富士宗学要集第九巻

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第五章 金沢

 加能越三箇国を領したる一百万石の前田家の居城即ち今の金沢市に於ける近古の富士派信仰の法難は、頗る長期に亘りて内得信仰をすら圧制して其刑罰は軽微ながらも重立つ者は概ね其辛苦を免れたる●し、富士大石寺は日蓮宗勝劣る派の一本山にして且朱印地なることは明瞭に有司の認むる所なるに拘はらず、三箇国領内に於て一末寺だも有せざる大石寺信仰は宗門改方に不都合なりとして領内の布教を禁じたのみならず、内々の信仰をすら差止めたり、是或は他の日蓮宗一致勝劣の各末の録所等よりの上申に陰毀的のものありしにも依らんが、要するに有司等の行政事務に関するものにして直接に天下公行の信仰を其国に限り禁ずる事の妥当ならざるを以て、切支丹不受不施三鳥等と紛はしく改方行届かざるに藉口して其文国限りの特別禁制即ち国禁の触れを布き、強いて此に違背するものを指控閉門入牢等の軽罪に処したるなり、是強ちに金沢に限るにあらず名古屋等も亦然りしが如し、享保十二年大石寺廿八世日詳より江戸前田藩邸に此等の信徒の不便窮屈を救はんが為に領内に一末寺の建設を出願したるも有司の容るる所とならず、此れ金城下の信徒が家老人持組上士にあらずして多く下士軽輩に属して其情勢有司を動かすに足らず、或は松雲名公も家老奥村も横山も内得せりとの伝説あるも出願が其時に合せず、又は強いて進言する程の強信にも進まざりしものなるべし爾来藩主更代毎に本山より末寺創建を出願せりと云へども遂に嘉運に遭遇せざりしは偏に此辺に依るか、又或は信徒輩の強信が謀らず他の日蓮宗義を批判して彼等の反感の影響か、今此長期の小法難を舒するに材料山の如くなれども一々適切の史料の得難きこと金剛石の如くなれば、且らく明治廿四年に金沢辻量義信士の編纂せる北陸信者伝聞記六巻の第二巻なる法難苦情部の記文を略抄し、又中村詮量の自筆なる一件言上留の明細自記中より抄録す、但し解説に要せしものは編者の調査に依り更に同市妙喜寺住永沢慈典の精査を用ゆ今右第二巻の序文中にある辻老の記文を略抄して同人の見たる梗概を示すべし。
〇、爰に加能越の大主前田侯五代目宰相綱紀公「御法号松雲院様」は江都御出生にて三才の時より三州の主たり、文武の道に秀で給ふ英才の名将なるが、治世七十九年の内江都下谷常在寺と申すに日蓮宗血脈正統の大本山大石寺の十八代目の法主日精上人御出張在し、蓮祖肝要三大秘法の御法門を説かせらるるによりて、其事を綱紀公聞召され御近習の人々等へ示さるるは我聞く日本国に文武二道に達したるの英才士は日蓮御坊なりと常々水戸の黄門公とも咄合ひたる事ども有りと仰せられ、汝等も往て聴聞せよかしとの仰に随ひ壮士等聴聞内得渇仰せし人々幾人ばくぞや、是より宗門内得は始まれりと、国も治まり御代も栄へて御長命成りしとかや、扨其後は国人も多く大石の大法に帰依して有り是北国に正法の弘りし根元なり、爾るに月に村雲花に嵐とかや怨嫉の人出で来りぬるによりて宗旨の寺なき故信仰ならぬとの触渡しありて、信者は憤りて内心に信ずる事は止まざるにより追々又盛んに成りしに、折しも元禄四年他の勝劣派の僧蓮花往生の悪事ありて都て勝劣派制御禁となる、折柄大石寺の拘はらぬ事故内得の人々盛んにて有りしに宗門改に紛らしきとやにて禁制の触を出されぬ、是加州六代目吉徳公「御法号護国院様」の御代始めなり、夫より数へ見れば御代の内五度の触出しにて次第に厳禁とは成り行きぬ、〇、とあり。
綱紀公は享保九年に吉徳に譲り隠居して翌年八十二歳にて薨去せるやうなれば本編に列する禁制の始の令は吉徳代にありしものか、且又量義の伝聞記にある寛文度の信仰創始より明治初年に聖代の佳時を得て殊に日霑上人の高徳を迎へて二百余年の積欝を暢べて妙喜寺を新創するに至るまでの数十の功労ある信士の列名又其中にて法難にも遭へる如き伝説ある人々も、本編は専ら史料を根本とするに依る且らく闕如に附す、然れども伝聞記の補遣とすべき材料及び解説は之を具して妙喜寺及び本山に備へて、一は故人の法勲を偲び一は後輩を直しく起たしむるの料と為すべきなり。
一、国禁の遠因   前田家の大老八家の内なる奥村丹波守の臣にて稲富流の砲術師範たる福原次郎左衛門の富士派信仰の探索より始まり、富士大石寺は公儀認可の宗門なりやを宗門改め奉行より寺社奉行に問合せ寺社奉行は直に之を配下の役寺たる妙成寺に照会したるに、妙成寺は大石寺は公認の宗門なれども江戸方面にては名を富士派に藉りて公儀御停止の不受不施及び三鳥派を陰に信行するものもありと二回まで答申に及びたり、此は見様に依りては聊か陰毀の贅筆なれども幸に寺社奉行も宗門奉行も福原の内得を妨げざりしが如し、然れども此等が翌々年の国禁の原因と成りしものなり。
猶宗門奉行は切支丹不受不施悲田三鳥等の公儀禁制を検挙するの長官にて此を宗門改方と称し其当番を御用番と云ふ、又寺社方とは社寺を統轄する官署にて其長官が奉行なり何れも人持組の上士連より勤務するが幾人も同勤す、妙成寺は前田藩祖の由緒寺にて能登の滝谷にあり日蓮宗の惣録なり、近代境内堂宇の多数が特別建造物となりて辺境に似ず有名となる。
宗門御用番より寺社奉行へ依頼状   宗門改め方は直接に寺院を支配せざれば念の為に大石寺の事を寺社方に間合せたるなり。
日蓮宗の内大石寺派と申し候は公儀御停止と申すにては御座無く候や、若し御停止に候はば大石寺一派の寺院も之在るまじき義に候処、其ままにて建て置かれ候へば御停止と申すにては之無き様に相聞え申し候、御領国には大石寺派の寺之無き故自ら此宗門の者之無く候、自分に此宗旨取あつかひ候とも苦からず候様に心得罷り在り候者も之有る躰に御座候に付き御停止と申すにては之無く候や、但し只今御停止の宗門に候や妙成寺へ御尋ね成され候て仰せ聞けらるべく候、以上。
   (享保九)正月十七日              宗門改方御用番神尾主殿。
   永原左京様、 生駒右近様。
宗門改方一同より寺社方へ再状   福原の主人なる奥村内記及び横山大和守より関係の状を得たれば更に此を内示して細く用件を申入れたるなり、猶伊予守は奥村有輝なり。
内々御存知成され候福原次郎左衛門宗旨の儀に付き内記殿大和守殿御紙面、年内伊予守殿御渡し成され候へども余日之無く候間只今御目に懸け申し候、夫に付き此御紙面畢竟大石寺派御停止と申す筋にては之無く御領国中に此宗の寺院之無き故流布仕らざる様相聞え、夫故に御座候や次郎左衛門向後右宗門指し止め申すべき趣きは相見え申さず候、各様私どもも大石寺派の儀は古より有り来り候分は格別其外は御停止の宗門と相心得罷り在り、元禄四年勝劣派御制禁以後は御領国日蓮宗猶以て其筈に相心得罷り在り、然れども大石寺如何様の宗躰に御座候や私どもとくと相弁へざる義に御座候間、別紙の通り妙成寺へ御尋ね返答の紙面御取り成され向後其趣を以て相改め然るべく存じ候、毎歳御領国中疑はしき宗旨の者之無き段各様私ども紙面指し上げ、公儀へも其段仰せ上げられ候へば大切成る義に御座候間此の如く御座候、いづれの宗旨にても然るべからざる筋に候間先ず此紙面にて事済み候様に存じ候、然れども其身大石寺派苦からざる義と存じ罷り在り若し御停止の筋に候へば相違仕り候に付き此の如く御座候、以上。
   (享保九)正月十七日           神尾主殿、長屋要人、青地蔵人。
   永原左京様、生駒右近様。
寺社奉行両名より改方御用番に妙成答申を伝達したる添書なり。
   神尾主殿様                    永原左京、 生駒右近。
先日仰せ聞けられ候趣き妙成寺へ尋ね遣はし候処、別紙指越され候に付き御目に懸け申し候、巳上。   (享保九)正月廿四日
妙成寺より初度の答申   御用番神尾は此答申を以て同役青地長屋に廻して伊予守に言上すべくせしも何となく此書面を信ぜぬやうに伝へたるを両人より追て面談と申来るなり、但し奥村伊予守は内得の伝説あれば陰に福原を庇護したるか。
神尾主殿殿紙面の趣き承知致し候、日蓮宗の内大石寺派と申し候は駿州富士郡に之有り富士山大石寺と申し寺開基は日興と申す僧則ち日蓮弟子にて日蓮宗の内勝劣派と申すにて此宗旨は勿論公儀御停止の宗門にて御座無く候、然し乍ら近年江戸表にて大石寺派と申し候は先年御停止の不受不施悲田の余流、表向は富士派大石寺と申し候て内証は御停止の不受不施悲田の邪宗に御座候由、此宗派を江戸にては三島(鳥)派とも又幾田派とも申し候、右三島派幾田派も是又先年公儀御停止の邪宗にて御座候、去り乍ら今以て江戸表には此邪宗隠密に用ひ申す者多く之有る由承り及び申し候、以上。
