富士宗学要集第八巻
第七、外 交
富士に外交と目すべき文書少し、古来の交渉動もすれば立敵対論に及びしもの多くして、既に問答部の下に粗之を掲げ畢れり、茲に外交と目すべきも無き汢莓笂囂曹り、房総の大守里見義氓ニ妙本寺の代官日我との交誼の端めなり、問答の法門頗る重点に達したるが之れを縁として両者の道交四十余年に及び、晩年遂に寿量品の妙義の講演を懇請せられたるも日我は未だ其時機に達せずと見て、僅に神力品の結要付属談に止めたるを悔ひて、義氓フ追善の法要に節々大義を位前に読みたるの記文あり、要するに義氓熕汲ノ禅宗を改めず夫人は如何あらんが重臣も正木一族に小縁在りしのみが如きに拘はらず、能くも四十年の保護を替えしめざりしは此れ或は日我の外交の精妙か、但し策略を去りたる真実一路の道交か義氓フ歿後百箇日一周忌三年に営める日我の誠実を見よ、大に後世の軽薄僧の針●たるものと信ず故に長文に拘はらず此に掲載して一に里見義氓ニ日我との交情を以つてす、二に身延山久遠寺と富士山久遠寺の同一寺号の問題及び富士身延通用の問題を、身延側より提出したるに就いて起りし文書を掲ぐるのみ、通用成立せずして不条理の難問を仕かけられしやに見ゆる文書あれども、其の筋合の記録無きが故に此分は全く闕如に付す、三に不受不施問題なるが慶長度には富士は与からざるが故に文書無し、寛永度の文書は其の総代寺たる重須に無くして西山に当時の写本又は控等存在し、更に其の直後南条日諦の一件写本が房山に存在するを此に採録す、寛文以後には其文何れにも存ぜず暫らく本山日因上人の雑記の中より抄録せり。 一、里見義氓ニ妙本寺日我。 汢莓笂噤A祖滅二百五十四年、写本妙本寺に在り。 記録抄。 時に天文四年乙未十月十四日房州の御屋形、同国北郡妙本寺御光臨の折節御雑談の条々を註す。 抑当御家と申すは忝くも仁王五十六代清和天皇第六の王子貞純親王其の御子経其六孫の時、村上天皇より源姓を賜ふ、而るに其の御子多田の満仲、満仲より三代の後葉八幡太郎義家の御末流里見の源義氓ニ号し奉る、爰に妙本寺の事は興廃は時の道理に任せ只今没落衰廃勿論に候と雖も日蓮正嫡の智水天庭出仕の遺跡なり、時の行事九州日向本永寺の弟子進太夫阿闍梨日我法師住山の此、此の問答之有り、将来存知の為に之を書く処なり、問答十四日記録同十五日書き付け畢んぬ。 問者 源義氈B 答者 釈日我。 問うて云く日蓮の御影木像に顕す所其の年来幾の時節を顕はされ候や、答へ申さく卅有余の姿を顕はし候。 仰に云く古湊の御影は是よりも御若年の様に見え候如何成る不同に候や、申して云く彼は誕生の地に候間出生の姿を表し候、是れは卅己後。 問うて云く法華宗余多門流なる如何様の替り候や、答へて云く先づ六門跡と申すは日蓮より直授の弟子六人の上首に候、所謂白蓮阿闍梨日興是れは富士門家の開山に候、大国阿闍梨日朗是れは比企谷門家の開山に候、弁阿闍梨日昭是れは兵○、民部阿闍梨日向是れは藻原○、伊予阿闍梨日頂是れは中山○、蓮華阿闍梨日持是れは高麗へ渡られ候、是れを六門跡と申す此の外或は中老或は九老其の外天目日什などと申す人一流々々を建立候、当寺は富士門家の惣跡に候。 仰に云く六老僧の中には何れが日蓮の遺跡を請け継がれ候や、申して云く富士御門家の開山日興へ一宗の大事其の外御遺跡の寺塔を悉く以つて付属候。 仰に云く其の証拠候や、申して云く尤其の証拠一に非ず候、先づ末法万年の血脈の本筋目を以つて日興へ相渡すと云ふ日蓮の直筆其の隠れ無く候、其の外本門宗の道場本寺聖教共に相伝匿れ無く候。 仰に云く其の直筆当寺に候や、申して云く写本之有り云云本書は駿州に御座候云云。 仰に云くさては富士は本寺、当寺は末寺に候や、申して云く我宗開山日興本門寺久遠寺として両寺を大聖人より御相続候、其の両寺と申すは左右の眼の如く両手にも譬ふ、其の一は当寺よりかくご(格護)の寺に候、一は重須本門寺と申し候、彼の久遠寺に付属状等御座候。 仰に云く然れども富士山を以つて本寺とすべき処に何に妙本寺を本寺と崇め殊に九州の面々参詣を致し候や、申して云く富士久遠寺本門寺は勝劣無く両寺共に富士門家の惣本寺と崇め候、其の久遠寺の上人日郷と申すは日蓮より四代目の上人にて御座候、其の御代に房州へ下向有りて当寺建立候て久遠寺と一寺の契約を成され自今以後は上人は妙本寺に居住し、久遠寺をば時の代官を以つて勤行等有るべき条定め置かれ候間今に寺は富士を正意とし住持は当寺を本と仕り候、両寺とも上人の法弟に候間末寺の面々も上人居住の当寺を崇敬致し候、如何様法華流布の先表当国に之有るべき間此くの如く候広布の時は富士の寺に居住致すべく候。 仰に意く左様に候か如何なれば九州より其の方当時に居住有つて畢見等成され候や、申して云く真言天台法華宗等に於いては法頭学頭と申す事候、法頭と申すは住持の事に候、学頭と申すは本末の仏法の沙汰所に候、其の学頭九州に御座候間等寺畢見申され候、殊に住持中絶の日は学頭法弟に候爰を以つて愚僧も老師の代官として先づ先づ居住致し候、如何様上人定められ候はゞ帰国致すべく候。 問うて云く甲州身延は日蓮居住の地に候なる富士門徒も参詣候や、答へ申さく彼の身延山と申すが当寺の格悟久遠寺の事に候、其の由来を申すに彼の身延山を日蓮存生の時日興に付属成され候間御相続して先師の七年忌余義無き処に、大檀那波木井六郎入道と申す者法華宗の法義にそむき或は弥陀を信じ或は社参を致し候程に誡められ候に相叶はず候間、彼の寺波木井が領内に候条取り除かれ日蓮の重宝譲り状其の外先付属の本尊聖教等悉く持たれ候て駿州富士へ移られ候、夫を久遠寺と申し候是れが身延にての寺号に候、然る間檀那日蓮の掟を背き候間取のけられ候、然る時彼の地は師敵対の処に候間御遺跡勿論と雖も、日蓮付属の仏法は日興所持候間富士門家に相残り候、世間に於いて王位居住の処を都と申し或いは難波或は奈良志賀或は今の平安城等の数々の所は替り候へども只王法の有る所を都とは申す、其の如く如何に日蓮居住の所にて候へ師匠に背く大悪道の所に候間正理は少しも有るまじき故に身延の正意は当寺に御座候、去る程に彼所には後々に及び藻原の日向居住候、是れも檀那をあらためず同意候間師敵対たるべく候由上古より申す事に候、爰を以て日蓮違背の門徒に候間通触致さず候。 