富士宗学要集第九巻

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第四章 石泉の離反

 日目上人天奏の途上垂井の遷化は大石に多大の不詳を発し法運壅塞の原由となれり、時に大石の西大坊に主職する日道と東坊蓮蔵坊に住する日郷との間に宗義の諍ひ起り東坊中の一二此に左袒したるより大衆の為に擯出せられ、房州の旧地に去る至れり、此を以って日郷は南条の宗家たりし時綱に乞ふて東坊地一帯の寄進を受け又其嬰児牛王丸を其後董として互に結托し、事を官憲に訴へて進出し東御堂を作りて西大坊と拮抗せり、此より以後或は地頭或は守護或は管領と官憲を煩して東坊地の出入諍論七十年に亘りて事遂に西大坊の理運に帰せり、固より大坊の位置は初より此渦中に入らず安全たりしなり、●に於いて東坊の数拝は退去して房州等に行き、又小泉に小池を卜して永遠に郷門の本山と定め代官を配して房州にて之を管せり、然りと雖も余●全く●きたるにあらず、後世に至っては己権を主張するが為に文書を曲解し史実を歪曲して、或は大石寺跡争奪の如く、或は道師に謗法の失ありしが如く、又は郷師必死の迫害に遇ひしが如く、或は板本尊を持ち去らんとせしが如く、道郷二師の留守と御供との位置を替へたる等種々の浮説を作りて益阻隔を謀れり、殊に近年小泉日晴の譲りを得て石徒日含(後の日柱上人)の久遠寺に晉山するや、此を防●するが為に竹槍騒動を惹起するに至る、然りと雖も時永劫に闇昧ならず近時相互古文書等の公開に依り本末の覚醒を深め、史実の正解を得て如上の朦雲を払はんとするに至る、亦悦しからずや、果して然るか又は当山主の英断と有志の門末の正信に依りて永年の葛藤を捨て復帰するの佳節を見るに至る。
一、大石東坊出入七十二年間の相方の古文書
祖滅五十六年より伝来する所の正本副本古写等現存するもの、例に依って受動側には僅少にして能動側には二十八通の多きに及ぶ、今年代順に排列して事件の変転を見、兼ねて後世悪感情の為に歪曲せられたる宗史を清めんとするなり。
足利尊氏将軍の判物 宗学要集第八巻史料類聚一の三四頁に出づれば此項には省く、日郷初度の擯出即ち建武二年の冬安房の旧縁に退きて吉浜に●爾たる法華堂を作りて官憲の証判を得たるもの全く建武五年に属す。
南条五郎左衛門平の時綱(大行の五男)の寄進状   正本抄本寺に在り。
宰相阿闍梨郷師は南条の宗家に運動して時綱の子牛王丸を後董とするの条件にてか大石の東坊即ち蓮蔵坊以南の地を譲り受けて此を根拠として事件は二転三転せり。
大いし(石)でら(寺)のひがし(東)かた(方)は、とき(時)つな(綱)がそ(所)りやう(領)なるあいだ、のこ(残)るところ(所)なく、さい(宰)しやう(相)のあ(阿)ざ(闍)り(梨)の御ばう(房)に、き(寄)しん(進)つかまつ(仕)るところ(処)なり、よつ(依)てのち(後)のために、き(寄)しん(進)のじやう(状)くだん(件)のごと(如)し。
けん(建)ぶ(武)五ねん(年)五月五日            平の時綱在り判。
さい(宰)しやう(相)のあ(阿)じや(闍)り(梨)の御ばう(房)。
同上誡めの状   四郎左衛門尉時長は時綱の惣領にして牛王丸の兄なり、此正本妙本寺に在り。おほ(大)いし(石)でら(寺)のひがし(東)かた(方)は、一ゑん(円)にさい(宰)しやう(相)のあ(阿)じや(闍)り(梨)の御ばう(房)の御はからひ(謀)として、まつたく(全)とき(時)つな(綱)がし(子)そん(孫)さまたげ(妨)申べからず、もしこの(此)いましめ(誡)をそむ(背)かんし(子)そん(孫)は、ふ(不)けう(孝)のじん(仁)たるべく候、のち(後)のために、じやう(状)くだん(件)のごとし(如)。
りや(暦)をう(応)二ねん(年)二月十五日            時綱あり判。
なん(南)でう(条)の四郎(左)へ(衛)もん(門)のぜう(尉)、さい(宰)しやう(相)あ(阿)じや(闍)り(梨)の御ぼう(房)。
南条四郎左衛門時長の証状   正本存在せず反故裏書に古写あり、東大門は東方とも同義にして故入道は時綱であり安房の坊主は日郷にして当時未だ東坊に常住し得ざりしなり。
一、大石寺の東大門は故入道の寄進の如く相違有るべからず候、恐惶謹言。
   暦応四年三月十八日                       時長判。
   安房の坊主御返事。
日郷より大衆等に大石寺東御堂並に坊地の譲状   宗学要集第八巻史料類聚一の七頁に出づる故に●に省く。
大石寺蓮蔵●次の定   同上七四頁、同上。
同 上 三月宛番帳の事   同上七五頁、同上。
