富士宗学要集第九巻

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第八章 寛 政 度

  寛政七年春より文化四年の夏に跨る十三年間の要法寺本山に於ける法難は仮令後半四箇年の寧歳ありとは云へ、全く九箇年間は本末一同僧俗の意念を洶々たらしめたる大法難たりしなり、此が関係文献公私細大殊に太途の日記等悉く要山にありて他山には殊に大石寺には存在少かりしが、要山としても不祥の文献なりと又●かる所ありてや殆んど公開して欝憤を晴らす事も無かりしに、同山末富谷日震が大正二年より日宗新報誌上に椽大の筆を揮ふこと十六号に亘り事件を各方面より細述し十五山側の悪謀をも発きたるのみならず、史料の重要なるものを揚げたりと●も彼十五山の法子法孫は何等著しき反省を示したるを聞かず、殊に其当時要山日住が蟄塞且つ忙劇の間に筆せし百囲論三巻向正論三巻決疑録等の大義高論は、十五山側の肺肝を抉ぐるべきも彼等は一切頬被して之を避けひた押しに公儀の禁制たる不受不施に陥れて寺を潰ぶして自山の肥料に供せんとの意念の外なし、官憲又此を香はせて圧制的に多数の意に屈従せしむる事再三なれば、日住の熱著も何の酬いる所なく彼等首魁の本隆日東の十義弁釈の片々たる妙顕日褒の不得要領の愚状ある外を知らざるなり此九年の言語道断の苦労其間硬骨役僧の毒殺正義末派の追院東奔西走の労資も結局何の効も無くして却て事前よりも窮屈に陥り大に山勢を殺きしは、恰も重須本門寺が数十年に亘りて頻々たる大火に資財を消耗して遂に弱体と成りしと稍似たる所ありと●も彼は遂に回天の機無く此は瞬間に頽勢を挽回せしは宗徒の奮励の為なりしか、今本章史料の豊富なるに乗じて明細を極めん事は到底此別巻の堪ゆる所にあらざれば、詳細は彼の寛政法乱の大部に譲り又同師著の日宗年表中の文を仮り此に三四の別料を加へて事件の梗概を知るに便し、更に十数の文書を抄録して要所の詳細を見るに供する事とせり。
 二、概括的に後記せるもの 要法寺雑記の富谷日震蔵より抄録するもの二、初は外面的に次は内面的に要領を得たるが如し、又嘉永元年の法華寺に於ける問答記録(尾張法難関係)の一にあるもの短文なるが要を尽くす故に共に此に掲ぐ。            一、要法寺法流一件 寛政七卯年九月尾州より寂光寺へ出訴、十一月十三日諸本山より菅沼下野守殿へ出訴十四日召取り、同九年巳十二月廿日済口上る。同十年午十二月二日自成院一円坊寺社奉行所へ出訴、両隠居妙覚本隆召出し、同十一未五月願下げ、同十二申年蜂起雲石享和元酉三月出訴、同三年に相済合せて九箇年の間なり。
 同 上
当時開山日尊の実録 と申す書物御座候、則日尊弟子日大の自筆に御座候此書に久成の釈尊○、仏躰にて当時一四代日●の時造立仕り候、加様の悪しき先規之有り候て余の日興門流七箇寺通り相改め候事相立ち難く候六代以前日奠より内々にて相改め、御公儀へも組合十五箇寺へも無沙汰に相改め候事故、要法寺は廃仏をなし怪しき勧め方仕り候と公訴に及び候故、一山残らず召捕に相成り候。
 法華寺問答(決談記録第一回の中)より抄出す。
法華寺答へさせらるる様、能とは釈迦如来等の事なり、所とは題目と本尊の事なり、日重上人の愚案記にも其分有り、若し然らば題目を本尊とすると釈迦を本尊とすると両様あり、是に付き京都要法寺に於て中古三宝を引く事起り終に御公儀え相成り三宝を立る様に成り候事、案内に候や。
利蔵云く、右等の義私壮年岐阜正興寺に承り候様は、十四代日●上人三宝を建立成され、数代を経て三十九代日良上人と申す御方三宝を引き給ふ、四十代日住上人迄は豪傑の御方故に事無く候へども、四十一代日立上人は前顕の如くならず、依て此時論起り御意の如く終に公辺と相成り、先方十五本山申さるる様は前々天文法乱の砌り十六本山諸事同様に致すべき旨証文連印致し置て今般如何して同ぜざる様は計られ候やと申上ぐるに付き、此儀御聞上げと相成り前々の通りに致すべき様仰せ聞けらる、要法寺と正興寺計り三宝を餝り候へども出雲国末寺五十箇寺濃州関大雲寺等の諸末寺ゆへ有りて今に餝り申さず、富士山の通りに御座候○。
