富士宗学要集第九巻
第六章 北久の関係
当時の古文書存在せずと雖も北山本妙寺日毫は妙本寺日郷なるが如く未だ房州に下らざりし己前にして大石在勤の後に住せしものか、大石小泉出入りの仲間郷門日●は大石に入る能はざりし時すら九州より重須に来りし事己に第三章石北関係の下に文拠を引くが如し、以つて郷門と妙門との親交を見るべし、文明の末北山日浄久遠寺の為に大石に出張せること己に第四章石久の離反の下に其証を引く以つて日安と日浄の交誼を見るべし、日我は日耀と親交ありて大納言件にも北山を助け又更に久遠本門一味の盟約を為せし、日我は久遠寺の代官として其高弟兵部卿日義を命じたりし後、北山日出は晋山期年ならずして猥りに日義を請じて後董と為し日殿と改称せし、蓋し両僧疎忽にして日我に辞宜を尽さざりしを以つて、法脈を濫すを激怒して日義の弟子分を削り日出に強談して日義を追放せしめんとす、後漸く和を得たれども郷門平かならざりしか、日殿の天正の難に餓死するや此れを憫れむより寧ろ叱唾するの筆残れり、爾後両山格別の情交も復活せざりしか。 一、定、久遠寺の事 祖滅二百六十五年日我自筆の定め妙本寺に在り、今其より抄録す、兵部は日義なり。 一、兵部阿闍梨、日我の代官として居住の上は僧檀共に無沙汰有るべからざる事、 付たり謗法不儀之有らば異見有るべきなり。 一、当時の事は私に在らさる間、時々の代管雅意の帳行を以つて僧檀に非例を成すべからざる事、 但し無志不信の時は三●を加へ信用する能はずんば住持僧檀同心の儀を以つて其沙汰有るべきなり、謗罪に於いては呵責あるべきなり、○。 一、重須と和談申す上は如何様の子細候とも不和有るべからず、若し子細有らば日耀日我評談を遂げ其上に於いて其沙汰有るべき者なり。 二、名宛不明の状 前と同時代か妙本寺に宛てたる日向衆の消息尾缺のもの妙本寺に在り、房州日継と北山日国との通用を記すあり此より抄録す。 謹んで言上申さしめ候、抑妙久両御本山共に御繁栄偏に広布の様に承り及び、○。 一、久遠寺御造営に就いて御堂作り等其外出出法具世具等まで過分御造作前代未聞、日我上人様、智福御円満頗る権実の御振舞ひ末代愚迷の灯明にて御座候、御頼母敷き御事に候、○。 一、兵部卿の事、久住者と申し鈴木殿大檀那と申し御代官御意尤に御座候か、○。 一、此国の法難に就いて仰せ下さるる子細先づ以つて御遠慮有るべきか、然るべき砌には重ねて此国より申し上ぐべく候左様の頃御調法成さるべく候か。 一、本門寺御和談何事も等輩たるべきの由仰せられ候、己前日継上人日国上人の御代にも此の如き御。(己下缺失) 三、無題の抄物 或いは日前筆か雑抄なり、妙本寺に在るより抄録す、記事の時代より●に掲ぐ、但し文中難読の所あり。 一、久遠本門一味の由来、○、上代本門寺日浄久遠寺日安御懇志と見えたり、其後日国日継の時代御同心亦日我日耀と御入魂なり、大納言と日耀と本門寺諍ひ此時も小泉は日耀荷担なり、其次は日出と次第せり、此時代に久遠寺の住持日義重須に移られ住持と成り給ふ故に不和なり、此日義を日殿と云ふなり、武田信玄乱入の砌なり、久遠寺日我上人より重須謗法の段書状之有り、之に驚き久遠寺へ誓状を捧げて日殿詫言之有る故に、壬申の年両国和談、又其後久遠本門も和談し其時日出隠居日殿と来る、学頭日因寂仙房と号す此の日因学頭房の取持を以つて両寺和談なり。 四、本文寺日耀状 正筆妙本寺に在り、年季を記せざれども天文年中日我と通用の時のものであると思ふ。先度は図らず参会を遂げ奉り世出申し談じ候、三世の本望、門家の寛悦此の事に候、併一天四海広布の先兆之に過ぐべからず候、自今己後尚以つて閑談致し候はば内外の三類異賊等静謐せしめ御本意を遂げ奉るべく候と存じ頼もしき迄に候、随つて長々御在府の由承り及び候御用所如何に候や、此方自然相当の御要候はば仰せを蒙むるべく候、左道の至りに候と雖も二色進覧せしめ候、折節取り静むる事候て切紙の式恐れ入り候、恐惶謹言。 