興津法西より日行へ大石寺御堂並に東西坊中共に去り渡す状   正本大石寺に在り、本件に付いては石山に始めて見る官憲文書なり、先代日道上人は事件後七年、日郷党更に蓮蔵坊に復帰して東御堂を建つるより二、三年目に迂化せられ予定の如く宮内卿阿闍梨日行其跡を継いで以って、当時国主今川家の河東の代官興津法西入道に依りて日郷党を擯出すべき証状を得たるなり。
去り渡し申す大石寺の事。
右の所は上野郷の内にて法西が知行分たりと雖も先師の相継に任せ、本主寄進の如く御堂並に西東坊中相共に卿阿闍梨日行へ去り渡す所なり、法西が子孫に於いて違乱妨げすべからず、依って後日の為去り状件の如し。
   貞治四年十一月十三日                  沙弥法西在り判。
今川氏家状   当時の写し妙本寺に在り、氏家は心省の孫中務大輔にて泰範の兄なり、当時今川家は駿州志太郎花倉に在り、小泉党にては大石寺より興津地頭へ策動ありと見て直に遠路花倉(藤枝の北)に馳せ興津を制圧すべく運動して効を奏し大石の希望を停止したるものと見ゆ、猶各文書に見ゆる今川国主の人名及び被官の人名職掌に不明の者多く又文書に疑ひあれども未だ検討の余力なし、偏に後賢を俟つ。上野郷の内大石寺の事、中納言律師申す旨候か、相違無き様御斗らい候はば為悦候、恐々謹言。   (貞治四)十二月廿九日                    氏家御判。
   興津美作入道殿。
興津法西入道より日賢へ返付の状   正本及び当時の写本反故裏も共に妙本寺にあり、日郷の補処牛王丸は成人して中納言公と称し日賢と号し律師に任官し法印に転位せり、此の官僧は大に宗祖開山の御意に背くものなれども時勢官憲を動かす必要のものなりしなり、日賢後に日伝と改め応永廿三年七十七歳にて迂化すと云ふに依れば正に事件発生の頃に生れたるものにて、日伝の一生中に終りしなり、此を以て小泉党にては日郷日伝の二代に亘り大石にては日道日行日時と三代を経たるなり。
駿河の国富士上方上野郷大石寺御堂坊地等の事。
先例に任せ地頭時綱寄進状並に師匠日郷置文以下証文等の旨により、宮内卿阿闍梨日行の競望を止め、元の如く中納言阿闍梨日賢に返付申し候了んぬ、仍て先例を守り勤行せらるべきの状、件の如し。   貞治五年九月十七日                     沙弥法西判。
 大石寺別当事中納言阿闍梨の所。
同 上   当時の反故裏写し妙本寺に在り。
富士郡の内上野の郷大石寺東坊職の事。
合壱所者・右彼の坊職に於いては本の如く付属申し候処の状、件の如し。
   貞治五年十月十四日                       法西判。
法水状   同上。
上野の郷の内大石寺の事。
中納言律師理運に任せ安堵の由申し候、尤本望に候、委細の旨は此仁申すべく候、恐々謹言。   貞治六年十月八日                        法水判。
   地頭興津美作入道殿。
今川心省入道状   当時の写本妙本寺に在り、心省は範国の入道号なり長命の人なり、孫の氏家等の取扱も或る御方或は鎌倉管領かの処分も実行不可能なれば日伝の歎願に任せて地頭美作入道法西に命令したるなり、守護は遠国に在りて情状を委くせず地頭は近里にありて大石の内情に通ずるが故に大坊側に同情ありしか兎も角板挟みの情勢に在りしが如し、此を以ってか小泉党にては興津美作守は日行の兄なりと妄称する者出づるに至る。
中納言律師日賢申す大石寺別当職東坊地の事。
御方より安堵成され候の処、不慮の錯乱出来候由歎き申し候不便に候、多年見来る仁に候の際此の如く申し候、相違無き様御斗らひ候はば悦び入り候、委き事は此仁申さるべく候か、恐々謹言。
   (貞治七)二月廿八日                      心省判。
   興津美作入道殿。
同上   同上、中務太輔は孫にして当主氏家なるべし。
富士の上方上野の郷大石寺東御堂並に坊地の事。
中納言律師日賢歎き申す子細候か、相違無き様計ひ沙汰候はば悦び入り候、謹言。
   (応安元)四月十六日                      心省判。
   中務太輔入道殿。
今川泰範披露状   正本は日伝写本と共に妙本寺に在り、端に「到応安二、六、十一」とあり、貞治四年より応安二年に至る五年の間に決定せざるを以て小泉党は遠州に跪き鎌倉に叩頭したるものと見へ本書の泰範は今川の当主なるが斉藤入道は鎌倉管領家の被官なるが如し。
富士の上方上野の郷内大石寺の事。
御書の趣き奥津美作入道へ申し候処、子細無く中納言阿闍梨に渡し付け候、此旨を以って御披露有るべく候恐惶謹言。
