝)こそすれ。
時に寛政第八丙辰十月二日の暁天丑寅の中間に成弁す。 三十九世日純在り判。
当山四十二世現職日厳御上人に之を呈す。
日調上人相承案内状、祖滅五百三十三年、旧時代々血脈相承の案内書の一なり、総本山に在り。
手紙を以て御意を得候、一昨日寂日坊え内々申し入れ置き候定て申上ぐべきと存じ奉り候、明日吉辰に付き当山の御大事御渡し申し度存じ奉り候、夫れに就て差したる儀も御座無く候へども後刻麁茶進上申し度存じ奉り候、尤時刻御案内申し上ぐべく候、早々以上。
(文化十一年四月) 石之坊日調在り判。
日珠御上人尊師尊下。
二の二、妙本寺久遠寺本末の分。
妙本寺創草地の証状、祖滅五十七年、宰相阿闍梨日郷上人建武二年の秋大石寺の蓮蔵坊を退出し旧縁の地なる安房国吉浜村の中谷に法華堂を建てたり、年代不明なれども建武五年二月五日の法式五箇条と云ひ、此の鎌倉管領の判物の日付と云ひ、同年五月五日の大石寺東坊を南条時綱より寄進を受けたる事と云ひ恐らく建武五年あが後の妙本寺の創立の年なるべし、此の袖判状の同時代の写本妙本寺に在り。猶妙本寺古文書は二百余通あり編入に苦しみ一部を記するのみ。
袖判。
安房の国北郡吉浜村法華堂の坊敷並に門前田畠山等の事。
右永代宰相阿闍梨日郷、師資相伝の地たるべし、若し違乱妨げの人之れ有らば罪科に処せらるべきの状件の如し。
建武五戊寅年三月十一日 左衛門尉奉る。
延年寺墓地売券、祖滅五十九年、目師垂井に御帰寂後八年に郷師始めて京都東山延年寺大墓城の一小部分を買得して御遺骨を葬むるを得しも、地域頗る狭少なるを以つて追々に買収して拡張したるなり、本書は第一次の売券なり、本正本本寺に在り、但し此の墓城の存没如何を知ること能はざるか。
うり(売)わたす(渡)延年寺観音堂にし(西)より(寄)の地の事。
合壹所在、東西壱丈、南北壱丈。
右件の地は成願がさう(相)でん(伝)のし(私)りやう(領)なり、しかり(然)といへども、よう(用)じ(事)あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷にうり(売)わた(渡)したてまつ(奉)る所実なり、もし(若)この(此)地におき候いてきやう(向)こう(後)い(違)らん(乱)わづらひ(煩)いで(出)き(来)て候はんとき(時)はうり(売)ぬし(主)のさ(沙)た(汰)として本銭壱壱ばい(倍)をもちて十箇日のうち(内)にわきまへ(弁)申し候べく候、のち(後)のため(為)にうり(売)けん(券)の状件の如し。暦応三年七月十五日 延年寺成願在り判。
同上、祖滅六十三年、郷師の弟子薩摩阿闍梨日●の買得第二次なり、正本上に同じ。
うり(売)わた(渡)しまいらせ(進)候延年寺の地の事。
合東西六尺、南北一丈、定、日目上人御墓御前なり。
右件の地は故成願が私領なり、用要あるによつて日向の国富田の庄内、日智屋寺の別当御房(薩摩摩阿闍梨日●)に永年お限つて用途六百文にながく(永)うり(売)わた(渡)しまいらせ(進)候ところ(所)じち(実)なり若し此の地に子細候はヾ此の状をさき(先)として御さ(沙)た(汰)候はんに子細あるまじく候、若し無沙汰なる事候はヾ本の用途にても候へ、又別の地にても候へいそぎ(急)いそぎ(急)沙汰仕り候べく候、仍て後日の為に証文状件の如し。
康永三年太才甲申潤二月廿八日 故成願が後家比丘尼明知在り判。
同上、第三次のなり、祖滅六十六年、正本上に同じ。
うり(売)わた(渡)すゑ(延)ねん(年)じ(寺)の地の事。
合一ぢやう(丈)、よ(四)ほう(方)□□一くわん(貫)文。
右くだん(件)のち(地)はじやう(成)ぐわん(願)がし(私)りやう(領)にて候なり、よう(用)あるによつておしてらのれんさうな(無)くなが(永)くうり(売)わた(渡)しまいらせ(進)候ところ(所)じち(実)なり、も(若)しこの(此)ち(地)にし(子)さい(細)わづら(煩)い候はんとき(時)はこと(異)ち(地)にても又ほん(本)せん(銭)にても候へ、わきまへ(弁)申し候べく候あいだ(間)この(此)しやう(証)をさき(先)として御さ(沙)た(汰)あるべく候にし(子)さい(細)候まじく候、よつて(仍)のち(後)のためにうり(売)けん(券)のじやう(条)くだん(件)のごと(如)し。
ぢやう(貞)わ(和)三ねん(年)七月十八日、うり(売)ぬし(主)、じやう(成)ぐわん(願)ご(後)け(家)在り判。
あいともくわん在り判。
同上、第四次に日伝の買得なり、祖滅八十四年、正本上に同じ。
うり(売)わた(渡)す延年寺菩提崎地の事。
合壱所五尺四方、右件の地は成音が相伝の私領なりといへども要用有るに依つて安房の国南条中納言阿闍梨日伝にうり(売)わた(渡)し申し候所実なり、直の銭五百文に永代を限りまつた(全)く違乱わづらひ(煩)あるまじく候、若し子細申す事候はヾ本銭をもつて明け申すべく候、仍つて後日の亀鏡の為めの状件の如し。
貞治四年三月十五日 売主僧成□(音)在り判。
日郷妙本寺譲状、祖滅七十二年、郷師吉浜法華堂に於て病死の寸前に有縁の法宝及び寺蹟等を弟子中に相伝したるの正本妙本寺に存す、左は其重宝万年救護の本尊と称するを始めとして総衆に遺附せしものなり。
安房の国北郡(今安房郡)吉浜村の内中谷に籠め置き奉る本尊聖教の事。
一、日蓮聖人御自筆の本尊一鋪、文永十一年甲戌十二月日。
一、日蓮聖人の御所釈等。
一、天台六十巻一部。
右法蔵に籠め奉る所なり、師資相承の族代々受学の輩緩怠の義無く守護申さしむべし、若し猛悪の義を存し若し偸盗の思を成さば一門の列を配中(廃止の義か)し衆中の交を留(止)むべきの状件の如し。
文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。
牛王丸に附属状、南条時綱の子にして幼少の附弟日伝に妙本寺等を附属する状、時代及び正本在所上に同じ。
譲り渡す安房の国北郡法華宗の事。
南条牛王丸出家して以後導師の益(役)を勤行せしむべき者なり。
右謹んで先師の制誡を勘ふるに併ら爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を建立せよと(云云)、所詮修学の功労を積集して法華の導師と為るべきの状件の如し。文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。
香菊丸に附属状、香菊丸日高の事蹟を知らず、時代正本在所上に同じ。
譲り渡す上総の国大貫の郷の内上畑の法華宗の事。
香菊丸出家して以後導師の益(役)勤行せしむべき者なり。
右謹んで先師の制誡を勘るに併ら爾前迹門の謗法を対治して法華本門の正法を建立せよと(云云)、所詮修学の功労を積集して法華の導師となるべきの状件の如し。文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。
妙本寺暫時の附属状、附弟牛王丸出家するまでは其後見役たる山城房日明に附属の状、時代正本在所上に同じ。
日郷円寂以後七箇年間、山城房は北郡吉浜村の内中谷法華堂の坊主職として香華燈明種々の供養懇懃申すべし、七箇年以後は南条牛王丸を出家せしめ坊主職として法華の行功を積み仏果の深底を酌むべきの状件の如し。
文和二年癸巳卯月八日 日郷在り判。
大石東御堂蓮蔵坊の附属状、東坊地の出入日郷生前に埓明かざるを以て惣衆に附属したるなり、時代及び正本在所上に同じ。
駿河の国富士の上方の内上野の郷大石寺東御堂並に坊地の事。
日郷円寂の後は惣物として衆徒等各花香を備へ勤行を致すべき者なり、若し此の旨に背くの輩に於いて門弟たるべからざるの状件の如し。
文和二年卯月八日 日郷在り判。
安房の国北郡吉浜村の内、中谷法花堂別当職並に椽樟山廟堂地の事。
合せて田壱段一宇は、右当坊主大田宰相阿闍梨日郷、計略に於いて永代の間師資相承有るべし、若し違乱の輩出来するに於いては罪科に処せらるべきの状件の如し。文和二年四月十三日 氏清在り判。
安西内の法華衆を日明に譲る状、房州の南部なるが今寺蹟を失す、時代及び正本在所上に同じ、但し日附は十日後れたり。
譲り渡す安房の国安西の三富保の内伊戸村の法華宗の事。
山城房日明導師の益(役)勤仕せしむべき者なり。
右謹んで先師の制誡を勘へたるに併ら爾前迹門の謗法を対治し、法華本門の正法を建立せよと(云云)、所詮修学の功労を積集して法花の導師となるべきの状件の如し。
文和二年癸巳卯月十七日 日郷在り判。
大石東坊地取得の後の配分予定の状なり、筆者不明なれども列名の中の人にして日郷帰寂の日に成れり、時代及び正本在所上に同じ。
定。大石寺蓮蔵坊の●次の事。
一番、牛王丸
二番、越中阿闍梨日忍 編者云く裏判在り。
三番、兵部阿闍梨日● 編者云く遠国と記せり。
四番、山城阿闍梨日明 編者云く裏判在り。
五番、紀伊阿闍梨日円 編者云く裏判在り。
六番、大輔阿闍梨日賢
七番、石見公日順
八番、香菊丸
九番、辰壱丸
十番、御房丸
十一番、駿河公浄尊。
十二番、信増房。
右●次の評定斯の如し、但し大石寺東方の坊地本の如く安堵の時は十二人の大衆配分して知行すべき者なり、若し此等の趣に背き異儀(義)せしむるの輩に於いては一門家中を追出せしむべきの状件の如し。
文和四乙未年四月二十五日
大石東坊地を取得したらばの番帳なり、筆者前に同じ、時代等上に同じ。
定。大石寺蓮蔵坊三月宛番帳の事、次第不同
一番、越中阿闍梨日忍
二番、兵部阿闍梨日●
三番、山城阿闍梨日明
四番、香菊丸
五番、竜壱丸
六番、牛王丸
七番、紀伊阿闍梨日円
八番、御房丸
九番、大輔阿闍梨日賢
十番、石見公日順
十一番、駿河公浄尊
十二番、信増房
右結番の趣に任せ懈怠無く勤仕せしむべき者なり、若し此れ等の旨に違ひ異儀(義)を存するの輩に於いては当家の中を追放せしむべきの条件の如し。
文和四年卯月二十五日
法一寄進状、祖滅百一年、法一も「あいのやつ」も不明なり、但し正本妙本寺に在り。
ひうが(日向)のくに(国)にい(新)ろ(納)(児湯郡新田村)のうち(内)大てら、又つち(土)もち(持)(曰杵郡)に一ちやう、あいのやつ(谷)の御みだう(堂)にき(寄)しん(進)申し候、御(後)日のために状をしん(進)上つかまつり候。
ゑい(永)とく(徳)二年三月五日 法一在り判。
永徳三年の寄進状。祖滅百二年、中谷の地の状なれば時の地頭ならん、文和二年郷師入寂の直前に椽樟山廟堂の地の証判を鎌倉管領より受けて漸く三十年に又此の計らいは時の官憲の頼りなき思ふべし、但し伝師の代にして谷御坊とは中谷御坊の事なり、正本妙本寺に在り。
三郎五郎が名(名田)のうち(内)門前のにし(西)の畠一おもて(面)ならび(並)にくぬき(椽樟)山めう(廟)だう(堂)の地、彦六はたけ(畠)の東のつら(面)よりすぐ(直)に南ゑすみ(炭)がまの下をかぎつ(限)てき(寄)しん(進)申すところ(所)なり、仍つて後日の為め寄進し奉るの状件の如し。
永徳三年十二月十一日 □(本)□(弘)在り判。
谷御坊中。
妙本寺地安堵状、祖滅百十四年、郷師の時代に建武五年及び文和二年に鎌倉管領より判物ありと云へども明確ならず、日伝の時二回に亘りて弥確実となれり、状中の兵部公は何人なりやを知ざれども長期の運動をなしたるが如し、以下三通一連の書なり、共に正本妙本寺に在り。
吉浜妙本寺職地安堵の事。
彼の絵図(次の図なり)に印形を押し進らせ候間子細無く候条目出度候、湯治以下指し合ひ候時分いま(今)まで延引にて兵部公長々当参候つる事労はしく存じ候、委細定めて此御手より礼申し候、恐々謹言。
(応永二年)十一月廿八日 成喜在り判。
妙本寺進らん(覧)。
判形(管領氏満のなり)
安房国吉浜妙本寺職地絵図、応永十二、十二、十一。
上重
東西捌丈弐尺
中重 東
東西拾肆漆尺
下重
東西拾弐丈伍尺
(絵図を略す建物大小十四棟あり朱線を以て四至を劃し黒印を捺せり)
上重
南北肆丈捌尺
中重 西
南北玖丈漆尺
下重
南北拾伍丈
当寺職地の事、寿昌寺の素意に任せ老父の方より遣はさるる絵図の上は相違有るべからず候、恐々謹言。
(応永二年)十二月十一日 行孝在り判。
妙本寺中納言律師御房。
妙本寺坊地の証判、祖滅百二十年、此文書に始めて妙本寺の名見ゆ地は中谷なり中納言法印は伝師なり、賢成は地頭代官等なるべし、正本妙本寺に在り。
安房の国吉浜村の内妙本寺坊地の事。
永代知行有るべきの由仰に依て状件の如し。
応永八年十月廿七日 賢成在り判。
中納言法印御房。
同上、坊地安堵の管領の袖判にして法印(管領家の事務者)の状なり、前の賢成のは此が添書とも見るべきものなり、正本上に同じ。
補任、袖判(鎌倉管領持氏)
安房の国吉浜村の内妙本寺坊地の事、先例に任せ永代知行有るべきの状件の如し。応永八年十月廿七日 法印奉る。
中納言法印御房。
妙本寺を三人の一年廻り持に譲る状、祖滅百三十五年、日伝七十七にして帰寂の半年前に妙本寺を三人に老僧に一年持に譲る但し此の巡番の継続明瞭ならず後世日周を以て後董と伝ふ、正本妙本寺に在り。
譲り渡す安房の国北郡の内吉浜村の中谷法華道場妙本寺の事。
並に先師日郷上人御譲状之れ在(有)り。
右彼の寺中に日伝師資相承の坊職有るなり、然る間三人に譲り与ふる所実なり、所詮正月一日より十二月晦日までを期し一年宛廻り持ちに住持申すべし、若し一日に於いても日数を過ごす弟子は謗法の罪たるべし、修理造営は三人同心に談合有りて事遂げ申すべし、当国の文名相模国三浦池上那浜は壱年廻しに相付くべし(云云)。
三人とは 侍従阿闍梨日周成就房
兵部阿闍梨日了観乗房
理一房掟数(日応)日文字有職逐て免許有るべし
右謹んで先師の遺誡を案ずるに云く謗法を対治し正法を弘通せよと(云云)、然れば則ち無二の信力を励まし他に異なるの精誠を抽んで偏執の心を捨て正路の念に帰して法華の導師となるべし、仍て後日の亀鏡の為に譲り与ふる所の状件の如し。
応永廿三年太歳丙申卯月八日 日伝在り判。
三人の中に下す。
小泉久遠寺の譲状、祖滅百三十五年、大石と妙本との蓮蔵坊係争の問題は応永十三年に妙本には否運に解決したれば小泉の地即今の久遠寺の前身を以つて蓮蔵坊と定めて日郷門徒の惣本寺としたる文書なり、但し名目だけにして実権は常に房州にありしなり、同時代の古写本妙本寺にあり。
駿河の国富士の上方並に上野の精進町北山の下方諸檀那道場の事。
右寺中は上野蓮蔵房を移し申さるゝ所の間惣門徒の本山と(云云)、然る間日伝住寺たるに依つて弟子円乗坊日宣に譲り与ふ、円乗坊一期の後は法泉坊日崇住持申すべし、法泉房他界以後は先規の如く惣持ちたるべし、然りと雖も時宜に随ふべきか、仍て後日の亀鏡の為に譲り与ふる所の状件の如し。
応永廿三年太歳丙申卯月八日 日伝。
法泉日崇に下す。
控(うつろ)字御本尊施入状、祖滅百七十三年、弘安二年の御本尊御名判だけ普通にて他は全く籠字の珍宝を日永が久遠寺日安に授与したる添状なり、近古の写本富士久遠寺に在り。
施入し奉る駿河の国富士山久遠寺蓮蔵坊御真筆、控字日本第一の御本尊一服(幅)房州妙本寺の時の住持日永より、仍つて此の示し書、末法万年の間此の御本尊斬(暫)時も離し奉るべからざる者なり、蓮台坊日安に之を授与す。
享徳三年太歳甲戊六月廿一日 日永判。
久遠寺常住。
此の控字御本尊は妙本寺日永の代に寄進せられ畢ぬ、依つて富士代官所契約の為めなり、仍て妙本寺に違背の時、取り返すべきの証状今に之れ有り天文●(年)中の大乱に上野の住、佐野半右衛門尉身命に替へて之を警固し日我に渡さるゝ処なり。
天文十五年丙午八月十日之を示す。 妙本寺日我判。
法頭学頭譲り状、祖滅百七十八年、日郷門徒には房山に法頭を置き本山に住持つせしめ、日向に学頭を置くの例あり、是れ其一例なり正本妙本寺に在り。
譲り渡す安房の国北郡吉浜村妙本寺の事。
住持按擦(察)阿闍梨日安並に学頭分一乗房日朝。
右謹んで先師の遺誡を勘ふるに爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を建立せられよと(云云)、修学の功労を積耄して法華の導師たるべき事件の如し。
長禄三年太才己卯六月十七日 日永在り判。
堺弘通所の寄進乗、祖滅二百十三年、当時の妙本寺は日向国に末寺の大半を有するが故に堺港に中憩の地を要するは当然の事であり、日要又尼崎の日隆門下に依学し城摂地方に知己を有する事多きが中に八品徒隆珍は其便に供せん為に提供したるなり、越えて明応八年の天奏も多くは此隆門徒の尽力に依る、此の正本妙本寺に在り。
(端裏書)「寄進乗、堺弘通所の案、日要。」
寄進し奉る家屋敷の事。
合壱宇は四至の限り本券文に之れ在り。
右件の家屋敷は隆珍、買得相伝の私領なり、然るに今本券文弐通を相副へ切端壱つ合数参箇、妙本寺日要上人え寄進し奉る処明白実正なり、後日に於て違乱妨げ有るべからざる者なり、仍て支証の状件の如し。
明応三年甲寅正月廿八日 隆珍在り判。
平賀言太郎の寄進状、祖滅二百十九年か、定善寺に正本在り。
一、当病に就いて堂後並に田一反八畝、妙竜心当候て定善寺に寄進申さしめ候、将又以前彼の所下され候折節一反寄進申し候、二反とも五百文分にて候、一所は料足一所は作り上げ申すべく候、此等は御合力として申し入れ候、後日の為に恐惶敬白。
(明応九か)庚申六月四日 平賀言太郎祐番在り判。
進上、定膳(善)寺人々に参らせ候。
財光寺譲状、祖滅二百二十三年、日向本山と称する財光寺の譲り状、即今の日知屋定善寺なり、正本定善寺に在り。
(端裏書)「財光寺譲り状」
日向国惣跡財光寺道(導)師識(職)の事。仰の如く御本寺の上人、次に先師日雄の寿栄阿闍梨より日守拝領する所なり、此の嫡々付弟識(職)を中将阿闍梨日妙に付属する所なり、僧衆檀方共に違背の人は大謗法たるべきなり、仍て追却すべきなり、末代の為に定むる所件の如し。
永昌(正)元年甲子十二月十一日 日守在り判。
日継妙本寺の後住を求むる状、祖滅二百四十二年、妙本寺は地理的に新興の里見家と消長を共にした、要師の時も我師の時も中谷の地が軍陣の要害と成つて寺堂を修羅場に変相せしめられた。要師も遂に妙勝寺で歿せられ継師の時に至つても本山の復興が困難であつて、相応の後住が得られざる有様で後董に擬せられた後世有名なる日我も此時漸く十六歳であつた、此の正本妙本寺に在り。
安州北郡法華日蓮宗妙本寺の事。
右寺家再興の元由は安総両国大乱に依り思の外要害に成され寺坊山林悉く崩れ大破に及び候半は、日継不思儀(議)の機縁宿習の故に御門中に於て驚き奉り形の如く御堂建立仕り畢ぬ、然りと雖も先師日要上人筆記の如く愚僧受学結縁の直弟皆以て非器の族に候、将又老若衆僧の中に器要の人之れ無く候、此の時は争で日郷巳来の旧跡廃せらるべきにあらず候へば東西御門中貴賤上下有縁の僧俗を撰ばず、但偏に正直正業の信者行者に於て尋ね求め候て香華勤行等、闕断無き様御沙汰を遂げらるべき旨参先規の印可に任せられ冥鑒を請ふ者なり、仍て記す所件の如し。
大永三年癸未三月廿五日 日継在り判。
勧進及び人別免状、祖滅二百四十五年、河崎伊勢守が領主の命を受けて定善寺顕本寺に造営諸勧進及び人別銭を免許せし状なり、正本定善寺に在り。
(端裏書)「定善寺御同宿中。」
定善寺顕本寺の門中衆徒の事、堂舎仏閣御造立の勧進、人別等に就いての事は自分以後に於いては御指置き候、此の旨御上意御老中も御同前に候。
大永六年丙戌霜月晦日 河崎伊勢守良豊在り判。
定善寺御同宿中。
福永伊豆守の証状、祖滅二百五十年、福永は伊東家の重臣である、門河の地は日知屋にも近く又其末寺たる事を証したるもの、正本定善寺に存り。
門河の内小松寺大原寺何れも前々の如く定善寺の末寺たるべきの旨仰せ出だされ候、御上意の趣き聊相違有るべからざるの状件の如し。
享禄四年辛卯八月十九日 福永伊豆守祐昌在り判。
定善寺御同宿中。
日向の総跡及び学頭より要賢房を激励する状、祖滅二百五十六年、要賢房日我は日向佐土原出身にして妙本寺に在りて道誉才学共に高く代官職に任ぜられて居たが此時三十歳、先住日継寂後十年無住の寺跡を董すべく本末の渇仰に依つて日向の先輩たる両頭よりの奨励状である、正本妙本寺に在り。
尚々無二の信心志を以て法命を続がるべき事一門中本望に候。
態と啓上せしめ候、数年住山行躰の志誠に以て神妙に候、中ん就く妙本寺の代々血脈の導師として僧檀利益を成さるべきの旨惣門中同前の儀に候、其の上貴山大衆中より此の条仰せられ候、聊も御辞退有るべからず候なり、千秋万歳真俗御繁昌益々重ねて申し加ふべく候、恐惶謹言。
天文六年丁酉七月七日 定善寺 日揚在り判。 学頭坊 日果在り判。
要賢(日我)御房御同宿中。
右兵衛尉親徳状、祖滅二百六十五年、久遠寺は蓮台房日安に起りて日是と富士家(大宮浅間社)との為に亡びた、此を日我師が復興に奮起せられた、其関係の国主今川家の重臣たる朝比奈右兵衛尉の状である。時代の古写本妙本寺に在り。当国富士の上方小泉の郷久遠寺の事、先代は国主存知の寺家たりと雖も一乱以後十箇年に及び大破せしむと(云云)、夫れに就て日我上人再興の儀、披露に就て領掌し畢ぬ、殊に房州より子細ども伝語彼れ是れ拠ろ無きの間此の如し、然れば当地頭富士九郎次郎に相尋ね判形出し置く上は陣僧、飛脚、転役課役を停止し地頭の綺ひ有るべからず、但し寺内門前とも参拾疋の地子、前々の如く納所有るべし不入として相定め候条、竹木以下狼藉等違犯の輩有るに於ては判形の筋目に任せ其の沙汰有るべきの旨仰に依つて執達件の如し。
天文十五丙午九月廿九日 (朝比奈)右兵衛尉親徳。
久遠寺へ進献。
日我久遠寺の置文、祖滅二百六十六年、我師久遠寺の経営其緒に就き世出全く整はんとする時高弟兵部阿日義を代官とするに付いて日義及ひ一般の僧檀に親切なる慈誡を下せるものなり、正本妙本寺に在り。
定、久遠寺。
一 兵部阿闍梨、日我の代官として居住の上は僧檀とも無沙汰有るべからざる事。付り但し謗法の不儀之れ有らば異見有るべきなり。
一 当時の事私に在らざるの間時々の代管雅意の帳(張)行を以て僧檀に非例を成すべからざる事、但し無志不信の時は三諌を加へ信用に能はざれば住持僧檀同心の儀を以て其の沙汰有るべきなり、謗罪に於ては呵責有るべきなり。
一 当寺不弁の間殊に御堂造営之れ有るべき内は僧檀ともに寺家に対し難題の儀申されざる事、但し地頭代管々人等は之を除く其の時の会釈有るべきなり。
一 十三日の三文係りは年々の雑用之を仕るべし、十五日の分は造営の内は他事に使ふべからず、仍て日我其の人数たるなり、但し乱入飢饉の日は大破に及び沙汰の限りにあらざるか、講衆の外も志法第一年に一度はふれ(触)べし。
一 夏秋両度の勧進の事、当年末の年巳来酉の年に至り三年に六度有るべきなり、其の後半は其の人の志に任すべし然る間日我も三年は人数たるべきなり、各別無沙汰之れ有るべからず、之に依て愚も人数の一分なり、増円弁公奔り廻るべし。
一 山野の事、造営の内は堅く禁制すべし、仍て大切の所用有らば木一本二本は所望有るべし、若し押切り之を取らば僧檀を撰ばず長鎌斧取るべきなり。
一 法泉坊三沢に指し置き候、其の身も檀那も別心無く懇切有るべきなり、造営物の取持並に酉戌年迄は造営の為に住山有るべし、若し此の旨檀那も相違の儀之れ有り其の身も退屈に及ばヾ堅く折檻に及ぶべきなり、仍て信心の志を以て両方納徳(得)有るべき者なり。
一 増円事、是れ亦五箇年 未年より の内は縦ひ九州に於て如何様に子細候とも下せらるべからず候、若し此の趣に背かば堅く折檻に及ぶべきなり、仍て信心志を以て堪忍有るべき者なり、付り東坊屋敷出ださるべきなり衣類の為なり家を作るべからず。
一 弁公事、何時も房州より相招くべき時帰国有るべきなり、其の内は堪忍すべき者なり、付り浄円坊と下屋敷住山の間、衣類の為に之を出さるべし是も家作らず。一 縦ひ不入の儀を頼まん為め少しも地頭代官以下諸人に向て緩怠無沙汰之れ有るべからず。
一 重須と和談申す上は如何様の子細候とも不和有るべからず、若し子細有らば日燿日我評談を遂げ其の上に於て其の沙汰有るべき者なり。
一 当寺の置文巳下は僧衆の法度等は重ねて東西の評定を遂げ其の上に於て相納るべきなり、門徒の惣物たるの条少しも私の義を以て諸の沙汰有るべからざる者なり、仍て五箇年の内に示し状件の如し。
天文十六年丁未正月十日 日我有り判。
久遠寺代官並に僧檀中に示す。
久遠寺日義の起請文、祖滅二百八十三四年比、兵部阿日義は我師の門下に傑出したるも名利の念強かりしか前に厳重の示書を受け今亦懺悔状を召さる、此状師僧に無断に本門寺に転住した後とも見らるれども未だ年月名判ある正本を見ず、今此に掲げ置き後人の研究を待つ、時代写本妙本寺に在り。
敬白起請文 兵部阿闍梨日義。
一 当流正血脈の事、右日目御門流の正嫡僧檀成仏の主師親代々を妙本寺に於て御相続候、然る間久遠寺の事は時の御代官所に候、此の旨縦ひ何方に居住致し候と雖も飜し奉らず候。
一 前々の不信不儀(義)の事、爾も連々に於て仰せ出さる筋目道理に相叶ひ候と雖も愚不信不儀(義)無志不足の故に其の壺に至らず候、殊に諸人の讒言などして此の如く承り候由少しも存ぜず候、自今巳後に於ては不信不議(義)の心を抛ち偏に正信正義を存すべく候。
一 前後表裏の事、右御仏法の御沙汰等住山の中には●角申し出さず候て巳後に於て巳前も内証には納徳(得)せず候と雖も当座の儀領状(掌)いたしたるなどゝ心にも口にも犯すまじく候、殊に自分の進退不足などの時につき沙汰などに申すまじく候。
一 前代軽慢の事、右日郷巳来近代は日要日継の当流の化儀法式壱箇条も背き奉るべからず、殊に新義の案を構え先聖先師を蔑り奉るべからず。
一 他門執情の事、右台家他門の心を抛ち他門の執情を持つべからず、殊に正位の人などを無能無智として下すべからず、只偏に信心行躰の志を正躰として自分の学文に頼み存すまじく候。
一 心口各異の事 右自今巳後に於て或は口にも或は筆にも口と心と相違の事一言すまじく候。
一 一図両面の事、右世出ともに御門中に対して思慮無くて時の会釈に任せ正躰無き一途両辺の事を申すまじく候。
一 名聞名利の事、右世間の風俗に耽り仏法の興隆、公界の修道等を閣き荘厳を致すべからず、私の衣食等飢寒の二事を堪忍仕り御仏法の再興を眼に当て申すべく候、少しも世間の道俗を耻ぢて御仏前を次にいたすまじく候。
一 謗法改悔の事、右謗法謗罪の時は当座の才覚陳方(法)を抛ち道理の旨に任せ改悔懺悔申すべく候、巳前は其の覚悟無くて誤の上を兎角料簡いたすまじく候。
一 師敵対の事、妙本寺久遠寺並に東西の間に縦ひ如何様の子細出来候とも妙本寺の法主に対し奉り世出とも敵心方に同心申すまじく候、何に況や我として誰の御住み候とも日義一期の間は背き奉るべからず候。
日我妙本寺譲状、祖滅二百八十六年、日侃は我師の高弟として恩師に随逐し修学年を積む、疾に妙本寺の後董に擬せられ遂に其実施を見る、正本妙本寺に在り。
日目上人の御門流駿州富士山久遠寺、房州中谷山妙本寺両寺一寺の惣貫主、嫡々相承の本血脈の導師職日我より直に日侃え譲り与ふる所実正なり、十五六年の内数度の補任状●に在り、今度日侃領掌の日副状を致す者なり、自今巳後に於ては縦ひ如何様に事儀之れ在りと雖も日我に於て違変有るべからざるの旨本末の僧衆檀方等存知の為に自筆自判を加ふるなり、仍て付属の状件の如し。
永禄十年丁卯十月十三日 六十才 日我在り判。
日侃上人。
日侃妙本寺後董を求むる状、祖滅二百八十九年、侃師入山間も無く後住を惣門中に求むれども得られず漸く廿四年を経て実行を得たり、正本妙本寺に在り。
富士門家嫡流の遺跡久遠妙本両寺の事。
右日侃住山行学三十三箇年の内在位四箇年世出功を成し畢ぬ、然るに病気日を逐うて倍増の間隠(隠)遁する所なり、然れば則ち上代以来の規軌を伺ひ日要上人の御掟を守り法学両頭の中に於て信心志の仁を選び血脈を相績(続)し法燈職と仰がるべき者なり、仍て衆評に任する所の置状件の如し。
永禄十三年庚午十一月十五日 日侃在り判。
惣門中、一通妙本寺に之を置く。一通学頭坊に之を贈る。
日我日侃より島津藩老に訴ふる状、祖滅三百年、日向の妙本寺末は久しく伊東家の保護を受けたりしが滅亡の後は島津家の反法華宗の為に苦しむを救はん為に家老達へ陳状なり、時代写本妙本寺に在り。
聊爾に候と雖も一書を以て申せしめ候、抑日州御安堵の由承り及び候、彼の国中に於て当寺の末寺散在候御不趣向の様其の聞え候、彼の寺に於て其の好み之れ無く候とも法華宗富士門家の本寺に候間、当寺御免許の旨前々の如く相残さるべく候段先代の国主法華法度の日も此の方より訴諌に及び候て再興に至り候、彼の時代老中にも文書今に所持申し候、当御代事も縦ひ御帰依にあらずと雖も二三百●(年)恙無く候、本永寺定善寺顕本寺其の外の小寺小坊御下知を以て堪忍を致すべく様御沙汰之れ有るべく候か、遠路乍ら此の旨を以て飛脚を進ぜしめ候、●く御披露に預るべく候、恐惶謹言。
天正九●(年)辛巳十二月廿五日 房州妙本寺当住日侃、 隠居日我。
謹上、薩州御老者中。
日侃里見家臣本名肥後守に訴ふる状、祖滅三百十年か、里見氏衰へて妙本寺への優待も取消され種々の運動にて漸く三分一となりたる事件の始なり、猶比と同文の歎願書岡本奉行所にも提出せられたり、正本妙本寺に在り。
(端書裏)「本名肥後守殿へ訴状、日侃」
恐れ乍ら言上せしめ候、当国北郡吉浜村妙本寺の事。
右当寺は法華宗六門跡の随一、日蓮聖人嫡々の正統の惣跡譲状手続証文分明に候、去る建武年中尊氏将軍の御代当寺の敷地を申し請け、筑紫中国の門徒中より立て置く所の伽藍にて候。
譬へば真言宗の高野山の如くに候、然る間先師数代参内奏聞を遂げられ内裏よりの御書き出し御座候鎌倉将軍家五六代の御教書今に頂戴申す天下不入の私ならざる寺家に候、此等の筋目を以て東陽院殿(義●)御掟に当家里見も一家として寺(今)に義●国主に生れ合ひ武運の為め冥加の為め見除すべからずと仰せられ候て、田代を寄せられ、五十余年御恩を以て日我日侃二代、上様は三四代過ぎ奉り候処去年世上並み田地悉く没倒となり剰へ門前山林沙弥等迄取り放たれ纔に門内斗り赦免候、如何申し候ても堪忍罷り成らず候間、僧衆下人三十余人扶助を放ち候、愚老事は富士久遠寺相抱へ候間罷り上り候か、又筑紫中国辺へも修行申すべくの存分に御座候へども、去年以来上様御在洛御留守中に伽藍の一所も明け申す儀国家の為に不吉かの由存ぜしめ漸く今迄堪忍せしめ候、上様御下向誠に優曇花に相逢ふ如くに候間此の如く愁訴申し上げ候、上総も違ひ申し房州は元より小国御手詰目前の間寺領の儀は全く望み之れ無く候、責めて門前斗りも付けさせられ候はヾ出家沙弥五三人にても踞まり候て、三百年以来の古跡をつヾけ時分を待ち申し度く候なり、心中の愁欝を恤まれ此の旨を以て御披露希ふ所に候。
(天正十九年か)六月十四日 妙本寺日侃在り判。
本名肥後守殿。
本名肥後守状、祖滅三百十年、妙本寺の運動縁故をたどりて正木安芸守にも及びたり、兎に角幾分の曙光を見たるなり、時代写本妙本寺に在り。
(端裏書)「義康御判陣中より来るを本名肥後守拝見の返事。」
御陣中よりの御判形指し越され候具に拝見奉り候、同貴札御同意に候、安芸守殿(正木)よりの一札も具に披見申し候、御検使の事御申し請け候、尤も三日の中申し付け越し申すべく候、わけはの儀其れにて御談合然るべく候、将又御内様帯針両種委細披露奉り候、此の由貴意を得べく候、恐々敬白。
八月朔日 本名肥後守。
里見義康三文一の許状、祖滅三百十年、国主義康の判物なり兎に角妙本寺不足ながらも安堵を得たり、正本妙本寺に在り。
其の寺山屋敷寺中並に沙弥屋敷同寺領、三箇一付け置くべき由、正木安芸守に申し付け候、如何にも相違無く返答せしめ壱札を致し候迄に候心易かるべく候、其の後の為に壱札に及び候仍て件の如し。
(天正十九年)辛卯七月廿八日 判(義康の華押)。
妙本寺。
義康より安西伊勢守等へ状、上に同じ、三箇一の所置を役人に申し付けたるなり、時代写本妙本寺に在り。
(端裏書)「三箇一の寺領、陣中より義康下し置かるる事。」
吉浜村妙本寺の事、義康判形成され候上は寺中門前の田畠、沙弥屋敷、山林等相違有るべからず、其の外寺領三箇一の所置法沙汰すべきなり、陣中より仰に依て申し付くる所なり仍て件の如し。
(天正十九年)辛卯八月三日 御印判。
安西伊勢守殿 忍土佐守殿。
義康棟別等免許状、上に同じ、不入諸役免除等を三箇一の新地に行ふ状なり、正本妙本寺に在り。
房州北郡吉浜の村妙本寺の事。
前々より不入の儀、猶東陽院以来数代懇切の首尾を以て寺内門前沙弥屋敷とも棟別以下一切諸役免許せしめ畢ぬ、中ん就く当代付け置く田畠古新とも三箇一の所並に山屋敷竹木等時の地頭代官共の綺ひ有るべからざる状、仍て件の如し。
天正十九年辛卯霜月十二日 義康在り判。
妙本寺 日侃上人。
日侃定善寺へ送る状、祖滅三百十三年、前年日珍と交代し久遠寺は日成に申付けたる等の通知なり正本妙本寺に在り。
追つて申さしめ候、日侃は極月廿六日以来隠居仕り候、又我慶より御音信物送り給り候、御志の至り申し尽し難く候霊山参会の外御目に懸るまじく候。
学頭坊日成並に本大坊等去年霜月下旬関東下着候御音信物慥に請取り申し候。
一 妙本寺法灯職の事、久遠寺の日珍へ相続申し候。
一 久遠寺代管職の事、日成に申し付け候。
一 学頭職の事、当日相似の仁之無く候間未落着に候、其の内は其所其所に於て相似の旁々仏法弘通檀方の警固頼み候由、中日向へも申し遣はし候、上の口の儀は貴寺御座候間申すに及ばず候、中ん就く本寺物等の事器用の人に仰せ付けられ御弁済肝要に候、猶日成より申さるべく候、恐々謹言。
文禄第三二月廿八日 日侃在り判。
定善寺御同宿中。
里見忠義黒印、祖滅三百廿五年、里見家最後の判物にして里見家改易の後は徳川幕府にて引き続きたるを以て●には略して記せず、正本妙本寺に在り。
(端裏諸)「里見忠義御判、慶長十一七月の御判、三箇一高五十石余此の御代房州改め。」
北郷大帷村の内拾壱石、同郡本寺領吉浜村の内弐拾石並に佐久間村の内小縄の辻拾九石六斗六升四合合せて五拾石六斗六升四合寄附せしむるの状、仍て件の如し。
慶長十一七月三日 印(黒丸印あり)。
妙本寺。
妙本寺の切紙相承六通、祖滅百二十年より三百十七年に至る正本定善寺に在り、或は他山にもあるべし、本編に掲げ得るものは妙本寺分と要法寺分となるが何れも当器相承にして代々貫首の直伝にあらず、貫首日要が学頭日杲に伝へ日杲又此を日我にも隆存にも伝へたるが如く貫首日侃以後此の切紙相承ありしや未だ文献を見ず、而して定善寺古文書に依れば応永八年の日賢の一通最も古く約一百年後に日要の多数の切紙始まると見ざるべからず、現存日侃正筆に依るに日要在判と牢記したるも年月を加へず然りと雖も或は其晋山の延徳元年より入寂の永正十一年までの間、祖滅二百廿年前後のものか、其取材中に御赦免状日妙本尊の記文五師一紙の譲状等の疑義多きものより大黒天相承の如き又は格別に秘すべきにあらざる各項を法器を検みて厳重に授与すべきほどにあらずと考ふるものもあり、一面慎重味多きも又他面には宗学徹透の仁と云はるるに不似合の杜撰ありとも見らるゝを遺憾とす。
(端裏書)「本籍の異目略して十類日□(安か)」
法華本迹不同の相伝。
一、迹門は始成正覚、本門は久成正覚、二、迹門は始覚、本門は本覚、三、迹門は不変真如、本門は随縁真如、四、迹門は九界の妄法を転じて仏界の法性に帰入し、本門は仏界より九界に流る、五、迹門は有情の成仏本門は非情の成仏、六、迹門は浄土を正と為し、本門は穢土を旨と為す、七、迹門は仏界、本門は九界、八、迹門は住上、本門は住前、九、迹門は妙本門は法、十、迹門は心、本門は色。
凡衆多同じからずと雖も大概十種を出づべからず、巳上本迹の差異なり。
機の熱不之を知らずと雖も末代伝燈の為に円澄大徳に之を授く、延文六年九月日。応永第八八月日、之を次ぐ 大法師日賢□□。
編者云く此切紙は富士の深義にもあらず円澄大徳の行実を知らず、日賢の名は日伝の前名なりと雖も巳に六十一歳にして日賢の名あるべきにあらず、川崎日賢は巳に帰寂の後なるべし、但参校の為に掲ぐるのみ。
「御赦免状、御判之在り。」
日蓮法師御勘気の事、右御免許の由仰せらるる所に候なり、早く放免せらるべき由に候なり、仍つて執達件の如し。
文永十一年二月十六日 兵衛丞行兼。
山城兵衛入道殿、御正本富士西山に在り。 妙本寺日要在判。
本永寺学頭坊阿闍梨日杲在判。
日杲より直授 日我在判。
日我上人より之を禀承す、日侃在り判。
慶長三年戊戌十二月廿八日 本因坊日治に之を相伝す。
大聖人の御事(御遷化記録なり)。
貞応元年壬戌御誕生、建長癸丑四箇法門仰せ始めらる御年卅なり、弘長元年(巳下御遷化記録の儘なれば之を省略す)白蓮阿闍梨在判、蓮華阿闍梨在判、本に云く富士小泉久遠寺にて之を書き畢んぬ。
私に云く正本富士西山に之在り紙四丁に遊ばさるるなり、継目ごとに四老僧の御判之有り、若し門徒対論の時は此の条の門徒の化儀を糺明して高祖の本意不本意落居有るべき者なり。
富士山日目上人遺弟妙本寺日要在判。
本永寺学頭坊阿闍梨日杲在判。
日杲より直受 日我在判。
日我上人より禀承 日侃在り判。
慶長三年戊戌十二月廿八日 本因坊日治に之を相伝す。
日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興(二箇相承の身延相承認なり中略す)甲斐国波木井山中に之を写す。
釈尊五十年の説法白蓮阿闍梨日興に相承す(池上相承なり中略す)武州池上。
本門寺大堂本尊裏書に「日興上人に授く、此の本尊は日蓮が大事なり、日蓮在御判」と。
日興御自筆の裏書に云く、「正中二年十月十三日、日妙に授与す、日興在判」
日蓮聖人の御仏法日興存知の分を日代に付属す、本門寺の三堂の本尊は式部阿闍梨日妙廿七箇年行学たるに依り之を付属す。
東国は法華の頭領卿阿闍梨日目に之を付属す。
西国三十一箇国は法華の頭領讃岐阿闍梨日仙に之を付属す。
北陸路七箇国は法花の別当日満阿闍梨に之を付属す、門徒の大事之に如かず。
正中二年十月十三日 白蓮阿闍梨日興在判。
駿河国富士山本門寺重須にて書与し訖んぬ、唯受一人の相伝秘すべきなり、日妙に譲り与ふる状、高祖巳来の血脈日興慥に給ふ所なり、中ん就く本門寺奉行は日目日代たるべき中に日妙は三堂の本尊を警固申すべき仁なり、末代の為に日代を証人として書き畢んぬ、我門弟等巳後に於いて諍ふこと有るべからず候、此の旨に背く輩は謗法の仁たるべし、依つて置き状件の如し。
正安元年十月十三日 白蓮阿闍梨日興在判。
駿河国富士山本門寺重須、式部阿闍梨日妙に授与す、日興正御判日代仰書なり。
一 日蓮聖人御影堂、永仁六年二月十五日造立なり。
一 本化垂迹天照太神宮。
一 法華本門寺根源、是れ札の面の分。
願主白蓮阿闍梨日興在御判。
国主此の法を立つるの時三堂一時に造営すべきなり、大工本門寺大々工、椎地四郎宗友。
大施主石河孫三郎源能忠。
大施主南条七郎次郎平時光。
合力、小泉法花宗等、同上野講衆等、以上是は裏の分なり。
日興上人御遺跡の事。
日蓮聖人の御影並に御下し文、薗城寺申状。
上野六老僧の方巡に守護(巳下正本と同の故に略す)日目在判。
富士日目上人遺弟妙本寺日要在判。
本永寺学頭坊阿闍梨日杲在判。
御正富士日浄所持也日杲より直受、日我在判。
日我上人より之を禀承す、日侃在り判。
慶長三年戊戌十二月廿八日 本因坊日治に之を相伝す。
三大秘法切紙、 涌出品
結要付属を受くる故に善学と名く善学菩薩道上行菩薩 不染海士の極悪に染まず世間法。
如蓮華在水小湊浦に御在(出)生 巧於難問答八宗問答の御口作なり。
其心無所畏三類の強敵を畏れず、忍辱心決定我不愛身命の大忍力なり。
端正有威徳高祖の御容儀関東第一の美僧なり、十方仏所讃最明寺殿の御代。
善く権実を知る善能く本迹を了る能善く権実を分つ分能く本迹を別つ別一生不退の御弘通。
三大秘法切紙。 妙本寺日要在判。
本永寺学頭坊阿闍梨日杲在判。
日杲より直受、日我在判。
日我上人より之を禀受す、日侃在り判。
慶長三年戊戌十二月廿八日 本因坊日治に之を相伝す。
第三
一大熾盛光天、 一実の槌 三摩耶は袋(云云)、五度の中には檀波羅蜜、三身の中には応身如来。
義に云く大黒闇世界の教主なるが故に黒色なり、元品の大無明の躰を顕して黒闇の愚鈍に福禄を与へ給へり、是れ即煩悩の躰なり是れ即無明即法性、煩悩即菩提の意なり、従果向因の意本果の直脱の仏なりと云ふ意を顕し給へり(云云)。
三通の内第三畢り。相伝の列名上の如し省略す同く日治へ切紙の内に第二御本尊梵字口決あり、第一は散失して見へず、此の外日治の分に日文字口伝、本尊聞書三度相伝の中の釈尊日蓮天照太神本迹一躰の下等、当家口伝七箇本尊あり、又日杲より少将公隆存への分に大惣持一心、本門授記、当家六重本迹、申定土代案、輪円具足相伝等ありと雖も且らく之を省く、猶侃師は二十五通と記せるも今存せざる物多し。
二の三、要法本末の分、富士系本山の中に古来一勢力を有する要山にては古文書殆んど無し是或は予が蒐集に遺漏ありしにあらずやとも思はる、今左に列記するが中に亦正本甚だ少し。
百六箇抄奥書、祖滅六十一年より年期不明の分三通何れも要山写本にありと云へども出所確実なるを知る能はず、暫らく掲げて後人の研究に供す。
右件の結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり、然るに畠山の本覚法印日大佐々木豊前阿闍梨日頼は同位主伴の聖人なり、馬来、平田、東郷、朝山等在々所々に上行院を建立せしむるなり、都鄙等に於て日尊数輩の学匠の弟子之れ有り、然りと雖も功力に依て之を付属す、王城六角上行院の貫主日印、学匠惣探題日大、世出世の拝領並に中国西国等の貫主日頼と定め畢ぬ。
康永元年壬午十月十三日 日尊在り判。
右件の秘伝は嫡々の最要なり、然るに東郷岡田等新弘通所に於いて上行院を建立す、王城、馬来をば佐々木兵部律日源、朝山塩谷等を遠藤大進法眼、平田、東郷、多久を佐々木河内律師日誉に之を譲ると(云云)、仍つて日頼、日誉に之を示し畢る(云云)。
右件秘決は当流代々の最要なり、然る間法嫡相承の故に格別の深義を以て馬木六輔阿闍梨日禅に之を授与し畢る。
日禅より弁阿闍梨日燿に之を授与す。
本因妙抄奥書、祖滅二百七十九年、辰師の正筆西山本門寺にあり曽つて要集相伝部の下に其写真を載せたり、今編年次を繰り上げて此に掲げ以て参校に便す。
右本因妙抄一巻は洛陽上行院日尊上人自筆の本を以つて之を写し畢んぬ、但し彼の本に於いて本と日尊書与の判形無し、然るに亦住本寺日在上人云く此の本因妙抄は是れ日尊の筆跡なり、其証拠は東山日尊石塔の七字と此の抄の中の七字と大同の故なり。
永禄三庚申年十二月十日未の刻之を写し畢んぬ。 日辰在り判。
日尊上人譲状、祖滅六十三年、尊師遷化の前年上行院日印に興師御筆の本尊と大聖人の御影とを譲る、此二は現在の寺宝の中に在るものなりや、又住本寺日大には何を譲りしや、同山の重宝と称する称徳符法の本尊は何師が相伝を受けられしや未だ記文を見ず、又此の付弟状は正本存在せず、日辰の写し祖師伝の中に在り。
宰相禅師日印に授与する本尊壱鋪日興上人の御筆元応三年正月十三日。
大聖人の御影壱鋪。
右付弟として授与する所件の如し。
康永三年甲申六月八日 法師日尊在り判。日慧在り判。日大在り判。日●在り判。日禅在り判。日従在り判。
要山相承の目録、在師より辰師に本尊書与の相伝ありと云へども、現存の文献に依れば日●上人より始る、祖滅三百七年、其よりの先師の状を見ず、後の師は成師より●師に至る七世にして寛永より宝永に至るの目録正本要山に現存するが大概同様なれば●に省略す。
日●在り判 天正十六戊子年五月初三日之を許可し了ぬ。
当流相承の諸大事。
嫡弟日陽に授与せしめ候。
慶長十三戊申年六月十三日 日性在り御判亦追て之を許す。
一 授戒式法相承
一 御本尊書写御代々の相承の如し、付り守符。
一 本因妙抄相伝、付り二箇御相承。
一 百六箇の本迹相伝。
一 五人所破抄相伝、興師御作日順御右筆。
一 八通の御切紙相伝。
一 廿六箇条の御遺誡相伝。
時に天正十四丙戌年二月七日 日顕。
大教坊日陽謹で授与し畢ぬ。 十六代日恩在り御判。
元和三丁巳年九月十九日又追て之を許す。
右は当流相承の諸大事予日顕法印より要法十一代の祖日在上人並に十二世日辰上人二代の御相伝を以て相添へ此の一紙予日陽に授与し給ひ畢ぬ、然る処予、日●上人日性上人日恩上人両三代毎度上洛持参せしめ披露を遂げ追許の御判を請ひ右の如く記し給ふなり、予亦十八世の員に連る故に判を加へ直弟日格に之を授与せしむる者なり。
元和八壬戌年十月十三日 日陽。
(本書裏の初に)日陽参、妙伝寺聖主院日顕。
会津若松実成寺文書は同時に写本すら存在せざるに依り温故拾葉抄、新編風土記等に依る。佐瀬大学助状、祖滅二百五十一年、葦名家の重臣なり。
判。
要用有るに依て東黒川の内千本木御箸田三千苅の田地永代売り渡し申す所実なり、然れば彼の地の事実成寺御寄進の為に周防殿召し置き候、尤も子々孫々に於て相違有るべからず候、御屋形様御判形申し請け進献仕り候、仍て後証の一筆件の如し。天文元年壬辰八月日 佐瀬大学助御小者九郎左衛門。
御館周防殿参る。
御館周防佐瀬大隅の証状、祖滅二百五十四年、申次指南等は葦名家の役名なり、日東は今の歴代に無し日要の前代か、此寺も上代の史伝明確ならず。
判。
東黒川の内法華堂今の実成寺なり昔は今の米代四の街の郭門辺焉に在りと云ふ南堀際斯の如し則ち昔は亦郭外堀当時を知る百五十苅の田地長谷川清兵衛尉買得せしめ実成寺に寄進致す所実なり、然れば向後の為に相違有るべからず御判形を申し請くる者なり、仍て証文の一札件の如し。
天文四年乙未五月 申続 御館周防 佐瀬大隅守常教。
実成寺日東上人へ進上。
葦名家の指南(武芸にあらず)佐瀬大隅守の免許状、祖滅二百五十五年。
判。
法花堂実成寺の儀は無縁処に候て諸役免許せしめ畢ぬ、自然寺中に非分の儀候はヾ住持として相計らひ致すべく候、此の旨子々孫々まで相違有るまじく候なり。
天文五年丙申六月日 指南、佐瀬大隅。
蒲生氏郷免状、祖滅三百十年、時の領主の諸役免状なり。
当時堂塔屋敷の事、免除せしむる上は永代相違有るべからざる者なり。
天正十九年五月十六日 氏郷在判。
実成寺。
日在上人両寺一統に就ての状、祖滅二百六十七年、正本要山に在り、在師は住本寺日大系の故に其師日法も同様弟子日辰も日大系なり上行院住本寺天文法乱廃滅の頃は上行院日印系は衰微したりしや、又有為の人無かりけるか主裁者の辰師等が日大系なりといへども、上行院日印系の人よりの批判あるを慨して此状を遺したるにあらずや。
一 両寺一寺の段目出度く候。
一 地形別して新地建立有るべきや。
一 日大上人の御憤り断絶すべからざるかの事、尽未来際断絶の儀有るべからず、世に紛れ無き両通の御巻物並に五人所破抄を謀書と称す(云云)、将又西京木辻子法華堂上行院建立謂れ無しと(云云)、当時今に上行院たる事異儀に及ばず候、其の外尊師の御形木拝見有るべく候、深く御恩を蒙る末弟等此等の儀に違ひ断絶すべけんや。
一 雲州丹州諸寺え案内を経らるべきの事。
一 両寺一寺代々系図の事、落居の時仰せ談ぜらるべき者なり。
天文十七年戊申十一月十三日 日在在り判。
筑前守三好長慶の禁制、祖滅二百六十九年、正本要山に在り、足利末期は京都穏ならず時々官憲の保護を要す、此前応仁の乱又は南北朝代にも此等の文書ありしなるべし或は天文法乱に散失せしか。
禁制、要法寺。
一 当手軍勢乱入狼籍の事。
一 竹木を剪り採る事。
一 箭銭兵粮米を相懸くる事。
右条々堅く停止せしめ訖んぬ、若し違犯の族に於ては厳科に処すべき者なり、仍て件の如し。
天文二十年二月日 筑前守在り判。
僧位僧官の口宣、辰師のを始とす、祖滅二百七十三年、要法寺建立の直後なり、次の性師は僧官のみの昇進なり、辰師にも此の前階の位官あるべし、●師恩師等の口宣は之を略す、富士系諸本山は多く辺陬の地にありて皇室に親しからざるのみならず、宗祖の御本懐暢達するにあらざれば幾千年も平僧たるべきの規矩を固守したるが故に、在るべき機ありとして無かりき、要山は開山日尊巳に法印の僧位を辱うせりと云ふ、但し文書は存在せざるも疑なかるべし、大石に僧都御房あり房山に律師あれども其所歴は明瞭ならず。
(端裏書)口宣
上卿按察中納言 天文廿三年十二月三日宣旨 権大僧都日辰宜く法印に斜すべし。蔵人右少弁藤原経元奉る。
上卿、源大納言 天正十三年十一月廿五日宣旨、権少僧都日性宜く権大僧都に転任すべし。
蔵人左少弁藤原宣光奉る。
伊達政宗状、祖滅三百三十四年、要山日恩の代なり政宗父子滞洛の時の交誼か。
以上
越前守所へ態と使僧相下され付いて書状に預り候、再び御念入り候扇子一箱十本贈預御懇志の段忝く候、在京中一切隙を得ず終に御茶申さず遺恨の次第に候、猶重音を期し候、恐惶謹言。
(元和元年か)九月十一日 松平陸奥守在り判。
要法寺御報。
要山日●の付属状、祖滅三百十六年、会津実成寺貫首の特権を是認して公に本尊書写等を免許したるなり、猶此状に、依れば満願寺大石寺末も妙勝寺日蓮宗の本山も要山の勢力権内に在りしが如し、岩手山仏眼寺が今の仙台の前身なりしや、柳目浄蔵坊が今の妙教寺又は往古の完蔵坊との関係は未だ校へず、此本覚院日行は今の寺歴に無いのは二十有余年住持の後に帰俗したる故と要山の記に在り。
奥州実成寺は日尊開山御建立の地三十六箇寺の内第二の霊場なり、●に因て日尹上人より日要師に至り上人号を称し畢る、故を以て当住持本覚院を宜く日行上人と称すべき者なり、然れば則ち曼茶羅、守り本尊を書写する等本寺の貫主に准じて判形を加へらるべきの旨之を許し了ぬ、此の上は米沢妙円寺、青木一円寺、長沼の辺満願寺、岩手山仏眼寺、柳目浄蔵坊、佐州妙勝寺是れ等諸末寺に当寺弘通の余暇を以て見廻りを成され修行を励まさるべき者なり、所詮東北国興門の司(指)南たるべきのみ、仍て付属の状件の如し。
慶長二丁酉年十月十二日 洛陽要法寺貫首日●在り判。
若松実成寺本覚院日行上人御座下。
興師の御筆物を寄進するの状、祖滅三百廿九年、日恩曽つて身延にて得たる興師の御写始聞仏乗義を要本山に寄進する状、仏乗義並に此状の正本要山に在り。
謹んで書し奉る、此の始聞仏乗義一巻八紙は弘安元年の興師の御正筆ない、累代甲陽身延山久遠寺の霊宝なり、爾りと雖も予感得し奉るの権興は去る天正十八庚寅の夏の天、関左より帰●を促すので次で始めて身延山に入り留滞する八十日、片言隻字の才無しと雖も卒に日新上人に対し古文真宝を講釈す剰へ厥の年六月廿五万部読経の結日に至り身延山大堂に於いて一座の法筵を舒ぶ、新師御感の余り拝別の日両端の褒美として三十六人の衆徒に諮問し法蔵の記録を戴せ此の興師の御消息を以て世の餞別に充て賜ふ奇なるかな宿善内薫行学外資によるに非ん者豈此の霊宝を感得せんや、厥の情言はずして知るべし、日恩教誡して曰く愚や終焉の後須らく要法精舎に寄進すべし肆に残命の測り難きを恐れ預め本寺に請ひ当山の什物に寄せ奉る者なり、仰ぎ願くは一山の徒衆此の●懐を追悼し並に両寺建立の志愚が迂滅の後、位牌を開山堂に建てられ忝くも命日に臨み一句の廻向に預らば当来の大悟現在の嘉懐なり、●くは興門の法流遠く竜華階の外に沾ひ閻浮提に於て永々久伝して断絶せざらん、惟辰慶長十五庚戌暦二月十三日之を誌す。
南泉津新住本寺開山大雄院権大僧都日恩在り判。
性師の諸遺言情、祖滅三百三十二年、遷化の前年七月より九回に亘りて大小世出の綿密の遺言なり、当時天下に聞へたる内外の博学にして且又此遺言を見る稀有の大徳なり、繁を厭はずして悉く掲げて澆季の指鍼に供す、何れも正本要山に在り。
寄進し奉る要法寺の常住、銀子伍百七十文目。
但し此の内銀七十文目常住の旧借掃ひ与ふるの事之れ在り故に残分伍百文目渡す所の者なり毎月銀五文目の利息納領せらるべきなり。
此を以て納め奉り日性二親宗法六月十日妙円八月十八日毎月両日御影堂に於て自我偈一巻首題五偏の御廻向を仰ぐ所なり年限の事衆評を以て之を定むべし。
且は衆人の善願を勧め且は寺僧の勤労を顧る故なり。
伏して願ふ無尽財の功徳に依り無尽期の慈善を積み自他彼此ともに涅槃に到らん。慶長十八癸丑年七月二十九日 日性在り判。
譲り渡す大坊分の什物。
一 鉄風呂附り釜。
一 茶入大なつめなり。
一 大●壱つ、附り鍋数は失念。
一 ふち高五六□。
以上日●上人より請取る分なり。
一 椀五十人分。
一 折敷五十人分。
一 大鍋弐つ。
以上日性付属の分なり。
一 茶壺夲広院壺なり檀方中より預る分。
一 茶壺壱つ是は名字を知らず、彦兵衛の寄進なり。
以上。
慶長十八癸丑年十月廿二日 日性在り判。
当寺常住の什物。
一重書箱壱、此の内大事の物之れ在り。 一資治通鑑。
一柳文。               一四書五経大全但し虫食本。
一史記琉球。             一性理大全不足本。
一臨済録。 以上日●上人より請取る分。
一日興上人大本尊一幅、同く御自筆の始聞仏乗義。 以上大雄院の寄進なり。
一仏祖統紀壱部。           一集註一部、日性之を寄進す。
慶長十八癸丑年十月廿二日 日性在り判。
遺言の事。
一 葬送の事、当時諸寺貫首世儀入魂の間定て諷経有るべきか、其の労を●る故に唯予が弟子衆中にして天気の晴光を計り夜中に至り東山に送り土葬をなすべき者なり、其の作法悉く日●上人の儀式に准ずべし。
一 中陰の事、極善に中陰の義無しと雖も唯世界悉檀に愚迷を誘引せんが為の故に形の如く当に厳重の儀式を整へ覚場の資福を備ふべき者なり、書置き遺言状の披露日限衆議に随ふべし。
一 中陰供料の為に銀子弐百文宛て置く所なり。(本文には肩に一線を引いて抹消せり)
慶長十八癸丑年十月廿二日 日性在り判。
遺言。
一 貫主の事、予存命の内附属の覚悟有りと雖も遂に意に称ふもの無きの間延引候、内々は自成院を以て住持の儀頼むべく存じ候へども、今程右大臣秀頼公別して御懇意の儀実に以て一世ならぬ幸なる事に候、此の事いかなる便となり仏法繁昌の洪基たるべきをも斗り難く候間、先き二三年も苦労を顧みず御奉公然るべく候、是れ偏に仏法の朝暮の勤行と存じ候、然れば其の二三年の間は大雄院日恩を住持に頼み存じ候、是れ又年来弘通の行業他に異なる事の間此の如くに候、此の巳後は必ず必ず自成院に頼み入れらるべき者なり、斯の如く申し候段曽て以て某が愚意●り多く候へども万事に付て当寺仏法大切に存じ候、寺檀の衆堅く此の旨を守り仏法相続候様の御分別肝要に候、仍て申し置く所件の如し。
慶長十八癸丑年十月廿二日 日性在り判。
遺言次第不同。
一 葬礼の事、別紙に之を載す。
一 貫主の事、別紙に之れ在り。
一 遺物の事、面々に之を書く。
一 本地院と跡の事、別紙に之れ在り。
一 常住什物渡し状の事、別紙に之れ在り。
一 寺中惣法度の事、先年草案を以て各の一覧に備ふる者なり、堅く此の旨を守られ本望たるべき者なり。
一 予が聚め置く所の内外の書籍一冊も残さず悉く文庫に収め弟子衆として之を守護すべし、但し好学の徒若し一覧の所望有らば労煩を顧みず必ず借を許さしめ、又能く彼の書を還集して、紛失すべからざる事専用なり。但し蔵経の抜書広乗坊の処に預け置くなり、是れ則ち謝宗の為めなり、宗俊の芳恩の故なり、彼れ一覧の後本地院の文庫に還し置くべき者なり。
慶長十八癸丑年十月廿二日 日性在り判。
遺状。
一 日性帰寂の時衆口紛紜として一事も落着すべからず候条之を定め置く者なり。一 庫内への出入は円詮坊称玄両人奉行は仏種院道有公。
一 庫裏中の事、兼て存知の甚三郎等なり、奉行は信行院一乗坊頼み存じ候、資材雑具乱失の事無き専用なり。
右定むる所の人数の外の儀用ゆべからず、但是れ帰寂の当位並に中陰の中の事なり。
慶長十八年十一月十二日 日性在り判。
諸檀方衆中。
                                     年来御信力を以て種々の芳志に預り候毛頭も失念無く候、弥よ御信心を励まれ候て自然寺中の儀に少しく述懐御座候とも堪忍を遂げられ仏法相続の儀方々頼み存じ候外他無く候、去る程に少の遺物を以て年来の芳情を謝し度く候へども際限無き事に候間、一円に停止せしめ候心底なり如在にては之れ無く候、同一仏果の時霊山会上に於て申し談ずべく候、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
  慶長十八年十一月十二日                 日性在り判。
      披露の後は火中火中諸檀方衆中、参る。
  要法寺に寄進する燈明料の事。
銀六百五十文目年中に六十五文の割、銀参百文目年中に三十文、此の両所銀か九百五十文を以て利息合せて九十五文目、諸堂の燈明に擬する者なり、若し又此の両人退屈を致し銀子返弁の時は行事衆評判を遂げ紛失無く候て三会の曉迄明に亡ぶる無くんば日性の本望なり、日性一期の間栄耀を求めず又楽欲に耽らず候事偏に当寺の仏法大切を存ずる故なり。
天台云く手に巻を執らざれども常に是の経を読み、口に言教無けれども偏に衆典を誦し、心に思惟せざれども普く法界を照らす、此の如き学問豈に大ならずや云云。此の一通を書き候時は感涙老顔に流れ候、哀れ願くは自他同趣仏法にて当寺繁昌希ふ所に候。
  慶長十八年十一月十三日                 日性在り判。
      要法寺行事衆中、参る。
  要法寺常住に寄附す。
銀参貫文目出所は円詮坊存知なり。
内々申し候如く起塔の刻、銀弍貫文目寄進せしむべく存じ候処、前後の遠慮候故起塔の事延引候、其の為め又壱貫文を加へ常住に寄進する者なり、感の余り信力にて此の銀未来末代迄紛失無きの様才覚せられ此の利息を以て伽藍の修理専用に存じ候。
  慶長十九年正月十一日                  日性在り判。
      要法寺常住。

