富士宗学要集第九巻

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第十章 伊   那

 南信上伊那郡西春近村字小出に明治十三年に創立せられし信盛寺の起源も其講頭家の城倉秀弥其外諸家の祖先等が法難を忍びても猶熱列の信仰を厳持したる結果に依る、但し他の地方と比較して事件も範囲も年期も短少の法難なるが如きは、暫らく該地の伝説に依る、其史実は直接の文献殆んど散佚して間接の文書等を以て之を補考し、或は多分は該地方に年代作者不明なる法華騒動記の叙事に依りて若干の補充を為したるに過ぎず、此が即ち昭和六年に該地住細井精道の著なる信盛寺史の上篇創立巳前の分なるが、其記事が存外明瞭なるやうなるを以て、更に城倉秀弥に問合せて法華騒動記の幾転かの写本を獲たり、之に依れば彼我の日蓮宗に反感を持つ禅家に依て記述せられたるものにて、或は却て局外者が当時其儘の記聞にて法難の信徒側には不利なれども史実は寧ろ正確に近きものかはと思はる、但し信盛寺史の初の分は多く之に依るとの事なれども幾分の補足あり、今此を確実にするの便を欠くを以て二三の文書以外は騒動記及び此史の記を略抄するの止むを得ざるなり、但し騒動記には茂左衛門等の信仰が富士派にして大石寺に参詣して得たる等の事は一筆も見えざるは、他の記述の綿密なるに比して大に異むべき事に属す。
 法華騒動記より、古写本城倉槐三に在り。
○、ときに天明四年五月十一日に当て信州伊那郡小出村と云ふ所に法華宗に帰依して騒動あり、其根元を委しく尋ぬるに爰に茂左衛門と云ふ百姓あり彼は代々禅宗にて同村転法山常輪寺檀那にて○、祖父の代より法華宗の感応山深妙寺へ帰依して○、同(宝暦十三年三月)月二十二日には深妙寺へ願ひ往来を貰ひ法華千箇持参りにと出にけり、○、天明元年の頃より諸国に修行し法華の説法為し○深妙寺を背きて一宗の祖師とならんと謀反の志出来せり、○、(茂左衛門改宗の下)。
茂左衛門余宗を謗る事大方ならず他宗へ兄弟弟娘など縁付れば地獄へ落ちたりと云ひ、又他宗より来れば飯に糞の交りたる如しと云ひ兎角他宗を悪口致しければ○、(茂左衛門妙術を行ふの事の下)。
斯の如くなれば曹洞宗光久寺常輪寺法華宗深妙寺此三箇寺の檀那悉く茂左衛門に随ひ○、右の寺々○打寄り内談を極め天明四年五月十一日に支配人秋山五郎右衛門殿へ訴出でければ○、直に寺社奉行正木軍左衛門荒波紋太夫殿へ申出でければ○、同月十二日には与力同心召し呼ばれ茂左衛門其外の類属ども一々搦め取るべしと仰せられけり、畏て捕手の役人与力同心三十六人早縄十手手錠も持たせ同日未の刻には小出村へぞ打立けり、(寺の註進の下)。
小出村にては斯る事とは夢にも知らずして居る処へ捕手の同心暮六つに名主方へひたひたと押し懸け、茂左衛門方へ案内致すべして有ければ異議に及ばず早速案内致しけり、佐平治藤右衛門先ず頭分の者召捕るべしとて三手に分かれ其家々を取り巻きけり、時しも夕飯最中に裏表よりどつと声をかけ門戸を蹴破り一所に入り込み御上意なるぞ尋常に縄に懸かれと罵りければ、茂左衛門兼て覚悟なりければ異議に及ばず有難き仕合せと手を廻しければ高手小手にぞ縛めけり、佐平治藤右衛門同様にて召捕はれけり、家内の妻子は只周章して泣喚く計りとなり、右三人の者其村名主方へ引き相残る同類ども勇八政右衛門惣五郎其外巳上八人手錠、殿島村眼田にて甚三郎重郎右衛門手錠仰せ付られ、役人衆夜中に高遠の御役所まで三人の者ども引行き獄屋へ入置き罪の軽重を糺したまふなり、(茂左衛門被召捕事の下)。
茂左衛門屋探しにて(五月十六日の夜)所々に同類の者どもよりの文通諸帳面御取揚遊され委く御吟味なされければ所々村々に同心の者数多なり、先づ高遠本町阿波屋忠治と云ふ者召出され申分立たずして手錠仰せ付らる、小出村にて幸内勘右衛門惣右衛門手錠仰せ付られ科人どもの家内女房子供下女下男に至るまで召出され吟味遊され、夫より殿島村にて八人召出され、亦入野谷郷藤沢郷にて召出さるる者数を知らず、されば近代の騒動とは聞けり、只今まで獄者三人手錠十四人此上何様に相成候とも斗り難し、(追々御吟味咎人の事の下)。
されば其後茂左衛門召出し段々吟味致すと●も只法華帰依と斗りて一切白状致さざる故、法華宗音(遠)照寺(延山末)弘妙寺(同上)両僧召出し吟味仰付らる、是より両人茂左衛門と問答致すと●も敢て邪宗門の証拠も見へずと右の段申達しければ、右取揚げ置き候書物残らず出され此吟味両人え仰付られ是より一と詮議致しけるに何も怪しき義一切之無く候と申上げけり、然れば公儀にて御疑ひ深く思召し右三人の者どもへ手錠を打ち獄屋へ入置き申し候へども、先は当分其沙汰無く日数を過しける、○、(茂左衛門御吟味の事の下)。
