富士宗学要集第九巻
第三章 石北の関係
大石と重須の間は原始時代一山たり中間半里に満たず能所互に往来せり而して本六人は全く大石寺の塔中僧にして新六人は両所に亘れり、当時の文書は未だ之を見る事を得ざれども家中抄には開山入寂後の法要は互に両山に往来して之を修するを記し、仙代問答後の法義研究は大石の道師の下に重須衆も列したりと大石記にあり、是重須学寮にては化主順師眼疾の為に甲斐国下山の大沢に閑居し日済未だ衆を領するに至らず日代は忌避せらるる故なり、又日代離山の時は初め大石の藤木坊に在りしと或は山衆の情誼に依るものか、然るに道師と郷師との建武二年の諍ひの時は重須には郷師党の交誼ありと雖も重須日妙の暦応二年の申状には先師日興上人の申状と共に日目上人のをも副へたるは其法契に於いて間隙無かりしを見る、爾後両山互に非運にして疎隔して文明十四年件及び大納言事件等の為に溝渠を深くし、徳川時代に至り一般仏教の拘束の為に殊に北山は世法に染み開山巳来の厳規を忽にするを批判せられて元禄の出入となり平和を装ふと雖も、北山大に恵まれず頻々たる大火に山勢を消耗し中間他山より貫主を迎へたるも意の如くならず、之に反して大石は本末弥よ振興し讃岐本門寺事件等介在するを以って遂に和融の道無きに至る。北山は明治に至り要山の傑将日志を迎へて法運の挽回を謀りしが、相互の不和は図らず爆発し志霑問答を惹起し再び年を閲して終らず、霑師は金沢に妙喜寺を創建し次いで久留米に霑妙寺を又尾張に妙道寺興道寺等を新建するを以って此事を省みるを得ず、志師は大教院の事務多忙なりしと不幸病死とに依って明確なる団円を得ず、山徒互に勝利を叫ぶ、志師の大志半途にして潰へたる尚二三代は其縁由に依りて維持せられたるが遂に旧躰依然以って今日に至り不幸にして永く呉越の境と成了す、其開運の日は将して何日ぞや。 一、大石記 一、日代日仙問答の下に問答宗史部の引文を抄録する故に爰に贅せず。二、家中抄の文 宗学要集第五巻宗史部の一の二〇四頁に具文あり、爰に略抄す。 〇七日ごとに御弟子衆各供養を捧げ仏事を作して報恩謝徳の一分に擬す〇、初七日には日代の御供養重須に於いて之を修し日目の御説法あり、一百箇日の御仏事、日目大石寺に於いて修し給ふ御説法は日代なり「御伝」。 編者曰く精師の史伝に間々「御伝」と其依拠らしきを示さるれども其何書なりやは知り難し。三、日●縁起 日我奥書本 一、代仙問答の下に引ける抄なり、但し別本には重須宿の年号少く異れり。〇建武三丙子日向を発足し延元二丁丑二月五日に富士重須に着し大衆に見参あり、同七日に重須を出で安房吉浜堂坊に着し日郷上人へ拝顔し奉り重々御法門相承し給ふ〇。 〇、貞治四年乙巳正月廿二日は京都を起ち二月五日に大石蓮蔵坊に参著在って相違無く三代師の御法事にあひ給ふ、〇、廿九日に房州を出で其日鎌倉に著し三月十一日富士蓮蔵坊に著し其夜は重須式部卿阿闍梨に宿し次の日富士を起つ〇。 四、日会記 祖滅百九十九年、本乗寺日会の記にして寛文八年の写本妙本寺に在り、此より抄録す。〇爰を以って日安上より上総国佐貫郷内本乗寺の住花光坊日会、久遠寺日院に同心候て、文明十四年壬寅閏七月廿三日に妙本寺を罷り立って同月廿七日久遠寺へ著し畢んぬ、重須本門寺日浄上人と内談〇、久遠寺住右京阿日院〇日会〇信乗坊日遷同く久遠寺衆其外老若、九月七日午の尅大石寺本尊堂に着座す、良有って重須日浄上衆余多引き具し同檀方には井出周防入道妙行重須の御檀那なり、〇。 