問うて云く机の上に候巻物は如何様の事候や、答へ申さく是れは日蓮以来当寺代々内裏へ出仕の時奏聞申され候状に候、子細は正像二時二千年過ぎて末法の中一万年間は法華経のみ衆生成仏の御経たり、殊に末法の始の五百年の中より此の法華経弘まり始むべし、若し用ひられずんば諸仏菩薩諸世天等嗔を成して三災興盛せん、若し御帰依有らば天下安泰して四海治まるべき由仏の未来記候故に、此の由申す事は国恩を報ぜんが為め仏勅を助け王位並に将軍家をすゝめ奏状に日々之を読み、一切衆生の現当安全のため法華流布の国と成り万民二世の所願を成就なさしめたまへと祈り奉り候、此の奏聞は当寺代々度々禁中に出頭に及び候、此の間には愚僧発心の師日要上人仁王百七代後土御門院の御宇か明応の頃に当寺より参内申され候款状を以つて中の御門殿へ捧げられ候、其の時の帝王の書き出し今に御座候故に当寺不肖は勿論に候と雖も王位将軍及び出世の寺に候。 問うて云く如何にとして法華宗に流々の門徒候や、答へ申さく禅には五家七宗、真言の十二流などと申す如く其の師の教へ相違せず候と雖も弟子各解異なる故に一順ならず候。 仰に云くさて富士門家には日蓮の手続ばし候や、申して云く中々法華流布の日の三堂の棟札、王宮中に懸け奉るべき大漫荼羅等直に日興へ日蓮よりの相承に候。 仰に云く日蓮の手続はさこそあらめ、さて釈迦の遺物法華宗に之有りや、申して云く如来所遺行如来事と申して末世今日此の比に法華経を行ずるが即仏の御使にて仏の所行を行ずる者なりと遊ばされ候故に末世に送らるる処の遺物は法華経にて候。仰に云く禅家には釈尊の袈裟を伝来候由其の聞え候、申して云く夫は迦葉付属の袈裟の事にや其の袈裟は弥勒菩薩慈氏如来と申す仏と成道有るべき時、迦葉持参之有るべきために袈裟をたまわり鶏足山に入定候き其の事に候や、廿八祖の開山の故に爾云へるか。 仰に云くいやいや夫に非ず日本に来り殊に鎌倉建長寺に之有ときく一乱に失せ候や今は如何、申して云く仰の如く縦ひ日本に来る雖も夫は成仏の依用には有るまじく候、釈迦の御身骨在々所々に之多し是れ当仏の種子とは成るまじく候、其の上仏御在世の時直に値ひ奉ると雖も正法を聞かず堕獄を致す者之多く候、釈尊の道具伝来せずと云ふとも只偏に仏法の邪正成仏不成仏の是非を定めて得道得果之有るべく候か。 問うて云く法華宗は釈迦を依用ときく去り乍ら仏舎利をば崇めらるゝや如何、答へて申さく舎利に於いてあまたの舎利候其の中に全身舎利と申すをば本尊と崇め候、砕身と申すは成仏の依怙に非ず候。 仰に云く其れはいかやうの替り候や、申して云く砕身と申し(己下五問答に舎利談より女人悪人の法華成仏等を答へたり、今之を略す)。 仰に云くさては我々如き大俗に候とも法華経を信じ申さば後生助かるべき由経文明鏡の上は疑無く候、さて他国にけい(計)さく(策)を廻らし或は人の所領を取り或は物の命を殺し候とも苦かるまじく候よな言語道断年来の疑をばはれ(晴)邪見のつの(角)を今日もぎ落て候、度々御宗躰の談義をも聞き申して候へども今の如く懇に経文を引き私無き法門殊勝に候此の不審悉くはらし候、爰に又一の不審候。問うて云く法華経が成仏の経にして余経無得道ならば何ぞ成仏の法華経計りを説かず余の経々をば説かるゝや、答へて云く此事は昔より申し来り候四教五時を以つて一代の結判事広く候間安々と申すべく候、(以下五問答に亘りて広く通途の如く判釈し念仏真言等まで破し了る分までを省略す) 禅には教内教外様々の義候へども略存候、先づ所詮の立様は修多羅の教は月を指す寺門瓦礫などと下し、古僧釈迦は迷機の為に方便の説此れを設くさて真実の仏とは超仏越祖見性得悟直指人心を座禅観法の心の本源をさとりとすなどと仰せられ候、仏は経論に依らざるは是れ魔の眷属、経論を用ひざる仏法を沙汰せんものは魔の眷属たるべき由涅槃経にも御遺言候、其の上廿八祖の迦葉阿難は法華にてこそ得道候へ、此れ等を以て存する時は先づ仏教の善悪を弁へ其の勝るゝ処の仏経を道としてこそ仏に成る修行とは成るべく候、縦ひ又教外別伝不立文字とて一指弾ありと仰せ候とも法華に勝れたる別伝有るまじく候、三説超過眼前に候、此くの如き門人となる人我は謗ぜねども先師の与同罪遁れ難く候、譬へば十人の子を持つに一人父を殺す巧みをなす、九人の子此の巧みを知りながら誡めずんば我は殺さずとも同罪は遁れまじく候、其の如く仏の金言に背く人を諌めずして其の謗法に同意せば同罪たるべく候。(此の下二問答にて滅後余経のみ弘まる時ありや、法華宗は何故に他宗を謗ずるやの問を明解して宗祖の大難迄も陳べあり)。 問うて云く他宗にも候はず法華宗にも成らず但法華経を信ぜば功徳と成るべく候か、答へて申さく法華宗と申して別義は候はず他宗に限らず此の経を受持するを法華宗と申し候、さてこの受持と申すは授くる人が無くては受けられぬ者に候間、末法の法華経の戒法の授け手計りを定めらるゝ時、上行菩薩日蓮聖人と説き置かれ候、其の法華経の戒文とは法華一部の大網南無妙法蓮華経の七字の事に候故に神力品と申すに上行の事を斯人行世間能滅衆生闇と云云、斯人と申すは末世日蓮の事に候、此の日蓮聖人一切衆生の迷闇を照さるべく候由を慥に衆生に如日月光明能除諸幽冥とも説かれ候間、末法今日此の比の衆生は上行日蓮に値ひ奉らずんば元品の無明の闇を晴らし難く候、さて其の法門はと申すに於我滅度後、応受持斯経、是人於仏道、決定無有疑文、末世に我等忝くも比の法華経を受持せん信者は決定して成仏は少しも疑の有るまじき由説かれて候此の事が肝要に候、釈迦と申すも浄飯王の多太子悉く多太子にてこそ御座し候へども本地は久遠の仏にて候由を釈迦も名乗られ十方の諸仏も尤も領掌申され候時こそ三世の一切衆生の本尊仏と崇め申し候へ、日蓮も其の如く且らく凡夫にて御座候へば末世の導師主師親とは申すまじく候へども、忝くも釈迦の本弟子として十方三世の仏を証人として末法当時の付属を受けられ候、爰に和光の塵に交はり凡夫に示同して法華を御修行候、此くの如く本地が仏菩薩にて御座候故法華宗殊に富士門家の主師親と崇め申し候、委くは重ねて重ねて。 