二の四、妙蓮寺の分。
妙蓮寺に古文書少し南条家の分は大石寺と下之坊とに在り上に掲げたるが如し、小室関係のもの在るべきも或は散失したるか、左に列するは皆官憲文書なり、正本何れも妙蓮寺に在り。
清房の判物、祖滅二百七十年、清房は武田家の重臣か、寺伝には猿千代丸は跡部大炊助の子と云ひ、或は小室と関係ありと云ふ、而して猿千代丸は十七代遵師にして寛永九年の寂なれば、此文書の時を仮に七歳としても八十の高齢であつた事になる、此人の幼時に跡部家の保護を受けて現地の堀の内を開きしものとすれば、戦国時代に各山にありし児貫首にして、十三世日伝十四世日尭を寺記に贈官としてあるのは此が伝役即ち代官なりしか、十五、十六二世の事未だ校へず研究を俟つ。
上野郷堀之内妙蓮寺住持職の事。
右、先般の旨に任せ領掌し畢ぬ、但し彼の地本年貢並に両度の増分合せて八貫参百七十六文の所なり此の内壱貫六百文は永代寄進せしめ候其の外は納所有るべく候、寺役等の事は先規の如く之を勤めらるべき者なり、仍て件の如し。
  永禄参年四月十九日                                                        清房在り判。
      妙蓮寺、猿千代丸殿。