   (享保九)正月廿二日                    滝谷妙成寺。
右妙成寺紙面青地蔵人長屋要人え相廻し追付け伊与守殿に申し上ぐべきやと申し達し候、去れども右紙面紛らはしく存じ候由申し遣し候処、追て面談之有るべき旨両人より申し来る。
改方御用番長屋要人より寺社奉行へ念状   長屋は同役一同と共に妙成寺の答申を以て談合したる結果苛酷の取締を為さんとするものの如し、殊に富士派と不受不施派とを混一したる悪感もあるか。先日妙成寺紙面遣はされ同役中一覧仕り候、兼て承り及び候は大石寺派古来の檀那は格別、新規に罷り成り候義は相成らざる義と承り候処、妙成寺紙面の通に御座候へば苦からざる義と相聞え申し候、三島派の義は申すに及ばず堅く御禁制に拙者どもも内々存じ罷り在り候、何れに仕り候ても俗人寺僧同様の取あつかい或は人集め仕り諸人を勤め入れ誓詞を以て堂(堂か同か)類申し談じ或は金銀を以て相語らい申す族は、三島(鳥)派に限らず何れの宗旨にても御禁制の筋勿論の事に御座候、此度妙成寺へ相尋ね申し候は大石寺派誰の檀那に罷り成り候ても苦からずや如何と申す趣の事に御座候、其上別紙の通り在江戸の者は毎度此宗旨紛はしき義御座候に付き此度妙成寺紙面を以て向後宗門所格に罷り成り申す義に御座候に付き、判形の紙面にて之無く候へば罷り成らず候条重ねて此の如くに御座候、其御心得弥御念を入れられ紙面をも御取り遣はさるべく候、以上。
   (享保九)二月三日                      長屋要人。
   永原左京様、 生駒右近様。
追て江戸などにて承り候へば大石寺派勝劣と申す迄にて之無く不受不施と相聞え申し候、然れども妙成寺紙面相違之無き事と相心得申し候、以上。
改方御用番長屋より寺社奉行へ再念状   同役中相談の上か細密に及びて妙成寺の答申が物足らぬ事と再び確実の答申を催しくれ此を以て改めの根基と為さんとて先達ての答申を返却したるなり。日蓮宗の内富士大石寺派の義公儀御制禁の筋之無き旨妙成寺紙面遣はされ候承知致し候、此宗門の寺院御領国中には之無く候へども江戸丸山本妙寺芝長応寺等は大石寺派の旨承り申し候、妙成寺紙面の通に候へば在江戸日蓮宗の者どもたとひ切支丹末類、公儀御書上げの者にても彼地に於いて相果て候節、此同派の寺にて取置き苦からざる義と相心得申し候、各様拙者ども兼て承り及び候趣とは妙成寺紙面相違致し候、弥大石寺派誰々にても信仰次第檀那に罷り成り苦からず候や、今一往御尋成され仰せ聞けらるべく候、宗門所に於て証拠に仕る事に候条妙成寺紙面判形候て指出され候様仰せ談ぜらるべく候、之に依て先日の紙面只今返還致し候、以上。
   (享保九)申辰二月三日            宗門改方御用番 長屋要人。
   永原左京様、生駒右近様。

                                      寺社奉行生駒より改方御用番へ回答  両通の書面及び妙成寺書面落手せり同役生駒にも通じて御意を得んとなり。
両通御返書の趣き拝見候、同役左京へも相達し追て是より御意を得べく候、妙成寺紙面受取申し候、以上。
 (享保九)二月三日   生駒右近。 
 長屋要人様。
 寺社奉行生駒より妙成寺紙面を宗門奉行へ伝達状なり。
先日仰せ越され候滝谷妙成寺へ相尋ね候趣き則御紙面を以て申し遺し候処、紙面指し越し申され候に付き進上致し候、御同役中へも仰せ達せらるべく候、以上。
 (享保九)二月廿六日   生駒右近。    
 長屋要人様。
 妙成寺より寺社奉行へ再答申  前文●る穏当にして寧ろ大石寺派を弁護するが如しと云へども、未文陰険に見ゆ、但し或は此が改方奉行の意を和げて福原を不問に付せしか。神尾主殿殿長屋要人殿両通紙面の趣き承知致し候、日蓮宗の内大石寺派と申し候は駿州富士郡に之有り富士山大石寺と申し、寺開基日興と申す僧日蓮弟子にて日蓮宗の内勝劣派と申すにて御座候、然る所日蓮宗一致勝劣両派の義先年より度々法論に及び候所一致勝劣の差別之無き筈に相極り、公儀より不受不施悲田の余派かたく御停止に御座候、右大石寺の義も一致勝劣和談にて只今は両派の差別無く候、左候へば大石寺或は末寺の檀那に罷り成り候義、又は江戸に於て右末寺の内へ御当地の者縁かかりに成り取り置き等仕り候ても都て日蓮宗に候へば苦からざる義と存じ候、且又大石寺派古来の檀那は格別新規に檀那に成り候事罷り成らざる様御聞き及び候由其段は存ぜず候、近年江戸に於て大石寺派と名付け内証は不受不施悲田等の邪宗之有る旨承り及び候、此義は尤御停止の筋に候故表向は相知れ難き事に御座候、以上。
 (享保九)二月廿五日   滝谷妙成寺印。
 永原左京様、生駒右近様。  
二、国禁の一  金沢城下卯辰慈雲寺(本隆寺末)の弟子了妙が游学研究の結果大石寺に転派して細艸談林に入りたる等より事起りて、大石寺信仰は国禁となり慈雲寺の始末書、了妙より師僧へ弁疏及び奉行等へ陳弁となり、各奉行連より大老へ大石寺禁制敵言となり、遂に国家老より江戸家老を経て此由を太守に披露となりたるなり、時の太守は吉徳なり。
 最初の禁制申渡書  大老奥村伊与守係として他の大老列座にて寺社宗門改奉行等に申渡されたるもの恐らく文献に顕れたる最初のものなるべし。
頃日世間に富士派の由にて前々より御領国に之無き宗旨の者多く表向は日蓮宗の躰にて内内にては格別の勤め方の者之有る由、其上慈雲寺弟子了妙と申す者右宗派に帰伏致し候に付き慈雲寺に於て縮(しまり)申し付け置き候取沙汰之有り候、此宗門の義は外宗と違ひ勤の様子も密々の躰其上御領国に末寺も之無き義に候へば、若し公儀御制禁の邪法の宗門等相交りて候ても紛らしく改め難き事に候、慈雲寺手前一往承り届けらるべく候、了妙等爰許に於て右宗派にすすめ入れ候者も之有り候はば其意に任せ御沙汰に及ばるべき旨、寺社奉行中並に宗門改奉行へ御大老衆御列座伊与守殿御申し渡し候事。
 (享保十一年)午十一月十六日
 慈雲寺より弟子了妙が大石寺に関係せる始末書  寺社方へ提出したるもの、此了妙の事寛師状中にも見ゆれば方難を排して入門したりと見ゆれども、終る所明ならず但し後日改名等の為に知る能はざるものか。
 拙僧弟子了妙義御尋ねに付き委細申し上げ候。
一、了妙義先年より京都小栗栖村談林に学問致させ申す所に、去年九月関東細草談林へ罷り出でたく願ひ仕り候へども資縁銀助力成り難きに付き許容仕らず候、然る処林源太夫と申す者資縁金助力仕るべき由に御座候間違達て細草談林へ出しくれ候様申し聞け候間、学問増進の儀に候へば助力さへ之有り候はば如何様とも仕るべき旨申し渡し候、然る所に去年十二月廿七日に当地へ罷り帰り申し聞け候は私儀富士門徒の義承りたく存じ候間、談林に於て富士の所化どもへ相頼み申し候へども、加州表の信者方の請合之無く候ては申し聞け候儀成り難き由に付き、当地林源太夫方へ請合の義頼み遣はし候へば、源太夫申し越し候は私どもより出家の請合に相立ち申す義成り難し、併し慈雲寺より御頼み候はば請合の紙面指し越し申すべき由申し越し候に付き此度罷り帰り候、何とぞ成るべき義に候はば源太夫方へ拙僧より頼みくれ候様申し聞け候へども、此義は門流違ひの儀にて成り難き筋に付き左様の儀は一向叶ひ難く候間早速関東へ罷り越し談林相勤め候様申し付け指し遺し申し候、其後談林に罷り在ると存じ居り候処、当六月京本山本隆寺より了妙義改門致し富士に罷り在り候由承り候、早速呼び越し其寺に指し置き申すべく候追て改門の品承り届け法式の如く申し渡すべき趣き申し来り候、之に依て呼び遺し候手筋色々思案仕り候へども拙僧方より大石寺へ呼び遺し候道筋之無く候に付き、右了妙去年十二月罷り帰り候筋富士へ罷り越し彼門流の儀承り請合の義拙僧方より林源太夫へ相頼み候て請合の紙面指し遺し申すべくと申し聞け候処に心付き、殊に資縁助力も仕るものに御座候故右源太夫方へ拙僧罷り越し了妙居申し候所を相尋ね候へば、一向当春より便も之無く候故住所は存じ申さざる由申し候へば、最初本山本隆寺の紙面の趣を以て段々方便を申し懸け事を分け相頼み候へば、左様に候はば只今了妙の住所存じ申さず候へども大石寺末寺江戸下谷常在寺まで紙面指し遺し申すべき由請合申し候に付き則拙僧よりも紙面相調へ林源太夫方へ遺し急々罷り帰り候様早速申し遺しくれ候様相頼み候て九月上旬に紙面指し遺し候処、当十月十三日了妙罷り帰り候、之に依て段々当門流へ立帰り候様申し聞け候へども一向承知仕らず彼門流存念相極め候に付き、重ねて彼地へ罷り下り候ては右本山より申し渡し候筋も立ち難く候に付き、則十月廿一日縮り申し付け置き候、其節了妙口上書致させ置き候に付き写し上げ候、以上。                                       (享保十一)丙午十一月十七日   卯辰慈雲寺。