五、日我状 祖滅二百八十三年、日我より重須日出への詰問の状なり、高弟日●の写し妙本寺に在り、今此を抄録す。 〇日我の代に里見大納言と日耀と寺家諍ひの時、亜相より智存と申す同宿にて一札に預り候、其返状の条文其の寺に御所持之有るべく候、大石西山は大納言贔負なり目安駿府へ捧げられ候、当時より日耀正嫡たるべきの由申す故安堵成され候、府内に於いて其披見存知の方之有るべく候、本行坊日輝存ぜらるべく候。六、元禄出入 北山本門寺等諸山近代の写本に依る。 三月六日七日八日大石寺談義の次第。 一、六日には日俊談義仕り候、其披露には此の間どやくや御座候て日俊は面に泥を塗り候間、其泥濯ぎに今日の談義致し候、又今度出入の義に久遠寺四度迄参り様々訴訟仕り候間、其分にて指置き申し候。一、日興門流にて法華経壱部を堅く読み申さず候、壱部読誦仕り候は謗法堕獄に相成り候と申し、六人立義抄を証文に出し申し候。 一、鬼子母神は祖師日蓮の内証に自ら納まり候間、外に尊形を作顕し候はば謬りの至極に御座候、其上鬼子母神へは他門他宗も参詣いたし散銭供養御座候、其散銭を受け候儀謗法堕獄の根源に相成り候と申し候事。一、袈裟衣は薄墨の素絹、袈裟は白色の五条之末法折伏の袈裟衣にして真の袈裟衣に御座候、其外紫衣香衣黒衣等、七条九条等の袈裟衣は愛着の袈裟衣と名けて真の袈裟にあらず、子供の風流をいたし候と同前に御座候、斯様の袈裟衣を着し申し候は謗法堕獄にて御座候と申す事。 一、漫荼羅書き様の儀は日蓮在判と書き申さず候へば閻魔大王より帰され中有の衆生に罷り成り浪々致し夫より地獄に堕ち申し候此儀を知らずして題目の下に自身の判を居へ日蓮聖人を天台伝教に座を並べて脇書に勧請いたし候は、世間の謀判と同じく其罪同前に御座候事。 一、大石寺は本堂にて戒壇建立の地に紛れ之無く候、則其申し弘めの談義にて御座候と申し候事。一、日啓は七日八日に談義仕り候、七日は石塔開眼に寄せ四箇条を申し候、八日には庫裡客殿葺替の事に寄せ四箇条を申し候、其趣き日俊申し分と相替らず候。 上件の儀日興直筆の証文大石寺に御座候へども尤大切の書物にて諸人に拝ませ候は軽々しく御座候間儀無く候、是非拝みたく存じ候はば内証へ壱両人宛参るべく候大勢は相成らず候由申し候事。 右三日の談義承り及び候所斯の如くに候、此度御威光を以って日興自筆の証文召し出し下され候はば有り難く存じ奉るべく候。 一、大石寺に金口の相承と申し候に唯授一人の秘法御座候と日俊申しふらし拙僧檀那に誓言いたさせ、右の金口を相伝いたし色々たぶらかし申し候、斯様成る勧めは吉利支丹伴天連は存ぜず仏者の作法には終に御座無く候、斯様成る奇怪の勧をも御威光を以って申し静め候様に願ひ奉り候、以上。 元禄二年巳十一月十六日 北山 本門寺。 御奉行所、御役所中。 恐れ乍ら書付を以って御訴訟申し上げ候、 駿州富士郡北山本門寺。 