天文四年乙未十月十五日に之を書く、 日我在御判。 証人妙本寺貫住学問者等。 右此の書は義沒九歳の御時、三浦へ正木弥九郎同く将監両人出張の時分、穂田観音寺に尾形様御馬を出され候時、妙本寺御光臨の上にて御雑談の筋目余りの賢察の間、只末代の亀鏡の為め且は本末披露の為に翌日之を書く、生得の悪筆殊に急いで筆に任す今日後見恥ぢ入り候、目出度し々々々々、当御代御持経有るべき瑞相か広布の先表か私に非ず候、日我生年廿八歳なり凡生年六才の春比より仏法の床に坐し法門の窓に向ひ日夜学文既に廿六日夏に至る迄廿一年間一日一夜も懈らず、其の中に法門問答度々に及び候と雖も御俗躰に於て此くの如き賢著の御不審先代未聞に覚え候、所答の法門皆以つて初心の前申すに及ばず候、去り乍ら彼の義略答は不相当に候間九牛の一毛を宣べ反言に備ふるのみ末代の為に義我問答と号し在々教化教導の道理たるべきなり、此の上に成仏得道の大事一念三千、一心三観、不思議観の宗旨の大事等一言も之を書かず、且は権実の一筋なり本迹にも及ばず況や種脱両箇の法門をや。 義泄S日法要、祖滅二百九十三年、正本妙本寺に在り。 唯我尊霊百日の記、 禅家に於いては義氓フ御名は正吾、道号は岱臾、院号は東陽院と申す、法花本門富山門家に於いて内々廻向の為に唯我と号し奉る、願主日我軽白。 日我老躰病者の上隠居の栖ひ不自由の故に心に任せずと雖も財施法施の志之を記するのみ。 房州の守護義氈A天正二●甲戌六月一日暁一番鶏鳴いて御逝去、御年六十八、日我四十余年の御懇切御重恩茲に因つて御法名唯我と付け奉る、教門観心元意の重は之を置き経文一図の証拠少々之を記す、唯の字は法花経に云く唯願説之(以下唯字我字の経文依拠を援く此に略す)、所詮二時継く処の証文は唯我知是相、唯我一人、富士門家に入りては唯我与我の相承、一口同唱の題目、蓮興血脈の大事、日我唯我一念信心の南無妙法蓮華経、逆即是順、直達正観乃至周遍法界平等利益是の処なり。六月四日より日我日々朝夕二時の御つとめ(勤行)ひる(昼)は高祖御作の御抄五帖も三帖も読み奉りて唯我に廻向先以つて百箇日自身此の分たるべき心願なり、七本の卒堵婆はか(墓)しるし(標)に大卒都婆朱はく(箔)にてだみ(彩)申し之を立つ、石に題目書き集むる、日々●香是れをひね(拈)る、七日めに大坊より僧衆皆同酒飯供養、六月中は三大部其の外御抄要文計り読み奉り七月一日より百四十八通録内読み奉り廻向申すなり、すき(暇)ずきには題目計り唱へ申す御存日の時我れさき(先)ならばとぶら(訪)へ受取るべしと御約束成さるゝ間、門家の大事愚が信心の本意を以つて吊ひ申すなり、其のすき(間)ずきにくちずさむ(口吟)歌少々之を書く。 唯我といたゞ(唯)われ(我)とよむ其の意を。 あと(後)さき(前)のへだて(隔)はありと思へたゞ(唯)われ(我)とわれとのわし(鷲)の山みち(路)。 唯我与我と云ふ大事の法門あり歌などは常の人なをざり(等閑)の事なれば。 敷しま(島)はなをさりなれや妙なりしのり(法)よりほか(外)の道しなければ。 題目を唱へて是人於仏道決定無有疑とのみこそ。 七月六日卅五日なれば穂田の性見に石塔きらせ俵物にて売よせて題目を書き奉り、唯我と云ふ字杲永にほら(彫)せ尽未来のために茶うす石にてほとけ(仏)石をきらせ嶺に立て申す、日我自身参りて御勤め申しつぐつぐ(熟)と拝見申して下向の時よめる。 妙なりし法のかゞみ(鏡)にさしむかい、もとのわが身をけふ(今日)やみるらん。 卅五日に仏躰を受くるよし申し候へば鏡像円触のかゞみ境智一如即身成仏の観道をこめて読める。 御台をば正蓮と付け申す正蓮の御石と一所に唯我の御石立て奉り、日侃にせすりのかたびら(帷子)を一つ唯我の御為にたてまつる僧衆一山に布施少し宛之を進らす、かう(香)の物にて上品の茶供養申す、中ん就く今日は観心本尊抄当躰義抄三大秘法抄など読み申し下種本因果妙事行の一念三千など案じつゞけ廻向申すなり。 題目唱へ唱へ次々に読める。 いきて世に残るわか身ともなふれは、のりの道もやつれてゆくらん。 十三日うらぼんとてちやうちん(提灯)一つこしらへ申しらう(蝋)そく(燭)とぼし十三日四日五日迄池のはたに立て申し、種々のくだ物塔中にさゝげ日我自ら参り勤め申す。 下向道にて読める。 みつせ川わたらはなみ(浪)の底とてもゆきかわるらんけふの夕くれ(暮)。 ●香一両唯我御吊ひ盆供養として寺家へあげ申す、七月廿日唯我四十九日御吊ひ大坊にて老僧衆へ酒飯供養殊更酒奔走、日我は寺●に僧衆皆同へのべ帋少し宛御布施伊豆茶供養申す(此下七月中の行事詠歌等六十余行を略す) 元亀元年庚午正月九日に日我存命不定の時御いとま(暇)ごい(乞)に歌一首よみ書きつけ形見の物そえ申し今日明日を待つ処に不思議に存命、又但今義氓ゥくならせ給ふ、其の歌を取出して見る。 わかれしの心なからもさきたては、君になこりのけふのゆうくれ。 是れを見てよめる。 われこそと思ひをきてしことのはの、君か形見と成にけるかな。 月日のへだつまゝ弥よ歎み深く御存日の時の重恩も思ひ出だされ人しれぬ御物語も案じつゞけ袖をしぼり心をくだく儘よめる。 日にそへて茂りもてゆく忘れ草、わすれぬたねや思ひ成らん。 八月十日迄録内の御抄読み奉り日々少しも怠らず、十一日より岩井の小屋(今安房郡岩井町の東十余町宮谷(ミヤンサク)村の奥ナカンサク中谷に在り)にあり○、十三日つとめ申し題目を唱へ●香焼き申すこと日々の所作なり、中にも今日香煙山風になびき芬ひ弥よ墨染の袖にうつりければ、昔の歌にむかしの人の袖の香ぞするを取つて読める。 香はかりは袖にのこりて空たきの煙のすゑや嶺のまつかせ。 小屋栖居によそへて読み待りける。 十五日今日は八月十五日夜名月いとさやかにてる(照)を見て心の友思ひ出され二千里外の個人の心とあるも物かなしくいづくの空の名月をか唯我は詠め給ふらん、日我独り此の世の月を見る心をよめる。 へたつとも心のそらにてる月の、ひかりはおなしなかめなるらむ、○。 