富士宗学要集第九巻
第十一章 八 戸
南部信順公によりて創建せられたる陸奥国八戸玄中寺も亦多少の法難関係なきにあらず、天保三年玄妙房日成八戸に遊化して阿部喜七等を導びく、此内三人強盛の信力を励まし随喜展転の弘教を企て盟約書を作りて非常に備ふ、其反響彼等の菩提寺什門派の本寿寺に及び切支丹類似の富士派信仰として官に訴ふ天保十五年五月十五日なり、爾後吟味に長日を費し九月廿二日に七人入牢となり同十月廿一日に出牢となりたれども、追放押込叱等の所刑の文献無し、但し喜七は主犯たれば他と同罪なるべからずと●も公私の文献存在せず、英師状には赦免願の事あり自筆の過去帳の中に安政元年赦免還俗とあれば出牢後国を去り各地に游化して本山にて出家せるが、赦免に依りて帰国して還俗し後改めて常泉寺にて僧形に復せり、此等直接間接の史料長時を費して各地に奔走して玄中寺住職佐藤舜道の蒐集に係るも、散佚のもの多くて充分なる能はず、他日此が法難明細記及び玄中寺創立縁起等を草する時まで好材料の出現せん事を祈る。 一、阿部喜七 七人信徒等の最初の入信にして筆頭なりとも●も入牢申渡し赦免等の文献存在せず、他は入牢一箇月にて赦免になりしも喜七は或は出牢後直に刑に処せられて所払ひとなりしにあらずや、今同人筆の過去帳の諸文を引いて然か推想するの妥当なることを思ふと共に七人法難の大概を見るを得べし。 明治二年阿部喜兵衛(喜七の長男)過去帳より、喜七の出家せる泰雄日承筆。 十五日、玄中寺講中法難、喜七、豊作、清兵衛、忠助、大治郎、清助、善吉。 弘化元甲辰五月十五日、以上七人、同九月廿二日入牢、十月廿一日赦免。 編者云く喜七は阿部氏、罪科申渡し後本山に登りて出家し英師の門に入り泰雄日承と云ふ其前在俗の時静岡の信徒を問ひし事老人等の口碑に在り、八戸藩信順江戸に於いて入信せられたる為に信順の実家薩摩藩に出入せる高野周助の歎願に依りて安政の初年追放赦免と成り、僧形を改めて俗形に還り目出たく帰国したるが、後又僧形に復し信順に依りて創立せられたる玄中寺の一時の留守居を為し、住職確定の後京阪に弘教し大阪蓮華寺住持となりて寂す、猶他の六人は、豊作(阿部、八戸に在り当主真之助、法難文書下ら在り)、清兵衛(三崎)、忠助(三崎)、大治郎(石橋)、清助(枡屋、佐藤)寿之助函館に在り、故佐藤恒佐翁法難略記一巻慈一日昇筆のものは其死後に青木栄吉万にあり、善吉(瀬戸屋。城前)すゑ盛岡に住す法律に文書あり下に出す。 泰雄房自筆所持の過去帳より。 十五日、(法難人命列記惣て喜兵衛帳と同じ)。 同上 最末紙に在り。 俗姓、奥州南部領八戸城下阿部喜七久豊の子、幼名清太郎、人と成り喜七と改む、文化九年壬申三月廿五日誕生、代々法華宗同国本寿寺を菩提寺とす什門派、天保十三壬寅年三十一歳にして玄妙坊師尋ね来り数月宅に止まる当門流を得道す、同十四癸卯六月登山し人法の御本尊感得す、同弘化元甲辰五月法難出来す年三十三歳。 同上 安政元年寅四十三才、領主より御赦免にて還俗す。 元治元年子二月廿八日、江戸常泉寺に於て天英院御殿感得御真筆御開帳の砌り五十三才再び薙染す。 元治元子年、奥州八戸万寿山玄中寺役僧五十三才。 日英状 安政二年か十月十五日感恩寺英穏院日淳への状、正筆城前すゑに在り、此中より抄録す。 一、八の戸老女喜佐野女登り候節照井富右衛門殿より御本尊等の事相尋ね候所此度守護し奉り候由申され、泰雄一条も頼入られ候所悉く承知の趣き、当方へも泰雄より歎願の書状参り候に付き又以て厳しく高周(京橋区住高野周助)へ頼み遣し候所、周輔厚き取成を以て喜佐野女段々骨折り先づ上々吉の首尾合に相成り候遠からず御赦に相成るべく存じ候、誠に高周の丹情言語に述べ難き程の事に候、○。 