一、同国同郡上野村大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し奇怪の法を専ら申し弘め候、謂く法華経一部を読誦候は無間地獄の業と申し、素絹五条の外一切の袈裟衣は謗法売僧襁褓に候と申し、或は漫荼羅の書き様は題目の下に判を居へ日蓮と天台伝教と座を並べて書き候は師敵対と申し、或は鬼子母神造立等は謗法堕獄と申し候、此四箇条を以って本門寺は無間山、檀那は無間の罪人と日俊並に衆檀共に悪口を致し候へども、種々遠慮御座候故六箇年の間堪忍罷り在り候処、去る二月三日の晩黙止し難き子細承り候に付き日俊に対談を遂げ僉議仕るべく存じ満山の衆徒を集め談合せしめ候処、大石寺年来の弘通にて此方の衆檀疑念仕り候間、先々談義を致し右の疑を晴らし其後対談仕り然るべきの旨衆義一統に申し候に付き、一七日談義を致し衆檀の疑念を晴らし申し候、之に依って使僧を大石寺に遣はし対談仕るべしと存じ候所に、同郡久遠寺並に惣檀那達て抑へ候故暫く延引せしめ候、其内日俊邪謀を廻らし却って彼方より使僧を遣はし右四箇条の儀曽て申さず存ぜずと陳報致し譫言の者之有るべきの由申し越し候故、此方より六人証人慥に申し遣はし候へども終に僉議仕り候事罷り成らず、其後久遠寺を頼み扱を以て落着仕り候、委細の儀は使僧往復の口上書に分明に御座候、右四箇条の儀日俊放言仕り候条紛れ無き事に御座候へども、種々陳報の上久遠寺扱にまかせ三月三日に相済み申し候処、日俊忽に相違せしめ同六日に返報致すの談義右四箇条の義一々妄説仕候、中んづく法華経壱部読誦仕り候儀、鬼子母神造立致し他門の散銭を受け候儀は無間堕獄の根源にて御座候段強盛に●り申し候、斯様成る儀は経論釈書にも曽て依憑之無き天下の妖怪、仏法の穀賊にて御座候此等の趣は法華宗一同に言上仕り御下知蒙るべき事に御座候へども別して富士五箇寺一派の儀に候間、拙僧不肖に候へども仏恩国恩を存じ奉り彼の邪義邪法を静め正法正義の流布を願ひ奉り今度言上仕り候、且又散銭の儀は順縁の供養にて御座候間開山巳来受け来り候処、無間堕獄の根源と悪口仕り候上は順縁にて御供養下し置かれ候御朱印等の儀も皆悉く無間堕獄に罷り成るべく候、然る上は御公儀へ対し●咀逆心の道理に存じ奉り候事。 一、去る寛文八年申の三月十七日、御奉行所より仰せ出され候諸宗の寺法御尋ねの節、大石寺より壱部頓写千部読誦等執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し候儀又御免許に於ては色衣香衣を着用申し候儀証文指し上げ候処に、只今日俊等一部等読誦堕獄等の邪義を申し立て候は、御公儀を軽しめ申すのみにあらず仏法の大義を廃し先師代々をも忽諸せしむるの条、言語道断の至りに存じ奉り候事。一、本門寺は御影堂、大石寺は本堂の由累年申し弘め愚人を惑はし候、此段は往昔永正十二年亥の六月廿六日今川修理太夫氏親公、両寺の証文を委細に御穿鑿成され理義分明の裁許の上に、御直筆の証文を本門寺に賜はり落着申し候処に、近年頻に開山の掟に国司の正判を破り申し候事。 此の外造仏堕獄の儀、本門寺三宝の立て様並に日蓮大士と書き塔婆に釈迦多宝を書き候事は誤りの至極に候由、日俊並に衆檀共に専らに申し候、斯様の儀は此度の出入にては御座無く候へども、無実の説に御座候間当山の証文をも賢覧に備へ奉り大石寺の証文をも御尋ね下し置せらるべき為に加様に申し上げ候事。右の条々大石寺隠居日俊当住日啓を召し出され対決仰せ付けられ候はば有り難く存じ奉るべく候、委細の儀は御尋ねの節口上に申し上ぐべく候、以上。 元禄二年巳七月五日 駿州富士北山本門寺判、日要判。 寺社御奉行所。 