九月十日 本門寺 日耀在り判。 妙本寺御堂同中。 五、日義起請文 正本妙本寺にあり、年月無し祖滅二百七十年前か、長句なりと雖も尚現代名利の僧の針●たるものあれば録す。 敬白起請文。 兵部阿闍梨日義。 一、当流正血脈の事、 右日目御門流の正嫡僧檀成仏の主師親代々を妙本寺に於いて御相続候、然る間久遠寺の事は時の御代官所に候、此旨縦ひ何方に居住致し候と雖も飜し奉らず候。 一、前々の不信不儀の事、 爾も連々に仰せ出さるる筋目道理に相叶ひ候と雖も愚不信不儀無志不足の故に其壺に至らず候、珠に諸人の讒言などにて此の如く承り候由少しも存ぜず候、自今己後に於ては不信不義の心を抛ち偏に正信正義を存ずべく候。 一、前後表裏の事、 右御仏法の御沙汰等住山の中には兎角申し出でず候て、己後に於いて己前も内証には納得せず候と雖も当座の儀に領状いたしたるなどと心にも口にも犯すまじく候、殊に自分の進退不足などの時につき沙汰などに申すまじく候。 一、前代軽慢の事、 右日郷己来近代は日要日継の当流の化儀法式一箇条も背き奉るべからず、殊に新義の案を構へ先師先聖を蔑り奉るべからず。 一、他門の執情の事、 右台家他門の心を抛ちて他門の執情を持つべからず、殊に正位の人などを下だすべからず、只偏に信心行躰の志を正躰として自分の学文に頼み存すまじく候。 一、心口各異の事、 右自今己後に於いて或いは口にも或いは筆にも口と心と相違の事一言も申すまじく候。 一、一図両面の事、 右世出共に御門中に対して思慮無くて時の会釈に任せ、正躰無き一途両辺の事を申すまじく候。 一、名聞名利の事、 右世間の風俗に耽けり仏法の興隆公界の修造等を閣きて荘厳を致すべからず、私の衣食等飢寒の二事を堪忍仕り御仏法の再興を眼に当て申すべく候、少しも世間の道俗を恥ぢて仏前を次にいたすまじく候。 一、謗法改悔の事、 右謗法謗罪の時は当座の才覚陳方を抛ち道理の旨に任せ改悔●悔申すべく候、己前は其才覚無くして誤りの上を兎角料簡いたすまじく候。 一、師敵対の事、 妙本寺久遠寺●に東西の間に縦ひ如何様の子細候とも、妙本寺の法主に対し奉り世出共に敵心方に同心方に同心申すまじく候、何に況んや我として誰に御住候とも日義一期の間は背き奉るべからず候。 六、日我より日出へ問責の状 祖滅二百九十年其高弟妙本寺主日侃の扣へ同寺に在り、修史局採集文書は首缺なるが近年更に首文を発見して完璧と為して●に録す長文となりと雖も日我護法の誠意溢れたるもの此を省略するに忍ひざるなり。 卒爾ながら啓せしめ候、仍数年御●落窮屈成され候、言端に及ばず御本履大慶に候、随つて甲州より下知成さるる子細候や、小泉へ御談合有るべき分に候か、之に就いて様躰申し候、先年兵部卿其寺に相招かれ住持成され候は世間仏法前代末聞の事に候、御牢人故其届けに及ばず候、抑本門久遠両箇の契約上代以来恙無く候御存知の前に候か、中ん就く日浄日安の御代定め置かれ候、其己後日国日継の時代当寺の学頭九州の日杲取持を以つて申し合はされ候、日我の代に里見大納言と日耀と寺家諍ひの時亜僧より知存と申す同宿にて一札に預かり候、其返状の条文其寺に御所持之有るべく候、大石西山は大納言負贔なり目安駿府へ捧げられ候、当寺より日耀正嫡たるべきの由申す故安堵成され候、府内ち於いて其披見存知の方之有るべく候本行坊日輝存ぜらるべく候。 久遠寺本尊堂、本門寺御影堂、能開所開両寺一味の文言具に之有るべく候、殊に天文年中日耀日我両寺に於いて参会、世出とも等輩同位の所礼候き、日出は西之坊の時御伴候様躰御存知の前に候。 