十九日夜中塚(ナカンツカ、次のジヨンコシ共に岩井町より宮谷に行く中間にて芝の南手城腰は富山に面せる南の山の裾なり)、元より野原なれば鈴蟲の声も物かなしく松蟲も一両夜鳴き初めける、心無き虫の音迄唯我の御事思ひやりまいらせ長夜のねざめに、きりぎりす一首よみけるが残りの虫の恨みもいかゞと思ひ三首つゞけてよめる、底心は唯我の御事のみにこそ○。廿二日より城腰に於いて二時の御勤め日中の御抄常の如し今は秀句十勝抄を読み奉る○。 八月中日の所作常の如し、九月一日今日より彼岸殊に今日は唯我の御日なり、同く正蓮吊ひ申す、到於彼岸名称普聞の意を読める。 追風にいさるうらふねかのきしに、いたるやのりのこゝろ成らん○。 九月四日今日は彼岸の中日なり捨悪持善の時正なり、唯我御存日の時寿量品の談義競望なさると雖も此の品は耳遠く心深き事重々之有る由返答申す時、心をすなほにして偏執なく義に任せ是れをきかばむつかしく有るまじくと再三望み給へども、神力品の結要付属末法流布の一段を文字よみを申して聞かせ申し重ねて寿量品をば談じ申すべき由にて指置きぬ、はや故人と御成り候間一百箇日ひごとに朝夕は勤めすきすきに題目、ひるは百四十八通の録内御抄五通も三通も及び一帖を其の儘隙次第に読み奉り、思惟実相の観心に寿量品の本意悉く廻向申す間別して寿量品一品書き註すに及ばず○、明る五日に読める。 さめぬれは見えこし夢のあともなし、その面かけは我身なりけり。 有為の報仏は夢の裏の権果、無作の三身は覚前の実仏の心なり、正蓮唯我日我三身なり。 今日詩一首案じ作る 日我。 主将民を孚む国政盛なり、武威防戦功名を播く、人間万事片時の夢、贏ち得たり霊山寂莫の城。 言は義泱[陽の大守として二三箇国を領し四五箇国に手をかけ万民を哀れみ諸士に情有つて国をおさめ世をたもち、一代二代ならず曽孫まで国をゆづり無欲右道にして慈悲深重なり、大敵に値つてまけをとらず勝つことを千里にゑ逆臣をしたがへ讒臣をちかづけず賄賂に耽らず非道を行はず六十八にて逝去、恐くは関東無雙の大将なるをや○。 七日彼岸の結願なり日々の所作前の如し、今日録内御抄二度め悉く成就申し本因儀両箇の巻物信を付け奉り唯我に結縁申す処なり、月も下らず水も上らず感応道交十方通同如一仏土の霊山一会儼然未散の聴聞なるべし。 八日今日より録外の御抄少々読み奉り切帋相承廿五通の内下種縁の得分の処々之を破見す○。 九月十二日大聖人竜の口の御難の日なり、之に依つて衆会有り、今日唯我一百箇日に相当り申し御存命の時上げ申すべきためにたしなむ、筑柴より持来る九つ入の恩器心の約束故寺にあげ申すなり、衆僧皆同に一飯供養日我志の一分までなり衆中にはひきんの為に帋三帖づゝ布施にひく、来年は一周忌来々年は第三年なり、日我六十七明日を知らざる間、一周忌の為に大輔阿闍梨日恩に御法事一座競望仕り廻向申す御布施として新に小袖一つわたいれ之を進らす、第三年の為に本乗寺日膳に御法事一座競望申し廻向申す御布施として新たに小袖一つわたいれ之を進らす、百日一周忌三年の為に卒堵婆三本立て奉る、世間には国主仏法に入らば如我等無異の仏身○、自今己後の卒都婆の布施として新に線絲の黒茶の小袖の面て一つ日侃に奉る、露命不定の世間縦ひ日我日侃霊山参詣申し候とも、御懇志と謂ひ御重恩と謂ひ一周忌己来忌の時に年々の飢福に応じて御吊ひ有るべきなり此の旨を存ぜらるべきなり、一百箇日毎日の所作闕滅無我仍所願成就唯我与我なるのみ、日我敬白、南無妙法蓮華経。 天正二年甲戌九月十二日 形見の為め作者筆者六十七歳日我。 編者云く唯我義氓フ一周忌三回忌七回忌及び正蓮夫人の百箇日と追吊歌集、正木大膳時茂の百箇日等皆我師の心尽しの歌詞等は且らく此に割愛す。 二、久遠寺号及び富身通用件。 元亀二年四月頃か甲斐の国主武田信玄は身延山久遠寺の為に小泉久遠寺の号を変更せしめんとの意あり、此の時房州妙本寺は日我退隠して日侃後主たり久遠寺は日珍代官たり、不入の判物を時の国主武田家に請願すべく房州の国主里見義氓フ口入を以つて運動を開始す、信玄此れが判形を為すと同時に重臣土屋右衛門尉をして里見家の重臣市川玄東斎に武田の本国(甲斐)分国(駿河)中に両久遠寺ありて対抗するは不穏なり宜く寺号を取替ゆべしとの申入れを為したるが即ち次の文書なり、祖滅二百九十年頃、正本妙本寺に在り。 里見家にては直に寺主日侃に告げたるを以つて侃師は其の不当の理由を陳述して之を拒む、義沐Vを諒解して武田家に返状せしに信玄も亦余儀なき答弁として之を強ゆるに忍びず、且又大挙駿遠に出兵の大事の為に之を猶予して間も無く死去したり、其後継勝頼も亦戦死一族滅亡して甲斐は徳川家康の新封となる、茲に亦延山の徒更に此の件を出願に及べるか、併し乍ら家康は智慮深くして直に之に同ぜず、代官井出甚助をして富士身延の不和を解き通用の扱を為さしめたるものか、即次下の天正十六年の日侃の陳状は全く此に出づるか、此の時他の富士諸山にも此の扱ひあるべきも今各山に何等の伝説も文書も一として存在せず、但し久遠寺の名義の為に小泉独り其の衝に当りたるか、時に久妙両山内憂多々能くも他山の助力なくして此を突破したる志念の堅実さを嘆称せずんばあるべからざるなり。 駿州小泉の郷久遠寺の儀に就き御切帋に預り候、殊に義氓謔闍M所への御状差し越され候、其の意を得せしめ即ち上聞に達し前々の如く御判形相調へ進じ申し候、但し本州身延山と同寺号は如何に思し召され候、只今は御分国の間其の御用捨有るべく候、寺号を取り替ゆるに至つては御祝著たるべきの旨御意候、此の所御分別を遂げられ御異見肝要に候、委細彼の御僧衆の口説に附与候条詳に能はず候恐々謹言。逐つて近日太田新六郎殿飛脚差し返さるべく候条、其の時分精く申し述ぶべく候以上。 (元亀三年か)五月十四日 土屋右衛門の尉昌続在り判。 玄東斎御宿所。 妙本寺日侃の駿河(徳川家)奉行所に提出すべき陳状の案、祖滅三百七年、正本妙本寺に在り。 