編者曰く七月五日は「六月」とも「十一月十六日」とも在る本あり、但し十一月なるべきか。 恐れながら返答書差し上げ申し候、駿州富士上野、大石寺隠居、日俊。 一、駿州富士大石寺は開山日興上人巳来四百年に及び当時まで法義少しも違乱仕らず候処に、此度北山本門寺日要より、御制法を背き自讃毀他の談義を致し奇怪の法を専ら弘め申し候条申し上げ候段、不審至極に存じ奉り候。 一、彼の条目に法華経一部読誦致し候者無間堕獄の業と申し候事、是日要が妄説にて御座候、既に法華経を以って宗旨と仕り候上は一部読誦無間堕獄の業と申すべき筋目は御座無く候、但し富士五箇寺は開山巳来法華一部の肝要方便品寿量品の二品を以って三時の勤行仏事作善等に執行致し来り候、御当地抔に於いて大名高家の下に相住み候寺は、大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事。一、素絹五条の外一切の袈裟謗法売僧と申し候事、此段猶以って誑惑の至りに御座候、袈裟衣の儀は宗々に依り其品を相分け申す処に一切の袈裟衣謗法売僧襁褓の義と申すべき道理御座無く候、但し富士五箇寺の日興門徒に於いては薄墨色の衣、同じ五条袈裟或は白き五条古来よりの格式に御座候、若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候事。 一、曼荼羅書き様の事、富士五箇寺代々の住持は従来題目の下に日蓮在判と書き申す事一同に候、若し本門寺に於いて相背き候はば師敵対にも成り申すべきか、然りと雖も此方より吟味仕らず候事。一、鬼子母神造立は富士五箇寺に開山巳来之無く、殊に諸堂数多造立仕らざる法義に候故当時まで大石寺は此式を相守り候間、余寺の造立は構ひ申さず候、然りと雖も富士五箇寺の法義一同の儀殊に大石寺本門寺の両寺は開山日興建立の故別して違乱致すまじき処に、本門寺近代日優日要二代法義相違の儀御座候に付き、檀方の不審晴れ難きまま日俊並に衆檀とも悪口致し候と申し懸け、一七日の談義に理不尽に大石寺無間山日俊堕獄と夥しく悪口致し、其上御法度の法論に不似合切賭の勝負を高座の上にて一つ鐘打たれ披露致し候由風聞仕り候に付き、使僧を遣はし様子承り候処に、大石寺無間山等の儀申し候へども大石寺よりの返報と偽り申さるる故、大石寺より本門寺無間山と申し候其三人の証人相尋ね候へども本門寺檀那の内を一両人名指し致され候、斯様の証拠之無き事に御座候故達て僉議仕るべき処に、久遠寺取扱ひ申され候に付き且は一派の儀と存じ去年二月廿八日に相済み申し候、同三月六日より八日までの談義は当寺代々の石塔造立去々年極月より去年正月に至り出来仕り候故、其開眼の談義を右本門出来騒動に付き相延ばし六日より開眼供養の談義執行仕り候、若し愚痴の族は返報の談義と聞き申すべきかと存じ必ず本門寺への返報には之無き段念を入れ申し聞け候、聴聞の者ども承り候由罷り在り候其段去年霜月朔日に久遠寺方へ書付遣し申し候、本門寺より返報説義の由申し上げ候事妄説至極に御座候事。 一、御朱印等下し置かれ候儀。無間堕獄に罷り成り御公儀に対し●咀逆心の道理に存じ候事、是以って存の外の至り勿躰無き御事に存じ奉り候、此段急度御僉議遊ばされ下さるべく候、国恩報じ難き上殊に累代御朱印下され候故申すに及ばず諸末寺に至るまで弥天下安全の御祈祷怠慢無く仕り候事。 