富士宗学要集第九巻

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第九章 尾張

 尾張に於ける本宗教義の伝播は天明度に其端を開きしが如しと雖も随喜展転の効顕著ならず、文政度に入りて江戸目黒の信徒永瀬清十郎の弘教に依り名古屋市中より始まりて城北に及ぶ、此時文政五年に名古屋藩の小吏高崎唯六の母たよ女等数輩が熱烈なる信徒と成りて六日講を組織す、其翌年清十郎は北在各村を遊化して(舟橋)儀左衛門(平松)増右衛門(岩田)利蔵木全右京等を漸く化了し、名古屋に入りて井上俊弥等数輩を化す、爾後清十郎の尾張に入る事再三にして玄妙房荘恩房等も来化し、本山隠尊なる日量上人等の懇接なる指導に名古屋にても北在にても重立つ者隠顕に随喜展転したる為に、一致勝劣の日蓮僧俗と再三法論を交へたるに、彼等却って弱劣視せる富士の新信士に●々難詰せられたるより遂に国制に託して寺社奉行の力を仮りて、内得信仰すらも容易ならしめざるの圧迫を与へたるなり、是等殆んど第五章金沢の法難と彷彿たる結果を来せり、此等法難が却って後信の北在に発したるは農夫の単純なる性格と境遇とに依り、藩士を主体とせる名古屋に後かりしは国制に通じたる士分の用意に依ると見るべし、此等細大の事件及び関係の人名等本編は簡約なる史料を主とするが故に脱漏の分あるべし、委くは解説を主とせる予が尾張法難史と同じく史料を網羅せる同史料とを繙かれんことを祈る。
猶金沢の法難については幸に同地の辻量義老が明治初年より調査せし記録あるが故に遺漏少きが如しと雖も、本章尾張の分に於ては何等纏りたる一般的に系統ある私記すら無く殊更北在分については官辺の好料乏しき事を遺憾とするものなり。
今予が法難史の区別に準じて第一文政度、第二天保度、第三嘉永度、第四安政度と次第す、但し嘉永度が頂上にして安政度は下り坂なり。
第一、文政度   尾張にては文政度を法難の始とすべき事再々の量師状に見へたりと雖も、其地名人名を明記さられず、漸く妙経寺蔵(今は扁額となれり風化を恐る畳んで帖となして永久保存の法を立つべきか)に於て儀左衛門(舟橋寿得)が法難の人たるを知るを得れども、其真相を具申せし状は存在せず又伝知の人も無く文献も得られず偏に後の研究を待つ。
一、日量状   文政九年十一月十八日に本山隠居日量上人より名古屋市の本因妙講中なる井上浄種及び服部観底に充てたるものより採録す、正筆は開源行道記の中に綴輯したるもの妙道寺に蔵す、文中の方丈とは当貫首日荘上人にて量師は寿命坊に隠居せり、加新とは或は名古屋に於ける入信の卒先者高崎たよの兄なる中村新兵衛か、米茂とは米屋茂兵衛であるが、北在の一人とは不明なり、本因妙講中は高崎たよ等の組織したる名古屋講中、井上浄種とは平左衛門、観底とは錦屋金七なり、本因妙講は後にはたよの長子勝次後に唯六が専任したるも始は金七平左衛門等が主管したものと見ゆ、尚本状には年記無し内容によりて文政九に繋けたるなり。
一筆啓せしめ候、然れば今般其国許北在の講中に不慮の法難、公辺差起り候に付き、加新、米茂両人去る夕山著、又今日北在より一人登山にて委細之を承知し驚動の至り案事入り存じ候、之に依て方丈に申し談じ今日戒壇大御本尊御開帳、満山出席、今般法難の面々早速申し披き相立ち無難に相済み弥以て宗祖開山の御本懐其国に光顕し順逆共に本因の仏種を相結び候様御祈祷申し上候、大聖人御入滅後法難に逢ひ候真俗数多に候へども或は一致或は八品又は新義異流等の迷乱邪曲より起る処にして真実の法難には非らず、今度の法難こそ正法正師の正義より起る処、御入滅後二陣三陣の法難に候へば倍す退転無く信心を励まし候の程希ふ所に存じ候、〇。
二、日量状   文政十年廿三日の状にして宛名前に同く共に妙道寺に在るより摘要す。〇、右一件日々申し暮し案事罷り在り候処、今般浄本殿より委細浄心方へ御申越し給り逐一之を承り及び格別の御咎も之無き様子御利益と悦入り存じ候、当方に於て朝暮勤行の刻怠らず御祈念申入れ候、〇、向後随分御内密に穏便の御修行専要に存じ候、〇、加州信州其外内得の者始め強く責め後には穏便皆同様の事に候、〇。
三、浄心状   浄心は永瀬清十郎の法名なり、文政十年三月二十五日の状浄本本種観底並に惣講中に宛てたる前と同く妙道寺に在り、浄本とは前状にも在るが高崎唯六の法名であるが、同人は壮年ながら吏務に長け世故に行届き自然名古屋北在総信徒の帰する所となりし様にて、浄心も別して頼みとせし事文中に顕はる、殊に名古屋には藩士多くして政務の関係複雑なる故に平素各般の用心行届き、北在には殆ど農民なるが故に単純に行動する辺より法難を誘発せし傾きありしなり。〇、先達て御状に仰せ候様、皆法華経の邪難には無くして、皆私の僻難なり、巳前よりも貴公様方の仰の如くに仕り候へば斯くは御座無く候へども、私はじめ不行届殊に野人の習は只私の義に募り却って智人を恨み候、然りといへども智人は愚人を和すが世の習に御座候故、何卒此上も北在等退大取小の無き様に願上げ奉り候、万事に就いて浄本様観底様本種様等の貴意に任せ御取立下さるべく候、中にも高崎氏何事に付ても行届き候間、観底子本種子思ひ合せて異体同心に頼上げ奉り候、今に役所向も相済まざる由誠に気の毒千万の事に御座候、〇、一刻も早く御本尊を御迎ひ遊ばされ候て境智冥合の御信心専一に存じ奉り候、〇。
四、日量状   文政十一年極月八日に北在の舟橋寿得への状、妙経寺に蔵するより摘要す、寿得は小木の儀左衛門にして北在信徒の長老、増衛右京理蔵の三頭の先輩、又後に出づる小出正作の実父にて正作は土屋日柱上人の祖、猶寿得は今の舟橋安太郎の祖である。〇、去る戌年の御法難の趣き委細御申越し給り承及び候より、大変の儀一切世間多怨難信猶多怨嫉況滅度後の経文は御身読末代珍らしき不惜身命の行者と感心の至りに存じ候、〇、右京殿理蔵殿等始め別して深信の衆中へ愚書用事宜く御伝声頼み存じ候、〇。
第二、天保度   天保度の法難については前と同く公私共に明確の文献無く、天保九年に当る浄心状に当春の法難と云ふ文字ある位にて他には其事蹟を認むべき私文献すら存在せざれども、平松増右衛門の日記の中に寺社方関係の記事あり、殊に自ら名古屋寺社奉行所に招喚せられ長日御吟味を受けたる事、及び岩田理蔵木全右京の寺社方関係の事ども其片鱗を見る、殊に右京の理太夫に於ては其前巳に法難にも遭ふべき素地ある文献あり、今此より次第に掲載せん。
一、木全理太夫より本山なる本遠寺に改信拒絶の状   天保元年六月廿四日、外山村妙楽寺支配にある 八幡宮の神官なりし理太夫(右京の神官通称)が、其妙楽寺関係本山なる熱田の本遠寺に提出せる覚書の案文が平松増吉方に在る分より録出す。但し右京の強信は随時随所に折伏弘教する為に一致勝劣派僧俗の心膽を寒からしめたるより彼等役寺ども聯合して本遠寺に招喚し、寺社奉行の命と称し理太夫に富士派大石寺の信仰を止むべく強制したるを以て、御教化ならば暫らく此を聴聞すべきも無理に御制止にては為ん方無しとて拒絶の口上書を呈出したるなり。
(天保元年)寅六月二十四日本遠寺に呼び出し教化願へども、致さずして改心致すべしと無理充てされ役寺等より申すに付き、本寺へ口上書き出し候事。
憚り乍ら口上を以て申上げ候事。
一、私儀富士派執心の儀に付き、御当山え御呼び出しの上、御奉行所よりの仰付の趣き御役寺様方より改心致すべき儀仰せ下され候へども、何分信仰の儀には之無く唯日蓮聖人の御本意と思ふ計りの儀に候へども、御役寺様方の御慈悲を以て御教化成し下され候様、段々願ひ奉り候へども、今般の儀は教化の儀には之無く改心致すか致さぬかの儀に候と仰せ下され候間、然らば先達て御当山において申上げ置き候通り心計の儀に候へは、何卒改心証文の儀は御免下さるべく候様厚く願ひ上げ奉り候、以上。