   (応安二)五月廿八日                宮内少輔泰範在り判。
   進上斉藤入道殿。
興津法西より日伝へ東御堂等渡し状   日伝の写本妙本寺に在り。
ふ(富)じ(士)のかみ(上)がた(方)うゑ(上)の(野)のがう(郷)おほ(大)いし(石)のひんがし(東)のみ(御)だう(堂)ならび(並)にばう(坊)ち(地)の事。わたし(渡)申し候也、いか(如何)なる事候とも、又こゝ(此処)にかく(斯)のごとく(如)てきはう(用語不明なり)申し候とも、もちひ(用)まじく候、このじやう(状)をもつて御ち(知)ぎやう(行)あるべし。
   おう(応)あん(安)二年五月廿八日               法西判。
   ちう(中)な(納)ごん(言)のあ(阿)じや(闍)り(梨)の御かた(方)。
今川心省より日伝へ前書承認の状   反故裏の写し妙本寺にあり、応安「三」は「二」の誤なるべし。駿河の国富士の上方上野の郷の内大石の寺の東御堂並に坊敷等の事、去る五月廿八日地頭興津美作入道の渡し状披見候了んぬ、其意を得べく候なり、恐々敬白。
   (応安三)七月卅日                       心省判。
   中納言律師御房。
時師の等身の御影の裏書  事件巳来五十四年に及び小泉党の持ち去りし大御影は到底本に還らるべきに非らずと観じて大仏師の来れるに命じて等身に彫刻せしめ嘉慶二年十月十三日開眼して御影堂に安置し給ふ、即今の本堂の御影是なり、具文は史料類聚の一の一九〇頁に出づるを以て爰に省く。
今川泰範より興津美作守へ状   当時の古写妙本寺にあり、端裏書に云く「明徳二、初度御書案文」とあり、明徳二年には蓮蔵坊一帯の堂宇全く大石寺に復帰せりと見へて日賢(後の日伝)より今川家に歎願したり、此時沙弥法西は死して後の美作守代なりしなり。中納言律師日賢申す、富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の御堂並に坊地の事。
先年心省の挙状に就いて申し候間、故法西禅門異義無く日賢に沙汰付けられ知行に当るの処、近日錯乱の由歎き申し候不便の次第に候か、相違無き様計らひ沙汰候はば悦び入り候、恐々謹言。
   (明徳二)六月十五日                      泰範判。
   興津美作守殿。
同上   同上、端裏書に「明徳二、二度目の御書案文」とあり。
中納言律師日賢申し候、富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の御堂次に坊敷の事。
先立って申し候の処事行かず候条何様の次第に候や心元無く候、所詮文書分明の上は理運に任せ早速渡し付けられ候はば為悦候、恐々謹言。
   (明徳二)八月廿九日                      泰範判。
   興津美作守殿。
同上 正筆妙本寺に在り端裏書等なしと云へども三度目の状なること文に在って明なり。中納言律師日賢申し候、富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の御堂次に坊敷の事。
先立て度々進状仕り候処事行かざるの由歎き申し候、所詮連々申され候へども承引無く候間此の如くに面目無き次第に候と雖も進じ申さしめ理運候上は、早々日賢に渡し付けられ候て別儀御志たるべく候、尚々子細無くば悦喜せしむべく候、諸事後信を期し候、恐々謹言。
   (明徳二)十二月十四日                   泰範在り判。
   興津美作守殿。
同 上   正本東京某氏に在り記年なしと雖も爰に編入し置く、文の大石寺別当と云ふは日賢なり、各文明に諍論の目的地は蓮蔵坊、東御堂、東坊地、東大門等と明に記別し西御大坊西坊地等加へざれども郷師へ目師より相伝ありと主張するより大石寺別当と冒称したるなり、是を以てか後人は大石寺は目上の蓮蔵坊が主堂にして身延山久遠寺を移したるもの故に本件落着の後は小泉の草庵は蓮蔵坊を移したるものなれば、即ち身延山の久遠寺なりと称するに至れり、是れ明に開山上人重須に移られて後は西大坊を大石寺の本坊として主職は之に住し従って目師をば重須の興師より西坊主等と呼ばれし事を忘却したるの故なり。思ひ寄らず存じ候処、鞦一具羽二尻送り給ひ候条、悦喜せしめ候諸事後信の時を期し候、恐々謹言。   (明徳三か)三月六日                    泰範在り判。
   大石寺別当御中。
