最終日(ウラジオストック〜ソウル〜関空〜福井)
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14:00 | 最終日の太陽はシベリアを渡る飛行機の中、沈んだと思ったらすぐに昇ってきました。座って寝ることには慣れたつもりの我々団員でしたが、やはりこう続くとベッドが恋しくなります。飛行機のトイレは心なしかいつも混んでいて、お腹と相談しながら行列にいつ加わるかの駆け引きが続きました。 ウラジオストックは雨でした。気温は摂氏18度、長袖でなければちょっとつらい気候です。ウラジオストックの空港近くのレストランで、最後のロシア料理を食しました。抑留日本人捕虜は黒パンのかけらも争って食べたという話でしたが、悲しいかな我々は、白いパンすら残さなくてはならない健康状態で、昔の人の数千分の一、いや、数万分の数百万分の一の苦労しかしていないくせに、なんて贅沢な...。と言葉を失いました。 このレストランにて最初で最後の点滴を打ちました。体は弱っていても若さがあります。この点滴は大変効き目があり、手当を受けた団員はすこぶる調子がよくなり、その後は福井まで健康を維持できました。青山医師が重い思いをして日本からここまで運んできた点滴セットは、ここで威力を発揮しました。また、それと同時にその手際の良さから、それまで「一緒に旅するふつうのおじさん」だった青山先生が「やっぱり医者だったんだ!」と、尊敬の眼で見られるようになったことも付け加えておきます。 |
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21:00 | ロシアで一番厳しいと言われるウラジオストック空港の税関をほうほうの体で抜けた一行は、大韓航空でソウルへ脱出しました。「機内食も機内サービスもこの飛行機が最高!」と団員をして言わしめたこの飛行機、日本のレヴェルで見ると大したことではなかったのかもしれませんが、ロシアとウズベクに10日間もどっぷり浸かっていた我々にとって、見るものすべてが新鮮でした。 何と言っても、その後乗ったソウル〜関空の便で、搭乗するなり乗客から日本語が聞こえてきたときには「あぁ、帰ってきたんだなぁ」と感慨もひとしおでした。だって、それまでのロシア国内線、ロシア〜ウズベク線は、ロシア語こそ溢れていましたが、日本語は身内からしか聞こえてこなかったからです。思えばこのご時世、日本語が聞けない海外旅行というのも、なかなか経験できるものではないと思います。 機内のトイレで並んでいたときに隣に並んでいた小学生くらいのボクに、「どこ行って来たの?」と話しかけてみました。 もじもじするボクに変わって、おばあさんとおぼしき人が「ハワイです。家族で」と答えてくれました。 ハワイに何日行って来たのかは聞きませんでしたが、少なくとも4〜5日は行っていたのでしょうね、この人たちがハワイでのんびりしている同じ日々に、僕たちはロシアで、ウズベクで、ある時は灼熱の太陽に焦がされ、ある時はジェットコースターのように揺れる波にもまれながら、それなりに苦労しながら抱えきれないものを掴んできました。どちらがいい、どちらが価値があるとは比較にならないけれど、私個人としては、ハワイはもとより、数千ドルのビジネスをこなしてきた海外出張のサラリーマンと比較しても遜色のない日々が送れたのではないかと自負しています。なにより艱難辛苦を共にした戦友とも言うべき15名の仲間たち、そして先々で触れ合ったユーラシアの友人たち、いろんなことを考える時間を与えてくれた11日間という行程、心に焼き付く風景、交わし会ったグラスの数々.........。 すべてのものをひっくるめて大韓航空721便は、ピカピカに磨かれた、この旅の中で最高の空港に向かって、宝石箱のような夜景の中をゆっくりと降下しはじめました。 |