   (天保元)寅六月二十四日                  本全理太夫。
   御 本 山 様
外に心覚え、本山本遠寺逞師代、檀那寺妙楽寺相添ひ役寺法華寺本住寺大光寺常徳寺妙本寺病気に付き出席之無し。
二、平松増右衛門日記より   天保八九年分其孫平松増吉方に在るを摘録す。
(天保八酉年七月)二十八日 〇未時より雷雨、同刻島田治衛門様松下吉右衛門様並に檀那寺長遠寺相添ひ予が仏壇御改めの上、予を寺社奉行所へ御召連れ参上す、同夜岩倉兵吉方へ九兵衛と両人泊り、二十九日名古屋御園丸文へ九兵衛と両人泊り、晦日寺社奉行所にて御吟味、晩方九兵衛帰る。
八月〇朔日、寺社方休日、二日、寺社方休日、三日、庄屋代伊十郎名古屋寺社方へ参る。予御吟味、両人丸文泊り、四日、寺社方御吟味、雨降り伊十郎とも両人丸文泊り、五日、寺社方御吟味済の上、伊十郎とも帰村、忠右衛門、庄助、重右衛門見舞に来る。
天保八酉年七月二十九日より八月五日まで寺社方より止宿仰せ付らる。
丸文の宿は紅葉にさも似たり、客の意にあきは来にけり。
(八月)九日、〇、小牧利蔵儀寺社方より帰村と云云。
(十二月)五日、〇予木全願書の控え書き遣はす。
(天保九戌年正月)十七日、木賀宇右衛門、寺社方事に付き来る、十九日、寺社方より御呼び出し庄屋五右衛門添ふ。
(正月)二十二日、小折山田屋新七へ引かへかへ行く、予宗門に付き寺社方へ御呼び出しの義、小牧へ伊衛門達し。
(四月)二十八日、〇今日寺社方御役人衆、木賀常右衛門、源蔵とも宗門の御尋ねすぎ、庄屋長左衛門方にて御糺し済みに相成り、其後布袋野万屋勇右衛門に御泊り、予が事当庄屋へ御尋ね〇、他宗ゆへ存ぜずと庄屋答ふ、長遠寺檀方一人明朝連れて布袋野まで出づべしと云云、其時同檀方へ尋ね候へば増右衛門方に於て別条少しも之無しと答へ出で候、尤も庄屋伊衛門にて事相済む、二十九日の朝なり。
三、浄心状   天保九年に繋くべき五月に本山大石寺に在りし清十郎より名古屋の井上高崎等の十余名に宛てたる状の妙道寺に在るものより摘録す、文中に御両尊様とあるは当住日英隠居日量両上人の事、又北在の法難をも名古屋に波及せし如き噂ありし事と見へたり。
〇、是を以て思ふに当春の法難は各様不惜身命の御信心返す返すも世に有り難き事に御座候、〇、私其地を出立仕り候其後の法難は始終分り難く候、御両尊様にも如何候やらんと御案事遊ばされ候事浅からざる事に候、何卒其節より当時までの有様を御記し成され候て早速御送り下さるべく候、〇。
第三、嘉永度  弘化末年より嘉永の終りまで八年間殆んど寧歳無き長期の法難は尾張法難の絶頂にして又現今に残れる口碑は主として此時代のものと見るべきが如し、其文献に至りては名古屋分は悉く当事者の記録粗整束せりと雖も北在に到りては一般に観了し得る明細の文献無しと雖も、法華寺問答(決談記録)の如き部分的明確の記録あり、尤も遺憾なるは口碑に喧伝せらるる利蔵(浄俊)の頻死の拷問も国老山澄右近の一言によりて救解せられたる事が何れの文献にも片鱗も見へぬ事なり。
一、米野村善之衛門への誣告   増衛の拾載記に出づるより抄録す。午歳小利とあるより見れば弘化三年の丙午に当り、其次の理超の秋菊に寄せたる歌あれば九月十月の頃か、小利とは小牧の利蔵にて俳号を理超と云った。善之衛の法難再々なること次次に見ゆるが、此時は宗門改に当りて入鹿新田村の人々より善之衛は切支丹なりと誣告せられて直に吟味を受けたる其疑ひ晴れたるが故に訴人却って御咎めを受けたれば、如何なる愁傷面をしてるかと理蔵が狂歌したを増衛が記載した。午の年、小利、ぜん(善)の(之)へ(衛)をあた(怨)み過ごして咎め受け、どんな顔して入鹿(いるか)新田(しんでん)。
二、名古屋大光寺隠居菩提院の教化の失敗   一致勝劣の寺僧達は名古屋北在の正信の為に自己の耻を暴露せらるを恐れて百万此が鎮圧に努めたる中に、菩提院の荒立ぬ呉越同舟の軟談は何の効も奏せぬどころか、却って対論の隙を与へた形で奥座敷に逃げ隠れて幕を穏にしたやうが、次の狂歌にも見えているが此等は後々の伏線となった事は疑ひ無し、此に付いて初めに拾載記の弘化三年午十月二十三日の下の三狂歌を、次に増衛が嘉永元年十月に寺社奉行への答の覚書の一部を引く。もの(物)しらぬ大光寺まへからかみ(襖)を、立るより外立る義は無し。
大くわう(光)寺一致おかしゐからかみ(襖)を、たつ(立)るより外何としやう(勝)れつ(劣)。
対決をぜひ(是非)しやう(勝)れつ(劣)とで(出)かけ(懸)しが、逃げた大光寺一致をかしい。
三箇年巳前午の年十月二十三日の夜、八剣村長遠寺において、大光寺隠居菩提院講釈御座候に付き聴衆凡そ八畳弐間につまり、夫に就き小牧利蔵ヘは八剣村油屋豊四郎より呼状遣し申す由に御座候、私儀は檀那寺の事ゆへ聴聞に参り申し候、〇。
三、八剣村喜八常蔵の起請文   八剣村の常蔵は増衛の女婿にして喜八は其兄共に増衛の教化にて信徒たりしが、他の信徒と一同に寺社方の吟味を受け其指図にて熱田の本遠寺に廻され智定院の教導にて改信の起請文を出して事済となる、初の三項は増衛の日記より次の一項は同人の書籍抜萃の中の記文より抄録す。
(弘化四年十一月)八日、晩方八剣常蔵来り泊る、夜与平次来り即両人帰る、右は十日に寺社方へ常蔵並に喜八とも御呼出の事なり、〇、十二日八剣常蔵並に喜八御奉行所にて御認め候の由、〇。十三日、宮(熱田)本遠寺にて右両人智定院と対決。
十四日、右の趣き御奉行所へ両方とも申し達し事済み、酉時発足帰村す。
弘化四未の年九月晦日、始て常蔵御呼出し、再往、十一月十日右常蔵兄喜八並に市蔵平兵衛園八とも御呼出し、同十一日休日、名古屋本町杉之町東北角扇屋弥右衛門御用宿に居、翌十二日御呼び出し十三日本山(本遠寺)始末左の通り。
   起請文。   私共愚俗にて法義木像の三宝様を本尊と申す事を知らず、猶亦宗法に背く事を存知申さずして御公儀様の御苦労に預り奉り候段恐れ入り奉り候、且又御本山並に檀那寺の御教化に依り帰伏仕り候上は向後宗式堅く相守り申すべく候、依て後日の為に一札件の如し。   弘化四年未十一月十三日       丹羽郡八剣村長遠寺檀方、喜八、常蔵。
    本遠寺様日逞尊師、御役僧智定院様。
四、右京宗判を拒まれ遂に入牢の事   増衛自筆の国老人織田太郎左衛門石河出羽守(編者推定)へ内願書の長文の案より抄出し、又更に増衛日記の中より七項を抄出す、但内願書は事件の梗概を尽せる重要の文書なりとす、此内願の文中に前理太夫と云ふは南外山村妙楽寺側の法華八幡の社人としての通称を理太夫と称し来る故に右京が前理太夫で其子左京が其職を襲ひたれば此を理太夫とのみ称す、右京は船橋家の出にて兄浅右衛門(五代、今の鏡治の四代前なり)春山及び八右衛門と共に強信又法門家なりしなり、但し家職適せず徒に法華八幡の社人なりし為に常に其本山なる宮の本遠寺等に無用の迫害を受けて如何とも為す能はざりし事、内願書の文に明なり、此を以て尾張入信の大先輩なる高崎たよ女は曽て貧乏八幡の神職を放棄せよ然らざれば此が為に御大法を汚がす事あるべしと警告せりとの説あり、兎も角嘉永元年の法難は申の二月より十二月に亘り北在のみに禍せずして名古屋市に波及す、本状の中にては右京を主として善之衛利蔵其他に云為するも、内願の真意は善之衛等の放免せられたるを除き右京と利蔵との両人が別して首魁と目せられて長期に亘りての入牢拷問の宥免を親族中より願ひしものなり、猶善之衛右京利蔵浄健等の事は次項に更に委くすべし。