 三、当初の文書 寛政七年四月廿一日本隆寺貫首日東、要法寺に来りて旧年の如く十五山一同の法式にて仮令祖師堂にもせよ釈迦多宝等の諸尊を安置せよと強要せしを以て、同五月廿四日左の五箇条を以て答弁したりしに、日東の挨拶存外平和なりしかば次の二箇条に改めたり、但し前の第五章の九項に示す日全日慈日良の各法令に依り漸次法式を改めたるが積りて十五山の頭痛となり、今年更に岐阜正興寺を臨検せる名古屋役寺法華寺よりの告発(本尊改奠)に催されて日東が十五山の惣代となりて強談に来りしが、其要山の返答に一理あれば此を以て如何とも為し難く更に各山の会合に託して日住日立の両老を招喚せしに折悪しく両老とも病床に在りて止むを得ず缺席せしを邪推し又此を好機として、同年十一月六日要法寺儀は聯盟規約に違背し宗義上胡乱なる勧め方を為すに付き我等諸山に於て説示論解せんと欲して只管肝膽を砕きたるも絶えて会本出席を忌避し云々と、奉行所に訴へたれば直に日住日立に呼出を命じたるに病中なれば役僧を以て御断りを申出で、爾後二三の交渉ありしが遂に切支丹邪宗門同一の振舞天下御制禁の不受不施内信心者流の怪き勤め方を為する廉にて、五月廿七日要法寺一山全員奉行所に拘禁せられ闕所の扱にて両門を閉塞し一般の出入禁止となりたり、此の怪き勧め方と云ふに恰も七里法華内の類似不受不施の禁制と同時なりし事が此禍を早くせしものと見ゆ、巳上の事ども寛政法乱の文に依る。
 五箇条の反詰的答弁
一、本堂祖師堂両堂建立の事は一宗通格なりや。
二、前後建立の事は当時の趣き別して妙覚寺には祖師堂建立の願之有る趣き承り候。
三、祖師堂へ諸尊安置申すべきか、然らば本堂祖師堂合の事か、巳後諸山に両堂建立之無きか。
四、当時拙山には本堂建立の志励んで候なり、先づ当分宝蔵に諸尊安置申し候なり、猶余山にも類焼後諸尊を宝蔵に安置の寺も之有り候、是も公辺え願ひ出で候や。
五、当時祖師堂入仏後妙顕寺日浩師より寂光寺日正師迄内々尋之有り候て返答に及び候事は日良代にて御座候へば、諸山にも其節の諸聖方は御存知か。
 二箇条の返答
一、祖師堂へ諸尊安置の事は、一には御公辺え祖師安置の儀御届申出で候へば、本堂の諸尊安置申す事御公辺を欺き奉り候故とは相成申さず候。
二、両堂合せ候ては巳後本堂建立の障りと相成候へば相成り難く候、然るに幸と昨年開山遠忌に本堂之無く候ては相成難く候趣き申出で候へども、祖師堂漸く建立候後勧物調ひ難く候趣き仮本堂の心持にて宝蔵建立申し候て諸尊安置申すべきかと存じ候処、内造作出来申さず候故当時諸尊は日良代安置の儘大門見付の土蔵に安置申し候へども、当時は諸道具も入り候故恐入り申し候、猶又日東師日元師平和の御挨拶も御座候へば近々仮本堂へ遷座申すべく候、併し至て古仏故甚だ風体を厭ふ事故障子等にて之を凌ぐ手当候て安置申すべしと、日東師迄日立師より御返答に及ばれ候なり。
 四、大石寺より江戸寺社奉行所へ答申 要法寺に在る法界堂蔵と蔵記ある写本に依る、但し末紙の識語は石山の記なれば其に依て写せるものか、文中の答申明確を缺くは其理由を知らず、下の量師状に依れば子細之有りとあれども他筆にも此を明記せるもの之無く何となく尊門流に隔意あるが如く見へ、寛政十年十月の添翰願の中にも大石寺の答申其意を得ず江戸奉行所にて対決すべし等の文あり、臨道すら時の貫首の卑怯と悪評(下の九項の下)す、況んや其門流永く之を怨み大石の極力支持無き為に泣いて敗訴すとて責を一に大石寺に帰せんとす、然るに下の相師等の状に依れば要山の怯懦を激励せる如く見ゆるの牟盾あり、思ふに時の各本山なるもの不受不施扱ひに陥るを恐れて大に官権を●かりたるが、石要共に表裏無く両山一躰の行動を取る事能はざりし状態にありしか、又或は要山が日辰以来革進動揺の形態にあり主●同盟巳来も時々法義教式等の為に不和を来せる事ありしを以て何となく緊密の道交を缺きし崇りもありしか兎も角富士門の教界悲むべき不祥事なり、法界は悠久なり殷鑑恐るべし恐るべし。
恐れ乍ら書附を以て書き上げ奉り候。
今般御箇条を以て御尋の趣き畏り奉り候。
一、京都要法寺は往古上行院と住本寺と弐箇寺を一寺にいたし要法寺と改号致し候由に右申し立て候通り相違之れなきやの事。
京都要法寺の儀は拙寺開山日興の弟子日目京都弘通の為に弟子日尊日郷両人を召し連れ正慶二酉年十一月初に此の地を出立仕り候処濃州垂井宿にて遷化仕り候故、日郷は当地へ罷り還り日尊は直に上洛仕り上行院号の諸寺を建立致され候趣き承り候しかども彼の地に於て寺何箇寺建立仕り候や巨細は相知れ申さず候。
一、右上行院住本寺の義も大石寺開山日興上人の弟子続ぎ候由申し立て候、上行院は誰が弟子住本寺は誰が弟子と両寺建立致し候開山は誰々、且両寺を一寺に合せ要法寺と改号致し候節上行院住は誰れ住本寺住は誰れと申す義委細書き出す可き事。
上行院住本寺の義大石寺開山日興の弟子続ぎ候由の義、此の義も前書に申し上げ候通り日尊上洛の趣きは存じ候へども彼の地に於て何時何箇寺建立仕り候や相知れ申さず候故委細の旨は存知申さず候。
一、上行院住本寺の内何れの開基より血脈相承致し候や両寺歴代系図の義等巨細に相糺し書き付け差出すべき事。
上行院住本寺開基血脈相承歴代系図の義も前書に申し上げ候通り日尊上洛仕り何と申す寺何箇寺建立仕り候や其の義細く相知れ申さず候故、彼の寺血脈相承歴代系図の義も猶以て存知申さず候。