今川前上総介より日伝への証状   正本妙本寺に在り、当時日賢は日伝と改名し泰範は前上総介と公称せり、興津への伝令三度に及べども埒明かざるより国主より直に日伝に証判を与へ更に目代を以って地頭に談判せしむるの別策を取りたるかと見へ、目代より莫大の安堵料を徴収せられたる事は後の状を見るべし。中納言律師日伝「賢字を改む」申す、駿河の国富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の御堂並に坊地等の事右相伝と云ひ知行と云ひ文書炳焉の処、卿阿闍梨日時掠領謂れ無きの間日伝に返付すべきの旨、当郷地頭興津美作守方へ去年中三箇度に至り書状を遣はすと雖も一切承引せざるの上は違背の科遁れ難し、然れば早く日時の掠領を退け日伝に返付する所なり領掌相違有るべからざるの状件の如し。
   明徳三年六月十二日                   前上総介在り判。
範綱等より目代への状   正本折紙妙本寺に在り、両人は今川家の披官か、御目代とは何人なりや次に在る興津氏の氏清か光俊か不明なれども河東の代官たる事は明なり。
中納言律師日伝「賢字を改めて伝と号す」申す、富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の御堂並に坊地等の事御判の旨に任せて日伝へ沙汰付けられ執進せしめ給ふべく請取の状の由の所なり、仍って執達件の如し。   明徳三年六月十二日               範綱在り判、玄久在り判。
   御目代殿。
氏清より興津美作守へ安堵料の状   古写本妙本寺にあり、此写の端裏に「明徳三、七月五日おきつ味左守状案文」とあり、又状の宛名に「味左殿」とあるは共に「美作」の擬字か、貞治四年の法西状の旁に「をきつどのなり美作守氏清」と注したる反故裏書妙本寺にあれども、此時は法西既に死去せる故に信じ難し、又此書の味左の実名後の法陽入道なりや研究を待つ。
なを(猶)なを(猶)あん(安)ど(堵)れう(料)の事はきやう(京)と(都)へ申され候とも、さだまれる(定)事にて候あいだ、かたく(堅)申しさ(沙)た(汰)あるべく候。
大いし(石)のひがし(東)御だう(堂)地の事、四日わたし(渡)候べきよし申し候ところ(処)に、府中によう(用)候てまかり(罷)いでて(出)候によつて、かさね(重)てそう(僧)をたび(給)て候、まづいそぎ(急)わたし(渡)つけ(付)られ候べく候、あん(安)ど(堵)れう(料)三十貫文にて候べく候、かたく(堅)申しさ(沙)た(汰)あるべく候、恐々謹言。
   (明徳三)七月五日                        氏清。
   味左殿。
光俊渡し状   古写本反故裏書妙本寺に在り、光俊は花倉の被官なりや河東の代官なりやを知らず。大石の寺の東の御堂並に坊地等元の如く渡し申す所の状、件の如し。
   明徳三年七月七日                        光俊判。
   中納言律師御房。
氏清安堵料の受状   正本妙本寺に在り。
上野の東の御堂あん(安)ど(堵)れう(料)そく(足)れう(料)とに三十貫文給び候了んぬ、わたし(渡)状の五くわん(貫)給び候、物かく(書)物候はず候間ほん(本)のごとく(如)身がかき(書)うつし(写)候て進じ候、きやう(向)ご(後)にておき(於)候ても、し(子)さい(細)あるべからず候へば、御使御申しあるべく候、恐々謹言。
   (明徳三)閏十月廿二日                   氏清在り判。
   御返事。
時師大石東坊地等返付の申状案   正本大石寺に在り、今川家は日伝に縁由深きに依り時師は鎌倉管領に裁判を請はれたり、此の申状効を奏してか又は小泉党勢力尽きてか七十年の係争跡を絶つに至れども猶余●は形を変へて明滅せるが如し、大石一山の法厄蓋し甚大なりしなり。
駿河の国上野の郷大石寺別当宮内卿阿□□□□□(闍梨日時申す)、当時内東僧坊同く別当坊敷等間□□□副へ進ず、一巻、当所管領証文等の案。
右当寺は開山日蓮上人より以来□□(日時に)至る迄相続相違無き者なり、爰に中納言阿闍梨日伝不□(信)の子細有るに依って先師日目上人の勘当を蒙むるの間、年来寺中の経廻を停止せしむるの段世に以って其隠れ無し、然るに先師円寂の後権門の人を相語らひ、別当坊敷を点して新御堂を建立し剰へ東僧坊を押領し先師の遺命に背き門家の乱逆を致すの条言語道断の所行なり、之に依って地頭作州方に於いて訴へ申すに就いて道理に任せて元の如く宮内卿阿闍梨日□(時)に返付せられ畢んぬ、随って当知行相違無き処彼の日伝竊に守護の御方を掠め奉り御吹挙を申し成す云云、造意の企以ての外の濫吹なり、然れば早く掠むる所を□(召)させられ御書下を給ひ永く彼の非分の奸訴を停止せられ、卿阿闍梨日時に於いては相伝当知行の理運に任せ永代不易の御成□(敗)に預り、弥天下太平御家門繁栄御祈祷の懇念を抽んでんが為、粗目安言上件の如し。