 寺社御奉行所。
 了妙より師僧へ強義の陳状
私儀兼て富士門流の義承見申したく心懸け罷在り候処、去秋横山大和守殿家来林源太夫と申す者の母病死の砌り廻向に度々罷り越し候節、右源太夫も富士門流の義存じ罷在り候故承りたく相頼み候へども一向所化などへは示談成り難き由源太夫申し聞かせ候故、左候はば小栗栖を仕廻ひ関東細草談林へ罷り出で富士の所化どもと付合ひ候はば彼門流の義承はるべき義と存じ、少助力の義を源太夫へ相頼み候へば幸ひ此節亡母志の銀子も之有り候条此度の少々助力仕るべき段申し聞け候故、珍重に存じ細草へ出談の義尊師まで相願ひ候て去秋細草へ新来仕り候、然る所談林に於て富士の所化学俊と申す僧と心易く仕りそろそろ富士の流義の筋承り懸け候処に、八品門流の会通と申す僧部屋頭故去年十月十五日の夜急度申し渡し学俊等へ快談の躰惣て通用仕るまじく一札を以て調のへさせ候故、此方心懸の道絶え候に付き一向富士へ帰伏仕りて承るべきと存じ立ち相談仕り見申し候へども檀家の請合之無く候ては其義成り難く候故、態々去る十二月加州へ罷り帰り源太夫其外富士信仰の者どもへ其段相願ひ候へども承知仕らず候故、詮無く加州より罷り帰り江戸両国橋ちち(秩)ぶ(父)や(屋)七兵衞を頼み帰伏の義相頼み当三月十六日大石寺へ罷り越し漸く四月十七日に富士居住の義願ひ相済み罷り在り候処に、今般尊札に任せ帰国仕り候、右帰伏心底相極め罷り在り候義に候へば一通りにては帰国仕らざる事に罷在り候へども、富士帰伏の義前かどより尊師にも御納得の上にて遺はされ候様に沙汰之有り御一分も立ち難き様に承り候故、全く御存知之無しと申す義申し披き御一分も立て申し度存じ候て罷り帰り候、たとへ身命に及ぶ程の事之有り候ても帰伏の心底相改め申す義聊以て御座無く候、右申し上ぐべき為め此の如く御座候、以上。
 享保十一丙午十月十九日   了妙判。 
 慈雲寺日義尊敬師。
 了妙より奉行への答申  前田岩野等は寺社奉行なりしか、又文中の林源太夫音田治兵衛中島津左衛門等の指名せられたる信者は多少の咎を受けたる者も見ゆれども文敵無し。 御尋ねに付き申し上げ候。
拙僧儀十一年以前横山大和守殿御家来林源助と申す者病死致し其節三宝寺より義正覚立と申す僧代の勤に罷り越し候、慈雲寺先住日覧義右源助と心安く仕り候間拙僧罷り越し廻向仕り様せがれ(伜)林源太夫申し候に付き罷り越し一七日昼夜罷り在り候、其砌源太夫拙僧へ申し聞け候は此間福原式治富士派へ帰伏仕り候手前も成仏の根元ならば帰伏致したき由申し候に付き、拙僧不審に存じ候に付き其後福原方へ罷り越し何卒富士の門流承りたき由申し候へども出家へは申し聞け難き由申し候に付き、寺を忍び出で数度相越し候へば物語等承り申し候、其外八年以前に小栗栖談林へ罷り越し申し候、御当地へ罷り帰り候節は福原方へ罷り越し候、其砌り誰罷越し此門流承り申す者之有り候やと御尋ね候へども殊の外秘し申すに付き、拙僧義も外の人参り候砌は遠慮致し門流の義一向申し出でず候。
一、去年九月京都より御当地へ罷り帰り申し候間七月林源太夫継母病死仕り候に付き、慈雲寺檀那拙僧相越し回向相勤め申す内富士門流承り見申したき心底故源太夫富士派信仰に付き、何卒富士門流を聞かせくれ候様に申し入れ候へども出家の義猶更俗にても外を勧め申す事は堅く仕るまじき由、去る四年以前に檀那より申し付けられ候由にて申し聞けず候。
一、富士門派を承り見申す事は御当地にては一向成り難き故、上総国細草檀林へ罷り越し富士派の所化へ出会ひ候て承り申すべき旨を源太夫に申し聞け候へば、源太夫申し候は一向左様にも仕るべく候幸ひ継母衣類等払ひ候銀子之有り候間是を遺し申すべく候間是にて談林相勤め候て、寄々富士派承り候様申し候に付き細草談林に罷越し申し候。
一、富士の所化学俊と申す僧と心易く仕りそろそろと承り懸け候所、去年十月十五日の夜八品門流の所化会通と申す僧申し聞け候は富士の所化と付き合ひ候ては門流の義堅く申し談ずまじき由申し付け候故、学俊を頼み候とも国許より慥成る請合ひ之無く候へば成り難き由申し聞け候に付き、去年十二月御当地へ罷り帰り源太夫へ委細前後の趣き物語り仕り請合紙面遺し候様頼み申し候へども、源太夫申し候は他国へ檀那の名を出し其上出家方の請合と申す事成り難き由申し候、夫れ故又江戸へ罷り帰り富士の末寺円妙(妙縁)寺檀那両国辺ちちぶや七兵衛を頼み富士へ罷り越し四月十七日に居住相極り富士門派承り申し候。
一、当八月廿八日の日付にて林源太夫方より慈雲寺住持も富士派信仰に付き弟子の内遺し置き候沙汰之有る故、慈雲寺迷惑仕る由に候間早速罷り帰るべき旨源太夫方より申し越し候、一通りにては御書法門承り残り罷り帰り難く候へども師跡迷惑仕る由に付き前月十三日御当地へ罷り帰り申し候。
一、出家の内御当地に罷り在り候者富士派信仰の僧之有るやと御尋ね候へども、出家の内には承り及び申さず候。
一、俗の内富士派信仰の人々御尋御座候、御当地にて信仰の者数千人御座候其内左に記し申す者は能く存じ候に付き申し上げ候。   横山大和守殿御家来、林源太夫、同断、松本弥兵衛。山崎九郎右衛門殿御家来、音田治兵衛、同断、中島津左衛門。
右の通り相違御座無く候、以上。
 (享保十一)丙午十一月十八日   了妙判。
 前田九郎右衛門殿、岩野市右衛門殿。
 両奉行所より大老へへ禁制の陳状  戸田、中村、村の三人は宗門奉行、成瀬、生駒、 永原は前にありし如く寺社奉行なり、奥村等は大老にして時の当番なりしか。
近年日蓮宗の内表向は富士大石寺派の由申し立て内々に於ては彼是異風の宗門を信仰致し候僧俗数多御座候由承り及び申し候、常々の様子外宗とは格別違ひ候旨其聞え之有り候、往昔より御領国には右宗派御座無く候に付き邪義相交り候や又は新法の宗旨に候や委細相知れ申さず、宗門御改め筋相立ち難く紛らしき義に存ぜられ候間急度相改め向後右の族は御座無き様仕りたき義と僉議仕り候、以上。
 (享保十一)丙午十二月六日   戸田靱負、中村典膳、村中務、成瀬内匠、生駒右近、永原左京。
 奥村伊与守様、横山大和守様、本多安房守様。
 国老より江戸家老へ状  国許に於て富士派を禁制せし旨の触状を太守の御覧に入れらるべきの状なり。
近年日蓮宗の内表向は富士大石寺派の由申し立て内々に於ては彼是異風の宗門を信仰致し候僧俗之有り、常々の様子外宗とは格別違ひ候旨其聞え之有る事に候、富士派の義は本寺も之有る事に候へども御領国には右派の宗門前々より御座無く候に付きて邪義相交り候や又は新法の宗旨に候や委細相知れ申さず、宗門御改の筋相立ち難く候間急度相改め向後右の族の者之無き様に仕りたき旨宗門奉行申し聞け其趣き紙面出し候故、末々まで急度申し渡し候様諸頭支配人等へ申し触れ候間、右紙面遺し候間御序を以て御覧に入れらるべく候以上。
 (享保十一)十二月十六日   本多安房守。
 前田大炊様、前田修理様。
三、大石寺より前田家領国内末寺創建の願  金沢城下に於ける宗門の信仰取締は時に依り寛厳ありと雖も何れ安堵の見込み無く、一末寺を設くるの急務を感じて、当住日群の願書を以て日義(常泉寺住)が使僧として江戸屋敷に出頭したるより、大炊修理の両家老は大石寺の願書、聞番(外交係)より両老へ提出したる状、使僧との談旨の案、使僧へ願書を返却せし状合四通の写を添へて国老及び奉行等に通達したる結果、宗門奉行は願意許容し難き法議を大老に陳情し、又更に江戸聞番より国の両奉行に若し大石寺より公儀の寺社奉行に願ひ出でた時は如何にすべきやの用意まで申達し、両奉行よりは大石寺より爾後の使僧江戸屋敷に来らざる由なれば本件は一先づ静まりたりとの旨を大老に報告して安心せられたるものの如し、大石寺が最後の手段を取らざりしは一は雄大藩を相手取るの自山の危険を案ずると同時に在金沢の多数の信徒の重刑に処せられん事を慮り、一は幕府の寺社奉行が唯一の大藩に対して厳乎たる処置を取り得べきやを頼みたるものか、爾後藩主代替り毎に末寺願を呈出したりとの事(文敵は存ぜず)なれども執拗にあらざりしものか。
 江戸両老より大石寺願書等四通の写を添へて、国老奉行への状