一、上行院住本寺一寺の契約之れあり今に於て通用致し来り候由、右上行院住本寺一寺に要法寺と致し改号いたし候上は上行院住本寺の寺跡之れ有るまじく往古上行院住本寺は何方に之れ有り候寺院に候やの事。
上行院住本寺両寺一寺契約並に往古上行院住本寺は何方に之れ有り候寺院の義、是れ又前書に申し上げ候通り日尊上京仕り寺何箇寺建立仕り候や其の儀相知れ申さず候故、両寺一寺契約の儀往古の事は一向存知申さず候。
一、上行院開山は誰れ上行院開基致し候比の年号、住本寺開山は誰れ是れ又住本寺開基致し候比の年号等迄巨細に書き出し申すべき事。
上行院住本寺開山は誰れ開基致し候年号等の義、是れ又前書に申し上げ候通り日尊上京仕り何と申す寺を初に建立仕り候や其の義細かに得と相知れ申さず候故、上行院開山は誰れ住本寺開基致し候年号一向相知れ申さず候、此度巨細に御尋ねに付き旧記等種々詮議仕り候へども、唯日尊上洛の趣き斗り相知れ彼地に於ての儀は拙山方にては聢と相知れ申さず候。
一、宗躰寺内等の備え方迄大石寺同様の旨申し立て候間、大石寺宗躰取り行ひ方並に寺内備え方等の儀巨細に書き出すべきの事。
宗躰寺内等の備え方の義宗躰は十界勧請の漫荼羅と日蓮大聖人を尊信仕り宗躰と相定め候、右宗躰故十界勧請の漫荼羅と日蓮聖人の木像を以て本尊と仕り候、此の外に宗躰と申すは別に御座無く候。
寺内備え方の義は本堂は正面宮殿の内に十界勧請の漫荼羅と日蓮聖人の木像を安置仕り候、尤も経机並に花立香爐●燭立等花皿等備え置き申し候、祖師堂の儀は本堂に於て日蓮聖人の木像を安置仕り候間別に祖師堂と申しては立て申さず候、又客殿の儀は中央に十界勧請の漫荼羅、右の方に日蓮聖人の木像、左の方に日蓮聖人の木像を安置仕り候て是れを三宝と仰ぎ申し候、漫荼羅の前日蓮聖人の前日興上人の前に各経机並に花立香爐●燭立て等相備え申し候、方丈内仏壇は厨子の内十界勧請の漫荼羅前に日蓮聖人の木像安置仕り是れ又経机並に花立香爐●燭立等備え置き申し候、五重の塔是も十界勧請の漫荼羅斗り掛け置き申し候、日月勧請の天王堂にも十界勧請の漫荼羅斗り掛け置き候て余の仏神等は之れ無く候、天照八幡勧請の垂迹堂には十界勧請の漫荼羅を中に掛け左右には天照八幡の木像を安置仕り候、経蔵にも漫荼羅斗り掛け置き申し候、十二角堂にも中央に十界勧請の漫荼羅を掛け其の下の左右に開山日興巳来代々の位牌を長二尺余の五輪に造り安置仕り候、常題目堂是れも十界勧請の漫荼羅斗りにて余の仏像等は御座無く候、宝蔵には日蓮聖人直書の漫荼羅を掛け置き御代々様の御朱印其の外日蓮聖人巳来の宝物等安置仕り候、右の諸堂いづくも前机には花立香爐●燭立花皿等餝り置き申し候、塔中の客殿等は方丈の客殿式中央に十界勧請の漫荼羅を掛け右に日蓮聖人の木像左に開山日興上人の木像安置仕り候、是れにも経机花立香爐●燭立花皿等備え置き申し候、いづれも御堂ともに花は施主の志により何花にても備え候へども平日樒を備え置き申し候。
朝夕勤行には法花経一部の肝心方便品寿量品を読誦仕り候、題目修行専に仕り候。
右の外に宗躰寺内備え方取り行ひ等の義決して御座無く候。
右御尋に付き申上げ奉り候巳上。
   寛政九年五月  駿州上野大石寺印。
   寺社御奉行所御役人中。
御尋の箇条華洛江戸常在寺に五月二日到来此の書き上げ当七日に出来八日に飛脚へ差し出すなり。
                                      五、寛政九年の済口三通  写本要法寺に在り。
 要法寺一件談口書物三通左の如し。
一、要法寺仏壇備の儀に付き段々御利害仰せ聞けられ一統辱く存じ奉り候、重々引合ひ候て漸く今朝に至り和談相調ひ申し候、之に依て相対の形は当時要法寺の祖師堂へ仏像を安置申し候、其体相は祖師堂須弥壇の真正面に坂本尊を掛け奉り其前に釈迦多宝四菩薩等の木像を安置し御祝牌を荘り、其前の下壇木爪厨子に祖師の木像を相納め倶に須弥壇の上に安置仕り侯由相対に及び候、此躰にては要法寺仏壇体の処において先は新義異流も之無く本末一統此体に相改むべきの由、然る上は諸山に於ても別心之無く和合仕り候。
右の趣きにて和融相調ひ雙方印形仕り申上げ候、重々の御教示の程忝く存じ奉り候、以上。
   寛政九年巳十二月十六日   十五山惣代妙覚寺日●印、 本隆寺日東印。
                   要法寺前々住日住印、 同前住日立印。
   御奉行所。

十二月八日要法寺仏壇荘り方に付き、東西御目附書役人「芝田八左衛門どの森定八郎どの」立会ひ御見分の上書付け連印雙方へ差出し候、左の通、(図面は之を略す)。

 口上書
一、要法寺本堂再建迄祖師堂におゐて仏壇荘り方の儀是迄諸山と相違仕り罷在り候処、此度和融相調ひ諸山同様の荘り方左の通り申し上げ奉り候。
一、三宝、須弥壇      高さ五尺余。
一、持国毘沙門       台座高さ三尺。