富士身延通用の儀御取扱ひの方御座候や、自余の諸寺は如何とも候へ、小泉久遠寺に於いては永劫末代罷り成るまじく候先年(前出土屋昌続状)甲州信玄の代に富士身延一和の儀、土屋右衛門尉、渡辺五郎右衛門尉等内議候て房州迄通信候、里見義沐@何為すべき由愚僧に御尋ね候の間、其の時富士身延不和の元由委細演説に及び候、信玄も其の後は是非無しとの儀に候き、抑高祖日蓮証人身延山に九箇年隠居成され候(己下池上入滅、興師二箇相承身延入山、同離山、大石創立、目師相伝、郷師大石擯出等を記述せるを略す)、今の小泉に移り久遠寺と名乗り候事今年迄恚無く候、此の時の文書四五十通妙本寺に之在り、然れば日蓮日興日目日郷と嫡々伝来し法華の頭領にて候、縦令今の身延山はすて(捨)て出でたまふせみ(蝉)のぬけ(脱)がらなるを民部阿闍梨日向と云ふ人檀那をへつら(諂)ひ、日興と波木井の間を云ひ妨げ横様に之を持ち候、仏法の正理は曽て以つて之無く候、法華宗富士門徒の所詮は日蓮日興正血脈の筋目を募り候、日蓮は日興を以つて付法の嫡弟惣導師と相定め候、日興は日目を以つて本弟子法華の棟梁と筆記を残され候、門徒の大事之に如かずと決判候上は何事か之に過ぎたる大事之有るべきや、道心あらば身延の一党手をつかね(束)て富士を崇敬し、正理を思はば諸法華宗日目日郷を帰敬すべき処に、劣謂勝見の外道に順じ小泉久遠寺を蔑如し、我慢偏執の幢高うして候が法竜を軽賤す、玉を懐いて淵に沈むの類下和の玉に泣く此の事に候や、先例に任せ不入の御判三箇年以前より愁訴に及ぶと雖も是れさへいまだ裁許に預らず、剰へ身延通用の厳命を蒙る伏して之を悲み仰いで之を愁ふ、其の故は一致勝劣は久年の諍ひなり、今一和に及ばゞ多年の立儀泡沫に同じ、身延富士の不和三百年以来なり末弟の通用先師違背の過あり、若し無我の信心を以つて先非を悔ひ富士帰伏の志あらば尤神妙なり、希ふ所なり、然らずんば縦ひ国中を負はれ身命を没すと雖も争でか通用の承諾に及ばんや、上件の趣き慈悲の賢眼を以つて愚艨の●中を恤まれば幸甚々々頓首謹言。 天正十六年戊子十月(一)日 房州妙本寺日侃判。 (#08・408) 右の旨趣を以つて御奉行所へ委悉披露有るべく候、以上。 富士山久遠寺日珍阿闍梨日提阿闍梨御両所進覧。 妙本寺日侃状、同上、古写本妙本寺に在り、前状に追つての念状である其の意文中にあり。 高祖聖人より日興上人へ御相伝の大事の条々。 一、手継の御本尊、一、産湯の相承日興上人の御筆記、一、末法万年の御本尊流布の日本堂に懸け奉るべく候。 一、同二箇の習二重、一、御本尊口伝、一、鎮守堂本尊、一、同御聞書。 一、天堂本尊、一、同梵字の口伝、一、御模の正本御本尊、一、本尊七箇の伝。 一、控字の本尊、一、日文字の大事、一、死活の曼茶羅。 一、御判の大事、一、日月の御形像、一、熾盛光天の法。 一、本因妙抄血脈の譜なり、一、本門授記の切紙、一、三大秘法の切紙。 一、同大口決、一、三帖の御聖教蓮興御両筆諸経論の肝文要文法門口決なり、一、当家六重本迹口決。 一、一巻の書同前但日興上人御一筆なり、一、一部一巻の法花経、一、一代五字系図御真筆。 一、鎌隼抄王前問答、一、二箇御相承、一、御太刀小鍛冶、新羅三郎より波木井相伝。 一、化儀巻物送り状、 巳上。 右三十二種の大事重宝なり、兼日の御相伝も或は身延御出の時分、或は池上御入滅の時分に御相伝も有り、上代は其の名も披露せざる御事なれども、意趣も道理も世末代に習ひ失ひ或は諸法花宗同等に思ひ成し或は当流を下劣門徒と思ひ成す間、仏意冥慮惶れ多しと雖も之を書記し同我の後哲に之を譲り奉る処なり相伝せらるべきなり。 先書は当場に莅み火急の注進たる間前後左右を顧みず払つて之を述ぶ、此の上後儀に応じ会釈を設けば条目を以つて裁断を請ふべし、謂はく。 一、第一、富士身延の不和三百年なり、然り而して今代に至り通用の好み有らば先代不和の先師は皆大罪たるべし、仍つて血脈を削り代々を切られば尤通用申すべし。 一、第二、富士身延は化儀法則天地水火なり、捨劣得勝の道理に任せ本迹一致の修行を止め造仏読誦を改め富士の化儀を守らるれば通用申すべし。 一、第三、高祖聖人身延を以つて日興上人へ御譲り其の御状に云く本門弘通の大導師たるべし、血脈の次第日蓮日興と遊ばされ候、又十月十三日の状に云く身延山久遠寺の別当たるべしと(云云)、御譲りに任せ高祖御入滅の後身延御還住七箇年なり、然れば日興の譲りの御譲りの筋は嫡々正説なり惣跡本寺なり、将亦高祖御存日に定め置かるゝ六人の上首の其の●次は第三日興第四日向なり、然りと雖も日向は血脈付法の補処に非ずと雖も●次既に日向は次なり、袷と云ひ帷と云ひ身延山は富士の末寺たるべし、此の旨承状を為さば通用申すべし。 右の三箇条何方よりの御下知成りとも誰人の御操ひ成りとも上件の道理御合点に於いては毛頭違背申すまじく候、去て又権威を募り強義の御沙汰に至つては世間の善政にも非ず仏法の正理を失ふ間承引申し難く候、一向御下知に背くに非ず候、当流門家の道俗縦ひ追却流浪の身と為ると雖も先聖伝来の正路を失ふこと勿れ、設ひ暴虎憑河にして死すとも嫡々正説の法水を汚さず、勇猛精進の信力を励み清浄第一の智水を汲み独立有頂の法灯を挑げ本門弘通の大導師たるべきのみ。 天正十六戊子年十一月七日 房州妙本寺日侃。 富士久遠寺日珍井に衆檀中。 堺本伝寺蓮鏡坊日邦へ之を贈る、当門流不知案内の方披見有るべきなり。 日諦私に云く達て入らざる事共なれども近来門流錯乱に仍つて若し他寺の通用の沙汰存知たさのまゝ書写し畢ぬ。猶亦当寺なれば是の趣とは一向各別の法義なり、後に見ん人能く能く吟味すべし、此に泥むこと莫れ。 妙本寺日侃状、祖滅三百七年、正本妙本寺に在り、久妙両山にては十八年巳前の信玄の意図に深く不快の念消えず、又或は官憲の暴断もやと危惧の恐れを為す薄信怯懦の衆檀もある所に、此の度の通用の扱ひに付いては種々の臆測も行はれたる中に、主将の日侃すら身延が富士を併合して、宝物を奪取する底意なりと論断する程度なれば、巳下の弱卒に至つては巳に八箇年前の隣山(北山)の重宝強奪の暴挙の恐畏今に眼前にあり、一は恐怖の為に全く自山の方針を忘却して目前の倫安を謀り、一は順世外道に堕して全く事大主義に陥り広布を憑み無きものにす(古今轍を一にすること何処も同じ秋の夕暮)、●に日侃は先師日我迂化前より義氓フ卒去(天正二年)鴻の台の敗戦房総領地の縮小等に依つて妙本寺に累する事少からず、又は九州諸末の萎縮等の為め、否運刻々に迫るを顧みず勇を皷して敢然其の衝に当るべく門下を激励するの状であるが暗々裡に悲惨の決心が見ゆる、日珍久遠寺代官なるが故に富士の大将、久成坊日恩、薩摩阿闍梨日長三沢と小泉とにありて褊将であれば、軍陣は大盤石であると云ふ、併し日恩後年の背反は或は此時に胚胎したるに非ずや中々の悲愴事である。 