然る処貴公御代の内愚の弟子を内々僧招きの由承り及び候て不和候の処、重ねて招き越し剰へ住持成され候殊に兵部卿起請文に日目御門家を捨て富士諸山の内に罷り移り候は自身●に其寺家とも謗法堕地獄たるべく候旨自筆自判に申され候、日我●に僧衆中証人に罷り立ち候、連判の状をも兵部卿書き申され候、御披見の為に指越し申し候、此の如き無間大城の主を法主と仰がるる衆檀は其師の墜つる所弟子亦堕つること疑ひ無く候、既に開山己来正信正路の法命断絶致し徒に謗地に罷り成るべき事歎かしとは思し召さずや、堕地獄の根源たるべきの由記文を残し置くべく候、縦ひ二箇の相承は所持候とも正躰有るべからず候、真の霊山事の寂光と書き候も並木井謗法の故に謗地に罷り成り候、興上八通の切帋眼前に候へども日代本迹迷乱の故に重須を退出候、本来の住持に候とも謗法候はば追放有るべく候、当寺の日是目前に候。 兵部卿事、誤り無き師匠日我を相捨て剰へ起請文を破らるる方を許容候て貫主に仰がれ候衆檀は与同罪遁れ難く候、然る間久遠本門両箇の正意は当寺に在るべく候、先師日要其寺と不和の時参内の奏状に本門寺日要と名乗られ候、禁中よりの書き出しにも本門寺日要御房と御座候、正理の御仏法の時尚此の如くに候、何に況や師敵対誓状を破り候方与同帳本の大謗法沙汰に及ばず候、其上由諸無く候と雖も小泉の坊主を倫盗候て重須の坊主に成され候法盗罪何有るべくや、其返報に候間押して本門寺と名乗り申し候とも其科有るべからず候。 上件の分御納得候はば若し兵部卿を追出し候て日出再住候か、然らざれば余人に補佐候はば同心申す事も之有るべきか、其儀無く候はば未来永刧申し合ふべからず、今後の一儀も御談合御無用たるべく候、四箇寺各信力に之在るべく候と申す旨若し御納得に於いては立破とも御談合有るべく候。 貴公も御隠居、愚僧も隠遁の身上に候間、末法万年広布の日まで両寺恙無く正理正信の修行申したく候間御内議に及び候、依法不依人の道理に候間兵部卿一人抱へ惜み候て御法命断絶は歎きの中の歎きに候、信心を以つて深く御分別有るべく候、此状許容無く候と雖も僧衆檀方中へ各必ず々々披見成さるべく候。 地盤悪筆殊に老躰中風病臥の躰にて書き申し候徹所たる迄に候、自筆自判仕り候、本承坊日長所持候て様躰申すべきの由申し付け候、定めて罷り越すべく候内々申す旨候、面上を以つて聞達有るべく候、恐惶謹言。 元亀三年六月一日 六十五才日我在り判。 七、日応記 なるべし年代不明文便にて此に録す、妙本寺に在り。 右の書状に驚き兵部卿日殿、妙本寺に誓状を捧げ、重須日出学頭(寂仙房)日因等の詫言を以て翌年本門久遠和融なり、其より己来恙無し己上、聞くが如きなり、○。 八、人年共に不明の状 正筆妙本寺に在れども尾欠にて人名年月を知る由なり、北久妙三山の外の老僧らしきなり。先日は寂仙坊罷り越され本久両寺の御仏法和談の儀雑談を致され候所、愚老一書指越候の由承り候と彼方雑談候条其儀に任せ一札之を進し候、此一儀は先年妙本寺より子細を承はり我等も尤相違無く候と雖も聞し食し及ぶべく候か、此の方檀方衆各々俗儀成され荒く文別申され候間是非に及ばず今に心底より外に打過ぎ候然れば彼方も只今の儀世出退屈老耄に及ばるる故か、本と初生御門徒の事に候へば日我の御前へ述懐候段今に至りては後悔候様折節は無我申され候へば是非に及ばず□□、我御弟子(己下缺失)。 九、妙本寺日侃状 祖滅二百九十一年重須学頭日因への祝ひ状、本書逸失か抄文は玉野志師筆を写せる富谷師の雑記に依る。 ○、仍去る春は日我日殿師弟一箇、本門久遠仏法一味、三世の満足御同意の段一入有り難く御信力○。 (元亀四年)七月廿八日 妙本寺日侃判。 寂仙坊阿闍梨御房御同宿中。 十、日我より日出へ状 祖滅二百九十二年頃か、正本妙本寺に在り。 