四日日(ウラジオストック市内、日本人墓地参拝〜モスクワ到着、赤の広場)
Photo | Time | Report |
---|---|---|
10:00 | 「ウラジ(東方)をヴォストーク(征圧)せよ」という意味を持つウラジオストックは、文字通りロシアの極東政策の中枢都市です。ロシア太平洋艦隊の母港でもあるこの街は、言わずとしれた軍港都市で、ソビエト連邦時代には外国人の立ち入りが厳しく制限され、謎に包まれた街であったということです。 しかし、今、ウラジオストックの街を歩いてみると、日本からたった数十時間しか船に乗っていないのに、ヨーロッパの臭いがプンプンしているのに驚かされます。あたりの山並みなどは、敦賀とほとんど変わらないのに、ヨーロッパ調の装飾で飾り付けられた建物や、緑の多い、贅沢な造りの公園、街路、歩道、そして鼻の高い、混じりっけなしの白人(またこれがべっぴんさんが多い)などなど...。 どうみてもアジアにいるとは思えない錯覚に陥ります。やっぱりロシアはヨーロッパなんだなぁ、と妙に感心したりして。 この写真は軍港からウラジオストック随一の繁華街を臨んで撮った一枚です。ちなみにこの左手にシベリア鉄道の起点、ウラジオストック駅があります。 |
|
11:40 | 先の大戦で日本が降伏したあと、満州から大勢の日本人捕虜がシベリアへ数年間抑留されました。国際法違反のこの抑留で、本来なら日本へ帰還して戦後の日本を作るべき10代、20代の若者が、祖国の土を踏むことなく酷寒のこの地で命を落としました。 この日本人墓地がシベリアはもとよりロシア、ソビエトじゅう至る所にあります。この墓地に墓参して線香を手向けるのも、青年の船の重要な目的の一つで、我々シルクロードコースもナホトカ、ウラジオストック、タシケントの3箇所を訪れました。 ちょうど同じような世代の若者が、空腹と、寒さと、いつ帰れるともわからない絶望感と、刻一刻と仲間が亡くなっていく恐怖感に苛まれながら、どのような思いで故郷への思いをつないでいったのでしょうか。日本から船でほんの数十時間、対岸に日本を臨みながら、ここまで帰ってきていながら、家族の元へ帰国を果たすことが出来なかった、そんな無念な思いを少しでも汲み取ろうとして、日本の生前の名前だけが刻まれた無数の白いお墓に向かって、団員たちは神妙な面持ちで無心に手を合わせていました。 |
|
20:00 | 10時間の飛行のあと、私たちはモスクワに降り立ちました。ウラジオストック時間で13:30に離陸した飛行機はモスクワ、シェルメチェボ空港に16:05に到着、時差7時間の国内便は、ロシアの広さを思い知らせてくれます。いつまで経っても沈まない太陽がようやく西の空に没したのは、モスクワ時間で夜の10時くらいだったでしょうか。舞台はモスクワ、クレムリンは赤の広場でした。 この写真はモスクワ随一の大通り、トゥベルスカヤ通りを、時差ボケの目をこすりながら赤の広場へ向かう一行です。正面にクレムリンの一角、国立歴史博物館が見えます。ヨーロッパの夏の夜は長く、夜の8時を過ぎてもまだ夕方のようです。 |
|
22:00 | 「クレムリン」とは、「要塞」という意味だそうです。「赤の広場」とは、「きれいな広場」という意味だそうです。「赤」というと、つい、共産党を思い出してしまいますが、この「赤」は、共産党の意味でもなければ城壁の赤色の意味でもない、「きれいな」という意味だそうです。赤の広場は石畳です。ソ連の軍事パレードは石畳の上を行進したんだなぁと思うと、ちょっとイメージが変わったりします。 ソ連時代に軍事パレードで戦車を入れるために取り壊されていた赤の広場入り口の寺院も復旧され、赤の広場は昔の面影を取り戻したそうです。レーニン廟にも行列の姿はなく、ソビエト連邦のメッカだったという面影は今はありません。 ただ、ロシアのお登りさんたちがしきりとカメラのシャッターを切っている姿だけは、昔と変わりないのでしょうね。 |