駿州富士大石寺より願の品之有り一昨五日御式台まで使僧を以て書付指し越され候、其旨趣は彼寺一派宗義御国にも信仰の輩之有り候へども指し止め候様にと触渡し之有る故本尊等相返し候者も之有り候に付き、宗門において故障にも罷り成るべきやと此義を歎かしく存じ候故、御国に草庵を結び宗義の邪正をも相糺し申す工面に付き、斯様の趣きは成り難き段半田権左衛門挨拶に及び候へども達て書附暫く留置き候様使僧申し候旨にて指置き罷り帰り候故、則御内覧に入れ決して御許容成され難き趣き今日使僧相招き申し述べさせ書付も相返し申し候、則大石寺書附、権左衛門紙面、且又使僧へ申述べ候趣き、何も写四通御目に懸け申し候間、寺社奉行、宗門奉行へ仰せ聞け置かるべく候、以上。 
 (享保十二)三月七日   前田大炊判、前田修理判。
 前田近江守様、奥村伊与守様、横山大和守様、本多安房守様、奥村内記様、村井主膳様、長九郎左衛門様、今枝民部様、本多図書様、津田玄蕃様、中川式部様。
 写の一、大石寺願書
 日蓮宗駿州富士大石寺、謹んで願ひ奉る口上の覚。
貴国殊に前相公様より御慈恩を蒙り奉る義御座候故御恩報謝の志相勧め候事其旨趣御尋ね成し下させられ候はば具に言上仕るべく紙面に尽し難く候、然れば御領国に於て数十年来拙寺門流信仰の輩数多之有り候へども末寺之無き故か、御停止の新義邪流の余類多く入り交り然も名目は富士門流と申し紛らし宗門御改めの筋相立ち難き由を以て拙寺門流倶一統御停止の御触渡し之有る由伝承候、夫故か門流の正義信仰の者どもより自今信仰相止め候由にて近頃本尊等相返し候者之有り候、右新義邪流は江戸表に於て御触渡しに付き拙寺等より末寺どもへ急度申し渡し相改むる義に御座候、然るに御領国に於ては末寺之無き故立宗の邪正顕れ難きに付き仰せ渡さるるの趣き御尤至極に存じ奉り候末寺之無き上は誠に以て是非に及ばざる仕合に御座候、之に依て今般●りを顧みず願ひ奉り候趣は御領国国内に於て旧地廃捨の内或は寺号跡か或は院号坊号跡か相応の地を拝領仰せ付けられ下させられ候はば有り難く存じ奉るべく候。                    
其子細は富士大石寺は日蓮聖人正嫡古跡の霊場数百年の今に至り法水●瓶にて一滴の誤無き正法の門流殊に御代々御朱印頂戴仕り罷り在り候処、若し御領国に於て信仰の義急度御停止の様に成り候ては門流の故障に罷り成るべきかと悲歎の至に堪えざれば止むを獲ず今般出府仕り願ひ奉り候条、仰ぎ願くば御慈悲を垂れられ旧地廃地を下し置かれ候はば速に草庵を結び正流を顕はし候は則御武運長久国家安全の御祝祷と存じ奉り候、随つて異風邪流も忽に相顕れ申すべく候、将又御領国に於て数十年来累代信受数千人の者ども富士門流の難渋御赦しに逮び旁以て唯偏に御慈恵を仰ぎ奉り候、御大国の事故定めて廃地の旧号も御座有るべき義と存じ奉り候。
乞ひ願くは宜く御許容下させられ正法明に顕れ邪流自ら除き候はば拙僧は申すに及ばず門中の真俗諸人一同歓喜身に余り益す知恩報恩の丹誠を抽んで御子孫繁栄御代万歳の祈誓懈るべからず候、只幾重にも御憐愍を仰ぎ奉り候何の道にも早速御高聞に達させられ下され候はば生前の大幸之に過ぐべからず有り難く存じ奉り候、以上。
 享保十二年末歳三月   大石寺当職、日群、宿坊下谷常在寺。
 御役人中、
(上包)上  駿州富士大石寺。
 写の二、聞番より両老への報告
駿州富士大石寺役僧の由にて日義と申す僧御式台まで罷り越し御役人方の内へ逢ひ申したき旨申し候間罷り出で候様仰せ聞けられ候に付き罷り出て候処、駿州富士大石寺願ひ奉り候趣き之有り私を指し越し候委細は願書に相記し申す通りに御座候間御披見下さるべき旨申し聞け一通の紙面相渡し候に付き、則一覧致し申し達し候は惣て斯様の義何品に依らず寺庵方より申し聞けられ候ても都て取次申し候義仕らず候、殊に以て御紙面の趣きに候へば申し聞くべき筋に之無く候間右書附返進致し候由申し入れ相達し候所、仰せ聞けらるる趣き具に承知致し候然り乍ら大石寺存念を以て此度願ひ奉り候義使僧として私申付越し候処、右御返し成され候ては私申し分立ち難く迷惑に存じ候問願の筋相立ち申さざる段は是非に及ばず候、右の所思召候て暫時御留置き下さるべく候追て御返し成され候義は各別に御座候旨再往申し聞け候に付き、左候はば御願の筋申し聞くべき為に預り置き申すにては之無く候御自分御使僧として御出での所仰せらるる分立ち申さざる義に候はば御指置き候様にも成さるべきや、右の趣きに候へば其段専(詮)無き義に存じ候由申し入れ候処、とかく右申し達しと候通りに候間暫時御預り置き下さるべく候、御取次仰せ上げらるる義は罷り成らざる筋に候段は承知致し候旨申し候に付き、右返達の時分猶又是より申し入るべき旨申し聞け候処、右通指置き罷り帰り候、以上。
 (享保十二)三月五日   半田権左衛門。
 前田大炊様、前田修理様。
 写の三、聞番より大石寺使僧へ談旨の案  此の中の中将殿とは大守吉徳なり。
 大石寺使僧相招き半田権左衛門申し述ぶべき趣き。
一昨日御持参大石寺よりの御願の趣き其節一往御挨拶に及び候通りにて斯様の品一向取次ぎ候義も仕り難き段申し達し候へども、先づ御書付暫時留置き候様に達て御申し聞け候故、則家老どもへ申し聞け御書付も見せ申し候処、御願の一件御法中よりは斯様に成されたく思召し候段御尤には候へども此義は中将殿へ相達し候ても決して許容仕られ難き義に御座候、往古より中将殿御領国中には大石寺派は僧俗共に之無く候所、近年末々の者など江戸へ罷り越し候節帰依仕り候や国許に於ても数多内々にては信仰仕り候もの之有り候、畢竟宗義邪正の所は貪著に及ばず古来より宗門改め候節も右派は一人も之無き処、今更出来仕り候ては改の筋に相障り申す義之有り候故右の族之無き様領国中一統に先達て厳重に申し渡し置き候、是以後も若しいまだ此派改め申さざる者も之有り候はば急度指止めさせ申す義に候条兼て其御心得之有り候様に存ぜられ候、宗義の所は如何様とも改めの筋は国法の義に候へば少にても新規に出来の品は綿密に吟味を遂げ申す事に候へば、何分に御願ひ候ても成り難き筋に候間此段思召し弁へられ候様に存ぜられ候、且又旧地廃跡の寺号等を用ひられ一宗を結ばれたき由此義は猶以て成り難き事に御座候、当時領国に流布仕る宗門の本寺本山より役僧使僧等指し越され候てさへ謂れ無く逗留仕る義は堅く禁止仕る義に候へば、増して御一派の末寺の御下心にて寺僧等遣し置かれ候義は別して禁制の第一に御座候、此等の趣き御挨拶に及び候様家老ども申し聞け候御持参の書付返進致し候、三月七日。
 写の四、聞番より大石寺使僧を招きて願書返却の報告を両老への状
駿州富士大石寺役僧日義当五日御式台まで罷り出で大石寺よりの願書一通相渡し申し聞け候趣き、先達て紙面を以て申し上げ候通に御座候処、右役僧招き覚書を以て申し達すべき趣仰せ渡され候に付き、則今日相招き覚書相達し右願書返進致し候由申し入れ候通り御覚書の趣き一々承知致し候、最初より御意を得候通り拠無き願の義に御座候間何卒御許容成され宜く御取成し下され候様仕りたき旨申し聞け候に付き、覚書の趣きを猶更申し達し候処、左候はば是非に及ばず候罷り帰り大石寺へ相達すべき旨申し聞け右願書並に覚書とも受取り罷り帰り候、以上。
 (享保十二)三月七日   半田権左衛門。
 前田大炊様、前田修理様。
 宗門奉行より前●末を具し旁最後の処置を大老への陳情書。万一の時に備えて聞番より公儀寺社奉行へ大石寺願を採用せざる様に交渉すべきや等なり。
駿州富士大石寺より願の品之有り三月五日御式台まで使僧を以て書附指し越され候に付き、半田権左衛門罷り出て右願の品取次ぎ候義成り難き趣き挨拶に及び候へども達て書付暫く留置き候様使僧申し候旨にて指置き罷り帰り候故、則御内覧に入れられ決して御許容成され難き趣きに付き、重ねて使僧相招き御許容成され難き趣尚更申し述べ右書付相返し候に付き、大炊殿修理殿御添紙面を以て大石寺書付の写権左衛門へ使僧申し述べ候口上書写一通、使僧へ権左衛門申し述べ候趣き写二通指し越され候に付き御渡成され披見仕り候、右一巻御許容成され難き段権左衛門申し達し事済み申し候へども、大石寺願書付の内富士大石寺の義は日蓮聖人正嫡古跡の霊場数百年の今に至り法水●瓶にして一滴の誤無き正法の門流殊に御朱印頂戴仕り罷在り処若し御領国に於て信仰の義急度御停止の様に成り候ては門流の故障に罷り成るべしと悲歎に堪えざるの由相調へ申し候、右の趣に候へば万一江戸寺社奉行役人中へも向寄を以て申し込み表立て寺社奉行衆などより仰せ越され候品も御座有るまじく候や、尤御国法の義其上只今まで右宗派の寺有り来り申さざる義に候へば何方より申し来り候ても御許容御座無き段仰せ達せられ指閊え申す義は御座有まじく候へども何角御貪着も御六つかしき義に御座候間、寺社奉行衆役人中まで権左衛門罷り越し大石寺願の書付並に御許容成され難き段申し達し候趣委細申し達し置き候はば、宜しかるべくや僉議仕り候に付き各様まで申し上げ候、以上。
