風の吹いてきた村 

                  韓国船遭難救護の歴史


はじめに

 明治32年 真冬のこと 福井県小浜市泊の沖合いに、一隻の韓国船が遭難、救助を求めていた。村人総出で救出に向かい、乗員93人全員を救助した。村で炊き出しをし、5軒の民家に分宿させて保護、のち全員無事に韓国に帰還した。閔妃暗殺の5年後のこと、日韓併合の10年前の事件であった。村の民家の蔵から二通の礼状が発見されたことから、この歴史的記録が解明されてゆく。時代背景は悲観的な状況の中、この民衆のヒューマンな出会い、人道の記録は、後世に伝えていきたい出来事である。現在、文書を書き下し、資料集を出版のために準備中です。関心のある方は、メイルを送ってください。小さな村の歴史が、海を越えてお互いの国の友好につながることを願う。21世紀の時代へのメッセージとして記しておきたい。

 経過   

 明治三十二年、韓国の船が漂流し泊村で救護した話を、子どもの頃古老から聞いていた。「内外海村誌」(昭和四十四年・内外海誌編集委員会発行)にもその概略が記載されている。しかし、この歴史的記録も地元の人たちの中では忘れ去られつつある史実であった。

 平成八年、泊の歴史を知る会が発足、村の歴史や民俗にスポットを当て、再評価する取り組みを始めた。韓国船遭難救護の歴史は、このような中、最初のテーマとして取り組んだものである。

 泊の若狭彦姫神社も海彦幸彦の伝承に関わっている。どうも渡来人の歴史に関係ありそうだ。浜を歩けば、漂流物にはハングル文字で書かれたものが多い。話に聞くと、早い潮に乗れば朝鮮半島から若狭湾まで三〜四日間で着くらしい。多くの人や文化がこの潮にのってやってきたのだろうか。コンチキ号に乗って歴史を解明したハイエルダールの様に、漂流実験をすればいろんなことが分かるのかも知れない。

 内外海半島では近くの村にも朝鮮からの漂着の歴史があり、縁の伝統行事も継承されている。泊の漂着はこれまで記録されている歴史の中で最も新しいものである。

 

韓国からの礼状二通

 村の土蔵から礼状が見つかる。韓国船の話をし始めたころから、ある家の蔵に韓国からの礼状があると家主から聞いていた。泊の歴史を知る会の例会でこの資料を借り、記録写真を撮ったり、解読したりした。「海よりも深く、山よりも高い恩は孫子の代まで永劫に忘れない」との心のこもった手紙に感動した。この手紙は民間からのものであり、行政からのものではなかった。当時の時代状況の中で、民間からのこの礼状、だからこそ意義がある。

 

内外海役場文書「韓国人水難救護ニ関スル書類」

 小浜市立図書館の郷土資料の中から発見、以前、内外海村役場にあったものを小浜市立図書館に移管していると聞いていた。図書館の郷土資料の中をくまなく探したところ、数日かかって目的の資料を発見した。前小浜市立図書館長の小畑昭八郎氏がこの文書が分散するのを心配し、表紙を付けてきちんと製本してくださってあった。当時の関係書類が几帳面に記録されていた、乗船名簿、救護に関わった人員の名前、福井県知事宛の請求書、救護の顛末の記録等がまとめて製本されていた。

 

泊区長文書「韓人遭難漂着歴史」

 泊区のある土蔵からこの貴重な資料が見つかる。それまでの資料は事実の記録であったが、この区長文書は当時の村人の表情まで書き記した貴重な資料である。特に、韓人と村人との別れの場面は、映画のクライマックスにも匹敵するものである。

「それから、十九日午前十一時、船小屋下浜へ区民一同老若男女子供に至るまで全て集まり、韓人達に別れを告げるが、その様子は実に親子の別れと同じであった。韓人らが眼に涙すると区民も共に涙を流し、袖をしぼる程に泣きながら別れを告げ…」

 この文書を読んだとき、その当時にタイムスリップして実感がわいてきた。

 

区民自主講座で中間報告

区長文書を書き下したものを資料として、区民全員に配布し報告会をした。村にこんな人道の歴史があったことを初めて知った村人、別れの場面にはやはり胸を熱くした。

 

「韓国船遭難漂着救護の歴史」出版へ

 この歴史的事実をただ村の歴史として蔵にしまっておくのでなく、記録として出版することになった。まず、村人が村の歴史書として、一冊ずつ持っている必要がある。次に、子どもたちにこの歴史を伝えていきたい。この海辺の村が国境を越えて隣の国とこうしてつながっていたこと。

 国境を越えて手をつなぎ会い、日本海が和の海になる時、小さな村のこの歴史が大きな意義をもつ時が来るに違いない。その日を夢見つつこの記録を出版する。

                                泊の歴史を知る会       

以下は、資料集の中から抜粋

明治三拾二年

韓人遭難漂着歴史   暦十二月中旬

 明治三十二年?十二月二七日。露国海三威出発し、即日暮しけに遭ひ、十二月十二

日午前九時頃、当地崎へ拾丁斗り沖へ流れ来、韓人大声を揚げ、何ごとかと区民一徒

海岸に立ち寄り見れば、船体の構造不便極まり、破損の船体と見え、船中人員の姿見

れば、只妙と見え、吾国人ではない。

 唐人には相相違ない認め、容易からず。直ちに救いの小船を出し、村中一徒韓船に

駢付け候得ば、朝鮮人九十三人の者共に皆船上に昇り直ちに区民の手を握り手を挿し

だし救助をしてくれくれと。

 仕方にて韓人の中重ちたる人が懐より紙帳を出し、問い書き、あなたの地はいった

いどこですか。

 ここは、大日本国北陸道なりと。

 あなたがたののった船はどこからやってきたのか?と聞くと答える。

朝鮮人なり。

 ここは日本と知り韓人喜んでる様子。

 「船の中に病人や死人はいないのか」と聞くと、「この船には病人死人無し」と答

える。

 其れより九十三人全員救助舟に乗せて船小屋に上陸させば、韓人より紙を出し、吾

ら十五六日間海中に困難し、殆ど三日館水木火無し、飢えて凍死寸前のところ尊

所の救いの恵み嬉しい。

 其れから村中の飯湯茶を集めて、一時の食料とさせ、舟小屋下にて多数の藁を燃や

して体を温め、其れから、---以下略---