   明徳三年七月  日
散位某上野郷法華堂々地打渡し状   正本大石寺にあり、散位の名及び職分未だ校へず蓋し鎌倉管領の被官なり、十二月九日の施行命令状目下本山に無し、又六は美作入道法陽なるべし。
駿河の国富士の上方上野の郷の内法華堂々地の事。
明徳三年十二月九日御施行の旨に任せ卿阿闍梨日時代に打渡さるべきの状、件の如し。
   明徳四年正月廿三日                     散位在り判。
   興津又六殿。
泰遠状   正本大石寺に在り、泰遠は管領家の被官か、目代は前と同人なるべし、打渡の実行遅々たる故の催促なり、卿阿闍梨日時雑掌申し候、富士の上方上野の法花堂坊等の事。
先立て連署書下成され候の処未だ事行れざるの由歎き申され候、先日書下の旨に任せ彼の雑掌に沙汰付けらるべきの由に候、恐々謹言。
   (明徳四年か)三月十七日                  泰遠在り判。
   御目代殿。
今川泰範の大石堂地及西坊地等の証状   正本大石寺に在り泰範法躰後のなり華押は以前と同じ、小泉党と係争の地は東坊地に限ると雖も万一を慮かり第三者に対抗する為に開山巳来清浄伝持の所即大石御影堂地西大坊一帯の地をも更に地頭に寄附せしめて守護の証判を得たるものなり。
駿河の国富士の上方上野の郷の内大石の堂地同く西坊地の事。
右興津美作入道法陽寄附の旨に任せ、別当卿阿闍梨日時の領掌相違あるべからずの状、件の如し。   応永十年七月十二日                     沙弥在り判。
興津美作入道法陽去り状   正本大石寺に在り、此が東坊地係争文書官憲分の最後なり、文中に権門様とあるは守護今川心省等を指すなり。
さり(去)状。
右、富士の上方上野の郷の内大石の寺の東の坊地は法陽が知行分の内たりと雖も、本の如く別当卿阿闍梨日時にさり(去)わたし(渡)申すなり、但し中納言阿闍梨日伝彼ひがし(東)坊地を競望せしめ掠め申すに依り、権門様御不知案内の間御口入候によりて、しばらく(暫)彼仁のかた(方)へわたし(渡)候といへども、もと(本)よりの理運にまかせ(任)て日時のかた(方)へわたし(渡)申す処なり、仍て法陽が子々孫々異義あるべからず候、若し此旨を違背せん輩においては不孝の仁として法陽が所領を全く知行すべからず候、仍て後日の為さり(去)状件の如し。
   応永十二年乙酉卯月十三日                沙弥法陽在り判。
時師より小泉の周師への状   正本小泉久遠寺に在り係争事件落着について大石の御影を返還し奉られたしとの懇状なり、辞意共に柔和敢へて敵意を含まず但し事件は年と共に下火に成りたる辺もあるか、侍従阿闍梨は伝師の後継日周にして応永廿三年に日伝より妙本寺を一年順番に住持すべく命ぜられ三人の筆頭なり、史料類聚一一二頁に出づ、猶文中不明の処あり、大なる人の方とは管領か守護か、人目内とは意義如何、小泉方には今の妙本寺に在る大石寺の御影の名称云へり、此等後証を俟つ。
ねんごろ(懇)にまいらせ(進)られ候事目出度存じ候々々々々々々、尚々興津方の事返す●●去年退屈の状給ひ候とて其由を申され候つれども、是にてはや御中を愚僧申しなをし(直)て候間、判形更に異議なくあられ候、およそ(凡)は返す々々御心やすく(安)候べく候、目出度候々々々々。
其後久しく御見参に入らず候間真俗とも御床敷存じ候、抑も坊地の事により候て先度人を進じ候処に委細承り申し候条悦喜申し候、其に就き候は興津殿の状同く子息豊後守殿へ状まいらせ(進)られ候程に目出度存じ候、大なる人の方へ加様の大事の口入申し候事は、たやすか(容易)らぬ事にて候へども、興津の状進じ申され候程に悦喜申し候人目内と申し早々御影をも元の如く帰しまいらせ給ひ候はば、目出度候由披露申させ給ひ候はば目出度存じ候々々々々々々、恐々謹言。
   (応永十二年)五月廿三日                 僧日時在り判。
   侍従阿闍梨御房。
日伝より日崇等へ小泉の譲り状   愚文は宗学要集第八巻史料類聚一の八〇頁に在り爰に略抄す。但し此には未だ久遠寺の号なかりしなり。
駿河の国富士の上方並に上野の精進町北山の下方諸檀那道場の事。
右寺中は上野蓮蔵房を移し申さるゝ所の間惣門徒の本山と云云、〇。