今度富士身延の子細通用の扱ひは公義の一辺、内心は富士四箇寺を以つて身延の末寺と為すべきの巧みに候の処、無智の道俗不信の衆檀且は権威を懼れ且は一味を歓ぶ事浅間しき次第に候、爰に久遠寺の僧檀多く強盛の信力に住し大甲の一心を定む、誠に是れ貞松は霜後に顕れ賢臣は国危に見るの先言此の時に候か、日侃関東に控え日珍富士に陣を張り日長日恩の両大将既に法戦場の固め口に莅まれ候の上は、甲乙の従軍悉く信心強盛の堅め志念堅固の備を全うして、富山独歩の高運を開き興目両上の法燈を燿さるべき事、併ら広宣流布の先走たるべく候、委細口上に申し含め候条具に能はず候、恐々謹言。 天正十六戊子年十一月十一日 日侃在り判。 富士山久遠寺御衆檀中。 妙本寺日侃状、祖滅三百八年頃か、判形無きも正本妙本寺にあり、御大事とは控字の御本尊なるべし、押領を恐れて房州に引き上げたるなり、諸商人の噂強に風声鶴唳にもあらざるべし(大石の坂本尊の事此と同篇か)此れが代りに下したる本尊は何なりやを知らず。 ○、一、御大事御下り候海陸安々と御下着候御心安かるべく候、廿余年以前より聞き及ぶ子細多々御座候、中ん就く身延近所の商人五郎右衛門と申す者、其の外軍衛門弥左衛門などゝ申す商人、或は小湊参詣の道人等申す事にも、如何様に富士門徒殊には久遠寺を亡し、中ん就く日本第一の重宝の御漫茶羅安置の由、其の隠れ無く是れを奪ひ取る巧みを回らし一度は成就すべき由義定候、我等事も其の門弟にて慥に存じ候と申し候き、此くの如きは申さずとも其の用心之有る所にか(斯)様に候へば心意を驚し年月迷惑仕り候、殊に今度の錯乱は大切の沙汰を申しかけ佗言せば彼の漫茶羅を過料にひかせべき内存之有るべく候、御冥感信心に通じ候や此の方へ御下り当寺の重宝と御一所に御座候へば先々安く存じ候、此の替りとして御真筆の御本尊一ふく副状上ぼせ申し候御安置之有るべし、日郷上人御本尊一ふく上ぼせ申し候○。 十一月十六日 日侃在り判。 日珍阿闍梨進覧。 妙本寺日侃状、祖滅三百九年、判形無しと雖も正本妙本寺にあり、全阿の事校へず、妙本寺領の地●官吏の乱入、本伝寺の失敗等年々逼迫の余り久遠寺への補助を拒絶したる悲惨の状なり。 条々。 一、富身沙汰向の儀去々年(天正十六か)巳来度々申し候と雖も未だ澄み行かず候、今度全阿の取扱ひ之有るに附いて子細承はり候、連々申す筋目を以つて急速に御調べ肝要たるべく候、路次の故今まで遅々候、返答如在に非ず候。 一、去秋地●の○、愚僧事去々年(天正十六か)富身の造作、去年は和泉堺の失墜、極々手前を尽し候の間年々の儀罷成り難く候、如何様にも御堂客殿の跡計りも申し請けられ弟子一人小者一人にして堪忍候て広宣流布を持つべく候、此の外の擬ひ力及ばず候○。 (天正十八か)二月十九日 日侃。 日珍阿闍梨御報。 日侃状、祖滅三百十二年、通用の扱ひ成効すべくもあらざれども数年の間に亘り手を代え品を代えて遂には本迹問答の末端に及びしものか、此れが記録は何れにも見えず、但し本件も●にて自然消滅か。 一〇、去年(天正二十年)身延の本迹問答いつもいつも詮無き事を全く申され候、一を以つて万を察するに只彼の寺も無覚悟人のあつまり(集)りときこへ申し候、何事も御取あひ御無用に候○。 み(巳)のとし(歳)(文禄二年)閏九月廿一日 六十九歳日侃在り判。 富士山久遠寺日珍阿御同宿御中。 三、受不受事件。 大仏殿千僧供養の時は地方寺院に其の災波及せず従つて富士に何等の文献も存在せず、要山は其の地域内に在るが故に多少の文献あるべしと雖も未だ之を見聞せず、漸く本篇の日躰文書の中に時の日性日●の挙動を暼見するを得るのみ、寛永寛元文禄の時は委曲を知るの料有るべしと思へども寛永度に限りて西山本門寺に其の関係文書を存し房州妙本寺に妙蓮寺日諦の写本を存し又兼ねて寛文度の一片を記す、寛文の事及び元禄に至りては弊蔵にも其片鱗を見るのみ但し西山文書は周覧の機無きを以つて今は日諦の写本を台本とし西山文書の一、二及び其の帝大史料編纂所写本を以つて之を修補して此に掲載す、由来大聖人以後宗内各山に自然に硬軟の二流ありて臨時随処に摩擦して或は為に義鏡を砥礪し或は為に人法を破壊す、其中に不受不施、受不施の事件たるや殆んど大聖の法運を閉塞するの大難たり、慶長の災厄は富士に及ばずと雖も唇亡びて歯寒きの感無きにあらず、寛永度身延の富楼日暹の猛威は頗る富士五山の堅城に迫るものあり、其れは彼れが公儀の権威の笠を被ぶりて池上一党を破壊して余刄を富士に向けたるに在り、五山内又各硬軟ありしなるべく之を纏むる容易ならざりしより、一時を糊塗したるやに見ゆる筆致ありて、更に日暹より「御返書文体幽遠に相聞」又は「紛れ無き様に可●と御報」等の迫辞を見たるは遺憾千万である、此等の交渉件後世の参校となる事少からざるを以つて之を掲載したり、但し日諦の写本には。 一、七月十四日日暹状、二、七月廿四日日暹状、三、七月廿六日同状、四、正月廿五日同状、五、七月廿日富士日賢返状、六、八月廿八日富士日賢返状、七、日躰状(抄録)となつていて年号を入れて無いから日暹状自らに排列が前後し又問答進返の関係が名著で無いから、今は繋年を校へ其の排列を左の通にした。 一、(寛永七)七月十四日身延日暹第一問、二、(同年)七月廿日富士日賢第一答。三、(寛永七)七月廿四日日暹第二問、四、(同年)八月廿八日富士第二答。五、(寛永八)正月廿五日、日暹状の一、六、(同年)七月廿六日、日暹状の二。七、(同年)日躰状(抄録)。 寛永度不受件往復状、祖滅三百八十四年頃、南条の日諦の写本妙本寺に在り。 受不受に就いて富士身延往復の状進返六通。 