  武田家高札、祖滅二百九十八年、信玄富士諸山を虐げし時妙蓮寺は其難を免か  れたるなり。
高札(此の下に竜文の朱印あり)上野郷。
当手甲乙軍勢彼の郷中に於て乱妨狼藉致すべからず若し此の御制止に背く者は罪科に行はるべき者なり、仍て件の如し。
  永禄十二年七月五日。

  武田家朱印状。祖滅二百九十五年、勝頼の代なり。
定。
一 寺家並に門前の家拾間、棟別銭御普請役御免許の事。
一 寺内山林に於て叨に竹木を截り執り濫妨狼藉御禁制の事。
一 縦ひ旧規より寺中の大工職勤仕せしむと雖も寺家造営の細工疎略にせしめば自 余の番匠を以て修造せらるべき事。
右条々、先例の旨に任せられ自今は以後も聊も御相違有るべからず候、畢竟寺中の修補、朝暮の勤行、怠慢有るべからざるの由仰せ出ださるる者なり、仍て件の如し。
 天正四年丙子卯月十二日 (此下に竜文の朱印在り) 跡部大炊助之を奉る。
    妙蓮寺。
  跡部勝資判物。祖滅前に同じ。
定。
一 寺家並に門前の新屋十間、棟別銭以下の諸役御免許の事。
一 寺内山林に於て叨に竹木を剪り執り濫妨狼藉等御禁制の事。
一 旧規より抱へ置かれ候田地御相違有るべからざるの事。
 巳上。
右、此の如く御印判を以て定め置かるるの上は勝資に於ても聊も違犯有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  天正四年丙子八月十三日             (跡部)勝資在り判。
    妙蓮寺。

  跡部勝資寺領安堵判物。祖滅二百九十八年。
定。
上野の内累年御抱への田畠罹六貫四百文新増分の事、向後縦ひ郷中へ申し付くと雖も新寺産の為め寄附せしむるの上は聊も違乱に及ぶべからざる者なり、仍て件の如し。
  天正七己卯年二月十七日             (跡部)勝資在り判。
    妙蓮寺。
  徳川家諸役免許朱印状。祖滅三百二年、甚之助は駿河方面の奉行なり。
駿州富士郡上野の郷妙蓮寺、寺内諸役免許の事。
右、無縁所たるの間前々の如く相違有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  天正十一年十月五日(此下に福徳の朱印あり)   井出甚之助之を奉る。
    妙蓮寺。

  井出正次寺領安堵手形、祖滅三百三年、正次は駿河の奉行なり。
旧規より御抱への名職先判形の如く御朱印の儀申し請け進らせ候上は自今以後の儀も壱貫八百六拾五文、新増の事は先判形に任せ御免許候其の為我等手形指し添へ進らせ候者なり、仍て件の如し。
  天正拾二年甲申三月三日             井出甚助正次在り判。
    妙蓮寺。

  横田村詮諸役免許手形、祖滅三百十六年、中村一氏の老臣横田内膳の免状なり  。
当寺諸役、前々より用捨之れ有る所今以て其の筋目相違有るまじく候、自今以後何角と申す者之れ有るに於ては此の方へ注進有るべく候、堅く申し付くべく候間、其の段心安くさせられ随分御有付き尤もに候なり。
  慶長弍丁酉卯月廿六日            横(田)内膳正村詮在り判。      富士妙蓮寺中。
二の五、法華寺の分。
讃岐国下高瀬法華寺通称大坊は古来本門寺と称せしを中古法華寺と改称せしめられしは其門家の耻辱であるのに、更に貴重の文書が秋山宗家(西秋山なり今は其家微禄して古文書は親族の管理に係る)に在りて寺衆の知る事能はざるは又重ての憾みである、今大坊什の十余通の短文の全部と秋山文書五十余通の中より十五通の長文を列記す、其秋山文書は自他共に眼に新しきものにして殊に其中の泰忠日高文書は細字の仮名書の上破損多ければ愚僧が独断に推読したる辺少からず偏に博雅の是正を仰ぐ、但し秋山文書が寺衆の見る所とならざりし縁は一は西秋山家は其一大事件の為に多数の寺檀の反感を受けたる時代ありしと、二は泰忠日高文書の頗る難読なると、三は上古の宗門史に関心無き者多きとに依ると思ふ、然れども開基泰忠の信行に熱烈なると、大聖人開山上人に敬仰の情深きと、為に仙師寿師に親しく奉仕の実を挙げたる文字毎通に充溢せる木人にも感通せざる無し、故に繁を厭ふの則を越えて多章を列するを咎むる事勿れ。
源誓譲状、祖滅五十年、源誓は孫次郎の父なりや阿願の子なりや不明なれども阿願入道状が発見せられぬ限り此の譲状が讃岐秋山家の最初の物であり下高瀬と終始するものである、正本西秋山家に在り。
さぬ(讃)き(岐)のくに(国)たか(高)せ(瀬)のがう(郷)の事。
い(伊)よ(予)たい(大)だう(道)よりしも(下)はん(半)ぶん(分)おばまご(孫)次郎泰忠ゆづ(譲)るべし、ただ(但)しよき(善)あし(悪)きはゆづ(譲)りのとき(時)あるべく候、も(若)しご(後)日にく(悔)ひかゑ(還)してじ(自)よ(余)のきやう(兄)だい(弟)のなか(中)にゆづ(譲)てあらば、はん(半)ぶん(分)のところ(所)おかみ(上)へ申してち(知)ぎやう(行)すべし、よつ(依)てのち(後)のため(為)にいまし(誡)のじやう(状)、かく(斯)のごと(如)し。
  兵部少輔等の下知状、祖滅五十五年、兵部少輔等は足利尊氏将軍の地方官か、  此亦高瀬郷を表せり、同時の写本西秋山家に在り。
讃岐の国高瀬の郷の領家職の事、勲功の賞として宛て行はるる所なり、先例を守りて沙汰を致すべき者なり、将軍家の仰に依つて下知状件の如し。
  建武三年二月十五日          兵部少輔在り判。阿波守在り判。
      秋山孫次郎殿。
  缺字の為に不明の文書、祖滅五十六年、宛名は孫次郎であらう、正本前に同じ  。
讃岐国財□(田)□□□其の聞の間□□□□差し出す所に宇□(足)□(津)□□事加□□□□□□□地頭御家人□状件の如し、
  建武四年二□□□□                     □□□□
      秋山孫□□□□。