御祝言申し納め候了ぬ、仍従つて尊躰●に御衆中久遠寺への一札日提より此方へ指越し申し披見を乞ひ候、先以つて前々の事は之を置き候、近年衆檀へ評判候処俗難に依つて事行かず候由承り届き候、与同罪消滅たるべく候か、去り乍ら□□身上に於いて一廉之無く候て隠居候か、然らずして後代相定らるるか、只今の如く在仕の儘にては師敵対の罪障相遁れ難く幸ひ類親に新発意一人御座候由其聞え候、名代として承るべく候故其外誰人成りとも相似の仁相生しらるべく候、当門の事は智恵才覚は入らず候信心志専一にて候、各々御分別□□は此趣衆檀御領掌に於いては事儀遅延候ても苦しからず候、日我老耄病気相捨と遺言として様躰申し達し候、縦ひ虚実を申し候とも上件の筋目を以て一味同心たるべく候、此方に於いて相当の仁競望有るべき内議の由承り及び候、小泉当寺両方に後日に於いて奔廻すべき者之無く候、何に況や末寺に越準すべき方一人も之無く候、其方に於いて器用の仁を見立てられ衆檀御評定有るべく巨細本光房に申し含め候、恐惶謹言。 正月十三日 日我。 (封裏)本門寺隠居御報。 十一、久妙両山衆起請文 古写本断編妙本寺に在り年代不明なり祖滅二百九十年前か。 敬白、起請文の事。 一、日侃上人久遠妙寺本寺の惣貫主血脈の大導師に仰ぎ申すべし若し違背の方々は同心申さず候事、○。 一、日義と世間仏法とも後々に於いて申し合ふべからざる事、○。 十二、北山日殿より日向右京阿へ状 祖滅二百九十年後の状なるべし、右京阿は日向本永寺住にして又富士にも往復せし本光房右京阿日成にあらずや、正本妙本寺に在り。 早斗ひ候や恐れ入り候、尚々委細御待居り候必ず必ず御無心に候へども今度の一儀は拠無く候て頼入りたく候、早々。 幸便の際一書啓せしめ候、抑先日は種々御馳走申し尽し難く候、然れば房州への御音信急度申し展べたく候と雖も、路次中不知案内の衆を越し申し候へば坊候て相届かず、□□(何分か)如何口惜く候て分別に及ばす候、久遠寺よりも迚もの御事に憑み入候の由承り候へども春中両度の御上下更に申し尽くし難く候条、重ねて御無心の段如何とも申し得ず候、同くば相互老少不定の堺に候へども一日も急速に御礼をも申し展べたく候へども、遼遠の堺。に候へば海路と申し心を尽す迄に候、然りと雖も羅針玄弉無畏不空等の三蔵の流沙葱嶺を凌ぎ、伝教弘法慈覚智証等の雲海蒼波を渡り入唐を期し給へども、身軽法重の道理思召し合せられ候はば今度の一儀は御大儀に候とも御越候て給はるべく候や、御心底測り●く候と雖も御無心を顧みず斯の如くに候、若し御領掌候はば来月中なりとも且は不定世界且は互いに露命存ぜず候て千載一遇の御志を憑み入る斗りに候、諸毎依□□其意を得べく候兎角御意見待居り候間委細示し給はるべく候、若し又来神田の時分も然るべく候や御越の時分面を以つて申し承はるべく候間早々に候、恐々謹言。 五月十九日 本門寺日殿在り判。 (上封書)右京阿闍梨御房御同宿中。 日殿。 十三、北山日殿より房日侃への状 祖滅二百九十六年、正筆妙本寺に在り。 態と一書啓達せしめ候抑分袂以来は相互に数年の星霜を贈り稍。に御□(見)□(参)に能はず積鬱の所存山海の如くに候、随つて去る東君の此は便風を窺ひ所念の段々年来若輩疎意の分大途の訴訟曽つて申し展べ候の処、早速聞し食し分けられ両山和融の儀先例の如く相違□(有)まじきの由御回報に預り候の条、寔に出離生死の面目今来の朦霧を散ぜしめ沐肝徹骨本望之に過きず候、且は世出外聞の覚と謂ひ且は先祖の類胤小縁ならず、争でか流れを酌みて源を尋ね香を開きて根を討ぬるの旨を失却せしめんや、以つて愚案を廻らし候若し銭を敬はざるときは大利を失ひ井に●無ければ水を得るに由無しの制禁只今一身に当つて覚え候間、外聞を憚からず世情無二の思を刎ね訴訟を企つるの処昔縁の逐ふ所復来せしめ候の道理三世の芳契浅からず候か御領掌の段誡に以つて青山滄海に却下するも尚浅く弥よ則皆見我身の信心内々肝に銘じ身土一念の感涙倍す袂に泪する迄に候、然れば其刻御礼等申し届けたく候と雖も遼遠の境渡海彼此心に任せず候条今に至り遅延の段無念の至りに候、今度右京阿憑み入り候て重ねて指越し申し候、案内と申則使僧差副へ申すべく候へども彼方頻に以つて分別異見の際彼儀に任せ先々延引致し候、乏少たりと雖も態と斗り□(紬)壱段小団竜弐斤進覧せしめ候、猶後音の時を期し候の条省略せしめ候、慶事、恐惶謹言。 天正六年戊寅 本門寺日殿在り判。 妙本寺御同宿中。 |