 (享保十二)四月   戸田勒負、中村典膳、村中務。
 奥村伊与守様、横山大和守様、本多安房守様。
 聞番より両奉行への状  種々考案の結果予め公儀に申入るよりも却て其時に至ての方が宜かるべし、又使僧も押返して来らざれば等の報告なり。
今度駿州富士大石寺願書の趣きに宗門奉行の存じ寄り御大老衆へ相達し候、之に依て公儀寺社御奉行役人まで申し入れ候義再往御僉義の趣き承知致し候、御領国に古来より之無き宗義今更願に候とても御貪著成さるべき様御座無く候、何方より申し来りと候とも往古より有り来らざる宗派に候故御許容され難き旨仰せ達せられて訳立ち申す義に御座有るべく候、卒爾に寺社奉行役人まで相達し候はば役人心得に承り置き候義も仕り難く、御奉行衆へ申し入れ候てはあなたにても捨て置かれ難く大石寺へ御尋ねも之有り候はば幸に仕り彼是願の筋申し出で御奉行衆も御取●之無く候ては成り難き趣きに候は表立ち候て如何はしく御座候、若し寺社御奉行衆へ大石寺より申し込み候義之有りあなたより申し来り其節に至り相達し候義、又先き達て申し入置きの様候も同様に御座有るべく候、第一其以後使僧も罷り越さず候間旁以て右役人へ相達し候義は延引仕り然るべき様に存じ奉り候、是以後又使僧を以て申し来り候はば其趣きに応じ詮議次第右役人まで相達し申す義も御座有るべく候、同役へも示談を遂ず候所右同事に存じ候旨申し候、以上。
 (享保十二)六月十二日   半田権左衛門。
 前田将監様、里見孫太夫様、松原善右衛門様。
 奉行達より大老方へ状。  聞番の意見を伝へて又使僧も押返して来らざれば本件は先づ安定かとの報告なり。
先頃仰せ越され富士大石寺願の筋之有るに付き寺社奉行衆役人まで聞番より内証申し達し置き然るべき旨宗門奉行中紙面の趣き則聞番へ申し談じ候処、●て此方より申し懸け候はば還て如何はしく御座有るべく候や其後の使僧等も参り申さず候へば事静まり申す様にも存ぜられ候間、詮義の趣き則半田権左衛門紙面上に申し候、以上。
 (享保十二)六月十四日   松原善右衛門、里見孫太夫様、前田将監。前田近江守様、奥村伊与守様、横山大和守様、本多安房守様、前田大炊様、奥村内記様、村井主膳様、長九郎左衛門様。
四、国禁に二・三  吉徳代には頻々たる制禁の文献存在す、元文の宗門奉行より大老に上申の書、寛保二年のは大老よりの布達なり、享保度のより僅か十七年にして三回ありしなり、此或は奉行達の故意のみにあらずして富士信仰の瀰漫したるものにあらずやとも思はる。
日蓮宗の内御領国に於て内々富士郡大石寺派信仰致し近年数多に罷り成り候由其聞え之在り候、古来より御領国に右宗派之無く享保十二年本寺より願の趣き之有り候へども御許容之無く候、尤富士大石寺派は新法にては之無く候へども密々信仰致し候義に付き邪正粉らしく宗門御改めの筋相立ち難く候に付き、先年寺社奉行並に宗門奉行御断り申し達し一統仰せ触れられ候、然る所今以て相止み申さず俗家に於て密々勧め込み信仰の人々数多に罷り成り候躰に御座候右宗派公義御停止にて御座無く本山も之有る義に御座候へども御領国には古来より御許容之無き宗派に御座候間、尚更右の族の者御座無く候様に急度仰せ触れられ候様仕りたき義と詮議仕り候、以上。
 (元文五年)庚申三月   丹波武兵衛、土肥庄兵衛、伊藤内膳、山崎庄兵衛。
 横山大和守様、本多安房守様。
 大老より禁制の令状
富士大石寺派信仰の族近年多く之有り俗家に於て宗義勧め込み申す由に候、右宗派の義御領国に末寺之無く候に付き邪正紛らしく宗門改めの筋相立ち難く候間、右宗派信仰致さず候様急度申し聞け候様仕りたき旨、去々年宗門奉行断りに及び候故一統に相触れ候処今以て相止み申さず信仰の族多く之有る由風聞之有り候、度々申し触れ候処相背き候段不届の至りに候、慥なる義相知れ候はば急度曲事仰せ付けらるべく候条其意を得られ組支配与力家来末々まで厳重に申し渡さるべく候、組等の内裁許之有る面々は其支配へも申し触れ候様申し聞けらるべく候事。
 (享保二年)壬戌六月十四日   本多安房守、横山大和守。
五、日蓮宗より寺社奉行へ提出書  経王寺(妙成寺末録所)より提出せる御領内全日蓮宗末寺数等の調書による、戊寅四月とあり即宝暦八年に当る、写本妙喜寺に在る中より抄出す、但し調査事実の正否は且らく措く、善意の書き方に非るなり。
○、一致勝劣の事。
一、甲州身延山久遠寺は宗祖滅後弟子六老僧輪番の内日向住番の節大檀那波木井六郎実長等、宗祖の掟を違背に付き六老僧僉議之有り候由、其内に日興は身延山を捨て出づ、此時六老僧並に九老僧中老十八人思ひ思ひに退山し諸国に寺建立の由、右日向並に波木井氏同意にて身延山相続仕り日向は身延二代なり。
一、右日興同国富士川の辺り大石村に引籠り正応年中草庵を建つ即ち多宝富士山大石寺と号して法華を弘通し寿量品一品を正意に本迹勝劣を弘通す、此大石寺を弟子日目え譲り同所を隠居し又庵宝を建て多宝富士山本門寺と号し終に此所にて迂化す、此外此所に同門流の寺五箇所之有り是を富士五箇寺と申す由此内三箇寺御朱印寺の由、然りと雖も右富士五箇寺の末寺北陸加越能には往古より之無く近くは何れより伝来るや密々俗人ども寄り集り取取申合い候躰に之有る由、末寺末学の数之無く宗意の真偽覚束無く邪正評するに勝へ難く即ち御停止と、○。
六、国禁の四  加藤三右衛門了哲に依て起りしものにして左の分敵に依れば遠慮申付けられたるに過ぎざるが如し。
 大老前田駿河守より加藤の主人横山へ城代の書立伝達の状
御自分家来加藤三右衛門義に付き本多安房守相渡し候別紙書立の趣き其意を得られ申し渡さるべく候、以上。
 (明和七年庚寅)十二月廿八日   前田駿河守。
 横山又五郎殿。
 同、直状。
   加藤三右衛門。
右三右衛門義富士大石寺流信仰致し人々勧め込み候躰に旨風聞之有る由に付き、御城代より別紙御書立を以て仰せ渡され候条、急度遠慮仰せ付けられ候、此段申し渡し候様仰せ出され候事。
 (明和七年)寅十二月
 同城代の書立 
   横山又五郎家来加藤三右衛門、
右の者富士大石寺派信仰致し人々勧め込み候躰の風聞之有り候右宗派の義は御領国に末寺之無く候に付き紛らしき宗門改の筋相立ち難く候故信仰致さざる様に、先年来毎度相触れ候処相背き候段不届の至りに候条急度遠慮申し付け置き候様、又五郎へ御申し渡有るべく候事。
 (明和七)十二月
 大老より大石信仰停止一般に触れ状  富士大石寺派信仰の族之有り俗家に於て宗義勧め込み申す由に候右宗派の義は御領国に末寺之無く候に付き紛らしく宗門の筋相立ち難く候間信仰致さざる様に先年相触れ候処、近年猥りに相成信仰の者多く之有る躰に相聞え不届至に候、是以後右の族之有るに於ては急度曲事仰せ付けらるべく候条、其意を得られ御組等与力御家来末々まで厳重に御申し渡し有るべく候、以上。
 (明和七)庚寅十二月廿九日   前田駿河守印、本多安房守印。
 同、宥免の状。
右先達て御書立を以て急度遠慮仰せ付け置かれ候へども御宥免成され候、若し自今心得違ひの義之有らば厳重曲事に仰せ付らるべき旨、別紙御書立を以て安房守殿仰せ渡され候条拝見仕り以来心得違ひ之無き様急度相慎み申すべく候、然る上は相替らず召仕はれ役儀等只今までの通り仰せ付け置かれ候条、此段申し渡すべき旨仰せ出され候事。
 (安永二)巳十二月十一日
 七、竹内八右衛門の牢死等  文献存在せずと雖も宝暦年中に追込仰渡さる事三十七ヶ月にして宥免の後一生無妻にして吉村清左衛門の家に寓して、追込中無禄なりし為の負債を償却したりとの事。
又左記天明五年の追込以来翌年三月まで落著なければ同信の田中長左衛門もどかしく思ひて、更に諌言の一巻を呈上せる為に両人とも直に割場に預けられ次で入牢せしが、八右衛門は老年の為に(天明六)四月廿九日に牢死し、長左衛門は出牢後御扶持召放の為に本山に登りて法躰し宗和房日安と号し後京都住本寺に住せり、尚八右衛門は老年と云ひ法難再往の事なれば役向の見据へも付き疎忽の事を避け至居たるに長左衛門の諌言状の事を聞きて由しなき事を為せるものかな早晩信徒の一大事に及ぶべきを覚悟し後事を高瀬順高、中村詮量(小兵衛)永山業山(佐五右衛門)山田真妙等に托しけるに、案の如く三月六日割場預け四五日過ぎ入牢となり、牢死直後の葬は数百の信徒集りて共に悲しみたりと、尚両人への申渡書は左の外には見えず。