高瀬村の分け帳、祖滅六十六年、時に阿願入道系の秋山に両家ありて高瀬郷を争ひし事次の和与状の如し、足利将軍家の奉行両人此を裁断して和与せしめ抽籖を以つて高瀬郷を等分して異議なからしむる契約に付いて其土地の明細分配状なり、爾後泰長系は次第に衰微して泰忠の一家にて長く高瀬郷を進退し並に本門寺大坊を経営せしと見ゆ、正本前に同じ。
分け帳。
讃岐の国高瀬の郷伊予大道より下半分地頭泰忠分、土居給加徴以下田畑の事。
合せて、一、土居並に給田畠分。
田一所、武清延正西依               一反。
田一所、永重宮の南                二反。
田一所、加治坪                  一反。
田一所、小原                   反少。
田一所、末則橋爪                 反九十歩。
畠一所、山神内                  一反。
田一所、守利山崎                 一反。
畠一所、延利中五郎住               一反。
田一所、方上紀太郎作               一反。
一所釈迦免八段田三段小廿歩内。
畠一所、同所東寄                 一反。
田一所、同所大迫上                一反大。
田一所、倉重下寄                 二反。
田一所、大迫下寄                 二反三百卅。
田一所、雨田井取口                一反。
畠一所、同所中切                 四反七十歩。
一所、袈裟九一反半卅歩内畠半卅。
田一所、安清方上下寄              二反半。
田一所、馬細工                  一反。
畠一所、弥三太郎古住               一反小四十。
田一所、安貞住下                 一反。
田一所、守利木寺                 一反。
田一所、重光尾張住西寄              一反。
田一所、惣六細迫上                一反。
田一所、延利中内上寄               大四十。
田一所、池町東寄                 四反。
田一所、田内下道副                三反六十歩。
田一所、貞延古住前                五反。
田一所、石田溝副                 二反。
畠一所、同所下寄                 一反半。
田一所、横田道副                 四反。
畠一所、同所西河副                二反半。
畠一所、源次郎住                 一反半。
田一所、同所西溝副                四反。
田一所、道音住切                 七反。
畠一所、同河原道東                一反。
畠一所、源六住前                 一反。
田一所、大迫上                  小。
田一所、銅溝副東                 一反。
田一所、又三郎住                 三反。
田一所、古政所下道副               一反。
 一所、貞延住                  四反小。
田一所、円行延正池下               一反。
  巳上九町一段小。
一、加徴田分。
一所、則  反小、一所、又五郎入道 小卅、 一所、堂  二反、 一所、弥平次  一反。
  巳上  七段三百歩。
一、庶子分。
一所、時守  七段。 一所、心性 五反大卅、
  巳上 一丁二反大三十歩。
一 井出五箇所、本寺井、荒井、中井、額井、竜名井、各一日一夜宛之を用ふべし。
一 算失半分。
一 新名井料米一石内半分五斗。
右孔子(籤くじ)に任せ泰忠分け帳件の如し。
  貞和参年四月十一日           源泰忠在り判、源泰長在り判。
 (田一所方上云々と一所釈迦云々の間に裏判あり、又下行に多数の黒検印あり)
和与状、祖滅前に同じ、権利の和与を計りて関係両人に連署せしめ更に両奉行が証判を加へしなり、正本前に同じ。
和与。
讃岐の国高瀬の郷伊予大道より下の地頭職の事。
右秋山孫次郎泰忠助同く舎弟孫四郎経長訴へ申し如くんば、当郷は曾祖父阿願の手より之を譲り得と云云、秋山彦次郎泰長は阿願藤原氏女に譲り与へ畢つて後、氏女宮伊豆丸俗名泰継を生むの間、阿願の譲状を相副へて氏女より泰継に譲り渡す者なり、随つて泰長関東の御下文、和与下知、外題安堵並に代々の手継等を相伝して今に知行相違無きの由之を陳ぶ、二問答畢つて●く上裁に任すべしと雖も、所詮和与の議を以て訴論を止め当郷中分せしむる所なり、仍て伊予大道より下半分の内土居給田畠玖町壹反小、加徴田参町捌段六十歩、百姓名六番参拾陸町番別六町充、南武包漆段参百歩、庶子分壹後弍反大三十歩、井手五箇所木寺、荒井、中井、額井、新名井、を一日一夜宛之を引用すべし、●失半分新名井料米壹石半分五斗は泰長知行すべしと、件の分帳別紙に有りと雖も所記之を付くるなり、分帳各封裏して之を所持し、孔子に任せて之を分け定むる上は堅く彼の状を守り相互に領知を全うせしむべし、若し和与状に背かば御下知違背を以て罪科に申し行はるべきなり、仍て和与状件の如し。
  貞和三年四月日            源泰長在り判、源泰忠在り判。
後証の為に加判する所なり。
  貞和三年五月七日       資連在り判、(布施弾正忠)、貞兼在り判。
散位某の状、祖滅七十年、散位の名を知らず、領家職を証認して其地の年貢を軍糧に預け置くの状なり、同時の写本前々にある兵部少輔等状と一紙なり。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間兵糧として預け置かるる所なり、先例に任せて沙汰を致さるべきの状件の如し。
  観応二年八月廿三日                 散位御判在り。
     秋山孫次郎殿。
ちやうはう沽券、祖滅七十二年、前の和与状にある別系泰継の孫である者より泰忠の夫人に二反の地を売却せしなり、正本前に同じ。
さぬ(讃)き(岐)のくに(国)のがう(郷)のうち(内)しげ(重)みつ(光)がまへ(前)ろう(郎)とう(党)あわ(合)せて二たん(反)あつけ(預)よう(用)どう(途)四くわん(貫)たしか(慥)にうけ(受)とり(取)候ひぬ。
みぎ(右)のく(ら)う(郎)とう(党)はおほぢ(祖父)やす(泰)つぐ(継)よりはは(母)れんちのゆづ(譲)り給はるなり、しか(然)るを又もこ(子)な(無)きあいだ(間)ちやうほう(漢字不明)がいちへ(不明)にゆづ(譲)りゑ(得)候ところ(所)を、よう(要)よう(用)あるによ(依)つてたか(高)せ(瀬)のそう(惣)りやう(領)どの(殿)のねう(女)ばう(房)にゑい(永)たい(代)をかぎ(限)つてうり(売)わた(渡)すところ(所)じち(実)なり。
ただ(但)しとく(徳)せい(政)なんど(等)あり(有)とゆ(云)ふともまつた(全)くい(違)らん(乱)を申すべからず候、も(若)しご(後)日にもこ(此)のじやう(状)をそむ(背)きてい(違)らん(乱)を申し候はば、ちやうほうがち(知)ぎやう(行)し候ところ(所)をなが(永)くとり(取)なか(く)されまいら(進)せ候べく候、こ(此)のりじやう(状)をそむ(背)きてなん(男)し(子)ねう(女)し(子)をきら(嫌)はず、ちやうほうがこ(子)ども(供)の中にい(違)らん(乱)を申し候はば、ふ(不)けう(孝)のじん(仁)としてちやうほうがあと(跡)をいち(一)ぶん(分)もち(知)ぎやう(行)すべからず候、よつ(依)てご(後)日のため(為)にじやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
ぶん(文)は(わ)(和)みづのと(癸)み(巳)のとし(年)二年正月廿二日、まつさ(た)(全)くく(公)じ(事)はがう(恒)れい(例)のはう(法)とあるべく候。
孫次郎泰忠譲状、祖滅九十二年、本門寺の開基大檀那として讃岐秋山の曩祖としての家の為に神魂を●せし、将来の鑑鏡としての訓誡の文字十二分なる特種の譲状の嚆矢である、此状に依れば子息は又次郎と孫七との両人で又二郎が同日付の後の状には惣領職を襲ふ事となりたれども、文に見えぬ子息等は外にもあり日源、顕泰、源通三人の契約状にもあるが此三人は又次郎孫七とは別人のやうである、又此より十五年後には四男の孫四郎を惣領としてをる、此等の正本皆西秋山家に在り。
のち(後)のため(為)にいまし(誡)めお(置)くでう(条)でう(条)の事。い(伊)よ(予)だい(大)だう(道)よりきた(北)はおほぢ(祖父)あ(阿)ぐわん(願)よりやす(泰)ただ(忠)ゆづり(譲)給はるじち(実)なり、しか(然)るをこ(子)ども(供)といまご(孫)ともにはめん(面)めん(面)にゆづ(譲)り(る)ところ(所)なり、これ(此)によつ(仍)ておや(親)のめい(命)をそむ(背)く事あらばふ(不)けふ(孝)のもの(者)としてやす(泰)ただ(忠)があと(跡)におい(於)ては一ぶん(分)もしる(知)べからず。
一 みやとき、なが(永)しげ(重)とくたけ、一のみやう(名)のぶ(延)とし(利)もり(守)とし(利)たけかねみやう(名)なくのみよやう(名)のうち(内)をめん(面)めん(面)にゆづ(譲)るなり、これ(此)によつ(依)てその(其)いにしへ(古)はたれ(誰)がつく(作)りのうち(内)むかし(昔)はた(誰)がみやう(名)のうち(内)にこそありしがなんど、いささか(聊)もこ(此)のいましめ(誡)をそむ(背)きて、い(違)らん(乱)を申し候はんずるやす(泰)ただ(忠)がこ(子)ども(供)なん(男)し(子)ねう(女)し(子)をた(聞く)かば、なか(中)なか(中)ふ(不)けう(孝)の人なり、も(若)しまご(孫)どものなか(中)にあらばおなじ(同)ざい(罪)くわ(科)なり。一 さ(沙)た(汰)人のくう(公)じ(事)なら(並)びにとく(得)ぶん(分)せち(節)れう(料)の事。
又次郎がぶん(分)にまご(孫)七いろう(綺)べからず、まご(孫)七がぶん(分)におなじ(同)くはは(母)いろう(綺)べからず、又につ(日)かう(高)がぶん(分)にもきやう(兄)だい(弟)ともいろう(綺)事ゆめ(努)ゆめ(努)あるべからず、たん(田)ところみやう(名)はことごとく(悉)につ(日)かう(高)にゆづ(譲)るなり。
一 いけ(池)かは(河)ならび(並)にい(井)で(手)(堰)の事、いち(一)日一や(夜)づつ(宛)い(異)ろん(論)な(無)くまかすべく候、きやう(京)と(都)くわん(関)とう(東)の御くう(公)じ(事)あらばぶ(分)げん(限)にしたが(随)つてめん(面)めん(面)にその(其)さ(沙)た(汰)をいた(致)すべし。
一 十月十三日の御事はやす(泰)ただ(忠)があと(跡)をち(知)ぎやう(行)せんずるなん(男)し(子)ねう(女)し(子)まび(孫)ひこ(彦)にいた(至)るまで(迄)ちう(忠)をいた(致)し申すべきなり、この(此)御だう(堂)よりほか(外)にかりそめ(苟)にも御だう(堂)おたて(建)この(此)御だう(堂)をそむ(背)き申すまじ印に又ない(内)はきやう(兄)だい(弟)といひ又ほおぢ(大伯父)のなか(中)いとこ(従兄弟)のなか(中)にもうらむ(恨)る事ありとも十三日にあい(相)たがい(互)に心を一つにして御ほとけ(仏)大上人をやす(泰)ただ(忠)があお(仰)ぎ申すごと(如)くに、十五日まで(迄)みな(皆)みな(皆)一ところ(所)にて御つとめ(勤)も申し候べく候、又しら(白)びよう(拍)し(子)さる(猿)がく(楽)との(殿)ばら(原)をもぶん(分)ぶん(分)にしたが(従)つてねんごろ(懇)にもてなし(接待)申すべきなり、ない(内)ない(内)はいか(如何)なるい(遺)こん(恨)ありとい(云)ふとも、十月十三日はいささか(聊)もほい(本意)な(無)き事をばおも(思)ひすて(捨)てまつ(祀)り申すべきなり。
一 も(若)しゆづり(譲)はづし(外)あらばめん(面)めん(面)にゆづ(譲)るところ(所)のみやう(名)のうちならばぬし(主)とち(知)ぎやう(行)すべし。
一 も(若)しこの(此)じやう(条)をそむ(背)いてい(違)らん(乱)をいた(致)さんずるこ(子)ども(供)は御ほとけ(仏)大上人十ら(羅)せち(刹)八まん(幡)大ぼ(菩)さつ(薩)の御ばち(罰)をかぶ(被)るのみならず、やす(泰)ただ(忠)がため(為)にはなが(永)くふ(不)けふ(孝)もの(者)なり、ゆづ(譲)るところ(所)おば一ぶん(分)なりともち(知)ぎやう(行)すべからず、も(若)しい(違)らん(乱)お申し候はんずるこ(子)ども(供)のぶん(分)をばきやう(兄)だい(弟)のなか(中)にかみ(上)へ申してとう(等)ぶん(分)にわけ(分)てち(知)ぎやう(行)すべし、いづ(何)れのゆづ(譲)りもじ(自)ひち(筆)なり、も(若)しは(判)ぎやう(形)をまね(真似)たりとい(云)ふともた(他)ひち(筆)ならばぼう(謀)そ(書)なり、めん(面)めん(面)のゆづ(譲)りのなか(中)にも又いましめ(誡)のなか(中)にも、じ(字)をのおち(落)たるところ(所)にはいれ(入)じ(字)をした(為)るなり、これ(此)によつ(依)てし(子)さい(細)い(云)ふ事あるべからず。
一 はは(母)の一ご(期)はしん(新)はま(浜)のねん(年)ぐ(貢)又しを(塩)のち(地)し(子)をばしん(進)たい(退)たるべし、も(若)しはは(母)のめい(命)をそむ(背)かばおな(同)じくふ(不)けふ(孝)の人なり、さき(先)のごと(如)くどう(同)ぜん(前)。
一 そう(僧)たち(達)にかう(孝)ぶん(分)のうち(内)にまいらせ(進)候ところ(所)をばたか(高)のぞき(除)にして候、いづ何(何)れのこ(子)ども(供)のゆづり(譲)のうち(内)なりともいろい(綺)申ずからず、わが(我)かた(方)のぶん(分)のそう(僧)にてはしまし(座)候なんど申し候こ(子)ども(供)はおな(同)じく(不)けふ(孝)もの(者)なり、これ(此)もとが(科)さき(先)のごと(如)し。
一 こ(子)ども(供)のゆづり(譲)のうち(内)にそう(僧)しう(衆)にまいら(進)せ候ぶん(分)はみな(皆)みな(皆)あるなり、たか(高)のぞき(除)に申して候なり。
一 いけ(池)かは(河)又い(井)で(手)のみづ(水)もめん(面)にその(其)ひ(日)にあた(当)り候とも、そう(僧)しう(衆)には□□さり申していれ(入)させ申すべきなり。
一 この(此)じやう(状)をそむ(背)く事あらばいづ(何)れのこ(子)ども(供)のぶん(分)をもかみ(上)へ申して御そう(僧)ゑき(寄)き(進)申すべきなり、よつ(依)てご(後)日のため(為)にいましめ(誡)のじやう(状)、くだん(件)のごと(如)し。
 文和みづのと(癸)のみ(巳)のとし(年)二年三月五日
                             源泰忠在り判。
又二郎へ譲状、年代前と同じ、地頭と百姓名とを与へ其土地に付いて孫七との権限を明にせるものなり、正本前に同じ。
(端裏書)又二郎がゆづり。
ゆづり(譲)はた(渡)す又二郎にさぬ(讃)き(岐)のくに(国)たか(高)せ(瀬)のがう(郷)のうち(内)のち(地)とう(頭)と、いま(今)(不明)ならび(並)にひゃく(百)しやう(姓)みやう(名)の事。
みぎ(右)のところ(所)はおほぢ(祖父)あ(阿)ぐわん(願)よりやす(泰)ただ(忠)ゆづり(譲)給はるなり、しか(然)るをし(子)そく(息)又二郎にゑい(永)た(い)(代)をかぎ(限)つてゆづ(譲)るところ(所)じち(実)なり、一分つけ(附)べち(別)にあり、この(此)つぼ(坪)つけ(附)とい(云)ひゆづり(譲)じやう(状)にまか(任)せてめん(面)めん(面)にさを(相)い(違)な(無)くち(知)ぎやう(行)すべし、すなくしみやう(名)ならび(並)にたんところみやう(名)、かは(河)よりにし(西)のち(地)とう(頭)と(土)い(居)きう(給)に又二郎いろう(綺)べからず、く(公)ぶん(分)のせち(節)れう(料)じ(自)よ(余)のくう(公)じ(事)にまご(孫)七あい(相)いろう(綺)べからず、す(指か)なん(南)し(使か)のせち(節)れう(料)じ(自)よ(余)のくう(公)じ(事)に又二郎いろう(綺)べからず、いけ(池)かは(河)い(井)で(出)は一日一夜づつ(宛)まか(任)すべし、きやう(京)と(都)くわん(関)とう(東)の御くう(公)じ(事)あらばふ(分)げん(限)にしたが(従)つてその(其)さ(沙)た(汰)をいた(致)すべし、この(此)一分づけ(附)とい(云)ゆづり(譲)じやう(状)とい(云)、そむ(背)いてい(違)らん(乱)をいた(致)さんずるこ(子)ども(供)は、やす(泰)ただ(忠)がため(為))には七だい(代)まで(迄)ふ(不)けふ(孝)の人としてゆづる(譲)ところ(所)をば一ふ(分)もつ(知)ぎやう(行)すべからず、かみ(上)へ申してきやう(兄)だい(弟)のなか(中)にとう(等)ぶん(分)にわけ(分)てち(知)ぎやう(行)すべし、ご(後)日のため(為)にゆづり(譲)じやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
  文和二年みづのと(癸)のみ(巳)のとし(年)三月五日
                            源泰忠在り判。
又二郎へ譲り状、年代正本前に同じ、新浜の塩浜の譲りにして又二郎孫七になるが猶東西の境界をも明記せられてある。
(端裏書)又二郎のゆづりなり。
ゆづり(譲)はた(渡)すし(子)そく(息)又二郎にたか(高)せ(瀬)のがう(郷)のうち(内)しん(新)はま(浜)のしを(塩)はま(浜)、この(此)一分つけ(附)にまか(任)せてひがし(東)のぶん(分)ち(知)ぎやう(行)すべき事。
みぎ(右)のところ(所)はおほぢ(祖父)あ(阿)ぐわん(願)よりやす(泰)ただ(忠)ゆづ(譲)り給はるなり、しか(然)るを又二郎にゑい(永)たい(代)をかき(限)つてゆづ(譲)るところ(所)なり、い(違)らん(乱)あらそい(諍)な(無)くち(知)ぎやう(行)すべし。ひがし(東)はまご(孫)七にゆづ(譲)るところ(所)のくわやおさから(不明)にし(西)はなか(中)にさかい(堺)をそす(指)なり、いづく(何処)まで(迄)もすぐ(直)にとを(通)すべし、きた(北)のさかい(堺)はまつ(松)さき(崎)まで(迄)なり、この(此)ゆづり(譲)じやう(状)そむ(背)いてい(違)らん(乱)をいた(致)さんずるやす(泰)ただ(忠)がこ(子)ども(供)はぶつ(仏)ほう(法)せ(世)ほう(法)につけ(附)てなが(永)くふ(不)けふ(孝)の人としてやす(泰)だた(忠)があと(跡)におい(於)ては一ぶん(分)もち(知)ぎやう(行)する事あるべからず、い(違)らん(乱)をいた(致)さんずるこ(子)ども(供)のぶん(分)をばかみ(上)へ申してきやう(兄)だい(弟)のなか(中)にとう(等)ぶん(分)にわけ(分)てち(知)ぎやう(日)すべし、きやう(京)と(都)くわん(関)とう(東)の御くう(公)じ(事)はふ(分)げん(限)にしたが(随)いてその(其)さ(沙)た(汰)をいた(致)すべし、よつ(仍)てご(後)日のため(為)にゆづり(譲)じやう(状)、くだん(件)のごと(如)し。
  文和二年みづのと(癸)のみ(巳)のとし(年)三月五日
                             源泰忠在り判。
日仙上人譲状、祖滅七十二三年頃か、此譲状の正本を拝見するを得ざれども写本にも誤脱多きが如く仙師の寂年も未決なり、但し此の状に依りて漸く華師より相伝したる大聖人の御本尊を後住の寿師に授与したる事が判明する、其は今の顕妙新五郎授与の物にして中世に秋山の小漫荼羅と称せしものなるべし、此状の古写本法華寺に在り。
日仙に給はる可(所)大聖人自筆の本尊並に聖教等□□□ひて候、故坊主寂日坊□(への)大聖人御自筆をば敵(嫡)弟□□日仙相伝仕りて候を弟子曽根の大弍阿闍梨日寿に□□□いて候、人のあと(跡)むつかし(難)く候を見るにつけ候て後のため□□入候、恐々謹言。
(文和元か二か)二月十二日                  日仙御判。
日高置状、祖滅七十二年、貞和九年と訓まるるが文和二年に当る、法華寺蔵中日高文書弍通の一なり、一通一枚上部の七分通一二字づつ破缺したるのみならず、初の方は所々磨破して不明の文字多き難読のもの、今強いて●に写し出すが偏に大賢の是正を仰ぐ所なり、最此は仙師への土地寄進状にして文和二年秋までは仙師存命なる事の証左となり其正月七日の命日を正とせば仙師は文和三年九十三歳寂を正当とすべき事となる。
□(あ)□(ら)ためてさだ(定)めを(置)き候て進らせ候事。
□月廿五日はこ(故)はは(母)にてわた(渡)らせ候妙久の御めい(命)日にて□(わ)□(た)□(ら)□(せ)□(給)□(候)□(ほ)□(ど)に月ごと(毎)にその(其)ひ(日)をか(書)き申しとはあ□(し)□□(く)ともその日か(書)き申し候事のみ□いた御けふ(孝)□(や)□(う)(養)のため(為)に御ば□(う)(坊)へき(寄)しん(進)たてまつ(奉)り□(候)はた(畠)あは(合)せて三たん(段)なり。みぎ(右)のところ(所)はあ(阿)ぐわん(願)よりにつ(日)かう(高)ゆづり(譲)給はるなり、□(し)か(然)るをうば(祖母)にてわた(渡)らせ給ふ人とはは(母)にてわた(渡)らせ給ふ二人の御けふ(孝)やう(養)のため(為)にそゑ(添)御や(屋)しき(敷)のため(為)にき(寄)しん(進)申すところ(所)なり、しか(然)るをまご(孫)七わが(我)ゆづり(譲)のうち(内)とい(違)らん(乱)を申す事あらばなか(中)なか(中)ふ(不)けふ(孝)の人なり、ほん(本)□(か)□(う)(郷)□(な)い(内)しん(新)はま(浜)のど(土)い(居)ぶん(分)とにつ(日)かう(高)あと(跡)におい(於)ては一ぶん(分)もち(知)ぎやう(行)する事あるべからず、も(若)しまご(孫)七い(違)らん(乱)を申□(さ)ばか(彼)の人のぶん(分)をばきやう(兄)だい(弟)のなか(中)にかみ(上)へ申してち(知)ぎやう(行)すべきなり、又はそう(僧)おそむ(背)き申し候はんずるこ(子)ども(供)まご(孫)ども(共)、又はそう(僧)しう(衆)のなか(中)にはしまし(御座)候はんずる人と候はんきしまし候はばふ(不)けふ(孝)の人としてにつ(日)かう(高)があと(跡)におい(於)ては一ぶん(分)もち(知)ぎやう(行)すべからず。
一 御そう(僧)(仙師)より御のち(後)はだい(大)に(弍)そう(僧)一ぶん(分)ものこ(残)さず御あと(跡)は御ち(知)ぎやう(行)あるべきあいだ(間)ご(後)日のため(為)にいましめ(誡)のおき(置)じやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
 ぢやう(貞)は(和)く(九)ねん(年)十月三日
            しや(沙)み(弥)につ(日)かう(高)在り判。
日高念誡の状、祖滅九十一年、日高自筆文書の法華寺の第二である、此時は惣領孫四郎光高に大弍寿師等への奉仕を命じてある其中に「ちうぶん」と云ふ忠分であり孝分に対するのである、但し十三日講十五日講を絶対に厳命してあるのは何れの状にも異りはない。
□(わ)□(た)(渡)しまいらせ(進)を(置)き候ゆづり(譲)じやう(状)にも、いましめ(誡)のじやう(状)にじ(字)のおち(落)候ところ(所)には、みな(皆)みな(皆)入れじ(字)を□(し)して候これ(此)をうたが(疑)ふ事あるべからず候、□(こ)(子)ども(供)にもゆづり(譲)を(置)き候じやう(状)ごと(毎)にじ(字)のおち(落)て候ところ(所)にはみな(皆)みな(皆)入れじ(字)をし(為)て候。
一 日かう(高)がし(子)そん(孫)の中に大弍の御そう(僧)のほか(外)にし(師)を□(と)(取)り申し候人も(若)し候はば日かう(高)があと(跡)にを(於)き候ては一ぶん(分)ち(知)ぎやう(行)する事ゆめ(努)ゆめ(努)あるまじく候、も(若)しも候はばそう(惣)りやう(領)みつ(光)たか(高)はか(計)らいとして、かみ(上)へ申して御そう(僧)へき(寄)しん(進)申すべく候。
一 十三日のかう(講)又十五日かう(講)の人々ひやく(百)しやう(姓)も御めい(命)をそむ(背)き候はば、みな(皆)みな(皆)大はう(謗)ぼう(法)としてりやう(領)ない(内)のかまい(構)あるまじく候。
一 ちう(註)ぶん(文)やぶ(破)り候ても候はばもと(元)のごと(如)くき(寄)しん(進)申し候ところ(所)□(を)ばそう(惣)りやう(領)まご(孫)四郎まつはくにはた(果)してまいらせ(進)候。
一 いく(幾)ら(等)も申しを(置)きたき事々どもなを(猶)もをつ(追)て申し候べく候。
 おう(応)あん(安)五年三月二日
                 しや(沙)み(弥)日かう(高)在り判。
大御坊の為に僧衆及び一家への誡の状。前と同日付けで秋山文書の正本であるが、全紙破損甚しく殊に前半の上部は六七字程づゝも破失してをる、難読にして意を得ること易からず、又□を入れたるも大概の見当である、又此文書にも寿師への奉仕を一門に誡めてある、僧中の統制も巌に言ひ付けてある「チウナゴン」小僧に愛情を垂れてある等熟読して泰忠の衷情を味ふべし。
□□□□□□□□ならび(並)ににつ(日)こう(興)しやう(上)人にせんしん□御□□□□□□なり、又は大ご(御)ばう(坊)の御しんにの御こころ(意)なり。
一 い□□□□□□そう□□□□おほたうはこ(小)ども(供)どもと□□□□□□□御し(師)にたの(憑)み申すべきなり、これ□□□□□□□□あと(跡)はいち(一)ぶん(分)もち(知)ぎやう(行)すべからず候。
一 月□二□三日は大御ぼう(坊)(仙師)の御めい(命)日にてわたらせおはしますによ三□□□□かたうそのうち(内)ひやく(百)しやう(姓)しも(下)べ(部)にいたるまでの□□□□ぬ人は大はう(謗)ぼう(法)の人なり、も(若)しあらばしやう□□□□□□□□のもの(者)なるべし。
一 □□□□□身大に(弍)の御そ(う)(僧)の御めい(命)をゆめ(努)ゆめ(努)おろそ(疎)□(か)□(に)さ□□□□べからず、も(若)しちが(違)ひ申す事あらば日かう(高)があ□(と)(跡)□□□□□るべからず、そう(総)りやう(領)のしんたるべし。
一 御□(は)う(坊)の御うち(内)になに(何)ごと(事)も人のいとま(暇)入り候事あらばそう(総)□(り)□(や)□(う)(領)(の)□(は)□(か)□(ら)(計)いとして御よう(用)にあは(合)せ□(候)□(なり)、も(若)しそむ(背)く人あらばこ(子)ど□(も)(供)わか(若)たう(党)にいたるまでしう(宗)□(は)う(法)におこな(行)うべし。
一 □□□□んずる人はじやう(上)げ(下)をきらは(嫌)ず一□にしをとの□□□□□三つこりてを□□□これを□□□□□□□□り□□らばそう(総)りやう(領)もはう(謗)ぼう(法)たるべし。
一 御だう(堂)のすつ(出)し(仕)の事はあまり(余)に人め(眼)もし(知)らず、ざい(在)け(家)のふる(振)まい(舞)をし候はんずるそう(僧)ども(共)はた□ちやうのうち(中)はなかう(叶)まじく候たたちやうよりほは(か)のつま(妻)ど(戸)のま(間)にてあるべく候。
一 御ばう(坊)み□□のそう(僧)たち(達)の事は御はから(計)ひのほか(外)あ(阿)ざ(闍)り(梨)のした(下)のそう(僧)ども(共)の御めい(命)にそむ(背)き候はんずるは御たう(堂)のすつ(出)し(仕)は御とど(止)めあるべく候。
一 又申し候ちう(中)な(納)ごん(言)ばう(房)が事あい(相)かまへ(構)て御ふ(不)びん(便)にをぼしめされ候て、人になり候やうにがく(学)もん(問)もせ(為)させて給ひ候はば、日かう(高)がくさ(草)のかげ(蔭)まで(迄)もよろこ(悦)び申し候べく候。
一 御だう(堂)の御事にも御ばう(坊)ちう(中)の事にもも(若)しい(違)らん(乱)をも申す人候はばいまし(誡)めにひき(引)おきて候、御ばう(坊)ちう(中)と申□□はうはうも又□□□たか(高)のぞき(除)にして候、のち(後)のた(為)めいましめ(誡)を(置)きて候。
一 いま一ど御そう(僧)にもか(斯)やう(様)に御いけみわたらせ候て御あと(跡)まで(迄)も大ばう(坊)のなを(猶)も御なをも御あきあきとこそおぼへ□(給)□(ひ)□(候)へ。
一 御ばう(坊)ちう(中)の事又十月の御ゑ(会)のさ(作)ほう(法)□まにて候、まご(孫)四郎にそう(総)りやう(領)□(し)□(き)(職)をゆづ(譲)りて候なに(何)ごと(事)もおほせ(仰)あは(合)せ候へ。
一 大に(弍)そう(僧)の御ため(為)におろか(疎)にもおも(思)い申し、又いささか(聊)ゆづ(譲)り申し候た(田)はた(畑)をにつ(日)かう(高)にもい(違)らん(乱)をも申し候はんずるこ(子)ども(供)まご(孫)など(等)にいた(至)るまでも、日かう(高)がため(為)にはふ(不)けふ(孝)し(師)てき(敵)たい(対)してあと(跡)におい(於)て一ぶん(分)もつ(持)べからず、かみ(上)へ申してその(其)ぶん(分)をば御□□□いよつ(依)てご(後)日のため(為)にいましめ(誡)のじやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
おう(応)あん(安)五年三月二日
                 しや(沙)み(弥)日かう(高)在り判。
孫四郎光高へ譲り状、祖滅九十一年、光高は四男なれども引き上げて惣領としたる其器量を賞して一族も其支配に従ふべきを命じ、又高瀬の四至をも明にしてあるは今よりも明に当時の高瀬郷を知り得るの料となる、殊に大御坊の事を爰にも記してある、此は西秋山文書の正本なり。
(端裏書)□(ま)□(ご)□(四)□(ら)□(う)みつ(光)たか(高)□(ゆ)□(づ)□(り)(譲)。
ばう(坊)のにう(入)だう(道)い□□□□(ま)ご(孫)四郎いま(今)はみつ(光)た(か)(高)とがう(号)す、その(其)き(器)りやう(量)とい(云)(ひ)かう(高)ため(為)に心やす(安)きによつ(依)てし(四)なん(男)とい(云)へどもちやく(嫡)し(子)にたて(立)て、日かう(高)があと(跡)のそ(う)(惣)りやう(領)しき(職)をゆづ(譲)るなり、く(公)ばう(方)の御くう(公)じ(事)なんど(等)もぶん(分)ぶん(分)によつ(依)てはい(配)ぶん(分)をし(為)てとも(共)にさを(相)(い)(違)なくつとめ(勤)申すべきなり、も(若)し又そ(う)(惣)りやう(領)のし(支)はい(配)にしたが(従)はずそむ(背)く人あらばかみ(上)へ申してざい(罪)くわ(科)に申しをこなう(行)べし、をなじ(同)くさんしちともにゆづる(譲)なり。
一 さかい(堺)の事はひがし(東)大み(見)のさかい(堺)をあさ(浅)つ(津)の山をくだ(下)り、にし(西)はたく(託)ま(間)のさか(坂)まつ(松)さき(崎)まで(迄)しう(汐)き(木)のみね(峰)をさか(堺)うなり、又みなみ(南)たけかしのしち(七)たん(反)あまり(余)ゆづ(譲)るなり。
一 御だう(堂)の大せ(仰)を□□ますも、又大御ばう(坊)その(其)ほか(外)ばう(坊)しき(敷)も、みな(皆)たか(高)のぞき(除)にしる(記)し候、くはしく(委)はべち(別)にしる(記)しお(置)き候なり、心へ(得)(の)ため(為)とあら(粗)あら(粗)しる(記)しなり。
  おう(応)あん(安)五年三月八日        日かう(高)在り判。
三人契約状、祖滅九十三年、泰忠の子日源、顕泰、源通三人が申し合せたる自筆の状で秋山文書である、一忠の系図には泰忠の後は又二郎泰口で其四代目が修理之進頭泰(顕の誤か)となつてをる此の顕泰が又二郎かも知れぬ、日高文書には応安頃の惣領は孫四郎光高なる事は上の通りである秋山文書の研究は必要であると思う。のち(後)のため(為)にじ(自)ひつ(筆)おくわ(加)るところ(所)なり、日源。
のち(後)のため(為)にじ(自)ひつ(筆)おくわ(加)るところ(所)なり、顕泰。
のち(後)のため(為)にじ(自)ひつ(筆)おくわ(加)ふるところ(所)なり、源通。
契約、讃岐の国たか(高)せ(瀬)の郷並に新はま(浜)の地頭職の事。
右当しよ(所)はしん(親)ふ(父)泰忠去る文和二年三月五日、新はま(浜)東村は源通、西村に日源、中村は顕泰一ひつ(筆)同日の御譲をめん(面)めん(面)たい(帯)して知ぎやう(行)さう(相)ゐ(違)に(無)きものなり。しか(然)るをも(若)し一れつ(列)のゆづ(譲)りのほか(外)こと(異)なる譲状をささげて、い(違)らん(乱)をいた(致)さん子うまご(孫)におい(於)ては、なが(永)くふ(不)けふ(孝)のじん(仁)としてかみ(上)ゑ申しざい(罪)くわ(科)に申しおこな(行)はるべきものなり、此の上は相互に水ぎよ(魚)のおもい(想)をな(為)し、同日のゆづり(譲)じやう(状)のむね(旨)にまか(任)せて知行ま(つ)たく(全)せしめんがため(為)に仍いてけい(契)やく(約)のじやう(状)件の如し。
応安七年七月廿五日
              僧日源在り判、源顕泰在り判、沙弥源通在り判。
惣領孫四郎へ譲状、祖滅九十三年、孫七に譲りたるを取り返して孫四郎に転属せしめたる状なり、正本西秋山家に在り。(端裏書)そう(惣)れう(領)まご(孫)四郎のゆづり(譲)。