編者云く此状に依れば喜七の国許赦免は安政二年十月以後なるべし、過去帳の安政元との自記は老後の記憶謬りか。 二、阿部豊作 他の六人と共に入牢にて事済みたりと見え追放押込等の処罰無し、取調べ書控へ、入牢申渡し、赦免状の三通及び明治五年の英師状(信順公の卒去を悼める等の状にて此時は豊作が講の代表者たりと見ゆ)と共に阿部真之助に在るより抄録す。 取調書控へ 御尋ね、歳三十八、高拾石程、馬壱疋。 御尋ね、富士信向致し候儀如何。 御答へ、私事同宗門の義は同事に相心得仏前取交ぜ何に心にく有難く存じ奉り候。 御尋ね、富士信向致すに付き有難しと思ひ候義如何。 御答へ、身延山より富士大石寺え跡式の僧引越し候に付き是を承り有難く存じ奉り候。 御尋ね、富士の講と申す事は如何。 御答へ、前々より寺に御座候趣き而とは存知申さず候、此以て以来中絶の所何となく伺ひ壱度講を相勤め申し候、尤も。 御尋ね、富士の題目講相勤め申し候節、何にか有難き事之有る趣き、返す返す。 御答へ、外何も存知申上げずと申上げ候処え。 御尋ね、何にか有難く候事と仰せ付られ候へども。 重ねて御答へ、天下太平国家安全先祖代々の義申上げ候処。 御尋ね、夫は手前切りの事に御座候。 御答へ、別段有難き事存知申さず候間、是は喜七清兵衛え問ひ合も書取を以て申上げ奉り候様、夫切り。 御尋ね、仏事の事などは如何に。 御答へ、是は恐れ乍ら世見(間)の通り相勤め申し候。 御尋ね、玄道を留宿の義如何。 御答へ、壱宿も御座無く候。 御尋ね、玄道と申す旅僧先渡何れえ参り候や。 御答へ、喜七方え前後存知候へども千箇寺にて参り候へば、右の通り。 御尋ね、旅僧富士派を誰より先に承り候義。 御答へ、其儀前後明白に御座無く候。 御尋ね、旅僧より説法承り候やの義。 御答へ、畏り奉り候、咄合の節は時々出廻り候節一口二口宛は承り候へども深く存知申さず候、勿論他家より参り候者にて委細存じ申さず候、其上長々の事にも御座無く候、不学の故御封印の節御覧の通り仏前に書物御座無く候。 御尋ね、何にか有難き事之有る節度々に御座候へども御出の上。(編者云く文意通ぜず)御尋ね、本寿寺より度々添心之無きか。 御答へ、添心御座無く候。 入牢申渡し書 十月三日町、豊作。其方儀、派違ひの富士派を信仰致し宗法相背き候旨、本寿寺より申出で候に付き其次第御尋成され候処、仙台佛眼寺弟子玄道と申す出家より教化に預り候へども、元より経文一部相弁へ申さず候へば有難き事とのみ承り信心仕り恐入り候旨申出で候、全体右様へずとは申し乍ら御国に之無き派違もの宗旨信心致し候段、畢竟宗法取乱し候取巧みえ馴合の致し方重畳不届きの至りに候。 (天保十五辰)九月 赦免状 十月三日町、豊作。其方儀、此間御書付けの趣きを以て入牢仰せ付け置かれ候処、猶重き御手当仰せ付けらるべく候へども、格別の御慈悲を以て牢舎御赦免成され候。 (天保十五)九(十の誤か)月 日英状 明治五年のなり、要文略抄す。 ○、然れば過日泰悛(玄中寺現住)義法要の筋之有り呼び登せ今三日登山いたし候節申出で候には、其太守(信順)様去る二月十九日御遠行遊ばされ候趣き承り誠に以て驚き入り候、○、仰其他御地当門流の薫萌の始め数々法難之有りと●も各方信力堅固の故に三大秘法の御利益にて、太守様不思議にも御深縁在らせられ既に玄中寺御建立に御相成り法威相顕れ、各方真に会稽の旧辱を相雪ぎ候事も偏に太守様の御深恩故と存じ候、○。 (明治御壬)申七月八日 日英在り判。 南部玄中寺、御講内中、人々。 (封皮)阿部豊作殿御許。 