恐れ乍ら再三御内願を以て御歎き申上げ奉り候御事 春日井郡南外山村社人前理太夫事。右理太夫儀、日蓮宗門にて中ん就く富士派信仰の由讒訴に預り今晩寺社御奉行所に御吟味半、右此起りの儀は去る二月(嘉永元年)彼岸中、右妙楽寺に於て智定院と申す僧、説法の節同村法華講中惣代として金左衛門〇とも五人の者ども前理太夫宅へ参り申す様には、智定院と申す僧は案内の学僧に候へば何卒其許と竊に法門談じ合ひくれたき由相頼み申すに付き〇、其儀若し差し入組に相成り候ては宜しからざるやに存ぜられ申す由にて追々辞退申し候へども、〇、然らば智定院師にも柔和至極宜しく相頼み置くべき由慥に引合ひ置き申し候処、右智定院師は辞退にて、同十七日夜〇先方とも自然と道理に伏し兎角の応答も無く立ち帰り、翌十八日夜〇檀那寺妙楽寺並に智定院師弟子四五人に其余の講中ども付添ひ参り、前理太夫に問懸り申すに付き、竊に談じ合ひ申す〇悪口のみて打てよ叩けよ殺せよなどと動もすれば喧嘩下地に余儀無く茫然として差控へ居り申す内に先方ども漸々に立ち帰り、然る処翌十九日早朝前理太夫忰理太夫諸とも妙楽寺に呼び寄せ、智定院師申し聞けられ候様には、其元夜前懸合一条に付き其誤り証文差出すべし若し左無く候へば村方檀方内よりも其元宗判差留め之有り旁御訴訟致すべきかなど申し聞けられ候に付き、彼(理太夫)申す様には逆成るかな先方ども誤り多しといへども私に於て誤の筋御座無く候へば其誤証文得差出さざる由申し置き帰宅仕り候へども、又候右の趣き申越され候儀に付き彼(理太夫)申す様には右其儀先段申上げ置き候通に候へども、此上は然るべき様致さるべき由申し遣し候、之に依て智定院師妙楽寺へ彼が宗判留め立ち帰らる、〇。
去る五月十二日、前理太夫親子ども本遠寺より呼状来り候処、前理太夫病気に付き忰一人差遣し候処、〇智定院申し聞けられ候様には今般願面の趣き間違の筋之有る由申し聞けられ候義に付き、忰申す様には間違の筋少しも御座無く候由申し答へ候へば、右大勢の者ども口々に理不尽を以て取拉かんとのみ申すに依て何事も相分り申さず、尚又忰申す事一言も聞入れ申さず、其上止宿致させ、翌十三日又前理太夫罷り出づべき由に御座候処、前条御断り申し遣し候へば。
其後六月二十八日又忰儀呼び出しの上申し聞けられ候様には、其村方講中より理太夫退職致させ八幡宮は引揚げに相成るべく様仕りたき存念の由に付き其段出願に及び申し候間、其旨相意得べき由申し聞けられ候儀に付き、忰申す様には如何なる罪科の上にて左様相成るべきやと相尋ね申し候へば、其方に罪科之無く候へども父儀兼て誤証文差出ざる上と申し聞けられ候に付き、忰帰宅の上其段父え申し聞け候へば父申す様には誤無くして誤り証文得差出さざる由申すに付き、其段忰より本遠寺に申し達し候。
然る処八月二十五日寺社御奉行所の御意と申して前理太夫儀本遠寺に留置申す内、同二十九日本遠寺に於て〇至るまで八十有余の人数寄せ集め其席にて、智定院師始め彼是争論がましく申し懸くるや否や引続き三四人一同に言語を揃えて相尋ね申すに付き、何事も一つとして相分り申ざる間是又茫然として差控へ居申す、漸く有て彼れ申す様は可様犬群の喧すしき中にては相分らざる故に、恐れ乍ら寺社奉行所において静に御尋の事なれば御相手に相成るべき由にて物申さず候。
然る処亦復今般寺社御奉行所に於て前理太夫始め小牧の利蔵並に北外山入鹿新田の善之右衛門及び其外多人数御吟味、右は御奉行様御引取の後に重立て右善之右衛門などは無宿者御吟味の場所に連れ出し、不審なるかな無役の八剣村市蔵と申す者御同心衆様方に召連れられ半死半生の御成敗遊ばされ候義に付き、当時帰村仕り候へども病人に相成り申し候に付き農業等は扨て置き家内ども今日を送りかね目も当てられぬ次第、其同類多しといへども余は繁き故に相省き申し候。
右富士派の儀は先年御吟味以来御国制の御事と堅固に相慎み居申す事に御座候は無論に御座候、左すればこそ今般事の起り以来富士派の僉議とては曽て御座無く候へども誰人か疑念を専らとして方々へ膝まづくより事起り初発の趣意等閑に相成り事紛れて富士派僉議に打替り申し候。
然る処追々帰村仕り最早前理太夫並に利蔵とも残り両人に相成り右両人家内の者ども親族ども打寄り大に歎き申せども致し方も御座無候儀に付き、此上何卒前顕の趣き聞食し分けさせられ恐れ乍ら格別御威光の御慈悲を以て右両人とも早速事済仕り御蔭を以て帰村仕るべく様仕法偏に願ひ上げ奉り候。
右願の趣き御聞済成し下し置かれ候はば生々世々有りがたき仕合に存じ奉るべく候、以上。   (嘉永元年)申九月                      親族惣代。
五、善之衛浄健右京利蔵増衛の吟味拘禁拷問及び赦免   増衛日記及び拾載記より抄出して稍其輪廓を摸象し前の内願書にて確実に判推するを得たり、増衛は此年の十月迄は幸に拘禁を免れたるを以て平常の如く内部にありて官辺の運動を為し、殊に弥よ風雲急となりたれば各所に潛んでまでも内願書等に想を練りたる事日記に見る、善之衛浄健等の拷問の事は内願書にも拾載記にも見え、善之衛、右京、利蔵が次第に赦免せられて帰村せし事は其輪廓を日記に見る事を得、大地甚五の石川様行と略記せるは内願書に連関せるものと思ふ、但し内願書に依りて右京利蔵が赦免せられたりや、山澄右近の奉行への一言が動機となりて利蔵が赦免せられたりや、何れも明確なる文書に接するを得ざるを憾みとす、最後に増衛の招喚吟味が法華寺問答を惹き起したる事等次項に云ふべし。増衛日記より   文中鎌田とあるは小牧陣屋の目付役か社伴とあるは社本伴左衛門にて此亦目付役なり犬山の利助とは同所の重立つ信徒なり。
(嘉永五年戊申二月)二十五日、〇村仲新兵衛清兵衛両人来る、右京儀宗判入組に付き鎌田等立合に付き、〇右使来り候間即様出かけ社伴に寄り右懸合ひ小牧の利蔵方へ行き泊り犬山の利助等出合ひ談合ず。
二十六日、小牧より外山右京へ行き帰りに市右衛門方へ寄り又治衛門を呼び川端にて談ず。二十七日、市右衛門来る、又治右衛門呼び来り内談。
(四月)四日、外山右京来る、宗判入組み願書認め遣し。
十四日、外山右京師来る、書面下書認め遣し。
(八月)朔日、外山右京事に付き、両人右事に付き来る。
二日、夜分小牧の儀兵衛と外山ども両人右事に付き来る。
三日、予名古屋の杉の町小出正作公に行き右京伴ひ夜小牧の利蔵まで帰り泊る。
(嘉永元年八月)二十六日、〇未時米善来る八与を南庄に呼び八喜へ行き小牧泊り。
二十七日、〇又八常八与平次来る、〇晩方雨降り夜分村仲清兵衛始め共に三人帰り来る。二十九日、〇八剣にて内願認め遣し。
(九月)二日、予下奈良勘蔵行き種々書面書写す。
四日、〇常八下奈良に来る。予書面認め遣し。
五日、〇南治方に竊み居り種々之を書写す。
六日、〇南治方に居て右書読む、八剣へ要次郎遣し清四郎村仲に色々聞合に遣し候処、御同心様方名古屋へ御帰りの由。
九日、〇予西市市兵衛方へ行き御大事箱取り来る、夜分西市角右衛門外一人常蔵来る、今日米善名古屋より帰る由に付き右来る。
十二日、予再三内願書認め、布袋野太兵衛、小木八右衛門来る。
十三日、〇朝布袋野太兵衛方へ内願書持たせ遣し、〇西市角右衛門呼び来り再三内願書認め懸り。十四日、〇西市より再三内願書認め、〇八剣へ要次郎右書面持たせ遣し。
十六日、〇予小牧の利蔵方へ米野善之右衛門呼び出し、夫より右京方へ見舞に行き帰る。十八日、〇今日大地の甚五、石川様行の由。
二十八日、〇昨晩外山右京帰宅の由、小牧儀平告げ来る、〇。
二十九日、〇予昨日以来御大事願文下書す、小木村八右衛門並に常八来る。右は右京帰村の御礼廻り。
(十月)朔日、〇予小牧の利蔵方行き泊り。