一、四菩薩         同   弐尺五寸。
一、不動愛染        同   弐尺八寸。
一、御祝牌         同   弐尺五寸。
一、祖師、木爪厨子     高さ五尺内四尺、奥行弐尺五寸。
右の通り荘り方相改候上は雙方申し分御座無く候、尤諸尊四菩薩並に御祝牌損じ之有る分追々荘厳修覆仕るべく候、以上。
   寛政九年巳十二月十八日          十五本寺惣代、妙覚寺日●代、本隆寺日東印、本法寺日導印、
                         妙顕寺久遠院印、本能寺本樹院印、会本、妙伝寺玄祥院印。
               要法寺前々住日住印、同前住日立印、同塔頭役者本行院印、同塔頭惣代信行院印。
   御奉行所。                                
 口上書
一、要法寺仏像荘り方近年諸山に異戻仕り候に付き終に御達しに及び段々御苦労に預り星霜移り罷在り候内右荘り方等相違の始末御尋ねに御座候処、駿州富士郡上野大石寺門流の由彼是宗義申し立て候へども、寛永寛文の御定目之有り、其上要法寺三十代日良時代に至り荘り方等改め末寺並に檀家迄も条目書指出し候趣きにて巳来十五箇寺と背き候事と相聞へ候間、荘り方相改むべく候の趣き段々御利害の上猶十五箇寺よりも申し談ずべきの旨仰せ渡され候に付き、之に依て法義心得方の儀対談和融巳前の如く仏壇荘り方等本来一統相改むべき旨相究まり、則一昨十八日要法寺荘り方等御役人中御見分成下され候通り相改め候上は、諸山に於ても申分御座無く宗旨の眼目本尊の処相改め侯へば諸山と相違も御座無く、猶相改め候儀も之有り候はば十五箇寺よりも心を附け巳来新義に相当り候筋聊も致し申すまじく重々御教示の段急度相守らせ申すべく候間此上御憐愍を以て日住日立其外御吟味御下げの儀御聞届成し下され候様諸山一統願ひ奉り候。
何卒右の趣き御聞届け成し下され候はば忝く存じ奉るべく候。
   寛政九年巳十二月廿日         法華宗十六本寺、十五山各連印。
           要法寺前々住日住印、同前住日立印、同塔頭役者本行院印。
   御奉行所。

六、江戸寺社奉行に出訴する為に添翰願 写本要法寺に在り、寛政九年末の如上の十五山との済口は本山当局すら暗涙を呑み悲憤の中に不得巳的の解決を為したるに況や地方純潔の僧俗に於いて此を甘受する者あらんや、殊に翌十年正月の十五山会本妙伝寺より雲州要山末寺へ本尊改奠の直接下知状は大に其不平を激発せしめ卅九箇寺連盟して陳情 書を作り惣代を上洛せしめて大に本山に抗議し、更に引き続きて厳促したるも要山にては慰撫すべき術に尽きたりと見へて確答を延引したるも、鎮静の色見へざれは遂に同八月に慧光院を特派して鎮撫に当らしめて猶和融に附いて改め三箇条を申べたるを以て、同九月には妙仙寺が雲末惣代として開山巳来の法式を破壊する事の不服を上申したり、爰に於て要山にては凝議の結果京都奉行の上司とも云ふべき江戸寺社奉行へ出願するの一法あるのみとして此に決し、自成院一円坊の役者出頭して左の願書を呈出して、首尾能く添翰を下附せられたとの事である、此に付いて途次大石に立ち寄り協議したる等の事は、次の七、八の相師量師の状中に見ゆるのみの如くなれども、江戸の訴訟約半年を費し最後吹上御苑に於ける将軍の直聴にて脇坂淡路守の辛棘の裁断までの波瀾重畳の苦心後、東に京都奉行所を煩せし等の事は此を富谷師の寛政法乱の明細なる記事に譲る。願ひ奉る口上書
京都十六本山十五本山より要法寺法式怪異の風の旨申し立て四箇年巳前卯年菅沼下野守様御役所え願ひ出で候処、早速要法寺一山残らず御捕えに相成り先住日住拙僧両人並に一山共訴訟方十五山え御預けに相成り要法寺えは僧俗壱人も立ち入り候義御差留めにて十五箇寺より厳重に番仕り候仰せ付けられ追々御吟味之れ有り候に付き口上書を以て草創巳来日興門流の法式委細申し上げ候処、其の後三箇年巳前辰極月廿四日御召し出しに付き要法寺法義は駿州富士大石寺の法義を相続仕り候趣き又々下野守様え申し上げ候処、其の後は何の御沙汰も之れ無く候処、巳の年下野守様御帰府の後霜月西御奉行三浦伊勢守様え召し出され、要法寺仏躰安置の儀に付き和熟仕り候様仰せ付けられ候節、亦々大石寺法義通り申し上げ候処、先達て大石寺の法義申し立て候に付き江戸寺社奉行所より大石寺え御尋ね合わせ之れ有り候処、大石寺より要法寺の儀一言の請け合ひも之れ無く候由仰せ聞けられ倒惑仕り候て終には十五山の申す通りに和熟の済状差し上げ候。
之に依て御預け等御免成し下され候義は有り難く存じ奉り直ぐ様大石寺え登山仕り江戸寺社御奉行所え書上の趣き尋ね合せ書上の控披見仕り候処伊勢守様仰せ聞けられ候通り大石寺の書上一向其の意を得ざる事のみに御座候、其の趣きは先血脈相承の儀何れより仕り候や存ぜずと申し上げ候段第一に相済み申さず候。