三、城前善吉 入牢申渡書、同赦免状、泰雄の泰悛房玄中寺入院等の状、而後新信徒の帰伏の誓状を荘恩(英穏院)の弟子忠助(八戸盛岡にて多数を教化せし後の玄妙坊と称せられし人)へ出せるもの、玄道状、英師状、(高周の事前に引く)等今盛岡の城前すゑに在り、此中に申渡書は少々異なる(前の豊作と)所あれば全部を引用し、赦免状は同文為れば引用せず、其他は前引の英師状だけにて他は法難に関係なければ全部略す。 入牢申渡し書 八日町、善吉。 其方儀、近頃富士門流信仰致し候趣きに付き其次第御尋成され候処、元より経一部相弁へ申さず候へども有難き事と承り、富士流曼荼羅長横町喜七より貰ひ請け候段恐入り候旨申出で候、全体右様弁へずとは申し乍ら御国に之無き派違ひの曼荼羅貰ひ請け候上は宗法取乱し候取巧みえ馴合の致し方重畳不届の至に候。 之に依て入牢仰せ付られ候。 (天保十五年)九月 四、佐藤清助 清助は後恒佐と改めしか又は実名か、函館教会の発起主佐藤寿之助(寿遠)は其長子なりと云ふ、目下其一家に直接関係の文書無し、寿遠の時同教会の教師たりし佐藤慈一日昇の筆せる「故佐藤恒佐翁法難略記」と云ふ一巻により其大概を抄記す。 (一)に先入阿部喜七等と三人同盟状、(二)に法難召取の状況(三)に申渡書。 (一)三人申合せ案 阿部喜七と佐藤清助と二人其外一人は豊作なりや善吉なりや又年月も不明なり、但し喜七の出家は追放の為かとも思はるれども源因此の申合せに依るか 。 一、此度三人諸共兄弟の義を結び向後御書判に任せて祈伏を致すべき事。 一、強折に依て諸人に嫉まれ家業立たざる節は相互に救ふべき事。 一、三人の中に於て万一法難に値ひ擯出等に預る者之有る節は一同退去を遂げて剃 髪を致すべき事。 一、仮令富貴の身成りと●も一同退去の節は所帯並に妻子を捨て速時に退去を致す べき事。 一、剃髪の後は三人諸共同居を致し如法に修行して生涯を送るべき事。 (二) 本寿寺の讒訴、七人拘禁、所刑等の顛末 ○、延山の迷徒某吾講員三崎忠助を訪ひ○、本寿寺に至りて住職慶考院を煽動し讒を藩主○信真公に構へしめて云く、城下の商売阿部喜七佐藤恒佐等専ら切支丹類似の富士門流に惑溺し、故伊勢守入道殿を阿鼻に堕落したまへりと誹謗し○、信真公急に老臣に命じて糺明せしむ、慶考院○苞苴を老臣及び有司に贈つて○、老臣野中頼母御徒目付玉江三太夫荒木彦右衛門等之を諾し寺社奉行中里弥右衛門独り容れず、遂に職を辞するを好機とし天保十四(五)年五月十三日唐突捕吏を派遣して、先づ玄妙坊師を領外に放逐し次に喜七恒佐等七名を数珠繋ぎし、御本尊を官没し家宅を閉鎖し問注所に拘引し○、一も処刑すべきの証拠なきに苦み只に恐入つか々々々々と大声叱咤するのみ、七名神色自若○、一喝して七名を未決檻倉に留置し荏苒、九月に至り改めて牢獄に投ずること三旬、○。 編者云く此記事後人の想像か取調書の意と径庭あるが如し、猶此記の末に。 信真公は法難後三箇年ならずして俄に大熱を患ひ三日三夜虚空を掴みて悶乱して長逝し、老臣野中頼母御徒目付玉江三太夫荒木彦右衛門等も次第に無名の業病を発し苦しみ悩んで死し今や子孫も絶滅せりと云ふ云々の文あり、明治廿五年二月慈一日昇の記なり、此事の史実未だ校へず。 (三)清助へ申渡書 他と少異あるが故に省略とせず、但し名前無くして天保十四年あり他例に違す誤写なるべし。 其方儀、派違ひの富士派信仰致し宗法相背き候旨本寿寺より申出でに付き其次第御尋成され候処、先達て仙台佛眼寺弟子玄道と申す旅僧本寿寺へ罷在越し候砌り長横町喜七宅へ逗留中段々教化に預り、剰へ富士本山大石寺へ喜七同道登山致し木像並に曼荼羅当貰ひ受け罷下り広く信心仕り候段恐入り候、全く諸人を進め込み候儀之無き旨申出で候へども、全体御国に之無き派違ひの宗旨信心態と遠国迄罷越し本尊等持参他宗迄も信心の者相嵩み候段全く一己の内信心に之無く、同類相集め宗法取乱し候取巧の致し方重畳不届扱くに候。 依て入牢仰せ付けられ候。(天保十五年)九月 |