□(み)ち(道)よりしも(下)のそう(惣)りやう(領)しき(職)の事。
まご(孫)四郎はばう(坊)のにう(入)(だう道)のため(為)にはし(四)なん(男)なりとい(云)へども、あ(阿)ぐわん(願)のこ(故)れ(い)(例)にまか(任)せてそう(惣)りやう(領)しき(職)をまご(孫)四郎にゆづる(譲)なり、たか(高)せ(瀬)のがう(郷)す(指)□(な)□(ん)し(き)(職)ならび(並)にとく(徳)たみやう(名)名ぶん(分)はばう(坊)のにう(入)だう(道)ゆづ(譲)るところ(所)なり、その(其)はん(半)ぶん(分)はまご(孫)七にゆづり(譲)候へどもふ(不)けふ(孝)するあいだ(間)とり(取)あ(上)げてまご(孫)四郎にすこ(少)しものこ(残)さずゆづ(譲)るなり。
一 あく(悪)とく(徳)たい(太)ふ(夫)がつく(作)りた(田)はたけ(畠)五たん(反)おば御そう(僧)(大弍日寿)ゑき(寄)しん(進)申すなり。
一 けんちたい(太)ふ(夫)がつく(作)り三たん(反)をばにし(西)□(坊)にき(寄)しん(進)申した□□か(河)はら(原)た(田)かはらた三たん(反)をばもと(元)の□(ご)□(と)□(く)ちう(中)なん(納)こ(言か)にた(給)び候。
一 まご(孫)七がい(違)らん(乱)したるしを(塩)はま(浜)く(宮)ない(内)ばう(房)に三おもて(面)あつ(預)けたり、その(其)ほか(外)は一ぶん(分)ものこ(残)さずを(塩)や(屋)とも(共)にゆづ(譲)るなり。
にい(新)ばう(房)又ちう(中)なん(納)ご(言)にだい(大)じ(事)のくう(公)じ(事)かへ□(す)□(が)□(へ)すふ(不)びん(便)にあた(当)り候へ。
よつ(依)てご(後)日のため(為)にじやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
おう(応)あん(安)七年十一月八日
              しや(沙)み(弥)につ(日)かう(高)在り判。孫四郎へ地頭職譲り状、祖滅九十五年、三人の子に分け譲る所を孫七不孝する故に取りかへして孫四郎に附して地頭職とする等の事なり、正本西秋山なり。
(端裏書)まご(孫)四郎がゆづり(譲)じやう(状)なり。
ゆづり(譲)はたす(渡)まご(孫)四郎にさぬ(讃)き(岐)のくに(国)たか(高)せ(瀬)のが□(う)(郷)い(伊)よ(予)だい(大)だう(道)よりしも(下)のぢ(地)とう(頭)しき(職)の事。
さき(先)だつて(達)三人のこ(子)ども(供)にわけ(分)ゆづる(譲)ところ(所)をま(孫)七分をばふ(不)けふ(孝)するあいだ(間)くり(ひ)(悔)かへ(返)して、ころざし(志)あるによつ(依)てそう(惣)りやう(領)まご(孫)四郎にゆづる(譲)ところ(所)じち(実)なり、にち(日)かう(高)がゆづり(譲)のまご(孫)七がぶん(分)をば一ぶん(分)ものこ(残)さずそ(所)りやう(領)すべし、も(若)しこの(此)じやう(状)をそむ(背)いてまご(孫)七に一とう(党)せんずるし(子)そん(孫)はにつ(日)かう(高)あと(跡)におい(於)ては一ぶん(分)もし(知)るべからず、かみ(上)へ申してその(其)あと(跡)をまご(孫)四郎ち(知)ぎやう(行)すべし、よつ(依)てご(後)日のため(為)にゆづり(譲)じやあ(状)くだん(件)のごと(如)し。
ゑい(永)わ(和)二年十二月十二日
              しや(沙)み(弥)につ(日)かう(高)在り判。泰弘譲り状、祖滅百六十四年、嫡子孫四郎へ阿願以来代々相続の地頭及び新加の東本山水田名を譲る状なるが、此に列記する代々は一忠の系図とは大に異れり、杢之進暗記に任せ又は新記録に依りて古文書を顧みざりしものか正本法華寺に在り。
譲り渡す讃岐の国三野郡高瀬郷伊予大道より下の当行地頭職並に新浜土居□(給か、)同く東本山水田名等。
右知行仕り候処の所領は阿願より泰忠、泰忠より泰久、泰久より有泰、有泰より泰弘そう(相)ぞく(続)仕り候処実なり、而るに嫡子孫次郎代々の御判並に先祖ぢう(重)しよ(書)相副へ譲り渡す処実なり、此の内四郎二郎ふ(扶)ち(持)の分屋しき(敷)友に一丁そうりやうやく(役)、け(懈)だい(怠)な(無)く給はるべく候、又おとと(弟)共は孫二郎がはからい(計)にてふ(扶)ち(持)有るべく候、仍て後日の為に手次の譲り状件の如し。
時に文安二年太歳きのと(乙)のうし(丑)の年十一月廿五日
                         秋山式部少輔泰弘在り判。かまた寺領の沽券、祖滅二百十六年か、また寺及び乗源豊島源勝の事不明なり、買主の修理進は一忠系図の顕泰なるべし、正本西秋山なり。
永代うり(売)渡し申すかまた寺領の事。
合せて壱段半はぢき(直)銭(あたひ)弍貫参百文請け取り申し候、あり(有)つぼ(坪)は高瀬郷内の道より下いし(石)田なり。
右件のかまた寺領石田壱反半永代おかぎり(限)うり(売)渡し候処実なり、此下地はど(土)い(居)にて候間諸公事しよくはな(無)く候、で(弟)し(子)子孫しん(親)か(る)い(類)にい(違)らん(乱)妨げ申す物の候はば、御公方様へ御申し御ざい(罪)くわ(科)にあづか(預)りそう(惣)せき(跡)おめさ(召)るべく候、仍て後日の為永代状件の如し。
明応六年ひのと(丙)のみ(巳)二月十日           乗源在り判。
後の為にはん(判)をくわ(加)ゆ。           豊島源勝在り判。
                                     宝光坊日用が大坊へ上る状、祖滅百六十七年、本門寺開闢日寿上人とあり、寿師は青年より讃岐に移りて老体の仙師を補佐して大坊の実務を取りし故に後人此を開闢と敬称したりしか、此中の日文上人及び泰綱の両人は寺及び秋山の系譜に見えず、後世の疎漏なるべし、此正本法華寺に在り。
□(本)□(門)寺かい(開)びやく(闢)日寿上人よりあつ(預)かりて候□(ほ)□(ん)(本)ぞん(尊)両御影同く寺物等泰綱御檀那代に□□□見日勝より我々に御あつけ(預)にて又寺□(へ)百疋進入申し候、此の内五十疋は寺家へ御分け候て候、是れ又先年より相定りしことに年行事西山坊同前に諸だん(檀)な(那)あつかり(預)申され候へども、日文上人□(よ)り御定め候てわ(分)けつけ(附)られ候、惣別惣師の坊にあがめ(崇)申し候上は坊々申す事有りというとも、先年のごと(如)くだん(檀)な(那)御かかへ(抱)あるべく候、供僧と申す事候とも三箇寺の儀は供僧よりもくらい(位)あがり(上)申し候、是も又日寿上人より御定めにて候宝光坊子々孫々におい(於)て御命に背く事あるまじく候、此の旨に背き候はば法花経の御罰を蒙りむ(無)けん(間)に入り申すべく候、仍て件の如し。
  文安五年丙辰二月七日               宝光坊日用在り判。
      大坊参る御中。
日門譲り状、祖滅百六十七年、法華寺什の正本上部一字程破缺せり今此を推読す、此中大津殿は不明なれども三条御屋敷大々二所と云ふが、今の寺地にして伝説の転法輪三位実蔭卿の故址なる事を証すべきか。
□(譲)り渡す状。
□(日)寿日山より日門相伝仕り候□(本)尊並に正(聖)教等、左京阿闍□(梨)(日香)に譲り渡す処実なり、同く日高の□(御)寄進下地(知)等相副へ渡す処□(顕)然なり、且大迫三反仏柳の下地□反、大津殿に別紙に是を譲る、□(三)条御家しき(敷)大大二所譲る処なり、仍て後日の為に譲り状件の如し。
  文安五年つちのえ(戊)たつ(辰)八月廿七日       日門在り判。
管領細川勝元の制条、祖滅二百八十八年、法華寺の戦国時代に貴重せし正文書にして、第二条の下の「怠事」と云ふ辺に勝元の裏判あり、此時本門寺と云はずして法華堂と貶称せるは一般の通例による供僧職(三人か)を穏便の者に申し付けよとは時代を顧みたるか、次の文書の右京大夫は勝元の官名にして此の文書の添書なり。定め置く条々、讃岐の国高瀬郷法花堂。
一 軍勢甲乙の人乱入狼藉の事。
一 堂中勤行は当住日迎の計として毎日一巻経向後懈怠有るべからざる事。
一 寺領等に於ては根本檀那日高の寄進状の旨に任すべき事。
一 日高の置文の旨に任せ大坊を閣き猥りに別の師匠を取るべからざる事。
一 当寺供僧職大坊の成敗として穏便の輩に補すべき事。
右の条々御成敗の旨を以て堅く定め置く所なり、若し違犯の族有らば衆中を擯出せらるべきの状件の如し。
  文明元年十一月廿八日
   本門寺大坊。
讃岐の国高瀬郷の内寺家定め置く条々之り在り等の事、秋山泰忠定め置くの状件の如し。
  文明元年十一月廿八日                右京大夫在り判。
香川和景の状、祖滅百九十年、香川氏は細川氏後の讃岐の雄なり、和景時に京都に在るが故に一族にして国事扱へる備前守に本門寺を保護すべく達したる状なり、正本法華寺にあり。
讃岐の国高瀬郷の内法花堂の事。
御判御制法の旨に任せ寺家に相触れらるべき所の状件の如し。
  文明三、五月十六日                  和景在り判。
      香川備前の守殿。
香川元景の証状、祖滅二百五十八年、時の領主より法華堂保護の旨を其老臣に達したるもの、正本法華寺に在り。
讃岐の国高瀬郷の内法華堂の事。
泰忠置文の上、御判を以て(管領細川勝元のか)並に和景(元景の父即前の文書)の折帋の旨に任せ相違有るべからざるの由申し付けらるる所の状件の如し。
  天文八、六月一日                    元景在り判。
      西谷藤兵衛尉殿。
宝光坊日尊両尊に就て置状、祖滅二百六十一年、仙師御奉持の御影は今口書の御影と称せらる御両尊なり、大石寺の鏡の御影と少異なり、日尊の正本法華寺に在り。富士山より日仙上人の御下向の時御持参なり、末代にをき造立の時は此のいはれ(所謂)を心えてかき(書)うつす(写)べきなり、後代のためなり。
  天文十一年太歳壬寅六月下旬  造立僧宝光坊日尊在り判、生年四十一。
奥之坊日永譲り状、祖滅二百七十三年、日永の後住豊前公(日号不明)へ坊領水田五反等を譲る状、正本法華寺に在り。
ゆづり(譲)与ふる跡職の事。
右ゆづり(譲)与ふる所明白実正なり、然る上は坊領五反有り坪はたつて弍段大坊のうしろ(後)の畠三段なり、此の坊領は子細候て先師の代より水田方かららい立ち行き候の間、此の趣を以て五郎太郎殿(香川)へ御届け申しかたかた心躰(進退)仕るべき者なり、並に檀那等の儀は前々より大坊わけ(別)分とて給ひ候間一人も残らず渡し申すなり、此の如く申し定め候上は兎角申す者有るまじく候、若し此の旨に背き何かと申す者候は上へ申し上げ候て成りともゆづり(譲)状のごと(如)く心躰あるべき者なり、仍て後日の為めゆづり(譲)渡す状件の如し。
  天文廿三年甲寅二月廿四日         おく(奥)の坊日永在り判。
    豊前公へ。
二の六、北山本門寺本末の分、
此篇に属する北山文書は西山文書と並べ見る必要があるは、猶石山と房山との関係と同一である而して文書の存在は山勢と一致すると計りは見られぬが、大概は然りであると云へる、今北山文書に教義信条に関係するもの少きは大に考ふべきであらう。
本門寺根源の額、年代は記してないが大聖人の御筆なるを天正九年に他の重宝と共に武田家に強奪せられたとの事で、其前に時の貫首日出の写しが現存する。
大日本国
富士山
本門寺
根源
  日蓮在御判。
日興上人に之を授与す。
此本尊は日蓮が大事なり。
  日蓮在御判。
(裏書に)
  日興判。
 日妙に之を授与す。
正中二年十月十三日。
三堂棟札、祖滅十七年、杉椙薄板に楷書瘠肉のにて書せらる、長さ一尺五寸厚さ四分なり。本門寺に在り。
(表面)
一 日蓮聖人御影堂
一 本化垂迹天照太神宮
一 法華本門寺根源
永仁六年二月十五日之を造立す。
(裏面)
国主此法を建つるの時三堂一時に造営すべき者なり。
願主白蓮阿闍梨日興在り判。
大施主石川孫三郎源能忠
 合力小泉法華衆等
大施主南条七郎二郎平時光
 同上野の講衆等
五師へ付嘱状、祖滅四十四年、北山本門寺にても此を用ゆるあり、妙本寺にては日要以来其山の切紙相承の中に加へて宗門の重書とせることを、二の二妙本寺の下に書いた如く三堂の棟札も記せられてあるが、本門寺根源の額は見えぬやうである、但し五師への譲りは史実と現在の正史料とに合致せず宜しく後世の偽托と称すべしと雖も、内容を改造せば或は不都合無きに至るべきか、此の文書の正本は有るべきにあらず、妙本系の慶長度の切紙が最古の写本なるべく以下の新写本北山等に在り。
一、日蓮聖人の御仏法 日興存知の分を日代阿闍梨に之を付嘱す。
一、本門寺三堂の本尊は式部阿闍梨日妙二十七箇年の行学たるに依り之を付嘱す。一、東国は法華の頭領卿阿闍梨日目に之を付嘱す。
一、西国三十一箇国は法華の頭領讃岐阿闍梨日仙に之を付嘱す。
一、北陸道七箇国は法華の別当日満阿闍梨に之を付嘱す。
門徒の大事之に如かず。
  正中二年乙卯十月十三日            白蓮阿闍梨日興在り判。
本門寺日妙に授与書、祖滅四十九年、北山本門寺主として之を用ひ妙本寺も亦日要以来重書と号して切紙相承に之を列すれども、此れ亦史実と合せざるものあり全然の偽托なり、中古の写本妙本寺等に在り。
駿河の国富士の上方重須本御影堂に於て唯授一人の相伝日妙、秘すべし秘すべし。一、日蓮聖人の御仏法日興慥に給はる処なり。中ん就く日妙は三堂の本尊を守護申すべき仁なり、末代の為に日代判証人書写し畢ぬ、我門弟巳後に於て論ずる事有るべからず候、仍て後日の為に状件の如し。
  元徳二年庚午二月十五日                 日興在り判。
      本門寺日妙に之を授与す。
日目日華に譲状、祖滅五十一年、余りにも拙劣なる偽書なり、文態少しも似ず事項支離滅裂なれば何山も公に之を用ひずと云へども、出所不明の写本に在り。
我が滅後の門弟末流随身無きに於ては広宣流布の時機遠しと思ふべし、日毫は日目の補処たり、日華は日尊の補処たるべし、日仙は讃州に命じて開堂す、余は我が末流異体同心に本門流布を待つべきなり。
  正慶元年九月                      日興在り判。
      日目御房、日華御房。
右此の相承既に日目日華に遺る、富士山本門寺の末流は日目、日華、日毫、日尊等に給仕すべし、是れ日興に給仕するならくのみ。  日興判。
      満山衆徒中。
置状本尊聖教の事、祖滅五十一年、此の二通の日満への置状は開山上人譲状中の整美なるものなり、文態、事項、筆格無雙なり、阿仏坊上古富士系なる事明なれども、日妙日代の諍論の為に満師巳来西山系に属したるが、逐に天正年度に全く身延系に移り今は日蓮宗の一本山なり、今二通の正文書は他教団の下に記すべきも重須にて授与せられしものなれば●に掲ぐるなり。
定、佐渡の国法華衆等の本尊聖教の事。
日満阿闍梨相計ひて信心を守り子孫迄之を付し、阿仏房の本堂に之を安置し本門寺の重宝たるべし、然らずんば富士本堂に入れ奉るべき者なり、縦ひ子孫たりと雖も私に之を与へ若し又売買する者は同罪たるべきなり、此の旨に背きて師匠の教訓を用ひざる大謗法の輩に於ては自今以後永く本尊を之を付与すべからず、猶以て違背の時は地頭守護所に訴訟申し沙汰取り給ふべきなり、後々の為に定め置く滋養件の如し。
  元弘二年七月廿四日                   日興在り判。
      日満阿闍梨御房。
定、師弟並に別当職に補する事。
右佐渡阿闍梨日満は学文授法に於ては日興が弟子たりと雖も代々の由緒有りに依て日蓮聖人の御弟子なり、其の故は聖人佐渡国流罪の時御尋ね参るの処一二の功に依て本弟子六人之を定め置かる、然りと雖も阿仏房に於ては而も直の御弟子、聖人号を蒙て仏法の恵命を相続し一切衆生を助くる仁法花の大棟梁なり、然れば阿仏房の跡相続の子孫は北陸道の法燈たるべきの由、日蓮聖人の御筆跡の旨に任せて日満阿闍梨は北陸道七箇国の法花の大別当るべき者なり、大衆此の後此の旨を存知せらるべし、惣じて日興上門徒の僧俗等聊も之を違失することなかれ、若し此の旨に背く輩は大謗法たるべきなり依て置き状件の如し。
  元弘二年十月十六日                   日興在り判。
      日満阿闍梨御房。
編者云く阿仏妙宣寺に日満の母儀の消息有り、文態、筆法、紙質何れよりも全然の偽書なり、但し此の日満は如寂房日満の本人にあらず藤九郎盛綱を日満と擬称したる後の日のんである、今其の大要を掲ぐ。
   返々めで度き本尊なり。
故阿仏房の法花経の信にあらわれさせ給ひて北海の惣導師に遊ばし大本尊賜はり候とうけ(廿七字省略)
日満法師わが子ながら又臨終に知しきと嬉敷頼母しき事なり(下略)
駿河の国、国宣、祖滅五十七年、岩本実相寺が興師御存生中に横川系の天台宗より一山興師の支配下に帰せしが、御円寂後又山内に党争ありて又文永五年の紛擾を再起したれば(要集の問答宗史雑部の下に掲げたる実相寺大衆愁状三九一頁以下に委曲なり)、逐に国主今川家の制圧の下に一時禅僧を迎へて又々北条時代の覆轍に陥りたる証文が即ち此文書なり、其結末逐に又富士系に帰りしと思はるれども伝説すら消滅して永禄十二年の信玄の暴挙に一山灰侭と変じたる以前巳に延山の末流に転化したる事、大石末の三東漸寺、北山末の大泉寺蓮華寺と同轍なりしが如し、今実相寺全く日蓮宗の一本寺なりといへども古の縁由にて此の下に掲ぐ、次の前上総介の証状と共に正本岩本実相寺に在りと雖も更に其寺にては明瞭の記録無し。
駿河の国岩本郷の内実相寺寺務職の事。
右、法東侍者禅師彼の職として先例に任せ管領せしむべきの状、国宣件の如し。
  建武五年六月廿七日              判(今川範国のなり)。
今川範氏の証状、祖滅七十二年、八所権現には北条執権家の寄進ありしも建武中興後或は闕所官没せられて地元の武士等が水田を寄進して其缺を補ひける事を国主が更に承認したるの状と見るべし。
駿河の国賀島の庄、今井郷友永名の内、田地伍段の事。
右、当庄の給主等、去る観応二年二月一日に実相寺内の八所権現に寄附せしむと云云、者れば向後に於いては、彼の状に任せ管領せらるべきの状件の如し。
  文和四年二月廿二日                 前上総介在り判。
石川文書の一、妙源譲り状、祖滅四十七年、石川文書は其の宗家に在りや否やを知らず、本間俊明師写本に依るが、巳に往昔より破失ありしものと見え判読に能はざる所もあり、但し此の文書に付いて石川家三代の史実の幾分を知るを得べきなりと云へども稍不可解の処あり転写に誤りあるにあらずや。
譲り渡す甲斐の国轟郷の内小泉、小作手、勲功の地なり、然るを屋敷田□□□□□一分も残らず二つに分けて一分は子息四郎俊忠に譲るなり、若し子息の中に此の所を違乱致さん輩は不孝の仁として妙源が跡を知行□(致)すべからず、仍て譲り状件の如し。
  嘉暦三年二月十九日                   妙源在り判。
同二、実忠譲り状、滅五十四年。
□□□□□□是をまほり(守)て面々に知行すべき事。
一、孫三郎分、駿河の国稲河郷の惣領職並に富士上方重須の惣領職御下し文手継の証文副へて譲るなり知行□(致)すべきなり後家舎弟女子等に譲る所をばのぞ(除)く。
次に信濃の国山田村の内、田在家、野、畠等一分も残らず実忠が知行分を譲るなり、次河内の国辰間郷五分の一御下し文、手継の証文相副へ実忠が知行分一分も残らず譲るなり。
一、孫四郎が分、稲河郷主里町の内参反公田、郷司分、主里町の内参反公田、富士上方重須郷の内奥五郎□(二)□(郎)入道在家、藤太夫入道□(在)家、野地そう御年貢を先例の如く沙汰せらるべし、次に甲斐の国、小泉村の半分実忠が知行一円に譲りなり。
一、後家分、稲河郷地行分、田五反一反公田、郷司分五反、内一反公田、重須郷□(内)の実忠が□(を)くの屋敷を譲るなり、一期の後はくわ(懐)にん(妊)の子男子ならば給ひ候へ、女子ならば千代鶴に給ひ候へ。
一 娘松寿に稲河郷をん(穏)でん(田)三反譲るなり。
一 娘長寿に稲河郷をん(穏)でん(田)三反譲るなり。
一 娘千寿に稲河郷をん(穏)でん(田)三反譲るなり。
一 娘万寿に稲河郷をん(穏)でん(田)三反譲るなり。
一 孫三郎今度奥州合戦に趣き若し討死してとあらば孫三郎譲る所の惣領職並に三分の二は孫四郎長子として知行すべきなり、主里をば千代鶴知行すべきなり、恩賞かうも(蒙)りてあ(有)らば三分の二は孫四郎、一は千代鶴知行すべきなり、若し譲りもら(漏)しあらば孫三郎知行すべきなり、孫三郎討死してあらば上の如く孫四郎千代鶴合せて知行すべきなり、仍て目録件の如し。
  建武二年正月六日                  散位実忠在り判。
石川文書の三、俊忠申状、祖滅五十二年。
石河四郎俊忠謹んで言す。
早く当知行貞□(永)□(式)□(目の)亀鏡に任せ甲斐の国小泉、小作手両村一方の地頭職、播磨の国弘次別府座の地頭職等を□(あてんと)(充)欲する事。
右地頭職は俊忠当知行に相違無し、爰に合戦の為に馳参せしむるの間、関東より御下文以下の証文を持参せず、所詮御不審を相残さば、俊忠知行の段、惣領石川三郎実忠、甲斐中野村地頭秋山余一郎、下山郷地頭下山六郎入道、播州御家人大塩六郎、陰山四郎等悉く存知せしむめ者なり、各当参の上は御尋ね有らば其の隠れ有るべからず、早く安堵の綸旨を成し賜ひ末代の亀鏡に備へんが為に恐々言上件の如し。
  元弘三年七月
石河文書の四、俊忠申状、祖滅五十三年。
石河四郎俊忠言上。
早く関東御下文並に亡父石河孫三郎入道妙源の譲状に任せ安堵の御牒を下し給はり向後の亀鏡に備へんと欲する、甲斐の国小泉村の半分、同く小作手の田畠屋敷の事。
副へ進す、一通関東御下文の案、一通 譲状。
右の所は亡父妙源時に□□義□□勲功の賞として拝領せしむる地なり。仍て俊忠之を相伝せしめ当知行今に相違無し、者れば早く安堵の御牒下し給り向後の亀鏡に備へんが為に恐々件の如し。
  建武元年八月
石川実忠の寄進状、祖滅六十三年、重須の地頭にして父たる能忠妙源の寄進状紛失したりとの為に更に進じたるなり、此山上代の古文書僅少にして破損甚し、然るに此分だけは何れより見ても整然たる逸品なり、但し紛失したりと云ふ文書は今西山に在りと云ふ妙源寄進状なるか、相論家の常例思ふべし。
寄進し奉る駿河の国富士上方重須郷の内の坊地敷の事。
右、坊地は亡父妙源、故聖人に寄進し奉るの処、彼の状紛失の間、故入道の例に任せて重て両聖人の御廟に寄進し奉る者なり、大衆一同の御沙汰として故聖人の御時に違はず勤行せしめ給ふべし、若し此の旨に背くの輩に於て不孝の仁として実忠が跡を知行すべからざるの状件の如し。
  康永三年卯月廿一日               散位源実忠在り判。
今川範政判物 祖滅百卅六年、重須郷は日恩買得の地とあり、前の石河の寄進状を距る七十余年官憲の変遷か又は土地の買い足しか、式部阿長源とは何人か蔵師と昌師との間に四五人の代官ありと云ふ他説あり其間の日円日静等が不明なり。
駿河の国富士の上方の内重須寺の本尊聖教等の事。
右、先師日恩上人付属の旨に任せ大倉阿闍梨日蔵之を護持し奉るべし、並に重須郷の事に於ては日恩永代買得の地なり、然れば式部阿闍梨長源、先師譲状の旨に任さるべし、若し此の成敗に背くの仁に於ては彼の門弟を破却すべきの状件の如し。
  応永廿四年十月十三日               前上総介在り判。
日浄譲り状、祖滅二百十三年、日浄より日国へ譲るに学頭坊外衆檀を立ち合せてのなり、破失しけれども正本なり、北山本門寺に在り。
□(譲り)□(渡す)御本尊聖教の□(事)。
□(本)門寺御堂の御本尊棟札御念数巳下、目録の如く一分も残す所無く(当)□(住)日国に寂仙坊日経の外衆徒(檀)方を証人として譲り渡す処なり、門□(徒)一准に此の旨を□(存)せらるべきなり、仍て後証の為めの状件の如し。
  明応三年甲寅九月十三日                 日浄在り判。
学頭日経の譲状、祖滅二百十四年、学頭寂仙坊跡の譲りなるが当時の案文なるべし破損甚し、但し近古の写本を参校して漸く訓む事を得たり。
譲り渡す本門寺の学頭寂仙坊趾□(の)□(事)。
右大聖人の御筆の御本尊一□(鋪)同く御消息□(並)□(に)日興上人の御筆御本尊□(一)□(鋪)、御守の小御本尊並に開山聖人よ□(り)譲状□(同)□(学)□(頭)御譲状□(巳)□(下)五通の御書、聖教、坊地巳下日□(経)□(弟)□(子)□(一)□(位)□(阿)□(闍)□(梨)日朝警□(固)有るべし、以後は時正□□□候はば寂仙坊御□(守)□(護)せらるべし□(衆)□(徒)何も此の旨を□□□(存ぜらるべし)、此の旨に□(背)く□(の)□(輩)□(は)大謗法□(の)□(仁)□□(たるべき)者なり、仍て後日の為に譲り状件の如し。
  明応四年十月廿二日                      日経。
□(一)□(位)□(阿)□(闍)□(梨)□(日)□(朝)□(御)□(房)。今川氏親寺号等の判物、祖滅二百卅四年、本門寺公称に就いて国主の判定の如き説あり如何か、正本北山に在り。
(折封うは書)「本門寺日国上人   氏親」
日蓮聖人より的々相承並に本門寺の寺号の証文等何も支証明鏡の上は領掌相違無き者なり、仍て状件の如し。
  永正十二乙亥年六月廿六日              修理太夫在り判。
      本門寺日国上人。
同上判物、祖滅二百四十一年、不入の上に陣僧棟別等の免除状なり、正本前に同じ。
駿河の国の富士の上方北山の内本門寺、先年不入の地として定め置く者なり、其の上に於て年貢の外、陣僧、棟別、諸役等地頭代官の綺ひ有るべからざるの状件の如し。
  大永弍年三月十九日                 修理太夫在り判。
       本門寺。
今川氏輝判物。祖滅二百四十九年、不入及諸役免除状なり戦国時代の常例なり、正本前に同じ。
(氏輝幼少なるを以て其母寿桂尼国事に当る其朱印●に在り)
駿河の国富士北山の内本門寺の事。
一 棟別並に諸役不入の地として御免許の事。
一 本門寺の寺号の証文御領掌の事。
一 彼の地に於て地頭より陣僧、棟別、諸役等之れ有らざるの事。
右、条々先御判の旨の如く不入の地として定め置く者なり、仍て状件の如し。
  亨禄三庚寅年正月廿九日                    氏輝。
     本門寺。
今川義元判物、祖滅二百五十三年、正本前に同じ。
駿河の国富士北山重須郷の事。
右、本門寺近年支配の外重須総郷一円百姓職として相当年貢納所の外は、臨時の諸役を停止し地頭代官の綺ひ無く永く抱へ置かるべきの旨、相違無く領掌せしめ畢ぬ、仍て件の如し。
天文五丙申年九月六日                    義元在り判。
    本門寺。
北条氏綱判物、祖滅二百五十七年、小田原北条も駿河に進出した事がある其時の寺内安堵の証判である、正本前に同じ。
富士上方北山の内本門寺中の事、相違有るべからず候、横合より狼藉の儀停止せしむべき者なり、仍て件の如し。
  天文七年八月六日                    氏綱在り判。
     本門寺。
今川義元判物、祖滅二百六十二年、今川の国主たる事義元までは不動である、正本前に同じ。
駿河の国富士の上方北山の内本門寺領の事。
右、代々判形の旨に任せ不入の地として領掌し訖ぬ、者れば年貢の外検地並に陣僧棟別、拾間諸役等地頭代官の綺ひ有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  天文十二癸卯年九月十二日              治部太輔在り判。
     本門寺日耀上人。
日伝公事に付て義元の判物、祖滅二百六十三年、戦国不安の時代に豪族の師弟を度して附弟として一山の安泰を計つたのは常例であつた、国師の代に遠州の里見家より幼童を迎へて大納言と交名を附して附弟とし又日伝と称せしめたが、一山中に本行坊日耀と云ふ如き壮年僧もあるので雙方対立し逐に今川家に日耀側より訴へ出たが事件中に大納言党が勢尽きたか、大納言も脱出したので事件は自然に解決した。其処置法の判物である、又本件に小泉は日耀に大石、西山は大納言に党したとの伝説は未だ其文書を見ぬ。
富士上方の内本門寺の事。
一 大納言度々に及び宗旨法度に背く上、衆僧檀那今度訴訟に及び互に目安を上る処、公事落着無く大納言懸落の上は永く本門寺え競望有るべからざる事。
一 公事に及ぶ処大納言に同意せしめざる衆僧等既に誓詞を致す、剰へ大納言に組み還へる輩之れ有りと云云、彼の悪僧に於ては永く両国を追却せしむべき事。
一 先師先判の如く山中法度、衆僧檀那相計らふべき事。
右、条々自今以後違乱の輩有るに於ては堅く下知を加ふべきなり、仍て件の如し。  天文十三甲辰年十一月廿日              治部太輔在り判。
     本門寺学頭衆徒檀那中。
今川義元判物、祖滅二百七十一年、正本前に同じ。
駿河の国富士の上方本門寺の事。
右、前々数通の判形を以て免許の棟別家数等退転の間、只今相改め八軒帳面を除き並に七軒之を免除し、前々の如く不入の地として合せ拾五軒分領掌相違有るべからず、若し惣国中不入の地当座一返四分一等雇として申し付くと雖も、彼の寺に於ては自余に準ぜず先判の旨に任せ年貢の外検地、四分一転役等之を停止せしめ地頭代官の綺ひ有るべからざる者なり、仍て件の如し。
    天文廿一年三月廿日          治部太輔在り判。
        本門寺日耀上人。
今川氏真の判物、祖滅二百七十六年、正本前に同じ。
駿河の国富士の上方本門寺の事。
右、代々数通判形の旨に任せ領掌永く相違有るべからず、然れば陣僧、棟別、地検、検見社役諸勧進竹木見伐以下一切之を停止し、本年貢の外地頭代官の綺ひ有るべからず、次に門前家数拾五軒、棟別免許の旨、先に判形之れ有りと雖も只今新在家の内として訴訟の間新儀として五軒合せ弍拾軒永く免許せしむる所なり、縦ひ惣国不入の地四分一等当座一返の雇として之を申し付くと雖も、彼の寺の事は無縁所たるの間自余に準ずべからざる者なり、仍て件の如し。
  永禄参庚申年十一月六日                氏真在り判。
       本門寺日出上人。
今川氏真の判物、祖滅二百八十九年、正本前に同じ。
(折封うは書)「本門寺日殿上人   氏真」。
駿河の国富士の上方重須本門寺の事。
右、日蓮聖人より的々相承本門宗の根源同く寺号支証等明鏡の段、増善寺殿代々御判形の旨に任せ領掌し訖ぬ、兼て亦重須惣郷百姓職として本年貢納所の外は地検、検見、陣僧、臨時の諸役一円之を停止し、地頭代官綺ひ無く之を抱へらるべし、次に門前家数廿軒の分棟別四分一、縦ひ惣国不入の地寺社領とも当座一辺の雇として之を申し付くと雖も、彼の寺の事は無縁所たるの間自余に準ぜざるの旨先の判形に任せ領掌永く相違有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  永禄十三庚午年八月十三日               氏真在り判。
     本門寺日殿上人。
武田勝頼判物、祖滅二百九十三年、今川家亡びて富士郡は武田家の支配となる、其安堵の判物正本前に同じ。
(折封うは書)「本門寺  勝頼」。
定。
寺中の規矩並に法度巳下今河義元同く氏真の時の如く、自今以後も聊も相違有るべからず候、畢竟寺家修造仏法の興隆怠慢有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  天正二年甲戌九月十二日                勝頼在り判。
    本門寺。
三浦右馬助寄進状、祖滅二百九十五年、駿河の三浦氏にして今川の臣なりしが後武田家に仕へたる人なるべし、正本前に同じ。
(折封うは書)「本門寺   三浦右馬助」。
定。
重須年貢の内九百文当年より永く寄進致さしめ候、弥よ武運長久の御祈念憑み奉る者なり、仍て件の如し。
  天正四丙子年六月九日                  員久在り判。
     本門寺。
泉沢小四郎寄進状、祖滅三百一年、正本次の制条と共に佐渡世尊寺に在り。
永代に於いて諸やく(役)な(無)く此の地を進らせ申し候処後日の為なり、仍て件の如し。
  天正十年三月十三日               泉沢小四郎在り判。
    世尊寺様参る。
定。
一 禁制殺生の事、     山内放火の事、  国主の制を守るべき事、
  勤行怠慢の事。     女犯肉食の事、  □地家末寺の事、
  身持正しからざる事、  檀家を諭すべき事、塔墓を掃除する事、
  竹木を伐採する事、   牛馬放入の事、  押し寄る軍の事。
  盗賊狼藉の事、     諸作草刈の事、  寺内境地の事。
右の条々相守るべし違背に於ては糺明すべき者なり。
  天正十三年酉三月                泉沢小四郎在り判。
   世尊寺代々。
開山上人御消息裏書、祖滅三百三年、此の裏書井手家の史料となるべき故に掲ぐ、但し本門寺写本に依る。
(前省略)めう(妙)しやうのあま(尼)御ぜん(前)の御返事、右裏書。
彼の興上の御消息は日出より井手小金丸に御授与、然る所に小金丸天正十一年未三月十五日逝去す、法名を法全と号す之に依て老母蓮如比丘尼彼の菩提の為に後代の為に本門寺に納めらるる者なり、仍て件の如し。
  天正十二申二月七日                日出、日健在り判。
(中畧)小金丸は井手志摩守の弟なり、老母蓮如は井手藤九郎の妻にして志摩守の母、興津氏娘なり。
右蓮如永禄五年壬戌五月書記置き候書物有り外題は紫式部雙紙と之有り、天文廿一年志摩守生る天正十二年は彼の年参拾弍歳なり。
右日興上人御消息裏書の写し享保七年寅三月十八日本門寺日専より到来す。

