富士宗学要集第九巻

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第三章 天 文 度

 天文五年七月在洛の一致勝劣の廿一箇本山百余の末寺悉く比叡山延暦寺の僧兵及び近江の六角佐々木浅井等の豪族の為に焼打せられたる大法難は其禍幸に京洛に限られて地方に拡がらざりしを以て全面的の打撃にはあらず、殊に富士門流としては未だ京洛に進出しをらず唯要法寺の前身たる上行院と住本寺とが其禍を受けたるのみにて、流石の筆精の日我すら此を記留せず、日辰は其時九州に下りをりたしにもせよ細に筆したる物無し、但祖師伝の中に両山復興に因みて一筆を残せるのみ、祖師伝の文は巳に要集問答宗史雑部(二三三頁)に掲げたれども短文なれば再び掲出す、委しくは俗間の諸誌伝に譲る、猶永禄十二年武田信玄に依りて岩本実相寺が全滅せられ北山本門寺が堂宇を焼かれ大石寺も一部が焼かれ寂日坊日誉が打たれ、又久遠寺が後日除歴せられたる日是の代に浅間社の富士九郎次郎に与して焼かれ、十年を経て又九郎次郎により日我此を復興し妙本寺が再々里見家の為に要砦となりて焼かれたる等は、敢て法難と云ふべくもなく戦国時代兵火の常なれば爰に省く。
祖師伝 〇、天文五丙申年七月廿三日、山門数万の軍兵を引卒して洛中の法華宗を攻む、同く廿七日諸寺を滅失す、同く十六丁未五月諸寺、江州進藤山城守平井加賀守に依て佐々木弾正の少弼定頼に申し山門の欝憤を息めて各寺庵を作る、同く十九庚戌年三月十九日上行住本一寺と作り前名を改めて要法寺と号す、則ち綾の小路堀川の寺なり。

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