次に上行院開基日尊儀は大石寺日目剃頭の弟子にて日目弘通の本懐を相達し建立仕り候上行院の開基も誰れと申す事存ぜずと書き上げ候義相済み申さず候、扨寺何箇寺建立仕り候や存ぜずと申す事是れ又相済まざる事に候其の子細は大石寺十八代日精と申す住持の書物に日尊祈祷の為に日興書写し玉ふ所の本尊三拾六幅を日尊に賜ふ所なり、然るに日尊建立の寺庵又三十六寺なり函蓋相応せる事誠に不思議なり凡慮を以て測量すべからずとは此の謂ひか、正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し玉ふ、此書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり日目日代日順日尊の外漫りには相承し玉はざる秘法なり巳上。
右の通り明白なる証拠大石寺に之れ有り候事を何故に血脈相承何れより仕り候や存ぜずと書き上げ候や甚だ不届の至に御座候、其の上大石寺十四代日主代天正十五年大石寺要法寺両寺一寺和合の為に日目上人の書写の本尊を大石寺より要法寺へ相納められ候事其の本尊の裏書の記文明白に御座候、猶其の上に大石寺十五代日昌より廿三代日啓迄九代の間要法寺より相続仕り候事伝説にて大石寺一山檀家迄連印の請待状当山に之れ有り候へば右伝説は慥成る義に御座候。
其の上只今にても法義通用仕り住持に成る等の儀も届け合ひ年頃書翰等迄取り替はし申し候、眼前の事にて宗躰法式大石寺同様に相違御座無く候、然るに要法寺法式等の儀を旧記等種々僉義仕り候へども相知れ申さず候由書き上げの段不吟味の至りに存じ奉り候、之に依て今般江戸寺社御奉行所に於て駿州富士郡上野村大石寺と拙僧対決仕り候て要法寺の血脈相承の系図宗躰の儀御糺しを相受け日興門流一同の法式通り仕り度存じ奉り候。
之に依て江戸寺社御奉行所え願ひ出で候其の写し相添え願ひ上げ奉り候間恐れ乍ら御慈恵を以て御添翰成し下され候様願ひ上げ奉り候、以上。
   寛政十年戌九月日         要法寺先住日立、付添役者信誠坊。
   御奉行所。

七、大石寺日相状  寛政法乱の余波をくつて宗判に悩まされたる蓮華寺寺檀を代表して増田寿唱が本山に訴へたれば、新貫首相師は此が為に江戸へ密行して方策を立てられ旁要山側の江戸に於ける動静を報ぜられたるの状、寛政十二年閏四月四日附のもの時の扣書雪山文庫にあり。
此状に依て知る事を得るは相師始め石山側にては此度は公私とも命懸の大事業と警告したる事なれば中途にて又亦和解屈辱の醜躰を見兼ねたる事、従つて爾後の雲州末徒の行動がさしたる誠意も無きに既に謬りながらも要本山の取りたる方策に反対するの無益なる事、蓮華寺寺檀の宗判に迷ふ事は一大事なれば其運動の瀬踏に役寺住持と懇意を憑りに相談したる事、此時計らず本件は表面は要山の破約(造仏撤廃等)に乗じて此を徹底的に迫害するにあれども、妙顕寺妙覚寺の底意は十六山中の勝劣派全躰を一致派殊に四海唱導の日像門下に統合せしむるの大々野心ありし事を役寺(勝劣陣門派)より聞ける事等が述べられて、末に天台宗天鷲寺の事あり是聊か解説を加ふる用あるべし、既に前の第五章石要関係の下にある蓮華寺日命の条の通り同寺は要山下の大寺なる天満蓮興寺と両寺一寺の如き状態にあり、開山日命は寛政八年(法難当初)に帰寂して徳川幕府時代寺院一般の生命たる宗判は末だ蓮華寺に特有せず大阪三郷の檀那は一に先住寺の蓮興寺の受持の儘なりしより、要山が弥よ最後に十五山に屈伏し末等も亦抗議するの余地無きに至るや、彼等(大阪卅七箇寺組合)は要山を引掻き爪を蓮華寺にまで延ばしたるに蓮興寺にては惣べて組合の御無理御尤で何の配慮も成し難く、組合にては若し強いて宗印を従前の如く蓮興寺に為させん考ならば蓮興寺の如くに造仏を荘り部経を読み黒衣を着して表面だけは大石寺の作法を脱すべしと難題を持ち出され、時の住職日進の数回の叩頭も何の益にも立たず却て蓮興寺檀那の斡旋にて天台宗輪王寺宮の直配と云へる天王寺の天鷲寺に交渉し、同住職も蓮華寺寺檀の差当ての窮状に同情し宮様の認可を得て宗判を預り呉るる事となりて一先づ安堵したるなり、此等の扣書雪山文庫にあり。
猶相師は寛政十一年の春まで常泉寺に住し同十一月方丈に入院せり(宗史部一の四二〇頁)、文中要山の両隠居とは日住日立の両師にて事件中は無住にて院代を置きたれば両隠居は止むを得ず内外の矢表に立ちたるなり本山の両隠居とは日●日純の両上人なれども純師は病躰にて下坊閑居の身分なれば殊に●師は老強長命なれば動もすれば表面に立たれしなり。
江戸表の様子荒増を申し進じ候。
一、野生儀今般江戸表え下向の趣き承知致され直に此表まで其の他の様子早速委細に御申し越し給はり忝く披見承知致し候。