寛永七年庚午の比身延の住持比日暹と池上の住持日樹と両山問答、武州江戸に於いて御奉行所酒井雅楽頭殿にて対決し畢んぬ、不受不施の棟梁日樹屈伏し不返の遠流に処せられ配所信州伊奈郡に於いて卒す、徒党中山日賢は遠州、平賀日香は豆州、小湊日領は仙台、中村の遠寿院は奥州岩城、各配所に於いて死す。 其の後寛文五巳九月十月の比寺社へ御朱印下さるゝ刻又受不受の●義之有り、残党治罰の時、京妙満寺同上行寺は日向の国に遠流し畢んぬ、関東方には平賀本土寺、僧司谷法明寺、上総鷲山寺、小湊誕生寺は配流、其の外余流の僧或は寺を追ひ出し或は寺門を破却し僧は俗に還へり俗は他宗に移り恰かも法滅の如し、哀れなるかな師子身中の虫、師子の肉を食ふ暹樹の苦域如何、此の時に当り宗門破滅の体、異朝の会昌の如きか。 (巳上、入題の左右の余白に追記せるなり)。 一、富士の諸寺其此の住持衆は西山日悟、大石日樹(就)、重須日賢、小泉日珍、堀の内は日遵なり、会所上野堀之内(妙蓮寺)(云云)。 談合の趣き国主は受、庶民は不受の決帰なり、寛文五年乙巳九月七日に御朱印頂戴の時前方の●義は八月十七八日の比なり、受不受の義先代の定判の通り申し上げ、国主は受、雑人は不受と義定するなり、之に依つて公議奉行へ一札を以つて此の旨言上し則御朱印成就するなり、御奉行は加賀爪甲斐守殿井上河内守殿両寺社奉行なり、法華宗は甲斐殿支配なりき、予も下府して百日余江戸に在り、五月廿三日に発して九月廿一日に帰寺す。 身延山久遠寺日逼第一問状、祖滅三百四十九年。 返す返す帰山急ぎの時分俄に誌し候故書中慮外の体恕宥るべく候。 態と使札を以つて申し入れ候、抑此の度池上と吾山と国主の御供養受不受の義相論候故、去る二月廿一日(寛永七年)酒井雅楽頭殿御寄合場に於いて諸奉行衆並に僧正国師等列座の砌り既に対決を遂げ候処に、池上日樹並に徒党の衆文理共に閉口候故罪過に行はれ候、其の後六月七日両御所様え身延三人等御礼申し上げられ候刻、西の丸の御殿に於いて池上並に京都妙覚寺其の外池上徒党の寺々、身延より住持等申し付け候へば惣じて今度の法理天下の一宗一同に権現様御仕置の如く身延より申し立て候、仏祖の掟のごとく堅く相守り候へとの仰せ出しに候、故を以つて前陰居日乾をば京都妙覚寺へ入院、次の隠居日遠をば池上本門寺へ入院仰せ付けられ候、はや日遠はさる十日に入院致され候、其れ等に就き御存分如何に候や、天下より仰せ下され候様子寺領等は経釈の如く祖師の掟て国主御供養の旨身延の法理の如く御守り候や、但し御同心無きやの義向後公儀え申し上げ候間委細の御報承はるべく候恐惶謹言。 (寛永七年)七月十四日 久遠寺日逼。 富士五箇寺御同宿中。 富士惣代重須日賢第一答状、同上。 尚々早速本意を達せられ帰山急ぎの節の御書中忝く存じ候、以上。 芳札の旨趣諸寺拝読せしめ候、抑今般両寺往覆の子細御奉行所に於いて既に対決に逮び真に以つて永々御劬労推察致し候、随つて御上意より仰せ出の如く国主所施の御恩遁れ●く候の旨、富山の諸寺曽つて違背之無く候、中ん就く大仏供養の一途貴命に応じ京都の諸寺御談合を以つて一味たるの由承り及び候条、此の度貴寺より言上成され候趣き敢て其の儀に漏れず候、卒に理運を遂げられ御本望たるべく候、恐惶謹言。 (寛永七年)七月廿日 富士五箇寺惣代本門寺日賢判。 身延山久遠寺尊報。 身延日逼第二問状、同上。 尚々向後弥よ自我の我執を忘れ候て法門誤之無く経文釈書曩祖の妙判の如く互に申合弘通候様に御門流も御示論肝心に存じ候。 態と御使冊に預り誠に以つて感悦に勝へず候、法理の趣き今度申し立て候重其の辺諸寺御見え候旨別して満足に存じ候、国主より沙門に恩恵御座候は悉皆仏法に対する布施供養なる儀、止観第一本末に引証候宝積経の宝梁聚会の文、並に梵網経の無暫受戒の下、祖師大事の安国論、治病抄、崇峻天皇抄伝教の顕戒論等明白に候上は争ひ無き処に候か、但し平人の儀は元より経釈祖師の誡め候に非ずと雖も、強いて不施の制を為り自慳貪他の謗の為に世の譏嫌を息め候時且らく之を立て来る法度に候間今又之を守り庶民の施は受けず候と申す所立当山並に京諸寺一味候間、其元も弥其の趣き御申合せ肝心に存じ候、諸事拝顔の時を期し候、恐惶謹言。 (寛永七年)七月廿四日 久遠寺日逼判。 富士五箇寺惣代本門寺法床下。 重須日賢第二答状、同上。 尚々此の趣き地子寺領、布施供養此の両義に於いて自宗他宗異心不同に候かと存じ奉り候、但し御抄等異見之有るに於いては代々の法度に候間、伏信仰守の外他無く候。 再札の旨具に披閲せしめ候、然れば返状疾くに進らすべきの処に住寺中或は病気或は謝し難き所用候故に延引申し候、其れに就いて経釈並に高祖の御妙判御書付給り候、其の書能く見分け候地子寺領の仁恩と布施の信施とは大に相違致し候か若し其の義に於いては今更諍論に及ばず唯祖師の制法先哲の法式怠転なく相続候、将又地子等の御恩の儀は先度も申し入れ候如く先規に任せ請納せしめ候、布施等の義は古来の制法相替る事無く候、殊更両御所様より仰せ出しの旨は経釈祖師の掟の如く堅く相守り候への由貴寺より御状給り候、左様に於いては猶以つて仏法興隆自他の満足之に過ぎず右の趣き希ふ所に候、早々恐惶謹言。 (寛永七年)八月廿八日 富士五箇寺の惣代、本門寺日賢判。 身延山久遠寺尊答。 身延日逼寛永八年状の一、祖滅三百五十年。 猶度々及び略札を呈し候事曽つて以つて我執を構ふるに非ず候、近年宗旨の内鉾楯相止まず候て宗義忽ち衰微に就くの段深く嘆き入り候故、遠慮を顧みず申し述ぶる事に候間、御道意を以つて一宗一味の籌策宗旨繁栄の御分別希ふ所に候、野僧在府中急度御奉行衆へ披露申し弥よ一宗一統の法理相守り候様にと仰せ付けられ候様に存じ候間、分明に御報待ち入り候。 