井手甚之助の手形、祖滅三百一年、家康の駿河の奉行なるが家康の命を奉じて水道を造る即ち今の本門寺堀なり附近其慶に頼る、正本前に同じ。
横手沢村、芝川井口百間四方なり、井路弍里余堀幅三間通りなり、右は上意を蒙り除地せしめ通水の村々の人足を以て堀り渡し畢ぬ。永々諸役は村々の懸りたるべし、竝に水番として堀久保の百姓四軒之を除き置く所なり。
  天正十年午十一月              井手甚之助正次在り判。
井手甚之助の奉書、祖滅三百九年、徳川家康の領主時代なり、正本前に同じ。
御縄打の上、寺内門前の外弍百八十俵の縄の上、百八十俵の儀は永く御寺へ御指し置き候残る所は急度御納所成さるべく候、其の外地役等諸役の儀一円其の沙汰有るべからざるの由仰せ出たるる者なり件の如し。
  天正十八年寅三月十日            井手甚之助正次在り判。
     本門寺重須御納所参る。
豊臣秀吉の朱印状、前と同年、小田原落城後家康江戸に転封に就いて直に秀吉より朱印を与へしなり、正本前に同じ。
駿河の国北山郷五拾石の事。
当知行の旨に任せ今度検地の上を以て右高頭之を請取り全く寺納すべし、然る上は有り来りの如く諸役並に山林竹木等免除せしめ候なり。
  天正十八年十二月廿八日 (秀吉の朱印●に在り)
  本門寺。
徳川家光朱印状、祖滅三百六十年、大猷院の朱印なり但し写しなるべし、二代秀忠の分見へず巳下四代五代等之を略す。
当寺領、駿河の国富士郡北山郷の内、五十石の事。
先規の如く之を寄附せしめ訖ぬ、全く収納すべし、並に寺中山林諸役等の免除永く相違有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  寛永十八年六月廿八日(三代大猷院の朱印在り)
    富士北山本門寺。