二日、〇外山の右京へ行く、又小牧の儀兵衛へ寄る、〇又利蔵方に泊り儀兵衛へ願面認め遣し帰る。
三日、〇内に帰る〇。
五日、〇予平蔵とも八剣常蔵都合三人、小牧の利蔵儀昨四日寺社方より帰村に見舞に行き帰る。二十二日、〇寺社方へ御呼出し伊右衛同道〇。
二十三日、右寺社方にて御吟味。
二十四日、〇右同断、伊右衛門、三日振り帰る。
二十五日、〇右指図にて法花寺へ右京利蔵予三人聞に出で帰る。
拾載記より抄出す  総て引用の和歌狂歌俳句は敢て其秀逸を取るにあらず専ら史料として補へるなり、浄健の俗名不明なるは遺憾なり、二丁と云ふは増衛の俳名なり、伊右衛門は平松増右衛門の在所なる寄木村の庄屋五右衛門の代人なり。
右浄健、戊申(嘉永元)八月二十八日拷問一形ならず、たえ兼てはべる名古屋寺社方にて。者ならぬ憂きに我身をたへ兼て、祖師の恵みの深きをぞしる。
 同じ憂きに絶へぬ涙も時に慰める習のことも思ひ合せて。
斯くなれば浮世の事を打捨てて、唯此のりを頼みこそすれ。
 同じ善之右衛門、十有余日責にあへるを。
愚なる身にも御法を思ふゆへ、責を忍ばん人ぞ恋しき。
 右脇二丁返し。
のり故に難きを忍ふ身の上は、聖りのもとに心こかれて。
 右二丁始め同心の意を。
のり故に同し意を励まんも、聖りのもとへ一座なさんと。
 右事の起りを。
以て非なる物に真の思ひなす、不便と諭す人を怨んで。
六、三回の法華寺問答及び余波   初に増衛の日記及び諸案文集の中より、各信徒等の往復行動を示し次に決談記録に依りて三回に亘りし役寺等との問答が法華寺に於て寺社方役人の監視の前にて堂々陳弁否却て教導したる事を略記し、終りに問答後の増衛等の行動を示さん。
増衛日記より   (嘉永元年十月)二十八日、〇予抜萃目録。
二十九日、〇予御書抜萃目録昨日より掛り仕揚げ、昼から八剣常蔵書物持参〇。
(十一月)朔日、〇翌二日法華寺へ論談の為め罷り越すまはし(準備)に付きいろいろ手間取る、〇晩方より小牧へ向ひ出づ。
二日、〇名古屋寺町法花寺へ右京利蔵予とも三人罷り出づ方付かず、帰りがけ八剣喜八方に泊り。八日、〇予名古屋行きまわし、書面認にいろいろひま(時間)どる、晩方小牧利蔵方に行き泊り。九日、〇右京に寄り利蔵とも三人とも小出(正作)行き泊り、右え高崎公(唯六)御出会。十日、〇右京利蔵予とも三人法花寺行き前席の通り懸合ひ終り皆帰る、晩方雨少々降り予八剣喜八に泊り。
十一日、〇予八剣にて右法華寺三人懸合の書面認め戌刻時分終り帰る。
増衛の諸案文州集の中より   奉行所より役寺法華寺等に命じて右京利蔵増衛を役柄の上より訓戒すべく其為に其期間中は寺社方の吟味同然の格にて足留を命ぜられたれども此より再々法華寺に罷り越すべき事を、増衛の村の庄屋より小牧の代官山田に届け出たるもの、右京の外山、利蔵の小牧の庄屋よりも右同様の手続ありし筈なるも其文書は存在せず。
  恐れ乍ら御達し申上げ候事、    丹羽郡寄木村。
当村増右衛門儀、日蓮宗門の内富士派信仰の由にて今般寺社奉行所へ御呼出しの上御吟味中に付き遠方留仰せ付けさせられ候、夫に就き南外山村社人右京並に小牧村利蔵ども両人も右振合に付き得道の為め名古屋東寺町法花寺始め役寺共え申渡し置き候義に付き、右増右衛門も諸共相添ひ法華寺え罷越し篤と承るべき由仰せ付けさせられ候義に付き、追々聴聞に罷越し中に御座候、之に仍て御達し申上げ候。
   (嘉永元)申十一月             丹羽郡寄木村庄屋五右衛門印。
   山田貫一郎様御陣屋。
決談記録より法華寺問答を抄出す  此記録は増衛自筆の口書記録よりも明細にして又増衛の自筆に似たり雪山文庫に在り、次に略記する第一回の対談は文の如く役寺側に利あらず、第二回三回亦同じければ爰には単に梗概を要記するに止めて引文を避く、願くは予が尾張法難史及び法難史史料の一見を乞ふのみ。
十一月二日の第二回の問答は二箇の相承の大導師の対釈と録内目録の連名とで能化側の失敗となり、更に一期弘法抄を漠然と真偽未決に陥れんとしたれば、斯る一大事を数百年間真偽未決に放置することの不誠意を詰られて閉口の外無く、遂に今会の目的たる本尊抄の各問題は出ずじまひで、法華寺の老僧が腫物で長座が不可能とて切り上げし醜会なりき、十一月十日の第三回の問答は二箇の相承の余残と身延離山と御真骨との各問題で又々法華寺等が失敗し、殊に本要寺の如きは二箇の相承を宗祖の御真筆なりと肯定し、波木井日円入道の3箇の謗法をも是認したる等の錯謬を起すも、畢竟利蔵等の力弁に依るものとすべし。
此等三回を通じての寺社奉行より命ぜられたる役寺側七人の内勝劣側等五人は全部沈黙傍観の立場にあり、法華寺本要寺のみ其衝に当り映の無い事夥しく障子内にある寺社方役人達は此を不甲斐ものと煩悶せしならんが、漸く最後に国制を楯に取りて、富士派信仰は内得なれば表面各手継の檀那寺の作法に背くべからず、三人は万事意徳の事なれば間違あるべくも無けれども、多数の中には心得違ひの者も有るべし、常に教導して御上に御苦労かけぬ様にすべしとの、形式一辺の訓辞で此幕を切った、奉行役人も止む得ず此にて首肯したものと見るべし。
時に嘉永元年戊申十月二十五日、寺社奉行成田定之右衛門様の御命によりて東寺町法華寺におゐて決談の次第左の如し。寺社御役人衆土方吉六郎、種田定六郎右両人障子を隔て坐し給ふ。御役寺、常徳寺、勝劣京妙満寺門流、               増右衛門。
    本遠寺、一致京本国寺門流、               利蔵。
御役寺、妙本寺、勝劣越後本成寺門流、              木全右京。
御役寺、大光寺、一致身延山門流、                〆三人。
御役寺、本住寺、一致池上門流、法華寺日教、一致京本国寺流、本要寺日妙、一致、〆7ケ寺。時に法華寺、御奉行所より相渡る御書附け取り上げ申さるる様は、本尊抄報恩抄如説修行抄取要抄本尊問答抄一期弘法書、右の通り書附送らせられ候処、何上(故)の次第とも相分らず、又富士派の事は案内を知らざる間、其元は案内の事故其旨申し聞けられよと申され候に付き。
利蔵申し候は、御奉行様より御尋の趣き広宣流布の旨如何成る書に有りやと御尋に付き、右は安国論如説修行抄取要抄等に御座候趣きを申上げ候、又本尊の証拠如何と御尋下され候に付き、本尊抄本尊問答抄に御座候旨申し上げ候、是に依て右題号計り書附け遣はされ候かと申し候へば。法華寺申され候様、其本尊のこと其元尋ねたき旨夫々依文有るべし、其拠は何れに候や。利蔵云く、本尊抄一巻は通じて御本尊の御釈に候へば始より承りたく存じ候。
法華寺云く、偖て本尊抄残らずとは中々容易の事にあらず、健抄啓蒙其外八箇の相承等有る事に候、定て其分を尋ねらるべし。
利蔵云く、其分計りには御座無く富士門流におゐて御相承によりて御註之有り候故、何かと御尋申したしと申せば。
法華寺云く、然らば又後(あと)での事に致すべし、先づ其本尊とは富士の板本尊の事に候やと尋ねられ候に付き。
利蔵答へ候は、板本尊には限らず通じて大曼荼羅の事に付き引証仕り候と申し候へば。
(編者云く法華寺が本尊に能所あり、能とは釈迦如来、所とは題目にして寛政度の十五山対要法寺一件を持出したるを略す)
利蔵申す様、釈迦を本尊とする文証何れの御書に候や承りたしと申す。
法華寺申し聞けられ候様は、其れは何れにありといふ事忘れ申し候、当年七十三才に相成る事故何事も忘れ安きと申され候。
(編者云く右京の七面妙見の依文の尋に法華寺明答を為し得ず本要寺代りて不帰依ならば信ずるに及ばず等と云へる事は別本口書記録にあり此本には略せり)
法華寺申聞けられ候様は、一期弘法抄は如何。