日永久遠寺に控字本尊施入状   同上八一頁、祖滅百七十二年爰に始めて久遠寺の号を見る上野方にては久遠寺は蓮台坊日安の創立と云ひをるも大差無きが如し施入し奉る駿河の国富士山久遠寺蓮蔵坊御真筆、控字日本第一の御本尊〇、日安に之を授与す、〇。
二、大石寺久遠寺問答の事   祖滅二百年本乗寺日会の記文、天文年度日任日順等の識語ある古写本妙本寺に在るより抄録す、文中稍誤解あるらしけれども大概を見るの料と為すに足る、前文日永代に巳に蓮蔵白蓮を分対せしめたる形が爰には全く白蓮坊即ち大坊を以って重須の配下に置き日代の成敗と見たる恐らく日郷巳来郷妙両門の親交より涌出したる新説か、是全く蓮蔵坊日目上人の夢にだも知らざる所のものにして、大石に熨斗を附けて重須に賄賂したるものと云ふべし。
大石寺白蓮坊、西坊、六坊、  久遠寺蓮蔵坊、東坊、六坊、  巳上十二坊。
文明十四年壬寅九月七日、〇、日道は開山上人の御弟子にて日目上人の御弟子と号して、日目上人の御血脈日道と沙汰候、西坊白蓮坊は重須蔵人阿闍梨日代御成敗に候処に、日代本迹に御迷乱候て鎌倉方の所立に同じ御座候間、重須の大衆御問答候て日代重須御退出今に西山の御建立眼前の例証なり、故に日目上人の御法水日道なりと沙汰申し乱さるゝ間、日郷門徒として伯耆阿闍梨日道と盛んに御坊地御相論中古代々巳来の義絶今に此の如き事御坊地相論の支証日郷上人代々の引付に分明なり。
爰に近代に及び御坊地の故の義絶には之無候て日目上人の法水日郷上人に之無き間、日郷門徒としては日道門徒に帰られず候ては成仏の法水断絶を致すべき旨、近代より当代に於いて門徒義絶の段なり此の趣き中古に於いて都べて僻見の重なり、〇、此の如き等の明鏡分明の条ひとへ(偏)に東坊御坊地の相論明白なり中古巳来此段に候処に日有の代に及び血脈の伝不伝を沙汰候て一向日郷門跡堕獄などと雑意●曲心不実浅ましき次第、既に日目上人御奏聞御上洛の時節は宰相阿闍梨日郷上人御留守役に仰せ付けられ、寺家蓮蔵坊の御大事宗旨門流等の手続き御留守警固御申し、蓮蔵坊日目上人御遷化巳後相違無く御住あり門家に於いて誰か論談を致すべけんや、然る所に仏法御弘通として房州へ御下向在々所々の御弘通の故、房州吉浜妙本寺開発眼前にて日郷上人同く御弟子日伝上人等の御代まで相違無く房州と御一味なること末弟今に御存知の処に大石日有の代より当代房地故の不和にして差置き盛に日目上人の智水の有無を申し来られ候、結句日郷門徒として大石日道日行の法水を相伝無くば即堕獄などと沙汰候、虚偽の次第此事なり、〇、大石寺の檀那富士の上方どう(堂)だいら(平)の四郎兵衛、湯野の行蓮入道、大石寺日有より印加を蒙り仏法評定の政所に定まり畢んぬ、之に依って行蓮入道連々の沙汰として小泉久遠寺と大石寺との不和然るべからず、哀れ御和談之有るべく候はば涯分奏者を申すべしと走り廻る、之に依って多年の念願此の事なり誠に時節到来せり、即久遠寺の住持右京阿日院房州へ下著、日安上人へ此旨を申し上げらる、則日安上の義を請け大石寺に対し法水伝不伝御坊地押領の有無等此度申し定め門徒の信心を取り定むべしと云々
爰を以って日安上より上総国佐貫郷の内本乗寺の住花光坊日会、久遠寺日院に同心候て、文明十四年壬寅閏七月廿三日妙本寺を罷り立って同月廿七日久遠寺へ著し畢んぬ、重須本門寺日浄上人と内談し同九月二日に小泉の衆登林房同く房州の衆信乗房両使として湯野行蓮の方へ届けに及ぶ、其旨に云く中古より当代に至るまで門徒同心無き事口惜き次第なり、〇、然りと雖も法理の奉行連々門流不和は本懐の外常に沙汰の由承はり有り難し〇正義不正此度申し届け承はり分けたく存ずる分なり、、〇日道へ伝来其手続き遺状等拝見を遂げ門家の信心を取り定むべしと云云、然れば御辺は法の奉行急度師範様へ披露候て委細返事に預るべしと云云、此時行蓮両使僧に対して承はる段先以って殊勝と云云、去り乍ら無我の信力を以って先づ当寺へ御反復有るべき由申さるる時、小泉の両使此の如く承り候は返事にて候かと云云、両使重ねて申〇、宗旨門家の法水の手続きの沙汰をば差し置き先以って無我に任せ当寺へ反復あるべき由承はり候は宗旨門家の瑕瑾たるべく候〇、両使問答候て座を立つも、迷惑を致し是非の返事に及ばず云云、〇、行蓮兎角の儀之無し、両使重ねて住持●に衆檀談合候て急度返事有るべき由候て座を立ち畢んぬ、其後四五日間返事を相待つ処に遅延の間重ねて此旨催促を致す処に是非の返事申されず云云、〇。