貴札の趣き再三巻舒被閲感悦少らず、是より二箇の条目を以つて御所立の趣き相尋ね候処、第一、地子寺領国主の御供養治定の段は御領掌候て心中に遺らざるの義寔に以つて欣躍に勝へず候、其れに就いて地子寺領は謗施たりと雖も旧規に任せて請納候の由示し給ひ候義不審に存じ候、国主より免し下され候地子寺領は仏法興隆勤行懈怠無からしめん為の趣き御朱印の文言分明に候、然れば則ち国主の御宗旨吾宗に非ずと雖も地子寺領を賜ふに於いては一分御信仰の故に候、之に依つて経釈の文義と御朱印の趣きと甚大に符契候、然るに謗施と御見立て候義賢慮如何に候や承り度候、次に別途の供養請納有るべからざるの由御申し候は平人の事に候や国主の御供養の事に候や、国主の御供養の義に候はヾ大仏殿妙法院門跡千僧供養の如き京都一宗一同に之を受け候は謗罪を犯すと成るべく候や、是れ又顕著に悃意を被り●墨に係るべく候、次に庶民の供養の事は去年粗申し入れ候如く元より仏祖の制に非ずと雖も自慳貪他の譏嫌を息めん為の不受の制法にて京都並に身延一同相守り候事に候、其の辺の諸寺此の重に於いて亦御同心候や、惣じて法義一宗一統之を守り自今以後異端無き様に相談を遂ぐべきの由、去年仰せ出され候間此の度の御報委細希ふ所に候、随つて節々の芳書謗法の施と雖も上意に於いては是非に就け違背有るべからざるの趣き承り候、先年大阪御殿権現様御前に於いて対論並に今般の問答とも一宗の奥旨経釈の文理に合せて委悉申し上ぐべき由仰せ出し候故、京都身延の所立は経釈の趣きと上意繊介も相違無き故に忝き上意を蒙る事其の隠れ無き義に候、但し其の辺諸寺の御立義は日樹党申し立て候通り宗義の本意と雖も、経釈の文義を曲げ強いて上意の権威を仰いで京都並に身延の所立と共許有るべき義分に候や、去年より以来の度々の御返書文体幽遠に相聞へ候間此の度は紛れ無き様に可●と御報待ち入り候、恐惶謹言。 (寛永八年)正月廿五日 久遠寺日逼判。 富士五箇寺惣代本門寺御丈。 身延日逼八年状の二、同上。 尚々此度の御仕置一宗一統の法理相守らるべきや否やの御報書待入り候、以上。 態と使札を以つて申し達し候、抑去年以来当山と池山と国主の施を受不受の論起るの故、去年(寛永七年)二月廿一日上意を以つて対論を遂げ候処、池上日樹等の申し分文義とも罷り立たず候て閉口致す故に罪科に行はれ、殊に去る六月七日今度野僧申し立て候法門経釈祖師の所判分明、殊に先年権現様御裁許の義候間、一宗一同に之を守り重ねて異端無き様に致すべきの旨仰せ出され候間、経文並に天台妙楽伝教蓮祖の御所判の如く権現様並に当両御所様の御仕置を相守り候て、国主より沙門への地子寺領等は仏法に対する供養の趣き京都諸寺等何も相違無きの趣き申し来り候、貴寺御同意候や具に御報示し賜ふべく候、尚其の趣きを以つて公儀え申し上ぐべく候、恐惶謹言。 (寛永八年)七月廿六日。 久遠寺日逼判。 富士五箇寺。 日躰(要山)より寿策(朔、西山日映か)への状、祖滅三百五十年か。 今度身延池上両論に付いて大仏出仕の儀去年の書中に委く示し給り候、大方京より申し来る分にて候別儀は之無く候、但し委悉に存知候衆日●上人、是れは其の時の会合の衆、仏種院と拙子何方へも御同宿に参り候、大方其の時の義を存知申す者は拙子一人残り申し候、少しも謗法を受くるにはあらず候。 一、太閤様より振舞と仰せ出され候事も決定にて候、則ち徳善院承りとて会合の帳箱に之有り候、又千僧供養は先祖の義たる間瑞竜院殿御施主と仰せ出され候も実正にて候、又権柄の強義の儀も尤に候。 一、大仏供養は受謗法施上の義も尤に候其の義に付いて日性上人は出仕御無用の由日●に仰せられ候間一度も御出仕御座無く候、師の懺悔三宝の懺悔も仕り候、又大悲受苦の儀も切に談合の時承り候是れも仏法の大意にて候、興門の儀五人所破抄並に神天上の抄日興上人の御作なり、此の外血脈抄代々の儀数多御座候、所詮万一も御尋ね御座候はヾ罷り下す申すべく候、其の節使者を以つて申すべく候間早々江戸へ御出で候て給るべく候、公事相談を得て公儀へも申し上ぐべく候是れも広布 の瑞かと存じ候、普伝上人問答の後別して仏法繁昌申し、又常楽院法難の後繁昌申し、日奥諍論の後も仏法繁昌申し候、諍論ごとに流布仕り候法論之有つても然るべく候。 日因記、祖滅四百五十年頃か、正本雪山文庫に在り。 ○、其後寛文五巳年又受不施論有り諸寺公儀に証文を出す。 一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは格別にて御座候、仍つて件の如し。 寛文五年巳八月廿一日 本門寺、妙蓮寺、大石寺。 御奉行所。 一、差し上げ申す一札の事、一、今度御朱印頂戴仕り候段有り難き御慈悲にて御座候、地子地領悉く御供養と存じ奉り候、一札仍つて件の如し。 寛文五年巳九月廿七日、小湊誕生寺、碑文谷法花寺、谷中感応寺、小松原鏡忍寺、村田妙法寺、依智妙純寺。 立ち様に甲斐守殿申され候様は、是れより以後仏事供養布施等迄取らせ候間、左様に心得申す様にとの御申しなり巳上。 一、其の後元禄(十一年)に又受不受の異論興起して更に悲田宗と改む、谷中感応寺廃地と成り住持は遠島せらる、時に身延山より富士五箇寺に尋ね状来る、不受不施主悲田宗を立つるや否やと、時に当山日永上人、重須日要上人、西山日意上人、小泉日(賢)上人、妙蓮寺日(誠)上人、皆大石寺に会合し御返事之有り、日興門流の立て様は信敬施は之を受け不信敬施は之を受けずと即身延山に之を遣はす、其の後何の沙汰も之無し(云々)。 編者云く、曽て富士門家にて時勢に依り山情に依り、一時石山と歩調を異にしたる本山等が、昭和廿一年巳来復帰して合同の手続を完了したるもの、又特に合同すべき機運に迫りつゝあるもの生ずるに至る、此等は本編始め他にも宜しく其の位置其の名義を変更すべきも、未だ訂正すべき完機を得ざれば且らく旧本の儘にした事も、宜しく左の各項を諒承せられんことを請ふ。 讃岐国高瀬法華寺 昭和二十一年三月二十八日、合同す。 同年五月七日寺号を本門寺と改称して開闢当時に復帰し、既合同末寺数十一箇寺にして、本山格に進む。 駿河国冨士下条妙蓮寺。 昭和二十五年十二月十五日、合同す。 既合同末寺数七箇寺にして、本山格なり。 安房国保田妙本寺 昭和三十二年四月廿八日、合同す。 本山格なり。 又云く、旧本中に「何々部何頁」に在りと各所に記せしは、新刊(本現)には組方が変更せるを以て自然頁数を改むべきを、且らく旧本の儘に記したるを以て、各巻末に掲ぐべき正誤表の中に譲りたる事を諒知せられたし。 |