利蔵答へ申し候は、一期弘法抄は御付属状にて此中に日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべしと御座候に付き、之に依て申上げ候と答へ候へば。
法華寺申され候様、それで相分りたり、先其元は最初何に依りて富士山大石寺を信仰致し候や、委く申すべき由申され候に付き。
(編者云く利蔵青年の時本郷隠居日明に通学して富士の義を知り後大石寺に入信したる事、日興上人大導師の事は日朗上人にも之有る由を法華寺が述べたる事等を略す)
利蔵云く、〇六老僧等同く法を弘る間、位に尊下なくんば天に二の日無く四海の内に●両主あらんやの祖命は如何が得心候や、〇、門弟等此状を守るべしの御意に随心仕らずば宗祖違背と存ずる間、是より富士流日興派を信じ始め候と申し候。本要寺云く、右の趣きなれば五老僧以下皆日興上人に随はでは叶はずと意得られ候か。
利蔵云く、御意の通りに存じ候。
法華寺云く、日明師は私も近付にて能く存じ候、右の趣き日明談ぜられた事も御座る、此に付き外に存じ候事もある間後日の席にて談ずべし、また観心本尊抄の事通じて談ずる様なれば其も後日の席にて談ずる間本尊抄所持有るべし、某も長席は腫物ができて甚こまる間今席は是限り、後日十一月二日に談ずべし。
その御意にて皆々帰り申し候。
増衛日記等により法華寺問答後の信徒の行動を抄出す  但し奉行所と役寺との中に三人の始末は如何にすべきやの交渉の文献を見ざれども、問答件は寺社方役人の臨監もありて無論役寺より形式上にも具申すべきが当然ならんも露骨に書き上げなば役寺の不面目にて仮令臨監の役人は如何様にすべきも奉行に対して申し訳無き次第なれば何れ遅々たるものであったか、十六日を経過して増衛が奉行所に呼出しとなりて其始末の尋問ありたれば、前に掲げたる決談記録及び此に付ての願書を提出すべく準備したるも、此或は役寺側よりの運動にて中止となりたるかと思はる。
(嘉永元年戊申十一月)十八日、〇外山左京義名古屋正朔(作)より御達し事催促に依て来る、之に依て予晩方小牧利蔵に泊り込み。
十九日、〇小牧利蔵子来り夜中帰る。
(十二月)二十六日、〇寺社奉行へ予こと御呼び出し庄屋代伊右衛門頼み出づ。
(嘉永二己酉正月)六日、〇予大切の書面昨日より認めかかり。
七日、〇予右書面相認め。  十一日、〇予八剣にて書面認め与平治こと小牧利蔵方まで遣はす。十二日、〇予八剣にて書面認め又与平治小牧利蔵へ遣はし予帰村、外山右京南山行がけ寄る。十五日、小牧利蔵御大事に付き犬山より帰り込み。  十六日、〇予書面写し。  十七日、〇予書面写し兵次郎を以て八劔に向け西市に遣し。  十八日、〇予書面写し。
十九日、〇御大事書き兵次郎にもたせ八劔に向け西市に遣し。二十三日〇予八劔へ御大事相談に行く。
(二月)六日、〇晩方より名古屋小出並に高崎行きがけ八剣泊り。  七日、〇右御両家行き。冩本集の中より   増衛筆なり、端書に、「此内願書差相止に相成り」とあり。
 恐れ乍ら御内願書申上げ奉り候御事。
私共儀日蓮宗門の内日興門流信仰仕り候儀に付き、右は寺社奉行所に於て追々御吟味成し下し置かれ候、其上旧冬法花寺に於て篤と法門聴聞致し得道仕るべき旨仰付けられ候儀に付き、右は有り難き御事と即十月二十五日並に十一月二日同十日都合三日の間法門談合仕り候、右の次第其節早速相達し申上ぐべきにや存じ奉り候処、右は法華寺様より委曲御達し下し置かれ候由に付き先々差控へ居申し候処、去月二十六日御呼出の節御尋の趣に付き右法門談合の次第書別紙一通相添へ恐れ乍ら今般御内願申上げ奉り候間、何卒厚く御勘考の御慈悲を以て早速穏和に事済仕るべき様御裁許偏に願上げ奉り候。
右願の通り御聞済成り下し置かれ候はば重々有り難き仕合に存じ奉るべく候、以上。
   (嘉永二)酉正月     南外山村木全右京、小牧村利蔵、寄木村増右衛門。
右内願書相認め候処相止に成り候。
七、高崎唯六の取調べ及び申渡し  唯六は曽て寺社方勤務なりしを以て其事務に暗からず、数々北在信徒にも忠告して成るべく事件を惹起せぬやうにしたるが如しと雖も、文政天保年度に再々の法難を来し嘉永の始に法華寺問答にも及びしには多数の関係ありし事をも根にして、其富士派の信行動作に細密の問条を発せらるる事三回に及び、其宗義信行に付ての熱心なる陳弁は寧ろ顧みられずして、信者達が瑣末の事と認めて餘りにも露骨に小割せる事情が御咎めの主体となりたり、唯六に次いで小出正作磯村与八郎も追々に奉行所に招喚の上に尋問を受け答申を徴せられ、其等の結判成らざる中に唯六病死せるを以て申渡は三人同時なりしかば、唯六の分は跡目の捨吉が承り人として受けたり、其文中に「急度申し付くべきの処病死せしめ候に付き其沙汰に及ばず」とある如く磯村小出増衛等並の押込の軽罪にはあらずして、或は扶持放れ軽追放等の罪目が宛てられたらんと思ふ、是即ち北在農民の妄動も唯六の指命の如く見られんとも限らざればなり。
本項に付いても法難史の方は取材簡に過ぎたれば此所には成るべく明細にしたり。
尚唯六の浄本日門が其子捨吉松次郎竹三郎お梅に与へたる大石寺上人絶待の信仰厳持の遺言を省除せるを憾む。
恐入留より第一回の問の分
一、嘉永元申十二月廿六日、寺社奉行衆よりの御封物、水野惣左衛門殿御渡の由にて、同役安藤清之烝より相渡「七時頃」候に付き、次記の通り御答書取調べ同廿八日右同人まで宜く取計ひ給はり候様申し添へ差出す。               高崎唯六。
其方儀日蓮宗にて押切本竜寺檀方に相聞え候処、駿州富士山大石寺開山日興門流を帰依いたし、此表同志の者取り結び居り候無常講え罷り出て導師相勤め読経済みの上祖書等講釈せしめ、縮意は日蓮相承日興壱人に限り候に付き右派ならでは成仏成り難き筋に申聞せ候由、且又右講中たりとも大石寺え参詣開扉等いたし貰ひ候儀行届かざる由に付き、其方え頼出で右山内寂日坊えの添手紙申し請け候由相聞え候、右は何故一と通りの者参詣開扉等差支へ候や添手紙は如何様に引合ひ差遣し候事や、且又日蓮正当月忌並に竜口の難日には講連中の者大寄と唱え其方並に小出正作磯村与八郎宅え寄合ひ候由、右講連中人別は誰々にて幾組之有りやの事。
右の趣き相尋ね間夫々答書小割に取調べ封物にいたし指出すべき事。
   (嘉永元年)十二月

                                     同上、第一回の答の分                            一、私儀日蓮宗にて押切本竜寺檀方(巳下前文を牒出したる此等の例文なり)幾組之有りやの事。
右の趣御尋に付き夫々御答書小割に取調べ封物に仕り指出し候様に仕るべきべき旨畏り奉り候。
右は御書付けの通り私儀日蓮宗にて押切本竜寺檀方に御座候処、駿州富士山大石寺開山日興門流を帰依仕り此表同志の者取結び居申し候無常構え罷出で導師相勤め読経済みの上祖書講釈仕り縮意は日蓮聖人の相承日興上人壱人に限り候に付き、右派ならでは化儀化法とも祖書に齟齬仕り候間成仏成り難き旨申聞せ候、且又右講中たりとも添手紙持参仕らず候ては山内に止宿は相成り申さざる由承り居候間、添手紙相頼み候者えは住所並に名前相認め身元慥成る者に付き止宿初め諸事右の者え尋問宜く取計ひ給ひ候様寂日坊え頼み遣し申し候、尤大石寺え参詣の儀は誰にても構ひ之無く開扉の儀は添手紙之無き者にても塔中相頼み候はば差支御座有るまじくと存ぜられ候、且又日蓮聖人祥忌日並に竜之口難日には講連中の者大寄と唱へ私方或は小出正作磯村与八郎宅え寄合ひ候人別等左の通りに御座候。