一、去る寛文八年大石寺の寺法書き上げ候事先段に申し上げ候如く少しも相違仕らず候事。一、本門寺は御影堂、大石寺は本堂と申し候事は、互に一本寺の儀に御座候へば此論之無き事に御座候事。一、造仏堕獄と申す事は無実の申し懸け終に此方より堕獄と申さず候、仍て京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺より罷り越し候、今に通用絶え申さず候事。一、日蓮大士の事、大士とは菩薩と申す事に候へども京都妙顕寺大覚上人祈雨の褒美に、天子より菩薩号勅許遊ばされ候、然れば彼妙顕寺は日朗日像門家、富士の五箇寺は日興門流にて別派にて御座候、日興以来終に五箇寺は大士とも菩薩とも申さず候て唯日蓮聖人と書き来り候事。 一、本門寺三宝の立て様、或は石塔に妙法と略書し塔婆に釈迦多宝と書き候事謬の至極に候由日俊並に衆檀とも専ら申すとの事、是又妄説至極に御座候何も此方より申さず候事に御座候事。 右の条々聞こしめし分けさせられ候はば有り難く存じ奉るべく候、委細の儀は御尋の上口上にて申し上ぐべく候、以上。 元禄三年午二月十八日 駿州富士郡上野大石寺印、隠居日俊印。 寺社御奉行。 指し上げ申す一札の事。 一、大石寺日啓隠居日俊累年の間談義仕り候節、法華経一部読誦致候者は無間地獄の業、素絹五条の外一切の袈裟は謗法売僧襁褓、曼荼羅題目の下に判形を居へ日蓮と天台伝教と並べて書き候者謗法堕獄、此四箇条を以って本門寺は無間山、檀那は無間の罪人と悪口致すに依り御儀僉議願ひ奉り候に付き、此度大石寺日啓隠居日俊召し出され御尋ね成され候処、右四箇条の儀曽て申さず候由、両僧申し上げ候に付き、然るに於いては私ども申し分無く其上同宗一派の事に候間向後大石寺と和融致し異論之無き様に仰せ付けられ候趣き畏り奉り候、尤も以来大石寺に対し誹謗仕るまじく候仍て件の如し。 元禄三年午三月廿七日 本門寺、日要判。 寺社御奉行。 右拙僧ども一同に仰せ渡され候趣き承知奉り候、其為奥印仕り候、以上。丸山、本妙寺判指し上げ申す一札の事。 一、拙僧ども累年の間談義仕り候節、法華経一部読誦候者無間堕獄、素絹五条の外一切の袈裟衣は謗法売僧襁褓、曼荼羅題目の下に判形を居へ日蓮と天台伝教と並べて書き候者師敵対、鬼子母神造立候者謗法堕獄此四箇条を以って本門寺日要出訴候に付き、此度私ども召し出され御僉議を遂げられ候へども、右四箇条の儀拙僧ども申すべき筋目の事に之無く曽て申さず候様に申し上げ候、之に依って同宗一派の儀に候間向後は本門寺と和融仕り出入之無き様に仰せ付けられ候趣き畏り奉り候、勿論以来本門寺に対し誹謗仕るまじく候、仍って件の如し。 元禄三年午三月廿七日、 駿州大石寺印、日啓判、隠居日俊判。 寺社御奉行所。 右拙僧ども一同に仰せ渡され候趣き承知奉り候、其為奥印仕り候、以上 丸山 本妙寺判七、志霑問答 本門寺志師の明治十一年十二月よりの三問条、宗学要集第七巻問答部二の三五頁より八七頁にあり、大石寺隠居霑師の同十二年一月よりの四答同問答部二の八九頁より一三八頁にあり又当職布師の答文も併せ出づるも爰に再録せざれば繙読を乞ふ、但し此外に幾編か有るべしとの声を聞くが蒐集に至らず。又石山にて加藤日普及び本多成清の弁駁書あれども霑師の説に加上するものにあらざれば本編には之を省く。 |