右御申し越の趣きに候へば要法寺諸末寺までの成行き取締も之無く乱放の次第誠に歎かしく気の毒千万に存ぜしめ候、尤も去年中当地に於て両隠居等願ひ下げに致され候節より此の如く相成り申すべき事相知れ居り候故及ばず乍ら野生儀右の段種々申し聞け候へども、曽て承引之無く、殊に願ひ下げの願書に日眷の法令を以て諸末寺え下知致すべきの文言後日の憂に相成り申すべきの段達て申し入れ候へども、元来日立師の心底は此文書を以て諸末寺を取りおさえ候積り故強て自身右の文言を書き入れられ候事故、唯今の通り難儀に相成り候事其の時分より眼前(前)見る様の事に候へども一向に用ひ之無き故、願下の心事に相成られ候ては何事も野生儀一向構ひ申さず見居り候処唯今加(斯)様相成り別して取静め難儀の躰に相見え扨々気の毒に存ぜしめ候、然し彼等の衆は自分の好きにて致され候事故是非に及ばざる事に存じ候。
然し乍ら右の余分其の地え相懸り十五山門流の輩勢に乗じ利慾無慚の奸僧ども種々の邪計を相巧み色々の難題申し懸け蓮華寺並に其の元方の難儀に相成り候段扨々迷惑心配の段遠察申し候、右の趣き両度迄本山え御申し越し給はりし故年来本山え勤功の面々今度難渋の旨誠に見るに忍び難く存じ宜しき工夫も之有るべくやと存じ種々内談、両御隠居師えも相伺ひ候へども、何れ当地にては宜しき思案も之無候故、江都表え罷り下り役寺触頭芝長応寺は公役十三箇年も相勤め候老僧に候へば是え篤と折入て内談致し願ひ出で候て宜き手筋に候はば直に願ひ出で申すべく、若し復願の旨相叶はざる時は何卒拙宗寺宗旨立義の通を以て預りくれ候様何れの寺成りとも、直に御奉行所より仰せ付け下され候旨相願ひ申すべく、若し夫も出来申さず候時は役寺触頭の同末宗印相聞き候寺御座候はば是え折入て相頼み申すべくと存じ種々思案致し、先月十四日に本山を出立致し徒歩にて甲州通り内密に罷り下り小梅常泉寺え到着致し先月廿一日に芝長応寺え罷り越し申し候、長応寺は野生儀少々懇意の事故、直に面談致しくれ候間大阪表の様子委細に相拙し本末甚だ難儀の旨相歎き折入て相頼み候へば。
長応寺申され候は至極御尤の事結構の願に御座候へども決して相叶はざる願に御座候、夫とも達て相願はれたく思召され候はば随分奉行所えの添翰等は進上申すべく候然し叶はざる事を願ひ出づるは無益の事に候、其の子細は某の本山末寺大阪表に一向之無く此事難儀に存じ先代浄土寺を相求め成せい寺と申す新末寺出来候へども町方宗印相聞き申さず、此の儀又難儀に存じ居り候処、同末丸山本妙寺檀那久世大和守殿大阪御城代の節御愛子御不幸に付き成せい寺え葬送仰せ付けられ候故、時の住職も御信敬に相成り候間此を手懸りに致し右成せい寺町方宗印の儀相願ひ出で大和守殿にも色々骨折り御世話下され候へども終に出来申さず候故拠ろ無く京都十六本山の内本立寺末寺え預り檀那に相頼み置き申し候、右の次第に侯へば此方にても色々に相願はれ候ても是非大阪御奉行え聞合に相成り候間、折角相願はれ候ても決して相叶ひ申すまじくと段々道理合を申され候故。
野生申し候は新寺町方宗印の儀は古例も御座候て相叶はざる趣き兼て承知仕り候、然し乍ら右の通り相願ひ出で此の儀相叶はざる時は何卒御慈悲を以て拙寺の宗旨立義の掟通りを以て預かりくれ候様に御奉行所より直に仰せ付け下され候様に願ひ出で候ては如何に之有るべく候やと申し候へば。
長応寺申され候には其の儀も先づ此の度は出来申すまじく候。其子細は京都十五山と申す内にも妙覚寺日●本立寺日東等は世事の利慾を専とし他門への外聞も相構はず年来巧みに巧み候て仕出候事故、表面は要法寺を相手取り候へども、本来は妙顕願寺に之有り候四海唱導宗号免許の綸旨を以て惣勝劣一派を相破し一統の一致派に致したき願ひ差出すべきの心事の旨眼前妙覚寺日●等当寺に於て申され候、然し此の儀は決して出来申さず候旨某に申され候故一向申し出さず唯要法寺の事のみにて退出致され候、依て彼等は此方より手出を幸に相待ち多勢を力に相手取る心事に候へば此の節願ひ出で候ては何事も成就申すまじくと存じ候、殊に法義の願と相違し檀家取遣りの儀に候へば檀家より直に願ひ出での義は格別檀家の離不離を寺より願ひ出で候ては利慾向きに相当り候故決して勝利有まじくと存じ候、殊に彼等は大勢を力とし高位高官奉行役人に手筋之多き故色々内事頼み置き勢強く候へば、法論の事は格別世事向きの事にては中々彼等に及び申すまじくと存じ候、其の上去冬も又十五山要法寺江戸出訴に及び裁許破りの御叱りにて願下げに相成り帰京致し候、此の如く度々出訴に及び毎度首尾宜しからざる故耻の上塗りと相成り候上次第に怪み懸り次第悪しく相成る姿に候、此の儀要法寺門内計りの耻辱に非らず惣じて勝劣一派の惣耻辱に御座候、其上又大石寺まで願ひ出で相叶はざる時は還て悪評相出で又々大外聞に相成り候間篤と御思案分別肝要に存じ候、此度誠に大事分別処に御座候間必ず必ず怱卒の事成されまじく候、所詮向ふの勢強き時申し出で候ては多勢の事故中々及び申さず候間先づ帰山の上篤と相談致され能く能く物に馴れたる僧を大阪表に遣し置き彼等の様子を能々相伺はせ何ぞ手懸り落目を見出し其の節願ひ出で候はば然るべくと某は存じ候と、長応寺委細に咄し申され候。