長囲爐裏御番、野間鳥蔵、大御番組、大野伝之右衛門、御鷹匠、富田金兵衛母量性院、同人叔母善友院、呉服方御納戸詰、小出正作、御普請奉行手附吟味方、磯村与八郎、御天子組同心、丹波勘蔵、山澄右近家来、真野勘左衛門、同、日比野林左衛門、栗木百助組御中間、細田亀三郎、町医師、青木道俊、織田太郎左衛門殿家来、米本又七、美濃屋仲蔵、右講組御座無き由。
柏屋太蔵、駒屋忠兵衛、大工惣七、大阪屋伝吉、綿屋源兵衛、岡崎万蔵、綿屋藤衛門、笹葉屋善七、右八人組の由。
美濃屋宇八、桧物屋金蔵、同平兵衛、美濃屋藤四郎、同嘉蔵、右五人組の由。
右の通りに御座候。
   (嘉永元)十二月           御広敷御用部屋書役、高崎唯六。
 恐入留より第二回の問の分
 (嘉永二年)正月廿六日御渡し二月八日差出し。
                                高崎唯六。
頃日相尋ね候無常講の儀毎月六日十二日会日にて右外にも講中の内先祖忌日等の節々寄合ひ候由、○。
一、前条忌日等にて志の出銅銭、其方え差出し候て法名年回等の訳相誌るし大石寺え差遣し並に同寺え初穂銭、或は盆両度の彼岸又は暑寒見舞銭等取集め○。
一、会日講中の物え左の祖書講釈せしめ、一致派において唱へ候題目は迹門なり本門の題目は日興門流に限り候由、且釈迦多宝の二仏を荘り候は法花経の行者の正意に非ざる旨等、将又富士山に三里四方の大石之有りあもうが原と申し草生ひざる所に松壱本之有り追て戒壇堂建立の印の由、又大石寺に祖師の肉歯之有り○、勅使相立ち右肉歯を御不足の御歯にはめる時節到来すべし、此時戒壇建立成就いたし是則広宣流布の時の由、申し聞かせ候由。
一、肝(観)心本尊抄、 一、如説修行抄、 一、法花取要抄、 一、王舎城抄、
一、三大秘宝抄、 一、一期弘法御附属抄、 一、法花題目抄、 一、報恩抄、
一、本尊問答抄。
一、答書の内日蓮相承は日興壱人に限り候に付き○、此は如何様の祖文に齟齬致し候や、○、御当国の者一と通り相頼み候ては開扉許さざる由、其訳存ぜざるや。
一、参詣の者に手紙遣し候のみならず○、将又日興門流ならでは成仏成り難き旨申し聞せ候段、夫々の壇那寺を初め時分檀那寺に対し苦からざる心得に候や。
其上先年、俗人ども自分檀那寺宗式の通り執行致すべき儀に候処、日蓮宗門の内富士派を信仰せしめ檀那寺の宗式に違却の向も之有る趣き相聞え以ての外の事に付き、向後有躰の執行堅く致すまじき旨、在町え御触之有る義は弁べき処、祖師の金言守り隠れ忍びてなりとも執行いたし候様申し聞せ候やにて、既に講中の内吉田町綿屋藤左衛門、八百屋町駒屋忠兵衛儀は、御国令に相背き候とも正法を信じ候へば却て御報恩に相成り候趣に心得違ひ候、此段如何心得候やの事。右の趣相尋ね候間夫々答書に小割に取調べ此書付とも封物にいたし指出すべき事。
   (嘉永二)正月
同上、第二回の答の分
御別紙の趣き御尋に付き夫々御答書小割に取調べ右書付とも封物に付仕り指出し候様仕るべき旨、畏り奉り左に申上げ候。
 頃日○無常講の儀(前掲問条の文と大差なければ之を略す)参詣仕り候由の事。
此段六日講と申すは最初老母ども取結び候講に付き其名目残り居り女人講と申し候、是は亭番の者百銅づつ差出し其銭は毎年正月六日みき(酒)備へ候入用に遣ひ申し候、十二日講の儀は頃日申し候八人組合五人組合の者御書書付の通り仕り候由承り居り申候、忌日等の分左に御尋ねの通りに御座候。
 一、前条忌日にて(前条に同く省略す)与八郎に取扱はせ候由の事。
此段は御尋の通り仕り並に大石寺え初穂銭等兼々も志次第差出し候へば私引請け大石寺え差送り申候書、一昨末年私転宅の砌より磯村与八郎引請け取計ひくれ候様相頼み置き申候処、調べ上げ差越し申し候に付き幸便を以て差送り申し候。
 一、会日に講中の者え専ら講釈仕り候祖書の事。
此段は御書付の祖書専に講釈仕り候と申す事は御座無く録内録外都合六十五巻の内切り短く耳近き分を先は講釈仕り候。
 一、一致派におゐて唱へ候題目は迹問なり本門の題目は日興門流に限り候由の事。
此段は一致勝劣諸派御座候へども所詮は何れも檀林におゐて台家の学文のみ仕り天台所釈経相の題目を唱へ申し候、是は迹門なり、日興門流は唯本無迹不渡餘行の釈意上行菩薩所伝の本門本尊の隊目建連尊者を唱へ申し候、其故は祖書に滅後末法の今の時は一向本門の弘らせ給ふべき時なり迹門の弘らせ給ふべき時は巳に過ぎて○日蓮は今時を得たり豈所属の本門を弘めざらんや、本迹二門は機も法も時も遥に各別なり、(巳上外十八の廿八丁ヲ、巳下治病抄等の本門に限る引文等を略す)、之に仍て本門の題目は日興門流に限り候と相心得居り申し候。
 一、釈迦多宝の二仏を荘り候は法華経の行者の正意に非る旨等の事。
此段は経に云く須らく復舎利を安くべからず所以は何んとなれば此中に巳に如来の全身有りと云云、(巳下天台妙楽の釈の文、祖書本尊問答抄の例文を引いて二仏を荘るの不可を主張し更に)、不空三蔵の儀●に云く胎華の上に於て卒覩婆を置き塔の中に釈迦多宝如来同座に坐するを画くと云々、此文を以て釈迦多宝を荘り候事は真言宗の祖師不空三蔵の主義と相見え申し候。
 一、富士山に三里四方の大石○松壱本之有り追て戒壇建立の印の由の事。
此段は私儀右場所え参り候御座無く候間三里四方の大石有無の儀存じ申さず、松壱本御座候処あもうが原と申して戒壇堂建ち候場所の由、右近村の者より承り申し候へども慥なる事は見聞仕らず候に付き同志の者へも申と聞け候儀御座無く候。
 一、大石寺に祖師の肉歯之有り(前問条と大差無き故に中略す)流布の時の由申し聞け候由の事。
此段は右様の儀何者か申出で候事に御座候や私儀は承り候事も御座無く○、苦に相成り候事を奥歯に物はさせひたる様など申し候程の儀に御座候間、右様の有るべき道理も御座無く、○、文証等見聞仕らず儀曽て申聞せ候事御座無く、肉歯は大石寺に之有り候事は相違御座無く広宣流布の時光明を放つべしと申伝え候由承り居り候へども、此儀も余の法門多端に付き咄にも仕り候覚へ御座無く候。
 一、頃日御答申上げ候書付の内日蓮相承は日興壱人に限る(他派は化儀化法共に祖書に 違ふ)やの事。
此段は前々申上げ候仏像等荘り候儀○、之に仍て日興門流は本尊と祖師を本堂に安置仕り候其余の仏像を荘り申さず候○、大石寺より江戸表寺社奉行所え書上げ申し候別帳の趣き御覧に入れ奉り候、(本答申に添付しある寛政九年三月の大石寺書上十二箇条は長文の故に省略す)右帳面の趣きも諸派と齟齬仕り居り申し候。
 一、御当国の者一と通り相頼み候ては開扉許さざる由、其訳存ぜず候やの事。
此段は如何様の訳に御座候や存じ申さず候。
 一、参詣の者に手紙遣し候のみならず板本尊写し等追々請け遣し候由の事。
此段は私も請け遣し候へども綿屋金七井上俊弥畳屋文左衛門の請け遣し候分も御座有るべく候、又は参詣の者直に請け参り候も御座有るべくと存ぜられ候。
 一、最初寂日坊等え知己に相成り候謂れを○追々参詣仕り候年月並に節々願済の有無○ の事。
此段は最初参詣仕り候頃迄は病身にて仏道の志御座無く、此段を母儀殊の外相歎き厳しく呵責仕り候間相背き候は不幸と心付き仏法穿鑿に少々志し候砌り、○、右の儀申し出て正本山大石寺え名代に参詣仕り候様申し聞け止む事を得ず相越し申し候、其節の添手紙は金七儀大石寺末寺摂州蓮華寺より申請け○四人連れにて参詣仕り初て知己と相成り申候、参詣年月の儀は文政七甲年正月、天保二年卯年七月、同九戌年十月、同十四卯年二月、弘化三牛年九月都合五度に御座候、節々豆州熱海入湯の御暇願ひ奉り入湯前後の内、内々参詣仕り候、其内天保九戌年の儀は入湯の積り三島宿まで罷越し候処、風邪相勝れず右宿より罷帰り申し候。