同(天明五年十月)廿五日に酉の刻洲崎宗助裁許の内小森金右衛門罷越し割場奉行中より御用之有り候条同道申すべき旨御申渡し候段申付く、則同道仕り行歩不自由に付きをい藤田宇左衛門へ申遣し手に懸り罷出で候処、奉行中退出、九里平之●殿宅へ罷出づべき旨に付き馬坂下の宅迄罷越し候処、頭取小頭松井伊左衛門取次ぎ平之●殿左の通り御書立拝見仕り候様に申渡され候。
   足軽小頭、竹内八右衛。
 右の者様子之有り候に付追込仰付られ候事。
 (天明五年)十月
謹て拝見奉り畏り候段、則御請紙面判形指上げ罷帰り引籠り申し候。
八、中村小兵衛等の入牢等及び惣組中え禁制の触  自筆の記録「寛政三年亥七月二日改方役所御呼出御尋之筋答之趣並其節取●方等之一件言上留」と題する美濃十三行細字五十三丁妙喜寺に現存す、金沢各史科中稀に存する自筆ものにして一件記録整束し殊に能筆能文なるを以て全部をも出すべきが、他と不倫の嫌ひあれば省略に付する所多きも猶他材に超過するは僉議答申等の明細を此に依つて類推せしめ他の略筆を助けんが為なり、但し伝聞記には此中の七月二日言上写と書置状と日●上人の御状等を引用するのみ。
小兵衛は当時割場附足軽小頭にして惣組及び配下に多分の入信者を出せりと、割場とは千五百余人の足軽を五十組に分ち小頭等を起きて支配する所にして、其支配頭に事等下の文に出づ、又此時代には富士派信仰が各方面に亘りて一万二千人も在りしとかにて改方奉行井上井之助等も此を一大事とし、百万時日を費しても遂に全人員を自白せしむる事能はざれば入牢せしめたるなり、而して表面に出でたる信徒の名は町家を除いて足軽等漸く十数人に過ぎざれども小兵衛一人は重立つ者と目せられて始んど一人にて応答したる形なり。本書の中に省除したる分は、八月廿三日より九月十日に至る応答の記録八回、日●、日堅、日任、日純各上人への往復状、詮量(小兵衛の法名)書残状、地獄咄(純師の訂正入筆)等の多分なり。
改方役所とあるは町奉行の支配下にある事務所し云ふ説あれども或は宗門改方か。
井上井之助は寛政七年まで江戸御用人にて寛政十二年町奉行となるとの事にて、此時は宗門奉行にはあらざりしか。
                                     改方にて取調べられたる顛末を其所属の割場奉行に届けたる書
本文は連接の文章にて読み難ければ且らく問答分に仕切る。
寛政三年七月二日大石寺派内得信仰の儀に付き改方役所え左の人々御呼び出し御尋之有り候一件。
小頭、中村小兵衛、小頭、河崎権右衛門、小頭、高瀬十郎兵衛、小頭、下田富右衛門、触番、永山佐五右衛門、触番、間口七郎兵衛、道具番、沢原安左衛門、留書、高瀬源兵衛、無役、吉倉次太夫
一、改方にて御尋の趣き答えの趣き等左の通り翌三日割場に於いて紙面調のえ指出し候事。
私儀様子之有り候条改方御役所え罷出で候様昨二日仰渡され則罷出で候処。
井上井之助殿仰聞けられ候は其方儀今日御尋の筋別儀にも之無く何宗門に候やと、御申聞け成され候故私儀は日蓮宗野田寺町実成寺手継に御座候段申上げ候へば。
右宗派信仰の義は兎も角大石寺派信仰仕り候様子風聞御聞及び候、右宗派の儀は御国表に末寺之無く宗門改の筋立兼ね候に付き信仰御停止の儀承知の筈に候処、如何の趣にて信仰仕り候や委曲白明に申上ぐべき旨仰聞られ候に付き。
畏り奉り候、元来日蓮宗門におひて一致八品或は勝劣等と品々宗派相分れ居申し候、然る所右実成寺事は勝劣派に御座候、大石寺事は勝劣派の惣本寺にて公儀朱印知も御座候本山にて尤日蓮宗門の正嫡に相違御座無く、実父中村故源兵衛義内心皈依罷在り候て正法の事に候間私えも内得信仰仕り候様にと申聞け本尊等相送り所持仕り罷在り候て心業には皈依仕り候、然し乍ら御国制の趣きに御座候故身口には受持仕らず心内にのみ皈依罷在り候て口外は仕らずと、御答申上げ候処。
一往相聞へ候へども軽き身ながらも御扶持も頂戴罷在り身口意とも国命に随ひ奉るべき処、不心得の段仰聞けられ候に付き。
御不審の趣き畏り候、然し乍仏法の儀は邪正を相糺し正法を信仰仕り候儀掟に御座候て四恩報謝の為に信行仕る儀に御座候へば、一往は御国命を背くに似申し候へども正法を撰び取り申し候儀は還て御国恩を大切に存じ奉るに相成申すに御座候趣きの教にまかせ心中に皈依仕り候儀に御座候、然る所只今御咎にて意業御国命に随ひ申さざる儀は不心得の段仰渡され、初て心付き会得仕り只今迄の処迷惑至極に存じ奉り候段申上げ候へば。
弥よ左様に会得仕り候やと仰聞けられ候に付き。
仰渡さるるの趣き急度畏り奉り改心仕るべしと御請け申上げ候。
然る所外々にも其方同腹の者も多く之有る躰粗承及び候条、名前申上ぐべき旨仰聞けられ候に付き。
畏り奉り候、去り乍此儀は最前より申上げ候通り私とても心に皈依仕るのみにて御国制を重じ口外仕らざる事に御座候へば、人々に如何御座候や彼者信仰仕にても候やと心付候とも其身より直に信仰仕候と承請申さざる儀に御座候へば、誰々とても名前を申上げ 候儀は仕り難しと申上げ候処。
夫は其方儀今日小頭役も仰付置かれ人裁許も仕る儀に候処、人の腹内の事をも見察仕らず候はでは相成申さぬ筈、尤御国制の宗門内得信仰の者も見察候は相糺し申すべき役筋、別して手前より信仰罷在り候ては左様の改も行届き申さず候、此方儀は其許ども内得信仰の儀腹内をも悉見察いたし候故相尋る儀に候段、御咎めに付き。
畏り奉り候、私儀は人裁許仰付け置かれ候へども腹心の儀は表に顕れ申さず候ては見察は仕り難く、今日裁許の者御奉公懈怠か或は利養を好み候者ども之有り候へば貧心多き者等と見請け身心ともに相改め候様に申談じ候、然し乍正法信仰仕り候儀は腹内の信心相顕れ候へば、今日の御奉公も全く偽も之無く誠相顕れ候事故若しや大石寺派信仰も仕らず候やとは実否承り申さざる儀を制止申渡し難く存じ奉り候、尤裁許の者は別して私儀内得の儀風聞にても承り伝へ宗派の筋承りたしと申聞け候者之有り候とも御国制の段を申聞かせ私内心の儀は申聞けざる心得に罷在り候段、申上げ候へば。
重て仰せ聞けられ候は風聞の様子にては講銭を取集め候などと申す儀之有り候、此儀如何に候やと仰聞けられ候に付き。左様の儀は一向御座無く候と御答申上げ候。
(巳下御本尊御影及び背景又は歴代系図等の尋は之を略す) 然れば講頭或は棟取などと申すにては有まじく候へども古く内得の事に候へばをのづから同腹の者も存じ罷在り申すべき筈に候条、得と思慮仕り後刻相尋ぬべく候条申上ぐべしと仰せ聞けられ。
退き申し候。
其後外御呼出の河崎権右衛門等追々御糺しの上、重ねて私儀御別席え御呼出し井之助御殿壱人次の間に改方定役小頭壱人相控え罷在り候て私え御尋成され候は。
先刻役所に於て夫々相尋ね答の趣き等相聞え候、然しながら与力中等も罷在一往表向の相尋ねに候只今別席え呼出し御尋ねの筋は其許心内の趣き白明に申上げ候様にと、仰聞けられ候に付き。
畏り奉り候、御別席に於て内心の儀格別の御尋ねの趣きに御座候へば私心中の趣き申上がるにて御座有るべく候、腹内の儀申上げ候節は我等式甚だ恐れ多き義に御座候へども此所御聞き御聞済み下され候様にと相願ひ申上げ候は、元来仏法信仰仕り候儀は後世菩提の為にのみに信仰仕り候義にては御座無く候、私儀二十二歳の節掃除裁許定役仰渡され程無く人割に転役仰渡され其後当役仰付けられ候、何も人裁許の役儀に御座候故年若にて定役も仰渡され人欲の私多くしては懸け引仕り難くと心付き候故、及ばぬ事ながら何とぞ依り所も之無く候てはと存じ奉り、熟れ儒仏神の内の善を撰び依所も相極め申たくと存じ奉り彼是少々承伝へ申し候処、所詮仏法は三世を教へ候極説と承り候故仏法に来り少々勝劣浅深を相尋ね候処、最上は法華経と承り其中にも日蓮宗門の正嫡にて大石寺に伝法と承り心中に正法と決皈仕り候故、元来一と通り申送り候亡父の申聞け心中に符号仕り候故内心に皈依仕り罷在り候、然る所先刻御咎めにて存じ付き是迄の処迷惑至極に存じ奉り候と、申上げ候へば。
成程勤仕の身の上貴賤ともに依所之無くては相勤め難き儀尤に承請け候、其許前々よりの勤め方等の風聞も委曲に承置き御奉公も大切に心懸け候様子も逐一に承及び申し候、然ども所詮君の御意に制止置かれ候宗派に心を置き申さずとも心の依所も有るべき等と、忠怒の字義等少々御語り、一々は申さずとも何分依所を替え御奉公も大切に相勤め申すべしと、仰聞けられ候故。
畏り奉り候と、御請け申上げ候。
其儀得心に候はば外権右衛門等人別に承るにも及び申すまじく先刻の通りにて別心も之有るまじくと、仰聞けられ候に付き。