久遠寺住右京阿日院、同上総国佐貫本乗寺日会、同吉浜妙本寺衆信乗坊日遵守同久遠寺衆其外老若、九月七日午の尅大石寺本尊堂に著座す、良有って重須日浄上人衆僧余多引き具し同じ檀方には井出周防入道妙行重須の御檀那なり、〇、かくて本尊堂より大坊へ使僧信乗坊乗坊日遵仏法の筋目尋ね畢んぬ、此時奏者云はく加様の法理の沙汰若輩として申し続くべからずと云って差し除く処を、信乗坊然らば大堂にて相待申すべしと云云仍七日大斎日の出仕たりと云へども住持出仕無く年行事出仕即ち例事を始めんとせし処を押へて且らく尋ね申すべく子細候、其旨に云はく〇、前代に於いて大石と小泉と不和成る事は東坊蓮蔵坊の御坊地相論の故なり、其証日郷上日道両御代の時いつか(何日)は法水の有無の御相論候けるや、全く法水有無の沙汰之無し〇、西坊六坊跡は重須本門寺蔵人阿日代の御成敗、日興上人第七年の御時本迹の法門迷倒候き鎌倉方の所立に同意なり、之に依って大衆同心に日代と各別候間其儘西山へ御移り其証今に歴然なり、然る間大石の西坊たる白蓮坊無住の地に成り行く間日道横に御住候、但し開山上人の御遺状同く日目上人の御手続分明に候はば異論無き次第なり、〇
編者曰く記文中目師天奏の随行は道師なりと曲解して却って鳥辺山の造墓を没却し、道師相伝の文証を追求するも一として郷師相伝の文証を誇示せず、目師を蓮蔵坊に封著せしめて富士の総貫たる意義を失却せしむる等、眼に大山を見ざるの愚挙とも見つべきか、但し石山側にては時の文献及び追記等現存せず如何に応対したるやを知る能はざるを憾みとす。
三、雑々聞書等の文   年代不明祖滅二百三十五年前後か、大石寺と日有と妙本寺と日要とを合記したる廿五項の聞書なり、永禄三年日・及び日東等の識語ある信行坊日寿(享保十年)の写本に依りて抄録す本尊問答抄の奥書も多分同時代なるべし共に妙本寺にあり、此中大石寺日有の説を引くこと八項余如何に妙本寺衆にても理義に暗からざりし人あるを知るべしと雖も、畢竟するに日要の正理に出づるものと見るべきか。仰せ(日要)に云はく当家約束の本果成道は本因の修行に依る、本因妙の最初は名字即に起る云云、日有云はく名字の躰、名字の根本と云云。
〇、一、日有の云はく●ひ地涌の菩薩なりと云ふとも地住巳上の所見なれば末法我等が依用に非ずと云々。〇、日有御物語に云はく当宗に過去帳は置かざる事なり、過去帳を置く事は他宗の奉加帳に同じ所住の名を忘れば十号具足なれば何度も名づくべし云云、〇。
日有云はく塔婆は野原の本尊と名目を使ひ給ふなり、法界の五大即一箇の五大と顕るる意なり云々。本尊問答抄の奥書   本抄は文亀三年日向にて日要の講を日杲の聞書なり、今の奥は日杲なりや否やを知らず。
日興上人は大聖の七年を身延にてめされ其年大石寺に御うつり(遷)酉の年重須建立なり、大石寺三箇の大事とは一御影像、一円城寺申状、一御下分なり今は東台がいと(谷戸)(東光寺なり)に之有り、〇。大石寺十月などは御影の御台を其まま(儘)当住に、一さための時は客殿にて御影の御台まいり(参)いると同じやうに住持にも御台御まいる。

#09.054
四、日我の説   身延山久遠寺即蓮蔵坊との説は巳に永師に胚胎せり、然れども目師状の引文は曲解少なきが大石寺(蓮蔵坊)相伝には一も文証を挙げず、此等年を追うて謬解を益すに至れるか。申状見聞   宗学要集第四巻疏釈部の一の九八頁より再抄す。
〇大石の住寺職目上より御相続なり、目上の御代官として房州へ御下著磯村に於いて御弘通あり、其時目上の御文に曰く〇、我身も有りたく候へども老躰の間御辺居住候へば喜悦極り無く候、乃至法命を継がるべく候恐々謹言、爰に佐々宇佐衛門の尉と云ふ人本は摩々(真間)門徒なり、磯村に於いて帰伏申し御供を致し自身の堀の内を其儘寺とす、今の妙本寺の地形是なり、〇尊氏将軍の時代建武の比妙本寺建立之有り、〇、(一〇六頁)之に依って御存日の最中に身延再興の久遠寺たる大石寺を目上に御相続なり、蓮蔵坊と申すなり、〇然るに開山重須御住の時日々大石より御出仕と云云、〇
当門徒前後案内聞書   祖滅二百九十六年日我の記にして日淳日顕等の識語ある文久二年日元の写本、妙本寺に在るより略抄す、但し我師の説他抄にも在るべし今省く。
〇、一、大石小泉取合の事、六つかしき間しる(注)さず大事の文言なる間あらは(顕露)に之を書かず、久遠寺の今の御影はみ(身)のぶ(延)よりと申し日道に押領せられずと衆徒同心に黒田の妙覚と云ふ檀那の処に移し奉ると日学の記文にはあり、惣じて広宣流布富士居住日目門徒再興の内は此の如き問答無用なり、先々中古の問答抄あり之を見るべし本乗寺日会真乗坊日遵等の問答口なり、其後蓮徳寺の日含問答ありき其き(記)ろく(録)はうせ(失)たり様躰は日会日遵と同筋なり、前々より事澄まず何に況や只今両方共に無信心、無志、無智、無行儀の者薄学にして尚以てすむ(済)べからず、只今は一寺々々の僧衆檀那の信心を正路に相つづけ(続)時をまたれ(待)べし、〇。