二の七、西山本門寺の分。
北山本門寺も西山本門寺にも相論を解決すべき文書少し、殊に坊地及び法宝に就いて著しく遺憾を感ずるが故に、見当未了の文書までも此を掲ぐるの止むなきに至る。
妙源寄進状、祖滅四十四年、重須の地頭石川孫三郎能忠入道妙源より現在の境域を開山上人に寄進したる状なり、日代重須退出の後康永三年日代西山に本門寺を立てたる翌年か妙源の惣領たる実忠の重須の坊地の寄進状に依れば「彼状紛失之間」と書しての再寄進状なれば、或は代師携帯して立退かれたるか、然れば此状は正本ならんも今は帝大史料編纂所の影写本に依りて之を掲ぐ、但し未だ西山の正本を拝せざる事を断りをく。
(目的地等を書ける前文等缺失なり)
  合壹□□□
右は日れん(蓮)しやう(聖)□(人)み(御)ゑい(影)だう(堂)□(た)□(る)間、びやく(白)れん(蓮)あ(阿)ざ(闍)り(梨)の御房、妙源がし(師)しやう(匠)たる間いち(一)ゑん(円)ふ(不)にう(入)ゑい(永)たい(代)をかぎり(限)てき(寄)しん(進)したてまつる所なり、か(彼)のばう(坊)ち(地)のさかい(堺)わ(は)ひがし(東)はほり(堀)みち(道)くね(垣堺)きた(北)わ(は)よこ(横)みち(道)くね(垣)にし(西)はのぼり(登)みち(道)くね(垣)みなみ(南)なみき(並木)のよこ(横)くね(垣堺)なり。
この(此)き(寄)しん(進)じやう(状)にまかせ(任)て妙源がし(子)し(子)そん(孫)そん(孫)にいたる(至)までい(違)らん(乱)わづらい(煩)なし候はむともがら(輩)は、妙源があと(跡)をち(知)ぎやう(行)すべからず候、よつ(仍)てき(寄)しん(進)じやう(状)件の如し。
  正中二年十一月十三日                  妙源在り判。
日代八通の譲状は房山にては要師等要山にては辰師等仰いで之を信ぜりと云へども、方便品読誦の解釈に伴ひ重須を擯出せらるるに就いては、能擯の横暴を極論路する者無きが如し、今又遡つて八通状の内容を検するに疑義百出するも既に正本紛失の上は且らく論弁を避くべし。
一 日代譲り状、祖滅三十三年、代師時に廿一歳なり、写本西山本門寺に在り。六人の弟子を定むと雖も日代は日興上人付嘱の弟子として当宗の法燈たるべし仍て之を示す。
 正和三年十月十三日                    日興在り判。