右の趣き帰宅候て段々相考へ候処至極尤の事に存じ候間先づ願ひ出での儀相止め何ぞ能き手懸の儀と存じ色々工夫致し候へども宜しき手筋も之無く、唯御本丸奥向に小々内縁之有り幸に参詣申され候間野生儀面談致し頼み申し込み候へども、要法寺異立の怪み甚だ強く御座候故此え立障りの寺方までも宜からぬ様に思召され候故か、又は近年江戸表諸奉行奥向きまで厳重に御座候故か一向に御取持之無く候、右の趣きに候へば何の道当時急に取騒ぎ候ては宜しからぬ様に存じ候間、兎角に先づ穏便に致し彼等に我儘次第致させ何ぞ手懸りの儀出来候時を相待ち候義然るべきと存ぜられ候故、早速帰山致し此表の次第委細に両御隠居師へ申し上げ篤と御差図相伺ひ早速其表え申し進すべく存じ候処、此度当表まで委細に御状給はり候故先づ早々乍ら此表の様子荒増を申し進じ候間左様御心得給はるべく候。
一、其の表蓮興寺の様子委細に御申越し逐一承知致し誠に断絶同様の躰に相成千万歎かしく気の毒に存じ候是併し近代日良師の積謗当時両隠居の不所存故、京地尊門流断滅相成り右三師の法罰生々世々恐ろしき事に存ぜしめ候。
一、諦善会通両僧の事御申越し委細承知し候、尤御申越しの通り両僧共に江戸表下向の上馬喰町辺の旅宿に居住の由にて当寺へも参詣いたし如何して今般野生下向の様を相知り候や目通り致したき願ひ達て申され候故、則面談致し様子承り候へばやはり円頓寺一乗坊願ひ出で候通に御座候由に申され候間、野生申し聞け候は其は決して無益の事に候此上何万人願ひ出で候とも肝心の本山要法寺貫主願ひ下げ和熟の書付に日眷法令等の旨書付差上げ置き候上は、如何様に願ひ出でられ候とも決して相叶ふべき筋之無く候申し出で候へば申し出で候ほど要法寺諸末寺まで怪み懸り行末立ち行きがたく相成り申すべく候、例せば牛の角の曲を悪んで是を直さんとせば還て牛を殺す譬の如くに御座候能く能く思慮分別考弁専要と道理合を申し聞け候へども得心の躰相見え申さず、雲石両国の面々下向の程を相待ち申さるる事にて今に得(能)願も差出申さず唯空く逗留の躰に相見え申し候、但し此事は余りに募り申され候はば末々大難儀に又々相成り申すべくと今から気の毒に存ぜしめ候、其故は理合も無き事を余り度々願ひ出で候はば江都御奉行所にも役(厄)介に思召し要法寺諸末寺ども改易にも仰せ付けられ候様の事も出来申すべきか、又は取上げ十五山え下され候様の事も出来申す辺も之有るべくやと甚だ陰乍ら案じ申し候、仍て序も候はば此の旨大量の僧え申し聞け先々穏便に致し遠慮を廻らし候様御申し伝え給はるべく候。
一、円頓寺一乗坊当春二月江戸表へ出訴の旨御申し越是又委細承知致し候、彼の衆は元来俗物異立躰の心事故野生本山並に江戸三箇寺えも一向沙汰之無く橘町重兵衛と申す異立の張本者を相頼み出訴に及び候と申す事に御座候、然し乍ら是も極謾情斗りにて決定信力微塵も之無く候故入牢堪へ難く願ひ下げにいたし其地に聞え候通り奥州辺え下向申し候由、右の諦善会通の咄に御座候。
一、雲石両国の諸末寺と本山要法寺と対談の一件御申越し是又逐一に承知致し候、然し乍ら是又無益の論に存ぜしめ候、肝心の本山要法寺加様に相成り候上は末寺として如何様に申し出で候とも相叶ふべき道理合決して之無く候、たとへば法門にいたし両御隠居師に相勝ち候とも唯血で血を洗ふのみにて本来の通りに相成ると申す訳合決して之無く候、夫より所詮かく相成り候上は何事も穏便に致し内密に遠慮を廻らし宜しき工夫も之有りと相存ずる事と及ばず乍ら存じ候、然し乍ら右の面面も是非江戸出訴の思立ちと相見え此表下向の諦善会通相待ち候趣きに相見え申し候、然し江都出訴に相成り候はば願の旨相叶はざるのみならず還て又々外聞耻辱気の毒に存ぜしめ候。
一、三月廿三日廿九日に組合寺より蓮花寺並に其方々え懸合の義御申越し是又委細承知致し候、誠に彼等は世慾邪謀理不尽千万の段愚俗にも劣り候次第と存ぜしめ候、然し乍ら上来申し進じ候通に候へば此方より手強に荒げ立て候ては仕損じも之有るべく候間兎角穏便に遠慮を廻らし御工夫の事専一と存じ候、扨又天台宗独印の天鷲寺え取締の趣き具に御申越し委細承知致し至極結構の工夫と存じ候、此の儀出来候はば他処えも差支之無く重畳の事に御座候間何分宜く取締給はり候様偏に頼み入り申し候、右の取替はしの証文の下書等丁寧に写し送り給はり委細披見致し結構の事に存じ候、此方にても種々手懸り相考へども上来申す如くにて宜き手懸りも之無く其元え申し進すべきの力も之無く扨々難儀至極に存ぜしめ候。