今日御呼出の内古森津太夫、吉倉次太夫儀は暑寒年頭に勤合ひ申す迄にて平日心易く出合も仕らぬものに御座候、沢原安左衛門儀は随分入魂には御座候へども宅遠方に居住仕り候故毎度咄合ひ申す儀も仕らず、其外のものどもは居宅近辺にて或は私先役にて同役、只今同役等にて別して入魂に咄合申すものどもに御座候故毎度咄合ひには別儀は仕らず何とやら私式●り存ぜぬ申分には御座候へども、今日勤仕の上の事等申合ひ所詮心の依所などと申合ひ候ものどもに御座候、併し乍私内得の宗派信仰仕り候様にとは御国制の事故申入れず彼等よりも大石寺派信仰仕り候とは申聞けず候、それ故今日何れも御呼出しの事に候へば信仰の事承知罷在り候を先刻より御尋ねの節相慎み申上げざるには御座無く候、兎角信仰不信仰の事は腹内の事に御座候故彼も信仰仕り候やとも見請け候とも拠所無く人指し仕候儀は致し難、御座候故、一座のものの儀さへ申上げ奉らず候と申上げ候処。
其儀相聞え候、併し外々御家中等にも粗風聞承り候ものどもも之有り候条、信仰の義は存ぜず候ても同幾相求め候物どもも之有べく申上ぐべしと、仰聞られ候に付き。
成る程安房守様御家来松村清蔵、一色宇左衛門殿御家来若林庄兵衛と申もの随分入魂に仕り今日御呼出のものども同様に心易く咄合ひ申す物に御座候、信仰不信仰の義は存じ奉らずと、申上げ候へば。
其許過信改心仕り候上是迄同機相求め候ものどもへも寄々焉申聞け候はば若し信仰の者有り候とも改心も仕るべき義と存ぜられ候条、今日呼出し候者ども其外にも同機相求め候ものどもも之有る儀に候はば寄々申聞かせ候はば、心内相改め御縮り方相建て申すべく候間其儀急度相心得候様、仰聞けられ候に付き。
畏り奉り候と御請け申上げ候。
且又本尊等御取揚げ候とも心内相改め申さずては所詮も之無く候条、其沙汰に及ばれず候間本尊等取仕末の儀は其許心得も之有るべき儀に候条、其沙汰に及ばれず候間本尊等取仕末の儀は其許心得も之有るべき儀に候条、猶更改方小頭申談ずべきと仰聞けられ、   退座仕り候処。
右定役小頭大浦源七馬淵伝太夫立会ひ申聞け候は、本尊取仕末の儀御奉公衆指図にては之無く候へども私手前にて心得も之有り夫々取集めいづれえか相戻し候とか縮り方の心得願ひ方も之有るべく候条、左様の節は相見致すべしと申聞け候に付き。
委細承知致し急度相心得も御座候条、近日の内早速今日呼出しの物ども等私方へ相招き、御別席にて仰せ渡さるる趣き等も得と申合ひ本尊の取り仕末の義其上にて申達すべくと申入れ候。
其後重ねて河崎権右衛門、高瀬十郎兵衛、下田富右衛門、私儀御呼出し先刻口上の趣き委細に御聞請成され候。
先今日は構ひ無く御返し成され候条、左様相心得べく、猶更私え申含め候儀会得仕り候様にと仰渡され退座仕り候。此外御尋ね等の筋御座無く候、以上。
   (寛政三)亥七月三日              足軽小頭中村小兵衛判。
改心の証としての処置   大石寺よりの本尊御影等を返納したる事、次の役僧への状と、宗門改方小頭馬淵伝太夫外三名へ中村小兵衛より届け出でたる状、及び小兵衛の伝述に依て改心の証として本尊等を小兵衛に渡したりとの河崎権右衛門外八名より四人の改方小頭に出したる状、九名の本尊御影守過去帳等及び松村清蔵若林庄兵衛の本尊等御本山への返納目録、此等の顛末を日●上人に御披露の七月十五日状、同八月廿五日の同状等の中より左の状どもを抄出して他は之を除く。
一、改心の儀仰渡され取●ひ方左の通り。
一筆啓上仕り候、然れば別紙目録名前の通り是迄御宗派内得信仰仕り候処、今般私ども等当所改方役所え呼出され当国に其御末寺之無く宗門改の筋立兼ね前々停止の処、内得信仰の儀咎めを蒙り堅く信仰仕らず候様申渡され候に付き向後内得信仰仕難く改心仕り候間、是迄安置申し候曼荼羅御木像等夫々別紙目録の通り返納仕り候、此段夫々宜しく御披露希ふ所に御座候、以上。
    (寛政三)七月五日             中村小兵衛、永山佐五右衛門。    大石寺御役者中様。

私儀大石寺派内得信仰仕り罷在り候処、以後心内堅く相改め申すべき旨井上井之助殿仰渡され候趣き畏り奉り候、其節御別席に於て御内分に仰渡さるるの筋ども河崎権右衛門等え申談じ候処、急度会得仕り候に付き別紙取立て各方迄指出し申し候、且又取集め候本尊等相見を以て夫々相認め則本山え相返し、且又只今迄同幾相求め候者ども外々にも之有り候はば夫々申含むべき旨仰渡さるる筋縮り方の儀は口達を以て御達し申す、趣に寄々仕りたく存じ奉り候、此等の趣御序を以て頭衆え宜く仰せられ候様致したく斯の如く御座候、以上。
    (寛政三)亥七月五日                   中村小兵衛。      馬淵伝太夫殿、大浦源七殿、原覚左衛門殿、高桑半蔵殿。
 改方役人より交名書出すべき状、及び小兵衛の答状
一、左の通り申越し候に付き応対に及び候事。
此間御意を得候儀に付き御申聞けの趣き委細御達し申候処、右名前の儀内分を以て御書出の儀弥よ相成申さずや今一往申談ずべき旨仰渡され候、且此儀に付き御申聞けの趣き先日申上られ候連名の人々も答られ候義に之有り候や御自分様御一存に候や、此儀も承るべき旨仰渡され候間早速御申聞成さるべく候、口達にては間違の儀も之有るべく之に依て紙面を以て御意を得候、御報に御申聞け成さるべく候、此等の趣き仰渡され候に付き此の如く御座候、以上。
    (寛政三)八月廿三日             大浦源七、馬淵伝太夫。
   中村小兵衛様。
御紙面拝見し候、然れば此間御内分を以て仰渡され候名前書出し候義弥よ仕り難くや且先日連名の人にも申談じ候御答に候や又は私一存に候やの旨、御紙面の趣き承知仕り候段々先日委細口上を以て申上げ候通り先達て御別席にて同機相求め候ものも之有り候はば寄々私改心の趣き申聞かせ内得信仰の者有之候はば改心仕らせ候様に仰渡され候は私壱人に御座候故、夫々見聞の分申談じ候義は私より申談じ候、依て御内分ながらも交名申上げ候ては迷惑候間申上げ奉り難き段御請申上げ候は私一存に御座候、先日連名の帋面を以て申上げ候儀は先日も各様迄御意を得候通り前月廿八日御内分罷出で候節、割場方の分は私より夫々申談じも行届申すべく候へども、外々侍中等にも御聞及びの御面々之有り候条此所縮り方の儀覚束無く御心労遊ばされ候段仰られ候に付き、此処甚だ恐れ奉り先日御呼出しの人々申合何分にも其手寄々々相考へ、若し御内得の御面々も候はば私ども改心の義仰渡され候上は厳重に仰渡さるるの筋之有り候条堅く御改心候様にと申通したく等と熟談仕り候故、此等の趣を以て厳重に相心得候印に御内分紙面を以て申上げ候事に御座候、尤外々人々は内分縮り方の義申談ぜざる事に候へば交名等承知仕らず候条連名の紙面御取請置き下され、何分紙面の趣に御開届下され候様にと申上げ候儀は連名の一統より御請に御座候、此等の趣を以て何分宜しく仰上げられ下さるべく候、右御報の為此の如くに御座候、以上。
    (寛政三)八月廿三日                   中村小兵衛。
大浦源七様、馬淵伝太夫様。
最後の暴問入牢及び赦免等  小兵衛は事件の拡大して其累ひが大にしては内得の大老人持組等に及び小にしては多数の軽輩町人に及ぶ事を恐れて、百万交名の自白を避けたるを以て、改方なる井之助は遂に御殿にて会合の折り小兵衛所属の割場支配頭等に懇談して此上役の手にて説破して交名自白せしめんとし、八月廿八日、廿九日、九月朔日、同五日同十日と数回の呼出となりたるも、小兵衛は七月二日の取調の順序をたどりて井之助の御扱が当を得ぬ事を主張したり、然れども既に先年岩田伝右衛門の調の時富士派一万二千人とあれば、此度の十一人は余りにも信じがたく小兵衛が如何に信仰を無にして国制を重んじ縮り方を心得たりとも、多数の信徒には其改信が行き亘らざるべく、何時不祥事件突発せんとも限らざれば役儀上より井之助大に憂慮して遂に又直調を繰返したるなり、此五回の応答記録は遺憾ながら之を省きたるが、小兵衛の周到なる考慮の改信より以上は一歩たりとも譲らぬ条理整然たる答弁は中々歎賞すべきものなり。
再問の時は井之助始めより激怒して申付違背の条を以て直に禁牢に処し町会所牢(下松原町)に入れられ他は指控えの微罪又は構無しにて間も無く翌年正月十六日赦免出牢屋に及び他は指控え御免にて、本件全く解決したりしが爾後七十余年間多少の苦情はありしも法に当てられたるの文献なし是或は信仰の微温となりて要領を得たるか、有司が国家の大問題の為に宗門改を寛大に放置したるかなるべし。
九月廿五日永山佐五右衛門松宮只七、改方え御呼出し表向にて御詮義之有り、只七義は貧著なく御返し、佐五右衛門儀は申分相分り申さざる由にて則割場預けの段仰せ渡され暮頃帰られ即日より番人附置かれ候事。
一、九月廿六日小兵衛儀改方え御呼出し表向御尋之有り、先達て御申渡の交名の儀弥よ申上げ難きや今日は業間に及び候とも承り申さずては相成らざる段、井之助殿御申聞けに付き、応答に及び候内。