五、富士邪正記   祖滅三百二十五年遠本寺日恩の記にして正筆妙本寺に在るものより略抄す、但し此記各方面に亘りて思ひ切った僻説あれども枝葉を省きて根幹の誑惑のみを指摘せん、一は目師状、一は目師本尊の転授の件なり、本記に云へるは幾通かの状を合糅して一通の如く且つ曲解せる事なり、現在の一通は日郷に常陸の湯より直に富士に来れとあるが大石には香華取る者も無いと云ふ文は日郷状には無い一通は法命を継がるべしとの文あれども富士の事では無く房州にての布教を賞歎せられたのである、殊に二通共に天奏に出発なるから留守の為に来れよとは寸言片語も見えぬ、次に道師を垂井よりの本尊伝授の使者とすること大謬見である、妙本寺に現存する本尊には道師の筆にて「日道之を相伝し日郷宰相阿闍梨に之を授与す」と左方に脇書を加へてある、老年の身でありながら又我師の末弟として此を拝見しない筈がないとすれば有意の誑惑にあらずば全くの暗愚である、且又日郷が有り難く御受けしたとなら此の人亦天下の大愚である、殊に日道御供、日郷留守居の説は日永巳前に発生せし愚推なるを日恩が裏書して失敗したものであると思ふが、但し何れにも俗愚は多く居るから日恩は小泉側の愚俗説の代表者か、次項の日前の如きも亦此部類に属するか、まづ憫れむべし々々々々々〇、妙本寺は日目御在世の時の建立なり、其証拠は目上天奏上洛の時妙本寺日郷へ御状を下さる、其状に云はく仍其国は聖人御生国と云ひ二親の御墓の候へば愚も有りたく候へども云云、然れば今度上洛候大石寺に香花取るべき者之無く候急度登山有って法命を続がるべく候と、尊意に任せ日郷登山有り大石寺の御大事等請取り御留主成され候、日道御供眼前なり其証如何と云ふに樽井より日郷へ下され候、手続の御本尊御使ひ日道なり、彼の御本尊の裏書に云はく日道之を承り宰相阿闍梨日郷に渡し奉ると、仍て日郷大石寺住職日道御供の証拠分明なり、〇。
六、日前状   祖滅三百六十六年妙本寺日前より久遠寺の及衆檀中への状なり、正筆案文共に二通妙本寺に在るより抄録す、時代を距るに従って妄説涌き出づ此状も然り殊更此時巳下に発生せし俗説は噴飯もの多し、板本尊鎹打の事など自他の俗伝の怪しきものを一掃する為に勿態無き事ながら役僧等と共に表裏とともに綿密に拝査したるに生地にも漆の下にも何等の疵あとも無い事を公言して疑惑を除ふ、又道師円寂の時は日伝未だ幼少にして日郷健在なり日前の痴を見るべし。
〇、牛王丸を後には日伝上人と申し奉る師の遺言に任せ先づ妙本寺を請取り駿河に打越し大石寺を請取らんとし給ふ処に日道堅く以って之を渡さず、房州駿河の間度々に及び上下を経て請取らんとし給ふと雖も、間は遠し清(勢)力も尽き大石寺に於いて御影を取り既に板本尊をとらん(取)とすると雖もかすがい(鎹)を打ち抜けざる間御影斗り所持し致候、今の小泉の郷下之坊に之を安置申すなり、其時此方の衆徒と大石寺の衆徒と諍論様々なり、之に付いて日道六箇の謗法と云ふ事之有り小泉に寺を立て下之坊の御影を移し申し候なり此沙汰計ふるに勝へず、〇。
七、家中抄の中下   宗学要集第五巻宗史部の一道師伝二一五頁及び郷師伝二四〇頁等に具文あり今前文を抄出して後文を省く、但し著者精師直に史料に依らずして伝説に依りて説を為すが故に錯謬多きこと小泉党の説と伯仲す、此等を宗史部には天註を加へて是正する所あり、細見を乞ふ。
〇、日郷云はく目師御臨終の時大石寺を以って某に付属し給ふ云云、之に依って衆義区にして一結し難し、故に日道と日郷と建武元より延元三年に至る三年間両方各貝鐘を鳴らし其間三度対決あり、然りと雖も理非顕然たるに因って道理を日道に付せられ日郷等を追放して寺中に置かれず而して寺中の乱逆を静め畢んぬ〇、(二四一頁日郷伝下)〇、日目上人より御付属状之有り云云、予未だ之を見ず故に之を記する能はず但し実義は遺状之無し、諸人に深く思はせん為に有る由を風聞せり実義之無し、其故は日目所持の本尊御書等取るべき為の手段なり、其証拠は十八鋪の本尊●に御筆の御書三百十余、天皇鎮守の神ひ等其外三筆の御聖教一字も残さず沽却し畢り皆他宝となる、〇。
編者曰はく精師の演劇化驚くべし幅三四間の狭長な通路を隔てて貝鐘を鳴らして何事か演ぜらるべき況んや双方三町の長さに十余人位を配列したりとて何するものぞ、但し七十年を三年に縮むる故に此の如くせしものか、妙本寺の宝物売却は日郷より二百年後の日濃の所行なり何ぞ之を乃祖に溯らせて筆誅することは太だ苛酷にあらずや。

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