二 同く置状、祖滅四十四年、代師時に三十二歳なり重須に在るべし、写本上に 同じ。
日蓮聖人御法立の次第、日興存知の分、弟子日代阿闍梨に之を相伝せしめ畢ぬ、仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
  正中二年十月十三日                   日興在り判。

三 同く置状、祖滅四十四年、写本上に同じ。
日興先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代巳下の弟子有り六人の外と号して之を軽すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限りにあらず、仍て後証の為に置き状件の如し。
  正中二年十月十三日                   日興在り判。

四 同く置状、祖滅四十四年、写本上に同じ。
正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿舗、御影像一舗並に日興が影像一鋪御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人として号して出さしむるの輩は門徒の御敵、大謗法不孝の者たるべきなり、謗法の罪に於いては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於いては御沙汰として上裁を仰ぐべし若し出で来る時は日代阿闍梨之を相続し本門寺の重宝となすべし、仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
  正中二年十一月十三日                  日興在り判。

五 同く置状、祖滅四十六年、写本上に同じ。
聖人の御門徒各別なる事は法門の邪正本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等は法門の異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、中ん就く日代ら於いては在家出家共に日興が如く思食さるべく候、門徒存知の為に置き状件の如し。
  嘉暦二年九月十八日                   日興在り判。

六 同く置状、祖滅五十年、写本上に同じ。
一 熱海湯地の事。
伊豆の国湯山の東院尼妙円の譲状に任せて知行せしめ畢んぬ、而るに弟子日代阿闍梨は付法たるに依つて譲り渡す所なり、仍て状件の如し。
  元徳三年十月十一日                   日興在り判。

七 同く置状、祖滅五十一年、写本上に同じ。
日秀阿闍梨の跡並に御筆の御本尊日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興門徒此の旨を存すべきなり、若し此の状を用ひずんば大謗法の陣たるべきなり、仍て状件の如し。
  元徳四年二月十五日                   日興在り判。

八 同く置状、祖滅五十一年、写本上に同じ。
定、日興弟子の事。
本六人 日目 日華 日秀日代に付す  日禅日善日助に付す  日仙 日乗。
新六人 日代 日澄 日道 日妙 日豪 日助。
右定る所此くの如し日目日仙日代等は本門寺の仏法の大奉行たるべきなり、但し日代阿闍梨を以て日興が補処となし大聖人の御筆大漫荼羅巳下自筆の御書等之を相伝せしめ本門寺の重宝たるべきなり本六人新六人共此の旨を存せらるべきなり、若し七十以後の状ともと号し此の条々之を棄て置く弟子等は大謗法の仁たるべきなり、在家出家共に此の状を守るべし、仍て置き状件の如し。
  元徳四年二月十五日                   日興在り判。

日代庭中言上の証状、祖滅四十六年、此の文書広く写本せられしを知らず、出所不明なれども日騰写本の中より抄出して、且らく参校に供す。
当聖主の御宇に奏聞し、嘉暦二年八月廿二日廷遠の師を以て右目録に入り記録所に於て庭中せらる、巨細上聞せずと雖も志の所謹んで下情を抽んで畢ぬ、奏聞の代官使者阿闍梨日代なり、向後の為に記録件の如し。
  嘉暦二年九月十八日                   日興在り判。

阿仏日満の誡の状、祖滅六十二年、佐渡日満は代師の同情者なり、此状の叙事見当すべきものあるべく、又西山の正本又は臨写本を拝するを得ず、且く録して参校に供す。
正慶二癸酉十月石川式部三(散か)位実忠疫病煩ひし時彼の枕辺に於て日妙隠密にして陀羅尼と普賢咒とを誦す、時に彼の病者に於て下女有り名を松竹女と号するなり是れ由井氏戚の裔なり、即時此の女本御影(堂)に詣て此の由を日代上人に訴へ奉る、故に代師云く日興上人の御修行に背き日妙本迹一致の修行得意迷乱せしむるの間大謗法と仰せられ、日妙に於て連経をなさしめず、深く此を以て遺恨とし御重宝等之を盗賊し御弟子衆同心せしめ談合有り、実忠が親父妙源入道私に寺領を寄進せしむる処此の寄進状に違背して寺領を掠取せしめ種々の讒言を企て申さしむる事大謗法の人々なり、末代に於て彼の苗裔等の衆日代上人嫡々の正師に値ひ奉て彼の世出の謗法に於て改悔せしめずんば敢て同心せしむること勿れ、末代の為め之を誡むる所なり、仍て件の如し。
  康永二癸未二月七日                     日満判。

大内安浄寄進状、祖滅六十三年、祖書の西山殿と由比家と大内家との関係明ならず、又此の文書の正本写本を究めたる事なし、各写本に依りて之を録す。
寄進し奉る筆記。
一、富士西山本門寺の事、開山日興上人は昔し日向と波木井との謗法を誡め身延沢より古聖人の御墓等を重須に引き取り給ふ、次に日妙と石川入道との謗法を呵責し日蓮聖人日興上人の御墓所を日代の時此の地へ引き移し給ふ、然る上は的々附法の本山並に御墓所と申すべきなり、少分たりと雖も寺地並に田畠同く山林竹木等末代の為に寄進し奉る所なり、安浄が子孫等所領相替る時に至らば寺地同く田畠等の事、公方に於て言上申され後証の為に御判形値し請くべきか、未来永々に及ぶまで大内の願力以て件の如し。
  康永三年甲申十月十三日               大内安浄在り判。
      西山本門寺日代上人。

日代置状、祖滅七十五年、初犬麿は日任上人なるべし正本西山本門寺に在り。
法器無きに依て日代付弟の事未定に候、但し由比大四郎光員の子息初犬麿幼少より入室の間、器量の者たれば門徒此の旨を存せらるべく候、然れば大漫荼羅、御書、以下重宝等、日興上人数通の御遺告置状等子細に及ぶべからず候、仍て置状件の如し。
 文和五年五月七日                     日代在り判。
同く置状、祖滅七十九年、未だ正本を拝するの機を得ず日宗全書本に依る。
日代遺跡の事。
日任を補処付法とし大聖人の御筆大漫荼羅、日興上人御本尊御書等之を相伝せしめ本門寺の重宝たるべきなり、門徒此の旨を存すべく候、仍て置状件の如し。
  延文五年十二月十三日                  日代在り判。
同く示書、祖滅七十九年、本門寺にて拝せる雅致ある老筆の下部破失したるものによる此れ恐く正筆なるべし、日付及び名判は破失したれども前掲と同日なるべく此の分を寧ろ正本とすべきが如し。
日代遺□(跡)の事。
付弟を定め□□(難きか)に依る、然りと雖も長□(長)黙止すべきにあらざるに依りて日任を以て付法と定め、大聖人御筆□(本)□(尊)日興上人御自筆の御□(書)記、数通の置状宝物と□(為)し奉るなり、門徒衆□(信)□(行)を増成し興隆弘通之れ有るべし□(諸)□(事)を閣き教訓を加へらるべく候、依て示□(書)□(件)の□(如し)。
延文五年十二月□□□                        □□

法華宗要集の置文、祖滅七十九年、今法華宗要抄と称する書籍の事なり、文中日興上人の富士に都合よき文句多しと雖も代師の置文の如く全く依用すべきにあらざる偽書なり、此の置文正筆西山の集中に在り。
法華宗要集の事、聖人御作と云々下野国より之を出すと。
文句に於ては当家の助成たりと雖も一向聖作にあらず疑書なり定て後学迷惑すべきか、日代門徒許用するに足らず仍て之を記す。
  延文五年六月晦日                   日代在り判。

日助置文、祖滅七十五年、日助は日代の俗姪にして東光寺の祖なり、此の写本の一紙片西山に在りと雖も未だ研究せられたる事なし、文章に於ても史実に於いても、但し前半は史実にして日目違背より下は研鑽を要すべき事なり、曾て之を諸書に発表したりしも今故に之を掲ぐ。
日蓮上人の御影並に御下し文、又薗城寺申状の事。
此の三の重宝は故上の御遺言に依り上野老僧日目、日仙、日善三人大石寺に於て三十日を十日番に守護し奉る処、日目は古上の置状に違背し日仙は天目一同の義なり、仍て日善一人許さるべき由衆檀評定し了ぬ、其後日善の計ひとして上野の惣領南条五郎左衛門尉に之を預け置き畢ぬ、其の預り状歴然なり、之に依て日蓮聖人御影像計り之を取り了ぬ、絶工の重宝は時長取り籠めて之を出さず、今国方沙汰に及び残らず之を取り本門寺の重宝たるべきなり、仍て存知の為に置き状件の如し。
  延文元年十月七日                   日助在り判。

兵部大輔某の授与状、祖滅八十七年、兵部大輔は石河家とあれども証左を知らず、従つて又此文書の正本か写本なる事を知らず、且らく此に掲ぐ。
補任、駿河の国富士重須の法花堂並に坊地等の事、日代上人の所。
右、彼の法花堂並に坊地等に於ては日興上人の遺跡に任せ日代に補任せしむる所なり、限り有る御祈祷寺役に至ては先例を守り勤行せしむべきの状件の如し。
  応安元年十月十三日                兵部大輔在り判。

日代申状、祖滅八十七年か、代師開山上人の譲状及び妙源入道の寄進状に任せて重須坊職御影堂等及び重宝の返付を国主(今川家か)に訴ふる状、此れ正案文か又は同時代写本なるべし、西山本門寺に在り。
日興上人の付法日代申す、当郡重須郷坊職並に御影像の□(事)。
□(右)□(所)□(は)□(日)□(興)□(上)人三十余年弘通の旧□(跡)□(なり)、□(法)□(器)□(多)□(と)□(雖も)日代を以て付法の弟子と定め置かれ畢んぬ、自筆の置文等数通之を帯し畢んぬ、而るに当所先の地頭石河入道妙源自筆の寄進□(状)□(明)白の処、子息式部大夫入道並に門徒等違背せしめ□(仏)□(法)(の)□(謗)法(を)□(致)(し)、随て又存外の間依先師の正流妙源寄進する所を立つること能はざるなり法立謗法の俗徒等なり、子細公方に申すに及ばずして罷り畢んぬ、其の後日妙並に地頭同心の間訴訟に能はず罷り過ぎ了んぬ、然るに□(今)□(川)家御管領の上は幸に相伝の道理に任せ之を賜はらんと欲す、所詮日代は日蓮聖人より三代相承附法の由緒なり、当堂以下□(当)宗弘通の重宝等之を相伝せしめ、日興上人の置状石河□(妙)源の寄進状に任せ之を宛て賜はらば喜悦の眉を披かんとす、目安言上件の如し。

目安、祖滅八十七年、古写本西山本門寺に在り、前文と大同小異なり何れを正とすべきか。
日興上人の付法日道代申す、当郡重須の郷の坊職並に御影像の事。
右の所は日興上人三十余年弘通の旧跡なり、法器多しと雖も日道代を以て補処付法と定め置かれ畢ぬ、自筆の置状数通之を帯し畢ぬ、而るに門徒並に先地頭石河式部大夫実忠、親父入道妙源自筆の寄進状に違背の上仏法謗法の間、彼の所は妙源私に寄進の地なりと子細に及ばず公方に申し出でられ畢んぬ其の後式部阿闍梨日妙、地頭同心の間多年居住し別して死去の後は彼の弟子分れて相論すと云云、日代に於ては日蓮聖人より三代相承の付法日興上人の付法の補処たり、当堂以下当宗弘通の重宝等之を相伝す、然れば日興上人の置状並に石河入道妙源寄進の旨に任せ当堂御影像渡させ給へ、粗目安件の如し。
  応安元年十一月 日

日典付弟を衆檀に任する状、祖滅の二百十八年、六代断破の為か非ずか附法の上人の選択を却つて寺家檀徒に委ぬ、併し当時の富士諸山は消息常長くして西山に限らざりしなるべし、正本西山本門寺に在り。
当寺の住持職に就いての事、檀方の望有る任せ斟酌乍ら示し置く処なり。
去る明応元年太歳壬子の歳九月十四日壬午の日夘の刻、恐々先聖の御旧跡に衆分檀方同心の義を以て著座申さしめ畢んぬ、其より巳来今に至るまで開山上人の数通の譲状日代上人の御付法の趣き肝膽に染み殊勝に存し候間、三時の勤行並に香華懈怠無く勤修せしめ畢ぬ、同日代々の御法流に任せ相続し奉る日典法師の付弟の事、御同心の衆徒檀方へ任せ相申し候、法器の聖者を見定め御申し候て先聖の御法水系乱れざる御信力仰ぐ所に候、仍て後証の為に置状件の如し。
  明応八太歳己未三月廿二日
     本門寺日代上人に帰し奉る伝灯日典在り判。
                                     今川義忠寄進状、祖滅二百三十一年、未だ正本を拝せず、然るに義忠の判形合はず又永正九年には存命せずとの批難あり、加之日心の寂年は弘治三年とあるが故に四十六年後なる事など校ふべき事多し、且らく掲げて参考に供す。き(寄)しん(進)申し候駿河の国富士の上方西山本門寺につけ(付)おく(置)山の事。
合壱所。
右は、日蓮聖人より嫡々相承たしか(確)なる間寺座修造の為め少分に候へどもいち(一)ゑん(円)ふ(不)じう(入)に永代をかぎ(限)つてき(寄)しん(進)たてまつ(奉)る所なり。か(彼)の山のさかい(堺)は寺沢うば(姥)がふところ(懐)の儀は申すに及ばず、くちわためうたいはら山上へは大たなをのぼり(登)り、上北へは大道につゐ(附)てすみたはらかちか(鰍)くぼ(窪)、下沢へは大道南へこきあらい水のおち(落)くち(口)北へこたらそうりのみち(道)より下の分、彼の山のね(根)みち(道)よりくらわたはらひほあはせの所、尺地をのこ(残)(さ)ず義忠なが(永)くき(寄)しん(進)したてまつる所なり、仍てき(進)状件の如し。
 永正九年二月七日                     義忠在り判。
      日心上人様。
日建より日辰へ相承の文、祖滅二百七十七年、要山日辰富士巡遊三回の時に西山日建より此相承を渡し又西山に転住を請ふ日辰肯せずと云ふ、此正本西山に在り、但し文中の日眼は他筆にて訂したるもの。
内証相承の事。
日蓮大聖人、   日興、日代、日任、日盛、日林、日顕、日眼、日出、日典、日心、今我日建師資相承の仏法を日辰に付属する者なり。
  永禄元戊午年十一月七日                 日建在り判。

日辰の草書の記なり、日眼は前と同筆にして空白の所に加へたり、年月記名なし、西山に在り、横に並べてあり。
高祖弘安五年十月十三日、開山二月七日、日代、日任、日盛、日林、日顕、日眼、日出、日典、日心弘治三丁巳年七月三日。

日辰より日建に適用の状、年代前に同じ、正本西山に在り日辰より通用申し入れたる状と云へり或は然らん或は辞宣か。
謹んで高祖大聖人の二箇の御相承並に本門寺の額を拝見するに、日興上人は余門に超過し宛かも星月の中に日輪の顕耀するが如し、竊に興師八通の遺書を窺ふに日代は日興付属の弟子当宗の法燈たるべし、又云く日代は在家出家とも日興が如く思し食すべしと云云、倩ら此の文を案ずるに日代は日興血脈の正嫡にして門徒数輩の宗領なり、利潤汪洋として功用巍々たり、誰か日興門徒と称し乍ら偏執我見を挿み猥りに抂計を生ぜんや、恐惶謹言。
  永禄元戊午年十二月七日                日尊遺弟日辰。
      日代御遺弟本門寺日建上人参ル玉床下。

武田信玄の高札、祖滅二百八十八年、信玄が今川征伐の為に富士諸山を屠ふりし時の事にして、西山と下条とは幸に其厄を免れしと見ゆ、正本西山に在り。
(●に武田家の竜文の朱印あり)高札。
当手甲乙の軍勢西山寺並に窪に於て乱妨狼藉すべからず、若し御制止に背く者は罪科に行はるべき者なり、仍て件の如し。
  永禄十二年七月五日

武田勝頼判物、祖滅二百九十二年、勝頼の保護状なり、正本前に同じ。
定。
一 駿州富士郡の内本門寺の儀は開山日興の血脈に任せ自今以後弥よ日代門下の仏 法怠慢有るべからざるの事。
一 門前の家拾間の分、諸役免許せしむるの事。
付り総国一統の城普請どもを除く。
一 寺中に於て殺生禁制の事。
一 寺家修造の時鍛冶番匠等の大工職一切相定めらるべからざる事。
一 山林に於て叨に竹木を剪り取る儀堅く相禁ぜらるべきの事。
    以上。
右、条々向後聊も相違有るべからざる者なり、仍て件の如し。
  天正元年癸酉十二月廿六日                勝頼在り判。
    富士郡本門寺。

武田家の朱印状、祖滅二百九十五年、秋山惣九郎の奉書なり、正本前に同じ。
定。
門前家拾間の分、御直判を以て郷並の諸役総国一統の御城普請を除き御免許の処、毎度催促を加ふるの由沙汰の限に候、向後一切赦免成さるるの趣き仰せ出さるる者なり、仍て件の如し。
  天正四年丙子七月朔日(武田家の竜文の朱印●にあり)
                          秋山惣九郎之を奉る。
   富士郡本門寺。
武田勝頼状、祖滅三百年、寺目録に古証文一通但し此書は北山本門寺と争論の際、勝頼の扱はれし状なりとあり、同山にて拝見を得ずして富谷日震師の手記より移す、但し巳に偽文書の評あり文体亦如何はしと雖も且く速断を避く。
富士郡重須寺書き物の義に就いて、今度西山本門寺より差し出さるる日興八通の筆跡は、上代に重須方に於て全く盗賊明白の義に候、然れば累年を経と雖も日代上人法燈の筋目論無きに依て勝頼の扱を以て重須へ日代御還住候、夫に就いて押領の書き物等之を穿鑿し日春に附与せしむる処実正なり、弥よ日代門家の仏法相続の儀専要に候、若し衆檀の内に於て日春に対し非義を構ふるもの之有らば永く門徒を追放せらるべき者なり、仍て向後の為に証文件の如し。
                                     天正九年辛巳十月十三日 勝頼判。
本門寺日春上人。
本多作左衛門状、祖滅三百一年、本多作左衛門重次は徳川家康の重臣にして有名なる鬼作左なり重須の重宝武田家に押奪せられ次で滅亡の際、此の重宝も散乱したるに依り北山も此の回収に苦心し西山は後の甲州領主徳川の重臣に托して此重宝の獲得を謀りしこと此状に委曲なり、正本西山にあり。
今度大乱に就き日蓮の御筆拙者改め出し申し候処、黄金五百両の御札として下され候はんとの御兼約候つる処、末代のために候間五百両の金を取り申さず候、彼の日蓮の御筆新き(寄)しん(進)として永く進せ置き候、是を以ていよ々(弥)ごん(勤)経(行)をも御無沙汰無き様に仰せ付けられ候て然るべく候、彼の御筆どもに若し横合の者御座候とも拙者進し置き申す上は違乱少しも御座有るまじく候、右の旨駿甲の御檀方え仰せられ(触)られ候べく候、仍て置状件の如し。
天正十午年拾月廿八日 本多作左衛門在り判。
本門寺日春上人様。
日春請文の案、年代前に同じ、春師は作左衛門と協定して宝物の新寄附を得たれば其謝礼としての請書を案文したるなり、但し此を実行したるなるべしと云へども、今は未定の案文のみ残り又其六十六の宝物現在するやを知らず。
日蓮御自筆物数合せて六拾六、此の内御筆の本尊八通請取り申し候、六十六には御貴所うら(裏)判成され候、又六十六の外日蓮の筆金泥の法花経弐部並に御珠数一連請取り申し候、右御礼として金五百両進し置くべく候と申し合せ候処、一円下し置かれ候事生々世々誠に過分とも申す計り無く候、此の旨檀方衆何れへも申し聞かすべく候、御貴所御覚悟を以てにし(西)山を新地に御取り立て成され候と存知末代迄右御おんせう忘れ申すまじく候。
重須衆檀より徴収すべき案文、年代前に同じ、重須より春師に伏して此の案文通り一札を入れたるやは不明なり多分肯せざりしなるべし。
条々。
一、重須の僧檀八通の御遺状に任せ日代上人御法燈たるに依て末代に至る迄代上を尊敬し奉るべきの事。
一、年月を経と雖も今度日代上人重須へ御還住成さるゝの事。
一、知識血脈付法の代に列するの事は高開両師の御筆跡に任せられ日春上人御存分の次第たるべきの事。
右、三箇条の旨違背の僧俗の者有るに於ては日蓮大聖人日興上人の御罰を蒙り、其の上貫首に申し永く門徒を追放有るべく候、仍て後日の為め一札を以て申し上げ候。
天正拾壬午霜月十五日 宝積坊日教、石川三郎左衛門、渋谷伊賀、井出土佐。
日春上人参る。
重州の僧檀へ遺す一札の案文。
徳川家康朱印状、素滅三百二年、甚之助は駿河の代官なり、爾後の朱印之を略す、正本西山に在り。
駿衆富士西山本門寺の規矩法度並に寺内諸役等の免許の事、右、無縁所たるの間旧規の如く相違有るべからざるの状件の如し。
天正十一年十月五日(此下に福徳の朱印あり) 井出甚之助を奉る。
本門寺。

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