一、各々三家の蓮興寺よりの送状遣し給はり是又慥に披見申し候。
右は此度江戸表の様子承知致されたき旨御申越し候故早々大略を申し進じ候、委細又本山え帰山の上にて両御隠居師え篤と相伺ひ候て亦復申し進すべく候間左様に御心得給はるべく候、以上。
   (寛政十二)閏四月四日認む。           小梅常泉寺にて日相。
   増田寿唱老。

八、大石寺日量状中より抄録す。 京都住本寺信徒丸本善了より大石寿命坊に退隠中の日量上人への尋問に対して嘉永三年二月の返状なり、正本雪山文庫に在り、寛政法乱の影響は住本寺に及ばず創立の始より要法寺より好感を以て迎へられざる始末なるが故に、表裏とも関係無かりしにも依るが別して此時は事件を距る五十余年後なれば殊更ながらも、南部の泰雄坊京都に出でて要法寺役僧と交渉ありし為に同僧が丸本方に来りて大石の悪評を為せし事について十箇条の間目を念の為に量師に呈せるなり、中に要山立師等が江戸出訴の途次石山に詣りて●師等の意を受けたる記事は直接の関係にして、一要の量師も或は在山せしやも知れず、今引文の初頭に「第一」等と書せるは其間条にして、答て云くとあるは量師の教示なり但し第三の下のみは惣べてを第四に譲りての略意なり、又一、二、七、十、の如きは本章に関係なければ此を省けり。
「第三」一、当山と義絶は、公事後より先約に相違の事故なり、右は次下に顕し申し候。「第四」一、公事の節の上京は理境坊にはあらず番頭観行坊日陳伴僧は愚老一要と名け廿六七歳の時なり当年八十歳なり。
「第五」一、御山の御本尊様並に御両尊とも大阪蓮興寺檀家頂戴之有り候処是を廃し要法寺本尊遣はし候之に依て蓮華寺日命師御説法の砌り右を大いに折伏成され候趣き承り及び候。
答て云く当山の御本尊を取除く事は大阪の檀中に限らず京都雲州丹後等数多なり。
「第六」一、同寺日立公事の節登山致す其の砌り御意には、身命を捨て候はば御加勢遊ばざるべき旨仰せ聞けられ候由、前の寂日坊様御咄し御座候。
答て云く、身命を捨て候はば加勢致すべしと申され候事は、寿命坊に於て立師並に役僧秀存坊一円坊一誠坊「要法先代日●上人の事なり」、当山隠居●師純師、当職は文師、寂日坊等寄合の節、京都にて落著の処に江戸にて出訴候へば裁許破りに相成り候へば一度入牢顕然なり身命を惜まず押し切るに年月を厭はず相願はれ候はば加勢申すべし、中途にて願ひ下げ致し候はば外実共相済まず候間加勢致し難しと申し候事は励せの為なり、然るに右両人の役僧入牢七日も立たざるに宿院に無沙汰にて牢内より願ひ下げの願書出し候故、宿院江戸小梅常泉寺時の住持尚道院能化日相上人立腹にて止宿叶はざる段申し聞け候、全く当方より義絶致し候にはあらざるなり、委細は貞林坊に御尋聞給はるべく候、○。
「第九」一、公事の節日尊と申す僧御開山より御勘気を蒙り此方の僧に之無く候と、仰せ聞けられ候と申して御本山を御恨み居申し候、其節御見捨て候故に国政に責められ諸山に同じて止む事を得ず像仏建立黒衣着致し候と申し候。
一、公事の節日尊は開山より勘気を蒙り候故此方の僧に之無しと申し候事一向に承り及び申さず、只当門流の箇条を以て御尋に付き一々返答申し上げ、又要法寺所立の儀開山尊師巳来只今迄の次第存知の分逐一書き上ぐべき旨御尋に付き、○火葬致し日郷は富士に帰り日尊は師匠日目の本意を達せんが為め上京上奏を得、京都において上行住本の両寺を建立、○一寺となし要法寺と号し候、日尊上京迄の儀は存じ候へども其後は別格の事故逐一の事は存知申さず、当時の化儀化法は当山と格別の相違御座無く候と書き上げ候様に覚え申し候事、尊師巳後の事委くは存じ申さずと書き上げ候事は子細之有り、委細は貞林坊へ申し含め候間御尋聞給はるべく候事。

九、大石寺日霑の著書中より抄録す。京都播枝雙林寺臨道が大石寺に反抗するを教誨する為に異流義摧破抄を作りて反省せしむ、今引文は臨道が書に洛陽の風説に依りて寛政九年の事件の時大石寺が要法寺の危急を見捨てたものとして、非常に憤慨して其当時の大石寺貫首等を筆誅した箇条あるを、巳に事件巳来六十余年を経過せりと雖も、其評論の毒意ある事を摧破せられた一文なり、正本に准ずべき写本雪山文庫に在り。
○、夫れ要法精舎の下種家の清風を厭離して脱家の濁流に汚著せし事は、源と十四代日辰より始まりて其毒を門家に伝流せし事巳に年久し、故に諸山事を権門に寄せて終に脱家に降らしむ是本よりして彼れが自ら招きし災なり、況や彼等我等の諌るを用ひず竊に計つて和議を調ふ、此の時に至つて我徒如何に力を尽すとも焉んぞ救ふ事を得べけんや、爾るに彼の輩自己の臆病失計を●はんとして還つて吾山を怨●する者は彼等が癡情なり、○。

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