井之助殿以ての外の嗔りにて一々申渡の筋不心腹の躰凡百日斗の内御様子之有り猶予の御詮議に候処、此方をツリツケ数日無益の次第緩にすれば付け上がり言ひたき儘の振廻ひ言語道断等と、先達て御返の連判帋面の内貴賤等の儀に付き仰聞けられ候に付き。
其儀は何日の御申渡のケ様の筋に随ひ斯々等と内御懸合の節申聞けの内詰らず御申渡方の義ども一々押返々々答に及び候へば。
弥よ以て嗔り直に吟味所え下り立ち候様御申渡し則下り立ち候故、始末法に越え候、御吟味方会得仕り難く応答に及び候へば。悉く嗔り大罪人前後忘却いたし候や等と仰せ聞けられ候に付き。
忘却は仕らず候と相答へ候処。
其許忘却に之無くば此方の忘却かなどと殊の外御立腹、則縮り御申付之有り、元来謀叛夜盗の同類にては之無く、あながち交名申上げ難しと申す儀には之無く候へども、是迄二言相違或は御上の御難題等と申立て、交名申上げざる義は一往の義再往趣意之有り候へども申上げ候場に至らず是迄申上げず候、斯く仰付けられ候上はと兼て心志の趣き正法信敬国に制禁する時は不祥の先例之有り等と演べ懸け候処、一向に聞請け之無く山伏の申分の様成る義などと聞済み之無くに付き、是非無く罷り在り候処。
七月二日巳来内分申渡の筋を承引せず其上御場所に於て御吟味の筋前後一々不心腹の躰、不届至極の至り依て禁牢仰つけられ候段、与力を以て申渡され暮合ひ頃会所牢屋え罷越し八十五ケ日の間禁牢罷在り候事。
但し右廿六日御咎めの筋は、第一当国貴賤とも内得の面々交名の義曁び講銭島取集め牒面の取扱ひ彼地え相登せ候儀等種々御吟味に付き、張面等取扱ひ本山通路は私壱人に御座候と相答へ、第一此儀の御咎めに相成り、尤大石寺派信仰に依て禁牢と申すには之無く、違背不心腹の義不届と申す咎に相成り甚だ会得も仕り兼ね御吟味畢て御別席を以て申上げたき義之有り候と相願ひ候処、則諸役人を払はれ候に付き心志の趣き相述べ、大法内得不忠不孝と御取り成され御取り●ひ左様にては之無く、父母主君へ報恩忠孝の為に正法を撰取り信行仕り其信を以て勤仕世渡心懸申す義に候へば、其旨趣相分り候上は交名等申上げ候義相慎み申す義は聊之無く等と御直に懸合ひ申し候、種々御尋答の趣き入組み候事故記留難く略す。
一、九月廿九日高瀬、河崎、松永、下田、間口、沢原、改方え御呼出し一通り御詮義の上指控え申渡し候様にと割場え申来たり割場に於て小頭四人え仰渡され間口、沢原は構ひ無く御返しの事。
一、十月十四日永山、改方え御呼出し再御詮議の上割場預けの儀御指宥し、高瀬等同事指控え申渡し候様にと割場え御申送り其段仰渡され番人揚がり候事。
一、十二月廿三日小兵衛儀、改方え引出しの上先達て宗門の義に付き御糺しの処不届の趣之有り禁牢仰付置れ候処、今日御指宥し出牢仰付られ割場え御返しの段御申渡し尤日記帳に記し置かれ候由に候、禁牢の趣意曁び出牢の御請判形の上、仏法の儀は執心も之有るものに候条、巳来急度相心得候様にと御申渡し、退き申し候。
但し九月廿六日禁牢の上割場え申来り同役荒木伴太夫迄仰渡され宅見段本尊等並に仏具の分改方へ指出し候様にと申来る、則見段の上曼荼羅等四十八幅木像一躰外々より取揚げ置き候分之有り候処則改方え指出し候、然る所仏具は見分の上御返し本尊等は御指留の処、本尊授与書名前の分禁牢の内改方小木嘉七郎を以て御尋ね之有り当時死後或は何組等と申す義相答へ遣し候、右闕所の本尊並に先達て割場より改方え御取寄の本尊等認物の分夫々改方にて於て破却御申渡成され候由仰渡され候。
然る所一先宅え相戻り身を浄め割場え罷出で候様にと同役伴太夫より申談じ候に付き、則相改め割場え罷出で候処、左の通り仰渡され候。

右改方におひて禁牢申付け置き候処、今日指宥し出牢相返し候に付き構ひ無く召し仕はれ候、併し乍ら詮義の趣之有り候条、指扣え申渡し候事。
右の通り夫々申渡さるべく候。    (寛政三)亥十二月廿三日
      河崎権右衛門、高瀬十郎兵衛、松永宗助、永山佐五右衛門。
右改方より指扣置かせ候様に申越し先達て申渡し置き候処、今日貧著無き旨申渡し候へども、詮義の趣之有り候条、改めて四人も指扣え申渡し候事。
右の通り夫々申渡し請書取立て指出さるべく候。   (寛政三)亥十二月廿三日

一、子(寛政四年壬子)正月十六日御用之有り候条割場え罷出で候様来る、小兵衛等九人罷出で候処、後堂に於いて橋爪殿(又之烝)半井殿(五郎左衛門)嶺殿(四郎左衛門)堀殿(八郎左衛門)吉邑殿(権兵衛)岩田殿(平兵衛)御横目加藤殿御立会ひ人払ひに御申渡しは、去る七月二日各改方へ御呼出し宗門方の義御尋之有り候処、大石寺派内得信仰の段白状に及ぶ、元来右宗派信仰の儀は御停止の処御国制を相背き不埒の至り、併し乍ら其後段々詮議の趣き今般の義は相分り候に付き拙者ども取斗ひを以て此分に指置かれ候、巳来急度相心得申すべく斯の如く仰付られ候上は今般の君恩を存付き此以後支配中心寄の者も之有り候はヾ其段申含め指止させ申すべし、若し信服致さざる者之有り候はば内分訴出で申すべく候、之に依て右の趣き神文仰付られ候条、各拝見の上判形致し候様にと御申渡に付き。
畏り奉り則九人とも熟拝の上判形致し畢て表向き左の通り仰渡され候。
下田富右衛門義は、同日坂野殿(忠兵衛)宅に於て指扣え御免落著御申渡し神文は仰付けられず候事。
         小頭、中村小兵衛、河崎権右衛門、松永宗助、高瀬十郎兵衛。 
右の人々心得違ひの儀之有り指扣え申渡し置き候へども、詮議の趣き相分り候間指宥し候、重き役儀申付け候人々何事に依らず心得違ひ出来、改方へも御呼出し詮義に及び候趣きは不心得至極の事に候、依て兼定役之有り候人の御指除裁許用迄申付け候条、巳来の心得も之有り裁許の取●ひ油断無く相心得申すべき事。
    (寛政四)正月十六日
                  永山佐五右衛門、間口七郎兵衛。
                  高瀬源兵衛、沢原安左衛門、吉倉次太夫。
右の者ども心得違ひの儀之有り先達て改方へも御呼出し詮議に及び候、役所内重き役儀も申付け置き候処心得宜からず候に付き右の趣きに候、依て役儀指除き候条巳来心得違ひ之無く御奉公相勤申すべく候、佐五右衛門儀は指扣え申付け置き候へども詮議の趣き相分り候間指宥し候事。
右の趣き申渡さるべく候、以上。      (寛政四)正月十六日
一、右の通り落著の上割場支配中の分、御奉行衆心得を以て左の通り触出し之有り候事。前々申渡し候御定御法度の趣き一々相背き申さざる様支配足軽小者へ厳重に申渡すべく候、曁に近年も申渡し候大石寺宗門の義は御領国に於ては格別御禁制に候処、日蓮宗の者不斗宗風心得違ひ候て同宗勝劣流の本文は大石寺宗派の様内得之有り専ら富士派押隠し信仰の沙汰も之有り候、御国制の儀に候へば信仰仕るべき様は之無く候へども軽者心得違ひも出来之有るべく候間、小頭一統此処相心得毛頭紛はしき宗風之有り候はば早速訴へ出で申すべく候、去秋巳来紛はしき趣きも之有り候に付き詮議を遂げ品相分り候へども、宗派未熟の者ども日蓮宗は同様に心得候間法門の差別相弁ざる事之有り候へば不慮の不所存も出来いたし、信心堅固に心得候時は聊も御停止の趣きに指障り候義は之有るまじき事に候条、夫々相触れ申すべき事。
右の通り足軽小頭小者裁許へ申渡し請書取立て指出すべく候、以上。
   (寛政四)正月十六日                      割場。
  惣組小頭中。
一、左の通り寛政八丙辰六月七日支配頭より申渡し之有り亥の年(寛政三)以来の一件速に落著候事。
       割場附足軽小頭、河崎権右衛門、中村小兵衛、松永宗助、高瀬十老兵衛。                       坂野忠兵衛組小頭、下田富右衛門。 割場附足軽、高滝源兵衛、沢原安右衛門、永山佐五右衛門、間口七郎兵衛、吉倉次太夫。
右の人々先年心得違ひの義之有り差扣申渡され其後僉議相訳り候に付き指置き候へども、元来重き役義をも付置れ候の処各心得違ひにて改方へも呼出され僉議に及び候程の義出来致し候義は不心得至極に付き、小頭の義は兼定役指除の裁許用迄、申付、平足軽の者も定役指除き置き候へども、其後申渡し方全く相守り加人等相勤め置かせ候ものども情を入れ相勤め候に付き、今般拙者ども僉議の上最前の通り小頭兼定役他国詰平足軽の義も寄寄り定役等申渡すべく候条、右人々へ申聞せ置かるべく候事。
  (寛政八)辰六月

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