 一、日興門流ならでは成仏なり難き旨○、私檀那寺に対し苦からざる心得に候やの 事。
此段は日興門流ならでは成仏成り難き旨は法の道理に御座候に付き、檀那寺えは年忌仏事等初め諸事附届け相替らず仕り居り候はば苦しからざるやに相心得居申し候。
一、先年俗人ども自分檀那寺宗式の通り(此下前に問条を牒せる文の故に略す)心得候やの事。
此段は富士派信向仕り候義相成らずとの御触れ御座候由の噂承り候へども御触れ面如何に御座候や存じ申さず、所詮は在町の者ども彼是諍論がましき儀仕らざる様押え置かれ候御趣意に御座あるべく、○。
編者云く此下に世間には他宗の祖師又は仏像を安置せるものもあり、他領なれども隣国なる関の大雲寺の如きは大石寺同然の仏壇式にて檀家にも此に準ずるものあれども更に国法の御本尊構ひを受けたる事なき事例を挙げ、大凡仏道修行の要は知恩報恩にあるべきとて祖書を引いて此を強調し、此に依て物数ならぬ身も国恩に報ぜし徴志を述べ、殊に国主の御病気には御全癒の熱祷を捧げ薨死には御菩提の為に同信の御講を催し又大石寺にまで回向を願ひ出でたる事、更に本門戒壇の大事国家安全の洪業等まで、堂々五千余字の長篇の故に中略割愛せり)。
実に此文の如く御座候はば御国の祈にも相成り彼是訴へ出づべき種も御座無く還て穏便に相成申すべしと存ぜられ候、諸国に日興門流御座候処は何事も御座無く、兎角御座無き処彼是差入組み候由(北在の法難沙汰を指せり)承り居候間此段も御参考迄に申上げ候、○存じ付きながら申上げず候ては不忠と存ぜられ候間、恐多き御事に御座候へども覆蔵無く申上げ候、此段厚く御勘考し成し下され候様仕りたく願ひ奉り候、右は御尋に付き申上げ候。   (嘉永二)二月             御広敷御用部屋書役、高崎唯六。
 同上、第三回の問答の文
三月五日御渡し、同十日差出し。
 左の趣き猶又御尋成され候間、御答書委く取調べ御渡の御書付けども封物に仕り指出し候様仕るべき旨、畏り奉り左に申上げ候。
                               高崎唯六。
 一、六日講の儀は最前老母ども取結び(巳下の文前掲にあれば中略す)、右は仏前え 相備え候みき(酒)計りの料に相成り候や、右正月会は外講中は相勤めず其方多分講元 いたし殊に十二日講よりも別段出銅出席いたし候由、右は何程にて出銅銭は如何いたし 候やの事。
此段六日講の儀は文政五牛年頃より初り候かと存ぜられ候、○、且右講亭番の者毎月出銅銭の儀は一ケ年相束ね壱貫弐百文、閏年は壱貫三百文、最前申上げ候五人組合の者より年五百文銅都合壱貫七八百文御座候に付き、正月六日迄の分私講元仕り右銭だけにて酒並に野菜物等相求め仏前えみき(酒)備え其下と申して新年を祝ひ、右五人組合の者等打寄り酒宴仕り候。
一、答書段々の縮意は日興門流の外は迹門の題目にて去年の暦の如く釈迦多宝の二仏を荘り候は不空三蔵の立義、日興門流ならでは成仏成り難き旨は法の道理に付き、其段講中等えも申聞かせ候旨。
右は祖師滅後一致勝劣の諍論重々差起り候処、永禄年調べの上互に其支証之有るに付て諸門和睦と相成り末代不易の連判面に自讃毀他私曲謗言は停止の筈、殊に寛文年公辺より仰出さるる趣きも之有り候、右の趣き弁え之有りや。
何れにも俗人の身分一己の書見を以て諸山の歴々を軽蔑いたし、日興門流の外は正法に之無き程の文意を以て申立て候処、日蓮宗門は勿論諸宗え対し候ても如何心得申立て候や、第一上えの恐れをも顧みざる心躰如何相心得罷在り候やの事。
此段永禄年中諸門和睦と相成候儀、並に寛文年公辺より其仰出しの趣は相弁え申さず、恐れ多き義申上げ誠に恐入り奉り候。
一、源僖様(斉温公)源懿様(斉荘公)御不例の由内々承知仕り節々御平癒の儀必至に祈り奉り候由、且御大切に及ぼせられ候由風説承り講中相招き御菩提講相勤め、或は大石寺え御回向相願ひ候処、公儀御代々様御尊牌安置し奉り怠らず御回向申上げ候旨。
右は御国恩報謝の為め且御菩提の為との儀、一応は奇特尤の筋に相聞え候へども軽き物ども相招き御菩提講相勤め又は他所え御回向等頼み遣し候との儀は其筋え伺の上執行候儀に候や、若し私に取計ひ候次第にも候はば憚多き儀にて上え申上げ難き儀には之無きやの事。
此段は全く私に取計ひ候儀に付き、憚多き候事に御座候間上え申上ぐべき儀にては御座無く候処、其心付き御座無く申上げ恐れ入り奉り候。
一、富士派信仰致まじきとの御触の儀は噂に承知迄にて委しくは存ぜず、右派信仰の儀は心中の儀にて檀那寺の宗式相守り諍論がましき儀致さず候はば御国令に相触れ候儀有るまじき旨申立て候処。
右御触れ出しは其方寺社奉行所在勤の節に之有り、殊に右派信仰の者の内、七面は邪神、身延は無間山などと申成し彼是不法の事ども之有り、吟味の上咎め申付け候事ども 其砌りにて承知在らるるべき筋にて噂承知とは申し難く、殊に申立ての如く心中の信仰 に候はば他聞を顧みざる筈に候処、同志の者は在々までも其方富士派信仰の趣き承知罷 在り。
且又追々虚病を構へ入湯御暇を願ひ大石寺え参詣致し候段、縦令忠孝の心得ありたりとも上え偽り申上げ候段申し披き之有りやの事。
此段申披き御座無く恐入り奉り候。
   (嘉永二)三月                     高崎唯六。
高崎唯六へ申渡書  前記後小出正作磯村与八郎も取調べられたる中に嘉永三年正月に唯六死去したれば、嘉永四年五月の国老横井伊折介の三人処分の時は其死後なるを以て跡目捨吉に申渡されたり、写し恐入留の中にあり。
                     高崎唯六、承り人、高崎捨吉。
俗人ども自分檀那寺宗式通り相守り富士派信仰致すまじき旨、先年百姓町人どもえ触れ知らせたる趣き弁へながら、日蓮宗に諸派之有る内日興門流ならでは成仏成り難き様に心得、此表において取結び罷在り候無常講会並に不時会合の節ども罷出で導師並に右派依憑の講釈をもいたし自身得意の趣き等申聞かせ候より、講中の内彼是心得違ひの者も出来いたし、殊に祖師祥忌日或は五月九日の難日は大寄と唱へ、同志の者残らず其方並に小出小作磯村与八郎宅の内え寄合ひ執行致し、其上銘々志銭等毎年取集め大石寺え差送り或は右山え参詣の者に頼みよっては塔頭寂日坊へ添手紙差遣し、剰へ病気申立を以て豆州熱海入湯御暇を願ひ追々大石寺え参詣致し、加之源僖様源懿様御不例の節々御平癒の儀祈り奉り、御逝去の段内々承知致し御菩提講勤方の義発気いたし、正作与八郎とも申合せ講中相招き御弘め迄連夜勤むる故、節々三人より百疋づつ差出し御法号に相添え大石寺え差送り御回向頼遣し候儀、心底においては一と通り奇特の訳には候へども恐多しとの弁え無く猥に取計ひ候、段々の始末不埒に付き急度申付くべきの処、病死せしめ候に付き其沙汰に及ばず候、其趣を存ずべく候。
八、小出正作磯村与八郎の取調べ及び申渡し  正作の尋答覚書は興道寺に在り正作の自筆か、与八郎の答申控は其孫磯村義通に在り是亦自筆か、唯六の取調は書通なりし事其下に見ゆるが如く、正作与八郎の調は奉行所へ招喚の上にて正作八郎共に三回に亘り与八郎は一回の文献無し、其内容は唯六の分を縮少せる如く大同小異なる故に前文を削除して初の分と最後の恐入りの分のみを掲ぐ、判決文も唯六と大同にて次第に短文となれる故に此項には共に省略して受書に属する分のみを掲ぐ。
小出正作、第一回嘉永二年酉二月十六日、奉行所尋答覚書より抄録す。
尋席え罷出で候処、御奉行成田定之右衛門殿南向に座せられ、西の方東向に吟味役衆両人調役壱人物書壱人列座、但し取扱は吟味役丹波甚太夫調役後藤新八物書岡田鋼太郎。