光陰矢の如く過ぎ日ける程に天明六年九月上旬にもなりければ、拷問仰付らるる役人中御出で成され五日より拷問始まり初日は拍子木責め次には水責め段々品を替へ三日の間拷問の責に命も絶ゆる斗なりと●も、茂左衛門申上ぐる詞は法華経は諸衆尊み申し候へばさほど悪しき事とも存ぜず信心仕り余り深入り仕り候故破宗と仰せられ候段申訳一切御座無く候依て何様なる御仕置仰付られ候とも御上様に対し毛頭も御恨み存じ奉らず候、題目の儀は私気有る内は唱へ申すべしとて高声に法華の題目唱るのみ其外一言何にても申さず候されば数日の拷問徒に月日を過しければ何の益無しとて止みにけり、(茂左衛門拷問の事の下)。
されば九月八日(天明六)に皆咎人どもそれぞれに御仕置仰付られけり。
 追放欠所、茂左衛門歳四十二、女房、歳三十二、子供五人、下男壱人。
右八人太田切(宮田と赤穂の堺)の御堺(高遠藩領南端)まで送りけり。
 阿波屋忠治、高遠町追払ひ在所山室(高遠より一里許東)え蟄居。
 三箇寺(常輪寺、光久寺、深妙寺)閉門。
其外手錠の者ども封印御改め御呵り。
右の通り天明六丙午年九月八日仰付られけり、(科人共御仕置の事の下)。
編者云く。此の追放とは軽きものにて所払ひなり、欠所とは所有財産の官没なり、騒動記の文此に尽く所引は十五条の内六箇条の抄記なり、本記は殿島の禅僧かと寺史者の説なりとさもあるべし、而して処刑巳後の事は一筆もなければ先づ当時直聞の記録と見て引用の価あるべし、猶此記の要点を寺史に取れるが此記に洩れたる分は左に寺史を引用せん。
信盛寺史四頁 ○聖祖滅後門下区々にしていづれが聖祖の真意を伝ふるかを知らんとし深妙寺に尋ぬるも志を得ず、ついに宝暦十三年三月二十二日十九歳にして志を立て深妙寺より往来札を得て笈を負ひ千個寺詣に出づ、先づ近郷の法華寺を廻て身延山久遠寺ら至り身延檀林に法を聞き去つて富士に出ず、而して大日蓮華山大石寺に足を止めて此にて法華本迹の勝劣を知り、寿量文底の大法に親りに接し転迷開悟したれば欣喜措く能はず急ぎ故山に帰る、而して先づ小堂を建て曼荼羅を安置し妙法山蓮光寺と云ふ扁額を上げたりと。
此処に於て宗教に渇せる老若男女遠近を問はず集る者日々に多し、遠くは高遠城下阿波屋忠治山室村宮下茂兵衛当深く信仰せり、○。
同上六頁 ○荊口村(山室ノ直北)弘妙寺山室村遠照寺○召さる、之に於いて僧侶当茂左衛門の説は富士興門派の説なりと言上す、依りて茂左衛門等主たる者以外の手錠は一札を差上げて許されたり。
覚。   小出村、長蔵、清右衛門、惣五郎、政右衛門、九左衛門、藤八、勇八、平七、小文治。
右の者、宗門の義に付き吟味中手鎖申付け置く処、荊口村弘妙寺山室村遠照寺達て相願ふに就き吟味は末だ済まず候へども、格別の御憐愍を以て暫く手鎖の禁めを脱き村方に於て農業相勤め候儀用捨に及び候、猶亦此末追々の筋も之有るべく候条急度相慎み他村え立越え候様成る義決して仕らせまじく候、村方一同に心付け尚亦聊たりとも心得難き義見聞に及び候へば早速訴へ出づべく候。
右の趣小出村役人どもに申聞け村方一統に洩れざる様相心得候様申渡さるべく候、以上。   (天明六)午五月
右覚は小出村役人より郡代に差上げしもの(編者云く文面に依れば藩吏より村役人に達したるものなり)今は控が現存し城倉秀弥氏所蔵す、○。八頁、佐平治藤右衛門は不明なるも宮下茂兵衛は茂左衛門の縁類に当り同く追放せられし如し、依て翌七年三月廿八日茂兵衛は其忰茂吉と共に千箇寺を志し身延山より富士大石寺に出で沼津より甲斐に入り帰国し茂左衛門と信仰を通し会つてゐた。
かくて茂左衛門は上(赤)穂村「幕府領地」北原なる某の屋敷に奇寓話すること二十余年、後一札を御上に差上げて追放御免となる。
  差出し申す一札の事。
一、私ども親類伴蔵「茂左衛門の事父の名を襲ぐ」義、先年御追放仰付られ候処、数度役許え御願仕り候所御聞済み下され、御上様え右の者足入の義御願下し置かれ有難く存じ奉り候、之に依て何様の六つかしき義仕出し候とも親類にて引請け御役人中様に少も御苦労掛け申すまじく候、其為め一札差出し申し候、仍て件の如し。
文化五戊辰閏六月廿六日  伴蔵親類、弥兵衛印、同断、治兵衛印、同断、多蔵印。御役人衆中様。
右役許へ差出せし控は城倉秀弥所蔵なり。

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