時に成田定之右衛門尋られ候は、小出正作其許は小木村儀左衛門と申す者実父の由に相聞え候が何比養子に参り候や、(より問ひ初め檀那寺、富士信仰の縁由、日興門流に限る謂れ、巳下奉行衆吟味役等交互に三十余度に亘りて小問を連発せるが、此中は宗義に属するもの多し、今は之を除く)。
 同上、第二回嘉永二年酉七月廿五日の分。
尋席え罷出で候処、成田定之右衛門、南向に座せられ、(奉行及び其他より十四度に亘り前回の細問等之を略す)。
○、其許達も自身にて信仰する事は然るべし他人え対し法門等申聞かせ夫より愚昧の者ども心得違ひの儀申上げ候より、其なたも呼出し尋る次第にて内得とは申し難し、追々尋ね候趣き恐入り候段取撮き書付に取調べ差出さるべし、曼荼羅は一応見せられよと仰聞けられ候に付き。
正作云く畏り奉り候、則控席に下がり候上右恐入書付け取調のへ置き候処、物書岡田惣助参り候に付き相渡し候処、追付け右書附持来り申す様は、此書付にては宜からず候間迷惑に取調べ差出すべき旨申聞け之有り候に付き、左の通り相調へ差出し候事。
私儀従来富士派信仰仕り候に付き、追々御尋の条々の内心得違ひ罷在り候廉々申訳御座無く迷惑至極恐れ入り奉り候。
   (嘉永二)七月廿五日         呉服方御納戸詰、小出正作。
 同上、第三回、嘉永二年十一月九日の分
尋席え罷出候処、奉行衆列座左の通り。(之を略す)
ときに成瀬内記殿、尋ねられ候は小出正作磯村与八郎、先達て源僖様源懿様御逝去の砌り御菩提の為め大石寺え御尊号相送り回向相頼み候旨、(此下五度なり法号の長短、位牌を作りしや紙に記せしや等の調べのみなり)。
奉行衆云く、然らば今日は先々引取るべき旨仰せ聞けられ候に付き。
引取れ申し候事。
磯村与八郎、第二回嘉永二年八月三日の分   但し第一回に当る分の答申扣無し第三回は正作し同列なれば之を除く。酉八月三日寺社奉行所に於て役々列座、寺社奉行成田定之右衛門相尋られ候趣き。
磯村与八郎先達て尋ね残し候儀相尋ぬる事に候、扨て富士派内得信仰罷在り候段、(巳下 三十度の小問他と大差なければ略す)。
恐れ入り奉り候。
先々は今日は下がり申すべく候。
下り候節物書役見廻り引取り候事は暫く見合せ候様申聞け候に付き、みの紙一枚二つに折り指出し迷惑書に認め候様申聞け候間認め振り尋ね奉り候処、頃日正作殿の振にて宜しき旨申聞候に付き、夫は何と認め候やと再問に及び候処、箇様々々と御座候に付き、左の通り認め差出し置き候処、右調へ通にて宜しく御間引取り候様申聞け候。
私儀従来富士派信仰仕り候儀に付き、御尋の条々の内心得違ひ罷在り候廉申訳御座無く迷惑至極恐れ奉り候。
   (嘉永二)八月三日                  磯村与八郎。
 小出正作へ申渡書  押込に処せられたれども其日数及赦免の日は不明なり、与八郎亦同じ。
俗人ども自分檀那寺宗式通り相守り富士派信仰致すまじき旨、先年百姓町人どもえ、(巳下高崎の分と大差なし)、段々の始末不埒に付き押込め申付く。
 右は伊折介殿御指図に仍て申渡し候。
右の通り仰渡され畏り奉り候、後日の為め仍て件の如し。
  嘉永四年亥五月十八日               右小出正作印。
磯村与八郎へ申渡書  前と同意少しく短文のみ、押込前と同じ、受文亦同く年月日同じき故に省く。
九、尾張藩の家中触れ町触れ  文政年度に於ても触れありしが、今名古屋町及び北在に於ける仕置済みになりしを以て更に家中(士族)及び町方(平民)に富士派偏信の禁制の布達をなしたるなり。
御家中触れの写し
俗人ども自分檀那寺宗式の通り執行致すべき儀に候処、近来日蓮宗門の内富士派を信仰せしめ檀那寺の宗式違却の向も之有る趣き相聞え以ての外の事に候、向後右躰の執行堅く致すまじく候、若し相背く物之有るに於ては吟味の上急度申付くべき旨、在町の者え文政の度相触れ右の趣尚更堅く相守るべき旨、此節再び相振触れ候間、心得の為に相達し候条子弟懸り人等を初め家来末々迄に急度申聞くべく候。
右の趣き尚々え相触れるべく候。
   (嘉永四)五月十七日
 町触の写  恐入留には町触とあれども在方に通ぜり、惣丁代とは名古屋市中の名望旧家 が町人の惣代を勤務したるを云ふ、即此人等をして一般に布達せしむるなり。
俗人ども(前と同文の故に略す)、申し付くべき条其旨を存ずべく候、右の通り文政度触れ知らせ置き候処尚違背の者も相聞え不埒の事に候、右は暫く程経候に付き猶更相触れ右書面の趣弥心得違ひ之無く様堅く相守るべく候。
右の通り御奉行所より仰渡され候間在々支配内洩れざる様相触れらるべき事。
   (嘉永四)六月八日                    惣丁代。
増衛の取調べ及び押込及び解除  嘉永四年の時には増衛の処刑のみ文献に残りて利蔵右京の事の見えざるは、嘉永元年には増衛は呼出し吟味だけにて拘禁入牢等の事無かりしが後爰に至りて特に一人押込に処せられ同六年比更に追放(軽)に処せられたるものか、但し其文拠は多くは日記及び拾記載にあり。
(嘉永四年五月)十八日、○富士派義に付右は寺社方へ御呼出し晩方帰る庄屋代は藤九郎。
(五月)二十一日、○又清四郎小牧御陣屋へ願書持参右は薬種袋願並に寺社方へ富士派の御呼出し事小牧に達し相済み。
(五月)二十三日、○村仲金兵衛御大事儀小牧より申告げ来る予木賀南山に告げ遣し。
(七月)十日、予五十一日目寺社方へ御呼出し押込並に遠方留とも御差許に相成り、右に付き庄屋代日置の金蔵と申す者頼出で相済み申し候。
諸案文集の中より  嘉永四年亥五月二十一日御達し相済み扣書にあり。
恐れ乍ら御達し申し上げ候御事。
当村増右衛門儀、日蓮宗門の内富士派信仰の由にて今月十八日寺社奉行所え御呼出しの上、押込め仰せ付けられ候儀に付、之に仍て御達し申上げ候、以上。
   (嘉永五)亥五月           丹波郡寄木村庄屋五右衛門印。
   児玉定一郎御陣屋。
 同上
 恐れ乍ら御達し申上げ候御事。      丹波郡寄木村。
当村増右衛門儀、日蓮宗門の内富士派信仰の由にて去る五月十八日寺社奉行所に御呼出しの上押込仰付けられ候、然る処今月十日又候御呼出しの上右押込並に遠方留とも御解き仰せ付けられ候、之に仍て御達し申上げ候、以上。
   (嘉永四)亥七月             寄木村庄屋五右衛門印。
   児玉定一郎様御陣屋。
第四、安政度   余波又は終結とも云ふべきなるが伝説のみにして文献の存在せざる事は年代の近きに反比例せり、此或は増衛の死亡により日記又は諸案の纒り無きによるか、此時代に左京の玉禅院と利蔵の玉泉院との問答勝利の記録存在するに例して他にも信徒の活躍甚だしく法難を誘発せりと見ゆ、左京は安政元年より宮の本遠寺に拘禁中に寺社方の訓誡に伏せざりしを以て、追放の刑に処せられ長期の為についに無宿の陥りしとの説あり、北在米野の善之衛彦七清九郎の入牢拷問等の事、又二十余人の拘禁の事等亦文献の徴すべきもの無きを遺憾とす、但し此期を過ぎて全日本の国情洶々徳川幕府の権威失墜して宗門改等の些事に没頭する暇無き事が、次第に法難の終息となり明治維新に推移して信仰自由の聖代を仰ぐ事に到達して、現今の妙道寺興道寺を後に妙経寺の創立を見るに到れり。
今幸に残れる一文献を諸文集より引用して本項を結ばん。
恐れ乍ら書上げ申し候御事。
一、御国制御停止富士派信仰の由段々の御理解を恐れ入り改心仕り候、以後富士派仕るまじく候、仍て連印件の如し。
  安政四年巳三月   春日井郡大気村、柳三郎、清八、作右衛門、善左衛門、善蔵。
                             庄屋新右衛門。

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